今日の産経ニュース(2021年8/5日分)

【正論】LGBT濫訴の危惧、米の例から 福井県立大学教授・島田洋一 - 産経ニュース
 島田のあげた米国でのLGBT訴訟がそもそも「濫訴」に当たるのかという問題もありますが、仮に「濫訴」だとしても日本と米国では「裁判制度」「LGBTを巡る状況」「国民性」等いろいろと違いがあるので「米国でLGBT問題での濫訴が起きたから日本でも濫訴が」等と言うことには全くなりません。つうか濫訴というならウヨ連中の「百人斬り訴訟」「大江『沖縄ノート』訴訟」「NHK『ジャパンデビュー』訴訟」の方がよほど「不当な嫌がらせ=濫訴(なお、いずれも名誉毀損は認定されず、原告であるウヨ側が敗訴)」でしょうがそれはさておき。
 というか、ならば「あなた方、右翼はどう日本でLGBTの権利を守るのか?」とウヨに聞くと「無回答」。下手すると「織田信長森蘭丸衆道(同性愛)エピソード」等を持ち出して「日本は『オスカー・ワイルドの処罰』『アラン・チューリングの自殺』『ハーヴェイ・ミルクの暗殺(ヘイトクライム)』などの事件があった欧米と違い、LGBT差別などない」と事実に反する強弁をするのが島田らウヨなので話になりません。単に「右翼的価値観」からLGBTの権利拡大(典型的には同性婚)を認めたくない島田らウヨが詭弁と話のすり替えで居直ってるだけの話です。正直「LGBTは生まれつき」「当然、ウヨのLGBTもいる」「その点が後天的に自分の意志で選択される政治思想や宗教とは違う」ので「LGBT問題」で島田らのように「左翼偏向」云々言い出すのはとんちんかんにも程がある。

 稲田朋美*1は、かねてギンズバーグ判事への憧れを吐露してきた。次のような哀悼メッセージを発してもいる。
ギンズバーグ女史がお亡くなりになりました。女性が偏見にさらされている時代、信念をもって法の正義と公平を実現した偉大な法律家でした。一度お会いしたいと思っていたので残念です*2」。

 「ウヨの稲田」がリベラルのギンズバーグを「政治的に敬愛してる」とは「本音でも建前(つまりはウヨ支持層への宣伝)でもありえないこと」であり、これは「政治思想が違っても、その生き様には尊敬する」「敵ながらあっぱれ」「敵に塩を送る*3」程度の意味でしかないことは明白です(島田のようなウヨは社交辞令ですら「敵ながらあっぱれ」とは言わない、言えないのでしょうが)。
 自民党が野党幹部の逝去の時には追悼文を出したり、追悼演説したりすることがあるのと同じ話ですが、この程度の話で、稲田に「ギンズバーグを褒め称えるとは何事だ」とかみつく「狭量な島田」です。「リベラルとは言えないものの、LGBT法案などで解るように明らかにウヨイメージから脱却しようとする稲田」への「裏切りが許せない」感が強いのでしょう。とはいえ、安倍相手には「李克強首相の北海道訪問」に安倍が「異例の同行」をしても何も批判が言えない無様さが島田らウヨですが。同じ事を例えば「自民党政調会長時代の稲田」がやったら悪口雑言でしょうが。

【参考:追悼演説】

「この議場に、空席となった好敵手の席」党派超えしのぶ、国会の追悼演説|【西日本新聞me】
 「何でもいいから、生きていてほしかったです」。
 新型コロナウイルスに感染し、昨年12月に死去した立憲民主党羽田雄一郎・元国土交通相に対する追悼演説が5月19日、参院本会議で行われた。演壇に立ったのは、自民党尾辻秀久*4・元参院副議長。国会の追悼演説は、他党の議員が登壇するのが慣例となっている。日ごろ鋭く言論で切り結ぶライバルを、党派を超えてしのぶことから「武士道の名残」と言われ、何度聞いても涙を誘う名演説も存在する。追悼演説の歴史やエピソードをひもといてみたい。
◆「武士道の名残」他党議員の登壇が慣例
 追悼演説は、原則として現職の国会議員が死亡した際に本会議で実施される。なぜ他党の議員が演説するのが慣例になったのかははっきりしないという。ただ、絶対に他党というわけではなく、同じ党の議員のケースも散見される。
 首相や首相経験者、政党の党首が亡くなった場合は、他党の重鎮が引き受けるのが習わしだ。現職首相のまま1980年に死去した自民党大平正芳*5の場合は、当時の社会党飛鳥田一雄委員長が演説した。首相在任中の2000年4月に病に倒れ、翌月他界した自民党小渕恵三*6に対しては、社民党村山富市*7元首相が登壇した。
 時代を超えて語り継がれる追悼演説もいくつかある。その一つが1960年、東京・日比谷公会堂で暴漢に刺殺された社会党委員長、浅沼稲次郎氏にささげられたもの。読み上げたのは、ときの宰相、自民党池田勇人*8だった。
 「私は、この議場に、一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行い、また、来るべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行おうと誓った好敵手の席であります」
 冒頭、こう切り出した池田氏。「私は、誰に向かって論争を挑めばよいのでありましょうか」と最大のライバルを失った寂しさを吐露する。
 尾辻氏が2008年、旧民主党参院議員の山本孝史氏をしのんだ演説も、国会では語り草だ。
 「先生は末期のがん患者として、常に死を意識しながら国会議員の仕事に全身全霊を傾け、懸命に生きられたのであります」
 今回、羽田雄一郎氏に対し、尾辻氏はどう語り掛けたか。
 羽田氏が、「新型コロナウイルスに対応する医療機関を支援する議員連盟」の共同代表として「医療崩壊を防ぐための活動の先頭に立っておられました」と活躍をたたえた。
 「与野党が厳しく対立する場面でも、先生がおられると、場の雰囲気が自然と柔らかくなりました。これからは、場面が緊迫したら、先生のことを思い出すことにいたします」と続け、53歳の早すぎる死を悼んだ。
 取材に対し、追悼演説は「政治的には対立する相手でも、人間としては尊重し合うという意味で、議会制民主主義の精神を体現したよい慣習だ」と評価する。

池田勇人君の故議員淺沼稻次郎君に対する追悼演説 - Wikisource
村山富市君の故議員小渕恵三君に対する追悼演説 - Wikisource
日本経済新聞尾辻秀久参院議員による故・山本孝史参院議員追悼演説


【産経抄】8月5日 - 産経ニュース

 村木厚子*9元厚生労働事務次官拘置所生活は半年にも及んだ。その間に出会った若い女性受刑者が売春や薬をやっていたと聞いて、20年以上も前に聞いた話を思い出した。
▼「知的障害のある人に一番優しくしてくれるのは暴力団。男の子は使い走り、女の子は風俗で稼いで貢ぐ」。
 発言の主は、長崎県社会福祉法人「南高愛隣会」の創立者、田島(たしま)良昭さん*10である。
 村木さんは当時、労働省障害者雇用を担当していた。2人は全国各地の障害者福祉施設を回った。田島さんは、村木さんの逮捕の直後から無実を訴えてきた。
▼村木さんは無罪判決が確定し、国家賠償請求を起こして勝訴すると、手にした約3千万円を迷わずに寄付する。田島さんとともに、罪を繰り返す障害者や高齢者を支援するための基金を設立した。
▼田島さんは小学生の頃から障害者福祉に関心をもち、「厚生大臣」が将来の夢だった。大学卒業後、政治家をめざして国会議員の秘書になったが、やがて福祉の現場に身を投じる。
▼還暦を過ぎた頃から、累犯障害者の再犯防止と社会復帰に力を注ぐようになった。先月10日、地元紙長崎新聞が主催するシンポジウム「刑のゆくえ~生きる力の弱い人と刑事司法」に、田島さんの姿があった。村木さんとともに登壇した検事総長の林真琴*11に(はやし・まこと)さん、日本弁護士連合会会長の荒中(あら・ただし)さん、法曹界トップの2人も田島さんの同志である。
 訃報が届いたのはその1カ月後、76歳だった。

 ということで一応紹介しておきます。こういう記事だけだったら俺も産経批判しないのですが。
 なお「累犯障害者」については
家庭環境によって、知的障害者・発達障害者の犯罪者のその後が大きく左右されるのは、ある意味当然の話ではあるが本当によろしくないことだと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2020.2.17
なかなかすごい記事だと思う(知的障害者は、性犯罪や管理売春などで食い物にされやすい) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2020.3.13
を紹介しておきます。

参考

田島良昭さん死去 76歳 障害者福祉の先駆者(長崎新聞) - Yahoo!ニュース
 2006年からは、罪を繰り返す「累犯障害者」支援に注力し、厚生労働科学研究事業で全国に先駆けてモデル事業を実践。09年には全国の社会福祉法人で初となる更生保護施設「雲仙・虹」、福祉サービスにつなぐ「地域生活定着支援センター」を開設。同センターは本県を皮切りに全都道府県に広がった。
 11年には検察改革の一環で最高検参与に就任。12年には村木厚子氏(13~15年に厚生労働事務次官)と「共生社会を創る愛の基金」を設立し、罪に問われた障害者らの社会復帰を支援してきた。

*1:第二次安倍内閣行革相、第三次安倍内閣防衛相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)など歴任

*2:この程度で稲田を高評価はしませんが、拙記事で日頃、批判してるごろつき右翼連中(荒木和博、島田洋一黒坂真など)に比べれば「雲泥の差」「月とすっぽん」です。もちろん「稲田が立派」というわけではなく「ごろつき右翼連中が酷すぎる」のですが。

*3:内陸国に領地を持つ武田信玄は、同盟国の駿河国静岡県)から食塩を輸入していた。 ところが1567年(永禄10年)、東海方面への進出を企てた信玄は13年間に及ぶ駿河国の今川氏との甲相駿三国同盟を破棄し、これを受けた今川氏真は自国に加え縁戚関係にあった相模国(神奈川県)の北条氏康の協力を仰ぎ、武田領内への塩留(塩止め)即ち食塩の禁輸政策をとった。 これにより、信玄の領民は生活が困窮し、健康被害が懸念される事態となった。そしてこれを見た越後国新潟県)の上杉謙信が、敵対していた武田の領民の苦難を救うべく日本海側の食塩を送った、という伝説から「苦境にある敵を敢えて助ける」「目前の得失より、物事の道理や、長期的な利益を求める」などの意味である『敵に塩を送る』という諺が生まれた、とされている。しかし、文献に初めてこの話が現れるのは100年以上のちの『謙信公御年譜』(1683年編纂、1696年上梓)だが、同文献は脚色が多く信憑性が疑われている。現在の研究で当時の書簡類に『上杉方が塩を送った』あるいは『武田方が受け取った』という記録は見つかっていない。 このため『故事は後世の創作』が現在では通説である(敵に塩を送る - Wikipedia参照)。

*4:小泉内閣厚労相参院副議長、自民党参院議員会長など歴任

*5:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相

*6:竹下内閣官房長官自民党副総裁(河野総裁時代)、橋本内閣外相などを経て首相

*7:社会党国対委員長、委員長、首相を歴任

*8:大蔵次官から政界入り。吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相などを経て首相

*9:著書『あきらめない:働く女性に贈る愛と勇気のメッセージ』(2014年、日経ビジネス人文庫)、『日本型組織の病を考える』(2018年、角川新書)、『公務員という仕事』(2020年、ちくまプリマー新書)など

*10:著書『施設解体宣言から福祉改革へ』(2004年、ぶどう社)、『一隅を照らす蝋燭に:障がい者が“ふつうに暮らす”を叶えるために』(2018年、中央法規出版

*11:仙台地検検事正、法務省刑事局長、名古屋高検検事長、東京高検検事長等を経て検事総長林眞琴 - Wikipedia参照)