今日の中国ニュース(2021年3月26日分)(副題:楊海英の馬鹿さに心底呆れる、ほか)

台湾の「フリーダム・パイナップル」運動、対中依存の高さ露呈:時事ドットコム
 最近はやたら「反中国色濃厚な記事が多い」中、まともな記事だと評価したい。
 「中国のパイナップル禁輸」で「中国以外に売れば良い」といったところで、そう簡単には売れず、台湾農家の「中国依存」がかえって露呈しているという記事です。


21世紀の「ジェノサイド」ウイグルの真実パネル展&講演会in横浜 | 日本ウイグル協会
1)日本ウイグル協会の事務局長が「新しい歴史教科書をつくる会つくる会)理事」というデマ極右「三浦小太郎」であること(もちろん三浦はウイグルの専門家ではない)
2)この「日本ウイグル協会が主催するイベント」の共催団体が「つくる会神奈川支部」であることには「唖然」ですね。呆れて二の句が継げません。


◆楊海英のツイート

楊海英
 日本の国立大学は運営交付金がコンスタントに減らされて来た。日本人博士課程の学生が少なくなるのと対象的に、尖閣を狙う国の人達*1が理科系研究室*2を独占するようになっている。

 吹き出しました。運営費交付金増額を「静岡大学教授」として素直に訴えれば良いところ「中国人留学生*3への意味不明なヘイト」が始まる辺りが「はあ?」ですね。
 なお、楊の指摘が事実か分かりませんが事実だとすれば「運営費交付金が減らされても未だに日本の大学は中国人学生にとって研究環境として魅力的らしい*4」ということであって、むしろ日本にとっては「喜ばしいこと」でしょう。
 「日本人の学生も、外国人の学生も院に進みたがらない」というのでは話になりません。

楊海英
 日中友好という邪教との決別を宣言すべき政治家たち。正義の民主主義は貴方達を待っている。これは最後のチャンス。さもないと、今年は、落選するぞ。

 吹き出しました。楊も本気では無いでしょうが、もちろん「二階幹事長」など楊が敵視する「親中派」政治家は落選しないでしょうし、仮に「落選するとしても」それが「親中派云々」と言うことで無いことは確かです。そんなことで選挙民は投票していませんので。

楊海英
 長城は匈奴やモンゴル*5の進攻を防ぐ為ではなく、チャイニーズが専制主義王朝から自由なステップ世界へ逃亡するのを阻止する為だった。専制主義の思想儒教など*6中国の思想と文化は遊牧民に不向きで、受け入れられたこともなかった。モンゴル人は中華民族ではない。中国による文化的ジェノサイドに反対。

 「中国による(モンゴル族への)文化的ジェノサイドに反対」という「結論(?)」はともかく前振りが珍説すぎて噴き出しました。万里の長城が「遊牧民族の侵攻を防ぐため」というのは明らかな事実でしょうよ。大体「自由な世界への逃亡」て「長城の外」が「内に比べて自由」てこともないでしょう。
 儒教について「専制主義呼ばわり」「遊牧民は受け入れてない云々」も「おいおい」ですね。
 少なくとも元王朝(モンゴル王朝)など「中国王朝化した遊牧民国家」は受け入れてるでしょうよ。

楊海英
 中国はどうしてイスラムを敵視するのか?

 別に中国はイスラムを敵視はしていませんよね。ウイグル統治(ウイグルでメジャーな宗教はイスラム)においてもしかしたら「イスラム敵視(飲酒や豚肉食の強要)」と疑われても仕方ない行為をしているかもしれませんが、その辺りは小生も無知なので何とも言えません。

楊海英
 南モンゴル*7満洲国時代、日本と特別な関係を結んでいた。

 特別な関係というか「南モンゴル満州国の一部」ですからね。どっちにしろそんなことは「特別な関係」と言うような話ではない。

楊海英
 日本人の歴史は日本列島にだけ収まるものではない。ユーラシア大陸史の一部で、モンゴル人の歴史と連動した世界史である。拙著はモンゴルの視点から書いた日本人の世界史でもある。

 「元寇」「満州国の一部は内モンゴル」などでの関わりはあるとは言え、あまりモンゴルとは関係ないですよねえ。むしろ中国や朝鮮と関係がある。なお拙著とは

◆『モンゴル騎兵の現代史:チベットに舞う日本刀』(2014年、文藝春秋→2020年、中公文庫)
◆『日本陸軍とモンゴル :興安軍官学校の知られざる戦い』(2015年、中公新書)
◆『最後の馬賊:「帝国」の将軍・李守信*8』(2018年、講談社

のことです。

*1:文脈から見て中国

*2:理科系云々とは「中国人留学生の軍事研究ガー(中国人留学生へのネガキャン)」とか「私も外人だが文系だから違うという言い訳」とかでしょう。いつもながらくだらない男です。

*3:当然ながら、「中国に限らず」日本でも欧米でも、どこの国においても「政府」と「国民」はイコールではありません。ましてや中国人留学生が「中国政府の命令」で何か不当なことを画策してるかのような印象操作に励む楊はゲスとしか言い様がない。

*4:たぶん日本の院を修了して中国に戻ればそれなりの待遇をしてもらえるのでしょう。

*5:チンギスハンの子孫たちのこと

*6:「など」には何が入るのか?

*7:内モンゴル自治区のこと

*8:1892~1970年。1936年2月、徳王(デムチュクドンロブ)が蒙古軍総司令部を創設すると、李守信もこれに参与し、副総司令兼軍務部長に就任した。同年5月、蒙古軍政府が成立すると、李は参謀部長に任命された。1937年10月、日本軍の援助により蒙古聯盟自治政府が成立すると李は蒙古軍総司令に就任。1939年9月、蒙古聯合自治政府が成立すると、李は引き続き蒙古軍総司令をつとめた。1940年1月、李は蒙古聯合自治政府代表として、南京国民政府代表の周仏海と会談し、自治権をめぐる交渉を行っている。その結果、南京国民政府を正統の中央政府と承認し、その地方政権となる一方で、蒙古聯合自治政府は(1) 高度な自治、(2) チンギス・カン紀元の年号の使用、(3) 蒙古聯合自治政府旗の使用等を許可された。1941年6月、蒙古聯合自治政府が蒙古自治邦に改められると、副主席に就任。1949年、蒋介石政府の敗色が濃厚になると、李は一時台湾へ逃亡したが、その後、徳王の勧誘に応じて内モンゴルに引き返す。同年8月に蒙古自治政府が成立すると、政務委員兼保安委員会副委員長となった。同年12月中旬にはモンゴル人民共和国首相チョイバルサンの招きに応じた徳王とともにモンゴル人民共和国に亡命した。当初は監視されながらもモンゴル人民共和国当局に歓迎され高待遇を受けていたがソ連と中国の反発から李や徳王に政治的利用価値がないと判断したモンゴル人民共和国当局によって、1950年9月、逮捕され、徳王とともに中国に引き渡され、収監され思想改造を受けた。1964年12月28日、特赦によって李は釈放され、1970年5月、病没(李守信 - Wikipedia参照)