アルコール依存症で人生つぶした人間多し

 アルコール依存症で人生つぶした人間多し - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)がらみでいろいろと感想を書いてみます。
【1】

黒田清隆黒田清隆 - Wikipedia参照)
・黒田は、明治十四年の政変で対立した大隈重信*1(黒田内閣で外相)や自由民権運動のリーダーであった後藤象二郎*2(黒田内閣で逓信相)の丸め込み工作など、フェイス・トゥ・フェイスの説得交渉では卓越した能力を発揮した。
・平生はその手腕を買われていた黒田だが、酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。
 明治11年1878年)3月28日、肺を患っていた妻の清が死んだ。ところが酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事が新聞に載った。黒田は、「事実無根だがこうした記事が出たのは自分の不徳」として、辞表を提出したが大久保利通*3の説得でこれを撤回した。岩倉具視*4の秘書の覚書によると、伊藤博文*5大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと述べ自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じた。川路は調査の結果、病死であると結論付けた。
 第1次伊藤内閣農商務相、首相、第2次伊藤内閣逓信相、枢密院議長、元老などの要職を歴任した薩摩閥の重鎮とはいえ、こうした酒による不祥事のために、晩年は浮いた存在となり、同郷の人々は離れていった。代わって旧幕臣との付き合いが濃密となり、特に榎本武揚*6(黒田内閣で逓信相、文相)を重用するようになった。黒田の死に際し榎本が葬儀委員長を務めたのも、薩摩の人々が黒田を敬遠したためとも言われている。
 なお、黒田の娘・梅子は榎本の長男・武憲と結婚している。

 「酒乱の結果の妻殺し」はさすがに「アンチ黒田派のデマ」のようですが、それにしてもこんな噂が出るのは「確かに不徳」でしょう。それでも出世できたのは(明治時代は世間が今より酒飲みに甘かったというのを割り引いても)「非常に有能だから」でしょうが「酒が無ければもっと世間の黒田評価も良かった」のではないか。「酒乱でもしらふの時は有能な政治家として活動できる」という黒田は重度のアル中(アルコール依存)ではないとはいえ、「世間が自分の酒乱を悪口している」と知りながら、それでも悪口される原因である酒が止められないのだから「軽度のアル中」ではあるでしょう。

【2】
 「アルコール依存症で人生つぶした」というと小生がすぐに連想するのは前も今日の朝鮮・韓国ニュース(2020年6月5日分)(副題:横田滋死去)(追記あり) - bogus-simotukareのブログに書きましたが「星の王子さま」の「呑み助」ですね。アレは典型的なアルコール依存でしょう。まあ、小生が「星の王子さま」で一番記憶に残ってるのはこれですね。だって王子様と同じで「酒を飲んでいることが恥ずかしいから、それを忘れたいから、酒を飲んでる」なんて意味不明すぎて、子どもには理解できないですからね。理解できないことは記憶に残る。そしてこんな描写がある「星の王子さま」は本当は「児童文学では無いだろう」と思います。

【参考:星の王子さま(呑み助)】

感情と星の王子様 - あのにますトライバル
 目的と手段の逆転というと、『星の王子様』に出てくる「呑み助」のエピソードがなかなか忘れられない。自分の星を出た王子様が様々な星を回って、滑稽な大人たちに出会う場面がある。その中に登場する呑み助は、ずっと酒を飲んでいる。「何故酒を飲むのか」と王子様が尋ねると「酒を飲んでいることが恥ずかしいから、それを忘れたいからだ」と答える。まるで本末転倒のようだが、至って本人は真面目なのである。
 酒は「飲もう」という欲がなければ飲むことはできない。最初は飲まなければいけない別の理由があったのだろう。とある感情を忘れたいために酒を飲むと言う欲を手段として用いているうちに、手段が目的となって「酒を飲んでいる」こと自体に恥と言う感情を覚え、恥を消し去りたいという欲望により酒を飲み、更に恥の感情を重ねる。これほど滑稽なことがあるだろうか。

さなぎ日記 (あさなぎ心療内科のブログです) 星の王子さま 酔っぱらい
 「酔っぱらいの星」に「呑み助」という人物がいました。
 朝から晩まで、晩から朝までおそらくずっとお酒を飲み続けています。
 王子さまが「どうしてお酒を飲むの?」と聞くと、「恥ずかしいからだよ」と呑み助は答えます。「恥ずかしいのを忘れるためにお酒を飲むんだ」と。
 「どうして恥ずかしいの?」
 王子さまが尋ねると、「お酒を飲んでいるのが恥ずかしくて、それを忘れたいからお酒を飲むんだよ」と呑み助はグラスのお酒をちびりちびり飲みながら顔を赤らめて言いました。
 「へんな大人だな」
 そう思って、また王子さまは別の星に向かうことにしました。
 アルコール依存の治療はとても難しいです。がんばってお酒をやめても、またこういう悪い循環の中に巻き込まれてしまうことがあります。
 大切なのは、「お酒を飲む恥ずかしさを忘れるためにお酒を飲む」という矛盾に気づかせてくれる人です。お互いにそういう人になるのが、断酒会です。

【3】

アルコール依存症で人生つぶした人間多し - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)のコメント欄
 赤塚の場合、明らかに才能の枯渇が、アルコールに逃げた最大の要因でしょう

赤塚不二夫赤塚不二夫 - Wikipedia参照)
◆人気の絶頂期
・1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。
・1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。
・1967年(昭和42年)には『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表。
・1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』(NET:今のテレビ朝日)、『もーれつア太郎』(NET)、1971年(昭和46年)に『天才バカボン(日テレのバカボン第1シリーズ)』(日本テレビ)と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。
・1971年(昭和46年)『週刊少年サンデー』に『レッツラゴン』を連載開始。
・1972年(昭和47年)に『天才バカボン』他の作品で文藝春秋漫画賞を受賞。
・1974年にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。
・1975年(昭和50年)、『元祖天才バカボン(日テレのバカボン第2シリーズ)』が日本テレビで放映開始。
 この時期は漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本(週刊少年マガジン講談社)の『天才バカボン』、週刊少年サンデー小学館)の『のらガキ』、週刊文春の『ギャグゲリラ』、週刊少年キング少年画報社、現在は休刊)の『オッチャン』、週刊少年チャンピオン秋田書店)の『ワルワルワールド』)、月刊誌7本(月刊少年マガジン講談社)の『天才バカボン』、月刊明星(集英社)の『赤塚不二夫の歌謡ギャグ劇場』、月刊プリンセス秋田書店)の『つまんない子ちゃん』、読売新聞・日曜日版の『らくガキ』、冒険王(秋田書店、現在は休刊)の『ニャンニャンニャンダ』、月刊テレビマガジン(講談社)の『元祖天才バカボン』、全電通文化の『おまわりさん』)の同時連載をこなしていた。
◆長いスランプ
・1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「月刊少年マガジン」での連載が全て終了し、以降、漫画家としての活動は縮小傾向をむかえる。
・1982年(昭和57年)、週刊文春『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より、酒量が激増する。
・1987年(昭和62年)、テレビ東京で『元祖天才バカボン(1975年、日本テレビ)』が再放送され、人気を博す。翌1988年よりアニメ『おそ松くん』(フジテレビ)が1967年の放送(NET)から21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。
・その後も『ひみつのアッコちゃん』(1988年、フジテレビ)、『天才バカボン』(タイトルは『平成天才バカボン』(1990年、フジテレビ))、『もーれつア太郎』(1990年、テレビ朝日)が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による『天才バカボン』『もーれつア太郎』の新作漫画が『コミックボンボン』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年(平成3年)頃より更に酒量が増え始める。
 以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年(平成4年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷邦夫がフジオプロを退社。
・1998年(平成10年)、テレビアニメ化三作目の「ひみつのアッコちゃん」、1999年(平成11年)、テレビアニメ化四作目の「レレレの天才バカボン」が、それぞれフジテレビ、テレビ東京で放映される。
 だが、1980年代後期~1990年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。

と言うのが赤塚の「才能の枯渇」ですね。
 とはいえ手塚治虫には「虫プロ倒産」という挫折がある。また、「ブラックジャック」がヒットして復活するまでは、「若手漫画家に追い抜かれた過去の人気漫画家」扱いされており、ブラックジャックは連載開始当時は「売れっ子漫画家の作品扱い」どころか「これが当たらなかったら次はないのでは無いか」という悲壮な覚悟を、手塚と「週刊少年チャンピオン編集部」がしていたことはブラック・ジャック - Wikipedia手塚治虫 - Wikipediaにも記載があります。
 以前見た「藤子F」を取り上げたNHK番組(NHKスペシャルETV特集)に寄れば、「ドラえもん」が当たるまでは、藤子Fよりも藤子Aの方が売れており、Fはある種の挫折感を感じていたと言います(藤子・F・不二雄 - Wikipediaにもそうした記述がある)。
 しかしそれでも手塚や藤子Fは赤塚のようなアルコール依存では無かったわけですから、結局身もふたもない結論ですが、「個人の精神的強さ」と言う要素も大きいのでしょう。

*1:参議、大蔵卿、第1次伊藤、黒田、第2次松方内閣外相、首相など歴任(大隈重信 - Wikipedia参照)

*2:参議、工部大輔、黒田、第1次山県、第1次松方内閣逓信相、第2次伊藤内閣農商務相など歴任(後藤象二郎 - Wikipedia参照)

*3:参議、大蔵卿、内務卿を歴任(大久保利通 - Wikipedia参照)

*4:右大臣、外務卿を歴任(岩倉具視 - Wikipedia参照)

*5:参議、工部卿宮内卿、首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など歴任。元老の一人(伊藤博文 - Wikipedia参照)。

*6:明治新政府において、駐露公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清公使、第1次伊藤、黒田内閣逓信相、黒田、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相、第2次伊藤、第2次松方内閣農商務相など歴任(榎本武揚 - Wikipedia参照)