産経新聞て、基本的に「勝てば官軍」「パワーポリティクス」を絶対的に支持しているんじゃないのか

産経新聞て、基本的に「勝てば官軍」「パワーポリティクス」を絶対的に支持しているんじゃないのか(産経が親米なのも、そういう前提がないか) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 コメントが長くなるのでこちらに記事として書くことにします。

 著者の三井美奈なる人物は、読売新聞のパリ支局長をへて、2016年に産経新聞に入社したというご仁です。常識的に考えて読売から産経に移籍したら給料も下がるし、そういう人が多いわけでもありませんが、ほかにも田村秀男などもいます(日本経済新聞出身)。ただ田村は、1946年生まれで2006年に産経に入社ですが、三井は1967年生まれの2016年入社でまだ50前での産経入社ですからね。よほど読売で嫌なことがあったか、さもなければ産経から給与以外にもなんらかの好条件のオファー(パリ駐在とか)があったか。

 「産経を早期退職した福島香織が今、そのくらいの年齢じゃなかったか?」と思って、福島香織 - Wikipediaを見たらドンピシャで、福島が「1967年生まれ(三井と同年生まれ)で2009年に退社」です。
 福島の方が「むしろ自然」なのであって、「日経や読売から産経入り」つうのは「理解に苦しみます」ね。まあ、いかに好待遇でも「極右に親和的」でないと、日経や読売から産経入りはしないかとは思います。
 ググったら

朝日新聞、45歳以上の「早期退職」募集…退職金の「驚きの金額」(松岡 久蔵) | 現代ビジネス | 講談社(4/5)2019.12.4
 今回リストラを断行する朝日新聞だが、主に若手の中途採用は積極的に行っている。特に、かつては「花形」とされながら激務で若手記者から避けられている警察・司法担当は、(ボーガス注:朝日に比べ待遇が悪いとされる)産経新聞毎日新聞からの転職組が多いことで有名だ。
 50代の朝日新聞社会部記者がこう話す。
「会社が変わるだけで給料が1.5倍くらいに上がるわけですから、声が掛かった(ボーガス注:毎日や産経の)若手はすぐに転職してきます。両社の知り合いには、『ウチはもはや、朝日やNHKのための予備校になってるよ』とイヤミを言われます。
 毎日はともかく、産経から朝日への転職を意外に思う人もいるようですが、警察や検察取材は基本的に肉体労働ですから、イデオロギーなんて関係ありません。警察取材トップの警視庁取材なんて、いまやかなりの割合を産経、毎日出身者が担っているくらいですよ」

なんて記事もヒットしました。
 しかし、id:Bill_McCrearyさんも批判していますが、産経がこんなことを言うのって「東京裁判」のように「自分や自分のお仲間が負けたとき」だけですからね(とはいえ、東京裁判についていえば、昭和天皇ら日本側が『東条英機元首相(元陸軍大臣)、板垣征四郎陸軍大臣ら陸軍幹部に専ら罪を押しつける方向』でGHQに協力しており、『裁判はGHQの押しつけ』とばかり言えないのですが)。
 例えば「過大評価はしません」が「産経お好みの右翼政党『次世代の党』が消滅した一方で、日本共産党が未だに国会に議席があること」については「一定の正当な評価(次世代よりも共産がより国民に支持されてる)」もせずに「共産支持者をバカ扱いして終わり」ですからねえ。
 そして「敵が負けたとき(例:選挙での野党敗北など)」は平気で「勝てば官軍」だからデタラメなことこの上ない。
 もちろん「勝てば官軍なのか?」つうのは一般論としては「一面の真理」です。
 例えば、『例は何でもいい』ですが、今、放送されてるNHK大河ドラマ青天を衝け - Wikipedia』も「勝てば官軍(勝った方がすべてて正しくて立派)とは言えない」いい例です。
 主人公の渋沢栄一はもともとは「徳川慶喜江戸幕府最後の将軍)の家臣」です。しかし、明治新政府に経済官僚として登用される(後に実業家に転身しますが)。
 それは「薩長(大久保、西郷、木戸など)を中心とする倒幕派(官軍、明治新政府)の勝利」は「軍事的勝利」にすぎず、「幕府はあらゆる面で圧倒的に劣っていて、倒幕派が圧倒的に優れている」といえる事実がなかったからです(もちろん幕臣の一部を取り込むことで、新政府への反発を抑えるという狙いもあったでしょうが)。「勝てば官軍」が「すべて倒幕派が幕府より優れている」ということを意味するのならそんな事実はなかった。ないから優秀な元幕臣が登用される(もちろん登用されなかった元幕臣もいますが)。
 渋沢以外にも元幕臣では例えば、有名人としては榎本武揚明治新政府で登用されています。
【参考】

榎本武揚 - Wikipedia参照
 1836~1908年。
 1869年に箱館戦争で敗北し降伏後、東京の牢獄に2年半投獄されたが、助命され、釈放後、明治政府に仕えた。
 1875年、駐露公使として樺太・千島交換条約を締結。
 1884年に朝鮮で甲申事変が発生すると、駐清公使として李鴻章と度々会談し、天津条約を締結。
 1885年、第1次伊藤内閣逓信大臣に就任。1888年に成立した黒田内閣でも逓信大臣に留任。
 1889年2月11日に暗殺された文部大臣・森有礼の後任として、3月22日、黒田内閣逓信大臣から文部大臣へ横滑り。1889年12月に成立した第1次山縣内閣でも文部大臣に留任。明治天皇から「道徳教育の基準(1890年に教育勅語として制定。制定当時の文相は大木喬任・第1次松方内閣文相)」策定を命じられる。大臣親任式天皇から特に希望されたにもかかわらず、何故か、榎本は積極的に取り組まなかった。そのため、5月17日に大臣を更迭され、枢密顧問官となった。
 1891年5月11日に大津事件(ロシア皇太子暗殺未遂)が発生すると、第1次山縣内閣外務大臣青木周蔵*1引責辞任し、5月29日、榎本が後任外相に任命された。外相時代にはポルトガルが経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国の領事裁判権を撤廃した。
 1892年8月8日、第1次松方内閣総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となる。
 1894年1月22日、第2次伊藤内閣農商務大臣に就任。
 榎本を大々的に批判した人物に、福澤諭吉がいる。1891年、福澤は、「幕府の高官でありながら新政府に仕え、華族(子爵)となった榎本は、本来徳川家に殉じて隠棲すべきであった」と批判する『痩我慢の説』を書いた。

*1:第1次山縣、第1次松方、第2次山縣内閣で外相。