今日の産経ニュース(2021年6月16日分)

皇位継承、有識者会議が意見交換 方向性提示も - 産経ニュース

 21人の専門家のうち半数以上が男系男子を堅持するための旧宮家皇籍復帰に賛成する一方、女系への資格拡大を積極的に支持したのは5人にとどまった。

 どんだけ偏向した「有識者」の選定なのかと呆れます。
 しかも「元皇族復帰に賛成」の「有識者」には「漫画家の里中満智子」「天気予報士の半井小絵」「小説家の綿矢りさ」といった専門家でも何でもない「ただの右翼さん」がいますからね。
 しかし、こうなると小泉内閣での皇室典範に関する有識者会議 - Wikipediaの答申(女帝容認)が塩漬けになったことは「現実的な皇位継承策が潰された」と言う意味では痛かったですね。まあ、俺は天皇制支持者ではないので、別に構いませんが。


【産経抄】6月16日 - 産経ニュース

 小林亜星さんが太り始めたのは30歳を過ぎたころだった。CMソングの作曲の依頼が引きも切らず、ストレスで酒量も上がるばかり。気が付いたら体重が100キロを超えていた。そんな小林さんにドラマの主演の仕事が舞い込む。 
▼尻込みする小林さんをTBSの演出家、久世光彦さんがくどき落とした。
 「ちゃぶ台をひっくり返すだけでいいから」。
 昭和49年に始まった連続ドラマ『寺内貫太郎一家』の視聴率は30%を超えていた。 
 88年の生涯で8000を超える曲を生み出した小林さんが、先月末に亡くなっていた。 
▼師事した服部正さんの戒めの言葉を大事にしていた。
 「自分から芸術家なんて死んでも言うな」
 「たとえ下駄(げた)を作っていても、それが空を駆けるような軽い素晴らしいものなら、ひとは芸術家だと認めてくれる」。

 ノーコメントで紹介だけしておきます。

参考

きょうの潮流 2021年6月27日(日)
 先月88歳で亡くなった作曲家の小林亜星さんは、1998年から非核の政府を求める会の全国世話人を務めてきました。
▼CMやアニメソングだけでなく、“うたごえ”にも曲を提供。東京土建役員で、目黒九条の会の千葉一郎さんの詞に曲をつけた「うたってごらん“わ”のうたを」(2009年)は評判でした

 産経のようなウヨメディアは絶対に触れない部分ですがこうした部分も小林の一面として紹介しておきます。

小林亜星:テレビの時代を駆け抜けた作曲家|話題の人|三田評論ONLINE
◆インタビュアー
 高校時代は、医学部進学のために勉強も一生懸命されたのですか。
◆小林
 勉強が大嫌いなのに医学部へ行かなければいけない(笑)。高校3年の時だけ勉強して、どうにか医学部(当時は医科コース)に入りました。
 ちょうどその頃、朝鮮戦争が始まったんです。そうしたら、進駐軍の慰問のバンドが日本中で足りないわけ。それで、その頃私はビブラフォンをやっていたんですが、楽友会の友達とバンドをつくって進駐軍の慰問に行くようになったんです。
 当時の初任給が8500円ぐらいの時代に、1回行って演奏すると3000円くらいもらえる。ものすごい稼ぎになったものだから、金に釣られて。
◆インタビュアー
 そうやって美しいコードも熟知していったわけですね。
◆小林
 テレビの作曲の仕事は大体クラシック系の人がやっていた。私はクラシックをかじったり、ジャズをかじったり、ハワイアンまでかじっているから(笑)。幅広いというか、いい加減で恥ずかしいのですけど、何が来ても「ああ、わかった。やれるよ」と。
◆インタビュアー
 医学部のほうはどうされたんですか。
◆小林
 後にフルート奏者になった峰岸壮一さんも塾高の同級で仲がよく、彼も医科コースに行ったんですが、2人で医者はやめたいと言いに行ったんです。先生に怒られてね。でも、親父には経済学部に移ったのを黙っていた。
 医学部は6年ありますからね。来年から信濃町に行くからと、親父が白衣か何か買ってきた時、「実は俺、もう来年卒業なんだよ」と言って(笑)。親父はがっかりしましたね。
◆インタビュアー
 経済学部を卒業されて、一度就職されるんですよね?
◆小林
 でも、好きでも何でもないから会社が面白くない。その時やっと、「人間は好きなことをやるに限る」と思ってね。自分が作曲なんていう仕事で、飯なんか食っていけると思っていませんでしたけど、もうやるしかないと思い、会社を辞めたんですね。
◆インタビュアー
 それで服部正先生のところに行かれるわけですね。
◆小林
 ええ。最初は慶應の先輩だとは知らなかったんですよ。
 表参道の先生の家に自作の録音テープを持って訪ねていった。そこで慶應の先輩だと初めてわかったんですが、奥様がうちは音大の生徒さんしか教えていない、と言われる。でもテープを置いてきたら、一週間後に先生から、「是非いらっしゃい」とお手紙をいただいた。嬉しかったですね。それで先生のところへ毎週通うようになった。
 私の兄弟子で童謡を多く作曲された若松正司さんも慶應の出身でした。
 先生の指導というのは、ほとんどは世間話でしたけど、それがまたすごく役に立つんです。
 今の人は皆、自分のことを自分でアーティストなんて言っているじゃないですか。でも、それは先生に言わせると、最低なんですね。「自分で自分のことを芸術家なんて、口が腐っても言うんじゃないぞ、お前ら」と、さんざん言われた。
 下駄をつくっている職人でも、素晴らしい下駄をつくれば、人は「あの人は芸術家だ」と言ってくれるんだよと。「芸術家っぽい格好なんかするなよ、お前ら」と言われて、だから服部先生門下はみんなきちんとネクタイをして背広を着ている人ばかりです。
 そのうちに、先生や兄弟子のお手伝いをさせていただくようになった。ちょうどダークダックス*1が世の中に知れわたった頃で、ダークのアレンジをよく、若松さんにご紹介いただきましたね。NHKで結構重宝されるようになったんです。「夜の調べ」という、30分の音楽番組を私が全部アレンジと指揮を任された。でも、アレンジの仕事ばかりしていたんですね。
 アレンジばかりしていると作曲が下手になる。これはやばいなと。それで、勇気を持ってNHKの仕事を辞めちゃったんですね。
 その時、妹がレナウンに勤めていたんですよ。それでテレビ番組を始めるので、コマーシャルソングをつくると。「うちの兄貴がそんなのやっているみたい」と嘘を言ってくれて(笑)。やったこともないのに、妹の紹介でレナウンのコマーシャル(「ワンサカ娘」、1961年〜)をつくったら、それがやけに評判がよくなっちゃってね。
 ちょうど同じ頃、東映動画(現・東映アニメーション)というところが初めてテレビアニメの第1号をやる時に、なぜか私にお呼びがかかって、「狼少年ケン」(1963年)をやらせていただいた。それがアニメ音楽をやった第1号でしたね。それで急に、CMやアニメの仕事が増えてきて忙しくなっちゃって。よくあんな生活をしていたなあと思う。1日に3曲ぐらいつくっていた時がありましたからね。

小林亜星 - Wikipedia参照
 1932~2021年。
 医師である父の勧めで慶應義塾大学医学部に入学したものの医師になりたくはなく、親に断りなく経済学部に転部して卒業。卒業時に親の知るところとなり勘当された。
◆作曲家デビュー
 大手製紙会社に入社するも数ヶ月で退社し、大学の先輩(慶應義塾大学法学部卒)でもある作曲家・服部正(1908~2008年)に師事。
 出世作レナウンのコマーシャルソング「ワンサカ娘」(1961年)は、当時レナウンの宣伝部に在籍していた実妹・川村みづえ(イエイエのCMのイラストは川村の作品)の紹介で実現したという。これ以後、サントリー『人間みな兄弟〜夜がくる』(サントリーオールドのCMソング、1968年)、明治製菓(現・明治)『チェルシーの唄』(1971年)、日立グループ日立の樹』(この木なんの木)(1973年)など、CMソングを中心とした作曲活動を展開するようになった。1976年に「北の宿から」(都はるみ)で日本レコード大賞を受賞。
◆俳優デビュー
 向田邦子(1929~1981年)の代表作であるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年)が俳優デビュー。起用前の風貌は長髪でサングラスをかけており、原作者の向田は自身の父親をモデルにした寺内貫太郎像とはほど遠く、起用に難色を示したという。しかしプロデューサーの久世光彦(1935~2006年)の発案で髪を坊主頭にし、黒い丸縁めがね、印半纏を身に着けた小林を向田にひき会わせた所、納得して起用が決まった経緯がある。小林の話に寄れば、当時太っている俳優は少なく、『ザ・ドリフターズ高木ブー(1933年生まれ)』やフランキー堺(1929~1996年)は多忙で断られ、その中で小林に白羽の矢が立った。1980年(昭和55年)1月から1984年(昭和59年)10月までテレビ朝日のクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』に、男性軍キャプテンとしてレギュラー出演。
◆晩年
 服部克久作曲の「記念樹(フジテレビで放送されていたバラエティー番組『あっぱれさんま大先生』のエンディングテーマ、1992年)」が小林の作曲した「どこまでも行こう(ブリジストンのCMソング、1966年)」を剽窃(盗用)しているとして小林が訴えて服部と法廷で争う形で裁判になった(記念樹事件 - Wikipedia)。司法では最終的に小林の主張が認められた。
 2015年、第57回日本レコード大賞・功労賞を受賞。

夜がくる - Wikipedia
 サントリースピリッツのウィスキー「サントリーオールド」のコマーシャルソング。小林亜星作曲(1968年)。「人間みな兄弟」のタイトルはかつて壽屋(現・サントリー酒類)宣伝部に所属していた開高健が考えたキャッチコピーであり、小林がこのコピーからのインスピレーションにより作曲したものである。
 2008年3月15日開業の西日本旅客鉄道JR西日本東海道本線島本駅において、入線メロディとして採用されている。これは駅の設けられる島本町に山崎蒸溜所があることにちなんだもので、地元からの要望に基づくものである。ただし蒸溜所の最寄り駅は隣の山崎駅である。


【政界徒然草】皇位継承 女系への拡大論に小室圭さんの「影」 - 産経ニュース
 ばかばかしい。そんなもんは勿論「女帝導入に不利な要素」にはなりません。
 例えば、産経らウヨが主張する「元皇族復帰論」における

竹田恒和(親)
 元JOC会長。東京五輪誘致において裏金でIOC委員を買収した疑惑の表面化(逮捕、起訴には今のところ至ってないがフランス捜査当局が竹田から事情聴取)でJOC会長を辞任。
竹田恒泰(子)
 レベルの低いデマ右翼

の方が余程「不利な要素」でしょう。
 「元皇族復帰て、買収疑惑が出た竹田恒和みたいなんが皇族になっていいんですか?」「竹田みたいな問題のある元皇族は他にいないんですか?」と問われて「いいんです!」「竹田は例外です!」と断言できる人間も少ないでしょう。
 つうか、小室君(借金スキャンダル)のような場合、「いわゆる臣籍降下すれば結婚して良い」つう話でもないですからね。

*1:メンバー全員が慶應義塾大学男声合唱団ワグネルソサエティ出身。1951年結成。1958年に第9回NHK紅白歌合戦に初出場し、以後、1971年の第22回まで14回連続出場。1976年の第27回に再出場を果たし、通算15回出場。2011年に高見澤宏(1933年生まれ)が、2016年に喜早哲(1930年生まれ)、佐々木行(1932年生まれ)が死去し、現在は遠山一(1930年生まれ)のみ存命(ダークダックス - Wikipedia参照)