「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年2/21分:荒木和博の巻)

私と韓国の関わりについて(2月21日のショートメッセージ): 荒木和博BLOG

 令和3年2月21日日曜日のショートメッセージ(Vol.325)。よく聞かれる「何で韓国(朝鮮半島)のことをやるようになったのですか」という質問へのお答えです。

 7分50秒程度の動画です。「拉致に関係ない話をするんじゃねえよ、バカ」ですね。質問する方もバカだと思いますが。
 さて「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年2/20分:荒木和博の巻) - bogus-simotukareのブログで紹介した

「想定外」の話(2月20日のショートメッセージ): 荒木和博BLOG
 令和3年2月20日土曜日のショートメッセージ(Vol.324)。昨日のライブ、最後でスマホのバッテリーが上がってしまい失礼しました。すべて想定内でやろうとしたら何もできません。世の中いつでも想定外のことは起きるものだということで民社党当時のことなど想定外のお話しを。

ですが、『今回の動画での荒木』曰く、動画視聴者から「予備のバッテリーを用意しておけば良かった。全然想定外じゃねえよ」という突っ込みがあったそうです。 
 荒木曰く「予備は持っていたが、バッテリー切れだとわからず故障かと思っていたし、予備バッテリーの存在も忘れていた」
 全くお粗末な男です。
 さて、荒木曰く「韓国との関わり」は「私の父が朴正熙の入学した満州国陸軍軍官学校の同期だったので親しみを感じた(ただし父と朴には面識はない)」「慶応義塾大学の授業で朝鮮語の授業を取った」。
 荒木の父親も荒木並みのウヨなんでしょうか?
 とはいえ

荒木和博 - Wikipedia
1994年(平成6年)、民社党の解党*1に伴い退職し現代コリア研究所で研究部長[要出典]。

ですからねえ。荒木和博 - Wikipediaによれば、荒木の韓国関係の著書も一番最初は、民社党解散直前の『愛し哀しき韓国よ!』(1992年、亜紀書房)のようですし、この『愛し哀しき韓国よ!』は

愛し哀しき韓国よ! / 荒木 和博【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
【内容説明】
 朴正煕をテーマに「卒論」を書き、延世語学堂に留学、韓国語で独り言をいう「韓国病患者」が、暮しと交友を通じて認識した日本と対照的な社会と人を軽快なタッチで語った本。
【目次】
序章 大嫌い、大好き―あゝこの大分裂
1 マリア違い
2 アイゴー
3 ユギョ(儒教
4 ポス(バス)、チョルト(鉄道)
5 ミンジュファ(民主化
6 トンギル(統一)
7 パニルカムジョン(反日感情
終章 具体と抽象の遠い距離

ですから「拉致問題」はおそらく出てきません。
 つまりは1994年に民社党が消滅して食い扶持を必死に探して「拉致関係を始めた」だけですよねえ。民社党が消滅していなければ荒木も拉致に関わることはほとんど無かったでしょう。その拉致関係の本も、荒木和博 - Wikipediaによれば、初めての荒木の単著は小泉訪朝後に出版された『拉致救出運動の2000日:1996年→2002年』(2002年、草思社)です(つまりはそれ以前は雑誌論文と共著のみ)。小泉訪朝が無ければむしろ今頃は「全く食えなくて」荒木も拉致問題への関わりを辞めていたんじゃ無いか。しかも

『拉致救出運動の2000日:1996年→2002年』

というタイトルから考えるに荒木が本格的に拉致に手を出したのはやはり「民社党解散(1994年)の後の1996年」なんでしょう。
 さて荒木が以前訪韓したときに「打倒北朝鮮」なんてことを「太陽政策支持の韓国外務省関係者」相手に放言して、相手の反感を買い、『日本の植民地支配のせいで南北分断なのに、日本人のあなたが良くそんな無神経な事が言えますね*2』とその関係者に嫌みを言われたのが「訪韓したときに言われて一番不愉快だったこと」だそうです。
 ちなみにその時にその場にいた「韓国人ウヨ活動家」がその外務省関係者を「北朝鮮シンパか!」と悪口してくれたことが荒木的に「嬉しかった」そうです。もちろんこの外務省関係者に限らず「太陽政策支持」の立場の人間は金大中氏、盧武鉉氏、文在寅氏なども荒木ら日本ウヨや「韓国の反北朝鮮ウヨ」が「北朝鮮シンパ」扱いして敵視しているのは言うまでもありません。
 「やれやれ」ですね。
 荒木たち、救う会の目的が「拉致の解決」ではなく「打倒北朝鮮」という右翼的な企みだと言うことがよく分かります。というかそんな話が拉致の解決と何の関係があるのか。何の関係もない。

【参考:満州国陸軍軍官学校】

満州国陸軍軍官学校 - Wikipedia
 1939年4月に、満洲国軍の軍官(士官)を育成する機関(士官学校)として、陸軍軍官学校令に基づき設立された。
 日本人将校を育成するだけの学校ではなく、台湾人、朝鮮人満洲人が同じ教育・訓練を受けた士官学校である。なお、蒙古系満洲人に対しては、1934年7月に蒙古人軍官養成を専門とする興安軍官学校が設立され、1939年10月に陸軍興安学校に改称した。日系生徒は独自の試験がなく、内地の陸軍予科士官学校などの志願者から選抜されていた。日系生徒は満洲予科卒業後、本科は全員が内地の陸軍士官学校(陸士)、陸軍経理学校、陸軍航空士官学校へと戻り、日本軍の幹部候補生(幹候)とともに学んだ。また満系生徒も予科卒業生のうち、選抜された成績優秀者は日本陸士編入特典が付与された。

【世界記憶遺産】「シベリアの悲惨さ語り継ぐ」元抑留者、登録を歓迎(1/2ページ) - 産経ニュース2015.10.10
 満州にあった満州国陸軍軍官学校に在籍していた小池禮三(れいぞう)さん(88)は東京都調布市の自宅で同期会の名簿を開いた。終戦当時は10代後半の若者が大半の同期375人のうち83人がシベリア抑留で命を落とし、自身も収容所で過酷な生活を強いられた。
 「これを機に強制労働のことをもっと若い世代に広く知ってもらいたい」。
 世界記憶遺産にシベリア抑留の関連資料が登録されたことを評価する。
 小池さんは24年に帰国。同期らと自費で亡くなった人たちの遺骨収集に取り組み、厚生労働省とも協力。遺骨を東京・千鳥ケ淵の戦没者墓苑に納めた。
 元抑留者は高齢化が進む。
 「あの強制労働は繰り返してはいけない。語り継ぐことがわれわれの残された任務だ」

【満州文化物語(14)】なぜ17歳の少尉は、終戦後も戦い続けたのか 「満州国軍」の真実(1/5ページ) - 産経ニュース2016.1.3
 今から70年前の昭和21(1946)年4月。終戦から約8カ月が過ぎた旧満州国の首都、新京(現中国・長春)で、17歳の「少尉」西川順芳(のぶよし)(87)は(ボーガス注:国共内戦という)「新たな戦争」の最前線に立たされていた。
 元満州国陸軍軍官学校(士官学校)7期生。昭和19年12月、16歳になったばかりの西川は神奈川・湘南中学(旧制)から4修(※旧制中学は本来5年間だが、4年でも上級学校の受験資格があった)で新京の軍官学校へ入り、大望を抱いて満州の大地を踏む。
 ところが、わずか8カ月で終戦。五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成される軍官学校生徒は反乱や逃亡が相次ぎ、17、18歳の約360人の日系(日本人)生徒のほとんどはシベリアへ抑留されてしまう。
 知人宅に身を寄せ一冬越したたところへ満系(中国人)の軍官学校同期生が突然、訪ねてきたのである。
 「お前、7期の西川だろう。一緒に来いっ」
 西川に重慶からきた国民党の中国人将校のふりをして、小隊を率い、八路軍と戦え、というのだ。
 21年4月、新京の周辺はすでに八路軍が包囲していた。兵力が足りない重慶軍は旧満州国軍の元将兵も動員して対抗しよういうのである。だが、西川には同期といえ、その満系の生徒とは一面識もない。しかも、戦争が終わってすでに半年以上たっているのだ。
 「今さらヨソ(中国の内戦)の戦争になんて加わりたくなかった。だが、(戦争に負けた日本人の元軍人である)私が断れば密告されて、どんな目に遭うか…。従うしかない。後は条件闘争だった」
 支度金は1000元(お米半年分)、階級は少尉、60人の部下をつけること…。重慶軍側は西川の条件を飲み、西川は小隊長格として重慶軍の軍服を着る。軍には、同じように参加した軍官学校の日系の先輩や同期が何人もいた。
 西川が言う。
「参加した日本人それぞれ、断れなかったことや支度金にひかれたこと以外にも理由はいくつかあるでしょう。満州国軍の元同僚(満系)に『義』を感じて参加した。あるいは、その戦いに『日本再興』の夢を見ている人がいたかもしれません」
 同じころ、やはり10代の若者であった軍官学校の同期生(7期)の多くはシベリアの収容所で、最年少級の抑留者として「地獄」を味わっていた。
 軍官学校7期生、小池禮三(れいぞう)(88)は新京でソ連軍によって武装解除され、20年10月、チタ州ブカチャーチャの炭鉱にある収容所へ送られた。
 「(満州国軍へ入るとき)一人息子だからオヤジが反対してね。でもあのとき(19年12月の入校時)は内地より満州の方が安全だと思われていたんですよ。終戦後、武装解除され列車に乗せられた後も、てっきり内地へ帰してくれるもんだと…。シベリアなど夢にも思わなかった」
 「重症者は(別の場所の)野戦病院へ送られたり、収容所内の病棟へ入れられたが、あまりにも患者が多すぎてほとんどはただ、寝ているだけ。下痢が止まらなくて便は垂れ流し、高熱が脳症を誘発し、気がおかしくなった者が続出しました。それはもう悲惨な状況でしたね」
 小池には水戸出身の同期の最期が忘れられない。病床を見舞った小池に彼は、やせ細った体、消え入るような声で問うてきた。
 「東はどっちだ? 体を向けてくれないか」
 彼は、口の中で一言だけつぶやいた。
 「おかあさん…」
 翌朝、小池が再び見舞うと若者はもう冷たくなっていた。同じ18歳。水戸弁が印象的な男だった。どれほど故郷へ帰りたかったろうか。ひと目、愛しい母に会いたかったろうに…。
満州国
 昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国の軍隊。同国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)によって構成され、総兵力は約15万(終戦時)。同年9月の日満議定書によって、日本軍(関東軍)との共同防衛を約し、同時に交わされた日満守勢軍事協定案で「第三国の侵略にあたって両国軍は日本軍指揮官による統一指揮で行動する」とされた。士官学校にあたる軍官学校は新京(日系、満系)と興安街(蒙系)にあった。

【満州文化物語(16)】日本「陸士」受験したが、満州国軍に 運命変えた“回し合格”…(2/6ページ) - 産経ニュース2016.1.31
 五族のうち、日系生徒は少し扱いが違う。予科の2年間(戦争末期には短縮)を新京で過ごした後、本科は内地の陸士などで学ぶ(軍医・獣医生徒は除く)システムが採られていた。
 入校の経緯も面白い。彼らは満州ではなく、内地の出身で、そもそも満州国軍に入るつもりなどなかった。というよりも、日本人を対象にした満州国陸軍軍官学校採用試験は初めからなかったのである。
 彼らは、日本の陸軍予科士官学校経理学校を含む)受験者から推薦されていた。“回し合格”というべき制度だが、陸士の合格点に達しなかった訳ではなく、優秀な人材の確保や共同作戦にあたる日本軍との一体化を図る狙いがあったとされる。この制度は、戦後までほとんど知られることがなかった。
 満州国陸軍軍官学校、最後の期となる7期生の小池禮三(れいぞう、88)は、日本の陸士試験の身体検査で、「胸に影がある」と診断されて帰された。
 「剣道2段で、健康には自信があったから『何かの間違いでしょう』とフンドシ姿で2時間も粘ってみたが、ダメだった。しばらくして、陸軍省から『満州国(陸軍軍官学校)に推薦する。応否を連絡せよ』という通知が来たのです」
 同じ7期生の茨木治人(はると、89)は、主計将校などを養成する陸軍経理学校を受験していた。
 「(合格には)絶対の自信があって『私の合格電報を忘れていませんか?』と校長宛に手紙を出したくらい。すると『あなたは満州に推薦してありますから』と返事が来た。母親は反対したけど、僕は満州にあこがれていた。すぐに行く気になりましたね」
 やはり7期生で、21年4月の「国・共」による中国内戦に国民党軍少尉として参加した西川順芳(のぶよし、87)は19年に日本の陸士を受験したとき、まだ15歳だった。神奈川・湘南中学(旧制)の4年生。満州・軍官学校への推薦を打診されて、「満州国軍に尽くすことが日本のためにもなる」と素直に喜んだ。
 だが、両親や親類が反対。特に強硬だった母親は説得のため、西川の大叔父で、東條内閣の農商務相や貴族院議員を務めた内田信也(のぶや)*3の所へ連れていく。
 内田は終戦1年前の段階で、日本が置かれている状況を正確に掴(つか)んでいた。すでに敗戦は必至であること。来年(昭和20年)夏か遅くとも秋には満州ソ連軍が侵攻してくること。満州国は崩壊し日本人は帰って来られなくなること。さらには、軍人はシベリアへ連行されるであろうことまで並べ立てて、西川の渡満を止めたのである。
 軍国少年だった西川はムキになった。
 「(内田は)『満州へ今から行くなんてバカだ』と言う。それが悔しくて、『おじさん、もう一度そんなこと(日本が負ける)言ったら、憲兵隊に言い付けますよ』と言い返してしまった」
 15歳の少年にそこまで言われた内田は匙(さじ)を投げた。
「バカモン! もう勝手にするがいい」
(中略)
 ソ連軍侵攻ですべてが暗転してしまう。その約1カ月前、1期上の日系6期生が陸士での本科へ進むため、内地へ去っている。だから、ソ連軍侵攻時に日本人生徒として残っていたのは8カ月前に満州へ来た7期生だけだった。
 実戦経験などまったくない彼らが突如、新京防衛の部隊に組み込まれ、敵の圧倒的兵力の前に「死」を覚悟する。そして、なすす術もなく武装解除、シベリア抑留…同期生のうち、80人以上が祖国へ帰ることなく無念の死を遂げた。
 21年夏に日本へ引き揚げた西川は、大叔父の内田と再会し、頭を下げるハメになった。「おじさんの言う通りだった」と。

【満州文化物語(18)】極寒の重労働への怒り、80人超の同期生を失う悲しみ染み込む「セメント袋歌集」 シベリア抑留者の慟哭…(1/4ページ) - 産経ニュース2016.2.28
 満州国陸軍軍官(士官)学校7期生、小池禮三(れいぞう、88)。
 小池は一度、酷いやり口で絶望を味わっている。ブカチャーチャという炭鉱の収容所(ラーゲリ)で約3年間、強制労働に就かされた後、「日本への帰国」を告げられ、船が出るナホトカまで来たというのに「船が来ない」という理由で別の収容所へUターン。落胆はあまりに大きかった。
(中略)
 「ソ連参戦の情報を私たちはまったく知らなかった。戦況の悪化で関東軍主力が南方へ転出させられているとは聞いていたけど、日本が負けるなんて思いもしなかった」
 満州と彼らの運命は暗転する。実戦経験など皆無の少年たちは、いきなりソ連軍の大部隊を迎え撃つ最前線へと放(ほう)り出された。塹壕(ざんごう)掘りを命じられ、「戦車が攻めてきたら爆雷を抱いたまま飛び込むのだ」と…。死ぬことを前提にした特攻作戦である。もはや届くはずもない遺書を書き、抽斗(ひきだし)にしのばせた。
 一方、日本の敗色濃厚を察知した満系の軍官・生徒は逃亡や反乱に動き出す。新京の満州国軍は、空中分解したまま終戦を迎え、日系の軍官・生徒は、ソ連軍に武装解除される。そこで生死を分かつ「運命の分かれ道」があった。
 20年9月初め、新京郊外・南嶺の旧軍兵舎でソ連軍の監視下に置かれた軍官学校の日系生徒約370人は「究極の選択」を迫られていた。シベリアへの移送は始まっていないが、前提となる作業隊の編成をソ連側から急(せ)き立てられている。動くなら今しかない。
 「満州係累のある者は離脱を認める」
 学校幹部から“お触れ”が出された。新京に知人がいた7期生の西川順芳(のぶよし、87)は渡満前に大叔父の内田信也(のぶや=東條内閣の農商務相)から聞いた「シベリア抑留」の話が頭をよぎり、離脱を決意する。「冬用の背広に着替え、一般人のふりをしてソ連兵の監視をすり抜けた。トランクには軍服が入っていて、中国人警官に見咎(みとがめられたときは冷汗が流れた」
 離脱組は約60人。新京の知人宅に潜んでいた西川が翌21年4月、中国の国共内戦に巻き込まれるのは、以前書いた通りである。
 小池は残った。
「そのときはまさか“シベリア行き”とは思いもしない。貨車に乗った後もソ連兵は『東京ダモイ(帰還)』を繰り返していたから先に内地へ帰るのは(離脱組ではなく)私たちの方だと…」
 酷寒の地で小池らを待っていたのは(ボーガス注:強制収容所での労働という)想像を絶する「地獄」だった。
 「珍しくスープに魚が入っていると喜んだらあまりに渋くてのどを通らない。袋を見たら昭和2年製。つまり、『肥料』になっていた魚を食べさせられたのですよ」
 最初の冬にシラミを媒介にした発疹チフスが大流行する。40度以上の高熱、脳症…大人になりきっていない若い体から、あっけなく命を奪ってゆく。

【満州文化物語(31)特別編】同窓の権力者に粛正された満州人脈は…「同徳台」=満州国軍官学校の光と影(1/4ページ) - 産経ニュース2016.9.4
 1961年5月16日、韓国陸軍第2軍副司令官、朴正煕(パクチョンヒ=当時少将、満州国陸軍軍官学校2期、後に韓国大統領)が主導した軍事クーデターが勃発する。
 同日早朝、決起部隊の先陣を切って首都ソウルへ突入したのは軍官学校の後輩で、第1海兵旅団を率いる准将、金潤根(キムユングン、90)=軍官学校6期、後に韓国海兵隊中将=であった。
 決起には軍官学校の先輩、李東河(イドンハ)、朴林恒(パクイムハン)、李周一(イジュイル)=いずれも1期=らも参画。クーデターを成功させた朴は国家再建最高会議議長に就任、63年には韓国大統領の座に就く。満州人脈は主要勢力の1つだった。
 金潤根は『韓国現代史の原点-朴正煕軍事政権の誕生』にこう書いている。
 《満州国軍官学校は、その所在地から同徳台(どうとくだい)の通称があった。ソウル近辺に勤務する同徳台出身の将校達は、週末になると中華料理屋に集まって…憂国の悲憤慷慨(ひふんこうがい)を吐露する会合に変わっていった》。
 朴正煕も軍官学校の後輩をかわいがり、「同徳台」の会合にはポケットマネーを惜しみなく出していたという。
 今も健在な韓国人の軍官学校の出身者は、95歳の白善燁(ペクソンヨプ=前身の陸軍中央訓練所9期生、韓国陸軍初の大将)を筆頭に、わずか数人だけとなった。

「朝鮮戦争の英雄」、大田に埋葬 保守派は反発: 日本経済新聞2020.7.15
 韓国で「朝鮮戦争の英雄」と呼ばれ、10日に99歳で死去した白善燁(ペク・ソンヨプ)元韓国陸軍大将の告別式が15日、首都ソウルで開かれ、その後に韓国中部の大田にある国立墓地に埋葬された。首都に葬られなかったことに保守派は反発している。
 白氏は1950~53年の朝鮮戦争の際、第1師団長として米軍との共同作戦で北朝鮮軍に圧勝し、反撃の足がかりをつくった。
 国家功労者がまつられる国立墓地「顕忠院」はソウルと大田の2カ所にある。白氏は保守派にとって救国の英雄で、保守政権時代はソウルの顕忠院に埋葬されるとみられていた。
 だが、葬儀を主管する韓国陸軍が大田に埋葬すると発表したことで、保守派は強く反発した。陸軍はソウルには空きがなく、遺族も了承していると説明するが、保守系野党、未来統合党の金鐘仁(キム・ジョンイン)非常対策委員長は13日、「理解に苦しみ、遺憾だ」と語った。
 文在寅ムン・ジェイン)政権を支持する革新派は白氏が旧満州国の軍人だった過去を問題視し親日派とみなす。白氏の私設焼香所が設置されたソウル中心部では市民団体が国立墓地への埋葬に反対する抗議集会を開いた。


救国の英雄・白善燁氏さえ「親日派」として死後に冷遇する文在寅政権の異常な歴史観 反対派にレッテルを貼るために、文政権は歴史を歪曲・捏造しようとしているのか(BSフジLIVE「プライムニュース」2020年7月22日放送)
◆李泳采*4(イ・ヨンチェ) 恵泉女学園大学大学院 教授:
 白氏自身が朴正煕大統領時代以降に戦争史をつくる責任者となっており、英雄化されすぎているという指摘がある。韓国の憲法は、北朝鮮に対し反共産主義国家として立てられたが、同時に1919年の朝鮮独立運動の精神も含んでいる。そして、当時白氏は「間島特設隊」にいた。
◆反町理キャスター:
 日本からの独立を目指す朝鮮人武装勢力を弾圧する朝鮮人部隊だったとされている。
◆李泳采 恵泉女学園大学大学院 教授:
 独立を目指す朝鮮人指導者の首を切ったり、弾圧する部隊。ほぼ朝鮮人で作られているが、そこに白将軍がいた。国立墓地には満州などで独立運動をした人々もいる。白将軍によって殺された人の遺族にとっては英雄として持ち上げるべきなのか、という議論がある。文在寅大統領の哲学・歴史観の中ではふさわしくないと思ったからこの待遇となっている。世論は半々で、保守派は当然不満を持つ。李承晩(イ・スンマン)政権では日本統治時代の人たちを雇っていた。李承晩政権が守った親日派親米派となり、親日・親米の性格を持っている人が主流派となって、戦後韓国政権の中心となった。

俺の手、まるでミイラの様 「衣食住ない」シベリア抑留 [戦後75年特集]:朝日新聞デジタル2020.8.15
 仙台市太白区の庄子英吾さんは、連日パソコンに自身の戦争体験記を打ち込んでいる。戦後75年。今月20日で94歳になる。18歳で旧満州にあった軍官学校に入り、終戦後は3年間のシベリア抑留で死線をさまよった。
 庄子さんは、1944年末に旧満州の新京(現・長春)にあった軍官学校に入校。爆弾を背負って戦車に体当たりする訓練などを繰り返すうち、終戦を迎えた。旧ソ連側から「東京に帰る」と言われて乗った貨車は、シベリアのブカチャーチャへ。炭鉱の町での強制労働を強いられた。
 入校時375人いた同期のうち83人が抑留中に犠牲になった。
 「帰国しても捕虜の事は恥ずかしくて家族以外には、殆(ほとん)ど語らなかった」といい、農協勤務やプロパンガス販売など仕事に打ち込んだ。2人の子どもを育て、幸せな家庭を築いた。
 だが、1991年に墓地調査のためのシベリア訪問が許され、記憶の風化を思い知らされた。地元住民で墓地の場所を知っている人はいなかった。
「四十数年前のことが、そんなに早く忘れ去られるものか」。
 驚きと同時に憤りを覚えた。
 2012年には仙台高校で初めて抑留体験を語るなど、講演で各地に出かけた。「同期のあの83人に自分は生かされている」という思いが強い。数年前からしゃべりづらくなり、執筆に力を入れる。
 軍官学校の同期で宮城県出身の10人ほどのうち、存命は庄子さんだけ。

*1:1994年に民社党公明党新生党(小沢、羽田グループ)、日本新党(細川グループ)が合同して新進党を結党。しかし1997年に新進党は解散。解散後は紆余曲折あり、現在の「公明党」「立憲民主党」「国民民主党」になっている。

*2:まあそれ以前に拉致解決とそんなことは関係ない上に、中露が北朝鮮を経済支援しているので現実性も低いですが。

*3:内田汽船(後に内田造船所に名称変更)創業者。岡田内閣鉄道相、東条内閣農商務相(以上、戦前)、吉田内閣農林相(戦後)など歴任(内田信也 - Wikipedia参照)

*4:著書『韓流が伝える現代韓国:『初恋』からノ・ムヒョンの死まで』(2010年、梨の木舎)など