「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年8/28日分:荒木和博の巻)

安倍総理辞任【調査会NEWS3324】(R02.8.28) : 荒木和博BLOG

・平成30年(2018)5月9日、ワシントンのアンドルーズ空軍基地に到着した特別機にトランプ米大統領が乗り込みました。載っていたのは2年前に北朝鮮でスパイとして逮捕、抑留され、解放されたドンチョル・キム氏らでした。大統領はキム氏に「あなたは米国の英雄だ」「海外にいる国民の保護より優先順位が高いことはない」と言ったそうです。
 今日の安倍総理の辞意表明で、これまで何度も繰り返されてきた「拉致問題は安倍政権の最重要課題」という言葉を思い出し、トランプ大統領の言葉と比べてため息が漏れました。もちろんパフォーマンスであることは明らかですし、米国もこれまで様々な形で国民を見捨ててきました。ですから額面通りに受け取ることはできませんが、それでも取り返してきてパフォーマンスをするのと、パフォーマンスで終わってしまったことの落差は感じざるをえません。

 おいおいですね。なんでトランプが「キム氏らを取り戻せた」と思ってるのか。外交交渉し、おそらくバーター取引したからでしょうよ。
 一方バーター取引を否定してきたのが荒木ら巣くう会です。
 大体「取り戻した云々」つうなら金丸訪朝で「第18富士山丸船長、機関長」を、小泉訪朝で「5人の拉致被害者」を取り戻していますが、金丸氏*1や小泉氏*2を評価するどころか悪口するのが荒木ら巣くう会右翼です。

・ただ、私たちにいつまでもため息をついていることは許されません。
・もはや「安倍政権なのだから拉致問題は任せておこう」というわけにはいかないのですから、もう一度国民が先頭に立って、誰が総理になろうが拉致問題を前に進めざるを得ないような状況を作ることです。
・国民が声をあげれば動かせるはずです。私たちもその突破口をつくるためにがんばります。

 といったところで荒木ら巣くう会には何の展望も無いでしょう。国民ももはや拉致には興味関心を失いつつあります。
 しかし、仮に石破が総理になったとして「平壌に駐在事務所を置こうなんてふざけてる」と石破に悪口した過去を荒木ら巣くう会や家族会はどうする気なんですかね?(もちろん誰がなるかはまだ分かりませんが)。
 石破だって「子どもじゃ無い」のだからそんなことで家族会を敵視はしないでしょうが
1)石破にとっての重要課題は拉致以外にも沢山ある
2)石破は安倍と違い拉致を売りにしていない
3)人の情として悪口した人間のためには余り動きたくない
と言う意味で、石破が「家族会のために積極的に動くこと」はおそらくないでしょう。もちろん家族会から何か要望があればそれなりに対応するでしょうが。


拉致被害者救出と自衛隊について(8月28日のショートメッセージ): 荒木和博BLOG
 4分程度の動画です。時間が短いので簡単に見れますが、内容があまりにも酷いので積極的には視聴をお薦めしません。
 さて荒木の与太「自衛隊拉致被害者救出」についてはもちろん「拉致被害者の居場所が分からないのにどこに自衛隊を投入するのか、救う会は言ってみろ」つう「屏風の虎を縛れというなら屏風から出してみろ(一休さんとんち話)」に似た突っ込みがあります。
 さすがに荒木に直接「拉致被害者の居場所が分からないのにどこに自衛隊を投入するのか、救う会は言ってみろ」と言った人間がいたようです。
 荒木曰く

「そう言うこという人間はアホかと思う(→アホは手前だろと怒鳴りつけたくなります)」
「そんなのは素人の救う会には分からない。自衛隊が調べるべき事だ。救う会に無茶振りするな(→自衛隊に無茶振りしてるのは手前だろと(以下略))」
自衛隊にはやる気が無いのか」
「頑張って情報収集すれば居場所がわかるはずだ」
「とにかく居場所の確定をやるしかないんだ。そうしなければ救出できないのだから」。

だそうです。
 「悪い意味で」すごいですね。
 「やる気があればできるはずだ」「やるしかないんだ」「やる気が無いからできないんだ」。
 「拉致に限らず」それですむなら誰も苦労しません。

「やる気があれば竹島北方領土も取り戻せるはずだ、国にやる気が無いから取り戻せないんだ」
「やる気があれば新型コロナも今すぐ終息するはずだ、国や自治体にやる気が無いから(以下略)」
「やる気があれば三億円事件もグリコ森永事件も解決できたはずだ、警察にやる気が無いから(以下略)」

でも何でも言えてしまう。

「元気ですかっ!元気があれば何でもできる!」

というアントニオ猪木や「猪木をネタにしたものまね芸人」とほとんど同じ世界です。猪木やものまね芸人は「ギャグ」「おふざけ」だからいい。拉致問題でそんな馬鹿なことを言ってたらいつまで経っても問題解決なんかしません。
 あるいは、荒木の言い分「やればできる」「自衛隊はやる気があるのか」は「やる気が無いから食糧不足で戦えないなんて言うんだ」「お前らそれでも日本人か、軍人か」などと撤退が不可避となる「最後の最後まで」「絶対に撤退するな」と無茶苦茶な命令を部下に出し続けたというインパール作戦牟田口廉也 - Wikipedia第15軍司令官とほとんど変わりません。荒木のことは「平成の牟田口」と呼んでいいんじゃ無いか(ただし勿論、インパール作戦については「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条|日経BizGate無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録 | NスペPlusなどが指摘するように、インパール作戦を容認した「牟田口の上司」である河辺正三(かわべ・まさかず)ビルマ方面軍司令官、寺内寿一(てらうち・ひさいち)南方軍総司令官らの責任も重大です)。
 それにしても、よくもまあ家族会も荒木に怒り出さないもんです。
 当たり前ですが「正しい方法論」でなければやる気があったってどうにもなりません。
 やる気があろうと「インパール作戦で日本軍は英国軍に負けた」し、「日本軍はガダルカナル島などで米軍に負けた」し、「毛沢東中国共産党主席の大躍進は成功しない」。
 つうか「やる気があればできるんじゃ無いか」「とにかくやるしかないんだ」が該当するのはむしろ「外交交渉による拉致被害者救出」ではないのか。
 実際、小泉*3訪朝という「外交交渉」で5人の拉致被害者を取り返したわけですから。

【参考:インパール作戦

「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条|日経BizGate
 太平洋戦争は将来の展望が開けないまま開戦した戦争だった。3年目に入った1943年からは、米英軍の本格的な反攻を受けて戦況不利が浮き彫りになってきた。戦略物資の不足に加え、司令官による指揮のミスが敗勢に拍車を加えるケースも出てきた。それが44年のビルマ戦線における「インパール作戦」だ。凄惨な失敗に終わったこの作戦は、現場の作戦立案から後方の政府・大本営のあり方まで、さまざまな問題を今日でも提起している。帝京大学戸部良一*4教授に聞いた。
◆インタビュアー
 「作戦を立案・指揮した第15軍司令官の牟田口廉也*5中将はどのような指揮官だったのでしょうか。」
◆戸部
 「エリート軍人でしたが、敗北を考慮すること自体を拒否するような精神主義的な傾向はありました。少壮将校時代には陸軍内で『皇道派』と呼ばれる派閥に属していました。」
 「牟田口の名前が歴史に登場するのは、1937年の日中全面戦争につながった盧溝橋事件です。事態収拾を優先する中央の方針に対し、独断で出撃命令を出しました。自ら正しいと思うことの実行に直進するタイプでした。太平洋戦争初期のマレー作戦で第18師団長としては軍功を挙げました」
◆インタビュアー
 「インパール作戦参謀本部は「無茶苦茶の積極案」と問題視していたといいます。」
◆戸部
 「敵戦力を過小評価して補給を全く軽視していました。2000メートル級の険しい山岳、大量の雨量、マラリヤアメーバ赤痢のまん延、橋もない貧弱な交通網といった現地の条件もほとんど考慮されませんでした」
 「『英印軍は中国軍より弱い』が牟田口の言い分でしたが、英軍に制空権を握られており作戦の内容も把握されていました。それでも電撃的に作戦を終了させようという予定でした。杜撰(ずさん)な計画としか言いようがありません」
◆インタビュアー
 「幕僚たちは作戦の欠陥を指摘しなかったのですか。」
◆戸部
 「軍司令部のほとんどの幕僚が反対でしたが、参謀長は約2カ月で解任されました。同調しない者は消極的だ、臆病者だと叱責し、罵倒しました。」
◆インタビュアー
 「牟田口を抑えようとしない上官に問題がありますね。」
◆戸部
 「インパール作戦の失敗は牟田口だけでなく、その上官の河辺正三*6(まさかず)・ビルマ方面軍司令官の責任も重大です。河辺は盧溝橋事件でも牟田口の上司であたる旅団長でした。当初は現地の話し合いで解決する方針でしたが牟田口の出撃命令を追認しました」
◆インタビュアー
 「ビルマ戦線でも牟田口に振り回されていたのですか。」
◆戸部
 「むしろ牟田口の作戦を後押しした観があります。」
◆インタビュアー
 「インパール作戦は当初は順調に進んだといいます。」
◆戸部
 「英軍側の戦略的後退で順調のように見えたのです。しかし、日本軍は補給線が延び切ったところを反撃されました。 」
 「牟田口は、作戦に参加した(ボーガス注:山内正文*7第15師団長、佐藤幸徳*8第31師団長、柳田元三*9第33師団長という)3個師団の師団長を作戦途中で全員解任しました。インパール北方のコヒマに向かった第31師団の師団長、佐藤幸徳中将は、ほとんど補給を受けないままでの戦闘継続は不可能であるとして、軍命令に反して独断で撤退し更迭されました」
◆インタビュアー
 「最も悲劇的だったのは、作戦中止の決定が遅れたことだといいます。」
◆戸部
 「河辺は、6月上旬に自ら牟田口に会いに前線へ行っています。当事者である牟田口から作戦中止を言い出すのが筋だと思って、河辺は黙っていました。牟田口ももうムリだと思っていましたが、言い出すのをはばかっていました。戦後に『私の顔色で察してほしかった』と言い残しています」
 「牟田口が作戦中止を上申したのは6月下旬でした。しかし河辺は『かくのごとき消極的意見具申に接するは意外』と戦闘継続を命じました。河辺は牟田口の自殺を恐れ、攻勢を命じることで、気持ちを引き立たせようとしたそうです。しかし作戦中止が1日遅れれば、戦闘と疲労と栄養不足のために、それだけ多くの犠牲者が出ました」
◆インタビュアー
 「東京の政府や大本営にも責任がありませんか。」
◆戸部
「(ボーガス注:東条*10首相は)現地を視察した参謀次長が遠回しに作戦中止を示唆したときには『弱気』を叱責しました。インパール作戦の初期の成功は日本国内でも華々しく伝えられていました。ほかの戦場では、どんどん戦況が悪化していました。東条は、戦争指導の継続と政権維持を、インパール作戦の成功にかけつつありました」
「東条は参謀次長を叱責したあと別室で『困ったことになった』と頭を抱えていたそうです。しかし中止命令は出さず、現地からの要請を待っていました。東条に責任感が欠如していたというより、積極的にイニシアティブをとる明確な戦略ビジョンを持っていなかったためでしょう」

 「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条|日経BizGateをもじれば「悲劇の拉致敗戦を産んだ西岡*11、島田*12、荒木*13」「悲劇の拉致敗戦を産んだ安倍首相、拉致議連救う会」ですね。もちろん蓮池透さんを家族会から追放し、安倍や拉致議連、西岡、島田、荒木ら救う会を選んだ家族会の自業自得だと思うので家族会には何一つ俺は同情しませんが。

無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録 | NスペPlus
※この記事は、2017年8月15日に放送した 「NHKスペシャル 戦慄の記録 インパール」 を基に制作しています。
◆上層部の人間関係が優先された意思決定
 牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。しかし、大本営では、ビルマ防衛に徹するべきとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。
 それでもなぜ、インパール作戦は実行されたのか? 。
 大本営の杉山*14参謀総長が最終的に認可した理由が(ボーガス注:参謀本部)作戦部長の手記に書き残されていた。
「杉山参謀総長が『寺内*15(ボーガス注:南方軍総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎*16少将手記)
 冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。
◆軽視された命
 牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていたある言葉を記録していた。
「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録)
 作戦開始から2か月が経過した1944年5月中旬。牟田口司令官は、苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭。作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態だった。
◆「白骨街道」と呼ばれた撤退路
 大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。開始から4か月がたっていた。しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていったのだ。
 分隊長だった佐藤哲雄さん(97)は、隊員たちと山中をさまよった。密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしたという。
「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。」(佐藤さん)
◆作戦の責任を転嫁する上層部
 太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。
 牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と、綴られていた。一方、日本軍の最高統帥機関・大本営インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。その1人、大本営・服部卓四郎*17作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ、次のように答えている。
「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、(ボーガス注:寺内寿一総司令官の)南方軍、(ボーガス注:河辺正三司令官の)ビルマ方面軍、そして、(ボーガス注:牟田口廉也司令官の)第15軍の責任範囲の拡大である。」(大本営 服部卓四郎 作戦課長)
 73年前、23歳だった齋藤元少尉は死線をさまよいながら、戦慄の記録を書き続けた。
「生き残りたる悲しみは、死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う。世にこれ程の悲惨事があろうか」

*1:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、副総裁(宮沢総裁時代)など歴任

*2:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相

*3:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相

*4:著書『失敗の本質:日本軍の組織論的研究』(共著、1981年、中公文庫)、『日本陸軍と中国:「支那通」にみる夢と蹉跌』(1999年、講談社選書メチエ→2016年、ちくま学芸文庫)、『外務省革新派』(2010年、中公新書)、『逆説の軍隊』(2012年、中公文庫)、『自壊の病理:日本陸軍の組織分析』(2017年、日本経済新聞出版社)など

*5:支那駐屯歩兵第1連隊長(盧溝橋事件当時)、第4軍(満州)参謀長、第18師団長(マレー作戦当時)、第15軍司令官(インパール作戦当時)など歴任(牟田口廉也 - Wikipedia参照)

*6:支那駐屯歩兵旅団長(盧溝橋事件当時)、 北支那方面軍参謀副長、中支那派遣軍参謀長、第12師団長(満州)、第3軍司令官(満州)、支那派遣軍総参謀長、ビルマ方面軍司令官(インパール作戦当時)、第15方面軍司令官(近畿地区)兼中部軍管区司令官(中部地区)、航空総軍司令官兼陸軍航空本部長など歴任(河辺正三 - Wikipedia参照)

*7:第12軍参謀長、第1独立守備隊司令官、第15師団長など歴任(山内正文 - Wikipedia参照)

*8:第23歩兵団長、第54師団兵務部長、第67独立歩兵団長、第31師団長など歴任(佐藤幸徳 - Wikipedia参照)

*9:ハルビン特務機関長、関東軍情報部長、第33師団長、旅順要塞司令官、関東州防衛司令官など歴任(柳田元三 - Wikipedia参照)

*10:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国神社に合祀(東條英機 - Wikipedia参照)

*11:救う会会長

*12:救う会副会長

*13:予備役ブルーリボンの会代表。特定失踪者問題調査会代表。元救う会事務局長。

*14:林、第一次近衛内閣陸軍大臣、北支那方面軍司令官、参謀総長、陸軍教育総監、小磯内閣陸軍大臣、第1総軍司令官など歴任。戦後、自決(杉山元 - Wikipedia参照)

*15:近衛師団参謀長、朝鮮軍参謀長、第5師団長(広島)、第4師団長(大阪)、台湾軍司令官、広田内閣陸軍大臣、陸軍教育総監、北支那方面軍司令官、南方軍総司令官など歴任(寺内寿一 - Wikipedia参照)

*16:参謀本部第一部長、陸軍省軍務局長、第2総軍参謀副長など歴任(真田穣一郎 - Wikipedia参照)

*17:参謀本部作戦課長、歩兵第65連隊長など歴任(服部卓四郎 - Wikipedia参照)