高世仁に突っ込む(2020年10/12日分)

現代における冒険とは - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 現代における冒険とは何か。
 冒険論の論客といえば、探検家・作家の角幡唯介さん*1の名が挙がるが、NHKの「視点・論点」という、各分野の権威とされる人が10分間話をする番組に出演していた。

 で、「高世文章の引用」は省略しますが、高世に寄れば角幡氏は「現代は冒険(少なくとも地理的な意味での冒険)が難しい時代だ」といったそうです。これは本多勝一氏も著書『冒険と日本人』(1986年、朝日文庫)、『植村直己の冒険』(編著、1991年、朝日文庫)で同様のことを言っていたような気がします(なお、俺は未読ですが本多『本多勝一、探検的人生を語る』(2012年、新日本出版社)、『日本人の冒険と「創造的な登山」』(2012年、ヤマケイ文庫)と言う著書もあるようです)。
 何で難しいのか。
 まず第一に「北極点到達(ロバート・ピアリー)」「南極点到達(ロアール・アムンセン)」「エベレスト登頂(エドモンド・ヒラリー)」のような「未踏の地への進出」のようなわかりやすい冒険が出来ない。
 「グーグルアース」云々と角幡氏は言ったそうですが、今やどこにも地理的な意味では「未踏の地」なんてもんはありません。そうなると「今まで誰も登ったことが無い難しいコースでエベレスト登頂」のような変化球も出てくるわけですが「でも、もう既に登ってるんじゃん」「コース変えた程度で冒険なの?」といえば「言えなくも無い」。
 まあこの辺りは「何を冒険と考えるか」という定義の問題ですけれども。
 第二に、これは『植村直己の冒険』で確か、本多氏も指摘していたことですが「現代の冒険は商業化している(事が多い)」。
 植村の冒険なんかわかりやすい例です(あるいは『当人にそれほどの登山能力があるとはとても思えない』と言う意味でかなり『特異ですが』栗城史多なんかもそうでしょう)。
 是非はともかく*2、「初期はともかく」晩年の植村の「冒険」は明らかにマスコミとタイアップしていた。
 これも「冒険とは何か?」と言う定義の話ではあるんですが、本多氏や角幡氏、あるいは「角幡氏に共感するという高世」においては「冒険の要素」で「重要なこと」は「失敗したっていいじゃないか」「日常や常識からの逸脱」、あるいは「自主性」とかそういうことのようです。
 ところが植村のように「商業化してしまう」と「成功が半ば義務づけられてしまう」。マスコミの方は「失敗しても構いませんよ」なんて考えでは無い。「植村の成功」を大々的に報じて金儲けすると共に「そんな植村さんを支援したのは我々です」と宣伝するために植村とタイアップしてるわけですから。
 マスコミの植村報道を見ている方(読者や視聴者)だって「植村さんの好きにやって下さい。失敗したって構わない」なんて人間ばかりでは無い。むしろそんな人間は少ないんじゃ無いか。
 こうなると「失敗したっていいじゃないか」とか「日常や常識からの逸脱」とか「誰がなんと言おうが俺のやりたいようにやる」とか、そういうわけにいかない。「映画に出資する金主」みたいなもんで「今回の冒険に失敗したら次は植村にはカネ出さないから」なんて話になっている。「植村に自主性が全くなかった」とは言いませんが「もはや植村の100パーセントの自主性なんかありえない」。
 まあ、植村だって「失敗したっていいじゃないか」とか「日常や常識からの逸脱」とか「誰がなんと言おうが俺のやりたいようにやる」とかそう言う思いはあったんじゃ無いか。少なくとも「マスコミとタイアップすることの危険性」は彼もさすがに理解していたでしょう。
 しかし登山つうのは「それ自体は金儲けになる話ではない」。山に登ればそれだけでカネが儲かるわけではない。しかし登山には金がかかる。悩んだ末、植村が最終的に選んだ道がマスコミとのタイアップだったわけです。
 で「地理的な冒険は難しい」という認識の結果、角幡氏の結論が何かというと高世に寄れば

 自らの判断の結果として、命を持続させることができたとき、生きている喜びを見出すことができる。もし冒険をすることに意味があるとしたら、ここだと思う。
 機械や他者に判断を丸投げしても、そこに生きる喜びはない。
 心のなかで将来に不安を感じている今こそ、自分で考え、自らの判断で行動を選択することの重要性が増している。

ということになるわけです。もはや角幡氏は 「失敗したっていいじゃないか」とか「日常や常識からの逸脱」とか「誰がなんと言おうが俺のやりたいようにやる(自主性)」とかを重視する「彼の冒険概念、定義」によって、「地理的な冒険はもはや不可能に近く」、冒険とは「誰もやったことが無いことをやること、失敗の危険性が高いことをやること(それプラス命の危険性?)」と定義するわけです。
 「誰もやったことが無いこと」「失敗の危険性が高いこと」こそが「冒険」であり、その認識だと本多氏同様「マスコミとタイアップした晩年の植村の冒険」は「成功が半ば義務づけられてる」と言う意味で「植村には失礼ながら」、「冒険とは言いがたい」「(別の意味はともかく)冒険という意味では価値が乏しい」ということになるでしょう。

 私も冒険がしてみたくなるが、命をかけないと冒険はできないのか。冒険とは、ごく限られた人々のものなのだろうか。
(つづく)

 だからそれ結局「冒険の定義」ですよねえ。
 冒険に「命の危険があること」と言う要素が絶対に必要だと思えば「命の危険を犯さないと冒険では無い」。
 一方で「実行するにおいて困難性や失敗の危険性があれば、命の危険が無くても冒険だ」と思えば「命の危険が無くても冒険である」「例えば『脱サラによる起業(例:高世によるジンネット創業)』『筑紫哲也氏の朝日新聞退社、ニュースキャスター就任』『山本太郎のれいわ新選組結成』なども冒険である」。
 ただ「冒険の定義」にもよるでしょうが、「誰でも出来るようなこと」は普通「冒険とは言わない」でしょう。
 その意味ではやはり「冒険とは、ごく限られた人々のもの」でしょうね。この点、高世がどう「つづく」なのか、明日以降の高世文章を読みたいところです。

*1:著書『空白の五マイル:チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(2012年、集英社文庫)、『雪男は向こうからやって来た』(2013年、集英社文庫) 、『アグルーカの行方:129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(2014年、集英社文庫)、『探検家の憂鬱』(2015年、文春文庫)、『探検家の日々本本』(2017年、幻冬舎文庫)、『新・冒険論』(2018年、集英社インターナショナル新書)、『探検家の事情』(2019年、文春文庫)、『旅人の表現術』(2020年、集英社文庫)など

*2:本多氏は明らかに否定的ですが