新刊紹介:「歴史評論」2021年8月号

 小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「戦場の宗教:近代の戦争と宗教動員」
日清戦争日蓮宗:報国義会の活動と従軍布教(安中尚史*1
(内容紹介)
 日清戦争での日蓮宗従軍僧侶の戦地での布教活動について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

【参考:日蓮宗の右翼性】

日蓮銅像護持教会(福岡市博多区東公園) - 日蓮聖人のご霊跡めぐり
 福岡に銅像建立の機運が高まったのは、明治時代でした。
 当時、帝国主義化した欧米の列強が、東アジアの多くの国を植民地化し始めていました。
 これは我が国も例外ではなく、他国の軍艦がこれ見よがしに日本に近づいたり、わざと寄港させ、狼藉者の水兵を上陸させたりして、挑発を繰り返していました。
 そう、まさに600年前の元寇前夜と酷似した状況だったのです。
 そんな中、元寇の史実を正しく後世に遺すべく、宗祖像建立の為の全国行脚を始めた日蓮宗僧侶がいました。
 日管上人という方です。

◆I浜Y子*2ブログ『元寇遺蹟と近代ナショナリズム*3
 近代に入ってからの元寇時代追慕のもっとも興味深い例は、1904年に福岡県庁の前に建立された、日蓮像と亀山上皇像であろう。
 日蓮像護持協会が運営する元寇史料館から、これらの像の建立の経緯を引用すると以下のようである。
 記念碑建設の起こりは、二年前(1886) の八月に起こった"長崎清国水兵事件"によるものである。その事件とは、定遠を旗艦とする清国北洋艦隊が長崎に寄港した際に、上陸した水兵等が酒に酔い大暴れ、鎮めようとした巡査・市民など多数を死傷させ、家屋を破壊し、そのまま出港してしまった。この清国水兵による惨害の補償は、当時の国力の差から日本の無き寝入り同然の結果となり、人々は国辱だとくやしがった。この事件を担当した湯地丈雄は、再びこのような屈辱があってはならないと胸にきざみこんでいた。その後、福岡警察署長に着任した湯地丈雄は、元寇の地、博多に国難殉死者の慰霊碑が一つもないことから、再び外国からの辱めを受けないための精神的象徴として元寇記念碑を建設することを思い立った。
 この長崎事件における清國水兵の破壊・暴力 → 弁償しないで逃走 → 日本人大怒り の構図は、なんか現代の中国での反日デモにも通じて、つくづく中国は進歩ない。
 で、この福岡警察署長、湯地さんの提案に、日管(日蓮本仏寺住職)が協力を申し出て、碑文は、北条時宗像に日蓮の肖像をはめこむデザインでいこうとしたら、仏教各派から猛烈な反対がでた。日蓮は他宗派を強烈に批判した人だし、蒙古降伏は他宗派だってさんざん祈っていたのだから当然であろう。
 で、この反対を契機に日蓮宗は湯地と袂を分かち、湯地さんは亀山上皇像を、日蓮宗は単独で日蓮銅像の建設にとりかかった。
 亀山上皇日蓮聖人の両像はともに1904年に完成した。
 資料館*4には東郷平八郎乃木希典肖像が祀られ、日本初のパノラマ画家矢田一嘯(1859-1913)の代表作『元寇戦闘絵図』なども所蔵されている。

 いやー、I浜先生の「赤字部分の文章*5」はどう見ても「中国人に対するヘイトスピーチ」でしょうが、周囲には彼女をたしなめる人間はいないのか(呆)。さすが「id:Mukkeの恩師」だけのことはあります。弟子もバカなら、師匠もバカとしか言い様がない。
 「それはさておき」、ということで「日露戦争」当時、「愛国主義」が高まる中『元寇という国難を予言した偉人』として日蓮が「再評価され」右翼的な意味合いで、こうした巨大銅像が福岡にできるわけです。安中氏も論文で指摘していますが、日蓮宗においてはそもそも、その宗教としての歴史に「こうした右翼的な性格が濃厚にあった」ことは「日清戦争での布教活動」にも当然影響したとみるべきでしょう。
 もちろん「日清戦争時の日蓮宗」とストレートにつなぐことはできませんが、その後も日蓮宗はその流れの中に

◆八紘一宇概念の発明者として知られる国柱会創設者田中智学
血盟団事件井上日召
関東軍参謀として満州事変に関与した石原莞爾(田中智学が創設した国柱会のメンバー)
226事件で死刑判決を受けた北一輝

といった右翼イデオローグを多数生み出したことはおそらく「偶然とは言えない」でしょう。
 また、日蓮正宗門徒団体からスタートした冨士大石寺顕正会 - Wikipediaが「常軌を逸した極右団体」であることは割と有名かと思います(これについては例えば赤旗顕正会とはどういう宗教団体?(2007.5.24)参照)。
 もちろん「日蓮宗の名誉のため」に断っておけば「全く無反省な神社本庁」と異なりさすがに日蓮宗は田中智学らを今時美化しませんし、一方ではその歴史の中には妹尾義郎日本共産党員)のような左翼もいるわけですが。
 妹尾については赤旗の記事戦争に反対した新興仏教青年同盟とは?を紹介しておきます。

石原莞爾 - Wikipedia参照
◆白人憎悪と米国への敵意
 田中智学の三男である右翼活動家・里見岸雄*6の回顧では、研究会で、ある大尉が「(ドイツ留学からの)帰途、米国に立ち寄られるか」と石原に質問すると「俺が米国に行く時は日本の対米軍司令官として上陸する時だけだ」と息巻いたという。国柱会入会直後、石原は「大正9年7月18日の妻への手紙」で、白人を「悪鬼」と述べ、また「この地球上から撲滅しなければなりません」と憎悪をあらわにしている。伊勢弘志*7は「石原の日記には他にも米国への敵意が頻繁に確認される」として、国柱会入信前からの対米感情の悪化を指摘し、国柱会入信の動機の一つに「反米主義と排他的教義への共鳴があった」としている。

岸信介 - Wikipedia参照
 創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、1958年3月16日に大石寺大講堂で行われた広宣流布の記念式典に出席することになっていた。しかし、当時の岸*8は「現役の首相」でありさすがに「首相の出席は、政教分離の観点からいかがなものか」と言う批判を岸が無視できず出席を断念。代理として、女婿・安倍晋太郎*9を出席させた。


◆日本軍占領地における「宗教的自由空間」:華北中華基督教団を事例に(松谷曄介*10
(内容紹介)
 副題の「華北中華基督教団」ですが、華北を侵略した日本が『中国人キリスト教徒』を管理監督するために作った「官製組織」「御用組織」です。
 さて、「官製組織」「御用組織」ならば「日本軍の上意下達」で自主性が全くなかったのかというと、松谷氏によればそんなことはありません。日本軍と中国人キリスト教徒の力関係はそこまで「日本軍が強大な権力を行使できるものではなかった」。「華北中華基督教団」には一定の自主性があった。基本的には「日本軍批判しない」限り、信仰の自由が認められた。
 例えるなら「一国二制度の香港」のような代物だった(昨今は例の国家安全維持法でかなり香港の自主性が失われてきたという批判はありますが)。
 それが松谷論文のタイトルにある

日本軍占領地における「宗教的自由空間」

です。ただしその「日本軍による自由空間」は「カギ括弧付き」の自由空間でしかない。返還当初(1997年)に「いきなり、香港相手に強権発動(例:今回の国家安全維持法発動)なんか中国政府にはできない」のと同じ事です。その類の無茶苦茶なことは日本軍ですら「国際社会の批判」や「中国人の反発」が怖くて「華北中華基督教団」に対して「できない(あるいは、やろうと思えば一応できるが、やっても反感買うだけで利益に乏しい)」からしなかった。日本軍に公然と刃向かわない限り「自由放任」にした。
 今の香港だってまあ同じですね。「かなり強権発動の方向に傾いてはいる」でしょうが、とはいえ「中国に刃向かう人間」のみが叩かれるわけです。リンゴ日報以外の新聞は叩かれない。
 「ボーガスは中国を免罪、擁護している(あるいは日本軍を免罪、擁護している)」という「誤解」を避けるためにお断りしておきますが、俺は「リンゴ日報は刃向かうから弾圧される、刃向かうから悪い。中国は悪くない」だの「華北中華基督教団みたいな対応なら弾圧されない、日本軍は悪くない」だのとは言っていません(もちろん松谷氏もそんなことは言ってない)。
 いかに権力者といえ、大抵の人間は「周囲の評判は気にする(可能な限り強権発動は避ける)」という事実を指摘しているに過ぎません。例えば中国もさすがに天安門事件当時とは違い、香港デモ相手に警察は投入しても、人民解放軍は最後まで投入しなかった。
 従って通常、弾圧は「一番刃向かう奴」だけに対して「見せしめ」でやられる。その方が「効率的」です。文革みたいに「毛沢東の側近だったはずの劉少奇や鄧小平まで見境なくたたきのめす」方がむしろ異例です。
 さて、松谷氏は「そうした日本軍の思惑を利用して、中国人キリスト教徒はできる限り自主性を確保しようとしていた」と見ますが、ここで俺が連想するのが「プンワン」ですね(まあ例は何でもいいんですが)。
 中国共産党幹部だったプンワンは「チベット民族の裏切り者」なのか。
 あるいは逆に「プンワン」を幹部にした以上、中国のチベット支配には「何一つ問題はない」のか。
 そういう単純な話ではないわけです。あの「アンチ中国&ダライラマ万歳」の阿部治平やペマ・ギャルポすらも

リベラル21 チベット高原の巨星――プンツォク・ワンギェル逝く2014.04.07 (阿部治平)
 親しい新聞記者が北京から電話で「あなたが伝記*11を書いたプンワンという人が亡くなりましたよ」と知らせてくれたとき、私は全身の力が抜けた。しばらくして涙がわいてきた。
 プンワンは文化大革命が終わるまでは、チベット人の間で十世パンチェン・ラマほどには知られてはいなかった。いま高校を卒業した程度の人なら、敬意を表して「バパ・プンワン(プンワン先生)」という。

基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ないと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 このプンワンという人がどれだけすごい人かと言えば、かのペマ・ギャルポ氏ですら
>私は八〇年代に本当の意味でのチベット自治が実現する兆しが見えたとき、プンツォク・ワンゲルが初代首相にもっともふさわしいと思ったほどです。
とまで評価しているということからもうかがえるでしょう。

ペマ・ギャルポの本がひどい(こういうデタラメを書かれるとやはり痛い気がする) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
>私は八〇年代に本当の意味でのチベット自治が実現する兆しが見えたとき、プンツォク・ワンゲルが初代首相にもっともふさわしいと思ったほどです。 (p.100)
 このくだりは興味深いですね。個人的には、チベットを救える(改善できる)現実的な可能性の持ち主は、ダライ・ラマペマ・ギャルポのような人物ではなくブンワンみたいな人ではないかと私は思いますが、しかし残念ながら中国政府もチベット側も彼のような人物が本当に活躍するだけの場を提供できなかったのかなと思います。たぶんペマ・ギャルポも似たようなことを考えているのでしょう。

などとして「巨星墜つ(阿部)」などとプンワンを高評価する。
 つまりは社会は多くの場合「プンワンはダライ・ラマと違う路線を歩んだから裏切り者だ」などという、そういう単純な勧善懲悪ではない。
 さて松谷氏は、こうした「宗教的自由空間」的な考えはいわゆる「中国の公認教会」についても適用できるのではないかとしています。
 つまりは「公認教会=中国の御用組織」と言う見解は「一面の真実であるだろうが」あまりにも一面過ぎると言うことです。
 当然、こうした考えにたてば

伊紙「信者の命売るのか」 ローマ法王の中国接近に異論:朝日新聞デジタル2018年9月25日
 ローマ・カトリック教会総本山のバチカンが、司教の任命権問題で中国に歩み寄ったことで、バチカンの内外から異論や懸念が噴出している。フランシスコ法王は、中国との国交正常化を視野に積極的な外交姿勢を見せるが、相次ぐ譲歩によって宗教が国家の支配下に置かれてしまう、との懸念があるからだ。

などという批判は「教皇に対する不当な誹謗」になるでしょう。というか、松谷氏が「カトリック牧師」であることを考えれば「教皇へのかばい手」に見えないこともない。いや、これは単なる感想なので松谷氏には「M谷N子・明治大教授」のように「何がかばい手だ!」などとマジギレしないでほしいところです(以前、俺が『M谷氏は安倍晋三への態度が甘いように思う』と書いたら『安倍シンパというネガキャンだ』とマジギレされた)。
 つうか俺も「中国のキリスト教」について全く無知ですが「教皇みたいな漸進主義しかないんと違うか、『地下教会を見捨てるのか!』といっていつまでも中国と対立するわけにもいかんやろ」と個人的には思います。
 それと話が完全に脱線しますが俺が朝鮮学校無償化除外に反対なのは「松谷氏的な考え」でありあの学校を、ウヨが誹謗するように「単なる北朝鮮の上意下達組織で自主性が全くない」などとは思ってないからです。民族学校として価値があると思っている。俺がブログ記事を書くとこういう脱線が「日常茶飯事」ですが何卒ご容赦下さい。


◆連合組織から見る総力戦期の仏教界(小林惇道)
(内容紹介)
 今も

全日本仏教会 - Wikipedia(略称:全日仏)
【加盟団体】
天台宗
高野山真言宗
真言宗智山派
真言宗豊山派
真言宗大覚寺派
真言宗善通寺派
真言宗御室派
真言宗山階派
真言宗泉涌寺派
真言宗醍醐派
真言宗国分寺派
真言宗須磨寺派
真言宗中山寺派
・浄土宗
浄土宗西山禅林寺派
浄土宗西山深草派
西山浄土宗
浄土真宗本願寺派
真宗大谷派
真宗高田派
真宗佛光寺派
真宗興正派
真宗木辺派
時宗(いわゆる一遍宗)
臨済宗妙心寺派
臨済宗南禅寺派
臨済宗円覚寺派
臨済宗建長寺派
臨済宗天龍寺派
臨済宗相国寺派
臨済宗東福寺派
曹洞宗
黄檗宗
日蓮宗
など

という「仏教教団の連合組織」がありますがこの論文では「皇道仏教*12」を提唱した戦前の連合組織『大日本仏教会(大日仏、後にキリスト教など他の宗教団体とも統合され大日本戦時宗教報国会に再編)』の戦争協力が論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 筆者によれば

浄土真宗
◆菱木政晴*13浄土真宗の戦争責任』(1993年、岩波ブックレット)
◆大東仁*14『お寺の鐘は鳴らなかった:仏教の戦争責任を問う』(1994年、教育史料出版会
◆大西修編『戦時教学と浄土真宗ファシズム下の仏教思想』(1995年、社会評論社
◆大東仁『戦争は罪悪である:反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』(2008年、風媒社)
◆大東仁『元来宗教家ハ戦争ニ反対スベキモノデアル:反戦僧侶・植木徹誠*15の不退不転』(2018年、風媒社)

など「個別の仏教教団の戦争協力」についてはかなり研究蓄積があるものの「大日仏」については研究が従来手薄だったとのこと。なお浄土真宗と言えば「大谷家(親鸞の子孫)」が皇室と縁戚だったこともあり、特に、戦争に積極的に協力したわけです。
 大谷家と皇室の縁戚関係については「大谷智子*16」を紹介しておきます。
 ちなみに、筆者によれば「皇道仏教」の特徴の一つは「仏教の導入者としての聖徳太子」をやたら美化することだそうです。
 というのも、1)親鸞浄土真宗)や日蓮日蓮宗)と言った宗祖を持ってきたのでは特定の宗派しか、その人物に乗っかれない、2)聖徳太子を持ってくることで「仏教は昔から皇室の支持があった」と「仏教と皇室を一体化すること」で自画自賛できるからです(但し繰り返しますが、皇室とのつながりをやたら強調する傾向にあるのはやはり皇室と大谷家が縁戚関係にあり「後述しますが」、宗祖・親鸞聖徳太子を崇敬していたとされる浄土真宗のようです)。
 なお、聖徳太子美化という点で積極的だったのが、浄土真宗でその理由としては
1)「何度もしつこく繰り返しますが」大谷家が皇室と縁戚関係にあったこと
2)

親鸞 - Wikipedia【第6回】六角堂での夢告(むこく) | 親鸞聖人のご生涯をとおして | 真宗高田派本山 専修寺など参照
 建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に比叡山延暦寺と決別して下山し、聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目に夢の中に、聖徳太子が現われ、「あなたの悩みを解決するには、ここから東の方、数里のところ、東山のふもとの吉水にいる『法然(ほうねん)』を訪ねてその法を聞け」というお告げを得たとされる。この夢告に従い、親鸞は夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然(このとき、法然は69歳)が住んでいた吉水草庵を訪ねる。法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意。法然より「綽空」(しゃっくう) の名を与えられる。この出来事を浄土真宗では「六角堂夢告(六角堂での夢のお告げ)」と呼ぶ。

聖徳太子 - Wikipedia参照
 親鸞は、聖徳太子を敬っていた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『正像末和讃』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を聖徳皇のめぐみにて」と阿弥陀如来誓願聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと詠い、また、「和国の教主聖徳皇」と生得太子を日本に正法を興した主であると詠った。このため、浄土真宗では聖徳太子への尊崇が高まった。例えば、昭和時代に十七条憲法「後世の創作説」を唱えた津田左右吉不敬罪で告訴した右翼結社「原理日本社」の主宰・蓑田胸喜親鸞を尊崇していた(津田への告訴については津田左右吉 - Wikipedia参照)。

という伝承によって「宗祖・親鸞」が聖徳太子を崇拝していたとされること
があるとみられます。
 以前、今日の産経ニュース(2/23分)(聖徳太子ネタがメイン)(追記あり) - bogus-simotukareのブログで「櫻井よしこらウヨ」の「聖徳太子美化」を取り上げましたが、ウヨの聖徳太子美化は戦前からの長い歴史があるわけです。


◆歴史のひろば『戦後日本のキリスト教と「戦争」』(石川明人)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。戦争とキリスト教を読む(2)戦場の聖職者、キリスト者軍人・自衛官の信仰から「戦争のリアル」を考える 『戦場の宗教、軍人の信仰』 : 書籍 : クリスチャントゥデイの方向性と「歴史評論論文」の方向性も大筋では同じです。

戦争とキリスト教を読む(2)戦場の聖職者、キリスト者軍人・自衛官の信仰から「戦争のリアル」を考える 『戦場の宗教、軍人の信仰』 : 書籍 : クリスチャントゥデイ
◆陸海軍軍人伝道義会とコルネリオ会
 第2章では、旧日本軍と自衛隊の中のキリスト教伝道の歴史が紹介されている。
 「旧日本軍にはチャプレン制度こそなかったものの、さまざまな形でキリスト教伝道がなされていた。そしてそれらは、必ずしも一方的に日本の戦争を支持したり、あるいはそれに反対したりという性格のものではない。(中略)ただ素朴に、軍隊という特殊な社会のなかで働く者たちに信仰を伝えようとするものなのであった」
 1899年に、米国人女性宣教師エステラ・フィンチと黒田惟信(これのぶ)牧師によって、陸海軍軍人伝道義会が設立された。また日清戦争が始まると、当時日本のキリスト教界で指導的立場にあった本多庸一牧師は、『軍人必読義勇論』というパンフレットを配布して、キリスト教の立場から軍人の心構えを説き、慰問などを積極的に行っていたという。
 さらに現在の自衛隊には、「コルネリオ会」(使徒言行録10章に登場する百人隊長コルネリウスから)というキリスト教サークルがあり、2011年の時点で、現職・OBなど約320人の会員がおり、英国や韓国など諸外国の軍隊のOCU(Officers Christian Union)とも交流を持っているという。
 コルネリオ会のニュースレターには、「兎角(とかく)反自衛隊的な空気の多い教会に於(お)いてキリスト者自衛官のあかしを立てつつ苦闘しておられる兄弟もあるかと思いますが」「一部の教会では自衛隊さんは歓迎しないという雰囲気があることは否定できない」などと書かれていることも多いという。
 かつてはこの傾向が強く、1971年に同会会員の陸上自衛隊幹部*17が、日本基督教団の月刊誌『こころの友』に「ある三等陸佐の願い」というエッセーを投稿したときには、同教団の岩本二郎牧師が、教団の機関紙である『教団新報』に「人殺しや侵略を正業とする自衛隊員は、実存的、社会的悪のただ中にある。(中略)自衛隊と連帯するよりも、拒絶こそ、教団にふさわしいのである」として、『こころの友』を廃棄、または焼却した例も数多く知っていると書くなど激しい抗議活動を行い、編集部に謝罪記事を書かせる結果となったという。
 石川氏は、この論争により、以後自衛官が教会関係誌などに寄稿することはタブー視されるような奇妙な雰囲気が作り出されることになった、と指摘している。
 しかしその後、阪神・淡路大震災東日本大震災における自衛隊の災害救援活動によって、自衛隊に対する一般国民の視線は大きく変わった*18
 石川氏は、これまで日本のキリスト教界は、自衛官も一人の人間として信仰上の指導や支えを求めていることについて、十分に目を向けてきたとは言い難い、とこの章を締めくくっている。
◆神風特攻隊員だったクリスチャン林市造の手記から
 この他、3章では1945年に神風特攻隊員として戦死した林市造(1922~1945)の日記や手紙についても紹介している。

 お母さん、でも私のようなものが特攻隊員となれたことを喜んでくださいね。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私たちですからね。
 でも、お母さん、やはり悲しいですね。悲しいときは泣いてください。私も悲しいから一緒に泣きましょう。そして思う存分に泣いたら喜びましょう。
 私は賛美歌をうたいながら敵艦につっこみます。(林市造が母に宛てた手紙より)

 本書の中で、石川氏は繰り返しこのように書いている。
 「軍人と自衛官たちほど『戦争』をリアルに感じながら『平和』を祈る人たちもいないのではないだろうか*19
 冒頭に紹介したように、著者は、軍人の信仰、戦場の宗教の真偽を問うているわけではない。ただ現実として存在する事象を取り上げ、問いを投げ掛けている。日本のキリスト教界で、戦争反対や平和主義の声は大きい。私はそこに同じキリスト者として誇りを感じる。しかし、同時に私たちは軍隊組織の実態や戦争の現実、軍人・自衛官の心情の現実についてどれほどのことを知っているのだろうか。目を背けてきたものがあるのではないだろうか。「戦争反対」「平和」を唱えるならば、まず現実を知らなければ、説得力と現実的な議論を提起することはできないのではないだろうか。
 その意味でも戦後70年の今年、本書は他に類がないきわめてユニークかつ重要な著作であり、もっと広く読まれる価値を持っているといえるだろう。

 石川論文だけが「他から浮いてる」「異質」と思います。正直、石川氏は自衛隊(あるいは軍隊一般)への批判意識がなさ過ぎじゃないか。
 たとえば
自衛官護国神社合祀事件 - Wikipedia
「北の靖国」北海道護国神社/自衛官が集団参拝/現場で目撃したキリスト教牧師「戦争への光景だ」
北海道旭川 自衛隊「仕事始め」“北の靖国”に集団参拝/市民 「海外で戦争する安倍政権の姿と重なる」でわかるように日本の自衛隊靖国とズブズブです。あるいは過去には田母神のような「戦前礼賛のトンデモ極右」が航空幕僚長にまでなった。日本の自衛隊は「海外の軍隊」と比べても「悪い意味で異質」でしょう。
 そうした問題を石川氏はどう考えるのか。もし、仮に「自衛官クリスチャン」の多くが(自称クリスチャン・曾野綾子のように)「靖国とのズブズブ」「田母神の極右性」を容認していたとしてそんなものをキリスト信仰と評価できるのか。
 そもそも「ある三等陸佐の願い」の筆者だという「矢田部稔」の名前でぐぐったら

矢田部稔『ソ連は日本の降伏後なぜ戦争を続けたのか:家永三郎氏の「戦争責任」論批判』(月刊自由1989年6月号)

なんてのがヒットしましたからね。ウヨ雑誌『月刊自由』に家永批判を書くような人間をまともな人間と言えるのか?
 あるいは「自衛官(軍人)」も悩みを抱える人間である以上「宗教心があっても不思議ではない。そうした悩みに宗教者としてキリスト教会も応えるべきではないか」という石川氏の指摘は「一理」はある。
 しかし自衛隊(軍)には「殺人が任務*20」であり、その殺人が「防衛戦争のような正義の殺人とは必ずしも限らない」という性格がある(例えば日本の太平洋戦争)。「宗教心があっても不思議ではない。そうした悩みに宗教者としてキリスト教会も応えるべきではないか」で話を進めるのには「リスキーな面」がある。
 米国において従軍牧師は事実上「軍の手先、共犯者」も同然ではないか。日本において「自衛隊キリスト教会」がそういう関係になっていいのか。
 石川氏は「それでも、かまわない」というのかもしれませんが俺は平和主義の立場から到底容認できないですね。


◆歴史のひろば・リレー連載『人類はいかに感染症と向き合ってきたか(4)近代医学と社会の分断:「アフリカ」が問うもの』(磯部裕幸*21
(内容紹介)
 筆者の著書『アフリカ眠り病とドイツ植民地主義:熱帯医学による感染症制圧の夢と現実』(2018年、みすず書房)についての言及も若干ありますが、俺の無能のため紹介は省略します。
 筆者の言う、コロナによる「社会の分断」とは何かと言えば、例えば「自粛警察」であり、「我々は悪なのか!」という「緊急事態宣言で被害を受ける」外食関係者(特に居酒屋)の嘆きであり、「ワクチン格差(1)金のある欧米は高額ワクチンが買えるが、アフリカなど貧困国はそうではない、あるいは2)日本国内でもワクチン接種に積極的な自治体の住民は接種が早期に受けられるが、そうでない自治体の住民は早期に受けられないという地域格差)」であり「性風俗従事者が給付金を受けられない差別対応」であり「弱者が被害を受ける構造(コロナによるDVや児童虐待の増加)」のわけです。コロナが仮に収束したとしても「社会の分断を生んだもの」を直視、是正しなければ「同様の問題は再度引き起こされるだろう」と言う話です。
【参考:磯部『アフリカ眠り病とドイツ植民地主義:熱帯医学による感染症制圧の夢と現実』】

(短評)アフリカ眠り病とドイツ植民地主義 磯部裕幸著: 日本経済新聞
 ドイツ史の研究で知られる著者が、独の植民地政策や外交を、ツェツェバエが媒介する感染症「トリパノソーマ病」(眠り病)対策を通して描く異色の書だ。植民地支配において、熱帯医学はどんな役割を果たしたか。第1次大戦後のヴェルサイユ条約に基づく国際体制に異を唱える「修正主義」を広めるうえで、バイエルの新薬がどう使われようとしたのか。多数の資料をもとに、知られざる事実を浮かび上がらせる。

磯部裕幸『アフリカ眠り病とドイツ植民地主義ー熱帯医学による感染症制圧の夢と現実』(みすず書房、2018) の書評 - akihitosuzuki's diary鈴木晃仁(慶應義塾大学名誉教授)
 『週刊読書人』に磯部裕幸先生の『アフリカ眠り病とドイツ植民地主義ー熱帯医学による感染症制圧の夢と現実』(みすず書房、2018) の書評を書きました。ドイツの歴史学の博士論文をもとにした、とても優れた書籍です。帝国主義の時期のヨーロッパとアフリカの関係を、疾病や医療の歴史の中で考えること、とても大きな問題です。私も時々ですが著名な本などを読んで、考える素材にしています。

【参考:コロナと社会の分断】

性風俗業は対象外なのに…「飲食店」として給付金を受け取る : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン2021.6.2
 新型コロナウイルスの影響で収入が減った事業者を支援する国の「持続化給付金」をだまし取ったとして、長野県警上田署と県警生活環境課は2日、上田市中央の風俗店「神楽」を経営する男(40)(上田市中央)を詐欺容疑で再逮捕した。県警によると、給付金の不正受給はこれまでに1件が書類送検されており、検挙は2件目。
 給付金は売り上げが前年同月比で半減した中小企業に上限200万円、個人事業主に同100万円を支給する制度で、性風俗業は対象外。男は神楽を接待を伴う飲食店として風俗営業の許可を得ていたが、実態は店舗型風俗店で、飲食店として給付金を申請していた。

 違法行為は許されないとはいえ、俺の価値観では「性風俗の除外自体」が正当とは言いがたいので「なんともかんとも」です。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/1164902021.7.13
 世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は12日の記者会見で「(新型コロナウイルスの)ワクチン供給は著しく不公平になっている」と述べ、地域間の供給格差に懸念を示した。発展途上国を中心に医療従事者や高齢者らのワクチン接種が依然として進んでいない一方で、一部の国は3回目の追加接種に向けたワクチン発注を行っている。
 WHOのスワミナサン首席科学者によると、2回の接種が必要なワクチンが多いが、効果を持続させるため「ブースター」と呼ばれる3回目以降の接種計画を表明した国が既に4カ国ある。

「自粛警察をやれというのか」 西村大臣発言に銀行困惑:朝日新聞デジタル2021.7.9
 新型コロナ対策の休業要請などに応じない飲食店に金融機関から働きかけてもらう考えを西村康稔経済再生相が示したことに対し、金融機関の間で戸惑いが広がっている。法的根拠があいまいなうえ、お金を貸す強い立場を背景にした「優越的地位の乱用」とも受け止められかねないためだ。
 「我々に『自粛警察』をしろというのか。取り下げてほしい」。
 ある地方銀行幹部は発言にこう憤る。

「お得意さんに自粛警察しろと?」 西村氏の取引停止要請に酒店悲鳴…全国組合会長、自民党に見直し要望:東京新聞 TOKYO Web2021.7.12
 酒類の小売業者でつくる「全国小売酒販組合中央会」の吉田精孝(きよたか)会長(70)は12日、自民党本部で下村博文政調会長と面会した。政府が新型コロナウイルス対策として、酒類提供の停止に協力しない飲食店との取引をやめるよう求めていることについて見直すよう訴えた。吉田氏は要望後、本紙の取材に応じ「飲食店のお得意さんは酒屋にとって財産。酒の提供を注意するなら、自粛を要請する上(国や東京都)の方でやってもらいたい」と話した。
 酒類提供を続ける飲食店と取引しないよう求めた西村康稔(やすとし)経済再生担当相の発言後、加盟酒店から「お得意さんの飲食店に自粛警察をしろというのか」などと反発が相次いだ。要請対象ではない地方の組合からも「今後、地元で緊急事態宣言が出て要請されたら、どう対応すればいいのか」と電話があったという。
◆補償なくして、要請できぬ
 9日にも政府に抗議文を提出しており、政府の要請はまだ各酒店に伝えていない。吉田氏は「飲食店の注文を断れば、もう取引してくれなくなるだろう。その場合の補償まで考えてくれないと、とてもお願いはできない」と頭を抱える。


◆歴史のひろば・リレー連載『21世紀の災害と歴史資料・文化遺産(2):台風19号被害の文化財レスキューと信州資料ネット』(原田和彦*22
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

(社説)災害と歴史資料 地域の営みを未来へ:朝日新聞デジタル2020.1.22
 昨年10月の台風19号でも民家所蔵の文書を守る試みを各地で支援した。千曲川の堤防決壊などで広範囲に浸水した長野県では、地元の大学や博物館のスタッフによる「信州資料ネット」の発足につながった。

「史料ネット」台風被害通じて 栃木、群馬でも発足:朝日新聞デジタル2020.10.14
 全国的に注目されているのが台風19号を機に発足した長野県の「信州資料ネット」。台風19号で寺や民家から古文書や仏像など3千点以上を救出した。活動を支えるのは約20人の市民ボランティアだ。長野市立博物館を拠点に週2回の修復活動を続けている。
 世話役の原田和彦学芸員は「募集していないのに自主的にボランティアが集まっている。本当に助かっている」。SNSの被害状況報告に応じて、市民から協力の申し出が相次いだという。「積極的に情報を発信すれば、広い協力が得られる」


◆歴史のひろば『天皇陵に見る重層性:『人類共通の遺産』と『攘夷』』(外池昇*23
(内容紹介)
 「神武天皇古墳」を捏造した、いわゆる「文久の修陵」について論じられています。なお、このときの天皇が「攘夷派で有名な孝明天皇だったこと」が指摘されています。
 つまりいわゆる天皇陵(実際には天皇陵か怪しいものが多い)は「人類共通の遺産(例えば世界遺産登録された大山古墳(仁徳天皇陵:ただし実際には天皇陵ではないとみられる))」である一方、日本においては「攘夷(ナショナリズム)のための政治的道具」と言う側面も長年持ってきたという話です。
参考

天皇陵 - Wikipedia
 現在天皇陵とされる古墳の中には、その天皇の治世と古墳の築造時期が大幅にずれている例が存在する。継体天皇陵として治定されている太田茶臼山古墳はその例で、実際の築造時期は継体天皇の治世より約1世紀前にあたる、と推定されている。
 逆に、天皇陵指定を受けていないが、考古学者によって天皇陵と推定されている古墳も少なくない。これらの古墳は指定を受けていないが故に学術調査が可能で、被葬者の同定が可能となった。
 天皇陵指定を受けていないが、天皇陵と推定されている古墳には、主に以下のものが該当する。
文武天皇陵:中尾山古墳(奈良県明日香村)
継体天皇陵:今城塚古墳(大阪府高槻市
斉明天皇陵:牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)
推古天皇陵:植山古墳(奈良県橿原市
 宮内庁は「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」とし、治定見直しを原則として拒絶している。この方針は、戦前の旧宮内省から引き継がれたものである。陵墓の治定替え又は治定解除は1912年(明治45年)1月が最後となっており、それ以降は治定替え・治定解除は一度も行われていない。陵墓参考地の治定替え・治定解除も1955年(昭和30年)8月以来行われていない。

幕末の天皇陵改造―文久の修陵―山田邦和(花園大学教授)
 天皇陵の研究を進める上で最も重要なのは、それぞれの天皇陵の原形を確かめることである。しかし、現在見られる天皇陵は、多かれ少なかれ江戸時代において改造が加えられている。したがって、我々は江戸時代における天皇陵の修築の様子を明らかにしておかねば、天皇陵の実像に迫ることはできないのである。
 江戸時代においては何回にもわたって天皇陵の探索と修造がおこなわれてきた。
 その中でも最大の規模を誇るのは、文久2年~慶応元年(1862~1865)に実施された「文久の修陵」であった。
 「文久の修陵」は、文久2年(1862)閏8月に下野国宇都宮藩主戸田忠恕[ただゆき]が幕府に提出した「修陵の建白」に端を発する。それが幕府に認められたために宇都宮藩は総力をあげてこの事業にとりくむのであるが、その実質的な推進力であったのは同藩の前家老・戸田忠至[ただゆき](間瀬和三郎)であった。
 文久の修陵の中でも特に重視されたのは、初代神武天皇の山陵*24であった。文久3年(1863)2月24日に同天皇陵は完成し、朝廷より山陵使が派遣されて奉献祭がおこなわれている。この時が文久修陵のいわばクライマックスであった。なお、将軍徳川家茂は元治元年(1864)に神武天皇陵修陵の功によりに従一位に叙位されているし、この事業の指導者であった(ボーガス注:宇都宮藩家老)戸田忠至は慶応2年(1866)に独立した大名としての地位を得て下野国高徳藩を興すという栄誉に輝いている。


◆歴史の眼『大阪人権博物館をめぐる近年の状況』(朝治武*25
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。苦しい状況にあるわけですが、なんとか踏ん張ってほしいところです。それにしてもいつもながら「大阪維新の無法ぶり、極右反動ぶり」「それを容認する支持者」「維新に迎合する大阪マスコミや吉本興業」などには怒りを禁じ得ません。

黒田征太郎さん壁画解体 「かけら」配布へ 人権博物館:朝日新聞デジタル2021.1.31
 大阪出身のイラストレーター、黒田征太郎さんが大阪人権博物館(リバティおおさか、大阪市浪速区)=休館=のホールに描いた壁画「絆(きずな)」が今月、取り壊された。四半世紀にわたって同館の象徴として親しまれてきた作品。惜しむ人たちが解体作業に立ち会って「かけら」を拾い集めた。「政治によって文化が壊された歴史の証し」として希望者に配布するという。
 1995年12月に同館がリニューアルした際に黒田さんが描いた。
 当時学芸員として立ち会った太田恭治さん(72)=兵庫県尼崎市=によると、(中略)死者約6400人を出した阪神大震災の衝撃が生々しく残っていた時期だった。太田さんは「苦難や差別を超えて人々がつながってほしいという願いが込められた作品。『絆』という名前は焼き肉店でみんなで議論して決まった」と語る。
 同館は大阪市長だった橋下徹氏が展示内容*26を問題視したことを端緒に、無償提供されていた市有地からの立ち退きを求められ、昨年6月に休館した。建物の取り壊しは、大阪地裁で成立した和解に沿うもので、市が賃料相当の約1億9千万円を免除する代わりに、すべて解体して更地にし返還する。
 当初は壁画の移設保存を検討したが、多額の費用がかかるため断念し、黒田さんの提案もあって破片をもらい受けることにした。
 同館は2022年に別の場所での再開を目指しているが、「めどは立っていない」(同館担当者)。太田さんは「かけらは、無残に文化が破壊された大阪の禍根の歴史の語らぬ証人。コロナ禍で人権問題はあらためて重要なテーマで、リバティの歩みを風化させず、力をあわせて必ず再建するという意思を込めて希望者にもらってほしい」と話す。


◆書評:西本昌弘*27空海弘仁皇帝の時代』(2020年、塙書房)(評者:松本郁代*28
(内容紹介)
 著書名の「弘仁皇帝」とは「弘仁年間に在位し、空海の支援者、保護者だった嵯峨天皇」のことです。嵯峨天皇を「弘仁皇帝」と呼ぶことは一般的とは必ずしも言えず、そこに著者の問題意識もあると指摘されています。
 つまりは著者(西本氏)の理解では嵯峨天皇は「中国的な皇帝であること」をめざし、そのために「空海密教知識」が利用されたと言うことです。
 なお、「嵯峨天皇空海」の関係以前から「聖武天皇の大仏建立」など「朝廷と仏教は密接なつながりがあった」わけですが、「空海による真言密教の誕生」によって、「朝廷と仏教」の関係も今までと変わってくるわけですが、小生の無能のためそのあたりの説明は特にしません。
 ちなみに、嵯峨天皇時代の「弘仁文化(唐風の文化)」の後に登場した「いわゆる国風文化」ですが、これについては「中国文化の影響を脱した」と見なすことは適切ではなく、「中国文化の日本化」と見なすべき話になります。

【参考:『嵯峨天皇と中国』&国風文化】

唐風化する天皇 | 古代の歴史
 教科書に登場する平安時代初期の人物で、特別大きな存在感を放っているのは、やはり桓武天皇嵯峨天皇の2人であろう。近年の教科書では、この2人の天皇の特徴として、唐風化政策の推進者という側面が重視されるようになっている。
 近年の教科書で重視されているのが、桓武天皇が中国の皇帝と同じ祭祀を実施することによって、自己の権威の強化を図ったという点である。中国の皇帝は、冬至の日に都の南郊で天帝と王朝の初代皇帝を祀る昊天祭祀(こうてんさいし)を行ったが、桓武はその祭祀を長岡京の南、河内国大阪府)交野(かたの)で二度にわたり実施したのである。
 これは天皇が唐風化し、天命思想に支えられた中国の皇帝に接近していることを示している。ほかにも桓武朝には、中国皇帝の宗廟祭祀の考え方を取りいれて、天皇・皇后の命日である国忌の制度を再編するなど、天皇を支える論理の唐風化がみられる。このような、中国的君主に近づこうとする桓武の姿勢が、教科書でも重点的に描かれるようになったのである。
 この天皇の唐風化という傾向をさらに推し進めたのが、809年(大同4年)に即位した嵯峨天皇である。820年(弘仁11年)に天皇の服装に関する詔(みことのり)が出され、神事の際には伝統的な白の装束である帛衣(はくのきぬ)を着ける一方、元日の朝賀(ちょうが)では中国皇帝が用いた袞冕(こんべん)十二章とよばれる華やかな礼服・礼冠を身にまとい、また定例の政務報告を受ける際などには、中国皇帝の服色にならった黄櫨染(こうろぜん)という色の服を着用することが定められた。神事以外の場面では、天皇の服装が唐風化することになったのである。
 唐風化の傾向は、天皇のあり方だけに止まらない。818年に詔が出され、天下の儀式、男女の衣服、拝礼作法などが、中国風に改められている。貴人に対する伝統的な拝礼作法は、這(は)いつくばって進む匍匐礼(ほふくれい)や、跪(ひざまず)いて行う洗礼であった跪礼(きれい)をする人物埴輪(群馬県・塚廻り古墳群第4号古墳出土、文化庁所蔵)が、この詔で脆礼が廃止され、立ったままお辞儀をする中国式の立礼に変更されたのである。
◆終わらない日中交流
 7世紀以来、中国の文物を日本にもたらしてきた遣唐使は、894年(寛平6年)に菅原道真の意見によって廃止された。それ以降、中国文化の影響は弱まり、日本風の繊細で優美な貴族文化である国風文化が興隆した。かつての教科書では、9世紀から10世紀にかけての文化の推移が、このように説明されていた。遣唐使の廃止をきっかけに、唐風文化は大きく後退し、日本的な文化が独自の進化を遂げたというものである。しかし、研究の進展によって従来の認識は修正されるようになり、現在では教科書の記述も大幅に変化している。
遣唐使の「廃止」から「停止」へ
 まず変化してきたのは、894年の「遣唐使の廃止」に対する認識である。887年(仁和(にんな)3年)に即位した宇多天皇のもとで、838年(承和(じょうわ)5年)に渡海した遣唐使以来、約60年ぶりに遣唐使の派遣が計画され、894年8月、菅原道真が大使、紀長谷雄(きのはせお)が副使に任命された。ところが、9月になって道真は、派遣の再検討を促す上奏文を提出する。かつての教科書は、この上奏文によって、260年余り続いてきた遣唐使の制度そのものが「廃止」された、という認識に立って書かれていた。
 だが、道真や長谷雄がその後も遣唐大使・副使の肩書を名乗っていることが注目されるようになり、894年以後も遣唐使派遣の可能性は残されたままであった、とする見方が強くなった。894年には派遣の可否について明確な決定時下されず、結論を先送りしているうちに、901年(延喜元)の道真の大事府左遷や、907年の唐の滅亡などがあり、結果として新たな派遣が行われないまま遣唐使は終焉した、という考え方が有力になったのである。このような認識の転換とともに、教科書の記述にも変化がみえ始め、現在では、894年の派遣が「停止」「中止」になったと述べるものが増え、同年に遣唐使の制度そのものが「廃止」されたとする記述は減っている。
◆「唐物」と巡礼僧
 以前は、894年の遣唐使の「廃止」に続いて、10世紀初頭に個人の海外渡航を禁止する法令(渡海の制)が出され、日本は鎖国的な状態になったと考えられていた。しかし、渡海の制は10世紀初頭に新たに制定されたものではなく、8世紀に編纂された律の条文に淵源があるとする説が有力になり、また正式な手続きを踏めば私人の海外渡航も可能であったことが指摘され、10世紀以降に日本が鎖国的になるという理解は通用しなくなった。さらに、中国からも商船が頻繁に来航し、陶磁器を始めとする多くの文物がもたらされるなど、10世紀以降も日中の間で、ヒトとモノの交流が活発に行われていたことが知られるようになった。979年に中国を統一した宋と、日本は正式な国交を結ばなかったが、民間レベルの日中交流はむしろ拡大していった、と理解されるようになったのである。
◆唐風の上に成り立つ「国風」
 こうして、遣唐使の終焉以後も日中の活発な交流が続き、日本に対する中国文化の影響は弱まっていないことが認識され、国風文化も中国文化の影響なしには成立しえないことが強調されるようになった。教科書でも、中国文化の放棄ではなく、中国文化の咀嚼・消化のうえに国風文化が生まれたと記述されるようになった。
 唐の詩人・白居易(はくきょい)の漢詩文集『白氏文集(はくしもんじゅう)』が愛好され、『源氏物語』『枕草子』にも同書の強い影響が見られることなど、中国文化のさらなる浸透も、現在の教科書には記されるようになっている。10世紀以降も、中国文化は貴族社会にとって不可欠のものであり、中国文化の基盤のうえに国風文化は初めて成立していた。そのような認識が、現在の教科書には定着しているのである。


◆書評:大庭裕介『司法省と近代国家の形成』(2020年、同成社)(評者:山口亮介*29
(内容紹介)
 司法省前史として1871~1874年の刑部省(司法省の前身)を取り上げるとともに、1874年の司法省誕生(初代司法卿は佐賀の乱で知られる江藤新平)から山田顕義*30司法相退任(1891年)までの司法省が論じられ、いわゆる民法典論争 - Wikipediaについても触れられてるそうですが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆書評:崔誠姫*31『近代朝鮮の中等教育:1920~30年代の高等普通学校・女子高等普通学校を中心に』(2019年、晃洋書房)(評者:佐藤由美*32
(内容紹介)
 評者によれば「植民地時代朝鮮の教育研究」は従来「初等教育の研究」が多く、そうした意味で「中等教育」を研究対象とした本書の価値は大きいとのこと。


◆紹介:山田敬男*33、関原正裕*34山田朗*35『知っておきたい日本と韓国の150年』(2020年、学習の友社)
(内容紹介)
 月刊誌『学習の友』の連載を加筆の上、書籍化したもの。版元や著者名から内容については「安倍、菅政権に批判的なもの」だということは察しがつくかと思います。

参考

新刊紹介:山田敬男・関原正裕・山田朗著『知っておきたい 日本と韓国の150年』 - 労働者教育協会のブログ2020.6.25
 山田敬男・関原正裕・山田朗著『知っておきたい 日本と韓国の150年』ができあがりました。
 本書は、『学習の友』2019年2~6月号に連載した「日韓(日朝)関係の近現代史」をもとに、大幅に加筆修正をしたものです。
 日本による植民地支配の歴史、日韓会談の経過と日韓条約、韓国の民主化運動――日韓関係の近現代史の核心を知ることのできる1冊としてまとめました。
 もくじは以下のとおりです。
序 章 深刻化する日韓対立とその背景
第1章 韓国併合への過程
第2章 日本による植民地支配
第3章 植民地朝鮮の解放から分断国家の固定化へ
第4章 日韓会談と日韓条約
第5章 韓国の民主化運動、そのたたかいと現在   
おわりに

『経済』2020年9月号に山田敬男・関原正裕・山田朗 著『知っておきたい 日本と韓国の150年』の紹介が掲載されました。 - 労働者教育協会のブログ2020.8.20
 雑誌『経済』2020年9月号に、山田敬男・関原正裕・山田朗 著『知っておきたい 日本と韓国の150年』の紹介が掲載されました。
 ありがとうございます。
 先日の光復節(8月15日)演説において、韓国の文在寅*36大統領は、日本政府にたいして、徴用工問題の解決にむけた「協議」を呼びかけています。
 政府に「協議」に応じさせるのは、主権者である私たちが世論と運動を前進させることによって成し遂げるべきでしょう。
そのためにも、この本で学習を深めておくことが大切です。
 ぜひ活用・普及をお願いします。

山田敬男・関原正裕・山田朗著『知っておきたい 日本と韓国の150年』の紹介が『しんぶん赤旗』に掲載されました。 - 労働者教育協会のブログ2020.9.9
 山田敬男・関原正裕・山田朗著『知っておきたい 日本と韓国の150年』の紹介が『しんぶん赤旗』2020年9月6日付の読書面に掲載されました。
 ありがとうございます。

『知っておきたい 日本と韓国の150年』が『議会と自治体』で紹介されました。 - 労働者教育協会のブログ2020.9.24
 山田敬男・関原正裕・山田朗著『知っておきたい 日本と韓国の150年』が、『議会と自治体』2020年10月号で紹介されました。
 ありがとうごございます。

各紙誌に学習の友社の本が紹介されています。 - 労働者教育協会のブログ2020.11.25
◆『しんぶん赤旗』2020年11月1日
 「本と話題」コーナーのトップに『知っておきたい 日本と韓国の150年』、書評欄に『《増補新版》時代の証言者 伊藤千代子*37』が掲載されています。


【2021年7月1日記載】
 現時点では「歴史評論」2021年8月号は未読で、内容も当然わかりませんが

◆「戦場の宗教」
◆「近代の戦争と宗教動員」

ググる

【刊行年順(刊行年が同じ場合は著者名順)】
◆小河原正道*38『近代日本の戦争と宗教』(2010年、講談社選書メチエ)
◆石川明人*39『戦場の宗教、軍人の信仰』(2013年、八千代出版
◆石川明人・星川啓慈*40『人はなぜ平和を祈りながら戦うのか?』(2014年、並木書房)
◆小河原正道『日本の戦争と宗教:1899-1945』(2014年、講談社選書メチエ)
◆石川明人『キリスト教と戦争:「愛と平和」を説きつつ戦う論理』(2016年、中公新書)

等がヒットしますが、そうした著書が紹介されるんでしょうか?。まあ、日本だと「戦場の宗教」「近代の戦争と宗教動員」と言えば、私見では「靖国神社」は絶対に外せないところではあります(追記:実際にはキリスト教と仏教にスポットが当たっている内容でした)。

参考

第18回 近代日本における戦争と宗教――仏教界の視点から | 宗教情報センター小河原正道
 日本人の多くが親しんでいる仏教はどうでしょうか? 。仏教では、その信者が守るべき戒めとされる五戒八戒において、「不殺生戒」が第一に置かれています。その原理的・教義的観点からみるなら、明らかに戦争は殺戮行為であり、否定されなければなりません。しかし、近代日本の歴史を振り返ってみるとき、戊辰戦争から太平洋戦争まで、仏教勢力のほとんどは戦争に協力してきた、という歴史的事実が存在しています。戦争を行う国家に対し資金や人材、物資を提供し、従軍僧を派遣して布教や慰問に努め、戦争の正当性を僧侶が説いて回ったのです。
 それは、なぜでしょうか。最初の経験であった戊辰戦争が勃発したとき、発足したばかりの薩長を中心とする新政府が「官軍」となり、これに敵対する旧幕府軍は「賊軍」となりました。よく知られている通り、江戸時代において、寺院は戸籍の管理という行政の一端を担っており、その意味で、幕府ときわめて近しい関係にありました。その幕府が倒れてしまう。その現実を前に、いわば新時代における「生存」を賭けた承認競争がはじまります。たとえば東西両本願寺では、もともと倒幕側に肩入れしてきた西本願寺は継続して新政府軍に協力し、莫大な人材や資金を提供しました。一方、徳川家康の寄進によって設立され、それ以降も幕府との関係が密接であり続けた東本願寺は後手に回ることになり、必死になって旧幕府との関係を断ち切り、新政府軍に協力することで、その「生存」を勝ち取ろうとします。仏教だけではありません。神道神職たちもまた、新政府からの承認を得ようとして自ら武器を取って立ち上がり、新政府軍に参加しました。
 「拡大」の視野は、海外へも広がっていきます。明治の開国以降、日本の仏教は積極的な海外布教を展開していきますが、その重要な契機となったのが、日清・日露戦争でした。日清戦争では、不殺生戒という原理的課題に対して、あくまで戦争の廃滅を目標としながらも、日本がアジアの指導者として覚醒をはかるための「義戦」に参戦することは仏教の唱道するところである、などと解いて戦争協力を正当化しました。こうした姿勢の背景には、当時、布教や慈善事業・教育活動などを通して勢力を拡大してきていたキリスト教への対抗という意識もあったといわれています。そして、この戦争の勝利によって台湾を植民地化した日本側では、積極的に現地での仏教布教活動が展開されていくことになります。「生存」と「拡大」。その交差点に、戦争への協力が位置していました。
 国家行為と宗教行為との連動を考える上で、重要なキーワードがあります。それは、「布教権」です。もし、中国大陸で日本仏教が自由に布教する権利を獲得していたなら、日本政府や日本軍のアジア戦略とは自立した形での布教活動が、可能だったかもしれません。実際、日露戦争に続く第一次世界大戦の際、日本政府は有名な対華二十一箇条の要求を中国側に突きつけ、日本仏教の布教権の獲得をその一項目に盛り込みました。すでに欧米諸国のキリスト教の布教権を中国側は承認しており、日本仏教もこれと同等の権限を保有すべきである、というのが、日本仏教側の主張でした 。しかし、中国側はこれを含むいわゆる第5号要求の削除をもとめて日本政府もこれを受諾し、結局、布教権は設定されませんでした。それ以降中国では、終戦まで、結局自立した布教権が確立されることはありませんでした。
 このため、日本仏教の活動領域は、日本軍が公式・非公式に制圧した実効支配地域に限られることになり、必然的に布教をはじめとする宗教行為は戦争という国家行為と連動し続けることになります。実際、アジアに急速に勢力を拡大していった昭和期、仏教界は各戦争に積極的に協力し、そして敗戦によってアジアの支配権を失った瞬間に、日本の寺院も神社も、一斉にアジアから消えてなくなることになったのです。
 もとより、昭和の戦争期において、「生存」を考えるとき、非戦や反戦の声を上げることは簡単ではありませんでした。実際、日中戦争期に「戦争は罪悪である」などと発言した結果、陸軍刑法によって有罪判決を受けた真宗大谷派明泉寺の住職・竹中彰元は、法要座次を最下位に降格されました。
 竹中彰元は2008年に大谷派によって名誉を回復されていますし、いま、仏教各派では戦争協力に対する反省や、戦争反対の声を上げた人々の名誉回復が進められています。それはたしかに必要なプロセスでしょう。ただ、なぜ、不殺生戒を掲げる仏教界が戦争に協力したのか、その「生存」と「拡大」をめぐる当時の状況や意欲はいかなるものであったのか、そうした実態の実証的分析なくして、反省を踏まえた次の一歩は踏み出せないのも事実です。

竹中彰元 - Wikipedia
 竹中彰元は盧溝橋事件勃発後、1937年9月15日に出身地の岩手村在郷軍人に対して戦争を批判する旨を述べてその反戦姿勢を村民から「痛罵難詰」され、更にこの言動で村民から非難された後も、10月10日に近隣の仏教寺院で僧侶6人に対して「戦争は最大な罪悪だ」と述べた。この10月10日の反戦言動を聞いた僧侶が翌10月11日に岩手村役場に通報し、この通報がきっかけとなって10月26日に彰元は逮捕され、陸軍刑法第99条(造言飛語罪)に抵触するとして岐阜地方裁判所に送致された。
 翌1938年(昭和13年)3月12日に岐阜地方裁判所は竹中彰元に対し、禁固4ヵ月の実刑判決を下し、この判決に彰元が控訴したため、4月27日に名古屋控訴院は禁固4ヵ月、執行猶予3年に刑を軽減する判決を下した。なお、この判決には1940年(昭和15年)2月11日に皇紀2600年を記念して恩赦が認められ、禁固2ヵ月20日、執行猶予3年に刑を減免されている。
 彰元が属していた真宗大谷派は名古屋控訴院による判決後、「軽停班3年」の処分を下して僧侶の位を最低に落とし、また、彰元の布教使資格を剥奪した。なお、大谷派は1940年(昭和15年)5月18日に軽停班処分を満期とする処分の減免を実施し、1941年(昭和16年)4月17日に彰元の布教使資格を復活している。
 戦後長らく、竹中彰元の存在は忘れ去られていたが、愛知県一宮市の円光寺住職・大東仁により竹中の名誉回復運動が始まった。2007年(平成19年)10月19日に、真宗大谷派主催の「復権顕彰大会」が明泉寺にて開催され、熊谷宗恵宗務総長が謝罪、同宗派の処分を取り消す「宗派声明」が出され、処分から70年目に名誉回復を果たした。
◆参考文献
 大東仁『戦争は罪悪である:反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』(2009年、風媒社)

日露戦争におけるキリスト教徒の葛藤 ― 近代日本の宗教≪16≫ 石川明人氏(1/2ページ):中外日報
 日露戦争の時代、日本国内で特に深刻な状況に置かれていた宗教は、ロシア正教会である。
 日露戦争は仏教とキリスト教との戦いだと言って、ロシア正教会を攻撃する仏教徒もいたようである。
 こうした「宗教間の戦い」という構図は今の私たちの目には全く愚かに映るが、当時のロシアは現に世界に対し、この戦争は「キリスト教徒対異教徒」の戦いであるとアピールした。それによって日英同盟にヒビを入れ、欧米での外債募集を阻害することを狙ったからである。そこで日本政府は、これは宗教間の戦いではなく「文明対非文明」の戦いである、という構図*41を提示し、むしろキリスト教、特にロシア正教をしっかり保護することによって、ロシア側の意図を打破しようとしたのである。
 ロシア正教の宣教師、日本ハリストス正教会の創建者であるニコライが開戦後も日本に残留してくれたことは、日本政府にとっても都合がよかった。彼が退去してしまえば、この戦争は宗教的色彩を帯びることになってしまうからである。そこでニコライが外出する際には、護衛警官が付き添い、一時は宣教団の敷地やその周辺に一個中隊にも匹敵するかと思われる数の兵隊が配備されたという。当時のニコライの日記にも、教団を守る警察等に対する感謝の気持ちを述べた文章がある。
 正教会自身も、自分たちが決して「露探(ロシアのスパイ)」でも「国賊」でもないことをアピールするのに必死だった。正教本会事務所では、日露戦争が始まる前から刊行物を出して「日本国家への忠誠とキリスト教信仰は矛盾しない」ということを力説し、戦争が始まってからも冊子を刊行して「我は断じて露探に非ず、我が日本帝国の忠良なる臣民なり」と主張している。
 正教会の神学校教師たちは『日露軍用会話』を作成して軍に献上し、祖国への忠誠を表そうともした。ニコライも、日本に留まることを決めた際の訓示で、信者たちに、あなたたちは日本の勝利を祈りなさい、そしてもし戦いに勝ったならば感謝の気持ちを祈りなさい、という主旨のことを述べている。
 だが、あえて注目しておきたいのは、日本のことを心底愛していたニコライも、戦争が始まって次々と日本軍の勝利が報じられるようになると、ロシア人としての愛国心を意識せずにはいられず苦悩したという点である。ニコライの日記には、日々の戦闘で日本軍が勝利したという報道を目にするごとにショックを受けたことが率直に書かれている。彼は、ロシア惨敗の知らせは気分が落ち込むので、今後は新聞を読むのは三日に一度にしようとも述べている。
 平和と愛国心をめぐる「矛盾」は内村鑑三にも見られる。周知の通り内村は、日清戦争は「義戦」として肯定したが、それ以後は全面的に戦争に反対し、最後まで「非戦論」を唱え続けた。だが彼は、日露戦争時、旅順港での日本海軍の勝利を知ると「隣り近所全体に聞こえるほどの大声で、『帝国万才』を三唱しました」と知人に宛てた手紙でわざわざ書いている。私たちは、あの非戦論の内村でさえ戦時にあってはそのような心情や衝動に駆られたということを、謙虚に受け止めておくべきかと思われる。
 内村は、聖書を引用して戦争を正当化する牧師たちを厳しく批判したが、多くのプロテスタントの牧師たちは日露戦争に協力的であった。新島襄*42の門下である海老名弾正*43は、当時の牧師のなかでも特に日露戦争を積極的に肯定したことで知られている。
 同じく牧師である本多庸一*44と小崎弘道*45は、軍隊へ「慰問使」を送ることなどについて軍部と交渉し、軍人向け小冊子の配布、募金活動にも協力した。本多庸一と井深梶之助*46は、日本が正義の戦争をしているということを訴えるために、わざわざ欧米にまで行った。
 小崎弘道は、全国宗教家大会で「この戦争は、人種の戦争でも宗教の戦争でもなく、ロシアが代表する16世紀の文明と、日本が代表する20世紀の文明との戦争である」と述べた。こうした小崎の発言を伝え聞いたニコライは、日記に「ロシア罵倒の熱心においてとりわけ際立つのはプロテスタントのコザキ(小崎)である」と書いており、複雑な思いを抱いていたことがうかがえる。
 当時、日本国内のプロテスタント宣教師のなかにはロシアに対する嫌悪と軽蔑をあらわにする者も多く、ニコライはそれに強い反発を感じていた。ニコライは「プロテスタントの宣教師たちほど、ロシアを憎み、ロシアの不幸を願っている者はいない」とも書いている。傍目には同じキリスト教徒のあいだでも、当時の内実はわりと複雑だったのである。
 また当時、牧師たちの戦争協力があった一方で、同じキリスト教徒のなかから日本で最初の良心的兵役拒否者も出ている。矢部喜好という人物である。
 彼は戦争がはじまるとすぐに召集されたのだが、入隊の前夜に連隊長宅を訪れて「自分は徴兵を拒否する者ではないが、神の律法を厳守する立場から、敵を殺すことはできない」と申し出た。当時の日本ではそんなことを言い出す者はいなかったので、連隊長は怒るより先に呆気にとられたようである。
 結果的に矢部は禁固2カ月の刑を受け、その後は上官の説得などにより傷病兵の世話をする看護卒補充兵となった。
 日露戦争においても、宗教家はさまざまな形で戦争に協力し、または戦争に反対し、あるいは迫害を受けながら、さまざまな葛藤のなかを生き抜いてきた。同じ宗教、同じ信仰をもっていても、人格や生活環境が異なれば日々の佇まいにも違いが生まれるが、「戦争」という巨大な社会的事象に対する姿勢も実際にはさまざまであった。
 こうしたことは、あらためて私たちに、信仰とは何か、平和とは何か、という問いを考えるきっかけになるであろう。

戦争と文化(17):聖書には「汝、殺すなかれ」とあるのに、どうして、ユダヤ=キリスト教は戦争や暴力行為を後押ししてきたのか?星川啓慈
 1945年8月6日、原爆を搭載したアメリカのB-29「エノラ・ゲイ」が日本本土に向かう時、「戦争の終わりが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなた〔神〕に祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように」というお祈りをしたことを紹介しました(第11回目のブログ)。簡単にいうと、当時のほとんどのアメリカ人は「日本は凶悪な国である、この国との戦争には絶対に勝利しなければならない」と思っていたのです。そして、日本への原爆投下が「平和実現の手段」だったのです。
 また、時代は前後しますが、キリスト教界は、エルサレム奪還に十字軍を派遣しましたし、プロテスタントカトリックに分かれて血で血を洗う宗教戦争をくりひろげたこともありました。
 しかしその一方で、先に紹介したように、聖書には「汝、殺すなかれ」、さらにいうと「汝の敵を愛せよ」(マタイ福音書、5章44節)と書かれています。
 こうした対立すると思われる事実を、どのように解釈したらいいのでしょうか。キリスト教諸国の歴史は、これらの教えと矛盾しているのではないでしょうか。
 アメリカの著名な教理神学者にリンドベックという人がいます。『教理の本質』(1984*47)という世界的な名著の中で、次のように論じています。
 キリスト教の大部分にわたる状況下では、一般に、平和主義は、たとえ「条件付きで必要」だとしても、「愛」というキリスト教の規則の「絶対に必然的な」結論ではないのである。(ボーガス注:平たく言えば『愛する人間』を守るためなら『戦争で人を殺してもいい』つうことでしょう)
 つまり、「平和主義」はキリスト教の絶対的で普遍的で本質的な教えではない、ということです。キリスト教が武力衝突に正統性を与えても不思議はないのです。
 このことは、西洋の歴史が如実に示しています。さらに、キリスト教における傑出した人々、たとえばアウグスティヌスは「愛からなされる迫害」を容認したとか、晩年のルターユダヤ教徒に酷いことをしたと論じる学者もいます。まあ、こうしたことは昔の話だとして片付ける人もいるでしょう。けれども、(ボーガス注:例えばキリスト教徒であるはずの米国大統領がアフガンやイラクで戦争をしている)現実世界を見ると、そのように簡単に片づけることはできないのではないでしょうか? 今回のブログも、ズバリこのことと関係しています。

 まあ、「横田早紀江」「曾野綾子」「トランプ」なんかも自称クリスチャンですからねえ。

従軍チャプレンと軍人の信仰 石川明人 2011年8月6日 - キリスト新聞社ホームページ
 8月6日は、アメリカが世界で初めて大量破壊兵器である原子爆弾を使用した日である。これによって多くの日本の一般市民が虐殺されたが、1945年のその日、原爆を搭載したB29エノラ・ゲイが基地を離陸するその直前に、従軍チャプレンがその乗組員を前にして簡単な礼拝を行ったことは、日本ではなぜかあまり知られていないようである。
 当時テニアン基地で任務についていたチャプレンの一人に、ウィリアム・ダウニー大尉がいる。彼が原爆を投下しに出撃する兵士らのためにおこなった祈りの全文を紹介しよう。
 「全能の父なる神よ、あなたを愛する者の祈りをお聞きくださる神よ、わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに敵との戦いを続ける者たちとともにいてくださるように祈ります。彼らが命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります。彼らも、わたしたちと同じく、あなたのお力を知りますように。そしてあなたのお力を身にまとい、彼らが戦争を早く終わらせることができますように。戦争の終りが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように。わたしたちはあなたを信じ、今もまたこれから先も永遠にあなたのご加護を受けていることを知って前へ進みます。イエス・キリストの御名によって、アーメン」
 エノラ・ゲイの乗組員たちは、この祈りの通り、任務を遂行したあと無事に基地へ帰還した。この祈りは神に「とどいた」のだ。だがここには、殺される側の人々への言葉はない。われわれは、こうした信仰の姿をどう考えればいいのだろうか。

*1:立正大学教授

*2:早稲田大学教授。著書『ダライ・ラマと転生』(2016年、扶桑社新書)など

*3:以前リンクを張ったら、逆上してはてなに『拙ブログの強制プライベートモード』を要求するような無茶苦茶な御仁がI浜女史なのでリンクは張りません。

*4:おそらくは「右翼的な資料館」なんでしょうね。

*5:なお、赤字強調は「I浜女史」ではなく「俺がしました」。

*6:1897~1974年。著書『天皇とは何か:憲法・歴史・国体』(1989年、展転社)、『国体思想史』(1992年、展転社)、『法華経十話』(2004年、展転社)、『国体学総論』(2005年、展転社)、『国体学創建史』(2006年、展転社)、『国体論史』(2009年、展転社)、『天皇とプロレタリア』(2018年、展転社)など (里見岸雄 - Wikipedia参照)

*7:明治大学兼任講師、成蹊大学非常勤講師。著書『近代日本の陸軍と国民統制:山縣有朋の人脈と宇垣一成』(2014年、校倉書房)、『石原莞爾の変節と満州事変の錯誤』(2015年、芙蓉書房出版)

*8:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*9:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*10:金城学院大学准教授・宗教主事。日本キリスト教団筑紫教会牧師。著書『日本の中国占領統治と宗教政策:日中キリスト者の協力と抵抗』(2019年、明石書店)、『増補改訂版・はじめての中国キリスト教史』(共著、2021年、かんよう出版)、『香港の民主化運動と信教の自由』(編著、2021年、教文館

*11:『もうひとつのチベット現代史:プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』(2006年、明石書店)のこと

*12:皇道仏教については、新野和暢『皇道仏教と大陸布教:十五年戦争期の宗教と国家』(2014年、社会評論社)と言う著書があるとのこと

*13:同朋大学特任教授、真宗大谷派僧侶。著書『非戦と仏教』(2005年、白澤社)、『市民的自由の危機と宗教:改憲靖国神社政教分離』(2007年、白澤社)、『極楽の人数:高木顕明『余が社会主義』を読む』(2012年、白澤社)、『平和と平等の浄土論:真宗伝統教学再考』(2020年、白澤社)

*14:真宗大谷派僧侶。著書『大逆の僧高木顕明の真実:真宗僧侶と大逆事件』(2011年、風媒社)

*15:植木徹誠については例えば、赤旗植木等の父、反戦僧侶、植木徹誠とは?参照

*16:1906~1989年。久邇宮邦彦王の第3王女(香淳皇后昭和天皇の妻)の実妹明仁上皇の叔母、今上天皇の大叔母にあたる)。東本願寺第24世法主であった大谷光暢・元伯爵(1903~1993年)の夫人(なお、法主制度は1981年に廃止され門主に移行した。いわゆる「お東騒動」は戦後も絶対的権力を握り続けようとする大谷家と大谷家の影響力を弱めようとする「改革派」との紛争だったと言える)(大谷智子 - Wikipedia参照)。

*17:石川論文によれば矢田部稔(故人、最終階級は陸将補)のこと。陸将補は旧日本軍の陸軍少将に当たる

*18:とはいえそこでの自衛隊は「消防的活動」であり「軍事組織としての自衛隊」ではないわけですが。「失礼ながら」、正直「消防的活動」を前面に出して、自衛隊を美化しようとする産経や櫻井よしこの「同類右翼」ではないのかという疑惑を石川氏には感じます。

*19:「特攻するクリスチャン」など俺は「おぞましさ」しか感じないのですが、石川氏の感想には「びっくり仰天」ですね。

*20:というと怒る方もいるでしょうが客観的事実です。仮に防衛戦争であろうとも殺人であることには違いはない。ましてや侵略戦争ならなおさらです。

*21:中央大学准教授。著書『アフリカ眠り病とドイツ植民地主義:熱帯医学による感染症制圧の夢と現実』(2018年、みすず書房

*22:長野市博物館学芸員

*23:成城大学教授。著書『幕末・明治期の陵墓』(1997年、吉川弘文館)、『天皇陵の近代史』(1999年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『天皇陵論』(2007年、新人物往来社)、『天皇陵の誕生』(2012年、祥伝社新書)、『検証・天皇陵』(2016年、山川出版社)、『天皇陵:「聖域」の歴史学』(2019年、講談社学術文庫)など

*24:もちろん『初代神武天皇古墳の復元』が『復元』という名前の『完全な捏造』であることは言うまでもありません。神武は実在ではありませんので

*25:大阪人権博物館(リバティおおさか)館長。著書『水平社の原像』(2001年、解放出版社)、『アジア・太平洋戦争と全国水平社』(2008年、部落解放・人権研究所)、『差別と反逆:平野小剣の生涯』(2013年、筑摩書房)、『水平社論争の群像』(2018年、解放出版社)など

*26:要するに「自虐史観」、「反日」という橋下維新などウヨの言いがかりです。何せ「サンフランシスコ市による平和の少女像設置を理由に、サンフランシスコ市と大阪市姉妹都市関係を一方的に破棄した」のが維新ですから。

*27:関西大学教授。著書『日本古代儀礼成立史の研究』(1997年、塙書房)、『日本古代の王宮と儀礼』(2008年、塙書房)、『日本古代の年中行事書と新史料』(2012年、吉川弘文館)、『桓武天皇』(2013年、山川出版社日本史リブレット人)、『飛鳥・藤原と古代王権』(2014年、同成社)、『早良親王』(2019年、吉川弘文館人物叢書

*28:横浜市立大学教授。著書『中世王権と即位潅頂』(2005年、森話社)、『天皇の即位儀礼と神仏』(2017年、吉川弘文館

*29:中央大学准教授

*30:1844~1892年。工部卿、内務卿、司法卿、第1次伊藤、黒田、第一次山県、第一次松方内閣司法相を歴任。1883年12月の司法卿就任から1891年6月の第一次松方内閣司法相退任まで「約7年半」司法省トップの地位におり、日本の法制度に大きな影響を与えたとされる。日本大学創立者の一人(山田顕義 - Wikipedia 参照)

*31:日本女子大学客員准教授。中央大学政策文化総合研究所客員研究員

*32:専修大学教授。著書『植民地教育政策の研究:朝鮮・1905‐1911』(2000年、龍溪書舎)

*33:労働者教育協会会長。著書『戦後疑獄史』(1982年、新日本新書)、『社会主義入門』(1991年、学習の友社)、『私たちはどんな時代に生きてるか』(2000年、学習の友社)、『新版・戦後日本史』(2009年、学習の友社)、『社会運動再生への挑戦:歴史的せめぎあいの時代を生きる』(2014年、学習の友社)、『戦後日本労働組合運動の歩み』(2019年、学習の友社)など(山田敬男 - Wikipedia参照)

*34:歴史教育者協議会副委員長。日朝協会埼玉県連合会会長

*35:明治大学教授。歴史教育者協議会委員長。著書『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社→2020年、ちくま学芸文庫)、『軍備拡張の近代史:日本軍の膨張と崩壊』(1997年、吉川弘文館)、『歴史修正主義の克服』(2001年、高文研)、『護憲派のための軍事入門』(2005年、花伝社)、『世界史の中の日露戦争』(2009年、吉川弘文館)、『これだけは知っておきたい日露戦争の真実:日本陸海軍の〈成功〉と〈失敗〉』(2010年、高文研)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(2013年、高文研)、『近代日本軍事力の研究』(2015年、校倉書房)、『兵士たちの戦場』(2015年、岩波書店)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(2017年、新日本出版社)、『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(2018年、新日本出版社)、『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社)、『帝銀事件と日本の秘密戦』(2020年、新日本出版社)など(山田朗 - Wikipedia参照)

*36:盧武鉉政権大統領秘書室長、「共に民主党」代表を経て大統領

*37:伊藤千代子については伊藤千代子 - Wikipedia赤旗伊藤千代子を詠んだ歌とは?(2004.5.5)、「こころざし生かして」/伊藤千代子生誕100年 澤地さんが講演/長野(2005.7.21)参照

*38:慶應義塾大学教授。著書『西南戦争』(2007年、中公新書)、『明治の政治家と信仰:クリスチャン民権家の肖像』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『小泉信三』(2018年、中公新書)など

*39:桃山学院大学准教授。著書『ティリッヒの宗教芸術論』(2007年、北海道大学出版会)、『戦争は人間的な営みである』(2012年、並木書房)、『私たち、戦争人間について:愛と平和主義の限界に関する考察』(2017年、創元社)、『キリスト教と日本人』(2019年、ちくま新書)、『すべてが武器になる:文化としての〈戦争〉と〈軍事〉』(2021年、創元社)など

*40:大正大学教授。著書『増補・宗教者ウィトゲンシュタイン』(2020年、法蔵館文庫)

*41:勿論どちらの構図も嘘であり、実際は「韓国を日本とロシア、どちらが支配するか」という帝国主義・植民地獲得戦争でしかありません。

*42:同志社大学創立者新島襄 - Wikipedia参照)

*43:後に同志社総長(海老名弾正 - Wikipedia参照)

*44:青山学院院長、日本メソヂスト教会初代監督など歴任(本多庸一 - Wikipedia参照)

*45:同志社総長、日本基督教連盟会長など歴任(小崎弘道 - Wikipedia参照)

*46:明治学院総理、日本基督教青年会同盟委員長など歴任(井深梶之助 - Wikipedia参照)

*47:邦訳は2003年、ヨルダン社