珍右翼・高世仁に突っ込む(2021年5/5日分)

「人権」のために避けて通れない「共産主義」批判 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 珍右翼・高世仁に突っ込む(2021年5/4日分)(追記あり) - bogus-simotukareのブログで批判した共産主義はなぜ1億人も殺したのか - 高世仁の「諸悪莫作」日記の続きです。
 タイトルだけで大笑いですね。
 「共産主義のした人権侵害」については

「人権」のために避けて通れない「共産主義」批判

でしょうが、「それ以外の人権侵害(もちろんそんなもんは「日本軍の慰安婦」「映画『砂の器』で描かれたハンセン病差別」「沖縄の米軍基地被害」など世の中にいくらでもありますが)」については別に共産主義批判なんか必要ない。
 「高世はアホと違うか」ですね。
 そんなことより高世は「自らが事実上加担し、黙認した」

救う会、家族会による田中均氏、蓮池透氏への人権侵害(酷い個人攻撃)

について「救う会、家族会」を批判すると共に、自らの愚劣さを真摯に反省したらどうなのか?
 というか「後でも触れたいと思いますが」、今回の高世のブログ記事をもじれば、

◆「拉致問題解決」のために避けて通れない「救う会拉致被害者家族会」批判 - (今回第1回目)

ではないのか。そう思ったからこそ蓮池透氏は家族会、救う会批判を始め、ついには著書『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(2015年、講談社)を出版した。
 高世は

◆「拉致問題解決」のために避けて通れない「救う会拉致被害者家族会」批判 - (今回第2回目)

と言う蓮池氏の思いをどう受け止めてるのか、「小泉訪朝から18年間も拉致敗戦で拉致が風化しつつあるし、会社も倒産した。都合が悪くなったから拉致問題からトンズラです」で済む話じゃねえだろ、お前も『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』の『冷血な面々』の一人として生きていく気か?、て話です。
 結局、この男のする「批判」とは「自分を高みに置いた上での他人(今回は共産主義)への批判」「反撃を受ける危険が無い安全地帯からの批判」でしかないわけです。
 自分は「公正公平で問題の無い人間」ということにして「他人の過ちを批判する」と言うことしかこの男には出来ない。
 しかもその批判が「安全地帯からの批判」でしかない。すさまじい個人攻撃が予想される救う会、家族会批判なんかこの男には怖くて出来ない。「スターリン粛清ガー、文革ガー、ポルポト虐殺ガー」なんてほざいてますが、高世がそれらの体制にいたら確実に保身のためにためらいなく、「密告」「つるし上げ*1」「虐殺」などに参加したでしょう*2。そして、スターリンらの死後には「俺だけが悪いんじゃない、みんなやってた」「悪いのはスターリンらで俺じゃない」「俺に殺されろと言うのか」と言い訳三昧が高世でしょう。
 いや、まあ、「じゃあお前は、厳しい自己批判できるのか」と言われれば「サーセン、たぶんできません」ですね。
 自己批判つうのは誰だって痛い。自分を客観的に見ることは難しい。「他人の批判を受け入れて自分を改める」レベルでもそれがきちんとできるのなら「充分、御の字」でしょうよ。
 ただ、高世のやらかした過ちはそんな逃げ口上が許されるレベルの過ちじゃ無いでしょうよ。
 高世は「自らが事実上加担し、黙認した」

救う会、家族会による田中均氏、蓮池透氏への人権侵害(酷い個人攻撃)

について「反省しないで逃げ続ける」なんてことが許されるわけが無いでしょう。当時だって高世は「自分のしていることが間違ってる」と認識しながら「家族会、救う会に攻撃されたくないという保身」や「家族会や、救う会とつるんで金儲けしたいというスケベ心(ただし大してカネが儲からず結局会社倒産ですが)」からこうした愚行に加担したんじゃ無いのか。
 しかも救う会、家族会のそうした問題については、蓮池透拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(2015年、講談社)という批判が出ている。高世個人に対する名指しの批判は無かった*3かもしれませんが、あそこでの救う会、家族会批判が「全て高世にも該当すること」位、高世も分かってるでしょう。
 「人権ガー」なんて偉そうなこと抜かすのなら「共産主義の人権侵害ガー」なんていう前に自分のやらかした人権侵害を反省しろ、蓮池氏がとっくの昔(今から5年前)に批判してるぞって話です。
 そしてしつこく繰り返しますが、

◆「拉致問題解決」のために避けて通れない「救う会拉致被害者家族会」批判 - (今回第3回目)

ではないのか、と言う話です。

 20世紀のもたらした最大の謎であり災厄は「全体主義」だといわれる。
 全体主義といえばハンナ・アーレント*4
 彼女によれば、体制としての全体主義は、ナチズムとスターリニズムで、「専制、暴政、独裁のような私たちに知られてきた他の政治的抑圧の形式とは本質的に異なるものである」。(『全体主義の起源』(新版③、P324 )

 「高世ってよほど大学院中退に劣等感感じてるんだろうな」と思いますね。
 だから「ハンナ・アーレントガー」と言ってインテリぶりたがる。おそらく高世は本当は「ジャーナリスト」なんかより学者になりたかったんでしょう。ジャーナリスト(日本電波ニュース社員)になったのも当初は「ジャーナリストから大学教員への転身(例:元・NHKディレクターの永田浩三*5武蔵大学教授、元・日本テレビディレクターの水島宏明*6上智大学教授)」狙いだったのかもしれない。
 まあ、学者になる才能が無かったし、今の醜態を考えるに、なるべきでもなかったでしょうが。
 なお、高世の紹介するアーレントの主張は俺に意味不明ですね。
 何が「本質的に異なる」のかさっぱりわかりません(まあ、俺は「頭が悪いこと」もあって、高世と違って、この種の「禅問答」「空中戦」「言葉遊び」が好きじゃないので分かりたいとも思いませんが)。
 どっちにしろ「高世のアーレント理解が正しいかどうか」つう問題もありますが、アーレントは「仮に偉大な研究者だと前提しようが」、神様でも何でもない。
 「アーレントがこう言っています。私も同感です」レベルで話を進めるのは不勉強で怠慢にも程があるでしょう。
 なお、ググったら、アーレントの著書としてアーレントカール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年、大月書店)があることがわかりました。著書名から考えて「アーレントによるマルクス分析」でしょうが、高世がこの著書に何一つ触れずに『全体主義の起源(新版)』(2017年、みすず書房)一本で話をするようなら非常に問題でしょう。
 つうか、後で

 高世さんはアーレントカール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年、大月書店)についてはこのブログで今後触れるんですか?。『全体主義の起源(新版)』(2017年、みすず書房)だけではアーレントマルクス理解について論じられないと思いますがいかがでしょうか?

とコメントしておきましょう。なお、これは「大月書店の本」ですし、おそらく高世のような「マルクス全否定」的な話では無いでしょう(なお、俺はアーレントの著書については全て未読です)。

 アーレントは、1966年6月の論文で、ソ連では1953年のスターリンの死以降「非全体主義*7」が進んでいる一方で、「真正な全体主義的支配」が「中国において発展する可能性がある」と指摘している。ちょうど中国で「文化大革命」が始まりを告げたころである。

 高世のアーレント理解が正しいと以下「全て前提」しますがアーレントの言ってる意味がマジで分からないですよね。「スターリン粛清」「文革」レベルにヤバイのだけが「全体主義」なのか。一般的な「全体主義」認識て「独裁」と同義であって、別に「そこまでやばくなくても」全体主義なんですが。

 なお、アーレントの定義では、専制や独裁と全体主義は「本質的に異なる」というのがポイントで、私が北朝鮮を「独裁」と呼ばない理由はそこだ。現存の共産党社会主義国家のなかに、全体主義ではなく、ふつうの「独裁」もありうるが(例えばキューバなど)、全体主義の傾向をさぐるために、「共産主義」全般をざっくりとくくって考えていく。

 だからその「本質的に違う」て何が違うんだよ、北朝鮮キューバの何が違うんだよ?、ですよねえ。それがさっぱりわからないので「はあ?」「お前はアホか(横山ホットブラザーズ風に)」でしかない。
 まあ、どうも高世のアーレント理解においては、邪悪さは「全体主義>普通の専制や独裁」らしいので「お前北朝鮮ネガキャンしたいから、北朝鮮は普通の独裁と違う、全体主義だって言ってるだけだろ」ですよねえ。結局、この男は「北朝鮮叩き」で一発当ててしまったので、「北朝鮮問題が飽きられて、風化してテレビで全く報じなくなり」、その結果、経営不振で会社を潰した今になっても「北朝鮮を無茶苦茶に叩くこと」が「習い性」になってるだけでしょう。『虚心坦懐に北朝鮮を分析してこういう結論になりました』というわけでは恐らくない。北朝鮮をとにかく糞味噌に叩くという結論ありきに話をしている。
 およそジャーナリストの所業ではない。まさにこれじゃあ「ジャーナリスト」でなくて「反北朝鮮活動家」だ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)つう話です。
 ちなみに「本質的に違う」つうのは正直「危うい言葉」ですよね。
 「LGBT異性愛者は本質的に違う」「ユダヤ人とアーリア人は本質的に違う(ナチ)」とか「本質的に違う」と言う言葉は往々にして「本質的に違う=あいつらは俺たちとは違う劣った奴らなんだ、社会にいらない人間なんだ」といった形で差別や迫害につながってきた(常にそうだったとまでは言いませんが)。そういう「危惧の念」とか高世には全く無いんでしょうね。つうか高世の北朝鮮に対する態度ってもろに「本質的に違う=あいつらは俺たちとは違う劣った奴らなんだ、社会にいらない人間なんだ」じゃないか。だから気軽に「北朝鮮政権打倒」と放言できるんじゃ無いのか。

 ニュルンベルク裁判では、ユダヤ人やロマ(ジプシー)の虐殺など、ナチスの所業は「人道の罪」として厳しく裁かれた。
 ところが、である。「右の全体主義」(ナチズム)が激しく断罪されているのに対して、1億人の殺害という、もっと残酷な犯罪を行った「左の全体主義」の扱いは著しくバランスを欠き、批判・追求・検証が弱すぎる。

 「はあ?」「お前はアホか」ですね。どの辺りがそう言う理解になるのか。
 「スターリン粛清」「文革」「ポルポト虐殺」なんかは充分批判されてるでしょうよ。ポルポト虐殺にいたっては確か国際刑事裁判があったし。
 そして「右の全体主義=ナチズム」は「厳しく断罪されてる」つうのも「ナチス以外は右の全体主義じゃねえのかよ。戦前日本、イタリア・ムソリーニ、スペイン・フランコとかは違うのかよ」「ナチ以外のそうした右の独裁ってそんなに断罪されてるか?。例えば日本だと賀屋興宣(第一次近衛、東条内閣蔵相。東京裁判終身刑判決を受けるが後に仮釈放、公職追放も解除。政界に復帰し、自民党政調会長(池田総裁時代)、池田内閣法相を歴任)、重光葵(東条、小磯内閣外相。東京裁判で禁固7年の刑を受けるが服役後、公職追放も解除され政界に復帰。鳩山一郎内閣で外相)なんかがいるし「ナチズムで非難されてるのもホロコーストみたいなかなりヤバイ部分が中心」でポーランドとかへの侵略戦争は「日本など他の国も侵略戦争ならやってる」つうことで、それほどでもねえんじゃねえの?、感がありますが。
 ナチス批判について言えば未だに「ネオナチ」「ホロコースト否定論」が無視できない力を欧米社会(特にドイツ)に有している上に「ホロコーストというナチの過去」があまりにも「危険すぎる」が故に「全力で叩かれる」のであってそれ以上でもそれ以下でも無いでしょう。一方で共産主義には幸か不幸かそれほどの脅威が無いからそんなに叩かれない*8。バランスを欠くとかそう言う話ではない。
 歴史的経緯から、政教分離と言ったら欧米だと「キリスト教」、中東だと「イスラム教」、日本だと「神道」が話のメインになるつうのと同じような話です。そこで「何で日本では神道分離の話をするときにキリスト教イスラム教について話がされないのか、バランス欠いてる」といったら「アホか」でしょう。日本においては「神道こそが政教分離を侵害する最大の元凶」だった。一方欧米だと「キリスト教」、中東だと「イスラム教」が「最大の元凶だった」から話題が変わってくるだけの話です。
 どっちにしろ、そんな共産主義批判は「興味のある人間」や「批判の必要がある人間」がやれば良い話です。今の日本においてそんな共産主義批判に「高い必要性がある」とは俺は全く思わない。現実問題として日本において「人権侵害の主役」となりうる「国や自治体」「企業」などは共産主義を組織の運営方針にしてないからです。日本は「中国、北朝鮮ベトナムラオスキューバ」のような共産国ではない。まさか「今の日本において共産主義による人権侵害が重要な問題です」なんて言ったら正気を疑われるでしょう。

 その理由はなんといっても、ソ連が第二次大戦の戦勝国として国連の安保理常任理事国になったことが大きい。戦争の対抗関係のなりゆきで、ソ連はナチズム(右の全体主義)を倒した「民主勢力」の一翼になってしまったのだ。
 つまり「悪いやつ」をやっつけた「いいやつ」が、「悪いやつ」がやったような酷いことはしないはずだよな、というわけだ。

 「はあ?」「お前はアホか」ですね。どの辺りがそう言う理解になるのか。高世の言ってることが悪い意味で「奇想天外」「意味不明」すぎて「はあ?」「お前はアホか」の連発(苦笑)。高世の脳内には「米ソ冷戦」も「赤狩り」も無いのか。
 まあ、ソ連が「戦勝国」になったことにより「追及しづらくなった」つうのはあるかもしれませんが、それは単に「ナチ打倒で力を借りた義理があるから批判しづらい」程度の話でしかないでしょう。それだって「米ソ冷戦」、「赤狩り」などを考えれば高世の物言いは明らかに過大評価です。
 そんな「ソ連美化」はせいぜい「ナチドイツが打倒できるまでの英米仏にとっての話」か、「ソ連を好評価する左翼の世界の話」でしかなく、それも「スターリン批判以降」は大きく事情が変わるわけです。
 スターリンという「絶対的権威」が批判されたことで「左翼の世界」においても反省が行われるようになった。高世が言うほど左翼も無反省ではない。
 高世の脳内には「日本共産党ソ連批判(1968年のチェコ侵攻批判、1979年のアフガン侵攻批判)」もないのかて話です。
 むしろ高世の文をもじれば

つまり「悪いやつ(拉致を実行した北朝鮮)」をやっつけた「いいやつ(救う会や家族会)」が、「悪いやつ」がやったような酷いことはしないはずだよな、というわけだ。

救う会や家族会の無法を放置したことが今の拉致敗戦じゃ無いのか。
 つまりしつこく繰り返しますが、

◆「拉致問題解決」のために避けて通れない「救う会拉致被害者家族会」批判 - (今回第4回目)

ではないのか、と言う話です。

 それで「カチンの森」の犯罪なども長いこと隠ぺいされてきた。

 「など」て具体的に何なのか。
 なお、
カティンの森事件 - Wikipediaについていえば、「ナチがやったんだ、俺じゃない」つうソ連側の言い訳を崩す決定的な証拠が、グラスノスチで表に出るまでは、無かったという話(安倍のモリカケや桜みたいな話)であり、隠ぺいと言うのとは少し違います。
 カティンの森事件 - Wikipediaにも事件発覚当初(1943年)は「ナチドイツとの戦争にソ連の力を借りていたため」、英米(当時はルーズベルト大統領とチャーチル首相)はソ連犯行説については「見て見ぬ振り」的な態度だったと書いてある一方、冷戦が激化し、米国で赤狩りが始まるようになると、逆に「ソ連犯行説が主張されるようになった(ただし、ソ連隠蔽工作により決定的な証拠は無かった)」と書いてあり、高世が言うほど単純な話の流れではありません。
 しかし繰り返しますが「日本共産党」に向かってよくもまあ「共産主義の悪(それも旧ソ連、中国だの日本共産党と関係ない話)への反省が足りないのでは」なんて抜かしたもんです。
 「お前の方こそ、救う会や家族会と共に、お前が実行した蓮池透氏、田中均氏への人権侵害を反省しろ。いつになったら反省するんだ」つう話です。
 つまりしつこく繰り返しますが、

◆「拉致問題解決」のために避けて通れない「救う会拉致被害者家族会」批判 - (今回第5回目)

ではないのか、と言う話です。ちなみに高世ブログに

 蓮池透氏が『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(2015年、講談社)で批判したように◆「拉致問題解決」のために避けて通れない「救う会拉致被害者家族会」批判 - (今回第6回目)と思いますが高世さんはいかがお考えですか?
 一時は拉致をライフワークとしていた人間ならこんな記事より「救う会、家族会」批判記事を書いたら如何ですか?

という趣旨のコメントを5/6の午前5時50分に投稿したら「承認制のはず*9」なのに「実際に承認制(従ってすぐにコメントが表示されない)」の「リベラル21」「ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)」とは違い、速攻で掲載されました(爆笑)。
 つまり「承認制というのは嘘」のようです。おそらく高世は「PC音痴なので承認制設定の仕方が分からず(あるいは承認制にした場合は、コメント内容を確認する必要があるがそれが面倒なので)」、承認制にしてないが「批判コメントを避けたい」ので「批判コメントしても承認制で掲載拒否だろうから」という批判コメントよけに「承認制」と嘘を書いてると。
 一部の店では監視カメラなどどこにもないのに「監視カメラ設置」と書いてる店があるそうですが、高世の場合もそれです。
 ただ今回俺は「どうせ掲載拒否だろうがその顛末をこの記事に書いて、高世のデタラメさを馬鹿にしよう」と思って投稿したら見事に高世の嘘がばれたわけです(失笑)。高世は卑怯、姑息、滑稽、無様としか言いようがない。
 ただし高世のことですから、後から慌てて「コメント削除」でしょう(ただし、「承認制」には今後も多分しない)。
 と書いたらやはり予想通りでしたね。

 高世さんはアーレントカール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年、大月書店)についてはこのブログで今後触れるんですか?。『全体主義の起源(新版)』(2017年、みすず書房)だけではアーレントマルクス理解について論じられないと思いますがいかがでしょうか?

と5/6の午前6時15分に投稿したら「承認制のはず」なのに「実際に承認制(従ってすぐにコメントが表示されない)」の「リベラル21」「ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)」とは違い、「またもや」速攻で掲載されました。しかも5/6の午前6時15分の時点では『5/6の午前5時50分に投稿した』

 蓮池透氏が『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(2015年、講談社)で批判したように◆「拉致問題解決」のために避けて通れない「救う会拉致被害者家族会」批判 - (今回第7回目)と思いますが高世さんはいかがお考えですか?
 一時は拉致をライフワークとしていた人間ならこんな記事より「救う会、家族会」批判記事を書いたら如何ですか?

という趣旨のコメントが「削除します」という「俺に対する断り書き」も無く、見事に削除(爆笑)。
 繰り返しますが全く高世は「卑怯、姑息、滑稽、無様としか言いようがない」。まあ、高世はもはやそう言う人間なんでしょう。俺のような「高世に批判的な人間」には「どう思われても構わない」「とにかく俺に批判的なコメントは削除する」でためらいなく削除。高世の身内(家族、友人、知人)が「高世を見すてない限り」他の人間からはどう思われても構わないというのが高世でしょう。
 どんだけ恥知らずでデタラメなのか。それでよくもまあ「人権」だの「過去の共産主義の悪」だのほざけたもんです。
 しかし5/6の6時15分に投稿して記載された

 高世さんはアーレントカール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年、大月書店)についてはこのブログで今後触れるんですか?。『全体主義の起源(新版)』(2017年、みすず書房)だけではアーレントマルクス理解について論じられないと思いますがいかがでしょうか?

はまたも削除されるんでしょうか?(追記:6時45分に見たら予想通り削除です(爆笑))

【参考:実はアーレントは高世並みのクズだった?、ほか】

ハンナ・アーレント - Wikipedia参照
 ロシア革命については「歴史の道化」として批判した。
 また「疑いもなくボリシェヴィキ党の粛清は、もともとフランス革命の進路を決定した諸事件をモデルとし、それとの関連で正当化された。両方とも歴史的必然の概念で導かれていたという点で共通していた。」として、スターリン粛清の起源をフランス革命でのロベスピエール粛清とその産物であるとアーレントが理解する「歴史的必然」という観念にみた。
 このようなアーレント共産主義や人民の暴力革命に対する強烈な敵意は当時のアメリカの新左翼に大きく影響を与え、ノーマン・ポドレツ*10、アーヴィング・クリストルなど、後にネオコン新保守主義)の源流となったニューヨーク知識人と呼ばれるユダヤ系知識人の政治勢力を生み出した。

 事実かどうか知りませんが、事実ならアーレントって「ただの反共右翼」ではないのか。

ハンナ・アーレント - Wikipedia参照
 アーレントアメリカに亡命したユダヤ系歴史家のラウル・ヒルバーグ(1926~2007年)の書いた『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(邦訳は新装版、2012年、柏書房)を査読している。だが、内容を貶して出版不可に追い込んだ。
 しかし、ヒルバーグの自伝『記憶:ホロコーストの真実を求めて』(邦訳は1998年、柏書房)によれば、アーレントは後にヒルバーグの論文を密かに剽窃して『エルサレムアイヒマン』(邦訳は新版が2017年、みすず書房)を書いた。このことから彼女の知的誠実さを疑問視する者もいる。

◆田野大輔*11のツイート:2019年1月17日
 アーレントヒルバーグの大著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の査読を出版社から依頼されて出版不可の返事をしたのに、その後それを参考に(ちゃんと明示せずに)『エルサレムアイヒマン』を書くという恥知らずの人間なので、彼女の推薦書き*12などには何の価値も認められない。

◆遠藤健太のツイート:2019年1月18日
 このことはアーレントの専門家の中では当たり前の事実なのですか。

◆田野大輔のツイート:2019年1月18日
 わりと有名な話だと思いますが、ヒルバーグの自伝に出てくる話なので政治思想方面よりもホロコースト研究方面で有名だというのはあるかもしれません。
 ヒルバーグの自伝に書いてありますが、私も詳細は覚えていません。アーレントアイヒマン裁判に関するレポートは最初新聞に掲載されたが出典を明記せず、本にするときにやっと申し訳程度に言及したと書いていたと思います。
 私は90年代前半からアーレントに接していますが、政治思想としてはともかくナチズム研究としては当時からすでに「使えない」という評価でしたので、その後のブームも遠巻きに眺めていただけでした。最近はいくつか細かい論点で鋭い指摘もしてるなと思うようになりましたが、基本的評価は変わりません。

 事実かどうか知りませんが、事実なら「偉そうなこと抜かしながら実体が伴ってない」と言う意味でアーレントは「高世並みのクズ」ですね。「剽窃してはいけない」なんて常識レベルですし、「本当に剽窃が証明されれば、懲戒処分だって当然あり得る話」ですからね。いずれにせよこうした事情から、アーレントヒルバーグは「犬猿の仲」だったようです。


【参考:悪の凡庸さ】
 脚注で触れたアーレント「悪の凡庸さ*13」については以下の記事を紹介しておきます。

「考えない」悪の凡庸さ 伊藤洋典氏|【西日本新聞ニュース】熊本大教授・伊藤洋典氏*14(2019/2/3)
◆ 政府の統計不正
 国の行政情報や統計の不適切な扱いが近年、相次いで露見している。南スーダン国連平和維持活動(PKO)や森友・加計学園に絡む文書の隠蔽、改ざんをはじめ、働き方改革入管難民法改正での論議の基礎データ、障害者雇用率、毎月勤労統計と続く。官僚組織の宿痾か、政権への忖度か、政治的な介入か。全体主義の過ちを追究したドイツ出身の政治哲学者、ハンナ・アーレント(1906~75)の問題提起と関連づけて、考えてみた。
 ユダヤ人を強制収容所に移送する実務を担ったナチスドイツの役人、アイヒマンの裁判記録「エルサレムアイヒマン」で、アーレントは「悪の凡庸さ」を語った。アイヒマンは狂信的反ユダヤ主義者ではない。妻子や父母らへの態度は模範的だった。出世欲がある役人で、ヒトラーの命令を法として最善を尽くした。ユダヤ人大量虐殺の一翼を担ったのは「怪物」でもなく、極悪人でもなく、普通の人間だった。その悪の何と凡庸なことか、と。
 アーレントナチスユダヤ人虐殺を、ある意味で行政機構が正常に作動した『行政的殺戮』と呼んだ。彼女が問題にしたのはアイヒマンの想像力の欠如だ。自分の仕事が結果として何をもたらすか、考えない。深い意図から大きな悪が生まれるのではなく、普通の業務として遂行して、大きな悪を引き起こしてしまう。この点は今の時代にも言えるのではないか。
 水俣病は、熊本大が有機水銀説を出した後もチッソは工場廃水を流し続け、国や熊本県は規制を怠り、被害を拡大させた。彼らは水俣市民に悪意があったわけではないだろうが、被害抑止より高度成長を選び、いまだ解決できない大きな問題を残した。地域開発でも、生活保護でも、被災者支援でもいったん目標・方針が決まると、市民への影響を考えずに所定の事務を粛々と遂行してしまう、というところがないだろうか。
 国の文書・情報の隠蔽、改ざん、統計の不適切な扱いも、同様の姿がのぞいている。厚生労働省の毎月勤労統計の不正集計は2004年から行われ、国民への不利益は考慮されず、延べ約2015万人が雇用保険労災保険などで減額給付されていたという。賃金上昇率が正確に把握できず、経済政策や景気判断にも影響するという事態になった。昨年はひそかにデータ補正し、本来より過大な賃金上昇率を発表する、という顛末もあった。
 行政情報や統計が遮断されたり、ゆがめられたり、書き換えられたりするということは、国民が正確な情報を共有し、公共的な問題を議論して答えを見いだすという民主主義の大前提、大原則が壊される、ということを意味する。さかのぼれば、成立した安保法制と集団的自衛権の行使容認も、国民が必要な情報を共有して十分議論されたとは言えない。南スーダンPKOの陸自の活動もきちんと文書に残され、国民が検証できるようにしておかないと、議論が成り立たない。
 安倍政権はかつてなく官僚支配を強化し、メディアに介入する。メディアは政権への忖度が目につく。国民は今、日本で何が起き、どんな状況なのか、政権が何をやっているのか、きちんと見えない状態に置かれていないだろうか。その中で、多くの国民が政治への関心をどんどん失っているとすると、非常に危うい。国民の目が届かず、強権的な政治を許す土壌が広がっていくからだ。「政治とは言論を交わす公共空間をつくり出すことだ」というアーレントの思想からみると危機的な状況かと思う。

 正直、高世も「救う会、家族会」との関係では「拉致問題アイヒマン(保身のためにヒトラーの言いなりだったアイヒマンのように、保身のために救う会、家族会の言いなり)」といっていいのではないか。

*1:そもそも救う会や家族会の蓮池氏や田中氏への個人攻撃なんか『文革紅衛兵がしたつるし上げ』並みに酷いですからね。もし連中に毛沢東のような権力があったら田中氏や蓮池氏を虐殺してるんじゃないかとすら思う。そんなんを黙認した高世が良くも「共産主義の悪」なんぞとほざけるもんです。

*2:お断りしておけば、高世でアレ、俺でアレ、大抵の人間はそう言う場合保身から、悪に加担するかと思います。その場合に「加担しない」という偉人は少ない。もちろんスターリン粛清、文革ポルポト虐殺に「例え死んでもそんなことは出来ない」「俺にとっては命よりプライドが大切だ」と「死を決意して抵抗した人間(多くは殺されたり投獄されたりしましたが)」やそこまで出来なくても「文革批判はしなかったものの、鄧小平など仲間をできる限り守ろうとした周恩来首相」もいますが、そんなんは例外です。例外だから偉人として称えられる。高世の文章でうんざりするのはそういう「自分も悪に加担するかもしれない」つう認識に著しく欠けるつうことですね。アーレントがどうこう言ってるくせに、アーレントを読んでない俺ですら雑学本で知ってる、アーレントアイヒマン裁判について述べたコメント「悪の凡庸さ(アイヒマンは極悪人では無く我々と同じ凡庸な人間で、我々も機会さえあれば、いつでもアイヒマンのような虐殺者になり得る)」つう認識は高世にはどうやらなさそうです。

*3:それが、蓮池氏が「高世の存在を認識してない」のか「救う会を批判すれば、『救う会太鼓持ち』なんてちんけな存在の高世まで名指しで批判する必要は無い」という評価なのかはともかく。

*4:1908~1975年。著書『人間の条件』(1994年、ちくま学芸文庫)、『過去と未来の間』(1994年、みすず書房)、『革命について』(1995年、ちくま学芸文庫)、『暴力について:共和国の危機』(2000年、みすず書房)、『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年、大月書店)、『暗い時代の人々』(2005年、ちくま学芸文庫)、『活動的生』(2015年、みすず書房)、『責任と判断』(2016年、ちくま学芸文庫)、『エルサレムアイヒマン:悪の陳腐さについての報告【新版】』、『全体主義の起原 1~3 【新版】』(以上、2017年、みすず書房)、『アウグスティヌスの愛の概念』(2021年、みすず書房)など

*5:著書『NHKと政治権力:番組改変事件当事者の証言』(2014年、岩波現代文庫)、『ベン・シャーンを追いかけて』(2014年、大月書店)、『奄美の奇跡:「祖国復帰」若者たちの無血革命』(2015年、WAVE出版)、『ヒロシマを伝える:詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』(2016年、WAVE出版)(永田浩三 - Wikipedia参照)

*6:著書『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』(2007年、日本テレビ)、『内側から見たテレビ:やらせ・捏造・情報操作の構造』(2014年、朝日新書)『母さんが死んだ:しあわせ幻想の時代に(増補版)』(2014年、ひとなる書房)(水島宏明 - Wikipedia参照)

*7:スターリン化は進んでいたでしょうし、それは悪いことではないでしょうが、一般的な理解では「一党独裁全体主義」ではないのか。

*8:とはいえ「チェコプラハの春)」「バルト三国(強制併合)」「ハンガリーハンガリー動乱)」なんかは「脅威はもはやない」とはいえ過去のソ連への恨み辛みから未だに共産主義への態度は糞味噌らしいですが。

*9:コメント投稿しようとすると「承認制です」という表示が出ます。

*10:2008年アメリカ大統領選挙では「元ニューヨーク市長」ルドルフ・ジュリアーニ候補の外交顧問を務めた。著書『行動と逆行動』(1970年、荒地出版社)、『文学対アメリカ:ユダヤ人作家の記録』(1973年、晶文社)(ノーマン・ポドレツ - Wikipedia参照)

*11:1970年生まれ。甲南大学教授(ドイツ近現代史ナチス研究)。著書『魅惑する帝国:政治の美学化とナチズム』(2007年、名古屋大学出版会)、『愛と欲望のナチズム』(2012年、講談社選書メチエ)、『ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか』(2020年、大月書店)(田野大輔 - Wikipedia参照)

*12:後にアーレントが『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』について著書の中で参考文献として推薦したことを意味していると思われる。

*13:一般には「考えない」悪の凡庸さ 伊藤洋典氏|【西日本新聞ニュース】のように「凡庸さ」という表現が普及していると思いますが、アーレントエルサレムアイヒマン:悪の陳腐さについての報告【新版】』(2017年、みすず書房)では「陳腐さ」と表現されてます。

*14:著書『ハンナ・アレント国民国家の世紀』(2001年、木鐸社)、『「近代」と「他者」』(2006年、成文堂)、『「共同体」をめぐる政治学』(2013年、ナカニシヤ出版)