小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「歴史科学協議会第54回大会・報告」
【大会全体テーマ】変貌する国家と個人・地域Ⅱ
【個別テーマ】パンデミック下の国家と個人・地域:公衆衛生と医療
◆風土病の制圧と20世紀日本の感染症対策:リンパ系フィラリアの制圧と国際保健への展開(飯島渉(いいじま・わたる)*1)
(内容紹介)
Q&A方式(架空問答)で書いてみます。
◆先生
新型コロナの蔓延で過去の『忘れ去られた感染症』として約100年前のスペイン風邪が改めて注目されています(たとえばスペイン風邪(1918~1920年)での著名人の死去について(追記あり) - bogus-simotukareのブログ参照)。島村抱月(劇作家、1871~1918年)など当時の著名人が亡くなっても忘れ去られるのだから、志村けんなど著名人が亡くなっても、100年後にはいずれ今回のコロナ禍も忘れられるのだろうか、いやそれ以前に『果たして100年後、人類は生き残っているのだろうか(環境破壊などの問題)』という複雑な思いを禁じ得ません。さて今回はそうした忘れ去られた感染症の一つとして『フィラリア』を採り上げたいと思います。
例えば、西郷隆盛(いわゆる維新の三傑の一人、明治新政府で参議、陸軍大将、近衛都督)は『陰嚢が肥大していたこと』で有名ですが、その陰嚢肥大の原因については『フィラリア感染』と言うのが通説ですが知っていますか?
◆生徒
済みません、知りません。
◆先生
西郷といえば上野に銅像もあるし、NHK大河ドラマ翔ぶが如く (NHK大河ドラマ) - Wikipedia(1990年)、西郷どん (NHK大河ドラマ) - Wikipedia(2018年)の主人公にもなったので有名ですが、彼がフィラリアだと言うことは意外と知られてない気がします。
ちなみに『フィラリア』でググると八丈小島のマレー糸状虫症 - Wikipedia、佐々学 - Wikipediaがヒットします。
佐々*2は「八丈小島のマレー糸状虫症(フィラリアの一種)」根絶に尽力した人間として「その道(感染症研究者、地元住民など)では有名な人物」ですが、日本においてはそれほど知られてないように思います。
また、『フィラリア』でググると
◆小林照幸*3『フィラリア:難病根絶に賭けた人間の記録』(1994年、阪急コミュニケーションズ)
筆者の小林氏には、感染症関係の著書として他にも、『死の貝*4』(1998年、文藝春秋)、『害虫殲滅工場:ミバエ根絶に勝利した沖縄の奇蹟』(1999年、中央公論新社)、『検疫官:ウイルスを水際で食い止める女医の物語』(2009年、角川文庫)、『パンデミック』(2009年、新潮新書)、『死の虫:ツツガムシ病との闘い』(2016年、中央公論新社)という著書もあります。
ツツガムシ病も今回のフィラリア同様、忘れ去られた感染症と言って良いでしょう。撲滅されたフィラリアや日本住血吸虫症と違い、「今も死亡者はいます」が昔ほどの危険性では勿論ありません。
と言った書籍もヒットしますが、こうした書籍もそれほど有名ではないのでは無いか。
何せ小林本のAmazonでの著書紹介は
それ(ボーガス注:フィラリアのこと)は、かつては〈犬の病気〉ではなかった。人間に象のような足と巨大な陰嚢(いんのう)をもたらす“不治の風土病”であった。
ですし。
日本の過去において『忘れ去られた感染症』ハンセン病(ライ病)が深刻な病気扱いされたことは、『ミステリ界の巨匠』松本清張原作、『映画界の巨匠』 野村芳太郎監督、『日本を代表する名優』緒形拳らによって作られた日本を代表する名画『砂の器』(1974年)で有名かと思います。『砂の器』は素晴らしい映画ですので大いに宣伝したいのですが完全な脱線になるので今回は省略します(例えばコロナ禍で読むと「生々しい」 60周年の松本清張「砂の器」が古びない理由 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)参照)。今回は『忘れ去られた感染症』フィラリアを取り上げた映画として『孤島の太陽』(1968年)と言う映画を紹介したいと思います。
◆生徒
『孤島の太陽』ですか、聞いたことが無いです。『砂の器』なら知っていますが。
◆先生
孤島の太陽 - Wikipedia
配給日活、監督吉田憲二、脚本千葉茂樹、原作・原案伊藤桂一*5。上映時間106分。
◆概要
伊藤桂一の小説『「沖ノ島」よ私の愛と献身を:離島の保健婦荒木初子さんの十八年』(1967年、講談社)を、翌年に映画化した作品。現在の高知県宿毛市沖の島町を舞台に、現地で保健衛生医療の普及および向上に貢献した荒木初子駐在保健婦(1917年~1998年)の献身的な活動を描いた感動の物語。
終戦直後~昭和30年代まで、亜熱帯気候に属する絶海の孤島・沖の島および隣接する鵜来島(うぐるしま)は、美しい自然とは裏腹に劣悪な衛生状態におかれた無医村だった。乳児の死亡率は本土の4倍、さらにフィラリア症が沖の島特有の風土病として島民の健康を蝕んでいた。当時フィラリア症は、別名「象皮症」と呼ばれ、島民はもとより、本土から来訪する者も一目見ただけで怖れをなす奇病と認識されていた。同じ高知県内においても県民感情としては、フィラリア患者とその親族、ひいては沖の島という島全体が差別的な状況にあった。
高知県幡多郡沖の島村広瀬地区に生まれ育った荒木初子は、高知県衛生会産婆学校に入学。卒業して保健婦資格を取得すると、故郷の無医村、沖の島への赴任辞令を受ける。そして無医村の絶海の孤島にもかかわらず、強制疎開から帰った島民をはじめ、戦地から復員した者、終戦直後のベビーブームもあいまって、小さな島の集落には人々が溢れていた。
◆ストーリー
物語の舞台は高知県宿毛市沖の島。島出身の主人公・荒木初子(樫山文枝*6)は保健婦資格を取得して生まれ故郷の無医村・沖の島に赴任命令を受けて戻ってきた。けれども、愛する郷里に帰ったにもかかわらず、保健衛生の心得を説いて回る初子に幼い頃から馴染みだった島民でさえ、面倒で難しい講釈はお断りという状況。年配者の漁師や、猫の額ほどの小さな畑を耕作しながら家庭を守る主婦の大半は学校すらきちんと入れさせてもらえていない。閉鎖的で昔からの風習が残っている迷信深い土地の上、無医村であることや貧困のため、島民の衛生観念が未発達で島の衛生医療は劣悪で整備もされずに放置されていた。
さっそく初子は、身寄りのない少女を引き取り育てることにした。そして朝は事務をこなし、午後は巡回家庭訪問、産気づいた島民には助産婦として夜通し献身的に奉仕する毎日。時にはいざこざの仲裁まで引き受けることも。
ある日、島の青年団長、大治郎(前田吟)の父親がフィラリア症に罹るが、既に手の施しようも無く息を引き取った。初子と共に駆けつけた獣医・門馬(宇野重吉)は無念の情に叩きのめされるが、これを機に門馬は獣医から医師への転進を決意し、初子は高知県庁や各地の大学病院を精力的に回り、フィラリア症の病理究明依頼に奔走する。やがて乳児の死亡率も下がり、島民は初子へ全幅の信頼を委ねるようになり、心の溝は解消してゆく。
そんな折、初子に転勤の辞令が下りる。家族同様に信頼する初子の転勤に、全島民が涙し反対した。時を同じくして、フィラリア特効薬を携えた若いエリート医師高岡(勝呂誉)が島を訪れ、初子に求婚する。しかし初子は県の辞令よりも、若いエリート医師高岡との結婚よりも、何より島で人生を全うする決意を固めた*7。孤島の太陽は今日も光り輝く。
◆キャスト
荒木初子:樫山文枝
高岡久平医師:勝呂誉
門馬獣医師:宇野重吉
青年団長・大治郎:前田吟
上村聖恵(荒木初子の先輩保健婦):芦川いづみ
と言う映画です。
ちなみにこの映画の成功(といっても「砂の器』などの大ヒットと比べればささやかなものでしょうが。何せDVD化されてませんからね)を受けて
孤島の太陽 - Wikipedia
1970年2月5日から4月30日まで、フジテレビ系列の毎週木曜21:30 ~22:00でテレビドラマ化された。日立の一社提供。映画版の脚本を担当した千葉茂樹が、本ドラマでも脚本を担当した。
◆キャスト
荒木初子:小林千登勢
吉川(映画版の髙岡に当たる):小坂一也
門馬医師:宮口精二
青年団長・大治郎:沖田駿一
上村聖恵(荒木初子の先輩保健婦):乙羽信子
というドラマも作られています。
失礼ながら大ヒットした『砂の器』と比べるとあまり有名な映画ではありませんので今は知らない人が多くても仕方が無いとは思います(ただし主人公の荒木初子は「その道(感染症研究者、地元住民など)では有名な人物」です)。それはともかく『砂の器』をご覧になれば分かることですが、あの映画においては実はハンセン病についてそれほど詳しい説明はされていません。つまりは1974年当時の人間にとってハンセン病とは身近な物だったと言うことです。これは『孤島の太陽』についても同じ事が言えるでしょう。つまり1968年当時においてはフィラリアとは日本人にとって身近な病気だったし「宿毛市沖の島」のような「無医村の離島」も身近な存在(?)だったわけです。
しかし医療の発達によりフィラリアのことも無医村のことも忘れ去られていったわけです。
◆生徒
勝呂誉と樫山文枝はよく知りませんが、前田吟なら「男はつらいよ」(1969~1995年)、「渡る世間は鬼ばかり」(1990~2011年までは連続ドラマ、2012~2019年までは単発のスペシャルドラマ)とテレビ東京「二代目 和風総本家」(2018年~2020年)のMCでよく知っています。
【参考:沖の島、鵜来島(うぐるしま)】
水がきれいなのに人が少ない海水浴場ランキング2019【完全版】 | ニュース3面鏡 | ダイヤモンド・オンライン2019.8.17
◆昨年度の利用者数わずか300人!うどの浜が1位
1位は高知県宿毛市の「うどの浜」で、四国の西南端の離島、沖の島にある。島までは市営定期船「すくも」(1日2便)で50~95分かかる。下船後も40分歩かなければならず、昨年度の利用者数はわずか300人だった。
うどの浜は、四国で最も早い6月初めに海開きをする海水浴場として知られている。開設期間も9月中旬までと長いので、これから計画しても泳ぎを楽しむことができそうだ
高知で新たに2人の感染確認 新型コロナウイルス | NHKニュース2020.4.7
◆男性教員感染で10年ぶりの入学式が中止
新たに感染が確認された男性教員が勤務する宿毛市の離島にある中学校は、生徒数の減少に伴い、昨年度まで休校していて、10年ぶりに新入生を迎える予定でしたが、7日予定されていた入学式が急きょ、中止になりました。
宿毛市の沖の島にある「沖の島中学校」は、生徒数の減少に伴って、平成23年度から昨年度まで休校となっていましたが、今年度、女子生徒1人が入学するため、再開することになっています。
しかし、高知市から赴任した男性教員が6日、新型コロナウイルスの感染が確認されたため、中学校では宿毛市教育委員会からの指示を受けて急きょ、7日の入学式を中止しました。
沖の島中学校の川田典男校長は、「新入生と保護者、そして地域の皆さんが楽しみにしていた入学式が中止になってしまい、しかたがないことではあるが本当に残念だ。新型コロナウイルスの感染の状況が落ち着いたら入学式を実施したい」と話していました。
島の看護師が野菜の定期便を発案 「食生活の改善に」2020.10.29
耕作放棄地が増えている高知県宿毛市の沖の島に、宿毛市内産の新鮮な野菜を届ける定期便が始まっている。注文があれば毎週月曜日の船便で、一定量の野菜詰め合わせを島に届ける。企画した地域おこし協力隊員らは「地産地消にもつながるので、ぜひ利用を」と呼び掛けている。
沖の島では高齢化とともに就農者が減り、荒れた段々畑が目立ち始めている。食材は、市内の量販店やインターネット通販で取り寄せる島民も多いが、市内産の野菜を手に入れることは簡単ではないという。
このため、沖の島在住で看護師として活動する地域おこし協力隊員、堀口佐和子さん(51)が野菜の定期便を発案。「食生活の改善にもつながる」と市に相談したところ、市内業者の協力も得られて実現した。
宿毛市鵜来島・沖の島でワクチン接種 高知県内初の一般向け|高知新聞2021.4.21
宿毛市の離島、鵜来島と沖の島で20日、新型コロナウイルスワクチンの集団接種が行われた。高齢者だけでなく16歳以上の全島民が対象で、一般住民向けの接種は県内初。2島の接種対象者計177人のうち、143人が受けた。
国は、人口が千人未満の離島などでは65歳未満の住民も含めた一斉接種を認めており、市は「島は常勤医師がおらず、医療が脆弱な地域」として島の優先接種を決めた。
沖の島 (高知県) - Wikipedia
人口(国勢調査結果)は、1990年(平成2年)時点で530名、1995年(平成7年)時点で400名、2000年(平成12年)時点で314名、2005年(平成17年)時点で236名、2010年(平成22年)時点で194名。
【歴史】
◆2010年(平成22年)4月1日
小学校を本年度より休校とする。
◆2011年(平成23年)4月1日
中学校を本年度より休校とする。
◆2012年(平成24年)4月1日
小学校を本年度より再開し、宿毛市立沖の島保育園を併設・開園する。この時点で、沖の島小学校の在校生は1名、教職員数は3名、保育園児は4名。
◆2020年(令和2年)4月1日
沖の島中学校再開。
【産業】
第一次産業は、かつての基幹産業であったが、地域の高齢化や担い手不足の影響は大きく、衰退の一途を辿っている。かつてはキビナゴ漁が盛んであった。岩海苔も特産物であるが、厳冬期の海に出て手で採集するため収穫量は少なく、流通することは滅多にない。農産物としてはラッカセイとサツマイモがある。しかし収穫量が少なく、島民の自給自足と親戚への配分で消費され、市場に出回ることはほとんどない。旅館の宿泊客にラッカセイが出されることは稀にある。
2000年代以降の沖の島は、第三次産業の就業者が突出して多くなっている。2010年度(平成22年度)の国勢調査では、産業別就業人口で、第一次の4人、第二次の5人に対して、第三次は53人であった。海水浴場と磯釣りに加え、様々なマリンスポーツ、定期船観光、旅館・民宿などといった娯楽・サービス業の分野が基幹産業となっている。
沖の島(離島) – すくも観光ナビ
四国で一番早い海開きをする「ウドの浜海水浴場」や「久保浦海水浴場」、絶景をながめる「白岩岬公園」(キャンプ場)などがあり、磯釣りにおいては全国から釣り師が集まるフィッシングの聖地。ウミガメがおよぐ海ではダイビングやシュノーケリングも楽しめる、マリンレジャーの拠点です。
島の港は「母島」と「弘瀬」の2カ所。北部の母島地区には商店(いもせや)と、島唯一の食堂(旅館おきのしま)があり、弘瀬地区には商店が一軒あります。集落から離れると自動販売機などもなくなるので、水分補給や食料調達にはご注意ください。
集落活動センター妹背家では、電動自転車のレンタル、シーカヤック体験等も行っています。
【沖の島の遊び方】
◆磯釣り
黒潮のめぐみ豊かな沖の島・鵜来島は釣り人の聖地といわれ、連日大勢の釣り客でにぎわっています。島には渡船業者が運営する民宿が6軒あり、泊りがけの釣りも楽しめます。
◆ダイビング
沖の島の海は透明度抜群。色鮮やかな熱帯魚やサンゴの群生、ウミガメやイルカも見られます。
鵜来島(うぐるしま) – すくも観光ナビ
宿毛湾の沖あい約23㎞にうかぶ鵜来島は、車道がなく、車が1台もないのどかな島です。
平成30年時点で人口約20人という限界集落の島ですが、民宿も数件あり、のんびりと釣りや観光を楽しむことができます。
島にはカフェが1軒あるのみ。集落の外にはお店や自動販売機などはないのでご注意ください。
※カフェには事前連絡しておくことをオススメします。
◆交通手段:定期船(1日2便)
鵜来島へは宿毛市片島港から定期船が1日2便運航しています。
【鵜来島の楽しみ方】
◆磯釣り
島には渡船業者が運営する民宿が4軒あり、泊まりがけでの釣りも楽しめます。
◆ダイビング
沖の島・鵜来島の海は透明度がたかく、テーブルサンゴやシコロサンゴ、たくさんの熱帯魚など、豊かな水中世界がひろがっています。とくに鵜来島周辺はウミガメの生息地となっており、遭遇率も高め!。離島のきれいな海で、ぜひダイビングにチャレンジしてください。島には2軒のダイビングショップがあります。
◆鵜来島の戦争遺跡
鵜来島には戦時中、旧海軍の基地がありました。日本海軍の本拠地・呉(広島県呉市)を防衛するための要衝として大砲3基がおかれ、今でも砲台跡などの軍事遺構がのこっています。
予想の範囲内ですが完全に過疎化してますね。
【参考:フィラリアほか】
西郷どんの運命を変えた「危険なダイエット」 : 深読み : 読売新聞オンライン
メタボは現代病かと思ったら、西郷隆盛(1828~77)も苦しんでいた。西郷は巨漢だったが、若い頃は貧乏で粗食に耐え、沖永良部島に流された時は食べ物を満足に与えられなかった。討幕に奔走していた時も肥満とは無縁だっただろうが、40歳を過ぎて新政府の参議となり、高い俸禄を得てデスクワークをするようになると、たちまち太り始めた。
西郷は、薩摩の郷土料理「豚骨」に目がなかった。今の一般的な豚骨のイメージとは異なり、骨付き豚肉のぶつ切りを桜島大根と一緒に鍋で煮込み、黒糖や麦味噌、焼酎で味付けしたもので、相当なカロリーがあった。白米やウナギの蒲焼もよく食べ、甘い砂糖菓子も好物だったというから、太るのは無理もない。今も残る軍服のサイズから推測される西郷の身長は178センチ、体重は108キロもあったという。
高脂血症による動脈硬化のためか、胸の痛みを訴えるようになり、心配した明治天皇(1852~1912)は、ドイツから招いた天皇の侍医、テオドール・ホフマン(1837~94)に西郷を診察させた。
歴史学者の家近良樹さん*8は近著『西郷隆盛*9』(ミネルヴァ日本評伝選)で、(ボーガス注:西郷が下野し、最終的には西南戦争での戦死に至ったいわゆる征韓論論争で)西郷が唐突に朝鮮使節を志願した背景には、(ボーガス注:フィラリアによる陰嚢肥大や太りすぎによる糖尿病など)体調不良や精神的な異常があったと指摘している。西郷は板垣退助(1837~1919)に送った手紙で「朝鮮との交渉が失敗しても、自分が死ねばいい」などと、自暴自棄とも取れる発言を繰り返している。
ということで「家近説の是非(体調不良で自暴自棄になったことが死に花を咲かせたいと言うことで征韓論や西南戦争を助長した)」はともかく「フィラリアによる陰嚢肥大」以外にも晩年の西郷は「太りすぎによる糖尿病、高脂血症」など、慢性疾患を山ほど抱えていたとみられています。
錦小路家本『異本病草紙』について:その5(フィラリア症)
今回はフィラリア症について述べる。すでに日本では見られない病気の一つである。しかし昔は日本でも実在し、多くの患者を苦しめた。
12世紀に描かれた異本病草紙にフィラリア症によると思われる絵図をみつけることができる。
遠い昔日本でもフィラリア症が存在し、多くの人たちを悩ませていたことを示す貴重な絵図と思われる。
横浜美術館で偶然に、有名な画家・下村観山の作品「辻説法」の中に象皮病を描いた女性を見つけることができた。当時、私たちが想像するよりもフィラリア症は蔓延していたのかもしれない。
葛飾北斎は、文化9年関西に旅していた時、三島にて陰嚢水腫を見世物にしている二人の男を見つけてその有様を描いている。
1912年、陸軍省で調べた結果では、北海道を除く青森県以南の日本各地にかなりの数の患者が見出されている。その後生活様式の変化や薬物療法などにより1978年、奄美大島の感染を最後に、日本からフィラリア症は完全に消滅した。しかしフィラリア症は、アフリカ、東南アジア、中南米各地になお9000万の患者が存在することが知られている。
目黒寄生虫館 人の寄生虫 北斎漫画のあの絵は事実だった。 | そらまめひよこ - 楽天ブログ
目黒寄生虫館に行きました。無料ということもあり人気でした。
葛飾北斎の北斎漫画の第12編の陰嚢水腫の絵は本当でした。面白可笑しく描いたのではなく大げさに書いたのでもなかった。現実に見た物を描いていました。
寄生虫によって感染して象皮病になって陰嚢水腫になった人の1970年代の写真も展示されていました。そして西郷隆盛もこの病気を患っていました。
なんだか痛そう…西郷どんの下半身はフィラリアに寄生されていた(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社『週刊現代』2018年2月10日号
陰嚢水腫とはその名の通り陰嚢に水が溜まってしまうことである。本来であれば、身体の組織に溜まった水分はリンパ系が汲みだしてくれる。リンパ管は最終的には静脈へつながっているので、組織内の余分な水分はリンパ系から血管へと戻っていくことになるわけだ。しかし、なんらかの原因でリンパ管の閉塞や破壊が起こるとその部分に水が溜まり、水腫になってしまう。
西郷隆盛の場合、フィラリアに感染し、足の付け根である鼠径部のリンパ管が炎症を起こし閉塞。結果、陰嚢の水腫が引き起こされたと見られる。
フィラリアに感染したのは島流し先での過酷な獄中生活が原因だった。西郷は(ボーガス注:薩摩藩主)島津斉彬には忠義を尽くしたものの、斉彬急逝後、藩の実権をにぎった弟の島津久光とは折り合いが悪かった。1862年、遂に沖永良部島に島流しにされてしまう。沖永良部島の牢獄は吹きさらしで衛生環境も悪く、食事もロクに与えられなかった。そこでフィラリア症に感染してしまった。
今でこそ治療薬があるため、慢性化せずに治療できるが、昔は深刻な病だった。日本人は平安時代からフィラリアに悩まされており、江戸時代に全国に広がっていったのではないかと言われている。葛飾北斎の浮世絵でも、肥大化した陰嚢を2人がかりで担いでいる絵が残されている。
第48回 西郷どん象皮病で大事なところが… | 学び | 薬剤師のエナジーチャージ 薬+読
明治維新から150年を迎える今年のNHK大河ドラマ『西郷どん』。
西郷隆盛という人物はこれまで何度も大河ドラマで取り上げられていますが、やはりそれだけ魅力があるということなのでしょう。
間違いなくわかっているのは、西郷が寄生虫の感染症を抱えていたことです。
寄生していたのは、フィラリアの一種、バンクロフト糸状虫と考えられています。
西郷は陰嚢が象皮病によって巨大化し、赤ん坊の頭ほどもあったといいます。このため、後年は馬にも乗れず、駕籠で移動していたとの記録が残ります。
1877(明治10)年、西郷は鹿児島の不満士族に担がれて西南戦争を起こすものの、武運拙く敗れ、部下に首を打たせて壮絶な最後を遂げました。この時、首は別の場所に埋められていたため、膨れ上がった陰嚢によって西郷の遺体が特定されたといいます。
象皮病は、平安時代の絵にも患者らしき姿が描かれており、江戸時代にも多くの記録があります。(ボーガス注:西郷の評伝や大河ドラマになった小説『天と地と』(上杉謙信が主人公)で知られる、鹿児島県出身の)作家の海音寺潮五郎(1901-1977年)は、少年時代に鹿児島で西郷と同じような症状の老人を何度も見たと書いており、決して珍しい病気ではなかったようです。
晩年の西郷は、まるで死に急ぐかのような行動を見せ、最後は無謀とも思える西南戦争でその生涯を終えますが、彼の体調の悪化はこれと無関係ではなかったでしょう。
その後、バンクロフト糸状虫に対しては『ジエチルカルバマジン』という優れた薬が登場し、駆除が可能になりました。
また、大村智博士らが創出した『イベルメクチン』は、フィラリアに対して著効を示し、アフリカなど世界各国で多くの人々をその脅威から救いました。
この功績で、大村博士が2015年のノーベル生理学・医学賞を受賞したことは、記憶に新しいところでしょう。こうした薬や衛生状態の改善により、フィラリア感染症はすでに日本から姿を消しています。
西郷どんを苦しめた病には、今らならずっと有効な治療法があることでしょう。
筆者がもしタイムマシンに乗れたなら、いくつかの薬を携えていって西郷の苦しみを救い、その笑顔がどれほど魅力的なものだったのか見てみたいと、そんなことを思うのです。
西郷隆盛も感染した風土病 日韓で征圧した歴史を探求: J-CAST トレンド【全文表示】(ノンフィクションライター 西所正道*10)
感染症の歴史学を研究する青山学院大学文学部の飯島渉(わたる)教授は、長崎大学熱帯医学研究所を訪ねた際、ある文献に目が留まった。
「長崎で発生したリンパ系フィラリアという感染症を、戦後征圧したときの資料を読んでいたんです。すると、長崎での治療経験が、韓国の済州島(チェジュド)でリンパ系フィラリアが発生した際に生かされた、という話が書かれてありました。済州島の風土病の征圧に長崎大学の研究者たちが関わっていたんですね。そのときこう思いました。どのような経緯で征圧に至ったのか。当時の日韓の研究者がどのような形で力を合わせたのか。一方で済州島の患者さんたちは、どんな治療を受け、どんな治療効果を得られたのか。それをヒアリングして記録として残しておきたいと・・」
ところで、長崎でのリンパ系フィラリア征圧はどのように成功をおさめたのだろうか。
当時の厚生省は、1962年からリンパ系フィラリアが流行する地域で発生の実態調査をしている。鹿児島、長崎、熊本、宮崎、大分、高知の各県と東京都伊豆諸島だが、長崎県では血液検査をした20万2941人中2660人が陽性反応を示した。
それに対して長崎大学風土病研究所(のちの熱帯医学研究所)が手掛けた、西彼杵(にしそのぎ)郡大瀬戸町松島(現・西海市)における対策が興味深い。
対策の指揮を執ったのは、片峰大助。長崎大学風土病研究所教授である。陸軍軍医中尉として中国大陸に駐屯した経験があり、中国・浙江省でリンパ系フィラリアに接したことがその後の研究につながった。
征圧のキーになったのは、ジエチルカルバマジン(以下DEC)という駆虫薬だった。戦後すぐに米国で開発された特効薬である。ただ当時、日本人の大勢の患者に、どのように服用させるかという方法が確立されていなかった。
「まず、薬の服用量です。日々の服用量とトータルの服用量、そして服用頻度。飲ませ方も肝心です。患者さん一人一人に手渡して、飲んでおいて下さいといっても飲まないことや、飲み忘れるという可能性があります。感染症治療の場合、こうしたことは避けなければなりません」
決められた量のDECを、地域によって飲ませる条件を変え、効果を比較した。「毎日連続30日間」、「3日ごとに30日間」、「週1回を10週間」の3パターン。このうち「3日ごとに30日間」の服用が、もっとも良い効果をもたらすことがわかった。
飲ませ方にも工夫が加えられた。必ず服用したことが確認できるようにするため、地元の婦人会が協力したのである。公民館や集落の組長の家に集まってもらい、決まった時間に服用したのだ。
さらに血液検査で陽性反応が出た人だけでなく、陰性反応が出た人(満5歳以上)に対しても、予防的にDECを一定量投与した。こうした取り組みが、リンパ系フィラリア拡大の抑制に役立ったのは重要な点である。
こうして長崎のリンパ系フィラリア征圧は成功した。その事例に強い関心をもつ研究者が韓国にいた。ソウル大学の徐(ソ)ビョンソル教授である。1960年代後半、済州島などでリンパ系フィラリアが流行していた。
徐教授が、片峰教授に連絡を取り、長崎大学とソウル大学がリンパ系フィラリア征圧を目的にしたジョイントプログラムを組むことになった。それは1970年のことだった。
だが、日本の植民地支配から解放され、25年しか経っていない。しかも1948年に大韓民国が樹立される4か月前、米軍政庁下で起こった4・3事件で軍警察と右翼勢力によって2万5000人~3万人の住民が殺戮される凄惨な事件が起きている。
そうした悲惨な歴史を経験した済州島で、治療途中に緊迫した場面があったという。
「済州島の人々にDECを使ったときに出た発熱です。薬の副作用なのですが、どうやら『日本人に毒を飲まされた』というシリアスな反応もあったようです。そのあたりは歴史的に敏感な問題なので、慎重に調査をしていきたいと思っています」
リンパ系フィラリアは、薬によってかなり征圧が進んだと言われているが、いまもニューギニア、アフリカなどに一定数の患者がいるという。そもそも薬を飲んだことのない地域の人々に、日本で行ったような確実に服用する環境をいかに整えるかである。
「文化の違いもあるので、それぞれの国・地域なりの対応を工夫しなければならないけれども、征圧事例を整理し、何が必要かを明確にしておけば応用がきくと考えています」
飯島によれば、かつて日本は感染症・寄生虫病対策のリーダーシップを取る姿勢を世界に示した時があったという。その中心人物は(大平*11内閣厚生相という厚生族議員の)橋本龍太郎*12元首相で、1998年のバーミンガムサミットで、「(ボーガス注:ツツガムシ病、日本住血吸虫症、リンパ系フィラリア等)20世紀にさまざまな寄生虫病を克服した日本が、その経験を生かして世界で寄生虫対策のために積極的な役割を果たすことを約束する」と宣言した。
これは「橋本イニシアティブ」といわれ、世界のいくつかの場所に研究拠点を設けた。
「済州島のリンパ系フィラリア征圧に関して、これまで日本が蓄積してきた知見は他の地域の感染症対策や寄生虫対策にも生かされただろう」と、飯島はみている。
「感染症アーカイブズ」の調査プロジェクトは、1970年代に日韓の医師がいかに協力して済州島の風土病を征圧したか、という貴重な歴史を掘り起こすだけでなく、世界の感染症対策のために価値ある資料を提供するに違いない。
「橋本イニシアチブ」が飯島教授や西所氏が評価するほど「外交的、あるいは感染病予防的な意味で価値」があるかはともかく、『産経の阿比留』辺りが垂れ流すガセネタ「外交の安倍」よりはマシかと思います。
西郷隆盛がかかった寄生虫病フィラリアは根絶目前 - 高橋真理子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト2018.2.21
西郷隆盛は、リンパ系フィラリア症と呼ばれる寄生虫病にかかっていた。そのせいで陰囊が大きく腫れて馬に乗れず、移動のときは籠に乗ったという。平安時代からあったというこの病気は、集団検診と駆虫薬の普及で日本では1970年代になくなった。
そして、日本のやり方を熱帯や亜熱帯の国々に広めることで、人類社会からの根絶がもうすぐ手に届くところにきている。
これは、世界保健機関(WHO)が特定の熱帯病を「顧みられない熱帯病(Neglected Tropical Diseases=NTD)」と名付けて国際社会に対策の強化を訴えてきた成果の一つだ。2015年にノーベル医学・生理学賞を受けた大村智さんの発見をもとに開発された抗寄生虫病薬「イベルメクチン」は、河川盲目症(オンコセルカ症)の患者を激減させるなど、熱帯病対策はここ数年目覚ましい成果を挙げている。そこに日本の貢献も少なくないのに、こうした動きが日本ではほとんどネグレクト(無視)されている。これは理不尽だと、昨年12月に東京で開かれたNTDの国際会議を取材して痛感した。
日本でフィラリア症を知る人は専門家を除いてほとんどいないと思う。だが、1964年の東京五輪のころにはまだ患者がいた。皮膚や皮下組織が異常に増殖して硬くなり、象の皮膚のようになるので、象皮病とも呼ばれる。
WHOで長年フィラリア症対策の第一線で活躍してきた一盛和世*13・長崎大学熱帯医学研究所ディレクターによると、フィラリアとは「5センチ~10センチのニョロニョロした虫」だという。イヌの場合は心臓に入るのでイヌは死ぬ。イヌと人間では虫の種類が違い、人間に寄生する虫はたいてい足の付け根のリンパ管に入り、足が異様に太くなるなどの症状を引き起こす。外見が変わるので、(ボーガス注:ハンセン病のように)差別される場合も少なくない。「人間を殺すのではなく、人生の質を低下させる」病気だ。
WHOがNTD対策部を発足させたのが2005年だ。南太平洋の島々でフィラリア対策に取り組んできた一盛さんは2006年からWHO本部のフィラリア制圧計画統括官として13年に定年を迎えるまで働いた。12年1月にWHOは「NTDの世界的影響克服の推進-実施に向けたロードマップ」を発表、17の熱帯病*14について主要戦略と達成目標を示した。時を置かず、ファイザーやノバルティス、メルクといった大手製薬企業13社、米・英政府、ビル・メリンダゲイツ財団、世界銀行を含む22の国際組織が「NTD撲滅共同体(Uniting to Combat Neglected Tropical Diseases)」を組み、薬が有効な10の病気*15について2020年を目標年として大々的な支援活動を展開することを宣言した。これが「ロンドン宣言」だ。なお、WHOは現在、NTDとして20の病気*16を認定している。
日本の製薬企業エーザイは、2010年にフィラリア症の治療薬を無償で22億錠提供するとWHOと共同声明を出し、12年のロンドン宣言にも日本の企業として唯一参画した。17年春までに27カ国に10億錠を提供し、社員がほかの国際機関と一緒になって現地での住民支援活動も進めてきた。さらに、20年以降も制圧が達成されるまで薬の提供と支援活動を続けると約束している。
【参考:『孤島の太陽』ほか】
https://twitter.com/KimutetsuHD/status/12348028664280555532020年3月3日
◆木村哲也
飯島論文*17は、フィラリア制圧に尽力した高知県沖の島の駐在保健婦・荒木初子や、彼女がモデルの映画「孤島の太陽」にも言及。まさか『歴研*18』でこれらの名前を見る日が来るとは!…感慨無量です。それらを論じた拙著『駐在保健婦の時代』(医学書院)も参照されており恐縮。
上記拙著は、これまで医学・公衆衛生看護の分野ではそれなりに読まれてきたが、歴史学研究者にはほとんど関心を持たれた形跡がない。飯島論文が指摘する現状には、両分野の没交渉という根深い問題が横たわっているように思える。医学・公衆衛生の行政資料を歴史学研究者へと架橋することが必要ですね。
木村ツイートを見ていて、雑誌『歴史学研究』の出版元が『青木書店から績文堂出版に変更』されてるのに気づいてびっくりしました。
雑誌『歴史評論』の版元『校倉書房』が廃業した(今の版元は校倉ではない)のにも驚きましたが、どうも青木書店も廃業してしまったらしい。出版不況と良く言われますが、世知辛い世の中です。
地域に生きた駐在保健婦の歴史(久常節子,木村哲也) | 2012年 | 記事一覧 | 医学界新聞 | 医学書院
『保健師ジャーナル』誌では,このたび出版された『駐在保健婦の時代 1942-1997*19』(医学書院)の著者で,高知や青森,沖縄における保健婦の歴史を研究した木村哲也氏と,高知県出身で厚生省において保健指導室長,看護課長を歴任した久常節子氏*20との対談を開催。
◆木村
僕は,祖母(西岡末野)が高知県の保健婦だったというのが大きな力になったと思います。高知で元駐在保健婦の方々にお話をうかがうときにも,「西岡さんのお孫さんやったら,話をしましょう」と言っていただきましたし,沖縄でびっくりしたのは,「高知の保健婦さんの関係だったら,時間を取らなイカンね」と言って会ってくださったことです。それは青森でも同じでした。
「孤島の太陽」上映会に涙する<その2> | 草紙庵のきまぐれブログ2008.9.24
私は気合いを入れて真剣に観ていたのですが、まず前田吟*21が村の青年の役で登場すると思わず「あっ、ヒロシさん、若いなあ!」、下條正巳*22が駐在さん役で現れると今度は「あっ、おいちゃんもメチャクチャ若い!」という調子で、どうしても「男はつらいよ」の役名で叫んでしまいます。(もちろん、心の中で)
ちなみに、前田吟はこの翌年にヒロシ役で「男はつらいよ」の第1作に出演しました。
さらに、寺尾聰*23は宇野重吉と親子で出演していて最後のほうにチョイ役で登場しましたが、この時も私は心の中で「あっ、ルビーの指環*24もまだ青年だあ!」と叫んでしまいました。
芦川いづみは聡明な美しい女優さんでしたが、俳優の藤竜也との結婚を機に、この作品を最後に芸能界から引退をされたそうです。
そして、沖の島の島民の皆さんもエキストラとして多数出演されたと聞いています。
土佐高知の雑記帳:孤島の太陽をみた2011.1.15
ロケは1968年夏、沖の島に泊まり込んで行われたが、大人数を収容する宿泊施設はなく、キャスト、スタッフは民家に泊まり込んだという。
日活の本格的ロケ、主人公はNHK連続テレビ小説「おはなはん」の主役で、一躍国民的スターとなった樫山文枝さんだから、宿毛市の熱狂ぶりは相当なものだったという。
興味をひいたのは、県の保健衛生の幹部・芦川いづみさん。
保健婦の先輩として、重要な役どころを演じている。
その芦川さんはこの作品が最後。
その年に(ボーガス注:俳優の藤竜也と)結婚し、「孤島の太陽」の出演を最後に引退した。
いろいろと見どころのある作品だが、残念ながらDVD化されていないという。
あさコラム vol.102016年6月24日
こんにちは、厚生労働省健康局結核感染症課長の浅沼一成*25です。
今回は「孤島の太陽」という映画を紹介いたします。
「孤島の太陽」は、高知県・沖の島の駐在保健婦を主人公にした1968年の日本映画です。
主演は当時、(ボーガス注:1966年のNHKの連続テレビ小説『おはなはん』のヒットで)絶大な人気を誇っていた樫山文枝さん。
ずいぶんと昔の映画ですが、主人公の荒木初子さんは、実は、保健衛生の普及および向上に貢献され、沖の島のフィラリア対策に尽力を果たした実在の保健師さんなのです。
フィラリアは蚊を媒介する感染症で、荒木さんが赴任した当時は、沖の島で猛威をふるっていました。
当然ながらフィラリアで死亡する方も多く、沖の島の保健衛生上の重要課題の一つになっていました。
そこで荒木さんは毎日のように、島民宅を訪問したり、婦人会に出席するなど、蚊の駆除の重要性を説いて回っていたとのこと。
蚊の幼虫駆除のため、墓地の花筒の水を捨てるなど、島民の反発を受けながらも、徹底的に蚊の駆除を進めていました。
そして、映画のシーンにもありますが、長崎大学熱帯医学研究所の支援のもと、フィラリアの全島一斉検診として、深夜の採血活動にも積極的に取組んでおられました。
こうした荒木さんの取り組みと、フィラリア治療薬の普及のおかげで、1960年代後半には、沖の島からフィラリアをなくすことができたのです。
この功績を讃えようと、荒木さんの生誕百年に先立ち、島民や、出身者らで作る「保健婦初子の会」によって、昨年、顕彰像が沖の島の公園に建立されました。
奇しくも今年は、中南米で流行したジカ熱対策などのため、皆さんにも蚊の駆除をお願いしているところ。
天国の荒木さんに激励して頂きながら、私たちも蚊対策に努めてまいります。
保健師が主役の映画「孤島の太陽」2020年2月16日
私たちの世代やそれ以下の世代の保健師さんには、あまり知られていませんが、以前、当時60代の大先輩方にその映画のことを尋ねたところ、「もちろん、知っている!。その映画や荒木初子さんの存在を知ったことを機に、保健師を目指した!」と教えていただきました。当時は、(ボーガス注:1970年に小林千登勢主演でフジテレビの)テレビドラマにもなるほど、人気だったようです(^^)
残念ながら、”孤島の太陽”は、一般向けのDVDの販売・レンタル等はされていないようで、現在この映画を見るためには、上映会用の貸し出し申し込みが必要なようです。
横山やすし - Wikipedia
高知県宿毛市沖の島の旅館で仲居のアルバイトをしていた島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。分娩は、映画『孤島の太陽』のモデルとして一躍脚光を浴びた伝説の駐在保健師・荒木初子(第1回吉川英治文化賞受賞)の助産師初仕事だったという風説があるが、やすし生誕の1944年(昭和19年)は、荒木はまだ産婆学校入学前であり、保健婦免許取得後の荒木の沖の島への着任が1948年であることから誤りである。
生後3か月で当時高知に疎開していた木村家に養子入りし、大阪府堺市に育つ。
ちなみに単なる偶然でしかないでしょうが、やすしの相方だった西川きよしも「高知県出身(高知市出身)」だそうです(西川きよし - Wikipedia参照)。
映画で考える日本の歴史と感染症-結核との長い闘い、保健婦の活躍を中心に |ニッセイ基礎研究所2020年10月02日
今年上旬からの新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、感染症に対して脆弱な医療提供体制の問題点が浮き彫りになっています。しかし、(中略)、人類と感染症の長い付き合い(腐れ縁?)を踏まえると、感染症が社会にとって深刻な脅威とは言えなくなったのは、そう遠い話ではありません。
そこで今回は映画を素材にし、感染症との関わりを考えたいと思います。
歴史を振り返ると、感染症は日常的に起きていました。例えば、開国直後の日本はコレラ、チフス、性病などに次々と見舞われ、1879年のコレラ感染では約10万人が命を落としています。こうした時代の雰囲気を後年に描写した映画として、『ふんどし医者』(1960年公開)があります。
舞台は江戸末期から明治初期の駿河国(静岡県)島田宿。長崎で西洋医学を学んだ医師の小山慶斎(森繁久彌)は池田明海(山村聡)とともに江戸に戻って幕府お抱え医師(御典医)になるつもりだったのですが、渡し船や橋が設けられていなかった大井川の増水に伴い、島田宿で足止めを余儀なくされます。その間、病に苦しむ宿場の旅行者などの実態を見た慶斎は長崎から追い掛けて来た女性、いく(原節子)とともに島田に滞在することを決意し、貧乏人や旅人、農民の病気を治す町医者になりました。
そんな中、ひょんなことから地元の半五郎(夏木陽介)という男に大手術を施すことになり、当初は反発していた半五郎も慶斎が優れた医者であることを知るに至り、自らも医師を志すようになり……。詳細はDVDでご覧頂くとして、映画の後半では当時、伝染病として恐れられたチフスの感染拡大が描かれています。
小津安二郎監督が戦前に作った映画にも感染症は登場します。例えば、失業した父子家庭を取り上げる『東京の宿』(1935年公開)、失業した生活困窮世帯の生活を描いた『東京の合唱*26』(1931年公開)では、いずれも医療費の支払いと急性感染症に関するシーンが盛り込まれています。具体的には、いずれも子どもが「疫痢」になり、主人公が医療費の用立てに迫られた結果、前者では主人公が泥棒に入り、後者では主人公が質屋に服を入れる場面があります。
ここから言えることは2つです。第1に、当時は国民健康保険や生活保護の医療扶助など社会保障制度が整備されていなかったため、医療費の急な支払いが大きなリスクになっていた点です。
第2に、子どもが「疫痢」になっている点です。疫痢とは主に幼児がかかる病気で、激しい腹痛や下痢などを伴います。当時は上下水道が今ほど整備されておらず、衛生環境も良くなかったため、疫痢は脅威になっていました。
「肺が悪い」「肺をやられた」。
昔の日本映画を観ていると、こうしたセリフが頻繁に交わされています。つまり、「国民病」と呼ばれた結核です。特効薬が普及する1950年代中盤までの間、結核は日本人の死因の上位にランクインしており、国民にとって脅威となっていました。それだけ結核が身近だった(悪い意味ですが)ことを理解する一助として、市川崑監督による『おとうと』(1960年公開)を取り上げます。
映画の舞台は昭和初期。文豪の父(森雅之)を持つ主人公のげん(岸恵子)は学生の弟、碧郎(川口浩)を可愛がりつつも、反抗期で何かと問題行為の多い弟に手を焼いていました。その後、映画の中盤で碧郎が結核に感染していることが分かり、無機質な病室に隔離されます。しかも、碧郎の病状は進んでおり、医師から「なぜもっと早く医者に見せなかったんです」と言われるレベル。結局、碧郎は「今日から厄介者か」「『おれはもう難しいんだ』と言ってくれた方がいいんだ」などと半ば自暴自棄になり、げんなどに看取られつつ早世してしまいます。
(中略)
ここでは吉永小百合主演の『いつでも夢を』(1963年公開)のシーンを取り上げます。
映画の舞台は高度成長期における下町の定時制高校。ここに通う三原ひかる(吉永小百合)、木村勝利(浜田光夫)、松本秋子(松原智恵子)の青春物語を取り上げており、療養所は後半に登場します。具体的には、秋子は結核で高校中退を余儀なくされ、ひかるが秋子を見舞うため、「武蔵野療養所」を訪ねるシーンです。その際、ひかるに対し、秋子は以下のように述べています。
『この病棟だと、随分と軽症な方なのよ。喀血してもね、病棟が新しいから、回復率が早いんですって。このまま順調に行けば、1年ぐらいで帰れるだろうって、先生が仰ったわ。』
ここでのポイントは「病棟」「1年ぐらいで帰れる」という部分です。この時点で結核の特効薬が開発され、結核で亡くなる人は少なくなっていた半面、結核患者を受け入れる病床(映画では「病棟」となっています)の整備が問題となっていました。
さらに、後者の「1年ぐらいで帰れる」という部分については、社会復帰支援が課題になっていた点を示唆します。実際、1956年に初めて発刊された『厚生白書』は「結核は依然最大の国民病」としつつ、結核患者を受け入れる病床の整備のほか、結核患者の社会復帰支援に言及しています。
つまり、『いつでも夢を』のセリフは結核を克服した後も、社会復帰という課題に直面していた事実や、結核に苦しめられてきた歴史的な経緯が分かります。今でも毎年2,000人程度の方が結核で亡くなっていることを考えると、「結核は過去の遺物」と言い切れないのですが、戦後の一時期まで結核は大きな脅威になっていたことを読み取れます。言い換えると、戦後に医療制度を整備したり、公衆衛生を改善したりしたことで、結核を中心に感染症の封じ込めに成功したと言えます。
さらに日本の公衆衛生の改善には保健婦(現在は保健師)が大きく貢献しました。こちらも幾つかの映画に取り上げられており、『明日は咲こう花咲こう』という映画(1965年公開)に注目します。
主役の小日山ひろ子(吉永小百合)は山梨県の山村で働く保健婦。東京で研修を受けた後、恋人の新聞記者(中尾彬)の制止を振り切る形で、姫虎村という山村に単身で飛び込みます。
しかし、上水道が整備されていないなど村の衛生状態は良いとは言えず、ひろ子は「沢で食器を洗ったり、お米を研いだりするのは衛生上、良くありません」と農家の女性に指導したり、村役場の幹部に掛け合って飲料水と洗濯の区域分けに取り組んだりしますが、なかなか村民の理解を得られません。さらに地域の面倒な政争に巻き込まれたほか、結核の子どもを隔離したことが村民の反発を招き、ひろ子は疲弊してしまいます。
そんな中、村で集団赤痢が発生するものの、村の政争に明け暮れる村役場の幹部は赤痢ではないと言い張るだけでなく、ひろ子を追い落としに掛かり……、詳細はインターネットで鑑賞して頂くとして、こうした保健婦の存在は当時、決して珍しくなく、幾つかの映画で取り上げられています。
例えば、炭鉱での生活を取り上げた(ボーガス注:名匠・今村昌平監督の)『にあんちゃん』(1959年公開)という映画では堀かな子(吉行和子)という新人保健婦が登場します。さらに、『孤島の太陽』(1968年公開)という映画では高知県の離島で働く保健婦の荒木初子(樫山文枝)や、県職員として初子の指導に当たる保健婦の上村聖恵(芦川いづみ)が登場します。いずれも実話を基にした映画であり、中でも後者については、高知県が市町村に保健婦を派遣していた「駐在保健婦」という制度と、その制度に関わった実在の登場人物をベースにしています。
しかも、いずれのストーリーも「若い新人保健婦が僻地に派遣→『飲み水に気を付けろ』などの公衆衛生の指導に住民が反発→赤痢などの急性感染症が発生→保健婦が大活躍→保健婦が住民の支持と信頼を獲得」という共通点を持っており、それだけ保健婦が身近な存在だったことを示していると言えそうです。
以上のように日本社会は戦後、結核などの感染症を克服したことで、医療政策に占める感染症対策のウエイトは下がりました。
今回の新型コロナウイルスで政治や行政の対応が後手に回っているのは、戦後の日本社会が感染症の脅威を減退させた結果、医療政策から感染症対策の視点が見落とされていた反映と考えられます。
そんな中で、感染症対策に関して政治決断を強いられたシーンがありました、1950年代後半から1961年に蔓延したポリオへの対応です。身体をマヒさせるポリオに関しては、WHOを中心とした国際保健協力の下、撲滅運動が展開されたため、先進国では脅威とは言えないレベルに抑え込まれていますが、当時の日本では多くの子どもが小児マヒ*27となっていました。
特に、1960~1961年の感染拡大では、輸入ワクチンが品薄となったため、母親たちが抗議運動を展開。最終的に古井喜実*28という厚相の政治決断の下、ソ連から生ワクチンが輸入されました。当時、ソ連は先進国と見なされていたものの、冷戦下で「鉄のカーテン」に閉ざされていたため、副作用などのデータは不十分だったのですが、古井の政治判断で輸入が決まりました。
こうした経緯を取り上げた映画として、(ボーガス注:松山善三監督の)『われ一粒の麦なれど』(1964年公開)、(ボーガス注:アレクサンドル・ミッタ*29監督の日ソ合作映画)『未来への伝言』(1990年公開)があります。いずれもDVD化されていないのですが、前者ではポリオ問題に関心を持った厚生省の役人、坂田昌義(小林桂樹)がメディアに勤める田神(田崎潤)などと連携し、ソ連からの生ワクチン輸入に向けた世論工作を仕掛けて行く様子が描かれています。
しかも、わずか5秒ぐらいですが、古井自身が生ワクチン輸入に関する記者会見の再現シーンで登場しています。
後者はポリオ輸入運動を展開した母親サイドの視点に立った映画で、主人公の圭子(栗原小巻)が厚相(久米明*30)などに対し、ソ連からの生ワクチン輸入で奔走する様子を描いています。
全ての映画がDVD化、あるいはインターネット公開されているわけではない(最もお薦めの『われ一粒の麦なれど』『孤島の太陽』が鑑賞できないのは本当に残念です)のですが、これらの映画を見ると、結核を中心とした感染症との関わり合い、あるいは公衆衛生の改善史を見て取れます。さらに、感染症が大きな脅威とは言えなくなったのは50年ほど前に過ぎないこと、公衆衛生の改善や医療技術の発展、医療制度の拡大などを通じて、感染症の脅威を克服して来たこと、今回の新型コロナウイルスとの共通点なども把握できます。
今回のような混乱に直面すると、ややもすると私達の視点は近視眼的になりがちです。自宅で過ごす時間帯が多くなっていると思いますので、ここで取り上げた映画をDVDあるいはインターネットで鑑賞することを通じて、コロナ禍の現状を少しでも客観視して頂けると幸いです。
【脚注の参考:鬼頭早苗と金田一耕助】
asahi.com: 金田一耕助と鬼頭早苗―岡山・笠岡 - 愛の旅人 - トラベル2006.12.16
つぶらで深い愛嬌をたたえる瞳に、長いまつ毛。ふっくらした頬に大きなえくぼは温かみを感じさせる。
頭をかいてはふけを霧のように散乱させ、艶話とは無縁な探偵・金田一耕助が数えで34歳ごろ、恋した女性だ。
登場2作目の「獄門島」。終戦の翌年、瀬戸内の小島を訪れた金田一は、亡友のいとこにあたる鬼頭早苗に一目ぼれした。年は22~23歳。美しさに加え、賢さと気の強さも秘め、大きな網元の家を取り仕切る気丈さもある。後に作者の横溝正史は、女優・八千草薫さんの若い頃を例えに挙げている。
「名探偵の恋愛」は興味深いテーマだ。舞台回し役として、人間味がないと冷たい感じがするし、あまり所帯じみても魅力を減じる。
乱歩による明智小五郎が金田一に人気で及ばないのは、助手の文代と結婚したことも一因ではないか。
金田一は島を去るにあたって、早苗にプロポーズのようなことを伝えた。だが振られ、その後は独身を通して、万年青年のイメージが定着した。
横溝は「やっぱり女性(読者)をつかまえなきゃ、部数は伸びないようだね。ぼくんとこに、女性のファンから、金田一耕助が早苗さんによろめきかけたときはぞっとしたって書いてきた」と76年に語っている。
金田一人気の背景として、たびたび映画やドラマになったことも見落とせない。彼を演じた俳優は20人を超えるそうだ。その中で強い印象を残したのが、「獄門島」をはじめ、76~79年に市川崑監督(91)の5作品*31に主演した石坂浩二さん(65)だ。
その市川監督の「犬神家の一族」が30年ぶりに制作され、再び演じた石坂さんに、金田一の恋愛を聞いた。
「金田一耕助って、愛情や憎悪という人間の感情に非常に敏感だけれど、他人の感情に土足で踏み込んでゆくことはしない人ですよね。だから、彼の恋愛って考えにくいですね」
獄門島を去る前日、鬼頭早苗に「東京に出る気はないか」と誘った。
早苗は目を伏せて答えた。
「いいえ、あたしはやっぱりここに残ります。(中略)でも……ありがとうございました。もうこれきりお眼にかかりません」。
跡取りが死んで衰亡の危機にある家を捨てて上京するなど、早苗にはあり得ない選択だった。
金田一は翌日、「木枯らしにふかれるようなわびしさ」を抱いて、島を離れた。
◆獄門島
推理作家・横溝正史(1902~81)の作品でも最高傑作とされる「獄門島」は47(昭和22)年から雑誌に連載された。
戦争で徴兵された私立探偵・金田一耕助は46年夏、復員船の中で友人の鬼頭千万太(ちまた)の病死をみとる。
「おれがかえってやらないと、三人の妹たちが殺される……金田一君、おれの代わりに獄門島へ行ってくれ」
獄門島はかつて海賊の基地や流刑地となった島。友の最期の言葉に従って島の大きな網元である鬼頭家を訪ねた金田一は、千万太のいとこで家を切り盛りする美しい早苗*32と、やはり美しいがどこか風変わりな3姉妹*33とに出会う。出会いから早苗に引かれる金田一だが、千万太の予言通りに3姉妹が次々と奇怪な方法で殺されてゆく。最終的に金田一は謎解きに成功するが、悲劇も待っていた。金田一は最後に早苗への思慕の情を打ち明けようとするが……。
【脚注の参考:栗原小巻主演映画『モスクワわが愛』『未来への伝言』】
『モスクワわが愛』 Москва, любовь моя (1974) | 居ながらシネマ
栗原小巻さんがヒロインを演じた日ソ合作映画。
ボリショイバレエ団の一員に迎えられた日本のバレリーナとロシアの青年との愛を描きます。
『モスクワわが愛』は日本ではソフト化されていませんが、何度か触れているようにYouTubeのモスフィルムのチャンネルで由緒正しく見ることができます。
ヒロイン百合子役の栗原小巻さんはこの映画をきっかけにかの国で大人気となったと聞きます。
『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で公開されたとき、(ボーガス注:ヒロインの)中野良子さんが人気を博したのと同じでしょうか。
日本側は、友人・哲也に斉藤真さん、叔父・野川に下絛正巳さんが出演。
監督アレクサンドル・ミッタと吉田憲二。
(ボーガス注:吉田は)『鴎よ、きらめく海を見たか めぐり逢い』(1975)の監督さんですね。
単なる偶然にすぎませんが今回『忘れられた感染症(フィラリア、ポリオ)をネタにした映画』として紹介した『孤島の太陽』(1968年公開、フィラリア撲滅がネタ)の監督が吉田で、『未来への伝言』(1990年日本公開、ポリオワクチンがテーマ)の監督がミッタです。
そして、『孤島の太陽』には下條正巳(島の駐在役)が、『未来への伝言』には栗原小巻(主演)が出演しています。
「芸術こそロシア魂」 - ロシア・ビヨンド2012年6月13日
多くのロシア人にとって日本の伝統的な女性美といえば、栗原小巻さんのことが思い浮かぶ。優美で繊細な女優、栗原さんは広島の悲運な少女役で1974年、映画「モスクワわが愛」で初めてソ連のスクリーンに現れた。
今回、栗原さんは日本ロシア文化フェスティバル組織委員会副委員長として「ロシアNOW」編集局を訪問した。
◆インタビュアー
ロシア映画人の中で、どなたと親しくしていますか。
◆栗原
(ボーガス注:『モスクワ我が愛』の)アレクサンドル・ミッタ監督、(ボーガス注:『白夜の調べ』の)セルゲイ・ソロビヨフ監督とは折々に再会し、友情を深めています。数年前、(ボーガス注:『モスクワ我が愛』で共演した)アレッグ・ビドフさんが日本にお出でになった時には、お会いしましたし、マールイ劇場で芸術監督をなさっている、(ボーガス注:『白夜の調べ』で共演した)ユーリー・サローミンさんには何度かお目にかかっております。
宝前庵のブログ: 未来への伝言 Шаг 19892018年7月23日
昭和30年代半ば、猛威をふるっていた小児麻痺の治療薬が、ソ連から超法規的措置で輸入されたという史実に基づく。
主演は母親役の栗原小巻で、日本が舞台になっている場面が多く、今回の国立FA(フィルム・アーカイブ)のロシア・ソビエト映画祭の上映の中では異色作である。
長男を小児麻痺で失った栗原は、下の子が心配である。小児麻痺の治療薬の効果が不確かで数量も全く足りなかった当時。ソ連で経口薬の生ワクチンが開発されたと聞き、輸入、承認を厚生省に陳情するも聞き容れられない。栗原は病気の子供を持つ母親の代表として、資金を集め自らの子を連れてソ連に飛び立つ。子供たちにワクチンを投与している。栗原の子にも飲ませる。その様を日本の報道陣が映していた。後で問題になる。サンプルの薬は関税で没収される。
仲間の女たちと輸入会社を設立する。厚生大臣にも陳情に行く。既存の薬を製造している日本の会社は妨害しようとする。厚生大臣の決断で輸入が決まる。しかしほとんど輸入は不可能となる条件がつけられた。
一方ソ連内の製造研究所も、日本への薬製造のみに従事してよいかと侃々諤々の議論となる。昼夜兼行で製造に励む。しかし日本からの条件をみて輸出は無理かと思われた。空輸で輸送を考える。しかし制度上無理である。これを違法的に使う。日本接近中、台風が襲う。飛行機は激しく揺れ、ワクチンの薬は粉々に飛び散る。飛行機は墜落、炎上する、とこれは同乗している博士の夢だった。
全体は実際に基づくものの、細部は創作で、どの部分が事実か、創作かはわからなかった。
監督のミッタは栗原を主演にした『モスクワわが愛』を1973年に撮っている。
【ロシア文化フェスBlog】「モスクワわが愛」がスクリーンに甦る! | RussiAnnouncer|いちのへ友里オフィシャルサイト2014.12.24
ロシア文化フェスティバル IN JAPAN日本組織委員会副委員長としても欠かせない存在である大女優、栗原小巻さん。
『ロシアで最も有名な日本人女優』といっても過言ではありません。1968年にチェーホフ作の『三人姉妹』で人気を集め、81年には日本ではじめてソ連の演出家を招いた(ボーガス注:チェーホフ作の)舞台『桜の園』に主演。70年代に日ソ合作映画『モスクワわが愛』『白夜の調べ』に連続主演し、続く『未来への伝言』では企画にも参加。そのすべてがロシアで大ヒットを遂げました。
今年2014年の文化フェスティバルは、映画関連プログラムもかなり充実していましたが、12月にはヨーロッパ最大の映画スタジオとして1923年に設立されたモスフィルムの創立90周年記念映画祭が開催され、『モスクワわが愛』が公開40周年を記念してスクリーンに甦りました。
バレエを通してロシアと出逢ったという小巻さんにとって、ボリショイ劇場でプリマを夢見るバレリーナ役のヒロインはまさに適役でした。日本に残してきた恋人とロシアで出逢った彫刻家ヴァロージャとの間で揺れ動きながら、バレエに身を捧げ一身に舞い続けるヒロイン百合子は、ついに夢が叶いプリマとしてジゼルを踊る前日に白血病で倒れてしまいます。
可憐に情熱的にこの悲劇のヒロインを演じきった栗原小巻さんにお話を伺いました。
◆インタビュアー
栗原小巻さんの女優人生において『モスクワわが愛』はどのような作品でしたか?
◆栗原
私にとってバレエは青春でしたので、ボリショイの方々とレッスンをさせて頂いたり、ボリショイ劇場で大好きなジゼルを踊ることが出来るなんて、それはもう大変な喜びでした。まさに夢が叶ったようでした。私のバレエの師であるアレクセイ・ヴァルラモフ先生が当時ちょうどボリショイにいらっしゃったので、バレエの撮影もとてもスムーズでしたし、先生ご自身も映画に出演してくださったり!まるでバレエ留学に来たのかと思うくらいに、温かく親しみを持って迎えてくださいました。言葉の壁を乗り越えて、日ソ両国のスタッフ&キャストが心を通わせて、アレクサンドル・ミッタ監督を中心に心ひとつに作品を作りあげるという、かけがえのない経験でした。クランクインの日、今はなきロシアホテルのちょうど北側になるかしら、・・・そこで撮影が始まったんですけれども、1カット目が終わりましたところで、みんなでお皿を割って、その破片を持ち合って、映画の成功を願ったんです。日本ではそういう習慣はありませんでしょう?ですからとても印象に残っておりますし、ほかにも本当にたくさん、たくさんのことが忘れられませんが・・・『モスクワわが愛』という作品は、その後の合作映画や海外ロケ、海外公演などこれまで俳優として恵まれたたくさんの作品において、すべてが喜びになり、たとえ困難なことがあったとしてもどんなことも乗り越えられるという、女優としての自信になった特別に大切な作品です。
◆インタビュアー
日ソ合作映画第2弾『白夜の調べ』では、白夜の季節の美しいレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)の音楽院で、ソ連の作曲家イリヤと出逢うピアニストの悠子役を演じられました。実現から撮影まで、日本とソ連でスタイルが異なって苦労したというような点はありましたか?
◆栗原
合作映画第1作目実現まではとても長い歳月がかかったんです。けれどもその大ヒットによって、第2作目は「また作りましょう!」という感じで大変スムーズにすすんだんですの(笑)。改めてプロデューサーの皆様のご苦労があってのことだったと思いますが、とても嬉しいことでした。作曲家のシュワルツさんが現場についてくださって、その場で音楽が生まれるというような素晴らしい環境のなかで、ソロヴィヨフ監督やイリヤ役のソローミンさんなど皆で話しあいながら作品が作り出されていきました。映画人の皆様はスタッフもキャストもそれぞれに個性的でいらっしゃるから、“この国だから異なる“ということでひとくくりには出来ません。日本で撮影していても、それぞれの方のキャラクターによって異なりますものね。日本もソ連も、どこの国でも、良い作品をつくりあげようという思いのもとでは皆同じだと感じております。
【インタビュー終わり】
第3弾『未来への伝言』では1960年頃に世界中で猛威を振るったポリオ(小児麻痺)で長男を失い、同じ病にかかってしまった次男を救うため、そして日本の子供たちの命を救うために、厚生省にも働きかけて航空協定も結ばれていないソ連から生ワクチンを運ぼうと奮闘する母親圭子役を演じ、またこの作品では企画にも参加されました。
今年は創立95周年を迎えた全ロシア国立映画大学の卒業記念映画祭も開催され、代表団の一員として、同大学の教授も務めるソロヴィヨフ監督が来日し、日本映画大学で講演しました。栗原小巻さんと再会し抱き合うソロヴィヨフ監督の笑顔が忘れられません!
Шаг 未来への伝言|チェブラーシカ|note
栗原小巻さん出演の日ソ共同制作映画「未来への伝言」。
これは、私の母の友達も活動していたポリオワクチンをソ連から輸入しようとしていた母親たちの活動を描いている。
私の伯父の姉は、生まれてすぐに小児麻痺になり、歩けなくなった。そう考えると、このソ連からのワクチンの輸入は、歴史的な出来事だった。ソ連からのワクチンのおかげで、日本でのポリオはおさまった。
世界中にコマキストを拡散させていった栗原小巻 | cinemas PLUS
栗原小巻の映画的キャリアがユニークになっていくのは、74年の日本とソ連(現ロシア)の合作映画『モスクワわが愛』からでしょうか。ここで彼女は白血病に侵されたバレリーナ役で、かつて目指していたバレエをここで披露するとともに、ソ連の映画ファンから絶大なる支持を受けることになり、78年の日ソ合作『白夜の調べ』にも主演します。76年にはスリランカ長期ロケの『スリランカの愛と別れ』もあり、また文革後の中国で『愛と死』が上映されるや、こちらも大評判となり、世界各地にコマキストを拡散させていくことになりました。
85年には『菩提樹(ピパル)の丘』でネパールの地に幼稚園を作るべく奔走する日本人女性を、90年には日ソ合作としては3作目となる『未来への伝言』を企画し、出演。そして91年、中国残留孤児を題材にした謝晋(シェ・チン)監督の中国映画『乳泉村の子』で、我が子を捨てざるをえなかった悲劇の日本人女性を演じるなど、インターナショナルな活動を続けていきます。
2004年の『ミラーを拭く男』以降、映画出演が途絶えているのは残念な限りです。
また映画史上不朽の名作『風と共に去りぬ』(39)が75年にテレビ初放送(日本テレビ『水曜ロードショー』)された際、主演ヴィヴィアン・リーの声を演じたことも話題になりました。
彼女がデビューした1960年代から70年代まで、世の男性はコマキスト(栗原小巻ファン)かサユリスト(吉永小百合ファン)に大きく二分されていたと聞きますが、どうやら栗原小巻は舞台に、吉永小百合は映画にと、昭和を代表する二大女優は活動の主力を移していったようです。
◆コロナ禍と「バイデンケア」の行方(山岸敬和*34)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
「静かすぎる」バイデンケア | 日米グループ-SPFアメリカ現状モニター | 笹川平和財団 - THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION(山岸敬和)2021/3/8
COVID-19は、患者保護および医療費適正化法(通称オバマケア)をもってしてもなお残るアメリカ医療保険制度の欠陥を浮かび上がらせた。問題の一つは、保険の加入が一年で決められた期間(11〜12月)でしか行えないということである。それを逃すと次の加入期間まで待たなければならない。
COVID-19が拡大した時に、臨時の加入期間を設けるべきだという声が高まったが、トランプ政権はそれを拒否した。
無保険者の存在が感染拡大の一つの要因になっていることは明らかであった。1月28日にバイデン氏が署名した大統領令では、2月15日から3ヶ月間の臨時の加入期間を設けるとした。
連邦政府が臨時の保険加入期間を設定するのは今回が初めてであり、今回の経験で、日本のように条件を満たせばいつでも公的保険に加入できるようにすべきだという動きが今後強まることが予想される。
バイデン政権はこの動きと合わせて、オバマケアのアウトリーチプログラムを拡大する姿勢を示した。テレビなどでの広告に加えて、保険加入をサポートするナビゲーターの予算も増やした。オバマケアの受給資格があるにも関わらずそれを知らない者、その他オバマケアの申請が困難である者などを助けるためである。トランプ前政権は、この予算を大幅に削減していた。
このようなバイデン政権の初動は、オバマケアを継続し、その枠組みの中で保険加入することを積極的に奨励していきたいとする姿勢が反映されたものであった。
バイデンが選挙戦から主張してきたのは「パブリック・オプション」である。オバマケアを通じて保険に加入する人々に対して、従来の民間保険に加え高齢者と障害者を対象としたメディケアに類似した公的保険も購入できるようにしよう、というものである。また、バイデンはメディケアの支給開始年齢を65歳から60歳に引き下げることも提唱している。しかし、これは政治的に難しい。
今回の選挙で下院では(ボーガス注:民主党が多数議席を維持した物の、獲得議席を減らしたため)民主党と共和党の議席数の差が選挙前よりも縮まっている。上院についても民主党が議席数を伸ばしたが議席数は民主・共和同数である。上院議長を務めるハリス副大統領が同票の時には賛成票を投じれば法案は通過するが、共和党から支持を得ることが難しいことが予想される中、民主党から造反が一人でも出ると否決される状況となっている。
このような中でバイデン政権は、パブリック・オプションやメディケアの受給年齢の引き下げのような大掛かりな政策ではなく、より継ぎ接ぎ的な方策をとる可能性が高い。例えば、医療保険取引所で保険を購入する際に支給される補助金の増額である。今まではそこに提示される一番安いプランを想定した額を設定していたが、それでは4割負担であることに加え、高い免責額のために、かなりの自己負担を迫られる。バイデン政権は、その問題を解消したいとしている。また、補助金の対象者の年収の引き上げなども議論されている。
これらの比較的穏健な政策に対しても共和党からはCOVID-19を理由とした火事場泥棒だという批判がなされている。バイデン政権にとってみても、これらを実現させるために政治的資源を投入したところで、政治的に得られるものがその投入資源を超えることはない。これらの受益者がかなり限定的でありオバマケアのように大幅に無保険者を削減するような政策ではないからである。
バイデン政権の喫緊の内政課題がCOVID-19の収束であることは明らかである。オバマケアをどのように改良していくかというよりも、ワクチンをどのように普及させ、どのように経済活動や教育活動を再開するかに注目が集まらざるを得ない。政治的な反発を招く急進的だと取られかねない改革を行うことはできないのが現状である。まさに「静かすぎる」と思えるバイデンケアをめぐる動きにはこのような背景がある。(ボーガス注:サンダース上院議員など?)民主党内の急進左派は、現在のCOVID-19の状況は彼らが主張するメディケア・フォー・オール案を実現するための滅多に訪れない機会だと見ている。さらに彼らにとって「静かすぎる」バイデンケアでは2022年の中間選挙も戦いにくい。しかし実際には、バイデン大統領はこのままオバマケアの実質的な改良に終始せざるを得ないのではないだろうか。議会相手に語る医療保険制度改革案はかなりトーンを落としたものになるであろう。
(了)
【個別テーマ】国家・社会とうち捨てられる個人
◆戦傷病者をめぐる国家と社会(松田英里*35)
(内容紹介)
日本において長く「戦争で負傷した兵士(傷痍軍人。昔は『廃兵』とも呼ばれたが明らかに差別的なので今はそうは呼ばない)」は放置されてきたが、1)負傷兵士による国の支援を求める運動、2)第一次大戦以降の『いわゆる総力戦化』によって、ついに1923年(大正12年)に恩給法が成立した。
ただし一方で日本政府は1934年(昭和9年)に「傷兵院法」を成立させ、あくまでも「メインは負傷兵の自活による自立(国はそうした就労を支援する)」であり、国の支援は副次的存在と位置づけた。
なお、負傷兵士の運動は、1)自分たちは戦争で名誉の負傷をしたのであり、生まれつきの障害者とは違うという「差別的な障害者観」であったこと、2)自らを負傷させた戦争それ自体への批判に欠けること(国の支援を求めても『戦争それ自体に反対する反戦主義や平和主義』への指向性に欠けること*36)に注意が必要である。
当然ながら「反戦主義」的な性格すら乏しい負傷兵士たちが「戦争は帝国主義間の争いであり、労働者にとっては害悪しかない」といった「共産主義的運動」に傾倒する可能性は更に乏しかった。
ちなみに話が完全に脱線しますが江戸川乱歩作品で負傷兵をネタにした芋虫 (小説) - Wikipedia(2010年に寺島しのぶがベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)*37を受賞した映画キャタピラー (映画) - Wikipedia*38の原案)という小説(1929年(昭和4年発表))がありますね。
乱歩自身は「社会派作品として書いたわけではない」ですが、それはともかく、「遅くとも」ロシアの機関銃により、日本軍に大量の死傷者が出たと言われる「日露戦争時点」では負傷兵問題が社会問題化していたわけです(乱歩作品に出てくる負傷兵は日露戦争の負傷兵)。
あるいは
◆横溝正史の『犬神家の一族』に登場する「顔が焼けただれたが故に、常時、ゴムマスクの例の方』
自称・犬神佐清。彼が「本物の佐清なのかどうか(関係者皆が疑っている)」が、ストーリーの重要要素ですね(既に多くの人間が落ちを知ってると思いますが、ネタバレはしません)
◆水木しげる
◆梶原一騎「巨人の星」の星一徹
戦前は巨人の選手だったが、戦争で負傷し引退を余儀なくされる。そのため、息子・飛雄馬を巨人選手とすることに強い執念を持つ。
も傷痍軍人の一例の訳です。
【参考:日本の傷痍軍人】
水木しげる - Wikipedia*39(1922~2015年)
◆経歴
・ニューブリテン島での戦争体験は、後の水木作品に多大な影響を与えている。
・敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、延命処置として軍医によって左腕の切断手術を受ける。
・復員帰国した水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院し再手術。
・病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙程度の収入にしかならなかった。
・その後病院仲間から誘われて、政府の許可制である魚屋の資格を申請。復員後の生活も安定するようになった。経済的に余裕が出て絵に対する思いも湧き、1948年に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)へ入学。魚売りの相方だった通称「モッちゃん(本名は不詳)」が、「魚屋を独立開業したいので、良ければ四万円で権利を全て譲って欲しい」と申し出たので、四万円で魚屋の権利を売り、それを資金に自転車を四台購入。一日五百円で貸し出す商売を始めた。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資の横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認を得ていた闇市商売も続けていた。
しかし、商売は素人ゆえに僅かな儲けしか得られずジリ貧で、やがて店閉まいした。結局美術学校は、その数年後に中退した。
・1953年、紙芝居の専業作家として「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかしテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退。紙芝居に見切りを付けて漫画家への転身を決め、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で貸本漫画家となった。この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり、兎月書房の貸本雑誌『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載。しかし原稿料は出し渋られ、紙芝居業界に続いて貸本漫画業界も衰退して行き、生活は苦しかった。あまりの貧しさに、自宅へやって来た税務署員から「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑われたが、その言いように怒った水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と税務署員を追い返したという。
・1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始。名が売れ多少強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一*40社長が結核で入院して経営が混乱した事で連載が打ち切りになってしまう。『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して『河童の三平』を漫画化したが、1962年に兎月書房は倒産。
・1964年、病気療養から復帰した長井勝一が新しく漫画雑誌『月刊漫画ガロ』を作り、水木も依頼を受けた。以降ガロで看板作家として活躍。
・1965年に講談社『別冊少年マガジン』に掲載した『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。
◆エピソード
・戦争を主題とする作品を多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。
・『大空のサムライ』を出版した坂井三郎(1916~2000年)に「戦記ものは、勝った内容じゃないと売れない」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかったという。
・自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『コミック昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている事が多い。
しょうけい館 戦傷病者史料館:これまでの企画展
「みくにの華」は昭和11年(昭和13年財団化)に結成された大日本傷痍軍人会(以下「大日傷」という)の広報紙(昭和12年~)として発行され、軍人援護の中心的な役割を果たしてきました。
日中戦争以降、戦火が拡大するとともに戦傷病者が増加するにつれて、「傷痍軍人になったら」をシリーズ化して、退院(除隊)後の生活指導等、戦傷病者の救済に尽力していますが、印刷物としては昭和19年頃までしか確認できません。
戦後、占領下では陸軍・海軍・軍事保護院の解散と同時に、それまでの援助が中止され、街頭募金をする者も現れるなど戦傷病者の不遇な時代を迎えます。占領政策が終了して以降、新たな流れが出てきました。昭和27年11月、日本傷痍軍人会(以下「日傷」という)の発足です。
「日傷月刊」は、昭和27年(昭和30年財団化)に結成された日傷の広報紙として昭和28年に発行されました。
戦中・戦後の傷痍軍人会を対比することにより、先の大戦以降、第二、第三の戦傷病者を生まずに平和な日々を送ることができた中での日傷の60年間(昭和28年~平成25年解散)を振り返ります。
(125)1941年 負傷兵の称賛の裏に | 神奈川新聞と戦争 | カナロコ by 神奈川新聞2020.2.2
「スパイの手」と題して謀略戦への警戒を呼び掛けた広告を立て続けに出した寿屋(後のサントリー)は、その間に、別の国策宣伝も手掛けた。1941年11月8日の神奈川県新聞(本紙の前身)に掲載された「国を護(まも)つた傷兵護れ!」の広告である。
「前線で奮闘してをられる皇軍将兵が銃後の事を気に掛けず、専心御奉公できるように国家は厚生省に軍事保護院を設けて、兵隊さんとその家族のお世話をして居られます」
軍事保護院は厚生省の外局で、37年に始まった日中戦争の激化に伴い、軍人援護を強化する目的で38年に設置された(当初の名称は傷兵保護院)。「援護」とは戦闘や軍公務で負傷したり亡くなったりした軍人や遺族を対象にした福利厚生のことで、傷兵の療養や生活の援助、職業紹介をはじめ遺族に対する職業訓練や教育なども行われた。
そのルーツは、日露戦争(04~05年)後に制定された「廃兵院法」にある。機械力に頼る近代戦は、戦勝と引き換えに、従来経験したことのない結果をもたらした。中国大陸などで展開された激しい地上戦で、数万人単位の将兵が手や足を失うなどの重傷を負ったのだ。彼ら負傷兵は同法に基づき各地に設けられた「廃兵院」に収容された。
広告の文句「国を護つた傷兵護れ!」とは、軍事保護院のキャッチフレーズそのものだった。38年には「傷痍の勇士」と題したレコード(作詞・土岐善麿、作曲・堀内敬三、歌・徳山璉(たまき))まで発売され、その歌詞を添えた同院のPRチラシには「国を-」のフレーズが躍っていた。
広告は「わたくし達の務め」として「国民全部の熱烈な後楯(うしろだて)」を求めた。一方で冒頭に引用した広告の文句には、前線の将兵を戦闘に専念させることが軍事保護院の目的とされた。つまり、こういうことだ。前線も銃後も、負傷や戦死を心配する必要はない。万一の場合、国家は「兵隊さんとその家族のお世話」をしてくれるのだから-。
「国を護つた」と負傷兵を称揚し、手厚い支援策を示しながら、その実、そこに「個」に対する配慮はない。全体の「一部」として、国家に命をささげることを強いたのである。
(126)1941年 治療は「奉公」だった | 神奈川新聞と戦争 | カナロコ by 神奈川新聞2020.2.9
「皇后陛下 御下賜の菊花に白衣勇士が感激」。
1941年11月9日の神奈川県新聞(本紙の前身)に、そんな見出しとともに写真付きの囲み記事が掲載された。相模原の臨時東京第3陸軍病院に収容された傷病兵に対し、皇后が菊花を贈った、という話である。
同病院は、相模原台地の「軍都計画」の一環で38年3月に設けられた。「相模原市史」第4巻(71年)によると、軍都計画は東京にあった陸軍施設を相模原台地に移転させる目的で、36年に本格化。翌年以降、現在の相模原市南区と座間市に当たる4つの村に、陸軍士官学校などが相次いで移転した。日中戦争の開戦、激化の時期に重なる。
市史には、同病院が35ヘクタールの広い敷地に、わずか3カ月の短期間で完成したことが記されている。建設の模様は「昼夜兼行の突貫工事」で「相当なバラック建で松の根を切りそのまま土台にしたところもあった」ほどだった。収容患者は当初の計画では4500人だったが、一時は6千人を超えたこともあるという。
社会福祉学が専門の上田早記子大谷大講師は、論文「昭和十年代の臨時陸軍病院におけるリハビリテーション-傷痍軍人の就労への道-」(四天王寺大学紀要54号所収、2012年)で、同病院の設置目的が「戦力増強及び再起奉公」にあったと指摘した。
「再起奉公」とは当時の言葉で、社会復帰を意味する。同論文によると、戦地で重い傷病を負った将兵は野戦病院などを経て病院船に乗せられ広島、小倉(現北九州市)、大阪の陸軍病院に入院。治療で症状が安定した後に相模原などの臨時病院に移送され、リハビリテーションを受ける順序だったという。
記事には菊花を「下賜」された傷病兵たちが「再起奉公の決意も新に療養に精進してゐる」とある。いち早くけがや病気を治療し、社会復帰することは戦時下では「奉公」だった。
(127)1941年 負傷してなお「動員」 | 神奈川新聞と戦争 | カナロコ by 神奈川新聞2020.2.16
「国を護(まも)つた傷兵護れ!」と、厚生省外局の軍事保護院のキャッチフレーズをなぞるように掲げた寿屋(後のサントリー)の広告と、相模原の臨時東京第3陸軍病院に皇后が菊花を贈ったという記事「皇后陛下 御下賜の菊花に白衣勇士が感激」。1941年11月8日と9日の神奈川県新聞(本紙の前身)に続けざまに掲載されたこれらは、戦争で負傷した将兵に対する国の手厚い援護体制を強調するものだった。
なぜ、その必要があったのか。九州看護福祉大教授の金蘭九の研究ノート「戦前・戦中期における傷痍(しょうい)軍人援護政策に関する研究-職業保護対策の日韓比較」(同大紀要所収)によると、37年に日中戦争が始まってから傷痍軍人が「激増」し、社会問題化したことが一因という。復員後、障害を理由に就職が忌避される懸念もあった。
そこで政府は、諸外国の身体障害者の雇用制度を調査し、雇用主に「傷痍軍人の雇用」を「勧奨」。政府自らも積極的に雇用した。翌38年には、厚生省の諮問機関として傷痍軍人保護対策審議会を設置。療養所や職業訓練施設の設置、一般国民に対する「教化」などが必要だとする答申を受け、冒頭の軍事保護院の発足にもつながった。
金によれば、こうした傷痍軍人対策を、政府は「戦争遂行に不可欠の課題」と位置付けていたという。日常生活が困難な国民を援助すべきだという現実問題にも増して、「国の命令である従軍によって受傷した」ことに「大きな政治的、社会的意義」があったからだ。
国民の義務として兵役に就きながら、負傷したために仕事にも就けない-。
そんな厭戦気分を恐れ、政府は「兵隊さんとその家族のお世話」(寿屋の広告)をすると宣伝し、戦意をつなぎ留めようとした。
加えて、労働力不足の戦時下では、産業界にとっても「たとえ労働能力の減退があっても、働くことのできる傷痍軍人は有用な存在」(前掲研究ノート)だった。
障害者対策、労働力不足、そして戦意高揚。戦地で負傷した人たちは「傷兵護れ」の文句と裏腹に、復員後も「再起奉公」(11月9日付記事)、つまり戦争遂行に動員されたのだ。
(128)1941年 傷痍軍人に扮した子 | 神奈川新聞と戦争 | カナロコ by 神奈川新聞2020.2.23
「意味がわかりました。ずっと『なぜ』だったのです」。
傷痍軍人を巡る本欄の記事について、横浜市西区に住む長谷川徑弘さん(83)から便りがあった。1枚の白黒写真のコピーが添えられていた。
学校の運動場で、子どもたちが運動会の行進をしている。「銃後はこれだ 国民大行進」のプラカードを掲げた2人、日の丸を提げた子、さらに神武天皇に扮した子。「八紘一宇、日本精神高揚」と縦書きした看板の後ろに行列するのが、白衣につえを突いた傷痍軍人と、白衣の看護師に仮装した少年少女たちだった。
写真は、長谷川さんの母が近くの写真館で求めたものだという。撮影場所は長谷川さんが当時通っていた戸部国民学校(現在の市立戸部小学校)で、時期は1943年ごろとみられる。長谷川さんは亡母を「教育熱心な母でした」と振り返る。わが子の運動会の記念品として買ったようだ。
母は45年5月29日の横浜大空襲の11日後に亡くなった。末の妹を出産した直後とあって体が弱っていた。長谷川さんは前年から箱根に学童疎開しており、親子は離れ離れのまま、死に目にも会えなかった。
この写真が空襲に焼かれなかったのは、2歳上の兄が家族の大事な品々とともに自宅地下の防空壕に収めたからだという。戦意高揚のために子どもたち、そして傷痍軍人という「偶像」が動員されたことを示す貴重な記録が残された。
「戦後、ずっと分からなかったんです。なんで傷痍軍人や看護師に扮装した子たちが行列に、それも先頭の方にいたのかと」
前回紹介したように、41年11月8日と9日の神奈川県新聞(本紙の前身)には、厚生省外局の軍事保護院の標語そのままに「国を護(まも)つた傷兵護れ!」と掲げた寿屋(後のサントリー)の広告、そして相模原の臨時東京第3陸軍病院に皇后が菊花を贈った記事が立て続けに掲載された。
長谷川さんは言う。
「そうか、これか、と思いました。銃後の国民が傷痍軍人を大事にしていますよ、という国策をアピールしていたわけですね」
(129) 1941年 近年まで残った傷跡 | 神奈川新聞と戦争 | カナロコ by 神奈川新聞2020.3.8
日露戦争後の1906年に制定された廃兵院法をルーツとする傷痍軍人への福祉施設、政策は、日中戦争期に傷兵保護院、軍事保護院とその名を変えながら機能を充実した。近代兵器による激しい地上戦で障害を負う将兵の増加が社会問題となっていた。
日本の障害者福祉は、戦争が一つの契機だった。九州看護福祉大教授の金蘭九の研究ノート「戦前・戦中期における傷痍軍人援護政策に関する研究」は、戦中の障害者福祉が傷痍軍人の「社会的・経済的自立」を目指し「医療、職業訓練、雇用奨励」を行うなど、現在に通ずる体系的な政策が整えられたと説く。
戦後、傷痍軍人の援護は連合国軍総司令部(GHQ)の命令で停止され、軍事保護院は46年に廃止された。金によると、支援を失った傷痍軍人らは、身体障害者福祉法(49年)の制定を働きかけたという。
このことを踏まえ、金は同法の背後に「国のために障害者になった傷痍軍人」への配慮があったと推察。「役に立つか、立たないか」という、国家への貢献度で価値を計る戦中の思想が潜むことを指摘した。
一方、41年11月9日の神奈川県新聞(本紙の前身)が「皇后陛下 御下賜の菊花に白衣勇士が感激」と報じ、皇后が傷痍軍人をねぎらった「美談」の現場となり注目された相模原の臨時東京第3陸軍病院は戦後、国立病院として再スタートした。
同院を題材にした上田早記子大谷大講師の論文「昭和十年代の臨時陸軍病院におけるリハビリテーション」によると、戦後の国立病院が対象を一般国民に拡大したことで、従来入院していた傷痍軍人の「処遇問題」が浮上したという。戦争に駆り出され負傷した将兵らは、戦後も国策に翻弄された。
相模原と同じく、廃兵院法に基づく陸軍省所管の病院を前身とする小田原市の国立病院機構箱根病院。そのホームページの沿革欄には、08年に「傷痍軍人の入院が終了した」と記されている。戦争の傷跡は近年まで存在していたのだ。
<戦火の記憶 戦後75年 1945→2020>「5年後 証言者いなくなる」:東京新聞 TOKYO Web2020.8.16
太平洋戦争などで負傷した傷痍軍人(戦傷病者)とその家族が戦中・戦後に体験した労苦を伝えてきた史料館「しょうけい館」(千代田区九段南)が、戦後75年を迎え、岐路に立っている。生存する傷痍軍人らが年々少なくなり、生の証言を得にくくなっているためだ。
「戦争で傷ついた、生きている体験者の証言を伝えてきた」と同館学芸課長の木龍(きりゅう)克己さん(63)は強調する。
(ボーガス注:1945年の終戦から10数年しか経っていない)昭和三十年代に戦傷病者は約三十五万人いた。厚生労働省の福祉行政報告例によると、戦傷病者の手帳交付者は二〇〇〇年度に七万二千四百七十六人、一八年度には十分の一以下の五千五百九十人にまで減った。最近は同館を訪れる戦傷病者もほとんどないという。
比例して証言者も減り、同館が最後に証言を得られたのは昨年十一月。DVDの証言者の多くも既に亡くなっているという。
同館によると、太平洋戦争に従軍した正規の兵士の平均年齢は今年で百歳前後に及び、少年兵でも九十歳を超えているという。統計上は存在するものの、高齢で寝たきりになり、聞き取り調査は事実上困難。戦傷病者の全国団体「日本傷痍軍人会」や傘下の団体が会員の高齢化で活動を停止したのも、新たな証言を得にくくなった一因だ。
全国で証言者を訪ね歩いてきた木龍さんは「敗戦国日本の戦傷病者は戦後、大変苦しい思いをして生きてきた」と振り返り、「恐らく戦後八十年の五年後には傷痍軍人はいなくなっているだろう」と推測する。
1937(昭和12)年に勃発した日中戦争*41で戦死傷者が激増。将来、米・英国との全面戦争を予想した軍部は、戦傷病者の処遇を誤ると「国民の軍隊への信頼感を損なう」「徴兵制に支障を来す」などの思惑から、社会復帰などの支援を積極的に行い、メディアでも盛んに報じられた。
戦後の占領行政下では連合国軍総司令部(GHQ)の非軍事化政策が厳しく、恩給や鉄道利用の割引・無賃化など旧軍人に対する特権的取り扱いは廃止された。戦傷病者も厳しい生活を強いられ、生活苦から白衣姿に軍帽をかぶり街頭募金を行う者が続出した。
52年、サンフランシスコ講和条約締結に伴い占領行政が終了すると、政府は旧軍人・軍属、遺族への恩給を復活。同年11月には日本傷痍軍人会が設立された(2013年11月解散)。同会は恩給復活にもかかわらず街頭募金が継続していることに「傷痍軍人として恥ずかしい行為」として中止を促し、徐々に消えていった。しかし昭和30、40年代には傷痍軍人を装った街頭募金*42も見られた。
【参考:江戸川乱歩『芋虫』】
芋虫 (小説) - Wikipedia
博文館の雑誌『新青年*43』の昭和4年(1929年)1月号に掲載された。『新青年』編集長延原謙*44からの「『芋虫』という題は何だか虫の話みたいで魅力がないから、『悪夢』と改めてもらえないか」という要望により、掲載時のタイトルは『悪夢』とされた。ただし乱歩自身は「『悪夢』の方がよっぽど平凡で魅力がない」と評しており、平凡社版『江戸川乱歩全集』第8巻(1931年5月)への収録に際し、題名を『芋虫』に戻している。
当初は改造社の雑誌『改造*45』の依頼で書かれたものであったが、内容が、一見、反軍国主義的であり、さらに(作中の人物・須永中尉が授与された)金鵄勲章を侮蔑するような箇所があったため、当時、左翼的な総合雑誌として当局ににらまれていた『改造』誌からは、危なくて掲載できないとして拒否された。このため乱歩は本作を『新青年』に回したが、『新青年』側でも警戒して、伏字だらけでの掲載となった。なお、この代わりに『改造』に掲載されたのが『蟲』(『改造』1929年9月号~10月号)である。また、戦時中多くの乱歩作品は一部削除を命じられたが、本作は唯一、全編削除を命ぜられた。
創元推理文庫の乱歩自身の解説によると本作品発表時に左翼の一部からは「この様な戦争の悲惨さを描いた作品をこれからもドンドン発表してほしい」との賞賛が届いたが、乱歩自身はそうした意図での執筆では無かったため、全く興味を示さなかったという。
ただし乱歩作品を原案とした若松孝二監督の映画キャタピラー (映画) - Wikipediaは反戦映画ジョニーは戦場へ行った - Wikipedia(1971年公開)も原案としており、乱歩原作を大きく改変し、反戦主義を強く打ち出している。また乱歩小説では「日露戦争の傷痍軍人」だが映画では「日中戦争の傷痍軍人」に改変されている(なお、満州事変が1931年、乱歩小説の発表が1929年なので小説発表時には日中戦争は起こっていない)。
◆あらすじ
日露戦争の傷痍軍人・須永中尉を夫に持つ時子には、奇妙な嗜好があった。それは、戦争で両手両足、聴覚、味覚といった五感のほとんどを失い、視覚と触覚のみが無事な夫を虐げて快感を得るというものだった。夫は何をされてもまるで芋虫のように無抵抗であり、また、夫のその醜い姿と五体満足な己の対比を否応にも感ぜられ、彼女の嗜虐心はなおさら高ぶるのだった。
ある時、時子は夫が僅かに持ちうる外部との接続器官である眼が、あまりにも純粋であることを恐れ、その眼を潰して失明させてしまう。悶え苦しむ夫を見て彼女は自分の過ちを悔い、夫の身体に「ユルシテ」と指で書いて謝罪する。
間もなく、須永中尉は失踪する。時子は大家である鷲尾少将と共に夫を捜し、「ユルス」との走り書きを発見する。その後、庭を捜索していた彼女たちは、庭に口を開けていた古井戸に何かが落ちた音を聞いたのだった。
◆削除処分の経緯
本作は発表から10年間は特に発禁の対象とされていなかったが、日中戦争中の1939年(昭和14年)3月30日、『鏡地獄』(春陽堂文庫、1938年7月刊)に収録された版が削除処分とされた。その理由について、内務省警保局図書課の検閲資料には次のようにある。『芋虫』の一篇は、戦争のため四肢を失ひ言語不能になつた芋虫の様な人間と、妻の変態的な性慾生活を描いたもので、反戦的とか戦争嫌悪を、感じさせる程のものは無いが、廃兵の悲惨な肉体が醜悪に描かれてゐる。その点、時節から不穏と思はる。又不健全な性慾がグロテスクに露骨に描かれすぎてゐると思はれる。
キャタピラー (映画) - Wikipedia
◆あらすじ
1940年、ある農村に住む青年、黒川久蔵(大西信満)は日中戦争の激化に伴い徴兵を受け、戦地へと赴いた。それから4年後、久蔵は頭部に深い火傷を負い、四肢を失った姿で村に帰還する。戦線で爆弾の爆発に巻き込まれた彼は、声帯を傷つけて話すこともできない上、耳もほとんど聴こえない状態になっていた。「不死身の兵士」と新聞に書き立てられ、少尉にまで昇進した久蔵を村人は「軍神様」と呼び崇め称える。しかし親戚たちは彼の変わり果てた姿に絶望し、妻であるシゲ子(寺島しのぶ)に世話を全て押し付けてしまう。
シゲ子は無理心中を図り久蔵を殺そうとするが思い留まり、軍神の妻として献身的に尽くすようになる。戦地に赴く前は表向き好青年として通っていた久蔵は、実は欲深く暴力的な性格の男だった。彼は体に残された知覚で意思を伝え、美味な食事、自身の名誉の誇示、そして性行為をシゲ子に要求し続けていく。
1945年、久蔵はたびたび発作的な錯乱に見舞われるようになり、次第に勃起不全になっていった。彼は戦地で中国人の少女を強姦、虐殺した記憶に苛まれていたのだった。それを知らないシゲ子は、かつて暴力によって自分を支配していた夫への憎悪や怒りを爆発させ、気性が激しく性欲が旺盛な本性を露わにする。四肢を失い一切の抵抗ができない久蔵は、シゲ子のその姿が過去の自分の姿と重なるようになり、日に日に正気を失っていく。
夏になり、畑仕事をしているシゲ子の元へ村人の間では変人として敬遠されている男・クマ(篠原勝之)が現れ日本が降伏したと伝える。戦争を忌み嫌っていたクマは「戦争が終わった。万歳」と叫び、シゲ子も晴れ晴れとした表情でそれに続く。2人が喜びの声を上げるそのすぐ傍で、家から芋虫のように這い出した久蔵は庭の池へと向かっていた。
ジョニーは戦場へ行った - Wikipedia
ダルトン・トランボ*46が1939年に発表した反戦小説。
ベトナム戦争最中の1971年、トランボ自身の脚本・監督により映画化された。
なお、映画の邦題、角川書店版の小説タイトルは『ジョニーは戦場へ行った』だが、早川書房版の小説タイトルは『ジョニーは銃をとった』となっている。
本作は第二次世界大戦勃発の1939年に発表されたが、反戦的な内容が「反政府文学」と判断され、戦争の激化した1945年、ついに絶版(事実上の発禁処分)となる。戦後になって復刊されたものの、朝鮮戦争時には再び絶版とされ、休戦後に復刊されるなど、戦争のたびに絶版と復刊を繰り返す。
これは本書の非常に強力な反戦メッセージに、アメリカ政府(特に軍部)が危機感を持っていた証左とされる。
◆内容
◆第一章「死者」
ジョー・ボーナム(映画ではティモシー・ボトムズが演じた)は、徴兵によって最愛の恋人カリーン(映画ではキャシー・フィールズが演じた)に別れを告げて第一次世界大戦へと出征する。
しかし、異国の戦場で迫り来る敵の砲弾を避けようと塹壕に飛び込むが、目(視覚)、鼻(嗅覚)、口(言葉)、耳(聴覚)を失い、運び込まれた病院で、壊疽して機能しない両腕、両脚も切断されてしまう。
◆第二章「生者」
ついに自らの意思を伝える手段としてモールス信号を使い、必死に周囲に訴えかけるジョー。そしてある日、軍の医師団が訪問してきた時、1人がジョーが発信しているSOSのモールス信号に気付く。トップの人間が「何が望みか聞いてみろ」と指示し、部下がジョーの額にモールス信号を叩く。
それに対して、ジョーは答える。
「自分を公衆の前に出して陳列してくれ(自分を維持するにはお金が掛かる筈だから、その見物料金を充ててもらいたい)」
それは出来ないと返事をすると、「では殺してくれ」と答えるジョー。
あとは何を言っても、「殺してくれ」とだけモールス信号で訴えるジョー。
◆世界大戦期ドイツにおける戦争障害者支援(北村陽子*47)
(内容紹介)
第一次大戦後から第二次大戦後(1950年代)に至るまでドイツの戦争障害者支援はあくまでも「メインは負傷兵の自活による自立(国はそうした就労を支援する)」であり、国の支援は副次的存在と位置づけた。
なお、戦争ストレスによる精神障害は1)精神障害者は身体障害者に比べて一般に就労が困難であること、2)身体障害と比べて戦争との因果関係を証明しがたいことから、「国の支援を必要とする障害者から除外される傾向」がありついにはナチス政権下においては安楽殺人の対象にすらなった。
参考
パラ源流に医師の熱意 英病院、障害者スポーツ支援:時事ドットコム
ロンドン中心部から車で1時間半の郊外にあるストークマンデビル病院。ここはパラリンピック発祥の地とされ、現在も障害者スポーツの普及と発展に力を入れている。その源流には「パラリンピックの父」と呼ばれるドイツ人医師の存在があった。
第2次世界大戦中の1944年、同病院で脊髄損傷部門の責任者に就いたルートビヒ・グットマン博士は、傷痍軍人が行うリハビリの一環として、当時としては画期的だったパンチングボールやロープを使ったクライミングを導入した。こうしたスポーツによって、患者の運動機能が改善した。それだけでなく、周囲の人との交流が増えて生きる希望となり、社会復帰の大きな後押しになったという。
博士は48年に行われたロンドン五輪に合わせ、この病院で車いす患者の退役軍人16人によるアーチェリー大会を開催。開会式では「いつの日か、障害者のための五輪が開催される日が来ることを夢見ている」とあいさつした。
パラスポーツから女性解放運動まで、〈英雄〉は戦後をどう生きたのか―北村 陽子『戦争障害者の社会史―20世紀ドイツの経験と福祉国家―』(ALL REVIEWS) - Yahoo!ニュース
甚大な被害を生み出した二度の世界大戦。戦争で傷を負った人たちは、その後の時代をどのように生きたのでしょうか。300万人におよぶともいわれる20世紀ドイツの戦争障害者に焦点をあてた著作、北村陽子『戦争障害者の社会史』の刊行によせて、書き下ろしの自著解説を公開いたします。◇障害者スポーツからパラスポーツへ
障害者スポーツをパラスポーツと言い換えるようになったことは記憶にあたらしい。本書の執筆過程で調査した際、第一次世界大戦後のドイツにおいては、戦争障害者の身体機能を維持・向上するためのリハビリが、水泳や球技、あるいは射撃などのスポーツへと発展し、徐々に競技性が高められたことを知った。パラリンピックが、第二次世界大戦後のイギリスで戦争障害者たちのスポーツ競技会から発展したことはよく知られているが、ドイツでもほぼ同時期に戦争障害者のスポーツ競技会が各地で開催されている。
戦争障害者のリハビリから始まった障害者スポーツは、ただスポーツを楽しむだけではなく、技能を競い合うことで結果的に当事者の身体機能をより高められると見なされて、競技会が開催されるようになったといういきさつがある。その競技会は、徐々に戦争によらない障害者も含めて、競技性をより追求する形で展開していったのである。「障害者」スポーツだと福祉的側面が強いため、「パラ」スポーツという表現に変更するということであったが、筆者にとってはリハビリから始まった障害者スポーツが、福祉事業であると同時に、競技性を備えた一つのスポーツ・ジャンルであることは、違和感なく理解できる。表現を変えることで、この分野に対する関心が高まることを願いたい。
◇福祉国家の端緒となった戦争障害者支援
本書の副題にある福祉国家は、ヨーロッパでは第二次世界大戦後に発展したシステムであるという点は、従来の歴史学でさまざまに検証されてきた。戦争障害者に焦点を当てたとき、国家による公的救済を権利として認定する福祉システムは、ドイツにおいては1920年の国家援護法が端緒となる。軍事年金の規定それ自体は、20世紀以前から国家によって保障されていたが、1920年法の特徴は、戦争障害者を社会の一員として、つまり労働する納税者として再度組み込むことを目的とした、医療支援と再就職支援の請求権を当事者に認めた点にある。この戦争障害者の支援請求権は、戦時下で毒ガスなどによって視覚障害となった戦争失明者に対する無償の盲導犬貸与が、1928年には労災による失明者にも社会保険の範囲で認められたように、ドイツでは戦間期に福祉の受給権が一般市民にまで拡大されていった。戦争障害者支援という軍事的な社会政策が一般市民にも適用されていったことは、福祉国家への第一歩を踏み出したといえよう。
◇戦争の経験とジェンダー、家族関係の変容
戦争障害者支援は、他方で社会のジェンダー規範、ジェンダー役割をむしろ強化した。「男性稼得者モデル」といわれる、男性が就労し女性が家族の世話をするという性別役割は、近代的な家族のあるべき姿として第一次世界大戦前夜にはドイツ社会のなかで規範化されていた。戦争障害者の再就職支援は、傷ついた男性兵士を就労する納税者として社会に統合するための方策であり、ドイツにおいては二つの世界大戦を通じてつねに強調された。本書では、この点が「労働による自立」ともいうべき方針として示されたという観点から分析を試みて、世界大戦期の戦争障害者支援が男性稼得者の再構築につながったことを示している。
また筆者は戦争による家族関係の変容という点にも関心をもち、戦争障害者とその家族の関係性を調査した。戦時下で家族の生計と世話を一手に担っていた女性たちは、夫や他の男性家族メンバーが帰還したとしても、自身の家庭外就労を継続したいと思う場合もあった。戦争障害者の夫が就労できない場合は、女性が稼得労働を続けた。男性が不在であった戦時という一種の非常事態に、社会進出したこれらの女性たちは、近代家族の象徴である男性稼得者モデルに戻ろう、戻そうとする社会の圧力に対して積極的、消極的に抵抗した。その抵抗は、第二次世界大戦後は労働分野にとどまらず他の領域にも広がっていき、ウーマンリブ運動へとつながっていった。20世紀のドイツという一つの社会において、戦争が男女関係、家族関係の変容をもたらしたことも、本書の検証結果である。
ドイツの戦争障害者を取り上げて、戦争が福祉国家の生成と家族関係の変容という社会の大きな変革をもたらしたことを示した本書が、読者の方に現代の社会とは何かを考えるうえで何かしらのヒントを示すことができたら、うれしく思う。
◆書評:水野嶺*48著『戦国末期の足利将軍権力*49』(山田康弘*50)
(内容紹介)
Q&A方式(架空問答)で書いてみます。
◆先生
意外に思うかもしれませんが、実は「足利義昭(室町幕府最後の将軍)は織田信長の傀儡」的な見方から「義昭研究は未だ手薄な分野」です(実はこれは信長と義昭の関係だけでは無く、いわゆる三好三人衆と足利将軍の関係も「傀儡」的な見方が従来は強かった)。その意味でこうした研究書は評価したいと思いますが、いくつか疑問点があります。
まず第一に著者は『信長は室町幕府体制の外部の存在か、内部の存在か』という問いを立てて「内部の存在」とみなすとしていますが私個人は「こうした問題の立て方」に意味があるとは余り思いません。
◆生徒
どうしてですか?
◆先生
「内部の存在」といったところで「義昭が信長を完全にコントロールしたわけでは無いこと」は彼が最終的に信長との対立から京都を追放され、毛利氏のもとへ落ち延びざるを得なかったことは明白です。
一方で「外部の存在」といったところで、信長が一時「義昭の『幕府将軍』としての権威を利用して政治を行ったこと」も明白です。
「言葉遊び」「禅問答」「空中戦」でしかないのではないか。
むしろ問題は
1)なぜ義昭と信長は一時的とは言え共闘したのか。お互いどんなメリットがあったのか。
2)その共闘が「信長の義昭追放」で崩壊した理由は何だったのか
3)共闘は具体的にどのようなものだったのか
などといった具体論だと思います。
また、筆者は「いわゆる鞆幕府論(毛利氏の支配する鞆に落ち延びた義昭の政治的活動を幕府とみなす論:藤田達生・三重大学教授*51が提唱者)」について「幕府とは認めがたい」「義昭には主体性は無かった」としています。
しかしまず第一に筆者にとって「幕府とは何か?」が著書内で明確に定義されてないので、「鞆時代の義昭」をなぜ「幕府」と考えないのかがよく分かりません。確かに「鞆時代の義昭」は「京都時代」より政治力が落ちてることは事実ですが。
なお、近年では、藤田氏の『鞆幕府論』の他にも
◆高橋昌明*52・神戸大学名誉教授が『平清盛 福原の夢』(2007年、講談社選書メチエ)、『平家と六波羅幕府』(2013年、東京大学出版会)などで主張する平清盛の『六波羅幕府論』『福原幕府論』
があります。
もちろんメジャーな存在である『鎌倉幕府』『室町幕府』『江戸幕府』については幕府と呼ぶことに殆ど異論はないのですが、『六波羅幕府論』、『福原幕府論』、『鞆幕府論』については幕府と認める説と認めない説があり、「幕府とは何か?」について学会において共通理解が存在するとは言いがたいです。
次に「主体性がない」とは具体的にどういうことなのか。信長に追放された義昭を庇護したのは「毛利氏」である以上、もちろん義昭は毛利氏の意向を無視できません。しかしそこから一足飛びに「義昭に主体性が無かった」とみなすのは論理の飛躍です。
「意向が無視できなかった」というなら「信長の庇護を受けていた時代」も同じですが、筆者は信長時代において義昭を「ただの傀儡」とはみなしていません。もっと毛利氏と義昭の関係は複雑な物では無いのか。
また、鞆時代の義昭の「信長打倒」の呼びかけに対しいわゆる信長包囲網 - Wikipedia(上杉氏、武田氏、北條氏、毛利氏、石山本願寺などが参加)が形成されたことを考えれば、筆者は「鞆時代の義昭」を軽視しすぎていないか。
もちろん
1)武田勝頼が滅ぼされるなど、信長包囲網は最終的に信長に敗北
2)包囲網メンバーは「信長打倒」という共通点以外では「同床異夢」であり、その中で義昭も強いリーダーシップを発揮できたわけでは無いことは事実ですが、義昭に一定の権威があったからこそ、義昭の呼びかけに呼応する形で包囲網が形成されたのでは無いのか。そして最終的には勝利したとは言え、楽に勝てたわけでは無く、信長がこの包囲網に苦しめられたことは事実です。
*1:青山学院大学教授。著書『ペストと近代中国』(2000年、研文出版)、『マラリアと帝国:植民地医学と東アジアの広域秩序』(2005年、東京大学出版会)、『感染症の中国史:公衆衛生と東アジア』(2009年、中公新書)、『大国化する中国の歴史と向き合う』、『「中国史」が亡びるとき:地域史から医療史へ』(以上、2020年、研文出版)など
*2:1916~2006年。東京大学医科学研究所長、国立公害研究所長、富山医科薬科大学(現在の富山大学医学部、薬学部)学長、富山国際大学学長など歴任。著書『風土病との闘い』(1960年、岩波新書)など。
*3:1968年生まれ。1999年、終戦直後から佐渡でトキの保護に取り組んだ人々の軌跡と日本産トキの絶滅史を追った『朱鷺(トキ)の遺言』(1999年、中央公論新社→後に2002年、中公文庫、2013年、文春文庫)で、大宅壮一ノンフィクション賞を当時、史上最年少で受賞。著書『神を描いた男・田中一村』(1999年、中公文庫)、『大相撲支度部屋:床山の見た横綱たち』(2000年、新潮文庫)、『熟年性革命報告』(2000年、文春新書)、『海洋危険生物』(2002年、文春新書)、『熟年恋愛講座:高齢社会の性を考える』(2004年、文春新書)、『熟年恋愛革命』(2006年、文春新書)、『野の鳥は野に:評伝・中西悟堂』(2007年、新潮選書)、『父は、特攻を命じた兵士だった。:人間爆弾「桜花」とともに』(2010年、岩波書店)、『ひめゆり:沖縄からのメッセージ』(2010年、角川文庫)、『ペット殺処分』(2011年、河出文庫)、『アンチエイジングSEX:その傾向と対策』(2011年、文春新書)、『政治家やめます。:ある国会議員の十年間』(2013年、角川文庫)、『車いす犬ラッキー』(2017年、毎日新聞出版)、『全盲の弁護士 竹下義樹』(2019年、岩波現代文庫)、『犬と猫:ペットたちの昭和・平成・令和』(2020年、毎日新聞出版)など
*4:日本住血吸虫症の媒介生物であるミヤイリガイのこと。本書では日本住血吸虫症が取り上げられている。
*5:1917~2016年。1962年に『螢の河』 (現在は、2016年、光人社NF文庫) で直木賞受賞。『遥かなインパール』(1995年、新潮文庫)、『静かなノモンハン』(2005年、講談社文芸文庫)、『若き世代に語る日中戦争』(2007年、文春新書)、『鎮南関をめざして:北部仏印進駐戦』(2018年、光人社NF文庫)、『兵隊たちの陸軍史』(2019年、新潮選書)など戦争関係の著書多数(伊藤桂一 - Wikipedia参照)
*6:1941年生まれ。1966年4月から1年間放送されたNHKの連続テレビ小説『おはなはん』の主役に抜擢されたことで一躍有名になる。俳優の綿引勝彦(1945~2020年)は夫。大手アパレルメーカーのオンワード樫山創業者・樫山純三は伯父(樫山文枝 - Wikipedia参照)。
*7:「使命感から、一方が島に残り、結ばれない男女」つう設定がもう「お涙頂戴」でよくある「あるある」設定ですね。俺的にはこういうパターンですぐに思いつくのは横溝正史『獄門島』での「鬼頭早苗と金田一耕助(東京に一緒に上京しようという金田一の誘いを断る)」ですね。なお、飯島論文も指摘していますが、この恋愛話はやはり「完全な創作」のようです。
*8:大阪経済大学名誉教授。著書『浦上キリシタン流配事件』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『幕末の朝廷:若き孝明帝と鷹司関白』(2007年、中公叢書)、『江戸幕府崩壊:孝明天皇と「一会桑」』(2014年、講談社学術文庫)、『徳川慶喜』(2014年、吉川弘文館人物叢書)、『ある豪農一家の近代:幕末・明治・大正を生きた杉田家』(2015年、講談社選書メチエ)、『西郷隆盛』(2017年、NHK出版新書)、『その後の慶喜』(2017年、ちくま文庫)、『歴史を知る楽しみ』(2018年、ちくまプリマー新書)など
*9:2017年
*10:著書『「上海東亜同文書院」風雲録:日中共存を追い続けた5000人のエリートたち』(2001年、角川書店)、『東京五輪の残像:1964年、日の丸を背負って消えた天才たち』(2020年、中公文庫)など
*11:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相
*12:大平内閣厚生相、中曽根内閣運輸相、自民党幹事長(宇野総裁時代)、海部内閣蔵相、自民党政調会長(河野総裁時代)、村山内閣副総理・通産相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で行革相
*13:著書『きっと誰かに教えたくなる蚊学入門』(編著、2021年、緑書房)
*14:後に3つ増えて20になっている。
*15:ギニア虫感染症、リンパ系フィラリア症、トラコーマ、アフリカ睡眠病、ハンセン病、土壌伝播寄生虫症、住血吸虫症、オンコセルカ症(河川盲目症)、シャーガス病、リーシュマニア症のこと
*16:20の疾病(群) – Japan Alliance on Global Neglected Tropical Diseasesによれば「ギニア虫感染症」、「風土性トレポネーマ感染症」、「アフリカ睡眠病(ガンビアトリパノソーマ)」、「ハンセン病」、「河川盲目症」、「アフリカ睡眠病(ローデシアトリパノソーマ)」、「内臓リーシュマニア症」、「リンパ系フィラリア症」、「狂犬病」、「住血吸虫症」、「土壌伝播蠕虫感染症」、「トラコーマ」、「ブルーリ潰瘍」、「デング熱・チクングニア熱」、「包虫症」、「食物媒介吸虫類感染症」、「皮膚リーシュマニア症」、「マイセトーマ(菌腫)、黒色分芽菌症および深在性真菌症」、「疥癬とその他の外部寄生虫症」、「毒蛇咬症」、「条虫症・のう虫症」
*17:飯島『歴史疫学という課題:風土病の資料を「つくる」』(歴史学研究2020年3月号収録)のこと
*19:2012年刊行
*20:著書『看護とはどんな仕事か』(編著、2004年、勁草書房)、『生活習慣病予防のためのグループ支援』(2009年、日本看護協会出版会)など
*21:前田は1944年生まれですので映画公開の1968年当時は24歳で、確かに全然若いです。
*22:ちなみに下條は1915年生まれですので映画公開の1968年当時は53歳。彼が「三代目のおいちゃん」として初めて「男はつらいよ」に出演したのは1974年(59歳)です。
*23:寺尾は1947年生まれなので映画公開の1968年当時は21歳で、確かに全然若いです。
*24:1981年に寺尾が日本レコード大賞を受賞した持ち歌(ルビーの指環 - Wikipedia参照)。
*25:幹部名簿|厚生労働省によれば現在の浅沼氏は「厚生労働省医薬・生活衛生局生活衛生・食品安全審議官」
*26:1931年(昭和6年)公開の日本映画。松竹キネマ製作・配給。監督は小津安二郎。脚本は野田高梧。キネマ旬報ベスト・テン第3位。1953年(昭和28年)に東宝で『サラリーマンの歌』(杉江敏男監督)としてリメイクされた。(東京の合唱 - Wikipedia参照)
*27:そういえば本多勝一氏がコラムで「妹がポリオによる小児麻痺だ」と書いていた記憶があります。
*28:池田内閣厚生相、大平内閣法相など歴任
*29:栗原小巻が主演した日ソ合作映画『モスクワわが愛』(1974年)の監督として知られる。なお、ミッタ監督映画『未来への伝言』(1990年)でも栗原が主演。
*30:1924~2020年。顔立ちが池田勇人首相(1899~1965年)によく似ていたことから、山本薩夫監督の映画『金環蝕』(1974年)、『不毛地帯』(1976年)では、池田がモデルとなっている政府高官を演じ、NHK『日本の戦後』第10集『オペラハウスの日章旗:サンフランシスコ講和会議』(1978年)では池田役も演じた(久米明 - Wikipedia参照)。
*31:犬神家の一族(1976年)、悪魔の手毬唄、獄門島(以上、1977年)、女王蜂(1978年)、病院坂の首縊りの家(1979年)のこと
*32:1977年の映画では大原麗子が演じた(獄門島 (1977年の映画) - Wikipedia参照)
*33:1977年の映画では「次女・鬼頭月代(二番目に殺害される)」を演じ、今も活躍する浅野ゆう子以外はあまり有名な女優ではありません(おそらく芸能界を引退した)(獄門島 (1977年の映画) - Wikipedia参照)
*34:南山大学教授。著書『アメリカ医療制度の政治史:20世紀の経験とオバマケア』(2014年、名古屋大学出版会)
*35:早稲田大学本庄高等学院教諭。著書『近代日本の戦傷病者と戦争体験』(2019年、日本経済評論社)
*36:『戦死した軍人、軍属(戦死者一般では無いことに注意)の遺族』への経済支援を訴えた日本遺族会が「A級戦犯だった賀屋興宣(第一次近衛、東条内閣蔵相、戦後、終身刑判決を受けるが後に釈放され、政界に復帰し、自民党政調会長(池田総裁時代)、池田内閣法相を歴任)」を会長とし、また靖国問題では「A級戦犯合祀」を擁護する立場であることを考えれば十分理解できる話です。
*37:1964年の左幸子(今村昌平監督映画『にっぽん昆虫記』)、1975年の田中絹代(熊井啓監督映画『サンダカン八番娼館 望郷』)の受賞に次ぎ日本人として3人目。寺島の受賞後、2014年に黒木華が山田洋次監督映画『小さいおうち』で4人目の受賞をしている(銀熊賞 (女優賞) - Wikipedia参照)。
*38:ただしキャタピラー (映画) - Wikipedia によれば乱歩『芋虫』だけでなく反戦映画として知られる『ジョニーは戦場へ行った - Wikipedia』(1971年公開、ダルトン・トランボ脚本、監督)も原案とのこと。
*39:著書として『戦争と読書:水木しげる出征前手記』(角川新書)、『貸本まんが復刻版 ・墓場鬼太郎』、『神秘家列伝』、『猫楠:南方熊楠の生涯』、『水木サンの幸福論』、『水木しげるの異界探訪記』、『水木しげるの古代出雲』、『水木しげるのニッポン幸福哀歌』、『水木しげるの日本霊異記』、『水木しげるの不思議草子』、『水木しげるの妖怪人類学』、『私はゲゲゲ:神秘家水木しげる伝』(以上、角川文庫)、『なまけものになりたい』、『水木しげるの雨月物語』、『妖怪になりたい』(以上、河出文庫)、『生まれたときから「妖怪」だった』(講談社+α文庫)、『姑娘』、『決定版 日本妖怪大全:妖怪・あの世・神様』、『コミック昭和史』、『総員玉砕せよ!』、『敗走記』、『ほんまにオレはアホやろか』(以上、講談社文庫)、『木槌の誘い』、『東西奇ッ怪紳士録』、『妖怪博士の朝食』(以上、小学館文庫)、『悪魔くん』、『あの世の事典』、『怪奇館へようこそ(妖怪ワンダーランド)』、『河童の三平』、『奇人怪人大図鑑(妖怪ワンダーランド)』、『鬼太郎夜話』、『劇画近藤勇』、『劇画ヒットラー』、『ゲゲゲの鬼太郎』、『幻想世界への旅(妖怪ワンダーランド)』、『死神の招待状(妖怪ワンダーランド)』、『縄文少年ヨギ』、『人生をいじくり回してはいけない』、『ねずみ男の冒険(妖怪ワンダーランド)』、『ねぼけ人生』、『のんのんばあとオレ』、『まぼろし旅行記(妖怪ワンダーランド)』、『水木しげるのラバウル戦記』、『幽霊艦長』、『妖怪たちの物語(妖怪ワンダーランド)』、『妖怪天国』(以上、ちくま文庫)、『従軍短編集・水木しげるの戦場』、『トペトロとの50年:ラバウル従軍後記』、『水木しげるの不思議旅行』(以上、中公文庫)、『その後のゲゲゲの鬼太郎』(扶桑社文庫)、『ゲゲゲのゲーテ』(双葉新書)、『よく食べ、よく寝て、よく生きる:水木三兄弟の教え』(文春文庫)など
*40:1921~1996年。著書『「ガロ」編集長』(1987年、ちくま文庫)
*41:もちろん1931年の満州事変から戦争は開始されていましたが、いわゆる「全面戦争」に突入するのが1937年の盧溝橋事件です。そして1941年の太平洋戦争開戦でさらに戦死傷者が増加したわけです。
*42:要するに詐欺行為です。
*43:1920年1月に創刊され、1950年7月号まで続いた。江戸川乱歩のデビュー作『二銭銅貨』(1923年4月号)、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(1934年4月~12月号)、横溝正史『八つ墓村』 (1949年3月~1950年3月号、病気のため連載を中断している間に廃刊となり、雑誌『宝石』で連載が再開)が連載されたことで知られる(新青年 (日本) - Wikipedia参照)。
*44:1892~1977年。シャーロック・ホームズの翻訳で知られる。
*45:1919年(大正8年)創刊、1955年(昭和30年)廃刊(改造 (雑誌) - Wikipedia参照)
*46:1905~1976年。赤狩りによって映画業界から一時追放されたいわゆる「ハリウッド・テン」の一人。イアン・マクレラン・ハンターの名義を借りて執筆した『ローマの休日』脚本で1953年のアカデミー脚本賞を受賞(1953年当時は、トランボがハリウッドを追放されていたためハンターが受賞した)。1993年にはハンターが受賞していたアカデミー脚本賞が、正式にトランボに贈られることになった。(ダルトン・トランボ - Wikipedia参照)
*47:名古屋大学准教授。著書『戦争障害者の社会史:20世紀ドイツの経験と福祉国家』(2021年、名古屋大学出版会)
*50:著書『戦国時代の足利将軍』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『足利義稙』(2016年、戎光祥出版)、『足利義輝・義昭』 (2019年、ミネルヴァ日本評伝選)など
*51:著書『日本中・近世移行期の地域構造』(2000年、校倉書房)、『日本近世国家成立史の研究』(2001年、校倉書房)、『謎とき本能寺の変』(2003年、講談社現代新書)、『江戸時代の設計者:異能の武将・藤堂高虎』(2006年、講談社現代新書)、『秀吉神話をくつがえす』(2007年、講談社現代新書)、『信長革命:「安土幕府」の衝撃』(2010年、角川選書)、『秀吉と海賊大名:海から見た戦国終焉』(2012年、中公新書)、『蒲生氏郷』(2012年、ミネルヴァ日本評伝選)、『天下統一:信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(2014年、中公新書)、『藤堂高虎論』(2018年、塙書房)、『織田信長』(2018年、山川出版社日本史リブレット)、『本能寺の変』(2019年、講談社学術文庫)、『藩とは何か:「江戸の泰平」はいかに誕生したか』(2019年、中公新書)、『災害とたたかう大名たち』(2021年、角川選書)、『天下統一論』(2021年、塙書房)など
*52:著書『湖の国の中世史』(2008年、中公文庫)、『平家の群像』(2009年、岩波新書)、『増補改訂・清盛以前』(2011年、平凡社ライブラリー)、『京都:〈千年の都〉の歴史』(2014年、岩波新書)、『武士の日本史』(2018年、岩波新書)、『定本 酒呑童子の誕生』(2020年、岩波現代文庫)など