「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年4/30分:荒木和博の巻)

いくつか朴正煕のエピソード(R03.5.1): 荒木和博BLOG

 令和3年5月1日土曜日のショートメッセージ(Vol.394)。昨日の続きです。朴正煕のエピソードをいくつか。朴正煕は満州国の軍官学校予科を出て日本の陸士に留学します。陸士では57期相当になり、私の父と同期です。面識はないのですが、子供の頃から韓国の大統領が同期生だとは聞かされてきました。そこから私の韓国政治の研究も始まっています。

 韓国元大統領朴正煕の話(R3.4.30): 荒木和博BLOGの続きです。6分30秒程度の動画です。正直説明文だけで見る気が失せます。実際見る価値はないですが。そんな事が拉致問題と何の関係があるのか。
 まあ、荒木が何言ってるかと言えば、朴正熙の側近の回想ですね。
 側近曰く、大統領時代の朴は「韓国の経済を発展させて早く先進国にしたい」「それができればいつ死んでもいい」といつも言っていたと。「だから何?」ですよねえ。そんなん、鄧小平だって言ってたことじゃないか。まあ、そもそも「側近の言葉」なのでかなり美化もあるでしょうし。「いつ死んでもいい」なんてのは「朴の暗殺」から後付けでつくった話じゃ無いか。


韓国元大統領朴正煕の話(R3.4.30): 荒木和博BLOG

 令和3年4月30日金曜日のショートメッセージ(Vol.393)。今は獄中にいる朴槿恵・元大統領の父朴正煕大統領は私が最も尊敬する人です。とは言っても彼の人生は挫折と危機の繰り返しで、最後は暗殺されました。そんな人生に感じるものがあるということで、あくまで「個人の感想」ですが。

 8分30秒程度の動画です。正直説明文だけで見る気が失せます。実際見る価値はないですが。そんな事が拉致問題と何の関係があるのか(ちなみに5/1も朴の礼賛を動画でやるそうです)。まあ、荒木がこんな「朴正熙礼賛」を言わなくても「特定失踪者デマ(特に酷いのが山本美保さんDNA鑑定捏造デマ)を放言」「自衛隊特殊部隊で拉致被害者救出と放言」の時点でまともな人間は荒木を相手にしませんが、こんなことを言えば余計相手にしません。拉致被害者家族会もよく荒木なんぞと付き合えるもんです。
 そして「経済成長、近代化を実現した」というだけで軍事独裁者・朴を手放しで礼賛できる神経には呆れますね。軍事クーデターも「当時としてはやむを得なかった」「貧乏なままよりマシ」だそうです。
 「最も尊敬する」とまで言うのだから呆れます。
 「旧民社党職員の荒木」にとって「片山哲*1(片山が日本社会党委員長時代に西尾が書記長、片山が首相時代に西尾が官房長官、西尾が委員長となった民社党で常任顧問と言うことで、西尾の親分的存在)」「西尾末広*2(初代・民社党委員長)」「河合栄治郎(旧民社党連中が礼賛する政治イデオローグ*3。いわゆる河合栄治郎事件で教授辞任に追い込まれるまでは東京帝国大学教授。河合は1944年に死去してるので旧民社党に直接、関係ないが、猪木正道*4、関嘉彦*5、土屋清*6ら河合の弟子連中が民社党イデオローグとして活動)」などを「最も尊敬する」つうならまだわかりますが、動画内で「西尾より尊敬してる」と堂々と言い切っていますからねえ。
 大体、その理屈なら「改革開放を理由に鄧小平を尊敬するのか」、天安門事件も「当時としてはやむを得なかった」「貧乏なままよりマシ」なのか?、つう話ですが、もちろん反共右翼の荒木は尊敬しないし、天安門事件も非難するんでしょうねえ。
 まあ、「経済成長、近代化」を果たした朴正熙は有能な人間ではあったんでしょう(なお、近代化においては、1965年の日韓国交正常化による日本の経済支援が大きかった)。
 ただ その理屈なら既に指摘したように「改革開放の父」鄧小平*7も評価できるし、あるいは日本を近代化した「大久保利通*8伊藤博文*9など明治新政府の幹部連中」だって評価できるわけです(例は何でも良いですが)。
 なお、「話が脱線しますが」、単なる偶然ですが、大久保、伊藤、朴の三人は全員が暗殺されています。
 なお、「更に話が脱線しますが」

◆1909年10月26日:伊藤博文
◆1979年10月26日:朴正熙

ということで「単なる偶然」ですが、伊藤と朴の死去した日は同じ「10月26日」です。
 さて、それはともかく、1)荒木が日本人であること、2)朴の近代化路線はぶっちゃけ「大久保、伊藤らの二番煎じ*10」つう意味では、荒木は「大久保、伊藤らを一番尊敬してる」といってもおかしくないでしょうがそうではないようです。
 なお、荒木に寄れば金大中が大統領時代に、朴正熙評価について聞かれて「軍事独裁は民主派として評価しないが」と断った上で「経済の近代化は評価している」と語ったそうです。荒木は「金大中事件で殺されかけた金大中ですら朴評価してる」とどや顔ですが、それは単に「ろくな能力も無い朴槿恵*11が父親・朴正熙の七光りで大統領になれる*12=未だに韓国保守において朴正熙のご威光が絶大」という状況下で「必要以上に韓国の右派野党と対立したくない」つう政治的配慮に基づく発言にすぎないでしょうに。
 なお、金大中は大統領時代(1998~2003年)に「朴正熙政権下で首相(1971~1975年)だった金鍾泌」を首相(1998~2000年)にしたことがあります。つまりは「鄧小平(白い猫でも黒い猫でもネズミを捕るのが良い猫だ)」のような非常に「現実主義の政治家」が金大中と言えるでしょう。
 さて荒木の言う「朴正熙」の挫折と危機ですが

朴正煕 - Wikipedia
 1946年10月1日に大邱でいわゆる「10・1暴動事件」が発生し、この事件で呂運亨*13支持者であった朴正熙の兄・朴相煕が警察に殺害された。その後、呂運亨が結成に関わった*14南朝鮮労働党*15が朴相煕の遺族の世話をしていた繋がりから、朴正煕も南朝鮮労働党に入党していたが、1948年9月9日の北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)建国後、1948年10月19日に南朝鮮労働党に呼応した韓国軍の党員将校が麗水・順天事件を引き起こすと、党員であることが粛軍運動により発覚し11月11日に逮捕、ソウルの西大門刑務所に送られた。この際、転向して南朝鮮労働党の内部情報を提供したことと、朴正煕の軍人としての能力の高さを評価した白善燁*16ら軍幹部の助命嘆願により、免職はされたものの、1949年4月に死刑を免れた。
 1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後、少佐として軍に復帰し、1950年9月15日に中佐に昇進、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定調印までに大佐に昇進した。

とのことです。

*1:1887~1978年。戦前は社会民衆党書記長、社会大衆党執行委員を、戦後は日本社会党書記長、委員長、首相、民社党常任顧問など歴任(片山哲 - Wikipedia参照)

*2:1891~1981年。戦後、日本社会党書記長(片山委員長時代)、片山内閣官房長官、芦田内閣副総理、民社党委員長など歴任(西尾末広 - Wikipedia参照)

*3:旧民社連中の河合礼賛については例えば第二自民党あるいは自民党補完政党もしくは極右政党の解党・壊滅的打撃を嘆く産経新聞 - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が紹介する【正論】民社党にみる戦後政治の「不運」 社会学者、関西大学東京センター長・竹内洋(1/4ページ) - 産経ニュース参照。竹内洋 - Wikipediaには「竹内と民社党の関係」については特に記載がありませんが、おそらくこの産経記事の筆者・竹内も民社党関係者でしょう。そうでもなければ普通ここまで民社党を絶賛しません。

*4:1914~2012年。京都大学名誉教授。著書『評伝吉田茂』(1995年、ちくま学芸文庫)、『日本の運命を変えた七つの決断』(2015年、文春学藝ライブラリー)、『新版増補・共産主義の系譜』(2018年、角川ソフィア文庫)、『独裁の政治思想』(2019年、角川ソフィア文庫)、『ロシア革命史』(2020年、角川ソフィア文庫)、『軍国日本の興亡:日清戦争から日中戦争へ』(2021年、中公文庫)など(猪木正道 - Wikipedia参照)

*5:1912~2006年。東京都立大学名誉教授。単にイデオローグとして活動しただけで無く1期6年(1983~1989年)だけだが民社党参院議員も務めた。著書『私と民主社会主義』(1998年、日本図書刊行会)など(関嘉彦 - Wikipedia参照)

*6:1910~1987年。産経新聞常務、専務を経て経済評論家。著書『経済大国・虚像と実情:70年代日本経済の政策課題』(1970年、時事通信社)、『エコノミスト五十年』(1980年、山手書房)など(土屋清 - Wikipedia参照)

*7:副首相、党副主席、国家中央軍事委員会主席、党中央軍事委員会主席など歴任

*8:参議、大蔵卿、内務卿を歴任

*9:工部卿、内務卿、宮内卿、首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など歴任。元老の一人。

*10:まあ、これは鄧小平もそうですが

*11:この点は祖父・岸元首相、父・安倍晋太郎元幹事長の七光りで首相になった安倍に朴槿恵は似ています。

*12:とはいえろくな才能が無いが故にくだらない不正事件を起こして失脚したあげく下獄するわけですが。

*13:1886~1947年。左派の独立活動家。李承晩によって暗殺される。死後、2005年、韓国政府は建国勲章大統領章を、2008年には建国勲章大韓民国章を追叙した(呂運亨 - Wikipedia参照)。

*14:ただし朴憲永との対立から後に呂は離党

*15:李承晩大統領の弾圧を受け、朴憲永など党の主要幹部が北朝鮮に亡命。朝鮮労働党内の「南朝鮮労働党派」として活動を開始。しかし、金日成との政治的対立から1956年に朴が「スパイ容疑」で死刑になるなど、金によって粛清される(南朝鮮労働党 - Wikipedia参照)。

*16:1920~2020年。軍人として、陸軍参謀総長、合同参謀会議議長を歴任。軍退役後も駐中華民国(台湾)大使、駐フランス大使、駐カナダ大使、交通大臣など歴任(白善燁 - Wikipedia参照)