新刊紹介:「前衛」2021年6月号(その2:今月のグラビア『田中一村』)

◆今月のグラビア『無名画家*1の島:一村、奄美に死す』(功力俊文)
(内容紹介)
 晩年を奄美で過ごした画家・田中一村が取り上げられています。まあ、「天才とキチガイ紙一重」というか「付き合いづらい変人」ではあるのでしょう。ただ一方で「こうした生き方」に「ある種のあこがれ」を感じないでもありません。
 例えば「カネ儲けのために救う会にへいこらするような高世(まさに人間のくず)」とは「対極にある生き方」ですからねえ。
 まあ生前、まるで認められず、また、貧困であることが「幸福なわけはない」ですし、一村のように「死後高く評価されること」は「めったにないこと」ではあります(金子みすゞなど他に例が無いわけではありませんが)。
 しかし「カネ儲けのために救う会にへいこらするような高世」が会社を結局潰したあげく「いずれ忘れ去られる(せいぜい救う会太鼓持ちとして記憶される)」のに比べたらある意味「一村」の方が「幸福なようにも見えます」。

参考

田中一村 - Wikipedia
【経歴(1908~1977年)】
◆1908年
 栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。本名は田中孝。父は彫刻家の田中彌吉(号は田中稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞もしくは文部大臣賞と言われる)。
◆1926年
 東京市港区の芝中学校を卒業。東京美術学校(現・東京芸術大学日本画科に入学。東京美術学校の同期に日本画家の東山魁夷*2、加藤栄三、橋本明*3、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなか・べいそん)の名で登録された。
◆1931年
 それまで描いていた南画と訣別。
◆1947年
 『白い花』が川端龍子(1885~1966年、文化勲章受章者)が主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて「一村」と名乗る。
◆1948年
 第20回青龍社展に『秋晴』『波』を出品。このうち『波』は入選するが、『秋晴』の落選に納得できず、『波』の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。
◆1953年
 第9回日展に『秋林』を出品するが落選。
◆1954年
 第10回日展に『杉』を出品するが落選。
◆1958年
 第43回院展に『岩戸村』『竹』を出品するが落選。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。
◆1962年
 名瀬市大熊にある大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始める。
◆1967年
 5年間働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。
◆1970年
 生活費の工面のために、再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった。
◆1977年
 9月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、死去。69歳没。奄美市名瀬有屋38番地3には、一村が死去した際に住んでいた家が「田中一村終焉の家」として移設保存されている。
【死後の再評価】
 東京美術学校で同期だった「文化勲章受章者」東山魁夷橋本明治らとは違い、生前は中央画壇に認められなかったが、没後にNHK日曜美術館黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」(1984年(昭和59年)12月16日放映)や鹿児島県の地方紙『南日本新聞』に1985年(昭和60年)5月25日(土)~9月26日(木)まで50回連載された「アダンの画帖~田中一村伝」(後に中野惇夫ほか南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』(1986年、道の島社→1995年、小学館:単行本)、『日本のゴーギャン 田中一村伝』(1999年、小学館文庫:1995年の単行本の文庫化)として刊行)でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、「日本のゴーギャン」と呼ばれることもある。評伝や画集も複数が刊行されているほか、以下のように記念美術館が開館したり、各地の美術館で展示会が開かれたりするようになっている。また、龍郷町町田酒造が焼酎『一村』や、一村の絵をパッケージに使った焼酎『奄美の杜』を製造販売している。
◆2001年
 鹿児島県笠利町(現・奄美市)に「田中一村記念美術館」がオープン。
◆2008年
 生誕100年にあたり、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館で「生誕100年記念特別展 田中一村展」が開催された(10月18日~11月24日)。入場者は25,000人。
◆2012年
 沖縄県立博物館・美術館で、本土復帰40周年記念「田中一村展~琉球弧で開花した美の世界」を開催(3月30日~5月6日)
【評伝】
◆加藤邦彦*4田中一村の彼方へ:奄美からの光芒』(1997年、三一書房
◆中野惇夫ほか南日本新聞社編『日本のゴーギャン 田中一村伝』(1999年、小学館文庫)
小林照幸*5『神を描いた男・田中一村』(1999年、中公文庫)
◆大矢鞆音*6田中一村 豊饒の奄美』(2004年、NHK出版)
◆湯原かの子*7『絵のなかの魂:評伝・田中一村』(2006年、新潮選書)
◆大矢鞆音『評伝 田中一村』(2018年、生活の友社)
◆大野芳*8『裸の天才画家 田中一村』(2020年、平凡社

田中一村マニアックガイド・書籍リスト
◆アダンの画帖田中一村
 小学館発行 南日本新聞社編 中野惇夫〔元南日本新聞社記者〕 
 この書籍に関しては、南日本新聞社が昭和60年(1985年)5月25日(土)~昭和60年(1985年)9月26日(木)に50回の連載が最初です。
 そして、(ボーガス注:1986年に)本として出版しましたが、出版社(ボーガス注:道の島社)が残念ながら倒産しました。
 その後、小学館からの再発行になった経緯があります。
 当時、著者の中野惇夫さんが奄美大島南日本新聞の支局長時代に奄美焼の宮崎さんから『「田中一村」という人がいたんだけど。』という話から取材がはじまったのです。
 聞くところによると、自費での取材だったようです。
田中一村の彼方へ
三一書房発行、加藤邦彦著 
 加藤さんはだれがみても新聞記者という感じの人です。実際にそうだったようですが。この人の著書であまりにも有名なのが、「僻地の自民党殿*9」があります。
 この内容は、昭和58年の衆議院議員選挙で、現職の保岡興治*10(自民党)と医療界の風雲児、(ボーガス注:徳洲会グループ創設者)徳田虎雄*11(当時、無所属)との壮絶な選挙を取材したものです。
 全国的にも買収選挙だと報道された戦後、奄美大島だけが特別区で現在の小選挙区制の先端を走っていた時の内容を書いた本です。
 それと同時に、当時は一村ブームの頃でした。そのころから、色々なところへ取材に出かけていたようです。

孤高の画家に新たな光を…日本のゴーギャン「田中一村展」 - 産経ニュース2021.1.23
 「日本のゴーギャン」「異端の画家」などと呼ばれ、奄美大島(鹿児島県)の自然を華やかな色彩で描いた孤高の画家、田中一村(1908~77年)。生前、作品を公開することなく、無名のまま世を去った。一村の多くの作品を収蔵する千葉市美術館で、その全作品を展示した「田中一村展」が開かれ、知られざる一面に光が当てられている。

南日本新聞社編『日本のゴーギャン 田中一村伝』(1999年、小学館文庫)のアマゾンレビュー
◆くなまた
「私はバカになりたい。正気であるうちは、正気の絵しかかけません」
「私の死後、五十年か百年後に私の絵を認めてくれる人が出てくればいいのです。私はそのためにかいているのです」
 日本画を追究し続け、自分の信じる絵をかき続けた一村。
 ひたすら自分が信じる絵を描き続けた69年間。
 本当にかっこいい。
◆志村真幸
 田中一村は、最近でこそ名前を聞くようになったが、生前はまったく知られざる画家であった。千葉、奄美で画業をつづけたが、狷介な性格と完璧主義のせいで生涯に一回の個展を開くこともなく、清貧のなかで死んでいった人物である。その生涯を、綿密な取材のもとに描き出した本書は、田中一村の再評価のきっかけともなり、また内容の確かさからも、重要な著作といえる。

孤高の日本画家・田中一村が眠る栃木市「満福寺」: 銀次のブログ
 平成26年(2014)11月に亡くなった俳優の高倉健は、(中略)子どもむけに、健さん自身も朗読している絵本とCD「南極のペンギン」を発行している。その絵本の中に、奄美の孤高の日本画家・田中一村ハンセン病療養所「和光園」の少女との心温まる交流を描いた「奄美の画家と少女」が収められている。
  親元から引き離され、療養所で暮らす少女。その少女が肌身離さずに持っていた母の写真が田中一村の手で鮮やかな絵になってよみがえり、喜ぶ少女の様子がつづられている。
  高倉健は、「田中一村というのがこの画家の名前だ。奄美でひたすら自分のかきたい絵をかきつづけた。絵をかくために、生まれてきたと信じた。生きているあいだ、彼の絵は世の中に認めれなかった。それでも、絶望しなかった。貧しさにも負けなかった。そのはげしい生き方は、『アダンの画帖』にくわしく書かれている。一村が亡くなったあと、ぼくはその絵をはじめて見た。南の島のたくましい命があふれている。自分の命があふれている。自分の命をけずって、絵の具にとかしたような絵だ」と記して結んでいる。
 このお話を、私は4月24日に栃木文化会館で開かれた「栃木市文化まちづくり協議会」主催の「栃木の魅力ある文化とまちづくり」の講演会で、講師、寺元晴一郎氏より初めて聴いた。箱根小涌谷の岡田美術館の副館長である寺元氏は美術商・美術研究家として活躍をしている人である。
 講演の後、さっそく「南極のペンギン」を購入して、読みながら関連をブログで検索してみる。実際に高倉健奄美の「和光園」を訪れた形跡はない。しかし、田中一村の没後に本や画集が出版され、そこで一村と入所者の話を知り、「優しい心の出会い」をメッセージとして語りたかったのだと思えてきた。健さんの温かい心が伝わってくる絵本になっている。
 一村の死後、奄美の人々の手によって昭和54年(1979)11月に遺作展が開かれた。その遺作展に携わった記者、中野惇夫氏によって田中一村のことが南日本新聞地方面のトップ記事として記載される。このことが契機となり、5年を経た昭和59年(1984)の12月にNHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の画家田中一村」が全国に放送された。
  紹介された絵の数々、中央の画壇に背を向けて奄美での画業生活。この放送は再放送をもたらすなど異常な反響を呼び起こした。亜熱帯の島の自然を相手に描き続けた一村の絵は、「日本画の異端」「(ボーガス注:伊藤若冲も、一村同様に死後再評価が始まったことや独特の画風であることから)昭和の若冲」「孤高の画家」「日本のゴーギャン」と称され、田中一村ブームを引き起こした。テレビ東京放映の『開運!なんでも鑑定団』の中で、鑑定士田中大氏*12は「奄美時代の一村作品であれば一点・一千万円をくだることはない」との評価が下されるようになった。
 田中一村は亡くなった姉、喜美子の遺骨を墓地に埋葬するために昭和52年(1977)の5月に生まれ故郷の栃木市に訪れている。奄美のホテルで初めて個展を開くことになり、千葉にある自分の作品を収集するため奄美からやってきたのだった。
  田中家の墓地のある栃木市旭町「満福寺」を訪れた時の情景を(ボーガス注:南日本新聞記者)中野惇夫は著書「アダンの画帖―田中一村伝」の中で、こう記述している。
「このとき一村は、姉喜美子の遺骨を抱いて帰っていた。」
「満福寺の先代住職の妻・長沢泰子さんが、このとき一村と対応した。一村はまず、『田中家の墓はどうなっておるのでしょうか』とたずねた。『まだそのままにしてございます』と答えたところ、一村はほっとした様子で、『私が死ねば、田中家の墓も無縁墓になります』といい、身の上話をぽつりぽつりと語りはじめた。」
「一村は田中家の墓がまだ残っており、姉喜美子と自分が入る場所があったことを知って安心し、またとぼとぼと千葉へ帰って行った。」
 さらに同書には、「栃木へ訪れた同年の昭和52年9月11日の夜、引っ越して間もない奄美有屋の借家で田中一村心不全で息を引き取る。69年の生涯であった。遺骨は千葉からきた妹の新山房子さんと、(ボーガス注:房子さんの)長男宏さんによって、父母や姉の眠る栃木市満福寺の田中家の墓地に埋葬された」と記述されている。
  私は田中一村の遺骨は奄美にあり、満福寺には「供養塔」だけがあるものと思い込んでいた。実際に満福寺の田中家の墓地に遺骨が埋葬されていることを知り、驚き、栃木市に住んでいながら己の無知に恥ずかしさを覚えた。
  「お墓は妹さんの息子さんが守っております。貝殻を持って奄美の方々もいらっしゃいましたよ」と、満福寺の住坊で私に応対してくれた奥さんから聞くことができた。

インタビュー 一村の菩提寺・満福寺住職に聴く~清貧孤高の日本画家◎田中一村 | [公式] 栃木市 満福密寺(通称:満福寺)
◆長澤住職
 そもそも、昭和52年4月、亡くなる約半年前ですが、一村さんは千葉のご親族に預けていた奄美での作品群を千葉の親しい人たちに披露するのと、奄美で身近に置いていた姉・喜美子さんの遺骨を当山の田中家墓地に納骨するため一度千葉に帰りましたが、そのお姉さんの遺骨をお預かりして後日お墓に納骨をしたのが最初です。
 遺骨を預かったのは私の母で、その日私は留守にしておりました。当時はアポなしで檀家さんが来られる時代でした。直接は会っていません。その後、亡くなった一村さんの遺骨を千葉のご親族が納骨する際お世話させて戴きました。その時はまだ、一村さんは無名で、当山でも遠い奄美で暮していた「田中孝(ボーガス注:田中一村の本名)」さんという貧しい絵描きと聞いているだけでした。
 そのあと、一村さんが(奄美では「気ちがいジイさん」などと言われていたが)実はただならぬ日本画家だということを教えに来てくれたのが小山の江田真治さん(工務店経営)でした。江田さんは同じ小山の写真家田辺周一さん*13奄美で陶工修行をしていた笹倉慶久さんと仲良し3人で、一村さんが亡くなる年の5月に、千葉から帰ったばかりの一村さんを旧知の宮崎鉄太郎さん(奄美で一村さんを最もよく世話したといわれるホテル支配人)と一緒に4人で訪ねています。上半身はハダカで、パンツ一枚の一村さんが談笑しているモノクロの画像をよく見かけますが、あれはその時田辺さんが撮ったものです。
 それからしばらくして、昭和59年の12月にNHK教育(今のEテレ)の「日曜美術館」が一村さんとその画業をオンエアして(「黒潮の画譜:異端の画家 田中一村」)世の中に衝撃を与えた直後、一村さんが栃木市生れだということでタウン誌『うずまっこ』をやっていた梶原さんと二人で取材や広報を行った時は、市の文化担当課も文化団体もみな一村の「い」の字もなく無関心でした。今「とちぎ蔵の街美術館」があり、一村さん関係の収蔵品を多少栃木市が持てるまでになったのは、私の要望を受け骨折ってくださった鈴木乙一*14元市長さん、そして当時担当された市の幹部、さらに教育委員会で一村さん関係の仕事を担当した職員の皆さんのおかげだと思っています。
◆大出
 最近、奄美に行ってらっしゃったとか?
◆長澤住職
 ええ、令和になってまもなくの連休明けに行ってきました。一昨年(ボーガス注:2017年)は没後40年、昨年(ボーガス注:2018年)は生誕110年で、それぞれ出かける計画をしたのですが、多用のためになかなか実現できず、遅きに失した感がありますがやっと今年(ボーガス注:2019年)念願が叶いました。
◆大出
 亡くなってもう40年ですが、島での一村さんは今どうでしょう?
◆長澤住職
 去年が生誕110年でしたので、今年は特には何もない年のせいか、例えば何度かタクシーを使いましたが、運転手は美術館も知らず一村も語らず、島の人と一村を共有するどころではありませんでした。私がたずねた一村の旧跡も「終焉の家」以外は案内板もなく、一村の気配を感じません。とくに「奄美和光園」の職員の対応にはそういうものを感じました。島では忘れられた異邦人のようです。
(中略)
 昨年は生誕110年にあたり、滋賀県琵琶湖畔の佐川美術館が、7月14日~9月17日、一村展を開催しました。私も最後の頃行ってきましたが、学芸員の方に聞きましたら連日大盛況とのことでした。また、4月6日~9月24日には、箱根の岡田美術館が新規購入した「白花と赤翡翠」「熱帯魚三種」を中心に一村展を行いました。奄美でも記念展が開催され、盛況だったそうです。

キミよ知るや南の島 ③田中一村記念美術館 | ariさんは遊んでばっか
 当時NHK鹿児島放送局に在任していた松元邦暉ディレクターが、奄美の海を採録する仕事で名瀬市を訪れた際、一村の画集に出会った。取材先の家で見た1枚のデッサンが気にかかり、たずねたのがきっかけだった。前年、名瀬市で遺作展があったことを知り、取材にとりかかった。そしてまず、「話題の窓」(15分)で「幻の放浪画家ー田中一村」を鹿児島放送局から放映。次いで秋に「九州80」(30分)で九州全域に紹介して反響を呼び、昭和59年12月16日のNHK教育テレビの「日曜美術館」の「美と風土」シリーズで、「黒潮の画譜ー異端の画家・田中一村」と題して、全国に紹介した。反響は大きく、翌年1月16日には異例の再放送が、夜のアンコールアワーで行われ、関心を集めた。
 NHKの「日曜美術館」で広く知られるようになった一村だが、「田中一村 豊饒の奄美」(大矢鞆音著、2004)によれば、この番組が順調に放送されたのかというと、そうではなかったらしい。
「それは、今まで一本も美術番組を制作したことのない地方局のディレクターの企画であったこと。取り上げた画家が世にまったく知られていない無名の画家であったこと。専門家すじの評価を受けたこともなく、さらに言えば見たこともない独特の作風が、美術作品としてどうなのかということで」
 東京に提出された企画書は、3年間眠ったままだったそうだ。
 その後、担当プロデューサーになった小河原正己さん*15が「これは面白い番組になる」と取り上げたのが直接のきっかけだったが、それでも企画を通すまでにはさらに1年以上かかったという。
 しかし、放送後の反響はすさまじく、一般視聴者の問い合わせは驚くべき数となったとのことだが、その一方で美術専門家からの反応は皆無であったそうだ。
 また、美術情報誌を出している美術商からも「一村の作品は美術ではなく、イラストでありデザインだ。『日曜美術館』で紹介するような作品ではないのに、なぜとりあげたのか」「この作品を取り上げた美術的な根拠と、専門的な評価を示せ」「画家の生き方と作品性とは別物である。『日曜美術館』は画家の生き方を紹介する番組なのか。商業主義と結びついた何かがあるのではないか」という激しい抗議が寄せられた、と、この本にある。
「いま私が、この南の島へ来ているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなければ、人生修行や絵の勉強にきているのでもありません。私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。」(昭和34年3月、田中一村の知人宛て手紙より)
「孤高・異端の日本画家 田中一村の世界」(NHK出版、1995)より引用
 幼少の頃から非凡な才能を見いだされながら、生前に発表された作品の多くは中央画壇から思うような評価を得られず孤独なまま逝った彼の画家人生はひどく険しいものだったに違いない。
 しかし奄美に移り住んで以来、彼にとって描くことは、もしかすると自分が何者であるかを確認するための、誇りに満ちた作業だったのではなかったろうか。

http://hetono.seesaa.net/article/55655462.html
 初めてこの異端の画家が全国的に紹介されたのは日曜美術館黒潮の画譜~異端の画家田中一村」の放映によってである。1984年のことである。私はたまたまその番組を見ていた。
「一村は改めて座り直した。『きょうはお許しを得て、絵の批評をさせていただきます。』といい、新聞のカラー写真を広げた。正座した一村の目は鋭い光を帯びてきた。全身の血管が浮かび上がった。
『宮崎様(奄美焼窯元、宮崎鉄太郎氏)、この絵から波の音が聞こえますか?』
 開口一番、大きく鋭い声でいい放った。
 『岩の上から垂れる潮は、まるで水道のじや口をひねったようで、勢いがありません。波も自然の姿とは違っています。これは波が退くときの絵です。絵と題名が合っていません。東山は、こんな絵を納めて恥ずかしくないのでしょうか?』と一気に喋った。一村は日ごろから考えていたらしい批評を、語気も鋭く具体的に語りだした。宮崎氏は、大家の作品をこれほどはっきりと批評する一村の気迫に圧倒された。そして一村は最後に、『きょうは、勝手な評言をさせていただきました。どうもありがとうございました。』と頭を深く下げた。語り終えた一村は、胸のつかえがとれたというふうな表情だった。絵を、芸術を、思いのたけ語りたい様子だった。宮崎氏には、孤独の中で苦闘を重ねる一村の心情が切々と伝わってきた。」
(アダンの画帳 田中一村伝 小学館)より
 同級生だった東山魁夷の絵は一村にとっては偽物と映ったのだろう。
 田中一村の人となりは昭和60年発刊の田中一村作品集に掲載のNHKディレクターの松元邦暉氏の書かれたものが一番纏まっているかと思う。
 一村は絵を売ることを「外道」と断じてはばからなかった。
「売ろうという心が先立てば、どうしても素人にわかりやすい、妥協した絵になってしまいます。絵を描くときは、世界一の絵を描く気概こそ必要なのだ、と考えていた。」(アダンの画帳、田中一村伝より)
「一村さんは絵のことになると別人のようになりました。と多くの人が証言する。絵は一村にとっては絶対的なもので、全存在をかけた闘いを意味していたらしい。だから、絵のことで議論が始まると、もう只では済まなかった。一村の議論は容赦がなく激越だったゆえ、絶交!の最後通牒を投げつけて幕が閉じたらしい。」
 一村が川端龍子と衝突して青龍社を去ったのもそういう事情だったらしい。
 一村が青龍展で「白い花」が入選した翌年、金泥をふんだんに使った自信作「曙光」が落選する。かわりに参考作品として出品しておいた「波」が入選したのであるが、一村はどうしても納得できなかった。
「なぜ曙光ではなく波なのですか。あなたの目は節穴ですか。だいたい人の作品を酒を飲みながら見るとは無礼じゃあないですか。」(アダンの画帳田中一村伝より)
 そして、主催者の川端龍子に対して最後の言葉をとうとう口に出してしまう。絶交!
「ある知人は絵描きはパトロンがなければ駄目だと決めています。東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手段の所有者です。絵の実力だけでは、決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません、絵の実力だけです。」(三十四年三月、中島義貞氏あての手紙)
 一村の悔しさにあふれた言葉である。中央画壇に認められない悲しみとそこで活躍し出世してゆく同級生の名。胸をかきむしる一村のその対局にはいつも東山魁夷の名があった。

田中 一村
 1977年9月12日、彼は奄美大島名瀬市郊外に借りていた粗末な家で事切れているところを発見された。 前日、ひとり暮らしの夕食の準備をしている時に、心不全で倒れたらしい。床には刻んだ野菜の入ったボールがころがっていたという。生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期だった。享年六十九歳。
 1980年3月、NHKディレクターの松元邦暉は、取材の途中に立ち寄った奄美大島名瀬市のダイバーの家で、壁に無造作に貼られた一枚の魚の素描に目を留めた。迫力ある筆致に心を動かされた松元は描き手の名を尋ねた。
 「田中一村という画家のです」 
 大島紬の染色工をしながら日本画を描き続け、十数点の奄美の絵を遺して3年前になくなった画家だという。
 日本美術界の奇跡とまで言われた日本画家・田中一村は、こうして死の3年後に再び見い出され、松元の渾身の取材の後1984年にNHK教育テレビの「日曜美術館」で紹介されて、世に知られるようになった。
 その後、1995~1996年にかけて初の大規模な回顧展が全国で開催され、私もそこで初めて彼の絵の実物を見て、その画力に圧倒された。当時会場に何時間いただろう。
 「一村さんは絵の事となるとまるで別人になりました。」と彼を知る人々は言った。絵の事で議論が始まると只では済まず、激論の末、「絶交」という言葉が投げつけられて終わる事もしばしばあったという。若き日の彼にはその才を買って援助を惜しまぬ理解者も多かったが、彼は、そうした人々に絵を渡す時すら、割り切れぬ思いを抱いていたらしい。
「私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。その当時の作品の一つが、水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめてくれる人もだいぶありますが、その時せっかく芽生えた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました。」(知人に宛てた手紙より)
 一村は千葉の家を売って奄美大島に移り住む。以後彼は借家でひとり暮らしをしながら紬工場で働き、数年かけて金を貯めては、金の尽きるまで何年も続けて絵を描き、金が尽きたら又働くという生活を続けた。そうして出来上がった奄美の絵を回顧展で目の当たりにした時に、それは恐ろしいまでの集中力を長く持続させなければ描きあげる事の出来ない、鬼神がとりついたかのような絵だと思った事を今でも覚えている。
「紬工場で、五年働きました。紬絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最期の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。(中略)この南の島で職工として朽ちることで私は満足なのです。私は紬絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又繪をかきませうと思います。」

目が離せない!何故か心惹かれる絵 | 猫のあくび - 楽天ブログ
 絵を描く事だけに人生の全てを捧げた孤高の画家、田中一村の最も有名な作品「アダンの木」です。
 1977年9月12日、彼は奄美大島名瀬市郊外のあばら屋で事切れているところを隣家の人に発見されました。
 前夜、独り暮らしの夕食の準備をしている時に、突然倒れたのでしょう。
 粗末な台所には、ごはんを煮こんだ作りかけのおじやが一人分残されていたそうです。
 床には刻んだキャベツの入ったボールがころがっていたといいます。
 生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期でした。
 享年六十九歳。
 心不全だったそうです。
 1980年3月、当時NHKのディレクターだった松元邦暉氏は、ある一枚の絵と運命的な出会いを果たします。
 それは、取材の途中に偶然立ち寄った奄美大島名瀬市のダイバーの家の壁に貼られた一枚の魚の素描でした。
 南の島の民家の壁に無造作に貼られた一枚の絵、その絵に何故か心惹かれた彼は、思わず尋ねていました。
 「この絵の作者について教えて欲しい」
 自ら画壇を捨て、千葉から奄美大島に独り移り住み、粗末なあばら屋で食べるのもやっとの清貧の中、大島紬の染色工をしながらこつこつとお金を稼いではギリギリまで生活費を切り詰め絵の具を買い、十数点の奄美の絵を遺して3年前になくなった画家・田中一村。そして松元氏は、まさにその魚の絵の主こそが、田中一村その人であるという事を知ります。
 田中一村の作品とその生き様に魅せられた彼は、それから取り憑かれた様に渾身の取材を続けます。
 かつては天才と謳われ援助を申し出る理解者や支援者も少なくはなかったにも関わらず、金で作品を買われる事を嫌い、そして批評家と衝突する事も多かった事。
 やがてある出来事をきっかけに自ら画壇と決別し奄美大島に独り移り住む決心をする。その残りの生涯を全て絵に捧げる為に。
 画壇はそんな彼を異端の画家と呼び、彼の名は次第に忘れ去られてしまう。
 取材は大変困難だったようですが、取材を進めるにつれ、不遇の天才画家の「孤独と狂気にも似た独特の世界」が次第に浮かび上がってきました。
 そして1984年、NHK教育テレビの日曜美術館黒潮の画譜~異端の画家田中一村」で、彼の生涯と共に、その遺作が紹介されました。
 松元氏の渾身の取材が、こうして一人の画家を再び世に送り出したのです。孤高の画家、田中一村として。

目が離せない!何故か心惹かれる絵・その2 | 猫のあくび - 楽天ブログ
 ようやく39歳の時に、日本画家・川端龍子の主催する第19回青龍展に屏風絵「白い花」を出品して入選を果たします。
そこに描かれた木の枝に止まった「とらつむぎ」は、彼が自ら孵化し、観察し尽くして描いたものだったそうです。
 しかし翌年、一村の画家人生を一転させるある事件が起こります。
 第20回青龍展で、一村の「波」という作品が見事入選を果たすのですが、金を豪華に使って描き上げた渾身の自信作「曙光」より、参考作品として出店した「波」が入選という評価に納得がいかない一村は、川端龍子に対し猛然と抗議をしてしまいます。
 「なぜ曙光ではなく波なのですか。あなたの目は節穴ですか。だいたい人の作品を酒を飲みながら見るとは無礼じゃあないですか。」(アダンの画帳田中一村伝より)
 最後には絶交を突きつけ、川端龍子と決別。
 自分の絵が理解されない苛立ちの中で、ますます孤独の淵に自らを追い込んでいく一村。
 50歳になった一村は、千葉の家や財産を処分し数年分の生活費を手に独り奄美大島に移り住むのです。
 絵に対する徹底ぶりも凄まじいものがあります。
 「鳥を描くにはヒナから育て、鳥のすべてを知らなければならない(屏風絵「白い花」のとらつむぎ)」と、鳥を育てたり。
 商売の為に描く事を嫌った一村は、大変貧しく辛い生活を続けながらも、決して絵を売ろうとはしなかったそうです。
 千葉で生活していた頃、知人(加賀谷勇之助氏)に宛てたの手紙からの引用を見てもそれが窺い知れます。
「絵かきは、わがまま勝手に描くところに、絵かきの値打ちがあるので、もしお客様の鼻息をうかがって描くようになったときは、それは生活の為の奴隷に転落したものと信じます。勝手気ままに描いたものが、偶然にも見る人の気持ちと一致することも稀にはある。それでよろしいかと思います。その為に絵かきが生活に窮したとしても致し方ないことでしょう(アダンの画帖 田中一村伝より)」
 あるとき一村は、こんな事を言っていたそうです。
「私はバカになりたい。正気であるうちは、正気の絵しかかけません」

目が離せない!何故か心惹かれる絵・その3 | 猫のあくび - 楽天ブログ
 粗末なあばら屋に住み、猫の額程の小さな庭に畑を作り、そこで採れる僅かばかりの野菜に酢をかけただけの質素な食事をしながら、独りただ黙々と絵を描き続ける日々。
 千葉の家を売ったお金が底をつきると、大島紬の工場で染色工として昼も夜も懸命に働き、その間は一切絵を描くことはなかったそうです。
 そうして何年か働き少しばかりお金が貯まると仕事を辞め、再びギリギリに切り詰めた生活をしながら絵の具や画材を買い、裸同然の下着一枚の姿で絵に打ち込む日々を続けたそうです。
 そしてまたお金がなくなると働く。この繰り返しだったそうです。
 彼の最大の理解者であり、その一生を弟の絵の修行に捧げて亡くなった彼の姉、喜美子さんのエピソードなども、本当に泣けます。
 早くに両親を亡くし、妹や弟を抱え食べて行く為に必死で働き、弟(一村)の絵の修行を支え、妹の房子さんを嫁に出した喜美子さん。
 家族を支え続け、自身は生涯独身だったそうです。

*1:現在はかなり有名になっているので、正確には「生前は無名画家」ですが。

*2:1908~1999年。文化勲章受章者。文化功労者。千葉県市川市名誉市民(東山魁夷 - Wikipedia参照)

*3:1904~1991年。文化勲章受章者。文化功労者橋本明治 - Wikipedia参照)

*4:著書『一視同仁の果て:台湾人元軍属の境遇』(1979年、勁草書房)、『老化探究:ヒトは120歳まで生きられる』(1987年、読売新聞社)、『スポーツは体にわるい:酸素毒とストレスの生物学』(1992年、光文社)、『見張り番10年:普段着の市民運動』(2000年、東方出版)など

*5:1968年生まれ。1999年、終戦直後から佐渡でトキの保護に取り組んだ人々の軌跡と日本産トキの絶滅史を追った『朱鷺(トキ)の遺言』(1999年、中央公論新社→後に2002年、中公文庫、2013年、文春文庫)で、大宅壮一ノンフィクション賞を当時、史上最年少で受賞。著書『大相撲支度部屋:床山の見た横綱たち』(2000年、新潮文庫)、『熟年性革命報告』(2000年、文春新書)、『海洋危険生物』(2002年、文春新書)、『熟年恋愛講座:高齢社会の性を考える』(2004年、文春新書)、『熟年恋愛革命』(2006年、文春新書)、『野の鳥は野に:評伝・中西悟堂』(2007年、新潮選書)、『検疫官:ウイルスを水際で食い止める女医の物語』(2009年、角川文庫)、『パンデミック』(2009年、新潮新書)、『ひめゆり:沖縄からのメッセージ』(2010年、角川文庫)、『ペット殺処分』(2011年、河出文庫)、『アンチエイジングSEX:その傾向と対策』(2011年、文春新書)、『政治家やめます。:ある国会議員の十年間』(2013年、角川文庫)、『全盲の弁護士 竹下義樹』(2019年、岩波現代文庫)など(小林照幸 - Wikipedia参照)

*6:1938年(昭和13年)、日本画家大矢黄鶴の次男として東京に生まれる。後に、兄・大矢紀、弟・大矢十四彦が日本画家となっている。日本放送出版協会NHK出版)に入社し、『趣味の園芸』編集長などを経て、美術書の企画・編集に携わり、取締役美術部長。1977年(昭和52年)の『杉山寧:エジプト幻想行』、『平山郁夫:わが心のシルクロード』を皮切りに刊行を始めた「現代日本画家素描集」シリーズ全20巻(NHK出版)は当時、こうした美術書としては空前のヒットとなった。NHK出版定年退職後は津和野町立安野光雅美術館館長、奈良県立万葉文化館総合プロデューサー、田中一村記念美術館顧問等を歴任。父や兄弟の縁で日本画家との付き合いは幅広く、また、田中一村研究の第一人者としても知られる。(大矢鞆音 - Wikipedia参照)

*7:元・淑徳大学教授。著書『カミーユ・クローデル』(1992年、朝日文庫)、『ゴーギャン』(1995年、講談社選書メチエ)、『高村光太郎』(2003年、ミネルヴァ日本評伝選)、『藤田嗣治 パリからの恋文』(2006年、新潮社)

*8:著書『がん生還者の記録』(1989年、講談社文庫)、『神風特攻隊「ゼロ号」の男:海軍中尉久納好孚の生涯』(1995年、光人社NF文庫)、『8月17日、ソ連軍上陸す:最果ての要衝・占守島攻防記』(2010年、新潮文庫)、『死にざまに見る昭和史』(2010年、平凡社新書)、『「宗谷」の昭和史:南極観測船になった海軍特務艦』(2011年、新潮文庫)、『宮中某重大事件』(2012年、学研M文庫)など

*9:1985年、情報センター出版局

*10:森、福田内閣で法相

*11:村山内閣で沖縄開発政務次官

*12:思文閣社長(田中大 - Wikipedia参照)

*13:著書『写真集・海神の首飾り:田中一村伝説の島々から』(2015年、リーブル出版)、『写真集・瞽女宿を訪ねて:瞽女街道をいく』(2016年、リーブル出版)。個人サイト田辺サイト トップ

*14:1924~2012年。栃木市議(1955~1959年)、栃木県議(1963~1987年)を経て栃木市長(1987~2003年まで4期16年)(鈴木乙一郎 - Wikipedia参照)

*15:著書『ヒロシマはどう記録されたか(上)(下)』(2014年、朝日文庫)など