今日の朝鮮・韓国ニュース(2020年8月24日分)(追記あり)

輸出厳格化1年 半導体素材、韓国生産にシフト: 日本経済新聞(企業報道部 福本裕貴、岩野恵)

 韓国政府は日本による輸出管理の厳格化*1以降、半導体材料などの先端素材分野で国産化を支援する動きを拡大させてきた。
 韓国での動きに日本の素材メーカーには懸念が広がる。
 影響が大きいのがフッ化水素だ。ステラケミファでは20年3月期の高純度フッ化水素の出荷量が前の期比で3割程度減少した。
 (ボーガス注:安倍政権の禁輸措置による被害を最小限にするために日本企業が)半導体素材を韓国現地で生産する動きも広がる。東京応化工業は19年度上期からEUV用レジストの生産を韓国工場で開始し、量産化を始めた。
 ADEKAは半導体モリーDRAM向け電子材料の生産を韓国で開始。関東電化工業は日本のみで生産していた半導体製造に使う特殊なガスを、19年秋に稼働した韓国の工場で生産する。
 電子機器部材を手掛ける太陽ホールディングスは半導体基板に使う絶縁フィルムを生産するために、韓国に新会社と新工場を設立すると5月に発表した。
 現地生産は輸出管理厳格化より前からの計画もあるが、各社は輸出リスク回避にむけ現地生産をより加速させる。「輸出リスクが高まる中で顧客からは喜ばれている」(関東電化工業)という。
 第三国から輸出する動きもある。JSRはベルギーの合弁会社で生産するEUVレジストを韓国向けに輸出しているとみられ、安定供給ができる体制を確保している。
 (ボーガス注:安倍政権の禁輸措置を契機に)半導体大手のサムスン電子やSKハイニックスは相次いで製造工程に韓国産フッ化水素を投入すると発表。米デュポンも1月に対象品目の「EUV用レジスト」を生産する工場を韓国内に建設する方針を明らかにした。韓国の素材メーカーSKマテリアルズも、高純度フッ化水素の量産化を始めている。
 韓国国内では半導体関連産業の集積が進んでおり、日本総合研究所の向山英彦上席主任研究員は「『脱・日本依存』の影響は2年ほどで出てくるのではないか。日本メーカーでは日本に開発などの機能を残しつつ、韓国で生産する流れが加速する可能性がある」と分析する。

 「道義的是非は置く」としても「単純に日本企業の経済的利益の観点から」安倍の行為がいかに愚かだったかという話です。
 安倍の行為により1)韓国市場を失わないために日本企業は韓国で現地生産するなどの余計な手間をかける必要が出た上に、2)これをきっかけに韓国で「フッ化水素水などの脱日本依存(日本以外の外国企業や韓国企業から調達)」という動きが出てきてしまった。
 日経もこんな記事を書くとは内心この件では「安倍政権も愚劣なことをやったもんだ、むしろ日本企業が被害を被っている」と思ってるのでしょう。


浮島丸事件から75年 北朝鮮が日本に謝罪と賠償求める | 聯合ニュース
 北朝鮮云々は俺的には「ある意味どうでもいい話」です。浮島丸事件 - Wikipediaについてはもっと知られるべきと思うのでここで紹介しておきます。

参考
浮島丸の史実を次世代に 7月25日、舞鶴で追悼のつどい - 産経ニュース
朝鮮人ら犠牲「浮島丸殉難の碑」に韓国の高校生が献花 舞鶴 - 産経ニュース
「浮島丸」事故から72年、犠牲者549人の冥福祈る 舞鶴で追悼集会 - 産経ニュース
政府が遺骨引渡式/倉林議員が出席/「浮島丸」犠牲者追悼も


横田滋さんに見てほしかった…拉致被害者の救出を…映画「めぐみへの誓い」完成で出演者ら思い語る:中日スポーツ・東京中日スポーツ
横田めぐみさん笑顔「取り戻したい」映画好演の菜月 - シネマ : 日刊スポーツ

横田滋さんに見てほしかった…拉致被害者の救出を…映画「めぐみへの誓い」完成で出演者ら思い語る:中日スポーツ・東京中日スポーツ
 横田めぐみさんら拉致被害者の救出を世界に訴えかける映画「めぐみへの誓い」(野伏翔監督、公開未定)の完成披露試写会が24日、東京・永田町の憲政記念館で行われ、出演した原田大二郎(76)、石村とも子(62)、大鶴義丹(52)、菜月(20)らが出席した。

横田めぐみさん笑顔「取り戻したい」映画好演の菜月 - シネマ : 日刊スポーツ
・主人公の横田めぐみさんを演じた女優の菜月(21)は、大鶴義丹(52)演じる、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の工作員シンガンシュンに拉致された後に勉強したハングルを、流ちょうにしゃべるシーンを見事に演じきった。
・6月5日に亡くなった、めぐみさんの父滋さんを演じた原田大二郎(76)は、舞台版でも滋さんを演じている。
・めぐみさんの少女時代を演じた坂上梨々愛(13)は、拉致されるシーンを演じた。
・この日は、母の早紀江さんを演じた石村とも子*2(62)、田口八重子さんを演じた安座間美優(33)、金賢姫を演じた小林麗奈(25)、在日女性パクカソンを演じた仁支川峰子(62)らが登壇。

 「原田と大鶴唐十郎*3と李麗仙の息子、マルシアの元夫)、仁支川峰子(旧芸名:西川峰子、元紅白歌合戦出場歌手)以外は無名芸能人ばっかやな」と言うのが正直な感想です。
 まあこんな右翼臭のする作品に進んで人気俳優、有名俳優が出るわけも無いですが。

1)俳優自体が右翼的価値観の持ち主(例:右翼映画『プライド・運命の瞬間』で東条英機*4を、右翼映画『ムルデカ17805』で今村均*5を演じた津川雅彦
2)俳優はそんな価値観では無いが売れてないので仕事を選べない
3)俳優はそんな価値観では無いし、そんな仕事を選ばなくても他に仕事はいくらでもあるが「親、兄弟といった親族」「事務所社長」「ファンクラブ(後援会)会長」などといったしがらみのある人間が持ってきた仕事なので断ることが難しい

のどれかでなければこんな作品には普通、俳優は出ない。1)や3)でもない限り人気俳優、有名俳優が出ることはありえないわけです。
 右翼映画『プライド・運命の瞬間』でも

◆右翼映画『プライド・運命の瞬間
武藤章*6を演じた石田太郎*7

など「えー、何でこんなトンデモ極右映画に出るの?」という有名俳優がいないわけではありませんがほとんどは無名俳優です。出演した有名俳優は「津川のような右翼発言が多い」なんて人は俺の認識ではほとんど居ませんので、3)なんでしょうね。どんなしがらみかは知りませんが。
 「13歳の子役・坂上梨々愛さん」には未成年だし、「その年齢じゃ所属事務所が持ってきた仕事を断るわけにもいかんよね」と同情はしますが他の連中は「何だかなあ」ですね。
 まあウヨ方面以外では大して話題にもならずに消えていくのでしょう。そもそも「公開未定って何やねん」ですね。彼らウヨにとって「最悪(?)の場合」、劇場公開しないで「DVDにして販売やレンタル」「ネットで動画配信」になるのか。
 それにしても以前、この件を報じた記事では

大鶴義丹、初の国家犯罪者役 意欲十分「ハングルも勉強してます」:中日スポーツ・東京中日スポーツ
 北朝鮮による日本人拉致事件を題材にした映画「めぐみへの誓い」(野伏翔監督)の製作発表が13日、東京都内で開かれ、原田大二郎(75)、大鶴義丹(51)、小松政夫(78)、仁支川峰子(61)らが出席した。

として小松政夫の名前が出ていたのに、今回の記事で小松の名前が出てこないのはどういうことなのか?
 まさか小松ほどのベテラン有名芸能人を「ら」で片付けるとは思えないので
1)黒澤明「影武者」を途中降板した勝新太郎のように、何らかの理由で結局、小松が途中降板した
2)小松は最後まで出演したが、何らかの理由で完成挨拶に出席しなかった
のどちらかでしょうが。
 最近でも

カーライフにサヨナラ、サヨナラ 免許自主返納の小松政夫 事故受け決意、にじむ啓発の思い:東京新聞 TOKYO Web(2020年8月23日)
 コメディアンで俳優の小松政夫(78)が運転免許証を自主返納した。六十余年、無事故無違反を続けてきたが、今年六月に初めて物損事故を起こした。「まだまだ大丈夫と思っていたが、どこかずれていたのかもしれない。人生にひと区切りをつけた感じ」とけじめをつけた。
 十八日夕、小松は東京都世田谷区の成城署前にアロハシャツ姿で現れた。免許返納に際し「そりゃ六十年以上ハンドルを握り、二十台以上も乗り替えてきたので寂しいですよ。でも初めて物損事故も起こし、大変なことが起きる前に決断した」と手続きに向かった。
 六月、自宅近くの眼鏡店に一人でマイカーを運転して行った帰り、住宅街の交差点に差しかかった。一時停止線で止まったが、家屋が視界を遮って見通しが悪い…。そろりと前進したところ右側から来た車と接触、相手のバンパーなどが破損したという。帰宅後、テレビをつけるとニュースで報じられていた。
 「(ボーガス注:ただの物損事故だし、自分も大スターでも無いと思うのに)え、あれがニュースになるの?と驚きました。妹は『兄さん、まだスターなのね』と電話してきました」
 手続きを終え、穴が開いた免許証を手にすっきりした表情を見せた。色がゴールドではなくブルーなのは四年ほど前「うっかり失効」したことがあったためだが、十七歳で当時の軽自動車免許を取得して以来、無事故無違反を貫いた。
 しかし、二年前の更新時、七十五歳以上は必須の認知機能検査を受けてがくぜんとしたという。
 「今日は何を食べましたかとか、絵を見て数分後に思い出させたり、私の顔も見ずに質問する。嫌ですね〜」
 昨年、東京・池袋で高齢者の車が暴走し、母子が死亡した事故に衝撃を受けた。
 来年の更新時での返納を考えていたという。しかし、自身の事故で前倒しを決めた。
 「私の人生は車とともに歩んできました」。
 車のセールスマンに始まり、「親父(おやじ)さん」と慕う大スター植木等の付き人兼運転手として芸能界入りした。「今の私があるのも車のおかげ」としみじみ語り、年齢も植木が他界した八十歳に近づき「これも区切りの時かも」と静かに決意した。
 事故後、ファンや知り合いから「また事故を起こしたら、小松さんの芸や舞台、ドラマを見られなくなる」「(ボーガス注:車検費用、駐車場代、ガソリン代、税金などトータルの費用、あるいは事故を起こすのではと言う精神的ストレスなど、色々考えたら)タクシー代の方が安いよ」と気遣いつつ返納を促す声が多数寄せられたことも背中を押した。「ありがたいこと。高齢者の事故が増えている中、どきどきしながら運転して楽しいでしょうか」と問い掛ける。
 「一つだけ言わせて」と小松は真剣な表情を見せた。「車がないと生活できない地域もある。免許を返上して生活に困るようではダメ。(ボーガス注:低料金のタクシーやバスなど)代替の交通手段にも配慮してほしい」と訴えた。
トップセールスマン、植木等の運転手…六十余年
 小松は俳優を目指して福岡・博多から出てきた。横浜市内の魚市場などで働いた後、自動車販売会社に就職。車人生はここから本格的に始まった。月に二十二台も売るトップセールスマンで、先輩や同僚、客らとの出会いや駆け引きは、後の名ギャグに生かされた。
 そして「ハナ肇とクレージーキャッツ」のスター植木等の付き人兼運転手に転身した。
 「ゴルフ場で親父さんを待っている間、車をぴかぴかに磨いたり、深夜遅く親父さんを自宅へ送り届けてホッとして玄関先で寝てしまったり、翌朝そのまま出迎えたりと、思い出は尽きません」。
 失敗談もある。
 「一度、私のアパートへ親父さんが車を運転して来ました。飲みすぎて寝坊してしまった私の大失態です。私が運転を代わろうとしても、親父さんは頑としてハンドルを離さない。危なっかしくて生きた心地がしませんでした」と笑う。
 四年近い付き人兼運転手からの「(ボーガス注:付き人)卒業」と「(ボーガス注:芸能人としての)独立」を言い渡されたのも車の中だった。
 「車を止めて号泣していると、親父さんが『あのな、別に急ぐわけじゃないけど、そろそろ行こうか』と優しくかけてくれたあの声を忘れられません」
 独立後もクレージーキャッツと仕事をしていたので、植木の車を運転していた。初めてのマイカーを買ったのはかつての勤務先から。その後は当時の同僚から毎年のように新車を買い替えたという。
 「恩返しの気持ちもあった」。
<こまつ・まさお>
 1942年、福岡市博多生まれ。64年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」の植木等の付き人兼運転手。テレビ番組「シャボン玉ホリデー」でデビューし、舞台や映画、テレビで人気者に。映画評論家淀川長治さんのものまね、「電線音頭」「しらけ鳥音頭」「小松の親分」などのキャラクター、「知らない、知らない」などのギャグで知られる。俳優としても活躍。日本喜劇人協会会長。NHKBSプレミアムで23日にスタートするドラマ「すぐ死ぬんだから」(日曜午後10時、全5回)に出演。

などという記事があること(つまり小松は健在らしいこと)、小松が「体調不良や仕事の都合で挨拶に出られないにしても」、挨拶文の代読を依頼するなどの形はとれることを考えると「勝の降板劇のような、ウヨ連中にとって公言したくないような対立」が小松の間に発生したのだろうか?、と疑念を感じます。
【2020年12月12日追記】

コメディアン 小松政夫さん死去 | おくやみ | NHKニュース
・「デンセンマンの電線音頭」や「しらけ鳥音頭」などのネタや歌で人気を集め「小松の親分」の愛称で知られたコメディアンの小松政夫さんが今月7日、肝細胞がんのため東京都内の病院で亡くなりました。78歳でした。
伊東四朗さんとのコンビで出演したコント番組で演じた「小松の親分」は、小松さんを代表するキャラクターとなり、番組の中で披露した「デンセンマンの電線音頭」や「しらけ鳥音頭」などのネタや歌が大ヒットしました。
・小松さんは去年11月に肝細胞がんが見つかり、治療を受けながら最近まで仕事を続けていましたが、先月14日から入院し、今月7日、都内の病院で肝細胞がんのため亡くなりました。

伊東四朗さん「俺より先に逝くなんて」 小松政夫さん死去 - 産経ニュース
元日本喜劇人協会会長の大村崑さん(89)の話
「気遣いのある誠実な人で、会話中は私の目をしっかり見て、うなずいてくれた。芝居出身の私とは笑いの種類こそ違うけれど、喜劇人としての才能を強く感じていた。『知らない、知らない』など多くのギャグは、いつまでも人々の心に残るでしょう。まだ彼は若いのに、とても残念です。どんどん喜劇人がいなくなっていくことが寂しい」

小松政夫さんの爪のない足指 記者に見せた笑いへの執念:朝日新聞デジタル
 7日に78歳で亡くなったコメディアンの小松政夫さんは2018年に連載「人生の贈りもの」に登場しました。そのときの思い出を取材記者が振り返ります。

 小松さんをインタビューしたのは、ちょうど3年前の今の時期。
 きれいに整えた白髪に上品なウールジャケット。まるで英国紳士のようなたたずまい。私の質問にも、どちらかというと少し低めの声で、言葉を選びながら、とつとつと答える感じだった。
 これが、あの小松政夫
 私は話を聞きながら、実は何度もそう思った。
 というのも私の小学生時代、キンキラ衣装をまとって甲高い声で叫びまくり、テレビの前の子どもたちを熱狂させた「破天荒なコメディアン」の面影はみじんも感じられなかったからだ。伊東四朗さんとコンビを組んだ人気絶頂期、実は2人とも綿密に準備を重ねた上で臨んでいた、と明かした。
 ある日、予定したインタビューが終わらないままケーキ屋の閉店が近づいた。「もう少し話した方がいいですよね?」。そう言いながら近くの居酒屋へ誘ってくれたのは小松さんだった。行きつけの店の壁には「淀川長治」に扮した小松さんのポスターが張られていて、店員や常連客らが笑顔で迎えた。

ということで小松の死去が発表されました。


【2020年8月24日・追記1:津川雅彦の暴言】
 さてウィキペディア津川雅彦」を読んでいて呆れる発言に遭遇。

津川雅彦 - Wikipedia
・京都国際映画祭準備委員会会合では「山田洋次のような左翼の監督が日本をダメにした。左翼が武士をだらしなく描くようになって、日本映画はダメになった」と発言した。

 「事実ならば」おいおいですね(呆)。突っ込みどころしかありません。
 まず第一に日本の映画監督が軒並み左翼だったなんて事実は無いでしょう。
 第二に当たり前ですが「左翼かどうかと映画監督として優れてるかどうか」と全く関係が無い。「寅さん」「釣りバカ日誌」ほか数々の人気映画に監督や脚本として関わった「共産党支持者」山田洋次は勿論その一例です。そもそも「山田洋次ほどの貢献も映画業界にしてない津川*8」が山田をあしざまに言うとは「身の程を知れ」「何様だ」て話です。
 第三に「左翼が武士をだらしなく」云々とは何の意味なのか。

小林正樹*9切腹 (映画) - Wikipedia(1962年、原作は滝口康彦『異聞浪人記』)
今井正*10武士道残酷物語 - Wikipedia(1963年、原作は南條範夫*11『被虐の系譜』)
今井正仇討 (1964年の映画) - Wikipedia(1964年)
小林正樹上意討ち 拝領妻始末 - Wikipedia(1967年、原作は滝口康彦『拝領妻始末』)
山田洋次*12たそがれ清兵衛 - Wikipedia(2002年、原作は藤沢周平*13たそがれ清兵衛』)

などのことか(おそらくそうなのでしょうが)。ただしこれらは巨匠『今井正』『小林正樹』『山田洋次』の作品であるので、当然ながら『武士社会の事なかれ主義』など『かっこ悪い武士』を描いてるとは言え、単に「武士をかっこ悪く描いた」なんて代物ではないし、興行的にも成功しています(今井や小林の作品が1960年代であるのは単なる偶然では無く『そうした問題意識を今井たちが感じる時代』であるとともに『そうした物が大衆に受ける時代』でもあったのでしょう)。津川が今井や小林の映画を「左翼が武士をかっこ悪く描いて許せない」としか思わないのであれば「どうしようもないバカ」としか言いようがありません。
 大体武士道残酷物語 - Wikipedia仇討 (1964年の映画) - Wikipediaには時代劇スター萬屋錦之介が、上意討ち 拝領妻始末 - Wikipediaにはこれまた時代劇スター三船敏郎が主演しているのですがねえ(なお、スターである主演の萬屋や三船は「武士の風上にも置けないクズ上司たち」に酷い目に遭わされる「正義の武士」と言った描き方であり、そう言う意味でも津川の「左翼が武士をかっこ悪く描いて」云々はとんちんかんです)。津川は萬屋や三船も「日本映画をダメにした左翼呼ばわり」する気なのか。
 第四に当たり前ですが「日本映画=時代劇」ではない。「寅さん」もその一例です。
 第五にこんなことを抜かしていた津川自身が映画監督気取りでとった作品はほとんどが興行的にも失敗、芸術的にも評価されてないのだから大笑いです。
 当たり前ですが「大衆に受ける作品をつくる」というのは「右翼だの左翼だのと言う政治性で決まること」ではありません。
 「武士をかっこよく描けば受けて、かっこ悪く描けば受けない」というもんでもない。 

【参考:切腹

名優仲代達矢がニューヨークで映画『切腹』を振り返る!|シネマトゥデイ
 「現在も僕は舞台俳優ですが、僕の日本映画でのキャリアを(皆さんの印象に残していただける形で)スタートさせることができたのは小林監督のおかげです」と語り、小林監督の映画での政治的な立場や主張については「先週、ここで(ボーガス注:小林監督作品で仲代が主演した)『人間の條件』を上映させていただきましたが、今日の(ボーガス注:小林監督作品で仲代が主演した)『切腹』も含めたあらゆる作品に、小林監督が戦時中に満州に渡り沖縄で捕虜になったことが反映されています。監督は戦争体験、悪しき体制に抵抗を持っていて、『切腹』では、武士道は立派なものであるはずが、実はうわべだけの武士道があったということを、ヒューマニズムを通して熱心に描きました」と偉大な監督との関係を振り返った。
 映画は、武士道の不条理を描いた日本映画の不朽の名作。

 もちろん仲代が主演した小林監督映画『人間の条件(全6部)』(1959~1961年)、『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)や重要な役で助演した『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)は仲代の名前を大いに高めました。
 ただし

仲代達矢 - Wikipedia
黒澤明
◆用心棒(1961年)
椿三十郎(1962年)
◆天国と地獄(1963年)
◆影武者 (1980年:主役・武田信玄の影武者)
◆乱(1985年:主役・一文字秀虎)
山本薩夫
華麗なる一族(1974年)
◆金環蝕(1975年)
不毛地帯(1976年:主役・壱岐正)

など小林監督以外の「仲代の代表作」もあるのでここでの物言いはやや「ひいきの引き倒し」になっています。いずれにせよ多くの巨匠監督と仕事をする一方で舞台俳優としても活躍した仲代はやはり「日本の名優」といえるでしょう。

『ジョーカー』を先取りしていた(!?)名匠・小林正樹監督の『切腹』 | cinemas PLUS
 本作は徳川幕府が成立して政権が安定し始めた時期の影で貧困に苦しんでいた浪人たちの実情を背景に、武士道の無理強いがもたらす非道を突くとともに、強者の采配ひとつで生死の運命すら決められてしまう弱者の悲劇を描いています。
 確かにゆすりは罪ではありますが、果たして本当に命を奪うほどのものなのか?
 本作は公開当時、封建社会を痛烈に批判した傑作として高い評価を得、海外でもカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、小林監督を世界の巨匠へ一気に押し上げることになりましたが、それから半世紀以上経った今、改めてこの作品に接すると単に武士道批判だけでなく強者の権力に虐げられ、自ら夜叉になっていくしかない弱者の悲劇の物語として捉えることも大いに可能であり、また現代がそう思わされる時代になってしまったというのもあるでしょう。

よくぞ血迷った!!『切腹』(1962年の映画)|お望月さん|note
 印象的なのは仲代達也*14の「よくぞ血迷った!」という血の叫びです。
 これは義理の息子がくだらない武士道に魂をかけることなく、泥にまみれても生を得ようと決断したことへの評価です。
 このため「戦国時代が終わり、武士道が廃れ、形式(ビジネス)的なものになったことを冷笑的にあざ笑う」という作品であると解釈されるケースが多いようです

【参考:武士道残酷物語】

遊行七恵の日々是遊行 武士道残酷物語をみる
 とりあえず暗いというか陰惨な内容なので、読まれる方は注意してください。
 とにかく若かった錦之助が飯倉家代々の侍を一人で演じ、<被虐の系譜>を体現している。
 初代の、忠義に死ぬ武士、その息子の死までは「もののふならば」と肯定し納得もゆくのだが、それ以降が凄まじい。
 脚本は依田義賢鈴木尚之。オムニバスだから短いエピソードが7話あるが、どれをどう書いたかはわたしにはわからない。
 殿様はまず東野英治郎水戸黄門だ)に始まり、飯倉家初代を家臣に迎えた後、島原の乱での失策を、その飯倉次郎左衛門により、救われる。
 つまり主君のために腹を切り、責任を全て背負ったのである。
 これは主君への忠義と恩愛の念から来た行為なので、個人と言う考えがない頃には、美談なのである。見ていても、錦之助の静かな決意が浮かぶ表情に胸を打たれる。またその行為が納得できる強さが演技に出ている。
 その子息・佐治衛門の死もまた<時代劇>という範疇の中では奇矯なものではない。勘気を蒙り、再び出仕したいと思う若き佐治衛門のせつなさ。
 彼の生は再度出仕すること、それだけに費やされ、今の身は抜け殻にも等しい。自虐と悲哀と、しかし<武士>としての矜持は決して捨てることはない。
 が、老齢の殿の死が全てを無駄にする。
 殿に許されることなきまま、自分は生き永らえている。
 その自覚が佐治衛門の生を絶つ。
 殉死することだけが、自分を救い、家名を救うことになる。
 渡辺美佐子の演じる妻は、夫を死なせたくはない。しかし夫の意思は変えられない。生きていたとしても抜け殻同然になることはわかっている。
 しかしそれでも<自分の夫>には生きていてほしい。
 その心模様がこちらにもよく伝わる。
 次々と藩士が殉死したと言う報せが入ってくる。
 居ても立ってもいられない。その心の焦りが妻や使用人たちの表情に表れている。
 しかしもう止めようがない事態にも、皆は直面している。
 白装束の錦之助の静けさ。
 こうした居ずまいに、彼が梨園の出身だということを感じさせるのだ。
 第三話の主人公・飯倉久太郎がいた時代が元禄だったというのは、恣意的ではなく必然だった。
 この時代の殿は森雅之が演じていた。
 殿は特に沢村精四郎(後の沢村藤十郎)演ずる美少年・七三郎がお気に入りである。
 殿は、奥方にも側室・萩の方(岸田今日子)にも目を向けない。
 控え室でくつろぐ少年たちのうち、久太郎だけが殿に呼び出される。
 このとき既に彼は少年から遠く離れた年頃だったのだが、十二分に少年に見えた。
 しかし少年も自分に何が行われようとするかわかっていない。
 わかってからの錦之助の表情の移り変わりがみごとだった。
 しかし逃げることも出来ず、殿の臥所に連れられてゆく。
 やっと解放された後の久太郎は、萩の方の前で激しく泣く。
 「殿の愛寵をお受けしたお手つき小姓となるのに何を泣く」
(中略)
 ふたりは殿の眼を盗んで不義を働いたことで自害しようとする。
 しかしそのとき、殿の声がする。
 「死んではならぬ。久しぶりに目の保養をいたしたぞ」
 お小姓を従えた殿がいた。殿は二人の情交を眺めていたのである。
 ここで二人を放遂すれば粋(すい)な殿様になるところだが、そんなはずもなく、嫉妬に燃え狂っている。
 自死を賜りたいと願う二人に殿は冷たく言い放つ。
 「いいや死なせぬ、生きて地獄を味わうがよい」
 「羅切りの刑に処す」
 その言葉の後、萩の方の泣き崩れる様子と、久太郎の悲痛な声とで何事が行われたかを、理解する。
 数ヵ月後、既に江戸屋敷から信州のお国許へ二人は返されている。
 何も知らぬ久太郎の母は喜んでいる。
 「殿様ご愛寵の側室・萩の方様をご拝領とは、めでたいめでたい」
 ふたりは殿により夫婦にされたのだ。
 絶望的な結婚である。
 そのとき萩の方は胎動を感じる。歓喜する久太郎。
 「わしの子が生まれるのじゃな」
 最早二度とその機会は訪れず、この胎児だけが自分の血をつなぐ存在になるのだ。そして久太郎は二十五歳で世を去る。
 第四話の悲惨さも眼を覆わんばかりである。
 居合い斬りの達人・飯倉修三は殿(江原真二郎)の前で目隠しをしたまま剣技を披露する。見事な技に殿もご満悦だが、この天明時代は飢饉だの悪政だのでメチャクチャな時代である。この殿は女色に狂う殿様で、自分の快楽のためならなんでもする、どうにもならない殿様で、家老(佐藤慶)がこれまた殿のご機嫌を結ぶために、更に悪事を勧めるような輩である。
 とにかくめちゃくちゃ。
 百姓も苦しいから江戸に直訴に出て、田沼意知に書状を渡す。
 しかし賄賂の世だから、結局は百姓の決死の願いも空しくなる。
 百姓たちは国許へ送り返され、処刑されるのだが、どう考えてもサディストの殿様は家老の言を容れて、百姓たちを鋸引きという無残極まりない刑罰で処刑する。
 田沼には金だけでなく女も贈る事にして、修三の娘が当てられる。
 この娘には修三の剣の弟子・一馬という許婚がいたが、どうにもならない。
 また今度は遠駆けの殿様の目に、修三の妻(有馬稲子)がとまり、早速呼び出される。今では蟄居の身の上の修三は、家のためにと妻を出すが、自害した妻の遺骸に慟哭する。
 しかも江戸城内では田沼意知が佐野某により襲撃され(後日死去)、娘は修三のもとへ送り返される。
 殿はその娘にも目をつける。
 拒む娘と、元・許婚の一馬とは引っ立てられてゆく。
 修三はただただ苦悩の人である。
 それを錦之助は見事に演じている。
 修三の前には被り物をされた囚人が二人いる*15
 目隠しをした居合い斬りで二人を処刑するよう命じられる。
 目隠しを外した修三の前に娘と弟子の首が転んでいる。
 残酷な仕打ちだった。
 諫言をあげた答えがこれだったのだ。
 殿は笑いながら修三の手の甲に脇添えを刺し貫き、「褒美じゃ」と言う。
 これぞ<武士道残酷物語>。
 修三はその刀でもって切腹し、果てる。
(中略)
 現代に戻り、サラリーマン飯倉進は父や兄を思う。
 仕えるべき故主を失くした飯倉家の男は、今度は国家に仕える。大日本帝国のために進の父は満州事変で戦死し、兄は特攻隊として空に散っていった。
 その飯倉進。
 建設会社に勤務する彼には、ライバル会社のタイピストを勤める恋人(三田佳子)がいる。
 彼女はなかなか仕事も出来るので、結婚後も働くことを決めているし、彼も勧めているのだが、それが却ってアダとなった。
 ダムの入札金額を知りたがる上司のために、彼は恋人にその金額を盗むことをたのむ。
 おかげで進の会社が落札でき、彼にも出世の道が開くのだが、結婚式の延期を勧められる。
 ライバル社に事のからくりを知られぬために、と。
 それを恋人に告げたことで、やけくそになり絶望した彼女が、自殺を決行したのだった。
 ここで飯倉家の<被虐の系譜>を断ち切らねばならない、と進は決意する。
 殿や国家に仕えなくとも、今の自分は会社に仕えている。
 そして先祖同様、酷い目に遭わされている。
 目覚めた恋人に、進は結婚しようと言う。会社も何も関係なく、二人で結婚しよう。
 恋人もようやく元気になれそうである*16
 この作品は武士道そのものを痛烈に批判している。
 昭和38年だからこそ、生まれた作品だったろう。
 暗いことこの上ないが、たいへん深い印象の残る作品だった。

【参考:上意討ち 拝領妻始末】

小林正樹 「上意討ち 拝領妻始末」 (1967) | It’s not about the ski 遅れて来た天才スキーヤー???、時々駄洒落(笑)、毎日ビール!(爆)
 たとえどんなに、命令が理不尽なものであっても、封建時代の藩士が主君に逆らうことなど許されるはずも無い。この話自体はフィクションではあるが、この様な事例は少なからずあったのだろうか。
 隠居する前まで、藩に忠実に仕え、婿養子という立場から家にも妻にも大人しく従って、数十年の勤めを無事終えた伊三郎(三船敏郎)が、藩からのあまりに身勝手な処置に、遂に怒りを禁じ得ず、しかし冷静に対処しながらも、息子・与五郎(加藤剛)と嫁いち(司葉子)を殺されての怒りの殺陣が凄まじい。

上意討ち 拝領妻始末 - おじさんの映画三昧
 原作が滝口康彦で監督が小林正樹となれば「切腹」と同じだ。
 そうとあって内容は「切腹」の姉妹篇といった感じで、権力側のご都合主義や理不尽さが描かれ、さらにはそれに抗うような家族愛を描いている。
 まず人の情などはそっちのけで、家名を第一と考える者たちの右往左往が描かれる。
 殿様*17の意に沿って動き回る藩の重役たち然り、笹原家と一族の存続を願う親類縁者たち然りだ。
 側門人の高橋外記*18は殿様の意向であることを盾に無理強いを押し通す。
 上役の土屋庄兵衛*19も揉め事が起こらずに収まりそうなことを「よかったよかった」と事勿れ主義である。


【2020年8月24日&12月12日・追記2:小松政夫植木等
 ウィキペディアやネット上の記事から興味深いエピソードを紹介しておきます。

小松政夫がパンツ一丁で洗車、植木等は大喜び 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
小松:
 そば屋に車を止めて、「好きなものを食べろ」って言うんだけど、僕はそば屋に入ったらかけそば、中華屋に入ったらラーメンと決めているから、メニューを見るまでもなく「かけそばをお願いします」「そうか。俺は天丼とカツ丼」。えっと思ったら、天丼をちょっと食べて、「俺、さっき食ったんだ。もう食えねえ。おまえ食べろ」って。初めから計算ずくなんですよね。押しつけがましくないようにっていう。

小松政夫さん死去 植木等の愛ある“クビ宣告”に涙した 師弟愛を生前明かす (1/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
 クルマのセールスマンをしていた21歳のときです。ビアホールに置いてあった雑誌を開くと、求人広告が目に留まったんです。
 「植木等の付き人兼運転手募集。やる気があるなら、面倒見るョ~~」
 「これだ!」と思いましたね。
 あの雑誌を手に取らなかったら、今ごろ何をやっていたんでしょうね。
 ほとんど休みなしでがむしゃらに働いて、毎週日曜日の夜、横浜のビアホールにあった大きなカラーテレビで、「シャボン玉ホリデー」を見るのが楽しみ。ブラウン管の中の植木等は大スターですよ。
 「知らない、知らない」や淀川長治さんの物まねがウケて、シャボン玉でもいろんな役をやらせてもらって、顔が売れていたみたいです。駅で植木等のカバンを持って立ってたら、女の子たちが「キャー!」って寄ってくる。オヤジさんにかと思ったら、私にサインを求めるんですね。
 「してやれよ」ってオヤジさんに促されて、晴れがましいような恥ずかしいような気持ちでサインしました。女の子たちがいなくなったあとで「お前も本物になったな」って言ってくれてね。こんなこと言ってくれる人はいませんよ。
 ある日、クルマを運転中に後部座席の植木から、「おい、松崎。お前、明日からウチに迎えに来なくていいから」と言われた。クビかと思ってビックリしますよね。
 知らないうちにオヤジさんは、渡辺プロダクションと話し合って、タレントとして私と契約をする段取りを取っていてくれてたんです。ハンドルを握り締めて泣きました。しばらく動けないでいたら、オヤジさんに「まあ、急ぐわけじゃないけど、そろそろ行こうか」って言われてね。
 私が一応売れっ子と言われるようになったころ、オヤジさんはあまり忙しくはなかった。どんな大スターでも、あの植木等でさえも、入れ替えの時期は来てしまう。
 そんなときでも「いよー、よく来たな」って、あの調子で歓迎してくれてね。「俺、仕事ヒマだからテレビばっかり見てるんだけど、お前が頑張ってるのを見ると、俺ももうひと花咲かさなきゃって思うんだよな」と言ってくれました。そのときはトイレに入って泣きましたね。
 オヤジさんのところに行くとき、こっちは弟子ですから、運転手付きのクルマで玄関まで乗りつけるわけにはいかない。門からちょっと離れたところで待ってろって言って、ひとりで来たような顔で訪ねる。
 「飲んでくか」
 「いや、今日はクルマなんで」
 「うそつけ。運転手がいるくせに」って、お盆にコーヒーとお菓子を載せて、自分で運転手のところに持っていくんです。「小松が世話になるな」って言って。ああ、自分はずっと植木等の庇護の下に生きてるんだなあって思いました。

小松政夫さん死去「『舞台の上で死ねたら本望』なんて、私はごめんです」 〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
 行きつけのビアホールで飲んでいると、他のお客さんが忘れていった週刊誌を見つけました。パラパラめくると、「植木等の付き人兼運転手募集! やる気があるんだったら面倒みるヨ~」って広告が載っていたんです。本を持つ手がプルプル震えましたね。「このチャンスを逃すわけにはいかない!」と応募しました。
 給料はセールスマン時代の10万円から、いっきに7千円に下がることになりましたけど、もちろん気にしません。ようやく夢への一歩を踏み出すことができたわけですから。
 最初は植木さんのことを何て呼べばいいのかわからず、「先生、先生」って言ったら「それはやめてくれ」って(笑い)。「オヤジでいいよ」と言ってくれました。実は私は中学生の頃に父を亡くしたんですが、そのことを知っていて「私のことをオヤジだと思えばいいよ」って、優しくおっしゃってくれたんです。以来、植木さんのことは「オヤジさん」って呼ぶようになりました。
 オヤジさんの運転手をはじめて3年と10カ月目、いつものようにクルマを運転していると「明日から来なくていい」と突然言われました。
 何かまずいことをしてクビになったのかと思いましたが、実は芸能プロダクションに運転手ではなくタレントとして契約するよう話をつけてくれたんです。
 いきなりでしたから、もう涙が止まらなくなって……。でもそのあと、「給料も俺のデビュー当時と同じでいいと話しておいたから」と言われて、十年前と同じ給料だなんて安すぎると思って、また涙が出てきました(笑い)。

小松政夫 - Wikipedia
・セールスマン時代、雑誌の小さな枠に載っていた植木等の付き人募集の公募の広告を見てこれに応募して、約600人の応募者の中から選ばれ、1964年1月より正式に植木等の付き人兼運転手となり、その後、元々役者志望だったことを知った植木やクレージーキャッツのメンバーの助けもあって芸能界入りした。
・セールスマン時代は初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいたが、植木の付き人兼運転手時代の月給はわずか7,000円だった*20上、1週間の睡眠時間の合計が10時間しかないほど多忙なこともあったものの「全然つらくなかった」「尊敬する一流の師のそばにいて、お世話ができる。それだけで幸せでした」という。
 なお、植木からは付き人として入門する際に「お父さんを早くに亡くされたそうだが、これからは僕を父と思えばいい」と声を掛けられたという。また「おい、オレのことを何と呼ぶ?」「いいか、“先生”なんて呼んだら張っ倒すからな」とも言われ、小松が前の一言も考慮して「オヤジさん」という呼び方を提案したところ「それはいいな」と目を細めたとも語っている。
 東京オリンピックの開会式に招かれた植木を運転手として国立競技場に送った際には、植木の配慮で急遽小松の席も用意され、「錚々たる名士が居並ぶ中」開会式を見ることが出来たという。
◆芸能界デビュー
・コメディアンとしてのデビューは、付き人時に出演した『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)。番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、休憩中にメンバー及びスタッフと談笑していた際にふとしたことからセールスマン時代のエピソードを披露したことによる。その時に当時の課長(50歳ぐらいで、威張りくさって小松に活を入れるが逆にその様子を見ていた34歳の部長に一喝され、途端にシュンとしてしまう)の真似をして「見ろ!お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、知らない、知らない、知らなぁーい、もー!」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという。
 付き人だった当時は『シャボン玉ホリデー』に松崎真 - Wikipediaがレギュラーで出演しており、植木が「松崎ー!」と呼ぶと、「本名が松崎」の小松も一緒に返事をしてしまうケースが多々あったことから「小さいほうの松崎」という意味で「小松」と呼ばれるようになり、やがてメンバーやスタッフの間で定着した。そのうちに前座や端役などで出演が増えて視聴者にも顔を覚えられるようになり植木より正式に「小松政夫」(当初は「雅夫」)と芸名を命名されることになった。なお、この芸名を考えたのは姓名判断に凝っていたという植木の祖母だという。ただ、小松は当初「コメディアンなのに、こんな二枚目みたいな名前でいいのか」と一瞬当惑したという。
 なお、芸名の候補としては、植木と同じクレージーキャッツのメンバーだった犬塚弘が考えた「どん・たくお」(小松の出身である博多のどんたくから)や、自身がコントで演じた外国帰りの怪しげな美容師の役名だった「ジェームス本堂」があったが、植木に相談した際「将来大河ドラマの主役を張るようになるかもしれないのに、そんな名前じゃ苦労するだろう!」と却下になったという。
・付き人兼運転手を約4年間務め上げた。独り立ちの際に植木からかけられた言葉は、「お前、明日からもう俺のところには来なくていいからな」というあまりに突然なものだった。この言葉に小松は驚くとともに「クビなのか?」と一瞬当惑したが、続けて植木は「実はな、社長と話してお前を正式にタレントとして一本立ちさせてやりたいってお願いしたんだ」、「そうしたら社長も大賛成でな、お前のマネージャーも給料も、全部決めてきたから」とその真意を語った。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。
 車の運転中で、涙がボロボロとこぼれて運転ができなくなってしまい、一度路肩に車を停めて大泣きしながらそれを植木に謝る有様だったが、植木は「うん、別に急いでないけど、そろそろ行こうか」と優しく宥めたという。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している。
◆「お呼びでない」誕生秘話と、植木との師弟関係
 植木等は自身の代表的なギャグ「お呼びでない」について、多くのインタビューでは次のような趣旨の発言をしていた。

 小松が植木の付き人時代、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)でのショートコントの最中に勘違いをして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木がつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない?、こりゃまた失礼致しました!」とアドリブを放った。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大笑いし、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。

 このエピソードについて、小松自身は「自分は(付き人になる以前の)サラリーマン時代にあのギャグで大笑いしていた」、「あの聡明な植木等が、いくら私に言われたからといって、自分の出番を間違えるはずがありません」と語るなどして否定している。植木の「お別れの会」での弔辞でも、「『お呼びでない』は小松がきっかけだとオヤジさん(植木)はおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです」と述べている。そして、「事実でなくても、自分のため(小松を売り出すため)に作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」とも語っている。
 また植木の逝去直後、TBSテレビで放送された追悼特番では、付き人時代から小松単独での番組出演オファーがあった時期のことを「自分は当時まだ勉強中の身でありながら、番組に出るなんてとんでもないと思っていたんです。しかしそれを植木さんに相談したら、すごく喜んで頂いて『結構なことじゃないか。行って来い。行って勉強してきなさい』と、笑顔で背中を押してもらいました。一人で番組に出ることを咎められたことはありませんでした。あの優しさは今も忘れられませんね」と懐古している。
 ほかにも小松は、
◆植木と一緒に蕎麦屋に食事に入った際、付き人の小松は遠慮してもりそばを注文する傍ら、植木は天丼とカツ丼を注文したが、いざ運ばれてくると植木は天丼を半分ほど食べたところで「お腹一杯になっちゃったから、これお前が食べてくれ」とカツ丼をスッと小松の前に差し出した。
◆持ちネタが受けずに焦った小松が慌てた末に、収録に遅れを生じさせる失敗をした際、「うちの松崎が大変なご迷惑をお掛けしてすみませんでした」と植木が自ら進んでスタッフに謝ってくれた。
◆独立後、植木と同席した仕事でお得意の「淀川長治の物真似」を披露した際に「私、いっつもこればっかりですねえ」と自虐的に言ったところ、出番が終わった途端に植木から舞台袖に呼ばれ「これは君が苦労して作り上げた芸だろう!それを“こればっかり”なんて言うことはない。自信を持ってやりなさい」と説教された。
◆小松が渡辺プロから独立する際、植木は渡辺プロ関係者に「もし(小松を)邪魔したり嫌がらせしたりするようなことがあれば、俺が黙っちゃいないぞ」と釘を刺し、小松には「何かあったら、いつでも俺のところに相談に来いよ」とその背中を押して快く送り出した。
◆小松の人気が爆発していた当時、一方で人気に陰りがみえて仕事が激減した植木を心配して自宅を訪ねたところ、逆に「最近はヒマでテレビばかり見てるんだ。お前の活躍を見てパワーをもらっているんだ。オレももう一花咲かせないといけないな」と優しい一言を掛けられ、小松はトイレに駆け込んでひとり泣いた(なお、その後植木は個性派俳優として活路を見出し、平成期に入ってから「スーダラ伝説」のヒットなどにより再ブレイクすることになる)。
など、芸には厳しいがその一方で面倒見が良くて優しく温かい植木の人柄ぶりをインタビューや著書で語っている。
【参考文献】
小松政夫『のぼせもんやけん:昭和三〇年代横浜〜セールスマン時代のこと。』(2006年、竹書房
小松政夫『のぼせもんやけん2:植木等の付き人時代のこと。』(2007年、竹書房
小松政夫『昭和と師弟愛:植木等と歩いた43年』(2017年、KADOKAWA

植木等 - Wikipedia
◆素顔の植木等
 TBS『植木等デラックス』*21でゲストのさだまさしが、「無責任男」を「植木さんが無理矢理お作りになったキャラクター」と述べたところ、植木は「そうなんだよ、世間はあれが地だと思っているんだ」と笑っている。
 植木の人気絶頂期に付き人兼運転手として接した小松政夫の証言によれば、植木は基本的に物静かで生真面目であり、一度も頭ごなしに怒鳴られたことがなかった。ただ女遊びやギャンブルは嫌い、その点は大変厳しく指導されたという。「貧乏人の倅」を自称しており、貰った給料は小遣い代を除いてすべて夫人に渡す、食事も「どん底でも平気だ」と語っていたように、毎日同じおかずでも不満を言わないくらいだった。酒も飲まなかったが、これは体質的にアルコールを受け付けず奈良漬でも酩酊しかねないくらいだったためで、本人は酒を飲んで酔える人がうらやましいと漏らしていた。

*1:と言えば聞こえはいいですがどう見ても事実上の禁輸でしょう。

*2:野伏翔主宰の劇団「夜想会」の中心メンバー(石村とも子 - Wikipedia参照)

*3:劇団「唐組」主宰。1983年 、『佐川君からの手紙』で芥川賞受賞(唐十郎 - Wikipedia参照)

*4:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国神社に合祀

*5:参謀本部作戦課長、関東軍参謀副長、陸軍省兵務局長、第23軍司令官(中国広東省)、第16軍司令官(インドネシア・ジャワ島)、第8方面軍司令官(パプアニューギニア・ニューブリテン島)など歴任(今村均 - Wikipedia参照)

*6:参謀本部作戦課長、中支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国神社に合祀

*7:刑事コロンボ』の吹き替えで知られる。

*8:まあ「津川の名誉(?)」の為に断っておけば常人には山田を超える業績など上げられるもんではありませんが、だからこそ「左翼としての山田の言動」への批判ならまだしも、まともな人間は「津川のような身の程知らずのウスラバカ」とは違い「映画監督としての山田」に悪口したりしません。

*9:1916~1996年。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)の3年間にかけて公開された『人間の條件』は、五味川純平原作の大長編反戦小説「人間の條件」の映画化で、完成した作品は、戦時中の日本軍の暴虐と、それに反抗したインテリ兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描ききり、毎日芸術賞毎日映画コンクール監督賞、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞。続く1962年(昭和37年)、滝口康彦の小説「異聞浪人記」を原作にした『切腹』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。続いて小泉八雲の原作『怪談』を映画化した『怪談』で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、日本映画史上屈指の傑作と絶賛された。1967年(昭和42年)、『上意討ち 拝領妻始末』を監督して、ヴェネツィア国際映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞、キネマ旬報ベスト・ワンとなった(小林正樹 - Wikipedia参照)。

*10:1912~1991年。1950年、『また逢う日まで』でキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1956年、八海事件の裁判で弁護を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を監督。キネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1957年、原爆症の少女と不良少年の恋を描いた恋愛映画『純愛物語』で第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。1963年、『武士道残酷物語』を監督。封建社会の残酷さを7つの物語で描き、第13回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞(今井正 - Wikipedia参照)

*11:1908~2004年。本名、古賀英正。1944年、三井本社研究室次長、1949年、國學院大學教授、1952年から立正大学教授。1956年に「灯台鬼」で直木賞を受賞。一躍人気作家となり、立正大学教授としての勤務の傍ら、多くの時代小説を執筆。1979年に國學院大学を定年退官となった後は、小説執筆に専念。年1作長編を書き下ろすスタイルを確立し、その第1作となる「細香日記」(1981年)で第16回吉川英治文学賞を受賞。2004年10月30日、肺炎のため死去。享年95。高齢となっても執筆を続けており、『オール讀物』2004年2月号掲載の中編小説『乱世』が絶筆となった。國學院大學の同僚で親しかった桑田忠親は、南條がいわゆる『残酷物語』を書く理由は「戦時中の大陸での体験を動機として、平和時にはその片鱗さえも見せない日本人が、戦場で、なぜ平気で驚くほど残忍な行為をするのか、その根源を歴史的に探索してみようとするにあったらしい」と述べ、推理小説について権田萬治は「平凡で物静かな人間が、その仮面をぬいで突如として残酷な殺人者に変貌する恐怖とサスペンス、そして意外性」が特徴であると指摘している(南條範夫 - Wikipedia参照)

*12:1966年に『運が良けりゃ』(ハナ肇主演)でブルーリボン賞監督賞を、1977年に『幸福の黄色いハンカチ』(高倉健主演)でキネマ旬報賞監督賞、日本アカデミー賞最優秀監督賞、ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール監督賞を、1993年に『男はつらいよ 寅次郎の縁談』、『学校』で、2002年に『たそがれ清兵衛』で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞するなど受賞歴多数(山田洋次 - Wikipedia参照)

*13:1927~1997年。1973年(昭和48年)「暗殺の年輪」で、第69回直木賞受賞(藤沢周平 - Wikipedia参照)

*14:原文のまま。本当は「仲代達矢」が正しい。

*15:まあこの時点で「二人が誰なのか」落ちは読めますが

*16:まあ最後はそう言う落ちにせざるを得ないでしょうね。最後まで悲惨な落ちにしたら興行的に当たりそうにありません。

*17:上意討ち 拝領妻始末 - Wikipediaによれば松村達雄が演じた

*18:上意討ち 拝領妻始末 - Wikipediaによれば神山繁が演じた

*19:上意討ち 拝領妻始末 - Wikipediaによれば山形勲が演じた

*20:ただし小松によれば、付き人として植木と四六時中一緒だったため、自分の私的時間がほとんど無い上に、食費などを植木が出してくれたため、ほとんどお金を使う機会自体がなく困ることはなかったという。

*21:1991年4月7日から1992年10月4日まで、TBS系列で放送されたトークバラエティ番組。放送時間は、毎週日曜 23:00~23:30。1990年代初頭に「スーダラ節」のCD再発売や「スーダラ伝説」の発売で再ブームとなっていた植木等冠番組。毎回、植木が様々なゲストを迎えてトークを展開していた(植木等デラックス - Wikipedia参照)