映画「絶唱母を呼ぶ歌、鳥よ翼をかして」(追記あり)

【最初に追記】
 この拙記事を新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で紹介いただきました。いつもありがとうございます。なお、

新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が紹介する中村ゆり、南果歩「カミングアウト」 「在日」隠す芸能界に異変: J-CAST ニュース【全文表示】
新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の続きである新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(海を渡る友情) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

も是非お読み下さい。
【追記終わり】


新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(絶唱母を呼ぶ歌 鳥よ翼をかして) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

 この学者というのは寺尾五郎をモデルにしているかと思いますが、実際の寺尾はこういうことをしていたわけではありません。

 『38度線の北』(1959年、新日本出版社)という「有名な著書」がある寺尾ですが

寺尾五郎 - Wikipedia
 吉田松陰や安藤昌益を研究し、特に昌益の研究については、『安藤昌益全集』(農山漁村文化協会、1983年~1987年)の監修・執筆を務めるなど、これを後半生のライフワークとしている。
【著書】
◆『革命家吉田松蔭:草莽崛起と共和制への展望』(1973年、徳間書店
◆『安藤昌益の闘い』(1978年、農山漁村文化協会
◆『草莽の維新史』(1980年、徳間書店
◆『倒幕の思想 草莽の維新』(1990年、社会評論社
◆『論考安藤昌益』(1992年、農山漁村文化協会
◆『続・論考安藤昌益(上) 安藤昌益の自然哲学と医学 』(1996年、農山漁村文化協会
◆『続・論考安藤昌益(下) 安藤昌益の社会思想 』(1996年、農山漁村文化協会

ということで晩年は「事情はともかく」朝鮮問題からは離れて「吉田松陰、安藤昌益研究(特に昌益研究)をライフワークにしていた」ようです。「寺尾批判」ではなく「単なる事実の指摘」ですが。
 なお、安藤昌益と言えば一般にはハーバート・ノーマン『忘れられた思想家:安藤昌益のこと』(岩波新書)で知られているかと思います。

 商業的に成功しますが、沖田が在日であるという記事を出されてしまい、ライヴ会場で非難をされますが、「そんなことに何の問題もないじゃないか!」と宣言して拍手を得ます。

 今はともかく「当時としては」なかなかそうも行かないでしょう。「うろ覚え」ですが、以前、朝日新聞記事で「松田優作(1949~1989年)」が

日本テレビドラマ太陽にほえろ! - Wikipedia(1973~1974年)
 石原プロ作品(石原裕次郎七曲署捜査第一係長・藤堂俊介として主演)。松田はジーパン刑事(柴田純刑事)としてレギュラー出演
日本テレビドラマ大都会 PARTII - Wikipedia(1977~1978年)
 石原プロ作品(渡哲也が城西警察署捜査課部長刑事・黒岩頼介として主演)。松田は徳吉功刑事役でレギュラー出演
蘇える金狼 - Wikipedia(1979年)
日本テレビドラマ探偵物語 - Wikipedia(1979~1980年)
◆映画野獣死すべし (1980年の映画) - Wikipedia(1980年)
◆映画家族ゲーム - Wikipedia(1983年)

などで売れてからも「差別を恐れて」在日であることをひた隠しにしていたという記事を読んだことがあります。
 あるいは、これも「手元に本がない」ので「うろ覚え」ですが、以前読んだ、野村進『コリアン世界の旅』(講談社文庫) にはカミングアウトした在日芸能人として「にしきのあきら」が登場しますが、彼は「カミングアウトしない在日芸能人はたくさんいる。だって差別が怖いから」と言う趣旨のことを語っていたかと思います。
 あるいは

和田アキ子 - Wikipedia参照
 済州島出身者の父と、朝鮮半島出身者の母を持つ在日韓国人2世で、当時の本名は金福子、通名は金海福子だった。4人兄弟の長女で、下に3人の弟がいる。父は柔道場「金海道場」を開き、母は乾物屋を営んでいた。
 15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始める。パワフルな歌声は評判を呼び、ホリプロ(当時:ホリプロダクション)社長・堀威夫直々にスカウトされる。1968年(昭和43年)10月25日、「星空の孤独」でレコードデビューするが、その際に、在日韓国人だとわかる名前「金海」をまずいと思った父親が、既に帰化していた叔父の和田の養子にしてもらい、同時に名前も「現子(あきこ)」と改名して「和田現子」となり、本人も日本に帰化した(『週刊文春』2005年8月11日、18日夏の特大号 『実録 和田アキ子血と骨」のブルース』)。芸名の「アキ子」の「アキ」がカタカナなのは、本名の「現子」が普通に読めないため、当時のホリプロ社長・堀威夫が付けた。

なんて事実もあるわけです。あの和田アキ子ですら「正式なカミングアウト」は「『週刊文春』2005年8月11日、18日夏の特大号」が最初でした。
 既に

和田アキ子 - Wikipedia
◆1970年(昭和45年)、「笑って許して」でNHK『第21回紅白歌合戦』に出場し、『NHK紅白歌合戦』初出場を果たす。以後、1978年(昭和53年)まで連続出場。
◆1972年(昭和47年)、「あの鐘を鳴らすのはあなた」で第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。
◆1985年(昭和60年)からTBS『アッコにおまかせ!』(現在も和田の司会で放送中)の司会を担当。
◆1986年(昭和61年)、NHK紅白歌合戦』に1978年(昭和53年)以来8年ぶりに出場。以後、2015年まで連続出場(通算39回)。通算39回出場は当時の紅白出場女性歌手の最多出場記録(2020年現在は石川さゆりが43回で最多出場)。
 1987年、1991年、1995年、1998年、1999年、2001年、2008年には紅組トリを務めた(紅組トリ7回は石川さゆりの9回(2020年現在)に次ぐ現役歌手2位。全体では美空ひばりの13回に次ぐ3位)。1987年、1988年、1997年と合計3回、紅組司会も担当。

と人気芸能人になっていたにもかかわらず、です。

 やはり自民党民社党の政治家の名前が目立ちます

 記事でも指摘がありますが国立映画アーカイブで確認できます。
 「岸信介*1」「安倍晋太郎*2」「奥野誠亮*3」「春日一幸*4」などと言った「ウヨ連中」は予想の範囲内ですね。
 意外なのは

鯨岡兵輔 - Wikipedia
 護憲派として知られた。鯨岡は三木武夫*5松村謙三*6に師事したが1964年(昭和39年)に松村が同志数名とともに三木派を離脱し小派閥の松村派を結成した際には松村と相談の上、三木派に残留した。その後は三木派、河本*7派に所属したが、晩年は河本派を離れ、河野洋平*8の後ろ盾として行動した。

という鯨岡兵輔*9の名前があることですね。

国立映画アーカイブ
 全国商工会婦人部連合会*10

 自民党支持団体とはいえ「建前では右翼団体ではないはずの団体」が「この映画の協力団体」とは「何だかな(呆)」ですね。
 ちなみにこの団体に名前が多少似ている「全国商工団体連合会婦人部」は共産党系の団体ですね。

国立映画アーカイブ
 中山美穂

 これは「同姓同名の別人」なのか、それとも「まだ売れてない時期の中山美穂 - Wikipedia」なのか(なお、中山美穂 - Wikipediaにはこの映画についての記載はありません)。

*1:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*2:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)など歴任

*3:戦前、鹿児島県警特高課長として新興俳句弾圧事件の一つであるきりしま事件を指揮。戦後、政界入り。田中内閣文相、鈴木内閣法相、竹下内閣国土庁長官など歴任

*4:民社党国対委員長、書記長、委員長など歴任

*5:国民協同党幹事長、委員長、片山内閣逓信相、国民民主党幹事長、改進党幹事長、鳩山内閣運輸相、岸、池田内閣科学技術庁長官、自民党幹事長(池田総裁時代)、佐藤内閣通産相、外相、田中内閣副総理・環境庁長官等を経て首相

*6:東久邇宮内閣厚生相、幣原内閣農林相、鳩山内閣文相など歴任

*7:佐藤内閣郵政相、三木、福田内閣通産相自民党政調会長(福田、大平総裁時代)、鈴木、中曽根内閣経済企画庁長官など歴任

*8:中曽根内閣科学技術庁長官、宮沢内閣官房長官自民党総裁、村山、小渕、森内閣外相、衆院議長など歴任

*9:鈴木内閣環境庁長官衆院副議長など歴任

*10:現在は全国商工会「女性部」連合会(全国商工会女性部連合会参照)