新刊紹介:「歴史評論」2021年10月号(追記あり)

 小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「民衆史研究の現在」
◆民衆史研究の現在(宮瀧交二*1
(内容紹介)
 他の文章が各論的なところ、総論的な内容です。
 架空問答方式で書いてみます。架空問答ですので「大筋で内容は正しい」と思いますが、一言一句同じ訳ではありません。

聞き手
 民衆史 - Wikipediaは民衆史を「人民闘争史」と同一視し、また人民闘争史を「マルクス主義史観的なもの」とした上でソ連東欧の崩壊などによる「マルクス主義のパワーダウン」により衰退したと見なしていますがどう思われますか?
宮瀧氏
 結局「民衆史とは何か」という定義問題、あるいは「民衆史とはどうあるべきか」という価値判断の問題になりますが、そうした認識は「一面では事実」でしょうが、一面的すぎて「全面的には賛同できません」ね。
 「民衆史」研究の流れとして「人民闘争史」、つまり「百姓一揆研究(江戸期)」「自由民権運動研究(明治期)」「大正デモクラシー研究」などがあり、それらの研究においてマルクス主義の影響があったことは事実です。しかし、民衆史とは「それオンリーではない」と思っています。
 なお、民衆史としては「1960~1970年代」の

石牟礼道子苦海浄土』(1969年、講談社→1972年、講談社文庫)
◆山本茂美『あゝ野麦峠:ある製糸工女哀史』(1968年、朝日新聞社→1977年、角川文庫)
 1979年に山本薩夫によって映画化
山崎朋子『サンダカン八番娼館:底辺女性史序章』(1972年、筑摩書房→1975年、文春文庫)
 1974年に熊井啓によって『サンダカン八番娼館・望郷』として映画化。この作品で1975年に田中絹代ベルリン国際映画祭銀熊賞 (女優賞)を受賞。
 なお、「話が脱線しますが」ベルリン国際映画祭銀熊賞 (女優賞)は他にも
・1963年:今村昌平監督『にっぽん昆虫記』で左幸子
・2010年:若松孝二監督『キャタピラー』で寺島しのぶ
・2014年:山田洋次監督『小さいおうち』で黒木華
が受賞している(ベルリン国際映画祭 - Wikipedia参照)

を紹介しておきます。
 何が言いたいかと言えば、民衆史はその性格上、『狭義の研究者(大学教員など)』には当たらない石牟礼、山本、山崎のような人間(フリーライター)が業績を上げているし、その性格上、映画のような娯楽作品になることも少なくないと言うことです。
 もちろん

山本薩夫
山本薩夫 - Wikipedia参照
◆暴力の街(1950年)
 いわゆる本庄事件を描いた。
◆真空地帯(1952年)
 野間宏の社会派小説を映画化
太陽のない街(1954年)
 徳永直のプロレタリア小説を映画化
◆荷車の歌(1959年)
 山代巴の小説を映画化
◆人間の壁(1959年)
 佐賀教組事件を元にした石川達三の小説の映画化。
◆武器なき斗い(1960年)
 山本宣治代議士を描いた西口克己の小説『山宣』の映画化。
松川事件(1961年)
白い巨塔(1966年)
 山崎豊子の小説を映画化。
◆金環蝕(1975年)
 池田首相の九頭竜川ダム疑惑を元とした石川達三の小説の映画化。
不毛地帯(1976年)
 山崎豊子の小説を映画化。いわゆる第一次FX商戦が描かれている。
◆皇帝のいない八月(1978年)
 小林久三の小説を映画化。自衛隊のクーデター計画が描かれており、1970年の三島事件による危機感が製作動機とみられる。

熊井啓
帝銀事件・死刑囚(1964年)
 帝銀事件の平沢貞通死刑囚(獄中で病死)を冤罪と見る立場から裁判を批判。熊井の監督デビュー作
◆日本の熱い日々:謀殺・下山事件(1981年)
 「下山総裁他殺説」にたつ朝日新聞社会部の矢田喜美雄記者の著書『謀殺・下山事件』(1973年、講談社)を原案として映画化
◆海と毒薬(1986年)
 九州大学生体解剖事件を元とした遠藤周作の小説の映画化
◆日本の黒い夏:冤罪(2000年)
 松本サリン事件での長野県警の「第一通報者・河野氏」への犯人扱い捜査と、そうした警察リーク情報を報じるメディアを批判的に描いた。

のような『定評ある社会派監督』だからこその成果と言えますが。また石牟礼らの立場は必ずしも「人民闘争史」「マルクス主義史観的なもの」とはいえないでしょう。
 なお、話が少し脱線しますが、石牟礼らの著書が刊行された「1960~1970年代」にかけては、
鎌田慧自動車絶望工場』(1973年、現代史出版会→1983年、講談社文庫)
等が刊行されある種の「ノンフィクション(ルポルタージュ、ドキュメンタリー)ブーム」が到来していたことに触れておきます。
 本多勝一氏の初期著作『カナダ・エスキモー』(1963年、朝日新聞社)、『ニューギニア高地人』(1964年、朝日新聞社)、『アラビア遊牧民』(1965年、朝日新聞社)、『北爆の下』(1969年、朝日新聞社)、『アメリカ合州国』(1970年、朝日新聞社)、『中国の旅』(1972年、朝日新聞社)などが刊行されたのも、これらの業績によって本多氏が『文春の菊池寛賞を受賞した(1964年、ただし文春が南京事件否定論の立場から本多氏を攻撃したことに反発して後に賞品を返却している)』のも、ちょうど、この頃です(本多勝一 - Wikipedia参照)。
 立花隆の『田中角栄金脈研究(月刊文春掲載)』が暴露したいわゆる『田中金脈問題』で、田中首相が退陣に追い込まれたのは、1974年ですし、文春「大宅壮一ノンフィクション賞」が創立されたのも1970年のことです。大宅壮一ノンフィクション賞 - Wikipediaを見れば解りますが、第1回受賞作(1970年、ただし受賞辞退)が石牟礼『苦海浄土』、第4回受賞作が山崎『サンダカン八番娼館:底辺女性史序章』(1973年)です。

【追記】
リベラル21 「歴史の墓堀人」色川大吉さん逝く
 「五日市憲法草案の発見」など、民衆史の研究者の一人としての色川追悼文です。一応紹介しておきます。ただし、宮瀧論文のように

石牟礼道子苦海浄土』(1969年、講談社→1972年、講談社文庫)
◆山本茂美『あゝ野麦峠:ある製糸工女哀史』(1968年、朝日新聞社→1977年、角川文庫)
山崎朋子『サンダカン八番娼館:底辺女性史序章』(1972年、筑摩書房→1975年、文春文庫)

を民衆史の成果と理解すれば

リベラル21 「歴史の墓堀人」色川大吉さん逝く
 色川さんだが、日本社会への最大の貢献は、歴史研究の面で「民衆史」という分野を確立したことだろう、と私は思う。

として「色川が確立した」とするのは色川に対する過大評価でしょう。


アナール派と民衆史研究の現状(近江吉明*2
(内容紹介)
 フランスの民衆史研究である「アナール派」と「アナール派の影響を受けた日本のヨーロッパ民衆史研究(『日本におけるアナール派の影響を受けた研究』の草分けとされる二宮宏之*3など)」が紹介されていますが、小生の無能のため、詳細な紹介は省略します。


◆日本中世史・近世史研究の中の民衆(長谷川裕子*4
(内容紹介)
 近年の研究を元に地下請 - Wikipedia村請制度 - Wikipediaについて論じられていますが、小生の無能のため、詳細な紹介は省略します。


琉球・沖縄の民衆の重層性(得能壽美*5
(内容紹介)
 架空問答方式で書いてみます。架空問答ですので「大筋で内容は正しい」と思いますが、一言一句同じ訳ではありません。

聞き手
 「琉球・沖縄の民衆の重層性」とはどういう意味でしょうか?
得能氏
 これについては、毎日新聞沖縄タイムス八重山日報の記事、先島諸島 - Wikipediaをまずは紹介します。なお八重山日報が「産経新聞と友好関係にある右翼新聞」であり沖縄タイムス琉球新報オール沖縄(特に左派の日本共産党)を激しく敵視し、基地問題でも「自民党全面支持」であること、そうした八重山日報の政治的スタンス(特に沖縄本島八重山差別を持ち出して、本土の沖縄差別を正当化しようとする暴論)については私が批判的であることはお断りしておきます。ただし、過去の八重山差別それ自体については否定できない事実だろうとは思います。

歴博の特集展「海の帝国琉球」 浮かび上がる「帝国性と侵略性」 | 毎日新聞2021.4.27
 琉球王国を新視点で見直す「海の帝国琉球八重山宮古奄美*6からみた中世―」展が、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で開かれている。海洋国家の爽快なイメージからは意外な「侵略性」「帝国性」にスポットが当てられ、新しい歴史像として刺激的だ。
 沖縄本島を中心に、北は奄美から南は八重山宮古までを版図とした琉球王国第二尚氏王朝の尚真王(在位1477~1526年)時代が最盛期といわれる。本土では室町幕府が弱体化し、応仁の乱から戦国時代へと中世も終わりにさしかかった時期に当たる。
 治世50年に及び、繁栄のシンボルとして語られる尚真王。しかし、それは王国内中央の勝ち組の描いた歴史像であり、版図に組み込まれていった周辺の島々からは全く別の姿が見える。
 これが本展のスタンスだ。
 展示チーム代表、村木二郎・同博物館准教授(中世考古学)によれば、八重山宮古に関する当時の文献資料はなく、後年、第二尚氏が編さんした史書に基づく歴史像が流布することになった。ところが、それらの史書は「『野蛮な連中のところに俺たちが文明をもたらしてやった』というトーン」。そこで本展ではまず、文献を離れて考古学の成果に着目する。
 展示会場で目立つのは陶磁器だ。13~15世紀、八重山石垣島波照間島与那国島など)、宮古島の集落遺跡からは、中国製の青磁白磁の破片が大量に出てくる。数万点に及ぶ遺跡もある。しかも、沖縄本島では出土しないタイプが見られ、中国と直接交易していたことがわかる。
 加えて、それらの集落はサンゴの石を積み上げた石垣で区画された独特な形態で、これも沖縄本島とは異なる。
 こうして本島とは別の流通圏・文化圏の中で栄えていた各集落だったが、15世紀をもって突如廃絶し、廃虚と化してしまう。多くの島々で同様の事件が起きた。
 その15、16世紀のまさに境目、尚真王治下の1500年に起きたのが「オヤケアカハチの乱」だ。王国側史書によると、八重山の「酋長(しゅうちょう)」アカハチは年貢の滞納をとがめられ、大軍を送られて滅ぼされたという。
 この記述は発掘が示す集落の断絶ぶりと見事に合致し、八重山社会に大変動が起きたのは間違いない。だが、それを(ボーガス注:正史の記述通り)「王国内の一酋長が反抗したため征伐した」と信用してよいものかどうか。
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首里城火災に耐えた大龍柱、材料は与那国島の石「虐げられてきた島民の強さを象徴」 | 首里城 象徴になるまで | 沖縄タイムス+プラス2020年10月5日
 猛火が鎮まり、焼けた首里城正殿の前に与那国島産の「フルイシ」で彫られた大龍柱が傷つきながらも立っていた。
「虐げられてきたものの強さだと思った」。
 前・与那国町教育委員会教育長の崎原用能さん(73)は、大龍柱に島で生きてきた人々の歴史を重ねる。
【この記事は有料会員限定です。残り1933文字(全文:2079文字)】

「首里城には怨念を感じる」離島から見た首里の姿に記者苦悩 那覇中心の視点問い直す | 迷った考えた現場からの報告 | 沖縄タイムス+プラス(社会部・城間有)2020年10月18日
 「沖縄のマスコミは首里城の本当の姿を書かない」。
 今年1月に始めた連載「首里城 象徴になるまで」の取材のために訪れた与那国島で、前・与那国町教育長の崎原用能さん(73)が苦々しく言った。
 崎原さんは「琉球処分を、首里の人たちが特権を失った出来事としか書かない。人頭税に苦しめられた宮古八重山の人たちは、(ボーガス注:琉球処分以降、人頭税廃止などによって)職業と移動の自由を手に入れたんだ」と続けた。
 思わず「人頭税のことも書いています」と反論した。崎原さんが、保守色の強い教科書*7を採用した時の教育長だったことを知っていたので、どんな歴史観を語るのだろうと身構えて始めた取材だった。
 首里城は地方の人たちが、首里の人々が食べる米や着る布を作り、工事があれば労力を提供したからこそ立っている。頭では分かっているつもりだった。しかし崎原さんの「首里城には怨念を感じる」という言葉を聞いて、ただ人頭税の事実だけを書いて満足していた自分を恥じた。
 私たち「沖縄のマスコミ」はヤマトに対して(ボーガス注:米軍基地問題などで)沖縄の立場を主張しているが、沖縄の中ではどうか。那覇中心の価値観を地方に押し付けてはいないか。地方の歴史や人々の心の揺れを丁寧にすくっているか。常に自分に問おうと思った。
 昨年10月31日の首里城火災で焼け残った大龍柱は、与那国島産の石(細粒砂岩)でできている。崎原さんは正殿が消えた後にすっくと立っていた大龍柱を、「虐げられた者の強さ」だと象徴的に表現した。

先島諸島 - Wikipedia参照
 人頭税廃藩置県後も『旧琉球王国既得権益層』への懐柔のために執られた旧慣温存策により存続したが、『南嶋探験*8』を著して人頭税の反対を訴えた笹森儀助の尽力もあり、1893年明治26年)の中村十作、城間正安、平良真牛、西里蒲ら4人により、沖縄本島の官憲や士族らの妨害を乗り越えて、国会請願書が井上馨*9・内務大臣に届けられた。中村の同郷(新潟県)の読売新聞記者である増田義一*10の記事で国民に周知されるところとなり、世論の後押しも受け第8回帝国議会において1903年明治36年)廃止され、日本本土と同様の地租に切り替えられた。

【金波銀波】19歳で宮古島から沖縄本島に… |2019.12.1
 19歳で宮古島から沖縄本島に出てきた古波蔵和夫さん(80)を待っていたのは、厳しい離島差別だった。アパートを借りようとすると「宮古の人ですか。遠慮してもらいます」。どこに行っても間借りを断られた
◆現在、沖縄宮古郷友連合会の顧問を務める古波蔵さん。宮古出身の女性が本島の男性と結婚した際、長男が生まれるまで籍を入れてもらえなかったというエピソードも明かした。「今は『宮古の人は働き者』と言われ、差別されることはない。それでも『差別はまだある』と感じることがある」と話す
◆70代以上の人からは、身をもって体験した差別を、今も生々しく聞くことができる
◆最近では、メディア関係者の間で「離島の政治家は知事選の候補者になれるか」が話題になり、本島出身者が「本島の政治家が認めないでしょう」と、こともなげに語った姿を思い出す。差別の歴史をさかのぼれば、琉球王国宮古八重山だけに課した過酷な人頭税へと行きつく。根は深い
◆沖縄の言論人は、米軍基地問題に絡め「本土による沖縄への構造的差別」を繰り返し糾弾している。しかし本島による離島差別の歴史に関しては、真摯な反省をほとんど聞かない。都合のいい時だけ持ち出される「差別」が、全国に対して説得力を持つわけがない。

聞き手
 大変興味深い記事の紹介ありがとうございます。なるほど、つまりはご紹介された毎日新聞沖縄タイムス八重山日報の記事や先島諸島 - Wikipediaは一例ですが、同じ沖縄と言っても、「沖縄本島」と「宮古八重山」では立場も価値観も違うというような「様々な重層性」があるが、その点について従来の沖縄民衆史研究はあまり自覚的ではなかったと言うことですね。しかし毎日新聞沖縄タイムスはまともですが、八重山日報の記事は酷いですね。
 「昔の八重山差別」と「今の米軍基地問題」と何の関係があるのか。心底呆れます。


◆「常民」を発見した民俗学(加藤幸治*11
 「常民」概念を「発見」した柳田民俗学が「日本の民衆史研究に与えた影響」について

【刊行年順】
◆後藤総一郎*12『常民の思想:民衆思想史への視角』(1974年、風媒社)
色川大吉*13『常民文化論』(1978年、講談社)、『日本人の再発見:民衆史と民俗学の接点から』(1986年、小学館
 なお、色川の民衆史関係の著書としては『燎原のこえ:民衆史の起点』(1976年、筑摩書房)、『矩形の銃眼:民衆史の視角』(1981年、大和書房)、『民衆史の発見』(1984年、朝日新聞社)、『自由民権の地下水』(1990年、岩波同時代ライブラリー)、『民衆史』(1991年、講談社)、『自由民権』(2005年、岩波新書)、『鼎談・民衆史の発掘』(2006年、つくばね舎)、『東北の再発見:民衆史から読み直す』(2012年、河出書房新社)、『五日市憲法草案とその起草者たち』(編著、2015年、日本経済評論社)、『不知火海民衆史』(2020年、揺籃社)などがあります。

などを題材に述べられていますが、小生の無能のため、詳細な紹介は省略します。


◆歴史のひろば『教科書の中の民衆像』(戸川点*14(とがわ・ともる))
(内容紹介)
 「中学校歴史教科書の中の民衆像」について戸川氏の見解が述べられていますが、小生の無能のため、詳細な紹介は省略します。


◆歴史のひろば・リレー連載:人類は感染症といかに向き合ってきたか『日本統治下台湾におけるペストの流行と防疫機関』(鈴木哲造*15
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

台湾医学衛生の父、高木友枝の伝染病対策|特集|三田評論ONLINE
 1896年の10月に、台湾総督府は「伝染病予防規則」を発布し、コレラ、ペスト、赤痢天然痘発疹チフス、腸チフスジフテリア、猩紅熱を伝染病と指定した。そのほかに、マラリア脚気などの地方病も多発していた。そのうち、最も猛威を振るったのはペストとマラリアである。
(1)ペストの根絶
 台湾総督府は1899年10月に台湾地方病及伝染病調査委員会を設置し、伝染病と地方病の予防と撲滅、およびアヘン吸飲者に対する治療などに関する調査研究を進めた。そのうち、ペストの防遏(ぼうあつ)は台湾における衛生事業の第1歩だと言われている。高木*16は1902年8月に同委員会委員に、そして1904年7月に同幹事に任命された。
 高木によると、赴任当初、新庁舎の空き地には、毎朝100匹余りのペスト斃鼠(へいそ)が放置され、まさに「惨憺たる光景」であった。高木が住んでいた官舎の周辺では、毎年ペスト患者が発生した。とりわけ1904年にペストによる患者は4,500人に上り、そのうち死者数は3,374人に達した。
 台湾におけるペスト流行の原因として、高木は以下6点を挙げている。
①1896年に台湾でペストが発生したが、当時土匪(どひ)が各地で跋扈していたため、警察は衛生のことを考える余裕がなかった。
②台湾人の家屋と市街は極めて不潔で、狭隘暗黒であるため、ペストの流行に適していた。
③台湾人はペストが伝染病であることを知らず、神仏の祟りと考えていた。
④台湾人だけでなく、台湾にいた日本人の多くも、ペストに関する知識が欠如していた。
⑤当局官吏または警察官は、台湾人との間に言葉が通じないため、往々にして双方に誤解が生じ、防疫措置に支障をきたした。
⑥当局官吏および警察官吏の多くは、ペスト予防の経験を有していなかった、ことである。
 1903年10月に総督府民政部警察本署において臨時防疫課を設けることになり、高木はその課長に任命された。高木が打ち出した対応策は、ペストが発生しやすい旧式家屋を取り壊すことと鼠の駆除であった。1912年までに合計4,876戸の家屋が取り壊され、1919年8月までに4192万3644匹の鼠を拿捕した。その結果、ついにペスト病毒を根絶することができた。そのため、1920年6月12日に高木は大正天皇より旭日重光章を授与されている。
 ペストの根絶によって、台湾の衛生環境が改善され、台湾社会の近代化も促進された。それによって、日本が台湾における植民地支配の信用が確立されたと言われている。
(中略)
 今日、台湾では日本の植民地行政において医療衛生面の業績が最も優れていると評価されている。
(中略)
 それゆえ、高木の門下生で、台湾最初の医学博士杜聡明*17は、高木友枝が台湾の「衛生総督」と「医学衛生の父」であると高く評価している。

台湾衛生学の父・高木友枝 日・中・独三言語資料分析にもとづく国際人の肖像東京大学大学院総合文化研究科准教授*18・石原あえか*19)2016年9月
 《台湾衛生学の父》と呼ばれる高木友枝(1858-1943)の名は、日本国内ではまだあまり知られていない。福島に生まれた彼は、1885年に帝国大学医科大学(現在の東大医学部)を卒業、1893年に私立伝染病研究所に入所し、北里柴三郎*20の最初の助手となった。その意味で、高木は北里の一番弟子とも言えるが、他の北里の門弟たち、すなわち北島*21・宮島*22・秦*23・志賀*24は1870年以降の生まれで、年齢差が大きかった。しかも(ボーガス注:台湾総督府民政長官だった)後藤新平*25の抜擢により、活動の場を台湾に移したことも加わり、その存在は国内で忘れ去られていた。事実、高木を知る唯一の手がかりは、台湾の弟子・杜聡明(1893-1986)が刊行した『高木友枝先生追憶誌』(1957年・非売品)のみという状況だった。
(1)台湾の医学・衛生領域における活躍と功績
 高木は国内(たとえば1899年頃の大阪でのペスト流行)での経験を活かし、台湾赴任後は、伝染病予防に尽力した。また高木の提案で設立された台湾総督府研究所は、先端的基礎医学の実験拠点となった。このように彼が台湾で迅速かつ円滑に衛生行政を構築できた理由のひとつには、後藤との強固な信頼関係があった。
(2)北里一門との相互協力関係
 (1)と重複するが、後藤=高木の連携では、日本での長与専斎*26北里柴三郎との実践経験が運営の基礎になった。言い換えれば、台湾での事業は、北里が日本で築こうとした医療体制が模範になっている。
(3)後進の育成・台湾における評価を含む
 台湾総督府医院医長、台湾総督府防疫事務官、台湾総督府専売局技師などの肩書に加え、高木は当初から「台湾総督府医学校長と医学校教授」も兼務した。その時の在校生に杜聡明と頼和がおり、両者の著作からは、植民地統治下での校長という立場にある高木が―当然批判すべき点もあるが―、総じて現地の生徒から、人格的に慕われていたことが窺える。
 2016年度末を目標に、本研究の主要成果をまとめ、公表する予定である。国内では知られていなかった台湾とドイツでの高木の活躍を、日本に紹介するきっかけになるものとしたい。


◆歴史の眼『記録から見る社会運動:環境アーカイブズの視点で考える』(川田恭子)
(内容紹介)
 法政大学大原社会問題研究所環境アーカイブズ保有する

スモンの会全国連絡協議会(ス全協)・薬害スモン関係資料
徳山ダム反対裁判闘争資料

について紹介されている。

*1:大東文化大学教授。

*2:専修大学名誉教授。著書『黒死病の時代のジャクリー』(2001年、未来社

*3:1932~2006年。フェリス女学院大学名誉教授。1960~1966年までパリに留学しアナール派の影響を受ける。著書『全体を見る眼と歴史家たち』(1986年、木鐸社→1995年、平凡社ライブラリー)、『歴史学再考』(1994年、日本エディタースクール出版部)、『マルク・ブロックを読む』(2005年、岩波セミナーブックス→2016年、岩波現代文庫)、『フランス・アンシアン・レジーム論』(2007年、岩波書店)、翻訳『歴史・文化・表象:アナール派と歴史人類学』(ジャック・ルゴフ他、1999年、岩波モダンクラシックス) など(二宮宏之 - Wikipedia参照)

*4:福井大学准教授。著書『中近世移行期における村の生存と土豪』(2009年、校倉書房)、『戦国期の地域権力と惣国一揆』(2016年、岩田書院

*5:著書『近世八重山の民衆生活史』(2007年、榕樹書林)

*6:もちろん奄美だけは「八重山宮古とは違い」今は沖縄ではなく鹿児島県です。ただしそれは江戸時代の『薩摩藩琉球侵攻』時に、薩摩が『琉球王国から割譲したから(そしてそれが廃藩置県琉球処分後も継続し、奄美は鹿児島県になったから)』であって『薩摩藩琉球侵攻前』までは奄美琉球王国の一部でした(奄美群島の歴史 - Wikipedia参照)。

*7:要するに『つくる会教科書』でしょう。

*8:現在は、平凡社東洋文庫に収録

*9:工部卿、外務卿、第一次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第二次伊藤内閣内務相、第三次伊藤内閣蔵相など歴任。元老の一人

*10:1869~1949年。後に、読売新聞を退社し実業之日本社を創立。(増田義一 - Wikipedia参照)

*11:武蔵野美術大学教授。著書『郷土玩具の新解釈』(2011年、社会評論社)、『紀伊半島の民俗誌』(2012年、社会評論社)、『復興キュレーション』(2017年、社会評論社)、『文化遺産シェア時代』(2018年、社会評論社)、『渋沢敬三とアチック・ミューゼアム』(2020年、勉誠出版)、『津波とクジラとペンギンと:東日本大震災10年、牡鹿半島・鮎川の地域文化』(2021年、社会評論社

*12:1933~2003年。明治大学教授。著書『遠山物語:ムラの思想史』(1995年、ちくま学芸文庫)(後藤総一郎 - Wikipedia参照)

*13:1925~2021年。東京経済大学名誉教授(色川大吉 - Wikipedia参照)

*14:拓殖大学教授。著書『平安時代の死刑:なぜ避けられたのか』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『平安時代の政治秩序』(2019年、同成社

*15:中京大学講師

*16:1858~1943年。1885年、東京大学医学部を卒業。その後、福井県立病院院長、鹿児島病院(現・鹿児島大学病院)院長、北里伝染病研究所治療部長などを歴任。台湾総督府民政長官・後藤新平の招聘で台湾総督府民政部警察本署衛生課長兼臨時防疫課長に就任。その後も台湾総督府医学校校長、台湾総督府中央研究所所長、台湾電力社長など歴任(高木友枝 - Wikipedia参照)

*17:1893~1986年。国立台湾大学医学部長など歴任(杜聡明 - Wikipedia参照)

*18:役職は当時(現在は教授)

*19:著書『科学する詩人ゲーテ』(2010年、慶應義塾大学出版会)、『ドクトルたちの奮闘記:ゲーテが導く日独医学交流』(2012年、慶應義塾大学出版会)、『教養の近代測地学』、『近代測量史への旅:ゲーテ時代の自然景観図から明治日本の三角測量まで』(以上、2020年、法政大学出版局

*20:1853~1931年。ペスト菌の発見、破傷風の血清療法の開発で知られ、『日本細菌学の父』と呼ばれる。私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)初代所長、私立北里研究所(現・学校法人北里研究所)初代所長、慶應義塾大学部医学科(現・慶應義塾大学医学部)初代学科長、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会初代会長など歴任。2024年から千円札の肖像に使われる予定(北里柴三郎 - Wikipedia参照)

*21:ハブの血清治療で知られ、慶應義塾大学医学部長、日本医師会会長を務めた北島多一(1870~1956年)のこと(北島多一 - Wikipedia参照)

*22:北里研究所副所長を務めた宮島幹之助(1872~1944年)のこと(宮島幹之助 - Wikipedia参照)

*23:梅毒の治療薬サルバルサンの開発者として知られ、北里研究所副所長を務めた秦佐八郎(1873~1938年)のこと(秦佐八郎 - Wikipedia参照)

*24:赤痢菌の発見者として知られ、朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校校長、京城帝国大学総長などを歴任した志賀潔(1871~1957年)のこと(志賀潔 - Wikipedia参照)

*25:1857~1929年。台湾総督府民政長官、南満州鉄道総裁、第二次桂内閣逓信相(内閣鉄道院総裁兼務)、寺内内閣内務相、外相、東京市長(現在の東京都知事)、第二次山本内閣内務相(帝都復興院総裁兼務)、東京放送局NHKの前身)総裁などを歴任(後藤新平 - Wikipedia参照)

*26:1838~1902年。文部省医務局長、内務省衛生局長など歴任(長與專齋 - Wikipedia参照)