野村克也(野球選手、監督)と佐藤忠志(元予備校教師、タレント)(追記あり)

【最初に追記】
 id:Bill_McCrearyさんにこの拙記事コメント欄でコメント頂くとともに、野村克也と佐藤忠志氏とでは、そんなに人間性などは変わらないのではないか(配偶者の個性の違いが大きな影響があった) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で拙記事を紹介頂きました。いつもありがとうございます。
 さて野村克也と佐藤忠志氏とでは、そんなに人間性などは変わらないのではないか(配偶者の個性の違いが大きな影響があった) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の追記部分にもコメントします。

 野村も似たような経験をしたと思いますが、野村は金を憎むことがなく、沙知代は金を憎む守銭奴になったのだと思います。

野村克也 - Wikipedia参照
◆野球選手に憧れるが、貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。
◆野村は兄の通う京都府立峰山高校に合格したものの、母からは学業優秀な兄を大学へやるから中学卒業後は働くよう言われたが、兄が大学進学を断念して就職し、さらに野村が奨学金をもらえるように同校野球部長をしていた教員の清水義一に頼んだこともあり、野村は高校に進学できた。峰山高校は甲子園など夢のまた夢という学校で、プロ野球のスカウトが訪れる環境ではなかったため、清水は野村のために各球団の監督に手当たり次第に推薦状を送った。その中で、後に野村がテスト生として入団する南海ホークス鶴岡一人監督だけが返事をくれ「毎年秋に入団テストを実施するので、その時に彼を寄越して下さい(ボーガス注:ドラフトでの指名ではないことに注意)」と清水に伝えた。

野村沙知代 - Wikipedia参照
 家族に手紙を送って妹や弟を東京に呼び寄せ、米兵からもらったケーキやコーラを手渡して「お父ちゃんたちも大変だろうから、ちゃんと一生懸命勉強しなきゃだめだよ」と言って学費の援助をしたという。東京での住まいや生活の子細は家族に明かさなかったというが、弟の伊東信義によれば、沙知代の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればいわゆるパンパンをしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する姉に遭遇したこともあったという。

と言うことで若い頃の二人とも、貧乏で不遇でした。しかし「カネに対する態度」が大きく違うのは興味深い。
【追記終わり】

 野村克也と佐藤忠志氏とでは、そんなに人間性などは変わらないのではないか(配偶者の個性の違いが大きな影響があった) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)への感想ですが長くなるのでこちらに書きます。

 なんで佐藤氏は、孤独死・困窮死して、野村はそれは免れたかというと、これはけっきょく配偶者のおかげだと思います。野村のほうが、佐藤氏より継続的に大きな収入があったのは確かでしょうが、野村沙知代が現金・預金を強力に管理していたのが大きかったのではないか。

【1】
 「より継続的に大きな収入」について言えば、佐藤氏は

佐藤忠志 - Wikipedia参照
 1977年に代々木ゼミナール講師となり、受験英語の教授法で金ピカ先生として一世を風靡。旺文社大学受験ラジオ講座も担当した。
 1988年に東進ハイスクールへ移籍。さらにタレント活動にも進出し、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などに出演した。しかし、1992年に予備校講師を引退。

ということで「1992年以降はタレントに転じます」が、正直1992年以降の彼が「タレントとしてずっと売れて、まともな収入があった」とはとても言えないでしょう。
 一方、野村は1980年の現役引退後も、「ヤクルト監督(1990~1998年)」「阪神監督(1999~2001年)」「シダックス監督(社会人野球、2003~2005年)」「楽天監督(2006~2009年)」ということで指導者として活躍。
 「阪神監督時はずっと最下位*1」とはいえ、「ヤクルトでは優勝、日本シリーズ制覇」「楽天では監督最終年に2位(それまではずっとBクラス)」を果たしています。指導者でない時期ももちろん「野球解説者、評論家」として活躍していました。
 また

野村克也 - Wikipedia参照
◆『巨人軍論』(2006年、角川oneテーマ21
◆『野村再生工場』(2008年、角川oneテーマ21)
◆『野村ノート』(2009年、小学館文庫)
 『野村ノート』(2005年、小学館)の文庫化
◆『野球は頭でするもんだ!【完全版】上・下』 (2010年、朝日文庫)
 なお、最初に『野球は頭でするもんだ!』が刊行されたのは「1985年、朝日文庫」。
◆『エースの品格:一流と二流の違いとは』(2010年、小学館文庫)
◆『考える野球』(2011年、角川SSC新書
◆『野村イズムは永遠なり』(2011年、小学館文庫)
◆『理想の野球』(2012年、PHP新書
◆『私の教え子ベストナイン』(2013年、光文社新書)
◆『強打者列伝』(2014年、角川oneテーマ21
◆『なぜか結果を出す人の理由』(2014年、集英社新書)
◆『名選手にドラマあり:脳裏に焼き付くあのシーン』(2014年、小学館新書)
◆『楽天はなぜ強くなれたのか』(2014年、PHP新書
◆『高校野球論』(2015年、角川新書)
◆『野村克也人生語録』(2016年、講談社+α文庫)
◆『愛とボヤキの平成プロ野球史』(2017年、角川新書)
◆『プロ野球 奇人変人列伝』(2017年、詩想社新書)
◆『野村の実践「論語」』(2017年、小学館文庫)
◆『私とプロ野球』(2017年、ワニ文庫)
◆『私が選ぶ名監督10人』(2018年、光文社新書)
◆『野村の遺言』(2018年、小学館文庫)
 『野村の遺言』(2016年、小学館)の文庫化
◆『超二流:天才に勝つ一芸の究め方』(2019年、ポプラ新書)
◆『負けに不思議の負けなし【完全版】上・下』 (2020年、朝日文庫)
 なお、最初に『負けに不思議の負けなし』が刊行されたのは「1987年、朝日文庫」。
◆『弱い男』(2021年、星海社新書)
 野村へのインタビュー本で死後に出版(なお、野村は2020年に死去)

等の著書も多数ありました。『ある時期から毎年、何らかの本が出てる(しかも単行本ではなく入手容易な文庫や新書、それも朝日新聞小学館講談社と言った大手が多い)』のがすさまじいですね。つまりは「それなりに売れて出版社が儲かる」のでしょう。
【2】
 さて、id:Bill_McCrearyさんの紹介する「金の管理」の部分だけ見れば「野村沙知代は素晴らしい配偶者」でしょうが残念ながら「野村沙知代には人間性に明らかに問題がある」からこそ「悪妻」呼ばわりされたことは野村克也 - Wikipedia
野村沙知代 - Wikipediaを見るだけでも解ります。
 野村は二度(南海、阪神)にわたって監督を解任されますが、それは

野村沙知代 - Wikipedia参照
 野村は阪神監督更迭時に「嫁の問題で監督を2度もクビになっているのは世界中探しても私ぐらいだろう」と述べている。

と野村が冗談を飛ばしたようにどちらも「沙知代の行状(南海、阪神)」が球団に問題視されたためでした(詳しくはウィキペディアを見てください)。
 また、

野村克也 - Wikipedia参照
 1975年オフには、巨人の球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五(いずれも当時の肩書)から水面下で選手兼任ヘッドコーチとして移籍を打診される。この年巨人は球団史上初の最下位に終わり、戦力補強とコーチ陣のてこ入れのため野村と極秘に接触して交渉した。当時、「沙知代の問題」もあって、南海で孤立していた野村は快諾したが、巨人監督の長嶋茂雄が同意しなかったため、実現しなかった

と言うのもおそらく長島が「南海での問題のようなことを巨人で引き起こされても困る」と「沙知代の行状」を問題視したからでしょう(沙知代の問題がなければ、長島が、野村移籍に同意したかどうかはともかく。「天然ぼけ」キャラの長島ですが、意外とそう言うところは「常識人」のようです)。
 特に「南海時代はともかく」、阪神時代に問題にされた「沙知代の行状」は「脱税という犯罪行為(なお、起訴され、執行猶予がついたものの有罪判決)」ですから「おいおい」です。 
 「阪神時代(1999~2001年)はずっと最下位」だったため、「沙知代の脱税」がなくても監督解任の可能性はありましたが
1)野村のヤクルト時代の実績(優勝、日本シリーズ制覇)を考慮し、「あと1年結果を見たい」として球団が契約を1年延長する可能性もゼロではなかった
2)「妻の脱税で解任」より「成績不振で解任」の方がまだまし
と言う意味では「沙知代の脱税」は「野村にとって全く迷惑な話」です。
 阪神監督更迭後、野村は一時「シダックス監督(社会人野球)」になりますが、「ヤクルト監督退任後、すぐに阪神監督に就任した」のとは違い、プロ野球球団からそうした監督就任要請の声がすぐには来なかったのも、さすがに「阪神監督更迭の事情」が事情だけに「ほとぼりが冷める」までは監督就任要請などとてもできなかったのでしょう。
 まともな人間なら「離婚」を考えてもおかしくないでしょうが、そうはならなかったのは野村の欠陥(金遣いの荒さなど)を補うという意味では

野村克也と佐藤忠志氏とでは、そんなに人間性などは変わらないのではないか(配偶者の個性の違いが大きな影響があった) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 野村克也にとって野村沙知代は確かに、世間一般の通念と違い最高の配偶者

だったのでしょう。

*1:ただし、2001年の野村辞任後に「2003年(星野監督時代)」、「2005年(岡田監督時代)」に優勝したのは「星野、岡田の功績だけではなく、野村の功績もある(野村時代の試みが星野、岡田時代に明確な成果となった)」として評価する声もあります(実際そうなのかは俺のような素人には解りませんが)。