「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年6/28分:荒木和博の巻)(追記あり)

◆奇妙奇天烈なワセダクロニクル
ご支援のお願い:ワセダクロニクル

 私たちの記事を読んでもらうため、料金の壁(購読料)を設けません。独立したジャーナリスト集団であるワセダクロニクルには広告収入もなく、取材費も給料もありません。あるのは、私たちと同じように、今の日本にこそ探査ジャーナリズムが重要なジャーナリズムだと考えるみなさま一人一人のご支援です。

 やれやれですね。「購読料と広告料金を設定してそれを収入にすれば良かろうに?」と思うのは俺だけでは無いでしょう。
 「購読料は取りませんが寄付はお願いします」などと言われても「いくら寄付したらいいのか分からないから困る」だけの話です。
 結局、「自分たちの記事について売り物になるという自信が無い」から「寄付」云々では無いのか。
 購読料や広告収入となれば相手は当然シビアに記事内容を評価するでしょう。「こんな記事なら広告掲載料も購読料も払う価値はない」という評価もあり得る。
 しかし寄付なら「記事の内容がどんなに酷くても将来に期待して寄付する」ということで大甘な判断から寄付してくれる人間もいるかもしれない。
 いずれにせよ、まあ、よほど「ワセダクロニクルに大甘な人間」でもない限り「寄付金額=自分が考える、この金額なら購読してもいいと思える購読料」「寄付金額=自分が考えるこの金額なら広告掲載してもいいと思える広告掲載料」でしかないでしょう。
 だったら最初から「購読料と広告料金を設定してそれを収入にすれば良かろうに?」という話です。


竹村達也さんの情報を調べています【調査会NEWS3292】(R02.6.28): 荒木和博BLOG

 5月8日付の3259号でお知らせした動燃(現・日本原子力研究開発機構)の核技術者竹村達也さん拉致疑惑について、「日刊ゲンダイ」で明らかにした渡辺周わたなべまこと)(渡辺周*1拉致議連会長代行とは別人)・ワセダクロニクル編集長のその後の調べでやはり拉致の可能性がぬぐえず*2、ご家族は現在大阪府内に居住しておられること*3までは分かりました。

 以前、拙記事今日の朝鮮・韓国ニュース(2020年4月15日分)(追記あり)(副題:韓国国会議員選挙・与党勝利&日刊ゲンダイのデマ記事) - bogus-simotukareのブログ「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年5/9分:荒木和博の巻)(追記あり) - bogus-simotukareのブログ「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年5/26分:荒木和博の巻) - bogus-simotukareのブログで突っ込んだ与太話です。
 この竹村氏の失踪事件ですが、他の特定失踪者認定された失踪事件と同じで「北朝鮮拉致」どころか、「北朝鮮拉致で無くても少なくとも犯罪に巻き込まれた失踪」と認定する根拠すらありません。
 つまり「自発的失踪」の疑いが否定できない。
 何せ、この竹村氏、失踪前に勤務していた動力炉・核燃料開発事業団 (略称は動燃。現在の日本原子力研究開発機構の前身)を退社し、職員宿舎も退去しています。
 そして、退社時には「新しい勤め先や住居がまだ無かった」のか、はたまた「新しい勤め先や住居はあったが、言いたくなかった」のか、動燃の同僚の誰も新しい勤務先も住居も知らないという有様です。
 これは「何らかの理由で動燃勤務に嫌気がさした竹村氏が動燃を退社。動燃の同僚たちと完全に関係を断ちたかったので新しい勤務先も住居も教えなかった」という可能性が充分あるでしょう。
 当然ながらそうした気持ちになってる人間なら、動燃の同僚だけで無く「家族や友人など今まで付き合いのある人間全てと縁を切って、別の場所で別の人生を歩みたい」と自発的失踪をする可能性も充分あるでしょう。
 「言わなくても分かるとは思いますが」、お断りしておけば、俺は「竹村氏の失踪は自発的失踪だ」と言ってるわけではありません。
 「自発的失踪ではないかと見なす根拠は充分あり、一方で犯罪などに巻き込まれた非自発的失踪と見なす根拠は何もない」という話です。
 そもそも過去の荒木の特定失踪者認定においても「国内で生きた姿で発見され、失踪理由は自発的失踪だった」なんてケースがゴロゴロあります。
 まあ、いずれにせよ、「ワセダクロニクル編集長・渡辺某」と日刊ゲンダイが荒木とグルになってデマを垂れ流してるクズであることは確かです。
 まともな人間なら竹村氏失踪を「北朝鮮拉致の疑いが濃厚と見なす根拠が何もないこと」は容易に理解できるからです。大体こんな与太記事を書いてるのは「日刊ゲンダイ&ワセダクロニクル」だけです。どこもこんな与太記事を後追い報道などしていない。
 しかし「職業的反北朝鮮右翼」の荒木がこうしたデマを垂れ流すことは「理解は出来ます」。
 渡辺某や日刊ゲンダイがこんな非常識なデマを垂れ流す理由はおよそ理解が出来ません。こんな馬鹿なことをすれば「ワセダクロニクル」「渡辺某」「日刊ゲンダイ」の信頼性は完全に失われますので。「ワセダクロニクル」「渡辺某」「日刊ゲンダイ」は荒木と違い「職業的反北朝鮮右翼」ではないと思うのですがね。
 いや「それでもいい」と言うならそれまでの話ですが、荒木とグルになってデマを垂れ流す「ワセダクロニクル」「渡辺某」「日刊ゲンダイ」はおよそ、まともな連中ではありません。

 もしご本人ないしご家族に関する情報をお持ちの方がありましたら調査会か渡辺さん(contact@wijp.org)へご連絡いただければ幸いです。渡辺さんも私たちもご家族にはコンタクトできていませんが、大阪府警のホームページに公開されていますので、ご家族が拉致の可能性を考えて探しておられることは間違いありません。

 おいおいですね。ご家族がコンタクトをとらないと言うことは「荒木や渡辺、ワセダクロニクルや日刊ゲンダイとコンタクトをとりたがってない」可能性が充分あるわけです(もちろん単に荒木らの存在を知らないだけで、知れば「コンタクトをとる」可能性もありますが)。
 そんな状況下でご家族に無断で、勝手に渡辺や荒木、ワセダクロニクルや日刊ゲンダイに情報提供するなど「ご家族に対して失礼な行為」であり、まともな人間はそんなことはしない。
 まあせいぜい「日刊ゲンダイにこんな記事が載っていますよ」とご家族に教えるのが関の山でしょう。それでご家族が荒木らとコンタクトをとりたいと思うならとるでしょうし、とりたくなければとらない。
 そもそも「ご家族が拉致の可能性を考えて探しておられることは間違いありません」が事実だとしても、家族がコンタクトをとらないと言うことは繰り返しますが、「荒木や渡辺、ワセダクロニクルや日刊ゲンダイとコンタクトをとりたがってない(荒木や渡辺、ワセダクロニクルや日刊ゲンダイは何の役にも立たないと思っている)」可能性が充分あるわけです。
 そう言う状況で「ご家族の知り合いの方はこの記事を見せて、私たちにコンタクトをとるようにご家族に依頼して下さい」ならともかく「ご家族の意思に反してもいいから俺たちに連絡をくれ」とは「ふざけるのも大概にしろ」と言う話です。


「運命は従う者は連れて行き、逆らうものは引きずっていく」(6月27日のビデオメッセージです): 荒木和博BLOG

 「運命は従う者は連れて行き、逆らうものは引きずっていく」
 韓国の作家・李炳注氏の小説の中に何度か出てきた言葉で、この人の小説は昔よく読みました*4。もともとはセネカの言葉だというのですが詳しい出所は分かりません。

 「まーた、拉致解決と直接の関係が無い『空虚な精神論』かよ?」ですね。
 とはいえここでの荒木の「運命」云々つうのは「善意に理解すれば」それなりに意味もあると思います。
 ここでは「運命」とは「客観的な現実」と理解してみましょう(たぶん荒木の主張もそういうことですし→注:追記にも書きましたがこの文を書いた時点では荒木の動画を見ていません)。
 たとえば「日米戦争(太平洋戦争)」。
 「日本の国力的に米国に勝つことが出来ない」という「客観的な現実(荒木風に言えば「運命」)」は変えようがありません。 
 運命に逆らってもどうにもならない。
 「精神論で米国に勝てるのか」。
 勝てないわけです。実際惨敗した。
 あるいは「荒木ら巣くう会の主張する北朝鮮制裁論」。
 中露が北朝鮮支援してるという「客観的な現実(荒木風に言えば「運命」)」は何もしなければ変わりません。 
 日本の対北朝鮮制裁が効果を上げるには、日本が中露に働きかけて、中露の北朝鮮支援を塞ぐ必要があります。中露はそんな要求に応じないでしょうから無理だと思いますけど(『制裁論者』荒木への皮肉、嫌みとして勿論書いています)。
 あるいは荒木が党職員だった民社党
 「民社党が消えてなくなった」のは「民社党の支持基盤がどんどん衰退する一方だった」という「客観的な現実(荒木風に言えば「運命」)」によるものです。
 何で「そんな現実になるのか」を分析し、その分析に基づいた対応をしないで「選挙の勝利だけを叫んでも」民社党の衰退は止まらなかった(これもまた、『民社党職員だった』荒木への皮肉、嫌みとして勿論書いています)。
 あるいは「チベットが結局独立できなかったこと」も「客観的な現実(荒木風に言えば「運命」)」です。何で「そんな現実になるのか」を分析し、その分析に基づいた対応をしないで「チベット独立だけを叫んでも」独立なんか出来ません(『チベット独立論者らしい』Mukkeへの皮肉、嫌みとして勿論書いています)。
 まあ、そう言う意味では「何が運命(少なくとも短期間では変えることが困難な客観的な現実)で、何が運命で無いのか」を見極めることも大切です。
 何でもかんでも「運命だ」といったらただの現実追認でしか無い。そんなくだらない意味の無い人生も無い。しかし一方で「運命」を受け入れざるを得ないこともあります。
 たとえば「横田めぐみさんが仮に死亡していた*5」ならば、「めぐみ氏の死について北朝鮮に対してどういう要望をするのか(公的な謝罪を求める、責任者の処罰を求めるなど)」はともかく「めぐみは生きてるはずだ!、会わせろ!」と叫んでも何もどうにもなりません。死人は生き返ったりはしない。

【追記】
 上の文章は実は「荒木のビデオメッセージ(YouTube動画)」とやらを見ずに書いたのですが、後で見ました(4分30秒程度の短い動画ですのでご覧になってもいいかと思います。拉致関係の無茶苦茶な発言に比べれば、言ってることも比較的マシですし)。
 見た感想を言うと、当初予想とは少々(いやかなりか?)違いました。
 荒木曰く「自分の今の状態はある種の運命だったと思う」「自分の思い通りに生きられたわけではないが、それなりに充実した人生だったと思う」「だから、私は拓殖大の学生には『何かで挫折しても、いくらでも新しい生きる道はあると思う』といっている」(俺の要約であり、この通りの発言ではありません)
 なるほどねえ、まあ

「自分の思い通りに生きられなくても、それなりに充実した人生は出来ると思う」
「だから、私は拓殖大の学生には『何かで挫折しても、いくらでも新しい生きる道はあると思う』といっている」

は確かに正論ではあるでしょうが、荒木も「民社党の職員を辞めたこと(つうか民社党自体が消滅したこと)」「民社党消滅後、生活のつてを探して拉致運動に参加したこと(まあ、荒木が参加して飯が食えそうな右翼運動がそれしか無かったのでしょう。他の右翼運動は既に多くの人間が参入していたわけです)」「救う会事務局長を佐藤会長(当時)の失脚によってやめざるをえなくなり、特定失踪者問題調査会を立ち上げたこと(荒木は佐藤の側近として救う会事務局長に就任していた)」などについてある種の挫折感があるのでしょうね(苦笑)。さすがに動画では、はっきりとはそんなことは言ってませんでしたが。
 民社党の職員を辞めなければ荒木も「拉致問題に関わることがあった」としても、おそらく「救う会事務局長」にはならなかったでしょうし、救う会事務局長を辞めなければ「特定失踪者問題調査会代表」にはならなかったでしょう。


【参考:荒木の紹介した名文句(?)について、いろいろ】

運命は従うものを乗せる | 一言一会 (IchigonIchie)
 ずいぶん前に、胡桃沢耕史の、直木賞受賞作『黒パン俘虜記』を読んで、感動したものです。
 シベリアでの収容所生活を書いて、ほとんど実話かと思いますが、じつに面白く、未読の方はぜひ読んでみることをお勧めします。
 その中に、フランス映画『商船テナシチー』(1934)が出てきます.
 作品の柱として 何とも魅力的な映画として描かれ、一度観てみたいと思いながら、なかなかその機会がありません。
 今回やっと手に入り、観ることが出来たのですが、この映画についてはまた別の機会に譲るとして、じつはその冒頭に、

「運命は従うものを潮に乗せ、抗(こば)むものを曳いて行く。ラブレエ 」

の一言が出てくるのでした。
 そして、『曳き船』(1941)という映画の中で、ジャン・ギャバンがこれと同じセリフを言い、強く印象に残っていたことをなつかしく思い出しました。
 そうか、フランスの作家・ラブレーだったのかと、今になって改めてこの言葉の重みを思ったのでした。
 「運命に従う」というのは、自分の人生を肯定し、それに馴れ、親しみ、愉しむということでしょう。いっぽうの「運命を抗む」は、今の生活に馴染めず、不満や愚痴の中で、ストレスは溜まり、心は暗く、体の不調は増していくばかりということなのでしょう。
 果敢に運命に挑戦し、自分の人生を切り拓いていくというのは必要でしょう。 ただ、それが叶わないとわかった時には、(その辺の判断が難しいところですが)、いさぎよく運命に従い、何とか工夫をこらしながら、積極的に毎日を愉しむようにする。悪く言えば 「運命」に媚びる、でしょうか?
 そしてこれこそが、心にも体にも大事で、健康長寿の秘訣なのではと、改めて思っていたのでした。

 ぐぐって見つけた記事です。
1)荒木の引用とは微妙に違う
 また、荒木は「セネカが元ネタ」としていますが運命は従うものを乗せる | 一言一会 (IchigonIchie)曰く「ラブレーが元ネタ」だそうです。
2)小生の理解とは微妙に違う:
 小生の理解では「現実無視では失敗するが、現実追認では何も変わらない。現実を理解した上で、どう現実をかえるかが問題だ」という理解ですが、運命は従うものを乗せる | 一言一会 (IchigonIchie)だとそう言うニュアンスより「現実にいつも従ってばかりでは不満がたまるが、変わらない現実にいつも戦ってばかりではこれまたストレスがたまる」と精神的な方向の理解になってる
つう違いはありますが、荒木の指摘と「元ネタ」は同じ話でしょう。

限りある人生に限りなく好きなことをして果てた二人の名優〜芥川比呂志と中村伸郎 - 遅船庵雑録
 昭和十年度キネマ旬報ベスト・テンの第一位はジュリアン・デュヴィヴィエ監督の若き日の傑作「商船テナシチー」が獲得している。原作のシャルル・ヴィルドラックの同名戯曲は一九二〇年にフランスで初演され、のちに近代劇の古典と称されるようになった。
 有名な作品なのでストーリーの紹介は避けるが、戯曲の冒頭には「運命は従うものを潮にのせ、抗うものを曳いて行く」というラブレーの言葉が引かれており、その作風からみてもジュリアン・デュヴィヴィエは自身の人生観、芸術観と大いに重なるものを感じていたと思う。

ジュリアン・デュヴィヴィエ・1〜『商船テナシチー』 - ポケットの中で映画を温めて
 『商船テナシチー』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1934年)を久し振りに観た。
 映画を観た後で、働き口のないバスチアンは親友セガールに、カナダへ行ってひと旗あげようと誘う。
 パリから船の出る港に来て、その気の二人は宿から繰り出し、故国での最後の夜を飲んで歌って踊った。
 翌朝、いよいよ船が出る。
 宿のウェイトレス、テレーズに見送られて出航した二人は、皮肉にも船が故障して、また元の所に引き返してきて・・・
 船が直るまでの期間ふたりは、テレーズがいる宿にもう一度、落ち着く。
 そして一時の仕事にも就くが、ふたりのテレーズに対する、微妙な関係が生じ出す。
 実は、快活なバスチアンも、内気なセガールも、共に、別々にテレーズを愛するようになっている。
 こうなると、友情を挟んだややこしい三角関係が生じてくる。
 積極的なバスチアンはモーションを掛け、テレーズもその気になり、要は相思相愛となる。
 片や、内気なセガールはテレーズに自分の想いを告白する勇気がない。
 船の修理が終り、明日は出港という日。
 バスチアンは、テレーズとの仲をセガールに打ち明けることができない。
 そして、バスチアンとテレーズを乗せた汽車は、パリへ走る。
 すべてを知ったセガールは、ひとりテナシチー号に乗り組む。
 船が鋭く汽笛を鳴らす。
 セガールにとっては、この汽笛はすべての決別。
 その思いを込めて、旅立つセガール
 自分の若かった頃を思うと、セガールの気持ちがひしひしと胸にせまり、恋に破れた時のやるせなさが身にしみる。
 そんなことを自然に思い浮かばせる愛着のある作品である。

商船テナシチー(1934) | 悪魔のように細心に
 この当時、日本ではジュリアン・デュヴィヴィエの監督作品は異常なほどの人気があったようで、1934年度のキネ旬ベストテンでは、(ボーガス注:デュヴィヴィエ監督作品の)本作が第1位、(ボーガス注:これまた、デュヴィヴィエ監督作品の)『にんじん』が第3位に入っています。ちなみに、この年は『会議は踊る』が第2位、『或る夜の出来事*6』が第5位、(ボーガス注:チャップリンの)『街の灯』が第10位タイ

【参考:「にんじん」】

物語のラスト、少年の表情が秀逸!!!!『にんじん』
 ストーリーをなんとなく知っていたので両親に虐められる、鬱々とした可哀想な少年が描かれるのかな、と思いきや、予想に反して、フランソワは元気で明るくて仕草や行動の可愛らしい少年!!!なんだか、子供の元気な部分だけを抜き出しました!!と、いう少年。
 無邪気な笑顔がすっごく可愛い!!!!
 また、マチルドというフランソワよりもっと幼い少女、彼女と少年の関係がとてもいい…。マチルドはまだ幼くて、フランソワの置かれている状況をまったく理解できない。フランソワに「早く結婚しよう」と言うマチルドの無邪気さ。そんなマチルドの相手をちゃんとしてあげるフランソワは、本当にいい子…!!!
 そしてそんな少年のみせる、子供ながらの反抗心、そして物語終盤、自殺を決意する少年の悲しさ。首を吊ろうと縄の前にたった少年の顔のクロースアップが、本当に素晴らしい!!!今から死のうとする少年の表情…それまでの元気な少年からのギャップがすごい……!!!少年好きとしては、あの表情だけは絶対見て欲しい…一番のオススメシーン。

ジュリアン・デュヴィヴィエ・8〜『にんじん』 - ポケットの中で映画を温めて
 『にんじん』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1932年)を久し振りに観直した。
 学校が夏休みになり、寄宿舎から家に帰って来る“にんじん”と兄のフェリックス。
 しかし“にんじん”は、帰ることに気が重い。
 父親は家で口をきかないし、母親は口やかましいから。
 特に、母親は“にんじん”に小言ばかりを言い、おまけに憎々しげに邪険に扱う。
 だから“にんじん”は、父親のことをルピックさん、母親をルピック夫人と、人と話すとき言う。
 彼にとって家族とは、“共感のない人々が罵り合いながら同じ屋根の下で暮らす所”だから・・・
 赤いパサパサの髪の毛(実際は金髪)とソバカスだらけのフランソワは、“にんじん”とあだ名されている。
 3人兄弟の末っ子。
 母親は、兄フェリックスや姉エルネスチヌはお気に入りなのに、なぜか“にんじん”だけには、つらく当たったり仕事のいいつけをする。
 父親が“にんじん”に猟に誘っているのに、わざと断らせるような母親である。
 そして、年の離れた兄姉も、“にんじん”に陰湿な振る舞いをして喜ぶ。
 完全に崩壊している家族。
 新しく来たメイドのアネットが、何かと“にんじん”の味方になってくれて、家族に無関心な父親に“にんじん”の実状を打ち明ける。
 片や、“にんじん”の方は、夢の中でもう一人の自分が「反抗と自殺」を勧める。
 父親は、アネットの忠告が効いたのか、母親が“にんじん”にだけ指図するのを見て、始めて“にんじん”の味方をする。
「一緒に食事をしよう、後から役場へおいで」と父親から言われて喜ぶ“にんじん”。
 しかし行ってみれば、村長に当選した父親は、祝賀会で客の相手に大忙し。
 やはり、無視される“にんじん”は、いたたまれなくなって、とうとう自殺を決意する。
 それを知った父親は、必死に捜し回る。
 そんな状況でも、母親は「あきれた子ね、勝手に面白がっているだけよ」と本気にしない。
 ラストで、父親と“にんじん”は、心を通い合わせ理解し合う。
 そのラストの明るい笑顔が感動的だが、“にんじん”と母親や兄姉の関係に思いを致すと、観ているこちらはなんともやりきれない気分がちらつく。
 母親は、上二人の子は愛しているので、本質的には子供嫌いでないはずである。
 夫との冷えた関係の腹いせとして、矛先を“にんじん”にぶつけているとしか考えられない。
 どうも、夫婦のその修復の様子がみえないだけに、観終わっても「“にんじん”よ、くじけないでこれからも頑張れ」と、単純に声援を送れないのが寂しい。
 デュヴィヴィエは、ジュール・ルナール原作の「にんじん」が余程気に入っていたらしく、サイレント時代(1925年)にも映画にし、これが二度目である。
 本人にとって、思い入れ深い作品だという。
 もっともこれは、本人だけでなく誰が観ても傑作のうち、と言うのが正解だと思う。

 まあ、こういう映画で「夫と妻の和解」をとってつけたように描いても説得力無いでしょうし、そもそも原作がこういう落ちなんでしょう。
 つうか、きっかけが「夫との不仲」だとしても、もはやこの状況では「夫と和解しても、末っ子への虐待がやむとも思えない」。現実的な方向性は「母親と末っ子を引き離すこと」以外にもはやないでしょう(ただし面子にこだわる父親のためにそうなりそうにないですが)。しかしこれから分かることは「最近、問題視されるようになった」とはいえ「親による児童虐待」自体は昔からあったという話です。
 なお、

児童虐待文学なのか? 子供のころのトラウマ ジュール・ルナール「にんじん」 - うさるの厨二病な読書日記
 「にんじん」は小公女セーラのや小公子セディのように、上品で明るく朗らかな子供ではない。
 顔はそばかすだらけで頭はぼさぼさで、蓄膿か何かを持っているために鼻水がしょっちゅう垂れていて、それなりに色々とずる賢い。
 たぶん、陰気でじとっとしている「余りかわいくない子供」なのだと思う。

と言う記述と

物語のラスト、少年の表情が秀逸!!!!『にんじん』
 フランソワは元気で明るくて仕草や行動の可愛らしい少年!!!なんだか、子供の元気な部分だけを抜き出しました!!と、いう少年。
 無邪気な笑顔がすっごく可愛い!!!!

と言う記述がどちらも事実であるのならば映画『にんじん』のキャラクターは小説そのままでは無く、かなり美化されていますね。「小説の映画化」においては良くあることですが。

『にんじん』 古くて新しい映画 | sonaのブログ
 物語は、フランスの比較的裕福な家の三人兄妹の末っ子、髪の毛とそばかすのせいでにんじんと言うあだ名で呼ばれてる少年は母親に全く愛されずに育てられています。
 母親は何故かにんじんにだけ辛く当たり兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌには優しく、父親は母親と会話をしないのでにんじんが母親に虐待されてる事を知りません。
 今なら完全に通報されちゃうレベルで、平手打ちで引っぱたく、兄や姉にはさせない用事を言いつける、お父さんは猟が趣味で、にんじんを連れて行こうとすると、ダメと言って特に理由も無いのに行かせない。
 学校の作文に「家庭とは同じ屋根の下に解りあえない人間が無理やり集まっている所である」と書いて先生を慌てさせる、にんじんは母親を決してママと呼ばずルピック夫人と呼ぶ、こんな環境で育ったにんじんだけど、とてもいい子で新しく来たお手伝いさんの仕事を率先して手伝ったりするのです。
 その彼女に、ルピック夫人に気に入られるには「僕の悪口を言うといいよ」勝気に明るく言うのですが、胸が痛みます。
 お手伝いのオノリーヌは、にんじんが心の優しい子と解り、ルピック氏に、にんじんが母親に虐待されてる事を教えると、ルピック氏は初めて聴いたのでびっくりして、それからはつとめて にんじんに優しく接しますが彼は村長候補で忙しくあまりかまってやれないので、にんじんの友達は飼っている愛犬だけで、そんな中で、にんじんは寂しさが募り自殺したいと考えるようになり、ある日、湖に飛び込もうとするのですが怖くて出来ませんでした。
 近所に、唯一にんじんを慕ってくれるマチルドと言う女の子が居て、将来結婚しようと結婚式ごっこをするシーンは、マチルドのお父さんがラッパを吹いてくれたりして楽しいひと時でした。
 マチルドのお父さんはにんじんに深い理解を持ちルピック氏に向かって、「愛せない子供なら作るな!」と注意し、ルピック氏もだんだんと変わって来ましたが、母親が相変わらずにんじんだけに冷たい仕打ちをするのに耐えられなくなって、首を吊る事に決めマチルダには、「僕死ぬことにしたから結婚出来なくなった」と、別れを告げ、父親のいる選挙事務所みたいな所へ行きガラス越しに別れを言い、自分の家の納屋に向かいます。その頃マチルダはお父さんに、「にんじんは死ぬから結婚出来ないの」と言うのを聞くと事務所に出かけルピック氏に事の次第を報告します。
 そこへルピック氏が来てにんじんを助け出す事が出来ました。
 「僕はお母さんが大嫌いだ」と泣きながら言うと「わしが母さんを好きだと思うのかね?」
 そこで、お父さんは、にんじんに、「お前が生まれたころ母さんと父さんはとても仲が悪かったんだ」
 これからは二人で仲良くしよう、「もう、にんじんは死んだから、これからはフランソワになるんだよ」と言い、フランソワもルピック氏ではなく、「モンパパ」と呼び、フランソワは寂しかったのは自分だけじゃないと気付き、可哀想な父さんのためにも生きようと思うのでした。
 観終わって、親から愛されないことがどれだけ辛い事かよく解る映画でした。

vol.42 ジュール・ルナール「にんじん」を読んで(高野優 訳)|西野 友章|note
 125年前のフランス文学。あとがきに「母親による精神的虐待の物語」とある。
 名作とされるこの小説、いらだちながら読んだ。少年「にんじん」に対するあまりにもひどい母親の仕打ちは許せない。長女や長男を溺愛する一方、次男「にんじん」に対する言動は、愛情のかけらも感じない。親が子に示す意地悪な戯れのレベルではない。相手を追い詰めて人格を破壊するようなひどい仕打ち。具体的な内容を記すのも躊躇する。今なら、少なくとも社会通念上の道義的責任を問われる事象だ。僕なら、間違いなく児相に通報する。
 「にんじん」は精神的に追い込まれ、こころの病に罹ってしまう。いよいよ深刻で、自殺を考えていたことを父親に打ち明けている。
 しかしこの小説、そんなことでは終わらない。なんといっても名作なのだ。「にんじん」は、おそらく生まれてずっと、母親から理不尽な仕打ちを受けてきた。それでも、心を病むこともなく、腐らずに頑張っている。
 「にんじん」の賢さ、たくましさに救われた。

ルナール『にんじん』 | 猫好きが読んだ千冊の本
 このあまりに有名な小説を、はじめて手に取ったのは、たしか小学校中学年の時だったと思う。
 たちまち背筋が震え、あわてて投げ出した。
 なんて恐ろしい小説だろう!
 最初の、ほんの数ページを読むのがやっと、それ以上はとても読めなかった。
 こんな残酷で不気味な本が「児童文学書」として、「がんばれヘンリーくん」や「ながくつしたのピッピ」と並んで置かれているなんて、いったいどういう事だ!
 選者の大人はどんな神経をしているんだ?
 強烈な印象、火傷のようにヒリヒリするものだけが残った。
 それが『にんじん』と私の初対面だった。
 以来、ずっと敬遠していたが、30代で再読した。
 今回は最後まで読めた。
 きっかけは、山岸凉子作『赤い髪の少年』を読んだことだった。
 山岸氏の作品では、にんじんには「良き理解者のおじさん」が登場する。
 ああ、では、にんじんは最後は救われるのか!
 それならと、原作を読んでみたのである。
 原作に、そんな良き理解者は登場しなかった。
 「良き理解者のおじさん」は山岸氏の創作、他の山岸作品にもよく登場する「良き理解者の大人」のひとりにすぎなかった。
 しかし、それに近い人物は登場する。
 名付け親の、孤独な爺さんである。
 この爺さんは誰も愛していないが、にんじんだけは「我慢できる」。
 それどころか、爺さんなりにとても可愛がっているといえよう。
 にんじんも爺さんには素直に甘える。
 もうひとつ、多少は救いになるかと感じられたのが、にんじんの実母であるルビック夫人が、まともな母親ではないことを、爺さんをはじめ周囲の人間はわかっているらしい、ということ。
 ルビック夫人はひどい女ではあるが、それをあまり隠さない程度の正直さは持ち合わせている(多少は隠蔽しようとするのだが)。
 (ボーガス注:彼女が)偽善者で、他者の前ではどこまでも良い親を演じたがる虚栄心の塊だったなら、にんじんはもっと追い込まれていたのではないだろうか。
 かくて30代になってはじめて通読できたとはいえ、『にんじん』は、良い印象とは程遠かった。後味の悪い、苦しくて無残なもの、嫌悪感と恐怖感ばかりが澱のように残った。

児童虐待文学なのか? 子供のころのトラウマ ジュール・ルナール「にんじん」 - うさるの厨二病な読書日記
 先日、実家に帰って兄ちゃんと話をしていたら、「そういえばお前、「にんじん」って覚えている?」と聞かれた。
 「俺、あれがすごいトラウマになっている」
 そう言われた。
 「にんじん」。覚えているも何も、自分は児童文学の中でも一、二を争う名作だと思っている。
 「にんじん」は主人公のあだ名である。
 髪の毛が赤いからそう呼ばれている。家庭内の物語なのに、主人公は本名で呼ばれず、家族から「にんじん」と呼ばれている。
 この設定からして、心ある人に「え……?」と思わせる。
 家族は別に率先して「にんじん」をいじめるわけではないが、ひどく冷淡だ。家族内カーストでは、露骨に一番下である。
 特に母親のルピック夫人の態度がひどい。姉や兄は猫かわいがりなのに、「にんじん」に対しては辛くあたる。
 例えば、「にんじん」はおねしょのくせがあり、おねしょをしないために夜、必ず起きてトイレに行く。トイレに行きたくなったときのために、ベッドの下にはツボをおいておく。当時の習慣では、この中で用をたしたらしい。
 ある日、母親がそのツボをうっかりベッドに入れ忘れてしまう。
 「にんじん」は夜中に起きて、用を足そうとしたらベッドの下にツボがない……。
 「にんじん」は様々な方法を駆使して、必死に我慢する。(また、この我慢する描写がいちいち面白い。)
 しかし、努力も空しく、粗相してしまう。
  朝起きた母親は、烈火の如く怒る。
 「にんじん」は、「ツボがなかったんだ」と話す。
 母親は自分がベッドの下にツボを入れ忘れたことに気づいたが、素知らぬ顔をしてツボを隠し持ってきて、ベッドの中に押しこめる。
 そして、「ツボがない!? ここにあるじゃないか!! 嘘つき」と、さらに「にんじん」を罵る。
 うん、ひどい話だな。母親、クソすぎる。
 あとは、こんなエピソードもある。
 父親が狩猟で獲ってきた鳥を絞め殺す役目が、家族の中では「にんじん」の役目になっている。「にんじん」は、「記録をつけたり、羽をむしったりする方がいいな」とさりげなく言うけれども、いつも却下される。
 仕方ないので、鳥を一生懸命絞め殺す。
 しかし、ある一匹がなかなか死なない。
 みんな、遠巻きにして見ているだけで、誰も手助けしてくれない。
 どうしようもなくなった「にんじん」は、足で鳥の頭を踏みつぶす。
 鳥は死んだが、家族は全員ドン引きする。
 父親は「気分が悪くなった」と言って外に出ていくし、母親は「残酷な子だよ、恐ろしい」とか言い出す。
 だんだん、書いていて頭にきた。
 「にんじん」はこういう、家庭内いじめみたいなエピソードが延々と続く。
 起こっている事象だけを捕らえると、暴力こそ振るわれないものの精神的虐待に近い。ネットで検索しても、「にんじんって、児童虐待ですよね?」という声が多い。
 ただ、自分は兄ちゃんやネットの人たちが言う、「自分の中でトラウマになっている」という意味がよく分からなかった。
 自分は子供のときも「そうだよなあ、にんじんの気持ち、よくわかる」と思っていたし、大人になってから読んでも、「そうだよなあ、子供のころってこんな感じだよな」と思っている。(別に虐待はされていない。)
 「世の中というのは、理不尽なものだ」という子供ながらの諦めの念と、そんな理不尽な世の中でも、自分のやり方で気楽に生きていこう、みたいな達観した感じが、自分の子供時代の気持ちとそっくり同じだなと思っている。
 自分は子供のころ、「世の中というのは、まあまあイヤな奴らがいるまあまあイヤなところで、そういう中で、色々なことを適当にやりくりしながら生きていく場所なんだ」と思っていた。
 だから子供のときは、中小企業の中間管理職が飲み屋で愚痴を言い合うみたいに「まあそうだよねえ。お互い苦労していますねえ」くらいのテンションで「にんじん」を読んでいた。
 自分とほぼ同じ境遇で育った兄ちゃんですら、まったく違う感想を抱くのだから、人間ってやっぱり色々なんだなと今さらながら驚く。
 「まあまあイヤな奴らがいるまあまあイヤな世界」で生きていた自分も、「まあまあイヤな子供」だった。
 その辺りも「にんじん」そっくりだ。
 「にんじん」は小公女セーラのや小公子セディのように、上品で明るく朗らかな子供ではない。
 顔はそばかすだらけで頭はぼさぼさで、蓄膿か何かを持っているために鼻水がしょっちゅう垂れていて、それなりに色々とずる賢い。
 たぶん、陰気でじとっとしている「余りかわいくない子供」なのだと思う。
 この辺りも自分は、えらく気に入っていた。
 自分も大人の顔色を窺い、ずる賢くあざとく立ち回り、自分が損をしないようにいつも計算しているような子供だった。(たまに失敗する。)
 だから「にんじん」が、ウサギにメロンの皮を持っていく役目を押しつけられて、ウサギ小屋でそれなりに楽しそうにしている様子とかすごくよく分かる。
 自分もクソみたいな奴らと高級メロン食うよりは、一人でウサギと一緒にメロンの皮をかじっていたいわ。
 自分の中では「にんじん」は「理不尽な世の中で、その理不尽さを特に嘆くでも怒るでもなく、そういうもんだろうと思いながら、淡々と自分なりの日々を過ごす」少年の物語である。
 そして、他の文学ではみられない「にんじん」という子供像をとても高く評価している。
 虐待自体は許せないし、そういう事件に対して強い憤りを覚えているが、「にんじん」という物語は、「この事象が虐待か否か」ということに着目するのではなく、「生まれたときの環境という理不尽な状況で、色々なことを感じながらも淡々と生きる少年の姿」という点を最も見て欲しいな、と思っている。
 理不尽な環境を生き、大人や世界の都合に従いながらも、自分独自の世界を作り出せることこそ、大人にはない子供のすごいところだと思うから。

*1:鳩山、菅内閣総務副大臣、野田内閣防衛副大臣などを経て、現在、国民民主党副代表

*2:「万が一」などという極めて低い可能性でも「可能性がある」というなら確かに可能性はあるでしょう。しかしそれは「帝銀事件(あるいは「三億円事件」「グリコ森永事件」)は北朝鮮の資金稼ぎ目的の犯行かもしれない」「松川事件(あるいは「北海道庁爆破事件」「国松警察庁長官狙撃事件」)は日本国内の混乱を狙った北朝鮮の(以下略)」と根拠レスで言うくらい馬鹿げた話です。

*3:「そんなことが分かったから何なの?」ですね。

*4:ググったところ邦訳された著書は『クーデター:朴正煕とその時代』(1993年、シアレヒム社)、『智異山』(2015年、東方出版)、『関釜連絡船』(2017年、藤原書店) しかありません。2015年以降の著書を「昔」とは言わないでしょうし、『クーデター:朴正煕とその時代』(1993年、シアレヒム社)は「25年以上前の昔」ですがこの本だけでは「よく読んだ」とは言わないでしょうから韓国語の原書で読んだと言うことでしょう。

*5:俺はその可能性は高いと思いますが

*6:アカデミー監督賞(フランク・キャプラ)、アカデミー主演男優賞(クラーク・ゲーブル)、アカデミー主演女優賞(クローデット・コルベール)を受賞