新刊紹介:「歴史評論」2021年1月号(追記あり)

 小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「誰が文化財を守るのか」
文化財を未来へ受け継ぐ(池田寿*1
(内容紹介)
 2018年の文化財保護法改正への危惧の念が表明されています。

【参考】

赤旗“保護より活用ありき”/文化財保護法案 吉良氏が懸念2018.6.5
 日本共産党の吉良よし子*2議員は5月31日の参院文教科学委員会で、文化財保護法等改定案について法の目的が文化財の保護より活用ありきへの変質が懸念されるとただしました。
 吉良氏は「関係者*3から『稼ぐ文化』には予算がつくが、そうでないと予算がつかないのではと懸念の声がある」とし、国として保存修理の予算を増やすよう求めました。林芳正*4文科相は「必要な予算の確保に取り組む」と応じました。
 吉良氏は、安倍首相が1月の施政方針演説で「十分活用されていない観光資源が数多く存在する。文化財保護法を改正し、各地の文化財の活用を促進する」と述べているとし、「文化財は『観光資源』としての価値しかないと言わんばかりだ」と批判しました。その上で、文化財保護法は戦争で文化財が失われた痛苦の反省から生まれたと述べ、「法律の目的をゆがめてはならない」と主張しました。
 吉良氏はさらに、開発行為を担う首長部局に文化財保護行政を移すことを可能としたら「開発行為と文化財保護との均衡」が図れないと指摘。林文科相は、地方文化財保護審議会を置くので中立性が担保されると述べましたが、吉良氏は「文化財保護と開発行為は対立する。文化財の保護より開発や活用という考えは認められない」と強調しました。

【広角レンズ】転機迎える文化財行政 保存と活用…均衡はとれるのか(1/4ページ) - 産経ニュース2018.7.16
 政府が国策として掲げる「観光立国」の柱のひとつが、文化財の活用でもある。今年1月の安倍晋三首相の施政方針演説でも、「わが国には、十分活用されていない観光資源が数多く存在します。文化財保護法を改正し、日本が誇る全国各地の文化財の活用を促進します」と、観光資源としての利用推進を強調している。
 文化庁文化財部の高橋宏治・伝統文化課長は、こうした政策転換の背景について、「文化財の保存維持にはお金が必要だが、当然ながら予算は有限。ではそのお金をどう捻出するか。ただ文化財を死蔵していたのでは、何も生み出さない。公開活用をして多くの人に来てもらうことで、そのお金を保存修復に充てるなどの好循環を作りだそう、という趣旨だ」と説明する。
 高橋課長は成功例として二条城(京都市中京区)などを例に挙げ、インバウンド(訪日外国人旅行)向けの外国語解説の充実や、史跡などの文化財に関連した歴史的再現食などの体験型コンテンツの充実が重要になると話す。
高橋課長は言う。
 「保存を決して軽視しているわけではないが、今後予算が大拡充される見込みもない以上、現状のままではジリ貧になる。活用を積極的にやっていかないと、いずれ保存もできない状況になってしまう」
 一方、こうした活用重視路線には、歴史学系の28団体が連名で昨年10月に「より慎重な議論を求める声明」を出すなど、懸念の声も上がっている。
 声明をとりまとめたのは、学術関係者らでつくる日本歴史学協会の文化財保護特別委員会。委員長を務める若尾政希*5一橋大大学院教授は「昨年12月の答申は建造物の専門家の発想が主体となって活用を提言しているが、文化財は多様で、例えば古文書や書籍は建物と違って集客が難しい。稼げる文化財はいいが、そうでないものは扱いがないがしろになってしまうのではないか」と指摘する。
 今国会での改正法案可決に際しては、衆参両院で「保存と活用の均衡がとれたものとなるよう、十分に留意すること」とする付帯決議が採択された。若尾教授は「法改正はなされたが、懸念事項は先送りされた感が強い。付帯決議を踏まえて、これからどう具体的な施策が出てくるのか注視し、必要があれば前向きに提言していきたい」としている。

 文化庁文化財部の高橋宏治・伝統文化課長というのは2018.7.16当時ですね。今は違います。
 なお、文化財保護法改正の影響か、伝統文化課は現在では文化資源活用課に名前が変わってるようです(例えば幹部名簿:文部科学省参照)。

Topics:改正文化財保護法 4月施行 「史実より神話」の傾向懸念 京大教授、国立歴史民俗博物館長ら討論 - 毎日新聞2019年1月23日
 改正文化財保護法の施行が4月に迫る中、文化財や博物館の現状と今後のあり方を考えるシンポジウムが昨年11月、京都大人文科学研究所(京都市左京区)であった。文化財行政が「保護」中心から「保存と活用」の両立へと転換される背景などについて、有識者らが話し合った。
 改正は、過疎化や少子高齢化文化財が危機に直面する中で、国から地方への権限の移譲などによって、文化財を活用したまちづくりや観光を推進する狙いがある。合わせて地方教育行政法も改正され、文化財保護業務が教育委員会から首長部局に移管できるようになる。しかしこの結果、保護がおろそかになったり、「稼げない文化財」が軽視されたりすることへの懸念もある。
 京都大の高木博志教授は、これまでにも文化財が政治に左右されてきた状況を解説。明治時代の文化財保護政策がナショナリズムと密接に関わり、20世紀初頭になると、家族国家観などの「国民道徳」にとって意味のあるものは史実でなくても尊重されたと指摘した。近年、観光のために史実より神話や物語を優先するような傾向が復権*6しているとし、「戦後の歴史学改革の営みに逆行する」と疑問を呈した。

博物館と文化財の危機 岩城卓二、高木博志編 : 書評 : 本よみうり堂 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン2020.4.18
◆博物館と文化財の危機 岩城卓二*7、高木博志*8
評・佐藤信*9(古代史学者 東京大名誉教授)
 2018年の文化財保護法改正により、文化観光の経済戦略を受けて「文化財で稼ぐ」方針が示されたことに対して、博物館や文化財の商品化・観光化・資源化を危惧する諸論考からなる。京都大で開かれた同テーマのシンポジウムの成果である。
 まず「文化財で稼ぐ」ことが国家戦略となって、歴史・文化・芸術や学術が「資源」とされ、その予算が「戦略的投資」化した経緯をたどり、文化財商品化の傾向を指摘する。
 また、物議を呼んだ「一番のがんは学芸員」の大臣発言*10に対して、学芸員の本来業務である資料収集・保管・展示、調査研究その他事業の重要性や、今日直面する多様な社会的任務を説く。そして、逆に博物館学芸体制の充実を要望する。
 次に、住民・研究者・行政担当者の協力の必要を説き、その取組で文化財を活用して歴史文化から地域振興を進めている好事例を提示する。
 文化財の活用には、前提となる保存とのバランスが大切となる。今日活用が強調される背景には、社会的貢献に向けた発信が十分ではなかった保存の側の課題もあろう。ただ、活用が進む世界文化遺産平城宮跡でも、国民的な保存運動でかろうじて護まもられてきた経緯がある。
 公共のものである文化財の源泉は、金銭では得られない文化・学術的価値であり、その価値を軽視して活用が一方的に私的な商品化を進めるならば、問題である。
 その点、博物館や文化財に「稼ぐ」ことを求める方針に向けた本書の警鐘には、耳を傾けたい。そして、文化財の保存と活用のバランスのとれたより良い展開に向けて、公的な議論がさらに広がることを望みたい。

博物館と文化財の危機(書評): 日本経済新聞編集委員 竹内義治)2020年5月1日
 観光立国の国家戦略のもと、2018年の文化財保護法改正をはじめ国や自治体が「文化財で稼ぐ」制度整備や施策を加速させている。本書は、この流れに警鐘を鳴らす歴史学者らが同年11月、京都大人文科学研究所で催したシンポジウムを軸にまとめた論集だ。
 文化継承の担い手たる地方が過疎化や少子高齢化で衰退する中、地域活性化文化財を活用すること自体に異論は無いだろう。ただし保存への悪影響を避けるのが前提条件となる。観光地のにぎわいと引き換えに傷つき、劣化した文化財は枚挙にいとまがない。
 論者らが危惧するのは経済性重視の弊害だ。集客力や商品力の向上を優先する考え方は、地道に積み重ねられた歴史学や考古学の成果をなおざりにして、見栄えの良い物語で史実を粉飾したり負の歴史を隠蔽したりする危険をはらむ。戦前、神話や伝承に基づいて皇祖の聖跡や忠臣ゆかりの地を史跡に指定し、「国民道徳」を押しつけるのに政治利用された先例も提示する。歴史を「夢とロマン」だけで語ってはならない。
 歴史遺産を継承する意義や、博物館本来の役割についての理解が社会に十分広がっているとはいえない現状については、関係者の反省と工夫も必要だ。とはいえ「稼げる、稼げない」を基準に単純に価値づけられるべきではあるまい。
 むろん後生大事にしまっておきさえすれば文化財保全されるわけではない。住民と行政と研究者が協働して古建築を維持したり、市民研究者を育てて史料研究に取り組んだりすることで、継承と地域振興を両立させる動きを紹介している。目指すべき活用策は何か。コロナ禍で博物館が一斉休館する中、観光する側の視点からも考え、活動再開に向け頭の準備体操をしてはどうだろう。

生きて帰った特攻隊員を隔離軟禁 旧陸軍「振武寮」 跡地で分譲マンション建設進む - 毎日新聞2020年12月7日
 太平洋戦争末期、機体トラブルなどで帰ってきた特攻隊員を次の出撃まで収容した旧陸軍施設「振武(しんぶ)寮」(福岡市中央区薬院)跡地でマンション建設が進んでいる。
 振武寮の存在は旧陸軍の元幹部や元特攻隊員への聞き取りを重ねた記録作家の林えいだいさん*11(2017年に死去)の著書「陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設」(2007年)などで知られるようになった。林さんは同著で、軟禁状態の隊員らが軍の参謀に「突入した軍神に恥ずかしくないのか」などと面罵され、軍人勅諭を延々と書き写させられたり竹刀で殴られたりした日常を明らかにしている。
 福岡市は敷地内に振武寮があったことは把握していたが、近現代の施設だったため文化財保護法上の埋蔵文化財包蔵地とせず、住宅メーカーにも伝えていなかった。マンションが完成すれば地下を試掘できる見込みはほぼなくなるため、伊藤教授は「着工前に調査できていれば」と市の対応を残念がる。
 特攻を巡っては近年、旧陸軍・知覧特攻基地から出撃した隊員の遺品を展示する知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)を自己啓発のために訪れる人が増えるなど、若者が国のために命をささげたストーリーを賛美的に捉える風潮がある。
 「振武寮の存在は特攻が決して美しいものではなかった現実や、軍が整備不良の機体で出撃させていた無謀さを伝えている。せめて行政が説明板を設けるなど歴史を伝える取り組みをしてほしい」。
 伊藤教授はそう話す。

 つまりはこういう事態が危惧されてるわけです。


熊本地震後の文化財保護:熊本城と未指定地域史料をめぐって(稲葉継陽*12
(内容紹介)
 「熊本城(修復)」と「未指定地域史料(の保存)」について触れられています。ネット上の記事紹介で代替。

【参考:熊本城】

天守閣復旧も、熊本城再建「2割」 完全復活は18年後: 日本経済新聞2020年4月15日
 2度の震度7を観測した熊本地震から4年。被災した熊本城で城郭の修復作業が進んでいる。最優先で工事が進められた天守閣は2021年春にも一般客が内部に入れる見通しだ。ただ、城内には崩れた石垣や倒壊した櫓(やぐら)が残り、工事の進捗は熊本市の基本計画の「2割」にとどまる。2038年度に完全復旧を目指す熊本城を訪ねた。
 3月中旬、工事車両が行き交う規制区域内を熊本城調査研究センターの金田一精さんが案内してくれた。
 天守閣は市民からの要望も多く「(ボーガス注:天守閣公開による観光収入や、天守閣復旧を切望する市民感情に配慮して)最優先で復旧」とし、大天守の外観は被災から3年半で修復を終えた。
 金田さんは「天守閣は鉄筋コンクリートなどの復元建造物だから早く復旧できた」と話す。天守閣は1877年の西南戦争で焼失した後、1960年に現代的な技術で再建された。重要文化財建造物ではない。
 一方で、重要文化財は可能な限り、当時の材料を用い、原形に戻す必要がある。欠けた石垣も補強したり、接合したりしながら積み上げ、耐震性も確保しなければならないという。
 天守閣脇の「宇土櫓」もその一つだ。隣に連なっていた櫓とともに倒壊したままの状態だったが、市は3月末に全てを解体し復旧する方針を決めた。「調査しながら解体を進め、具体的な復旧方法も決めなければならない」と金田さん。重要文化財はすでに7棟を解体したが、同様に復旧の見通しが立っていない。
 桜が美しい広場の一角からは、石垣が崩れたままの「戌亥櫓」が見えた。建物中心部からえぐれるように崩壊し両脇の石垣に支えられている。「石垣を集めたり調査したりしたいが、崩壊する危険があって着手できない」(金田さん)という。
 基本計画は復旧まで20年を要する想定で、被災から4年たった現在までは予定通りに進んでいるが、危険箇所や再建方法が決まらない建造物などの対策が反映されていない。計画は5年ごとに見直される予定で、市関係者は「長期化する可能性も否定しない」と話す。金田さんは「歴史的価値を維持するのも重要な仕事。100年後の熊本城を考えて丁寧に作業を進めたい」と力を込めた。

 ということで完全復旧までにはあと18年(2038年)も時間がかかるわけです。しかし「一部復旧」を理由に「天守閣などの公開は既に始まっています」。
 観光上「やむを得ないこと」とはいえ、「完全復旧していないのに完全復旧したかのようなイメージが流布され、2038年度の完全復旧が実現しないこと」を危惧する稲葉氏の意見には共感しますね。「公開するな」と無茶苦茶なことはいいませんがその点には注意が必要でしょう。

熊本藩主、地震恐れ転居 江戸初期の手紙「揺れる本丸にいられず」|【西日本新聞ニュース】2017.4.11
 細川家初代熊本藩主の細川忠利(1586~1641)が1633(寛永10)年ごろに起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城(熊本市中央区)の本丸から、城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたことが、熊本大の調査で分かった。
 昨年4月の熊本地震後、細川藩の文献を研究している文学部付属永青文庫研究センターが江戸時代の文献などを調査して判明した。稲葉継陽センター長は「熊本地震の被災者と同じように、忠利もたび重なる余震によほど恐怖を覚えたのだろう」とみている。

 熊本城修復とは直接関係ないですが、稲葉氏がコメントしている興味深い記事と言うことで紹介しておきます。


【参考:未指定地域史料】

熊本地震被災の文化財5900点レスキュー 「修復は長丁場」支援訴え - 産経ニュース2016.12.5
 熊本地震の被災地では、文化財の専門家でつくるチームが、民間の古文書など23件約5900点を、倒壊した建物から回収した。その状況が4日、九州国立博物館(九博、福岡県太宰府市)で開かれたシンポジウム「熊本地震文化財レスキュー」において報告された。関係者は「今後、修復作業を含めて長丁場になる」と、さらなる支援を求めた。

熊本)文化財レスキューのこれから 地震後2万2千点:朝日新聞デジタル2018.6.4
 熊本地震後、被災した建物から未指定文化財を救い出す「文化財レスキュー」が活躍した。熊本地震を受けての救出活動は公費解体がほぼ終了したことに伴って減ったが、一方で、救い出された膨大な文化財をどう保存していくかが課題となっている。
 文化財レスキューとは、災害で被災した家屋などから、市町村や国の指定文化財になっていないが、価値のある「未指定文化財」を救うための活動だ。
 熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽教授(51)は、指定文化財を国家の脈絡にかかわる史料などいわば「エリート」ととらえ、未指定文化財を「(歴史の)根っこの部分を語る地域史料」と表現する。そのうえで、歴史上の重大な出来事や重要人物も地域の経済や動きの影響を受けていたとして、「未指定文化財が災害のたびになくなったら、(歴史が)根無し草になってしまう」と、その大切さを語る。

社説:自然災害と文化財 地域の史料守る仕組みを - 毎日新聞2020.7.27
 大規模な自然災害が相次ぎ、文化財の被害が報告されている。
 九州を中心とした記録的豪雨では、世界文化遺産「三池炭鉱」や国宝「青井阿蘇神社」などが被災した。日本遺産に指定されている熊本県の人吉球磨地区も広い範囲で浸水した。
 大雨による水害などから事前に文化財を守るのは限界がある。地盤をかさ上げしたり、斜面を補強したりすれば景観が損なわれる恐れもある。
 被害を最小限にとどめるには、洪水ハザードマップなどを活用して文化財の立地を把握し、災害時の保管場所を確保しておくなどの対策が求められる。
(中略)
 万が一被災した場合の対応にも課題が残る。国や自治体の指定文化財は把握されているが、個人所有の未指定の文化財は所在の確認が十分ではない。災害ごみとして廃棄されてしまう可能性がある。
 自治体には文化財担当職員がいるが人手不足のところも多い。とりわけ災害直後の対応は難しい。
 そんななかで注目されているのが文化財レスキューと呼ばれるボランティアの活動だ。
 倒壊した家屋に残されたり、水没して泥まみれになったりした美術工芸品や古文書を運び出し、応急措置や一時保管をする。1995年の阪神大震災が活動の原点と言われ、地域の歴史研究者らが中心になって各地で団体が結成されている。
 未指定の文化財も、地域の歴史や培われた文化を物語る貴重な史料だ。祭具などは地域が災害から復興していく際の心のよりどころにもなる。所有者の協力を得ながら所在リストを作り、災害時に速やかに救出できる体制を整えることが必要だ。
 改正文化財保護法は、未指定を含めた文化財の活用をうたっている。そうであれば、文化財救出にあたって専門性の高い人材を効果的に配置するなど行政が果たす役割を明確にすべきだ。
 先人から託された地域の遺産を未来へ引き継ぎたい。

文化財も豪雨から守れ! 熊本県、古文書など770点を迅速保護|【西日本新聞ニュース】2020.8.7
 熊本県南部を襲った豪雨では、国や自治体に登録、指定されていない文化財も被害を受けた。特に古文書が水没した場合、一刻も早い処置が必要とされる。今回、県は「文化財レスキュー」事業を早々に開始。多くの未指定文化財を回収するなど一定の成果を上げた。
 迅速ともいえる今回の対応には熊本地震の経験が大きい。2016年4月の地震直後に地元の歴史学者らが「熊本被災史料レスキューネットワーク」を設立した。
 レスキューネットワーク代表で熊本大永青文庫研究センター長の稲葉継陽さんによると、古文書の99%は文化財に指定されていないという。稲葉さんは、古文書は、歴史、社会、地域文化の総体だとし、「たった数百年前の社会を知るすべを失っていいのか。文化財レスキューは災害復興支援そのものだ」と強調する。

水害と文化財 減災にはリスク想定が大切だ : 社説 : 読売新聞オンライン2020.9.27
 熊本県では7月豪雨の後、レスキューチームが現地に入り、民家や寺社から古文書や武具など、870点余りを救出したという。
 チームは、県が事前に調べていた未指定文化財の所在リストに基づき、被災現場を巡回した。
 ひとたび災害が起きれば、自治体職員らは住民の避難対応などに追われる。官民の連携が奏功した好例だと言えよう。
 どのような文化財がどこに保管されているのか、全体像を把握できている自治体は少ない。まずはしっかりと現況調査を行い、被害を最小限に抑える方策を、地域ごとに考えることが必要だ。


◆博物館の運営形態の変容と博物館活動(大澤研一*13
(内容紹介)
 大阪歴史博物館長の筆者が、「直営→財団→指定管理者→地方独立行政法人」と運営形態を変えることによって発生した問題とそれへの対応方法を中心に「大阪歴史博物館」の活動について述べていますが、小生の無能のため詳細は省略します。


和歌山県内の文化財災害対策(藤隆宏*14
(内容紹介)
 和歌山県内における文化財災害対策について述べられています。ネット上の記事紹介で代替。

【参考】

和歌山県博物館施設等災害対策連絡会議|PASSION+|:金剛情報誌パッション:KONGO(取材日:2017年5月10日)
 和歌山県では、文化財等の災害対策に協力して取り組む目的で、平成27年和歌山県博物館施設等災害対策連絡会議(以下:和博連)が設立されました。和博連は和歌山県下の博物館をはじめ、図書館、文書館、資料館、研究施設、各市町村教育委員会、県など78の組織で構成されています。
◆インタビュアー
 和博連が誕生した経緯を教えてください。
◆回答
 平成23年3月に発災した東日本大震災時に、支援のために和歌山から東北へ派遣された学芸員が、現地の博物館組織による災害対応を目の当たりにして「和歌山でも災害対応ができる博物館ネットワークが欲しい」と声を上げるようになりました。しかし、東日本大震災から半年後の平成23年9月、組織作りが間に合わないまま、台風12号の影響による紀伊半島大水害で和歌山県は甚大な被害を受けてしまいました。※1
 この実際に被災した経験を契機に発足したのが、和博連です。
(中略)
 和博連は、平成27年度から文化庁補助金事業「地域に眠る『災害の記憶』と文化遺産を発掘・共有・継承する事業」※3 に協力しています。
 この事業は、石碑や古文書の中にある「この場所まで津波が来た」「先人たちが命を取り留めた方法」といった記録や伝承、つまり「災害の記憶」を調査・発掘し、地域の人々と共有・継承していこうという取り組みです。
 この事業のきっかけは、紀伊半島大水害の半年後である平成24年4月に和歌山県立博物館で開催した特別展「災害と文化財−歴史を語る文化財保全−」です。
◆インタビュアー
 最後に、お隣の県である三重の博物館施設との交流について教えてください。
◆回答
 平成29年の2月末には和博連主催の研修会に三重県総合博物館学芸員の間渕創さんをお招きして「自然災害時における三重県博物館協会の取り組みについて」という演題でお話していただきました。その際に教えていただいた、三重県のマニュアルや運用方法を和歌山風にアレンジし、災害の被害レベルと発災からの段階に合わせたものを整備することが和博連の今年の課題です。
 文化財防災の先進県である三重の博物館ネットワークのよい部分を取り入れて共に学び合い、和博連が抱える課題をクリアしながら災害に備えていければと思っています。

和歌る?紀になる!:高校生に防災継承 県立博物館など、冊子作成 文化遺産の守り手育成 /和歌山 - 毎日新聞2020年4月12日
 和歌山市の県立博物館を中心とした施設活性化事業実行委が、災害研究をまとめた冊子「『災害の記憶』を未来に伝える」を作成した。災害に関する遺跡や記念碑、史料などの研究成果について、高校生向けに編集した。将来の文化遺産の守り手を育成することが狙いだ。
 県立博物館は2014年度から、県立文書館やボランティア団体「歴史資料保全ネット・わかやま」などと協力し、紀中・紀南の過去の災害の記録を調べている。津波や洪水による浸水想定地域に残る遺産を確認してきた。小冊子を作って関係自治体に全戸配布したり、現地学習会を開いたりして、災害の記憶を地域で共有する取り組みも続けている。今回作られた冊子には、こうした一連の活動がまとめられている。

特別展 「災害と文化財―歴史を語る文化財の保全―」平成24(2012)年 4月28日(土)~6月3日(日)
 平成23年(2011)9月、西日本を襲った台風12号は、和歌山県域に甚大な被害をもたらしました。被災された皆様に、謹んでお見舞い申しあげます。
 こうした災害は尊い人命を奪うとともに、先人たちの生きた証ともいえる文化財をも奪ってしまいます。ここでいう文化財とは、国宝や重要文化財といった指定文化財にとどまりません。地域の人々が日常の生活のなかで記録し、残してきた歴史資料なども、地域の歴史を物語る貴重な文化財です。このような文化財が、災害によって失われることは、極めて残念なことです。
 今回の特別展では、先人たちが地域に残してくれた文化財などから、過去に経験した災害を振り返ります。そのうえで、台風12号に伴う水害に際して行われた文化財のレスキュー活動を紹介します。
 近年の地球温暖化の影響ともいわれる大型台風の来襲やゲリラ豪雨、近い将来起こるとされる東海・東南海・南海地震、こうした災害に見舞われたとき、私たちは地域に残る文化財をどのようにして守っていけばいいのでしょうか。この展覧会が、文化財保全を考えていただく一つのきっかけになれば幸いです。


◆歴史の眼『社会運動資料の宝庫:市民が支えるエル・ライブラリー』(谷合佳代子*15
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【参考】

ABOUT - エル・ライブラリー
 エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)は、公益財団法人大阪社会運動協会 が運営する労働専門図書館です。
 大阪社会運動協会は、1978年設立以来、大阪の社会運動史に関する資料を収集し、「大阪社会労働運動史」(全9巻)を発行。2000年からは大阪府の委託を受け、「大阪府労働情報総合プラザ」を運営してきました。しかし、2008年就任した橋下大阪府知事の財政改革によって大阪府労働情報プラザは廃止され、協会に対する補助金もすべて打ち切られました。
 廃棄される運命となった大阪府労働情報総合プラザの旧蔵書約17000冊と、大阪社会運動協会の蔵書・資料を統合し次世代に継承するため、多くの個人、団体の支援によって2008年10月21日、開館しました。
 市民ボランティアと寄付で支えられている図書館です。 皆さまのご支援、ご協力をお願いいたします。


共同通信よくぞ10年「橋下行革の焚書許さず」2018.12.21
 共同通信記事について、詳しくはリンク先記事を読んで下さい(出来ればコピペで記事を張りたかったのですがうまくいかないので)。橋下ら維新一味の無法振りには改めて怒りを禁じ得ません。橋下ら維新一味が大阪府または大阪市から切り捨てたのはエル・ライブラリーだけではなく、大阪府立国際児童文学館リバティおおさか(大阪人権博物館)大阪市音楽団などもそうですし(他にもあるかと思います)。

リバティおおさか訴訟、賃料免除で和解 大阪市と運営法人 21年6月までに退去 - 毎日新聞2020.6.19
 大阪市大阪人権博物館(リバティおおさか、浪速区)を運営する公益財団法人に対し、同館が建つ市有地明け渡しなどを求めた訴訟は19日、大阪地裁で和解が成立した。2021年6月までに更地にして退去する代わりに、市は賃料相当額の約1億9000万円を免除する内容。博物館は2020年5月末で休館しており、2022年から別の場所での再開を目指している。
 大阪府知事や市長を務めた橋下徹氏らが館の展示内容や運営に異議を表明し、府・市は2013年に補助金を全廃。市は2015年3月で市有地の無償貸与も打ち切り、同7月に提訴した。

ということで、リバティおおさかは、維新のせいで「泣く泣く施設を退去した」上に、現在「別の場所での再起」を目指してるとはいえ、現時点では運営休止状態です。
 維新連中の「文化軽視」と「人権敵視」は常軌を逸してると言うべきでしょう(それは裏返せば維新支持者に人権や文化に対する認識が著しく欠けているという嘆かわしい話でもありますが)。
 あげく、無為無策による「コロナの蔓延」とは「維新の奴らとその支持者」「維新にへいこらする在阪マスゴミ公明党、吉本芸人」には殺意や憎悪、軽蔑と言った負の感情しかないですね。都構想が阻止されたことがせめてもの救いではあります。維新を一日も早く政治の世界から追放しなければならないと言うべきでしょう。
 そういえば大阪市音楽団といえば

久しぶりにMukke氏に突っ込んでみる - bogus-simotukareのブログ

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASGBT4CM1GBTPTFC004.html
朝日新聞大阪市文楽補助金を廃止へ 事業ごとの申請方式に:朝日新聞デジタル
id:Mukkeさんブクマ
文楽は自国の土着文化なのだからちゃんと金を出さないと*16。金をカットするのは音楽団くらいにしておきましょうや。/数年前の論争でわかる通りわたしゃ音楽団に関してはカットが正しかったと思いますよマジで。

 クズのid:Mukkeさんらしいクズさにあふれたブクマです。

金をカットするのは音楽団くらいにしておきましょうや

と音楽団関係者(演奏家、ファン)を小馬鹿にしてると理解されても仕方ないような酷い文章を書いた後、さすがのid:Mukkeさんも
「ちょっとやべえかな、音楽団関係者に抗議されるかも」と思ったのか、

数年前の論争でわかる通りわたしゃ音楽団に関してはカットが正しかったと思いますよマジで。

なんて「ダライが焼身自殺を賛美しながら、このままではまずいと思ったのか後でとってつけたように『もちろん自殺は悲しいことだが』などと言い訳するような醜態」さらしてます。さすがダライ愛好家だけのことはあります。だったら最初から小馬鹿にしたような文章書くなよ。
 「好きな物(例:ダライラマ)がけなされるとマジギレする癖に」、自分にとって嫌いな物(例:以前小生がネタにした都知事選候補の細川元首相、宇都宮元日弁連会長)やどうでもいい物(例:今回の大阪市音楽団)には酷い物言いが平気でできる糞野郎がid:Mukkeといういつもの話です。

id:Mukkeのクズぶり、カスぶりを過去に悪口雑言したこともありましたっけ。どうすればMukkeのような「人格の破綻した低劣なクズになれるのか」、「Mukkeに比べれば人間としてまとも」と思ってる俺からすれば、id:Mukkeの野郎に教えてもらいたいくらいです。まあ、その点は「Mukkeと同レベルの人格の破綻した低劣なクズid:noharra」なんぞにも思うことですが。

ノートに犠牲者名、15年で6千人分 大阪大空襲74年 [空襲1945]:朝日新聞デジタル2019年3月13日
 空襲犠牲者の氏名、性別、年齢、住所が手書きで記されたノートが、大阪市中央区の大阪産業労働資料館(エル・ライブラリー)にある。「大阪戦災傷害者・遺族の会」(伊賀孝子代表)が作った。大阪では1945年8月までに空襲で約1万5千人が犠牲になったとされる。国による調査がないなか、「犠牲になった一人ひとりの名前を残したい」と寺や慰霊碑、役所などを訪ね歩き、遺族から話を聞いた。1983年ごろから約15年かけて6千人分を集めた。
 伊賀さんや「大阪大空襲の体験を語る会」の久保三也子代表(89)から資料を寄託され、エル・ライブラリーで保管。会報のほか、空襲体験を証言した際の資料、証言を聞いた小学生の感想文、援護を求めた署名活動を伝える新聞記事や映像資料などで、リスト化して公開し、研究者らが閲覧できるようにしたいという。「語る会」の分については、今夏の公開をめざしている。


◆歴史の眼『公害反対運動と資料館:あおぞら財団のフィールドミュージアム構想からの展開』(林美帆*17
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【参考】

くじらカフェ:環境や人に優しく 西淀川・あおぞら財団がオープン 改装長屋で「オーガニック」料理 /大阪 - 毎日新聞2017年9月6日
 大阪市西淀川区の「あおぞら財団」(公益財団法人・公害地域再生センター)が11日、オーガニック素材を使ったメニューを提供する「くじらカフェ」を同区姫里2にオープンする。700人以上が原告に名を連ね、財団発足のきっかけにもなった西淀川公害訴訟で代理人を務めた井上善雄弁護士(大阪弁護士会)が「地域のために使ってほしい」と提供した民家を改装。ゲストハウスも併設し、地域交流の拠点として活用する。

「公害の街」教訓を後世に 西淀川・尼崎の団体、全国初の追体験教材作成…年明けにも販売(1/3ページ) - 産経ニュース2018.12.15
 かつて工場の排煙や車の排ガスが蔓延し、多くの住民らが健康被害を受けた兵庫県尼崎市大阪市西淀川区の団体などが、「公害の街」の教訓を未来へ語り継ごうと、当時の公害を被害、加害双方の立場から追体験できる「ロールプレーイング教材」を開発した。同種の教材は全国で初めてで、学校や自治体向けに年明けにも販売する。
 教材は西淀川区の公害訴訟を機に発足した公害地域再生センター「あおぞら財団」や、NPO法人あまがさき環境オープンカレッジ」などが3年がかりで作成した。
 尼崎や西淀川では、講演会や現地ツアーなど、公害の教訓を伝える活動を展開してきた。ただ、当時の患者らの“生の声”に頼ってきた部分が多く、関係者の高齢化が進む中、同様の活動を続けることができるのは、「時間の問題」と懸念されていた。
 財団は公害の教訓を将来に伝えるため、マニュアルとなる教材をつくるべきだと判断。被害、加害双方の立場から公害と向き合うことで、共存の方法も学べるとも考えた。


◆歴史の眼『英国のEU離脱北アイルランド』(崎山直樹*18
(内容紹介)
 英国のEU離脱北アイルランドがどう扱われたのかが説明されています。

英政府がEU離脱協定骨抜き条項を削除 FTA交渉前進に好材料 - 産経ニュース2020.12.9
・英EUが昨年合意した離脱協定では、英領北アイルランドとEU加盟国のアイルランドとの国境管理を復活させないため、北アイルランドの関税手続きは当面、英本土との境界でEU規則に従うことが明記された。
北アイルランドでは、1960年代以降、カトリック系と、英国統治を支持するプロテスタント系勢力の対立が激化。紛争時に厳重に管理された英・アイルランド国境は英国統治の象徴で、離脱協定で決まった国境管理の復活を防ぐ取り組みを変更すれば、アイルランド和平が脅かされる恐れが指摘されていた。

 つまりは北アイルランド住民の「EUに残留したい。残留できないのなら独立も考える!」と言う声や、EUアイルランドの「北アイルランドにはEU規則を適用して欲しい(適用を辞め、南北アイルランドの国境管理を復活させたら、北アイルランド紛争が再発する恐れもある)」との声を無視できず、ジョンソン*19英国首相がそれを呑んだという話です。もちろん、「北アイルランドEU残留」がずっと続く保証はない(香港の一国二制度並みに相当無理があるかと思います。その結果、香港の一国二制度は現在「中国側の締め付け」により「限りなく一国一制度に近づいてること」は言うまでも無いでしょう)。
 当然ながら「EU残留反対派(EU離脱派)」からは「何で北アイルランドだけ事実上のEU残留なんだ!。おかしいじゃないか!。北アイルランドも離脱すべきだ」つう話になる。
 そうなれば北アイルランドから「EUに残留できないのなら北アイルランドは英国から独立する。いっそ南北アイルランド統一を目指す」と言う声が強まるかもしれない。
 また、北アイルランド同様に「EU残留派が多い(EU離脱が決まった国民投票でも北アイルランドスコットランドは多くが残留派であり、逆にイングランドウェールズに離脱派が多かったと言われる)」とされるスコットランドの動きも注目されます。スコットランド政府から「北アイルランドが独立しないで、EUに残留できるのなら、スコットランドだって独立しないでEUに残留したい。例の住民投票で英国残留派が多かったのもEUに残留したかったことが大きな理由だ。EU残留できないのなら独立も考える」と言う声が今後出るかもしれない。
 つまりはEU離脱で今後、英国中央政府の対応によっては「北アイルランドスコットランドの独立論」を助長することになるかもしれない、その結果として「英国の国際的地位が今よりも落ちるかもしれない」という「そうした独立論を支持しない英国民」にとっては「不愉快な状況」が生じつつあるわけです。
【2021年1月1日追記】

時事ドットコム時事通信ニュース)
 英国はEU離脱で国内の分断、対立が進行しました。60%超がEU残留を支持した北部スコットランドでは、英国からの独立を目指す動きが活発化。運動をけん引するスコットランド民族党(SNP)が2021年5月のスコットランド議会選でどこまで勢力を拡大するかが焦点になります。
スコットランド焦点に EU再加盟「当面ない」―専門家:時事ドットコム
 英国は欧州連合(EU)離脱で国内の分断、対立が進行した。60%超がEU残留を支持した北部スコットランドでは、英国からの独立を目指す動きが活発化。運動をけん引するスコットランド民族党(SNP)が2021年5月のスコットランド議会選でどこまで勢力を拡大するかが焦点だ。
 独立の是非が問われた2014年のスコットランド住民投票は賛成44.7%、反対55.3%に終わった。しかし、地元紙が2020年12月に実施した世論調査では、賛成が58%の高水準を記録。反対は42%に減り、6年前と賛否が逆転した。議会選の支持率でも、SNPが2位以下を大きく引き離し、独走態勢だ。
 シンクタンク「変わる欧州の英国」のジル・ラター上級研究員は、スタージョン自治政府首相(SNP党首)が「スコットランドの利益について関心の薄い英国より、(独立して)EUに入った方がましだと主張するだろう」と指摘。独立を懸けた2度目の住民投票の実施を認めるよう、(ボーガス注:英国首相の)ジョンソン氏に圧力を強めていくと予想した。

 ということで、「追記前から記述はしていたこと」ですが、「EU離脱」が「いったん消えたはずのスコットランド独立論」を助長しかねない事態にあります。


◆書評:近藤剛著『日本高麗関係史*20』(評者・森平雅彦*21
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
【参考】

日本高麗関係史(近藤剛著) | 八木書店グループ
 高麗(こうらい)という国をご存じでしょうか。
 高麗は、朝鮮の王朝の一つで、936年、王建が朝鮮半島全土を統一して建国しましたが、13世紀には元に服属、1392年(ボーガス注:李氏朝鮮を建国した)李成桂に滅ぼされました。
 日本と高麗との関係で印象的な出来事は、鎌倉時代に服属した元とともに日本へ攻めこんだいわゆる「元寇」ではないでしょうか。
 それでは、その「元寇」をのぞくと、両国の間にはどのような接点があったのでしょうか。
 (ボーガス注:2019年)10月25日に刊行する近藤剛先生の新刊『日本高麗関係史』では、こうした「空白の期間」に日本と高麗とがどのような関係にあったのか、その解明に挑みます。
 もっともこれまで「空白」だったのにも理由があります。ハングルという言語の壁があり、研究成果を取り入れることが難しいこと、また日本と高麗とに正式な国交がなかったことから、残された史料が少ないことなどです。
 しかし本書では、そうした「難点」を克服します。
 ハングルでの成果は、両国の研究を知る上で必須なのはいうまでもありません。著者はハングルの文献を読みこみ、その最新研究成果を取り入れています。
 そしてなんといっても緻密な史料の分析に基づく検証です。検討とする史料は、日本国内のものはもちろん、高麗国内の金石文までをも対象とし、写本・原石にまであたり徹底検証します。
 知られざる日本と高麗の関係を、堅実な検証で語りつくします。これぞ学術書ともいえる本書を、ぜひともご堪能ください。

近藤剛著『日本高麗関係史』要旨(日本語・ハングル) | 八木書店グループ
 著者は、卒業論文以来、日本と高麗との関係史について研究を進めてきた。この間、大韓民国高麗大学校への交換留学を実施し、韓国における研究についても可能な限り学び、本書を執筆した。
 その上で、日本高麗関係史研究の課題として、次の4点を挙げたい。

 日本高麗関係史の研究成果の大半は「日本からみた対高麗関係史」研究である。すなわち、日本史研究者による研究成果が大半であるということである。一方、高麗の国内外の状況を勘案した上で、対日交流の目的や意義を解明するといった「高麗からみた対日本関係史」に関する研究はほとんど行われていない。この研究を行うには、高麗と中国諸王朝(宋・遼〈契丹〉・金〈女真〉・モンゴル)の関係についても理解した上で、「高麗の外交チャンネルの一つとしての日本」という視点を持つことが重要である。

 本書が扱う10~13世紀前半の時期における関連史料は、絶対的に不足している。このことはすでに指摘されている通りだが、その中でも特に12世紀に関しては、個別具体的研究すら皆無に等しい。そのため、日本高麗関係を体系的に理解することは困難である。しかし、その零細な史料を網羅的かつ丹念に読解してきたかといえば、まだ研究の余地が残されているように思われる。

 従来、国家間の政治的関係がなかったということを理由に、関係史研究が行われてこなかったが、近年注目されている「海域アジア史」の視点から、特に境界領域の人々の交流と、それが国家間の問題にまで波及した背景を追究することは、結果的に両国関係史の深化に結びつく可能性がある。

 日本史研究者の高麗史そのものの理解および韓国の研究に対する目配せ、逆に韓国人研究者の日本史そのものの理解および日本の研究に対する目配せが必ずしも十分ではない。また、特に日本史の時期区分において高麗時代史は古代と中世をまたぐことになるため、研究が細分化された今日においては、研究者および研究に少なからず断絶があり、日本・高麗関係史研究を難化させている。
 上記の問題点の克服を目指し、著者は次のような構成で本書を執筆した。
A
 日本・高麗関係史を高麗側の視点、すなわち高麗の国内事情や対外関係全体を理解した上で、日麗関係史の理解に努めようとする立場で考察する。具体的な研究手法として、日本に残されている日本宛の高麗外交文書(牒状)の分析を行った。行論において核となる史料については、可能な限り原本・原石・写本を蒐集して本文校訂を行い、その上で丹念な読解を加えてきた。この分析視角は、問題点①②を乗り越えることにつながる。
B
 国家間交流にのみ注目するのではなく、対馬島民をはじめとする九州北部地域と高麗との関わりについて多くの分量を費やしている。そして、このような境界領域の人々が国家にいかなる影響を与えたのかといった海域史研究とも重なる視点を持ち、考察を加えた。
この分析視角は、問題点③を乗り越えることにつながる。
C
 韓国への留学を経て、継続して韓国の研究成果を収集し、学んでいる。
 この分析視角は、問題点④を乗り越えることにつながる。
 以上の問題意識、分析視角をふまえ、本書は序章・終章のほか、2部8篇の論文および2本のコラムで構成されている。
 第1部「高麗の外交文書および制度と対外関係」では、11~13世紀の日本・高麗関係史を検討するために必要な基本史料の再検討を行い、その過程でこれまで研究が立ち遅れていた高麗の外交文書様式や官職史、さらには対日本外交案件に関する文書行政システムについて考察する。また、高麗の対外関係に関する新たな知見も盛り込んでいる。
 第一章「「大日本国大宰府宛高麗国礼賓省牒状」にみえる高麗の対日本認識」では、1079年に高麗国王の文宗が病により日本に医師の派遣を要請した一件について検討する。本件は比較的研究の蓄積のあるテーマだが、高麗が発給した外交文書の署名部分に関する言及は皆無であった。そこで国文学研究資料館所蔵の写本から本文を確定した上で検討を行い、高麗と日本の位相について明らかにするとともに、高麗が医師を日本に派遣した理由を、高麗をとりまく国際情勢から考察を試みた。その結果、請医一件の背景として、文宗朝は太祖以来作られてきた諸制度が完成をみたほか、八関会に女真耽羅・宋商人とともに日本人も参加するなど、高麗の自尊意識が充足されていた。このような中で、高麗に来航する宋商を通じて宋との国交が回復されると、日本との関係も貿易のために高麗に訪れていた王則貞を通じて関係の改善を試みた。日本側も当初は医師派遣に前向きな反応を示していたが、派遣して効果が無ければ恥となるという意見が出されてからは消極的な意見が大勢を占め、医師の派遣を見送った。その際に問題となったのが礼賓省牒状であった。文書の首尾に関しては平行すなわち対等関係をあらわしているが、従来指摘されている「上意下達」的な形式や内容に加え、高麗の「公牒相通式」に基づいた署名様式の在り方に、高麗の自尊意識や、日本に対して上位にありたいとする高麗の対日意識をうかがうことができた。
 第二章「「日本国対馬島宛高麗国金州防禦使牒状」の古文書学的検討と「廉察使」」では、1206年に対馬島に発給された高麗牒状を、宮内庁書陵部国立公文書館をはじめとする機関に所蔵する写本を収集して校訂を行った。そして対日外交に重要な役割を果たしながら『高麗史』百官志に記載がない「廉察使」の実態に迫り、これが「按察使」であることを解明した。
 第三章「「李文鐸墓誌」を通じてみた12世紀半ばの高麗・金関係」では、韓国の国立中央博物館に所蔵されている「李文鐸墓誌」の原石調査を通じて得られた翻刻文を基に、12世紀半ばの高麗と金の関係を基軸とした北東アジアの状況を考察した。その結果、12世紀半ばにおける金海陵王の南宋征伐にともなう混乱において、金の統治に不満を持つ契丹人との交流を通じて得た情報があったものの、正確な情報を求めて人を派遣するなどした高麗の外交政策を、実務官僚である李文鐸の墓誌から見出した
 第四章「高麗における対日本外交管理制度」では、高麗から発給された複数の日本宛て外交文書や関連史料を利用して、対日外交案件が高麗国内のどの機関にどのような文書で伝達され、決定事項がどのように日本に伝わったのかといった問題について論じた。高麗における対日拠点となっていた金州を訪れた日本人の対応の在り方や、彼らの情報がどのように高麗朝廷に伝わり、その処遇が審議・判断されたのかといった、高麗の対日本外交管理制度について明らかにした。
 第2部「日本・高麗間のいわゆる「進奉船」の研究」では、第1部を受けて、11世紀後半から13世紀前半における日本と高麗との関係史を明らかにした。当該期は史料的な制約が特に大きいだけでなく、日本史においては古代と中世をまたぐ時期にあたり、研究の断絶がみられる。また、モンゴル襲来以前の日本高麗関係史において重要なテーマでありながら、研究の深化がみられなかったいわゆる「進奉船」の歴史像を解明することを主要な目的とした。
 第一章「12世紀前後における対馬島と日本・高麗関係」では、日本・高麗双方の対外関係史料であることは認知されていながら、これまで十分な検討がなされてこなかった『大槐秘抄』と「李文鐸墓誌」が関連するものであることを明らかにし、1160年に対馬島民が高麗に拘束された事件の真相に迫った。さらに『大槐秘抄』にみえる「制」が、日本からの高麗渡航対馬島民に一元化されたことを受けて設けられた、彼らの渡航を制限する「渡海制」である可能性を指摘した。そして、この「制」によって安定的・定期的に対馬島民が往来する状況を受けて、高麗側ではこれを「定期的な進奉」と考え、いわゆる「進奉之礼」・「進奉礼制」を対馬島民に課したのではないかと想定した。
 第二章「13世紀前後における対馬島と日本・高麗関係」では、中世すなわち武家社会の成立に伴って、対馬島の島政運営に変化が生じたことを明らかにした。具体的には、対馬島衙内部の対立、すなわち対馬の在庁官人阿比留氏に対して、武家政権の成立という新たな事態を受けて登場した大宰府使や守護人(武藤資頼)が干渉したことで、対馬・高麗間の進奉にも影響を与え、高麗から交流を拒否されるという状況が生じたことを指摘した。これに加えて承久の乱の影響が、1220年代の初発期倭寇を引き起こした可能性についても論じた。第三章、第四章で取り扱う嘉禄3年(1227)の日麗交渉において、大宰少弐武藤資頼は、対馬島の悪徒90人を斬首し、「修好互市」を要請する返書を高麗使承存に持たせ帰国させたのだが、これについても、資頼が高麗貿易の主導権を握りたかったことと、13世紀初頭以来対立が続く阿比留氏の勢力削減などを目的とした可能性もあることを指摘した。
 第三章「嘉禄三年来日の高麗使について-「嘉禄三年高麗国牒状写断簡及按文」の検討-」では、2017年に九州国立博物館に所蔵するところとなった新出史料「嘉禄三年高麗国牒状写断簡及按文」の紹介・分析を行った。本史料は13世紀のもので、藤原定家の直筆ではないが、その周辺で作成された文書であること。1227年に来日した高麗使承存一行が九州に到着した様子や、武藤資頼との交渉内容について具体的に記されており、大宰府現地にいた人物でなければ知り得ない情報が含まれている。また、文書冒頭には『吾妻鏡』吉川本所載の「全羅州道按察使牒状」のうち、差出部分の一行が残されているため、『吾妻鏡』の編纂意図に関する見解も述べた。
 第四章「嘉禄・安貞期(高麗高宗代)の日本・高麗交渉と「進奉定約」」では、13世紀前半に、高麗南部において問題となっていた初発期倭寇の禁圧を求めて高麗使が来日してきたが、従来1度の交渉が行われたと考えられていた。しかし、同年に2度にわたり高麗使が来日し、「進奉定約」を結ぶにいたった交渉過程を明らかにした。またそのような「定約」を締結した理由として、当時の高麗では、北方の契丹人の襲撃や東真国の成立にともなう混乱があったため、まさに「北虜南倭」の状況を打開するために使節を派遣したことを明らかにした。
 コラムでは、「国書」や「外交」についての考え方、および比較武人政権論研究に関する現在の到達点を示した。
 本書で得られた結論は、日本高麗関係史はもちろん、高麗対外関係史、高麗官職史、高麗古文書学といった高麗史そのものにも寄与している。さらに境界領域の人々の動向に注目した海域アジア史研究とも関連する成果を上げることができたといえる。

日本と高麗の関係を探る旅と出会い(開成中学校・高等学校教諭 近藤 剛) | 八木書店グループ
「こんな幸運に巡り合うことがあるなんて!」
 九州国立博物館の収蔵庫内で、私は興奮を抑えきれずにいた。2017年に当館の所蔵となった鎌倉時代のものと考えられる古筆切「嘉禄三年高麗国牒状写断簡及按文」(以下「高麗国牒状写断簡」と称す)の冒頭一行目に衝撃を受け、次行以降に広がる未知の文言に目を奪われてしまったのである。現物の写真は、この度刊行する『日本高麗関係史』のカバーにカラー写真で掲載し、本文中にモノクロ写真で掲載している。
 卒業論文以来、日本と高麗(918~1392)の交流の歴史に関心を持って勉強を進めている。研究をはじめた当初は半世紀以上前の論文が基本文献として挙げられているほど研究が停滞しており、同時代の日宋貿易の陰に完全に隠れていた。特にモンゴル襲来以前については、高麗王朝が日本史の時代区分でいう古代史と中世史をまたぐこともあり、研究に断絶があった。両国の間で国交も成立していなかったため、史料的な制約も大きく、あまり注目されることがなかった。
 しかし、学部生の頃に開催された日韓共催の2002年FIFAワールドカップや、それに続く韓流ブームを目の当たりにし、これほど近い距離にある両国の間で、国交がなかったとはいえ交流もなかったということはないだろうとの思いから、前近代日本対外関係史研究者の石井正敏*22先生に師事し、研究を進めていった。
 博士課程在学中には韓国の高麗大学校に1年間留学し、「韓日関係史学会」で報告する機会に恵まれた。この時に史料との格闘を経て気が付いたのが、嘉禄3年(1227)に、倭寇の禁圧を求めて来日した高麗使が「日本国惣官大宰府宛高麗国全羅州道按察使牒状」(『吾妻鏡』吉川本所収。以下「按察使牒状」と称す)をもたらし、大宰府との間で交渉が行われた際に、従来は1度と考えられていた高麗使節の来航が、実は2度行われ、日本側と交渉したということであった。これらをまとめ、2008年に処女論文「嘉禄・安貞期(高麗高宗代)の日本・高麗交渉について」(『朝鮮学報』207)を発表した(本書『日本高麗関係史』第2部第四章に収録)。
 その後は、韓国留学の成果を生かし、日本史料に残されている高麗牒状を中心に分析を加え、高麗古文書の署名様式や官職史をはじめ、高麗の対日本外交管理体制といった、高麗史そのものの理解を深めていった(本書第1部に収録)。
 さらにこれらの成果を利用して、再び日麗関係史料を精読し、これまでほとんど研究がされてこなかった12~13世紀前半の日本高麗関係についての論文を執筆し、本書『日本高麗関係史』刊行の話が立ち上がろうとしていた矢先に、冒頭の史料に出会ったのである。
 「高麗国牒状写断簡」には、「按察使牒状」の最終行に記された差出と酷似する文言が1行目にあり、2行目には「これは高麗国より日本に渡る牒使の状なり」と記されている。そして既存史料では全くの空白であった嘉禄3年2月から5月までの高麗使節の動向が、生き生きと記されているのである。文書の解読には、高麗史そのものの研究を深めてきたことで理解ができた箇所もあった。もちろん最初の論文で検討した両国交渉の内容をさらに深めることもできた。新史料の発見などほとんど期待できない古代~中世前期を研究する者として、もう二度とないであろう幸運に恵まれたと思っている。
 この内容は本書第2部第三章に「嘉禄三年来日の高麗使について」として配置しているが、このタイトルは、高麗三別抄が日本に対して請援したことを記した新発見史料を紹介し、国際的な反響を呼んだ恩師石井正敏先生の論文「文永八年来日の高麗使について」(『東京大学史料編纂所報』12、1978年。のち『高麗・宋元と日本(石井正敏著作集3)』勉誠出版、2017年に収録)を意識して付けたものである。「高麗国牒状写断簡」の史料的価値は正にこれから議論されることになるが、これまで過ごしてきた研究生活、そして培ってきた研究成果をぶつけて史料に挑むことができ、それを本書に盛り込むことができたのは、私自身にとって大変意義あるものとなった。
 幽明境を異にする*23先生は、本書をどのように見てくださるだろうか。先生からの質問に答えられるよう、さらに調べを進めることにしたい。
 なおこの度刊行する『日本高麗関係史』に収録する序章、および索引のPDFファイルをweb上で読めるようにした。索引をPDFでかかげるのは、Web検索等でより多くの人に本書を知ってもらいたいとの思いからである。また日本語・ハングルで併記した本書の要旨も公開している。以下のリンクから見ることができるので、ぜひともご覧いただきたい。
■序章、および索引(PDFファイル)
https://catalogue.books-yagi.co.jp/files/pdf/d9784840622332.pdf
■要旨【日本語・ハングル】(コラムページ)
https://company.books-yagi.co.jp/archives/5983

「日本高麗関係史」 隣国・高麗との関係、わずかな史料から導く|好書好日朝日新聞2019年11月20日編集委員・宮代栄一)
 隣国でありながら、国交が結ばれなかったことなどから、私たちにはあまりなじみがない朝鮮半島の高麗(918~1392)。その日本との関わりをわずかな史料群から解き明かす『日本高麗関係史』(八木書店)が出版された。
 著者の近藤剛さんは1980年生まれ。卒業論文で日本と高麗の関係史をとりあげて以来、韓国の大学に留学するなどして調査を続けてきた。現在は開成中学校・高等学校教諭として日本史などを教える。「当初は半世紀以上前の論文が基本文献になっているほど、研究が停滞していた」と振り返る。
 史料が少ないことや高麗の存続期間が日本の古代~中世にまたがるため、国内の研究者が交渉史を通史的にとらえにくい、などのデメリットが重なった結果らしい。
 それでも現地の研究を網羅し、基本文献を再整理し、史料を細かく比較することで、本書は日本と高麗の関係や高麗史そのものに新視点を提示することに成功した。
 日本と高麗は国交がないにもかかわらず、高麗はしばしば接点を持とうとした。承暦4(1080)年には国王の病を治すため、日本の朝廷に医師の派遣を依頼。また、嘉禄3(1227)年には倭寇の禁圧を求め、使節を九州の大宰府に送った。近藤さんは新史料発見などを通じ、従来1度と考えられてきた嘉禄3年の来航が実は2度だったことなどを明らかにした。
 厳しい国際環境にあっても、隣りあう国々はまったく無関係ではいられない。それを今考える意味でも、注目すべき1冊といえる。


◆書評:矢嶋光*24著『芦田均*25と日本外交*26』(熊本史雄*27
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

矢嶋 光
◆研究の紹介
 芦田均という人物の伝記研究をしています。伝記研究とは、研究対象となる人物が残した記録を参照しながら、その人物が歩んだ道に沿って歴史を記述するという研究方法です。私は、幸運にも芦田が記した日記の一部を翻刻する作業に携わることができました。日記は芦田が第一高等学校の学生であった1905(明治38)年から死の床につく1959(昭和34)年までの間のほぼ全期間にわたって克明に記されています。この日記を手がかりとして、芦田の視点から戦前・戦後の日本の政治や社会状況を再現するとともに、外交官・政党政治家として活躍した芦田が日本の政治外交にどのような影響を与えたのかを明らかにしたいと考えています。

第180回 矢嶋 光 | 育て達人|名城大学
◆インタビュアー
 芦田均日記に導かれて研究者になったそうですが。
◆矢嶋
 最初は芦田均の研究がほとんどなかったから*28という安直な理由からでしたが、戦前の日記を翻刻する作業を手伝わせていただいた頃から、芦田という個性に引かれるようになりました。1950年に勃発した朝鮮戦争に際して、日本の再軍備を主張したことが「変節」と見なされてきましたが、研究していくうち、外交官だった芦田の普遍主義的国際政治観に基づく一貫性を見いだすようになりました。
◆インタビュアー
 研究者としての転機はありますか。
◆矢嶋
 獨協大学の福永文夫*29先生のお誘いで、戦前に記された日記を閲覧できるようになったことです。2007年、博士後期課程に進んだ時でした。日記は、芦田が第一高等学校の学生であった1905年から死の床につく1959年までの間のほぼ全期間にわたって克明に記されています。
◆インタビュアー
 研究が面白いと思った瞬間はどんな時ですか。
◆矢嶋
 日記を読んでいると、若かりし頃には甘酸っぱい恋愛、家庭を持つようになってからは妻や子どもに対する愛情というように、私的なこともたくさんつづられており、その人柄が分かり、とても面白いのです。ほとんど政治的な話題で埋め尽くされている原敬*30(1856~1921年)の日記とは対照的で、芦田の内面を知ることができます(もちろん原日記は原日記で他の政治家をあしざまにののしるなど、本音が漏れるところがあって面白いのですが)。
◆インタビュアー
 研究の一区切りが近著『芦田均と日本外交-連盟外交から日米同盟へ-』ですね。
◆矢嶋
 学位論文を基に加筆修正した初めての単著です。戦前から戦後にわたる芦田の政治的足跡をたどることによって彼の再軍備論を内在的に分析し、戦後日本外交の形成期におけるその位置づけを明らかにしました。

2020年1月20日に奈良大学文学部史学科の特別講義が、矢嶋光 先生をお迎えしておこなわれました。 | 史学科からのお知らせ | 文学部:史学科 | 学部・大学院 | 奈良大学
・2020年1月20日奈良大学文学部史学科の特別講義が、矢嶋光(やじま・あきら)先生をお迎えしておこなわれました。
【内容】
 矢嶋光先生による芦田均の日記や写真に着目した政治外交史がテーマであった。
 講義前半は、芦田均第二次世界大戦期に日本の外交官としてパリやベルギーに在駐していたことや国際連盟脱退後政治家に転身、戦後の憲法修正に深く関わることになるなど、写真をなぞらえ生涯を紹介された。

出版報告会を開催しました
 2月6日(木)、矢嶋光准教授(国際政治学)が法学会出版助成を受けて出版された、『芦田均と日本外交:連盟外交から日米同盟へ』(吉川弘文館)の出版報告会を開催しました。
 報告会ではまず、矢嶋准教授から芦田均の人となりが写真を使って紹介され、引き続き同書の内容についての報告がありました。戦後、再軍備論を主張した芦田は先行研究ではリアリストとして位置づけられています。それに対して矢嶋准教授は、戦前、国際連盟成立から始まった理想主義的な「新外交」に芦田が強い影響を受けている点に着目し、新たな芦田均像の提示と戦後日本外交における再軍備論の整理を試みました。そして戦後の芦田の再軍備論はリアリズムに基づく自主防衛論者のそれではなく、国際連合憲章日本国憲法との整合性という観点から現れたものであると論じました。最終的に芦田の再軍備論は米ソ冷戦による国連の機能不全という現実を前に日米同盟への傾斜という道を辿ったという議論がなされました。

 つまりは「米ソ協調で国連が機能すると認識すれば」芦田は「再軍備を主張しなかった」が、朝鮮戦争での米ソ対立で「機能しないと認識した」ので再軍備を主張したというのが矢嶋説のようですね。もちろん「戦前からの英米協調主義」の芦田にとって「日本社会党などの非同盟中立主義」はその場合、選択肢に上がってこないという話です(こうした矢嶋説の是非については評価するだけの能力が無いので特にコメントしません)。
 この矢嶋説に立てば例の「芦田修正」も「後年の芦田の主張(改憲しなくても集団的自衛権行使可能)」が本心かどうかは疑わしく「後知恵ではないのか」と言う話になります。

【日曜に書く】「芦田修正」本人が訴えた改憲 論説委員・河村直哉(3/3ページ) - 産経ニュース
・芦田は早い時期から再軍備憲法改正を訴えている。
・(ボーガス注:昭和)30年5月3日、憲法記念日毎日新聞に寄せた文章では、明確に改憲を訴えている。
 「憲法の定めるごとく、国の生存を他国の公正と信義とに信頼して果して安泰なのであろうか。世界の平和と秩序を維持するために我々もまた他の諸国とともに応分の犠牲を払う決心を必要とするのではないか」
・生存者、物故者を問わず、政治家を過大に美化すべきではあるまい。功なり罪なりが冷静に評価されるべきだろう。
 確かなのは、芦田は修正でよしとせず、憲法改正への思いを持ち続けたことである。
 日記によると改進党時代の保守合同に向けた動きのなかでも、「憲法改正自衛軍編成の準備」にこだわった((ボーガス注:昭和)29年5月3日など)。自主憲法期成議員同盟発会式の声明書も書いている((ボーガス注:昭和)30年7月11日)。

 ということで産経など一部ウヨ連中からは高評価される「改憲右派」芦田です。
 ただし産経と違い「戦前、戦後を通じて」芦田が一貫して「幣原喜重郎*31吉田茂*32に代表される英米協調派」に近い立場であることには注意が必要でしょう。
 そのため、書評者・熊本氏に寄れば、戦前において芦田は英米協調主義の立場から、林*33内閣の佐藤*34外相によるいわゆる佐藤外交、具体的には

佐藤尚武 - Wikipedia
 1937年(昭和12年)、林内閣で外務大臣に就任。佐藤は入閣の条件として、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを林首相らに提示し、これを確認した上で就任を受諾した。だが、就任直後の帝国議会で、持論の中国との話し合いを説き、戦争勃発の危機は日本の考え方次第であると述べた内容が、軍部や右翼から「軟弱外交」と非難を浴びることになった。そうした状況でも関東軍が推し進めた華北分離工作に反対し、中国との対立を避けるためにその具体策として日華貿易協会会長児玉謙次を団長とする経済使節団を中国に派遣した。使節団の一行は、3月12日に神戸港を出帆して中国に渡り、蔣介石と会見し、中国政府要人及び経済人と26日まで幾度か会合し、協議した。しかし林内閣の総辞職とともに退任。その直後に盧溝橋事件が起きた。

という佐藤の外交方針を支持しますが、「上に書いてあるように」林内閣崩壊後に佐藤も外相を退任、そして盧溝橋事件が発生したことで佐藤的な方向性(英米協調&中国との和平)は挫折するわけです。

*1:元・文化庁文化財部美術学芸課主任文化財調査官。著書『日本の文化財:守り、伝えていくための理念と実践』(2019年、勉誠出版)など

*2:現在、日本共産党常任幹部会委員(党青年・学生委員会責任者兼務)

*3:もちろんそうした危惧の念を表明する関係者の一人が池田寿氏です。

*4:福田内閣防衛相、麻生内閣経済財政担当相、第二次、第三次安倍内閣農水相、第四次安倍内閣文科相など歴任

*5:著書『「太平記読み」の時代:近世政治思想史の構想』(1999年、平凡社選書→2012年、平凡社ライブラリー)、『安藤昌益からみえる日本近世』(2004年、東京大学出版会)、『近世の政治思想論:『太平記評判秘伝理尽鈔』と安藤昌益』(2012年、校倉書房)、『百姓一揆』(2018年、岩波新書

*6:例えば観光のためとはいえ、神話を史実であるかのように扱うのもいいかげんにしてほしい(ラグビー日本代表のさざれ石の見学なんていうのは、愚劣にもほどがある) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が批判する「宮崎サンシャインレディ(宮崎市の観光親善大使)のFacebook」などは高木教授が批判する「観光のために史実より神話や物語を優先するような傾向」の一例でしょう。

*7:京都大学教授。著書『近世畿内・近国支配の構造』(2006年、柏書房

*8:京都大学教授。著書『近代天皇制の文化史的研究:天皇就任儀礼・年中行事・文化財』(1997年、校倉書房)、『近代天皇制と古都』(2006年、岩波書店)、『陵墓と文化財の近代』(2010年、山川出版社日本史リブレット)など

*9:著書『日本古代の宮都と木簡』(1997年、吉川弘文館)、『古代の遺跡と文字資料』(1999年、名著刊行会)、『出土史料の古代史』(2002年、東京大学出版会)、『古代の地方官衙と社会』(2007年、山川出版社日本史リブレット)、『古代史講義:邪馬台国から平安時代まで』(編著、2018年、ちくま新書)など

*10:これについては赤旗山本担当相「がんは学芸員」発言 誤解の余地のない暴言/小池氏、辞任を要求山本地方創生担当相 辞任せよ/田村氏 「学芸員発言」で迫る/衆院特別委2017とくほう・特報/山本創生相の学芸員敵視発言に見る/稼げ稼げ 地方と文化に迫る/安倍「地方創生」「観光立国」の正体参照

*11:著書『陸軍特攻振武寮:生還した特攻隊員の収容施設』(2009年、光人社NF文庫)、『最後の震洋特攻』(2015年、光人社NF文庫)など

*12:熊本大学教授(熊本大学永青文庫研究センター長)。熊本被災史料レスキューネットワーク代表。著書『戦国時代の荘園制と村落』(1998年、校倉書房)、『日本近世社会形成史論』(2009年、校倉書房)、『細川忠利』(2018年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*13:大阪歴史博物館館長。著書『戦国・織豊期大坂の都市史的研究』(2019年、思文閣出版)など

*14:和歌山県立文書館主査

*15:エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)館長。個人ブログ吟遊旅人のシネマな日々。個人ツイッター谷合佳代子@エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館) (@ginyuryojin) | Twitter

*16:土着かどうかがMukkeさんにとって補助金出すかどうかの基準のようです。確かに「文楽と違ってクラシック楽団はいくらでもある」けど「大阪市音楽団は一つしかない」んだからそういう話じゃないと思うんですけどね。

*17:公益財団法人公害地域再生センター(あおぞら財団)研究員。著書『西淀川公害の40年』(編著、2013年、ミネルヴァ書房

*18:千葉大学講師

*19:ロンドン市長、メイ内閣外相を経て首相

*20:2019年、八木書店

*21:九州大学教授。著書『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』(2011年、山川出版社世界史リブレット)、『モンゴル覇権下の高麗』(2013年、名古屋大学出版会)

*22:1947~2015年。中央大学名誉教授。著書『日本渤海関係史の研究』(2001年、吉川弘文館)、『東アジア世界と古代の日本』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『なぜ、モンゴル帝国に強硬姿勢を貫いたのか(NHKさかのぼり日本史8 )』(2013年、NHK出版)、『石井正敏著作集1:古代の日本列島と東アジア』(2017年、勉誠出版)、『石井正敏著作集2:遣唐使から巡礼僧へ』(2018年、勉誠出版)、『石井正敏著作集3:高麗・宋元と日本』(2017年、勉誠出版)、『石井正敏著作集4:通史と史料の間で』(2018年、勉誠出版)など

*23:「幽明境(ゆうめいさかい)」とは「あの世とこの世の境目のこと」。「幽明境を異にする」で「死去したこと」を示す。「幽明相隔てる」、「幽明処を隔つ」ともいう。

*24:名城大学准教授

*25:幣原内閣厚生相、日本自由党政調会長民主党幹事長、総裁、片山内閣副総理・外相、首相を歴任

*26:2019年、吉川弘文館

*27:駒澤大学教授。著書『大戦間期の対中国文化外交:外務省記録にみる政策決定過程』(2013年、吉川弘文館)、『近代日本の外交史料を読む』(2020年、ミネルヴァ書房

*28:まあ幣原内閣(芦田が厚生相)、片山内閣(芦田が副総理・外相)、芦田内閣全て短命ですからね。

*29:著書『占領下中道政権の形成と崩壊:GHQ民政局と日本社会党』(1997年、岩波書店)、『戦後日本の再生:1945~1964年』(2004年、丸善)、『大平正芳:「戦後保守」とは何か』(2008年、中公新書)、『日本占領史1945-1952:東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)など

*30:第4次伊藤内閣逓信相、第1次、第2次西園寺、第1次山本内閣内務相などを経て首相。首相在任中に暗殺される。

*31:戦前、加藤高明、第1次若槻、濱口、第2次若槻内閣外相を歴任。戦後、首相、吉田内閣副総理、衆院議長を歴任

*32:戦前、天津総領事、奉天総領事、駐スウェーデン公使、外務次官、駐伊大使、駐英大使など歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣外相を経て首相

*33:朝鮮軍司令官、斎藤、岡田内閣陸軍大臣、首相など歴任

*34:駐ベルギー大使、駐フランス大使、林内閣外相、駐イタリア大使、駐ソ連大使など歴任