恐山からイタコが消えたわけは - 高世仁の「諸悪莫作」日記
記事タイトルの回答を書くと高世に寄れば「いわゆる口寄せは三密(コロナ感染を助長する問題行為)に該当し、イタコに高齢者が多いこともあって、口寄せの自粛要請が行政によってされてるが口寄せを否定したらイタコにはやることが無いから」です。まあ、そもそも三密に該当する口寄せをやりたがる観光客も少ないでしょうが。
高世仁に突っ込む(2020年10/7日分) - bogus-simotukareのブログで紹介した「天皇も任命拒否ができるかも」 - 高世仁の「諸悪莫作」日記の続きで先ずは「菅批判」です。
ここでの高世の「任命拒否説明がまともにできないなんて、正当性が無い恣意的な拒否と自白してるのも同然だ」は正論です。特に付け加えることもないので紹介は省略します。
しかしそれならば「蓮池透氏除名理由をまともに説明できない家族会」や「特定失踪者認定について、国内で何人、特定失踪者が発見されても『何故そのような過ちが生じたのか』『今後そのような過ちが生じないようにする再発措置は執らないのか』などまともに説明できない荒木和博」も同様に「(除名や認定が)恣意的だ」と高世は批判したらどうなのか?
いつもながら「恣意的な行為は批判する、但し救う会や家族会など高世がしがらみのある団体、個人は除く」の高世です。全くデタラメな野郎です。
下北半島といえば恐山に行くしかない。
あまり予備知識がなく、恐山という山に登るのかと思って行くと、そこは曹洞宗のお寺(恐山菩提寺)だと知った。
恐山菩提寺の院代(住職代理)の南直哉師が『恐山』(新潮新書)という本で、こんなことを書いている。
なお、南師は永平寺で長く修行した禅僧で、オカルトとはっきり一線を画している点に共感した。
死後の世界があるかないかという問題については、
「『あるか、ないか』と、はてしない議論をしても無駄だからやめておけというのがブッダの教えであります」
「仏教において、この類の話は大して重要ではないんです」
「必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするか。それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねば分かるだろうぐらいに考えればいい。これが仏教の公式見解だと私は思っています」と説いている。(P28~29)
賛成。
南直哉 (禅僧) - Wikipediaによれば「なおや」ではなく「じきさい」だそうです。まあ、本名が「なおや」でそれを僧侶の名前としては「じきさい」と読んでるのかもしれませんが(追記:コメ欄で指摘頂きましたが 南直哉 (禅僧) - Wikipediaに「直哉」が本名で「なおや」と読む旨、書いてありますね。お粗末で済みません)。
高世が紹介した『恐山:死者のいる場所』(2012年、新潮新書)以外にも
◆『日常生活のなかの禅:修行のすすめ』 (2001年、講談社選書メチエ)
◆『「正法眼蔵」を読む:存在するとはどういうことか』 (2008年、講談社選書メチエ)
◆『老師と少年』(2009年、新潮文庫)
◆『語る禅僧』 (2010年、ちくま文庫)
◆『自分をみつめる禅問答』(2011年、角川ソフィア文庫)
◆『なぜこんなに生きにくいのか』(2011年、新潮文庫)
◆『善の根拠』(2014年、講談社現代新書)
◆『刺さる言葉: 「恐山あれこれ日記」抄』(2015年、筑摩選書)
◆『「悟り」は開けない』 (2017年、ベスト新書)
◆『仏教入門』(2019年、講談社現代新書)
などの著書を「角川書店」「講談社」「新潮社」「筑摩書房」といった有名出版社から出してる売れっ子(?)で「仏教界ではそれなりの著名人」のようです。また、恐山あれこれ日記と言う個人ブログがあります。著書の内、『刺さる言葉:「恐山あれこれ日記」抄』(2015年、筑摩選書)は著書名から見て恐山あれこれ日記を元にしたモノでしょう。
「恐山住職」なのに南氏も面白い方ですね。しかし「死後の世界はオカルト(高世)」ねえ。高世に「じゃあダライ一味(チベット亡命政府)の転生霊童はオカルトなんですね!。あんなもん辞めた方がいいんですね!」と高世に聞いたらなんと答えてくれるのやら。たぶん黙りで逃げるのでしょうが。
さてこの「仏教は死後の世界があるとは一言も言ってない」というのは高世のお気に入りのネタらしく
死後はどうでもいいとブッダは言った - 高世仁の「諸悪莫作」日記
ブッダは心の医師 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
でもほとんど同じ事を書いています。死後はどうでもいいとブッダは言った - 高世仁の「諸悪莫作」日記、ブッダは心の医師 - 高世仁の「諸悪莫作」日記では南氏の名前は出てきませんが、おそらくその時点から高世は南氏のことも念頭にあったのでしょう。
これらの高世記事には以前
「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(11/24分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
死後はどうでもいいとブッダは言った - 高世仁の「諸悪莫作」日記
ブッダの逸話については詳しくは高世の文を読んでほしいと思います。
以下は俺の高世文章要約です。
仏典に次のようなブッダ(お釈迦様、ゴータマ・シッダッタ)の言行録があるそうです。
ある弟子がブッダに「あの世はあるのですか、生まれ変わりはあるのですか?」と聞いた。
そうしたらブッダは「そんなことは私にはわからない。そして分かったところで意味がない(注:あの世がないとはいっていません。「分からない(真偽不明)」というのは「ない」とは違います。もちろん「ある」ともいっていませんが)」といった。
何で意味がないのか?。
「お前には前世の記憶が、あの世の記憶があるのか?。『生まれ変わりがあるのですか?、あの世があるのですか?』と私に聞いているのだからないのだろう?。だったら、仮にこれから死後のお前に生まれ変わりがあっても、生まれ変わったお前にはそのときは今の記憶は全くないはずだ。だったらお前は今の経験を生まれ変わったときに生かすことは出来ない。だったら生まれ変わりの有無なんか知っても意味はない。そしてどっちにしろ生まれ変わったお前の人生は今のお前の人生とは関係ない。生まれ変わりがあっても今のお前の人生が幸せになるわけでも何でもない。幸せになるかもしれないのは、生まれ変わりとはいえ、『今のお前の記憶はない』、『赤の他人も同然』な人間だ。だったら今を一生懸命に生きる。それしかないだろう?。違うか?」と。
ひねりの全くない、直球ストレートな正論です。
「であるなら、死後の世界があるという仏教(日本仏教は全部そうじゃないか?)、生まれ変わりがあるという仏教(例:チベット仏教の転生霊童)はモノホンの仏教じゃないの?」
「チベット仏教の転生制度(転生ダライ・ラマ、転生パンチェン・ラマ制度)ってモノホンの仏教じゃないの?。」。
うーん、論理的にはそういうことになるんでしょう。そのあたり「ダライを褒め称える」高世に聞いたらどう答えてくれるのやら。あるいはI濱女史、id:Mukke、阿部治平といった「ダライ盲従主義の方々」の方々にこの話の感想を聞いたらどう答えてくれるのやら。
しかしこの高世の主張が事実なら仏教は通常の宗教とは異質な気がします。
「死後の世界なんか考えても意味がない」なんてまるで儒教の「怪力乱神を語らず」や「マルクス主義などの無神論」、あるいは伊藤栄樹元検事総長の著書名『人は死ねばゴミになる』(1998年、小学館文庫)のようです。
もちろん「儒教やマルクス主義に似てる気がする」といっても「ということは儒教文化圏のマルクス主義=日本、中国、北朝鮮、ベトナムの共産党はモノホンの仏教に親和的」「つまり中国共産党の方がダライ一味よりもモノホンの仏教に近い立場にある」なんて馬鹿なことは言いませんので念のため。
それにしても「仏典にそういう話が出てくる」なら明らかに「死んだら悪人は地獄に行って善人は極楽浄土に行く(日本仏教)」云々とか、「チベット仏教の転生霊童」など「後世のでっち上げの訳」です。でもそういうことがまかり通るのは、いかに人間(特に過去の人間)に「死んだらおしまいなんて嫌だ、こんな人生で終わったら惨めだ」つう思いが強いかと言うことです。「今だって不幸な人は不幸ですが」、どこの国でも、昔は貧乏人は「ろくに食べ物も食えず、働きずめに働いて、それでも経済的貧困にあえいで死ぬ」ことが多かったわけです。そうした人々にとっては「死後の世界なんかあるか分からない、分かったって今の人生にとって意味がない。大体生まれ変わりがあったって、生まれ変わる前の記憶がないんじゃ別人と同然じゃん。そんなん意味あるの?。生まれ変わったときに幸せになれる保証もない」つう「仏陀の正論」は「そりゃそうかもしれないけどそんなのは嫌だ」「生まれ変わりの記憶がなくたって、今の人生と関係なくたって『生まれ変わったら幸せになれるかもしれない』と思うだけでも今の人生が楽になる気がする」のわけです。
世の中は『人は死ねばゴミになる、でもゴミになるまでは一生懸命生きていこう』と達観できる伊藤元検事総長のような人ばかりではない。
・しかし、「高世の紹介する話」が事実なら皮肉にも伊藤氏の生き様こそが「真の仏教だった」わけです(伊藤氏は死後の世界を明確に否定し、仏陀は死後の世界があるか、不明としている点は違いますが、いずれも「死後の世界」を重視しない点は同じです)。
それはともかく「伊藤氏のような人は少ない」ので、「真の仏教が世間に受けない」その結果、「仏陀の教えを説いても『えー、死後の世界や生まれ変わりがあるか分からないの?。じゃあー死んだらそれで終わりかもしれないの?。嫌や、そんなん』つうことで全然受けない。信者がいないと教団がやっていけない。死後の世界はあることに、善人は極楽に行って悪人は地獄に行くことにしよう」つうことで仏教が「原理原則から外れていった」のでしょう。
つまりは仏教の原理主義(初心に返ること、原理原則に戻ること)は「死後の世界や生まれ変わり(輪廻転生)を否定すること」ですね。
「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(11/24分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
ブッダは心の医師 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
・高世の指摘が事実ならブッダは完全なリアリズムです。
「今のつらさの原因を突き止めそれを克服するのが私の教えだ」。
「今克服するのだから、死んだ後、生まれ変わって幸せになっても『今とは関係ない』。そもそも生まれ変わりがあるかどうかもわからない。仮に生まれ変わりがあっても、生まれ変わったときにどんな風に生まれ変わるかも分からない。当然、今の時点で『生まれ変わりの準備』なんか出来ない。だから生まれ変わりのことなんか、考えても無駄だ」
なるほど全く道理です。ただこれに精神的についてこれる人ばかりではない。
特に昔なんか「奴隷に生まれたら経済的に貧乏だわ、差別を受けるわ」でしょう。
そういう人間に「現世で幸せになることを考えよう、生まれ変わりなんかあるか分からないから(正論だと思いますが)」つうても「奴隷の俺がどうやれば幸せになれるンすか!。なれるわけないでしょう。あんたは、元シャカ族の王様つう恵まれた立場だからそんな脳天気なことがいえるんすよ。いいすよ、あんたの仏教と言う思想なんか受け入れないから。生まれ変われば幸せになれるかもしれないつう教え(ヒンズー教?)を支持します。現世で幸せになることはもう諦めてますから」つうことになりやすいでしょうね。
だからこそ「生まれ変わり」という考えがブッダの考えをゆがめる。
あるいは「現世での幸せになる方法を考えよう」という「モノホンの仏教」はおそらく「仏陀はアドバイスするだけ」「考えて解決するのは当事者の自分」「他人のアドバイスや協力を得てもいいが、結局自分が努力しないといけない」わけです。
たとえて言うなら「ラーメンが食べたかったら自分で作るか、ラーメン屋に行け、お経をあげてもラーメンは出来ない」「病気になったら病院に行きなさい、お経を上げても(以下略)」というような話です(例は何でもいいですが)。ラーメンならある意味どうでもいい。別に食べなくてもいい。しかし「不治の病で余命幾ばくもない」「失業して生活保護を受けてる」「息子が非行で何度も警察の世話になってる上、妻が寝たきりで介護をしている」とかそういう困難に立ち向かえと言ってもそれは楽なことではない。
それならば、後世のでっちあげだろうと「南無阿弥陀仏と念仏すれば、南無妙法蓮華経と題目を挙げればOK」の方が楽なわけです。
そして「これがモノホンの仏教」ならモノホンの仏教は「マルクス主義」と何ら矛盾しない。何せ神やあの世など、神秘的なものが何一つ出てこないで、「仏陀が経験したこと」しか「仏陀の教え」の前提に出てこないし、基本的には「自分で努力しなさい」が教えの根本の訳ですから。
まるでデカルトの「我思う、故に我あり」の仏陀版ですね。
・高世の指摘が事実なら、つまりは「輪廻(死後の世界や生まれ変わりのこと)」は仏教の考えとは全く関係ない。それどころか「輪廻なんて考えるだけ無駄だ。今のことだけ考えろ」という考えが「仏教」だったのだという衝撃の事実ですね。チベット仏教も、少なくとも転生霊童は明らかに「モノホン仏教からの逸脱」ですね。
とはいえ「当たり前のこと」ですが、「正しい、正しくない」と「受け入れられるか、受け入れられないか」は別問題です。
「輪廻なんて考えるだけ無駄だ」という考えは「仮に正しいにしても」、世間の多くの人間には受け入れられなかったわけです。
横田の奥さんが「めぐみさんは死んでる可能性が高い。そんなことにこだわるよりウンギョンさんと彼女の産んだ赤ちゃんに会いなさい。あんた、ウンギョンさんの祖母でしょ?」という「正しい事実認識」を受けいられないのと同じです。
あるいは「米国と戦争しても負けるだけだ。ドイツに過剰な期待をするのはリスキーすぎる」という「正しい事実認識」が否定されて日本が太平洋戦争に突き進んだのと同じ事です。
「正しければ受け入れられる」のなら苦労しない。だから「良薬は口に苦けれども病に利あり。忠言は耳に逆らえども行いに利あり(孔子)」のわけです。
ブッダの「輪廻なんか考えるな」という良薬は「苦いが故に受け入れられなかった」わけです。
・しかしこの「高世が紹介する」仏陀の考え「結果が大事だ」は「中国最高指導者だったあの人(故人)の考え」によく似ています。
そう「黒猫でも白猫でもネズミをとるのが良い猫だ(いわゆる黒猫・白猫論)」といって文革終了後、改革開放を推進したトウ小平です(黒猫、白猫は資本主義、共産主義のたとえで、『ネズミを捕る』が経済成長のたとえ、です)。
・そういう意味では仏陀的には横田奥さんはウンギョンさんともっと会うべきですよね。「輪廻の存在は分からない、分かったところで対応のしようがないから意味がない」のと同じ(?)で「めぐみさんが生きてるか分からない。ウンギョンさんに会わなければめぐみさんの生死が分かるわけでもない」ですから。つうか「輪廻の存在が分からない(あるという根拠がないから)」のと同じ(?)で「生きてるつう根拠ない」んだから「めぐみさんの生死」なんか考えるだけ無駄ですよね。とりあえず「死んだつう最悪の想定」しといた方がよくないすか?
て俺が聞いたらどう答えるんですかね、高世は。たぶんだんまりで逃げるんでしょうけど(苦笑)。
しかしこうなると「ブッダは心の医師」かどうかはともかく一般的な宗教とはやはりかなり異質な気がします。
などとコメントしました。
id:Bill_McCrearyさんからは
>死後はどうでもいいとブッダは言った
どうも面白い記事の紹介および面白い記事ありがとうございます。たしかにここでの仏陀の教えは、きわめてストレートでかつ合理的、あいまいさもない明快なものですね。これに対する賛否はともかく(私は賛成しますが、賛成しかねる人も大勢いるはず)、けっきょくそういう教えが、後世の人の考えでいろいろ都合よく(?)捻じ曲げられたっていうことなんでしょうね。そう考えると親鸞やプロテスタントはよりラジカル、原点にもどるということはあるのでしょうね。
いずれにせよ、この仏陀の教えが事実なら、輪廻転生とか転生霊童なんて馬鹿らしいにもほどがあるということですね。もちろんこの記事が根本的に間違っているという可能性はありますが、どちらにしても転生霊童なんてとてもこれからの時代にやっていけるものでもないでしょう。やっていくべきものでもない。
でも仰せの通り、教授やどっかの馬鹿やid:noharraさん、阿部治平氏らにこういう話をして、「どうなんでっしゃろ」と聞いたら怒り出すんでしょうねえ。それも聞いた人間に怒り出すんでしょうから、こういう人たちはまったく始末に負えません。
という「記事を書く励みになるコメント」を頂いています。
さてこの機会に南氏のブログ記事をいくつか紹介してみます。
「輪廻」は無駄 - 恐山あれこれ日記2015年07月20日
最近、またしても私に「お前は輪廻を認めないのか」と迫ってくる人がいるので、あえて再度申し上げます。
だいたい、終始一貫した同一性を保つ「霊魂」みたいな、アイデンティティーを保証する何ものかが「生まれ変わり死に変わりする」という言い方・考え方は、どう見たって、無常・無我・無記・縁起をキー・コンセプトにする仏教のとるところではありません。
ある神父さんが、「人類の圧倒的多数が前世を何も覚えていなくて、ごく稀な人にしか記憶がないなら、(ボーガス注:輪廻が仮にあるとしても)輪廻なんて教えは説いても無意味でしょう?」と言っていましたが、その通りです。
仏教において、最もユニークにしてオリジナル、そして決定的に重要な教説は、無常・無我・無記・縁起であり、「輪廻」説は余計である上に理論的に無理筋で、無くて構わないし、無い方がよいのです。
では、理論的に維持するのが無駄な「輪廻」説が、なぜ仏教に引き込まれて残存し、それどころか仏教の重要教説のような顔をして今なおのさばっているのでしょうか。
理論的に余計なものが存在し続けるのは、実践的な需要があるからです。
まず考えられるのは、人間に善悪を強制する道具としての意味です。善行を課し、悪行を禁じるとき、脅迫と利益誘導の手段として、「輪廻」のアイデアを使うのです。
「善いことをすれば、良いところにうまれるよ。悪いことをすれば酷いところに生まれるよ」
このような取り引きレベルの話は、所詮世間の問題です。つまり、当時の在家者に生きている間の「処世術」として説く必要があったし、その需要もあったから、当時のゴータマ・ブッダ教団は「輪廻」説を必要と需要の範囲で使ったのでしょう。
だとすれば、こんなものを未だに我々が引き継いでいることは、著しく志の低い話です。理論的に無駄な「輪廻」説など放擲して、仏教は仏教でオリジナルな倫理説、善悪観を提出すればよいのです。私は、この倫理をめぐる議論が、今後仏教の中から数多く現れることに大なる期待を持っています。
もう一つ、「輪廻」説の実践上の需要は、非常に切実でとくに苦しい境遇にある人、たとえば人種や民族、身分や心身の障害など、生まれ・出自によって差別されたり抑圧されたりしている人が、自分の在り方を自己肯定する必要がある場合と、別の誰かが彼に自己肯定させようとする場合に、顕著に出てきます。
つまり、「なぜ自分は今、これほどつらい境遇にあるのか。どんな理由があるのか」という疑問に答える理屈として、需要があるわけです。
自己の実存に対して理由や根拠を求める欲望というのは、人間にとっては致命的なことでしょう。それがつらい実存状況なら尚更です。そのとき、「輪廻」説というのは、非常に耳に入りやすいのです。
そして、この辛い境遇をその当事者に黙って甘受させたいと思う第三者にとっても、これは非常に便利な理屈です。つまり、その境遇は「自己責任」だと言って放置できるからです。
ということは、「輪廻」説は、「社会的強者」が「社会的弱者」を支配し・隷属させるイデオロギーとして、重要な役割を果たし得るわけです。インドにおいて、「カースト制度」が「輪廻」説とがっちりセットになり、かつて「強制隔離」措置の対象となった「ハンセン氏病」が「天罰」や「前世の因縁」で説明されていた(私はハンセン病治癒者から体験談を直接聞きました)ことを思えば、すぐにわかる話です。
だったら、「カースト制度」に反旗を翻した仏教が、「輪廻」説を後生大事にしている理由はいささかもありません。
ゴータマ・ブッダ自身が生前説いていようといまいと、これは仏教にとって本筋の教えでも大事なアイデアでもありません。「輪廻」説は仏教に要りません。我々はまさにそれから「解脱」すべきでしょう。
輪廻(輪廻転生)とはもちろん「死後の世界」「生まれ変わり」ですね。これでもわかるように高世が言うように南氏は
◆「死後の世界」「生まれ変わり(例:ダライ一味の転生霊童)」は仏教思想では無い
◆輪廻を論じることは無価値だと仏教者は明言すべきだ
と明言しています。
「理論的に余計なものが存在し続けるのは、実践的な需要があるからです」。まあ確かにそうですね。
「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(11/24分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ
ただこれに精神的についてこれる人ばかりではない。
特に昔なんか「奴隷に生まれたら経済的に貧乏だわ、差別を受けるわ」でしょう。
そういう人間に「現世で幸せになることを考えよう、生まれ変わりなんかあるか分からないから(正論だと思いますが)」つうても「奴隷の俺がどうやれば幸せになれるンすか!。なれるわけないでしょう。あんたは、元シャカ族の王様つう恵まれた立場だからそんな脳天気なことがいえるんすよ。いいすよ、あんたの仏教と言う思想なんか受け入れないから。生まれ変われば幸せになれるかもしれないつう教え(ヒンズー教?)を支持します。現世で幸せになることはもう諦めてますから」つうことになりやすいでしょうね。
と以前俺が書いたとおりです。
やりくり問題 - 恐山あれこれ日記2020年09月20日
いわゆる「初期経典」に、ゴータマ・ブッダの言葉として、修行僧の生活を語る一節があります。そこには次のようなことが書かれています。
「比丘は、わずらわしいことが少なく、すべき作業が少なく、扶養しやすく(質素であり)、生活必需品においてよく満足している」
ここで問題なのは、このような生活を維持する手段、具体的に言えば資金を、どう確保するかでしょう。しかも比丘は原則として個人ではなく、集団で生活しているわけですから、かなりのコストがかかるはずです。
とすると、この「わずらわしいことが少なく、すべき作業が少なく、扶養しやすく(質素であり)、生活必需品においてよく満足している」生活をするために、かなりの努力と配慮をして、自分たちの生活の意味と価値を世間(パトロン)に認めてもらい、資金を出してもらわなければなりません。
つまり、静かで質素な生活をするためには、随分な努力をせざるをえず、それには結構わずらわしく、すべき作業も多いことでしょう。道元禅師が弟子に語ったことの中には、信者からもめ事の仲裁を求められたら、どちらかに一方的に肩入れせず、当事者がよく話し合うように言って聞かせよ、というような教えもあるのです。結局、修行僧の生活も、世間の人々と同じように、面倒に満ちているというわけです。
出家在家にかかわらず、所詮やりくりの問題からはこの世で解脱し切れないとすれば、聊か寂寥を禁じ得ないながら、決してこれを軽んずることなく、問題に正面から取り組む覚悟を決めるほかありません。あくまでも、それが己れの志を護持する土台なのです。腹の話を馬鹿にして、頭の話はできません。
「腹の話を馬鹿にして、頭の話はできません。」という南氏の落ちは要するに経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
「経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ」の実例(追記あり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
「経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ」の実例(オランダ編) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
「経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ」の実例(日本の自治体編) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
「経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ」の実例(英国・インド編) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
「経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ」の実例(ハリウッド編) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
「経済のほうが政治よりよっぽど現実(実状)に正直だ」の実例(ボーイング・エアバス編) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)ということですね。
あるいは
過度の仏教信仰やダライ・ラマ崇拝はけっきょくチベットに不幸をもたらしたと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(腹の話を馬鹿にして、頭の話をしたがったことでチベットは不幸になったと思う)
インドで亡命生活60年の人と中国政府のもとで働いたその兄弟とでは、明らかに兄弟のほうがチベットの人たちの役に立っている(ほかに学校のことなど) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)ということですね。
Mukke風に言えば「ノルウェーに霞を食えとは言えない(明らかに失言であり、当人も後で恥ずかしくなったのか、奴のはてなブログは今やプライベートモードです)」と言う話です。ええ、俺はしつこい性格なので今後もMukkeにはこうした嫌みを言うつもりです。
それはともかく南氏が何でこんなことを言ったか。それはやはり「腹の話を馬鹿にして、頭の話をしたがる輩(しかもそうした言動を仏教的で哲学的と思ってる輩)」に南氏が「うんざり」ということでしょう。I浜Y子女史なんかその典型じゃ無いか。
やはりダメだ - 恐山あれこれ日記2017年5月30日
オリンピックが東京開催に決まった直後に、このブログで言ったとおり、やはりこのオリンピックはダメだ。
本音が「経済成長」、つまり金儲けであるにもかかわらず、東京とまるで関係ない震災の「被災地復興」を看板に持ち出して誘致するなどという、邪なやり口で始めておいて、まともなオリンピックになるわけがない。
成る程という大義名分も理念も持ち合わせないから、人心が収攬できないし、共感も醸成できない。案の定、決定直後から粗末な不手際が続き、未だに金でもめている。
都周辺で競技会場を予定されている県が揃って費用負担を忌避するのは、県民を説得する自信が全くないからであり、それは結局、説得的な理念、人心が帰趨する大義名分が欠落しているからだ。
「正にこういうわけで、誘致したオリンピックです。ぜひ、県としても協力したいのです」
「そうか。だったら我々も一緒に頑張るか」
こういう流れになるには、真っ当な理由が必要なのだ。「復興五輪」というなら、最低限、開催までに仮設住宅を全部無くし、福島の原発廃炉と郷土での生活再建に目途をつけなければならない。その上で、
「あのとき、支援をいただいた世界の皆様に、御礼を申し上げ、復興の状況を見ていただくために、国を挙げて東北にオリンピックを呼ぼう」
せめてこの程度のことを言うのが、「まともな大義名分」というものだろう。それもできずに「復興五輪」など、片腹痛い。
それに、今やオリンピックは政治的に悪用されている。
(ボーガス注:安倍首相によって)杜撰で拙速な改憲議論の期限を切る理由にされるようなオリンピックは、もはや有害である。
言論・表現・思想・信条・結社の自由を確実に護持することの重要性に比べれば、オリンピック開催などものの数ではない。国家の基本的な枠組みを決める法律を議論することは、オリンピックとまるで無関係な話で、こんな時にこんな話が持ち出されるなら、オリンピックの方を切るべきなのだ。
このオリンピックは、行う必要がない。このままではおそらく、一時の気晴らしの後に、大きなダメージが残って終わる。まだ遅くない。恥を忍んで返上するのが、賢い選択というものである。
「返上論」はともかく「五輪の政治利用」への批判は全く同感ですね。
注目の人 - 恐山あれこれ日記2016年9月10日
現天皇が即位した年、私は5年目の修行僧でした。
私はこの人物の折々の発言にずっと注目してきました。
最初に驚いたのは、即位直後に「憲法を守り」と言明したことです。
たしか中学か高校で憲法全文を初めて読んだとき、まず疑問に思ったのは天皇の「象徴」としての地位が「国民の総意に基づく」として、その総意をどうやって確かめるのか、ということでした。
明治憲法は天皇が天皇である根拠を「万世一系」に求めている以上、民意なぞ無関係だが、「国民の総意」となればそうもいくまい。しかし、現憲法には「総意」を確かめる規定は何もない。これは問題ではないのか。ある意味、危うくないか。
問題を解消するには、現憲法が機能しているのは国民の支持があるからであり、これを守ると宣言することで憲法の内部に自己の地位を位置づけ、それによって「総意」を得たことにする、という方法がある。現天皇はそう考えたのではないか。つまりこの人物はその最初から、「戦後民主主義」における自らの立場をそれまでのものとは全く別なものだと極めて鋭く意識して、である以上は新たな根拠づけの必要があることを痛感し、それを独力で始めたのではないか。
1991年、雲仙普賢岳災害地の「慰問」以来、被災者の前に膝まづくという型破りな方法に出たのも、この「総意」を強化することの重要さを十分すぎるほどわきまえていたからでしょう。
次に驚いたのは、2001年に「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だと続日本紀に記されている」とコメントしたことです。
私は新聞でこの発言を見た瞬間、現天皇は、近い将来日本は相当規模の移民の受け入れを余儀なくされ、本格的な多民族国家((ボーガス注:アイヌや在日朝鮮・韓国人がいるので)現在も「単一民族国家」ではないが)になるだろうと予見しているのかと思いました(ボーガス注:是非はともかく、安倍の入管法改定で日本は明らかにそちらにシフトしたし、既に現時点でも『秋葉原などでの中国人観光客の爆買い』『川口・芝園団地の中国人』『静岡県浜松市や群馬県太田市、大泉町の日系ブラジル人出稼ぎ』などでわかるように『昔に比べればかなり国際化している』)。そうなった時の皇室と天皇制の在り方さえ考えているのか。(ボーガス注:将来、皇太子が外国人と結婚し)人種や民族が異なる両親を持つ天皇が誕生する可能性を見ているのだろうか。つまり、多民族国家時代を「象徴」する天皇です。
「雲仙でのひざまずき」が「異例の行為」であることについては拙記事新刊紹介:「歴史評論」11月号(追記あり) - bogus-simotukareのブログで紹介した記事も
平成皇室は「皇太子への憂鬱」から始まった | 文春オンライン
■河西秀哉*1(神戸女学院大准教授*2。象徴天皇制を研究)
昭和の時代、明仁皇太子(当時)が福祉施設を訪れたときの新聞記事を見ると、立ったままで少しぎこちない様子に見える写真が載っています。その一方で、ベッドに横たわっている人に顔を近づけて、話しかけているのは美智子皇太子妃(当時)なんですね。
「雲仙・普賢岳被災者のお見舞い」(1991年)では、はじめて天皇皇后としてひざをついて、 避難所で生活する被災者に語りかけました。この時はまだ手探りであったと思いますが、その後様々な場所への「お見舞い」を経る中で、次第に現在のスタイルが確立します。私は、お二人が一緒になって公務に取り組むうちに、だんだんと明仁天皇が慣れていったのではないかと考えています。
平成の天皇と皇后 昭和の残像を乗り越え :日本経済新聞(編集委員 井上亮*3)
・1991(平成3)年7月10日、天皇、皇后両陛下は長崎県の雲仙・普賢岳噴火の被災者を見舞うため、島原市などを日帰り訪問された。
・避難所で床に膝をついて被災者に言葉をかける両陛下。同じ目線で人々に寄り添う「平成流」の始まりとして"伝説"となっている。
・ただ、当時注目されたのは「膝をついてのお声かけ」よりも、ノーネクタイでワイシャツを腕まくりした天皇陛下の姿だった。天皇はどんな場でも国民の前ではスーツの正装というイメージを覆した。
天皇と国民の距離を一気に縮めたこの被災地訪問に対して、称賛と同時に「天皇らしくない」と昭和時代を知る宮内庁関係者から批判があったことも定説化している。
平成の皇室の象徴「ひざまずき」のスタイルはいかにして生まれたのか? (2/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)(放送大学教授・原武史*4)
(ボーガス注:明仁・美智子夫妻の)最初の本格的な地方視察は、1961年の長野県行啓であった。この行啓で早くも、同時代の昭和天皇と香淳皇后の行幸啓との違いが明らかになる。穂高町(現・安曇野=あずみの市)の養護老人ホーム「安曇寮」を訪れたとき、美智子妃がひざまずいたのだ。
「美智子さまは、タタミにヒザをおろし、室内の鈴木まさえさん(68)、中村たつさん(73)らと顔をよせるようにして『ここへきて何年になります。町へもときどきは出かけますか』などご質問。耳の遠い老人たちがぽつぽつお答えすることばに、やさしくうなずいておられた」(「信濃毎日新聞」1961年3月28日)
当時の写真を見ると、ひざまずいているのは美智子妃だけで、皇太子は立っている。昭和天皇と香淳皇后も福祉施設を訪れることはあったが、ひざまずくことはなかった。皇太子は「昭和」のスタイルを踏襲していたのに対して、美智子妃はこの時点で早くも「平成」を先取りしていたのだ。
(中略)
美智子妃が始めたスタイルに、皇太子も従うようになるのだ。
と指摘しています。
これについては俺は
新刊紹介:「歴史評論」11月号(追記あり) - bogus-simotukareのブログ
昭和天皇と明仁氏の違いとして『膝をつく』『行幸先での会話』と言うことを挙げたいと思います。
行幸先での会話についていえば昭和天皇をネタにしたギャグで「あ、そう」というネタがあるほど、彼は無愛想でした。そこには『失言してはならない』という縛りだけでなく『権威を保つには安易に語るべきではない』という考えがあったように思います。
しかし(中略)当たり障りのない社交辞令が多いとは言え、明仁天皇夫妻は昭和天皇よりも「会話に努め」フレンドリーな雰囲気を演出しようとしています。
『膝をつくこと』ですが、おそらく死ぬまで「国家元首意識」が抜けなかった昭和天皇にとって「赤子の前」で膝をつくことなど論外だったでしょう。しかし明仁氏は象徴天皇制を維持するにおいては『近寄りがたい権威』よりは『親しみやすい関係』を重視しているように思います。その立場からすれば『膝をつく』ことはむしろ国民の目線にたち、信用を得ようとするための当然の行為と言えるでしょう。
とコメントしました。いずれにせよ前天皇が「彼なりに天皇制の将来を考え色々と行動していた」興味深い人物であることは確かでしょう。
皇太子時代には
平成の天皇と皇后 昭和の残像を乗り越え :日本経済新聞(編集委員 井上亮)
1976(昭和51)年、ある新聞に「皇太子殿下=パ・リーグ論」という記事が掲載された。実力はあるが人気の面でセ・リーグに後れを取るプロ野球のパ・リーグになぞらえ、「真面目で堅実だが、将来の天皇としてはいまひとつ」という評価だった。
昭和一けた世代の作家、半藤一利さん(87)は「私たちの年代の人間は、皇太子時代の天皇陛下に対して、大丈夫かな、という印象があったのは確か」と述懐する。
とも評価された明仁氏ですが、天皇就任後の行動は「皇太子時代の控えめな言動は父である天皇を立てていただけではないか」と思われるほど、異例のモノだったかと思います。
悪態です3 - 恐山あれこれ日記2015年06月30日
6月の中旬、自衛隊の士官の人たちが恐山に来られました。
中に入ってきたのは、女性の士官でした。自衛官というと女性でも「偉丈夫」を想像するところですが、入ってきたのは、見たところごく普通の女性でした。
彼女は、しばし周りを見まわして、おもむろに受付に近づいてくると、和尚さんに
「あの・・・、ここでは、ご祈祷というか・・・、ご祈願というか、そういうものをしていただけるんですか?」
「はい、しますよ」
「それは、その、世の中の平和とか、そういうものも、いいんでしょうか?」
「はい、結構です。で、どのようにお札に書きますか?」
「え・・・・、それ、どうしたらよいでしょうか、わからなくて」
「じゃ、こちらの宗派でそういうときにご祈祷する、『国土安穏 万邦和楽』ではどうでしょう?」
「どんな意味でしょうか?」
「この国に人災や天災、戦争や紛争も無く、人々が安らかで、また世界の国々がみな平和で楽しくあるように、ということですね」
そう聞いて、彼女ははじめてにっこり微笑みました。
「はい。それでお願いします」
地蔵殿で行われたご祈祷の間、読経を聴きながら彼女は身じろぎもせず、真っ直ぐお地蔵様の姿を仰いでいたそうです。
「ああいう人も、この先戦地に行くことになるんでしょうか・・・」
お参りを終え、他の士官に合流して門から出ていく彼女を見送りながら、ある和尚さんが小さくつぶやきました。
ここから、悪態です!
あのなあ、とりあえず安倍政権と自民党と公明党。
議員が地元でまともに説明できず、学者のほとんどが「違憲だ」とソッポをむくような、いたるところ穴だらけの粗末な法律を押し付けて、彼女のような若者たちを本気で戦地に送り出すつもりなのか?
「憲法違反」してまで集団自衛権を行使するのと引き換えに、沖縄から基地をなくす交渉をしようというなら、まだ話の筋も通るかもしれない。それもできずに、ただひたすらアメリカに追従しながら、なぜ沖縄の人々をこうも軽視するのか? 「美しい」「取り戻す」日本に、沖縄は入っていないのか?
不思議だ。いったい、安倍政権は何を「保守」したいんだ? 具体的に何だ?! まさかアメリカと株価と権力か?
これまたほとんど異論は無いですね。
レオはきらいだ。 - 恐山あれこれ日記2015年03月30日
手塚治虫の偉大さは、今更私が云々するまでもありませんが、それにしてもなぜ、彼は「文化勲章」とか「国民栄誉賞」とかの対象にならなかったのでしょう((ボーガス注:受賞者で漫画家の長谷川町子など)他の受賞者の業績と比較して、どこに遜色があるのでしょう)。
こう言った上でなお、私は手塚漫画の代表作(中略)「ジャングル大帝」が嫌いなのです。
レオが嫌いだったのは、レオが草食動物を友人としながら、彼がものを食べる場面がまったく出てこない矛盾でした。しかし、手塚はこのことを決して無視しませんでいた(そこが、エライ!)。驚くべきその回答は「動物食堂」というアイデアで、そこでは肉食動物が、別の動物が拾ってきた肉を「物々交換」で手に入れていたのです(たしか、そういう場面があったと思います)。
この「動物食堂」は発想としては面白いけど限界がありますよね。
まず第一に「拾ってきた肉は何で肉になったのか」。病死や事故死ならともかく「誰かが殺した」のなら「レオやレオの仲間である肉食動物が手を下してないだけ」の話です。それでいいのか。
第二に「たとえ病死や事故死でも、道徳的(?)に食っていいのか」つう話も出てきます。極端な話、病死や事故死なら我々はペットを食えるのか。まあ大抵のペット(インコやカナリア)は食用ではないので「食べてもまずいので」食いませんがそれ以前の話です。人情的にそんなことはありえないわけです。
あるキリスト者の肖像 - 恐山あれこれ日記
彼はとてもキリスト教の信者には見えない人でした。そもそも、普段の話にキリストも神もまるで出てこないのです。
驚くべきはその読書量で、ナイーブな「キリスト教信者」からすれば「冒涜的」「背教的」、そうでなければ「無神論的」と思われるような書物まで読んでいて、話していると博覧強記ぶりに圧倒されることがあります。
あるとき、私は尋ねてみました。
「正直なところ、君は神を信じているのか?」
「当たり前だろ」
「では、神は実在すると?」
「そんなことはどうでもいい」
「えっ?」
「私が信じているのは、神の実在ではない。神の実在を前提として組み立てられた思想と実践が、人間や世界を考えたり理解したりする上で、自分にとって最も有効な方法だ、ということだ」
「それは信仰と言えるのか?」
「つまらない質問だな。そんなことは言葉の定義の問題にすぎない」
「では質問を変える。君は神に祈っているか?」
「もちろんだ」
「何を祈っているんだ?」
「君は私に、神に何を祈っているのかを訊きたいのだろう。ところが私は神に対しては何も祈っていない。そうではなくて、祈ることで神を実在させているんだ」
私には、彼を「キリスト教信者」と呼ぶには聊か違和感があります。しかし、彼はまぎれもなく「キリスト者」だろうと思います。私は彼の「在り方」に深く共感するものです。
発想としては鄧小平の「白猫黒猫論」に近いものがあるように思います。
*1:著書『「象徴天皇」の戦後史』(2010年、講談社選書メチエ)、『皇居の近現代史:開かれた皇室像の誕生』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『明仁天皇と戦後日本』(2016年、洋泉社歴史新書y)、『天皇制と民主主義の昭和史』(2018年、人文書院)、『近代天皇制から象徴天皇制へ』(2018年、吉田書店)、『平成の天皇と戦後日本』(2019年、人文書院)
*3:日経新聞で皇室担当記者を長く務め、2006年にいわゆる富田メモをスクープし、2006年度新聞協会賞を受賞。著書『天皇と葬儀:日本人の死生観』(2013年、新潮選書)、『昭和天皇は何と戦っていたのか:「実録」で読む87年の生涯』(2016年、小学館)、『天皇の戦争宝庫:知られざる皇居の靖国「御府」』(2017年、ちくま新書)、『象徴天皇の旅:平成に築かれた国民との絆』(2018年、平凡社新書)
*4:皇室関係の著書として『昭和天皇』(2008年、岩波新書)、『「神々の乱心」を読み解く:松本清張の「遺言」』(2009年、文春新書→後に『松本清張の「遺言」:『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く』と改題して2018年、文春文庫)、『皇居前広場』(2014年、文春学藝ライブラリー)、『大正天皇』(2015年、朝日文庫)、『「昭和天皇実録」を読む』(2015年、岩波新書)、『皇后考』(2017年、講談社学術文庫)、『〈女帝〉の日本史』(2017年、NHK出版新書)、『平成の終焉:退位と天皇・皇后』(2019年、岩波新書)、『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(2019年、潮新書)