今日の産経ニュースほか(コロナ問題以外:2020年5月22日分)(主として黒川賭け麻雀問題)

旧民社委員長、塚本三郎氏が死去 - 産経ニュース
 「まだ生きてたのか。とっくに死んでると思ってた」というのが率直な感想です。
 1927年 - Wikipediaによれば、塚本と同じ「1927年生まれの政治家」では三塚博*1(2004年死去)や 金泳三元韓国大統領(2015年死去)がいますが彼らは既に故人ですからね。まあ旧民社もとっくの昔に消滅したし、完全に過去の人です。
 それにしても産経ですら「国家基本問題研究所理事頑張れ日本!全国行動委員会愛知県本部顧問」(塚本三郎 - Wikipedia参照)という塚本の極右ぶりには触れないでごまかしています(さすがに民社党消滅後、自民入りしたことには触れていますが)。旧民社党所属議員時代から、塚本はまともではありませんでしたが、晩年は国家基本問題研究所理事、頑張れ日本!全国行動委員会愛知県本部顧問という「絶句するしかない姿」に転落していたわけです。さすが「非常識極右」西村真悟(父親・西村栄一民社党書記長、委員長を歴任)、名古屋市長・河村たかし春日一幸の元秘書)や特定失踪者問題調査会代表・荒木和博、つくる会会長・高池勝彦などが所属していた政党だけのことはあります。この「非常識極右ぶり」で「民社党」を名乗れる神経も理解しがたいものがあります。


塚本先生の訃報に接して : 頑張れ日本! 全国行動委員会 愛知県本部

 民社党書記長時代の鄧小平に民主主義の何たるかを説教した話は圧巻でした。

 吹き出しました。トウも「ピノチェトクーデターを賛美した奴が何を抜かしてるのやら」と心の底から呆れていたでしょう(塚本三郎 - Wikipedia参照)。


宣言下で賭けマージャン4回、朝日社員認める - 産経ニュース

 朝日新聞社は21日、東京高検の黒川弘務*2検事長とのマージャンに参加した50代男性社員が同社の聞き取りに、緊急事態宣言下で計4回、現金を賭けてマージャンをしたと認めたと発表した。
 同社広報部によると、社員は5月1日と13日のほか、4月13日と20日にも都内の産経新聞記者の自宅で、産経記者2人や黒川氏と現金を賭けてマージャンをしたと説明。
 この3年間に4人で月2、3回程度の頻度でマージャンをしており、1回の勝ち負けは1人あたり数千~2万円程度だったと話しているという。社員は平成29年から編集部門を離れ、黒川氏の定年延長など一連の取材・報道には関わっていないとしている。
 同社広報部は「緊急事態宣言中だったこととあわせて社員の行動として極めて不適切であり、皆さまに不快な思いをさせ、ご迷惑をおかけしたことを重ねてお詫びします。取材活動ではない、個人的な行動ではありますが、さらに調査を尽くし、社内規定に照らして適切に対応します」とコメントした。
産経新聞社は記者の取材過程における不適切な行為について調査を進めており、事実関係が確定した段階でさらに詳細な内容を紙面などを通じて公表する方針です。

 調査結果について、いつ産経から公式発表が正式になされるのかが問題です。


【主張】賭けマージャン 自覚を欠いた行動だった - 産経ニュース
【産経抄】5月22日 - 産経ニュース

【主張】賭けマージャン 自覚を欠いた行動だった - 産経ニュース
 本紙記者2人が、取材対象者*3を交えて、賭けマージャンをしていたことが社内調査で判明し、謝罪した。
 取材過程に不適切な行為があれば、社内規定にのっとり、厳正に処分する。取材のためと称する、不正や不当な手段は決して許されない。

【産経抄】5月22日 - 産経ニュース
 確かに現場の記者は、取材源の人物から情報を得るために、あらゆる手立てを講ずる。担当する検事の趣味の登山に、早朝から付き合う*4囲碁が好きな捜査官に合わせて猛勉強して、有段者になった記者を知っている。
▼とはいえ、文春報道が事実なら今回は、記者として守るべき矩(のり)を踰(こ)えたといわなければならない。密閉空間で4人が長時間にわたって向かい合うのは、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言をないがしろにする行為だ。賭けマージャンは賭博罪に問われる可能性もある。
検察庁法改正をテーマにした小紙の先週のコラムで、「黒川氏に『検事の本懐』を聞いてみたい」と書いた。「記者の本懐」とは何か。自らに問わなければならない、深刻な事態である。

 とした産経がこの記者を懲戒処分するのかどうかがまずは注目されます。週刊文春の取材に対して「ノーコメント」で逃げた産経では期待できませんが、さすがに「賭け麻雀などたいした問題ではない」とは居直れなかったわけです。
 ちなみに「相手に接近するために囲碁」云々といえば

大久保利通 - Wikipedia
・趣味は囲碁。藩主・島津斉彬の死去(1858年)の後に、碁好きの島津久光(斉彬死後の事実上の藩主、斉彬の弟)に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述があり、損得を抜きにして好きであったと思われる。また大の負けず嫌いで、対戦相手に当り散らすようなことはなかったが、碁で負けたときは露骨に機嫌を悪くした。
大隈重信*5
「(碁に関しては)岩倉*6と大久保*7は両人ともなかなか上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」
「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。大久保は碁に負けると厭な顔をするけれども、決してその場では腹を立てない。併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」

というエピソードがあります。まあ、当時の武家社会では「囲碁は武士のたしなみの一つ」だったという点に注意する必要がありますが。

*1:中曽根内閣運輸相、竹下内閣通産相、宇野内閣外相、自民党政調会長(海部、宮沢総裁時代)、幹事長(河野総裁時代)、橋本内閣蔵相など歴任

*2:松山地検検事正、大臣官房長、法務事務次官、東京高検検事長など歴任

*3:黒川検事長のこと

*4:そこまでするのは完全に癒着だと思いますが。

*5:参議、大蔵卿、第1次伊藤、黒田、第2次松方内閣外相、首相など歴任

*6:参議、右大臣を歴任

*7:参議、大蔵卿、内務卿を歴任