世間に知られ始めた「田中絹代が映画監督だった」と言う事実ほか(2021年12/25版)

 ググってヒットした記事をいくつか参考に紹介しておきます。

日本の女性監督: 「女性らしい映画じゃない」 - トピックス - 日本の女性監督: Goethe-Institut Japanから一部引用
 日本における女性監督の歴史を振り返っておこう。日本で最初と二番目の女性映画監督は、ともに溝口健二監督の周囲にいた女性である。一人目は、溝口の下で助監督/スクリプターとして働いていた坂根田鶴子。彼女の初監督作品『初姿』の封切りは1936年3月。
 二人目は、溝口の映画に多く出演したスター女優の田中絹代。1953年12月公開の『恋文』から1962年6月『お吟さま』まで合計6本の劇映画を監督した。
 坂根と田中の2人を例外として、1980年代までの女性監督の多くは記録映画の分野で活躍した。1964年に短編『挑戦*1』で監督デビューした渋谷昶子は、この作品でカンヌ国際映画祭短編映画部門でグランプリを受賞している。企業PR映画・教育映画を撮っていた岩波映画製作所*2からは、『夜明けの国*3』(1966年)の時枝俊江や、『早池峰の賦』(1982年)の羽田澄子が登場した。とくに『早池峰の賦』は自主映画ながら女性監督で初めて芸術選奨文部大臣賞を受賞している。他に特筆すべきは歌手/女優であった宮城まり子で、社会福祉施設*4の記録映画『ねむの木の詩』(1974年)はブルガリア国際赤十字映画賞で銀賞を受賞した。
 1980年代から1990年にかけて、既存の映画産業が成り立たなくなっていく*5一方、女性監督が話題になる回数は増えていった。とくに長編劇映画『冬の河童』(1995年)でロッテルダム国際映画祭で新人監督賞を受賞した風間志織と、劇映画デビュー作『萌の朱雀』(1997年)で第50回カンヌ国際映画祭の新人監督賞を受賞した河瀬直美は、マスコミに大きく取り上げられた。
 2000年代に入ると女性監督ブームは一時的に沈静化したが、2006年前後から再び熱を帯びる。荻上直子かもめ食堂』がシネスイッチ銀座の動員記録を塗り替え、西川美和ゆれる』が国内の映画賞を総嘗めにし、蜷川実花さくらん』が連日立ち見のヒットとなるなど、興行成績上で成功した女性監督が目立ちはじめたのだ。
 2012年の蜷川実花ヘルタースケルター』はマスコミに連日取り上げられ、同年を代表する邦画の一つとなった。
 もちろん、まだ男女比の割合でいえば女性監督は非常に少ないけども、女性だからと評価に偏見が含まれる機会は減っている。「盛り上がってはいないが、悪い方には向かっていない」というのが2016年の日本の女性映画監督の現状だろう。

映画女優:田中絹代の軌跡 - JFDB
 田中が初監督したのは1953年。同年、成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』の現場で演出の修業をし、『恋文』に臨んだ。女性の監督は日本で2人目。そんな初監督への思いを、「キネマ旬報」が取材していた。インタビュアーは、映画評論家の岸松雄。田中とは、脚本家として『銀座化粧』で仕事をしている。きっと旧知の仲だったのだろうが、記事の行間に “監督することで演者としての不満をはらそうとしている”とか、“女性が監督するのは難しい”と言わせたい意図が見えげんなりした。
 田中は監督としては6本の映画を世に送り出している。中には、五社協定に苦しめられた『月は上りぬ』もあるが、私はどれも当時の評価よりずっと肯定的に捉えている。そう。いまは昔よりずっと多く、彼女の出演作、監督作を観る機会がある。もう文献が先行する時代ではないので、先人の評価に縛られることはないのだ。ぜひ自分の受け止め方で、田中絹代の世界を楽しんでほしい。
◆関口裕子(せきぐち ゆうこ)
 ライター、編集者、ジャーナリスト
 「キネマ旬報」取締役編集長、米エンタテインメントビジネス紙「VARIETY」の日本版「バラエティ・ジャパン」編集長などを歴任。

田中絹代メモリアル協会の「絹代塾」を訪問しました! | 公益財団法人 山口きらめき財団2015年12月11日
 10月17日(土)、下関市田中絹代ぶんか館で開催された「絹代塾 vol.29」を訪問しました。
 主催の「田中絹代メモリアル協会」は、女優田中絹代をはじめ、下関に関わりの深い文化的先人の顕彰を行い、芸術文化の香り高いまちづくりに寄与することを目的に、地域住民を対象とした絹代塾、アニメ制作体験教室等を行われています。
 「絹代塾 vol.29」では、関西在住のフリーアナウンサー津田なおみさんを講師に、「映画監督 田中絹代」をテーマにした講演やディスカッションが行われました。
 津田さんは、淑徳大学大学院で監督としての田中絹代とその作品について研究された方で、絹代が監督した全6作品を年代順に上映しながら、映画監督となったきっかけや当時の世相、作品に込めた想い等を解説されました。
 「月は上りぬ」では、当時公開された「麗しのサブリナ*6」の影響で、登場人物にサブリナパンツを着せたという絹代の無邪気さを伝えるものや、カラー作品の「流転の王妃」では、絹代の好きな赤色を効果的に使用しているといった様々なエピソードも紹介され、和やかな雰囲気の中、参加者はメモを取りながら熱心に聴講されていました。
 参加者は10名と少なかったのですが、田中絹代や往年の日本映画の熱心なファンのようで講演後多くの質問がありました。


「映画監督 田中絹代」村川英*7より一部引用

  映画女優田中絹代」については良く知られているが、映画監督「田中絹代」が 6 本の映画をどのように監督したかについて、具体的に研究した調査がほとんどない。そこでこれらの映画に関わった香川京子久我美子北原三枝などにインタビューした。
 なお、この研究は、6 本全部についての調査・研究ではなく、「恋文」、「月は上りぬ」の 2本が中心になっていることをお断りしておきたい。
 「映画女優田中絹代については、様々な研究書が発行されているが、それに比べると「映画監督」田中絹代の研究書は少ない。田中絹代監督の映画を見る機会さえなく、映画作品 6 本の全貌を把握するのにはかなりの時間とエネルギーを必要とした。
 具体的に田中絹代に深く関心を持ったのは、筆者が「成瀬巳喜男演出術:役者が語る演技の現場」を出版した時に、(ボーガス注:田中監督映画第1作「恋文」にヒロインとして主演した)香川京子さんから田中絹代のことを伺った時である。深い愛情と尊敬の念で語られた田中絹代への言及は魅力的だった。
香川京子インタビュー 2000 年 2 月 23 日(水)帝国ホテル
(村川)
 映画監督田中絹代さんの仕事をどのように評価していますか
(香川)
  今、考えてみると良く、やれたと思う。それが出来たのは、男社会の中で、男たちがそれを可能にしてくれたということ。成瀬さん、小津さんのバックアップがあり、木下恵介さんの脚本があった。監督の仕事も、巨匠の圧倒的な支持を受けて始めるというラッキーな面があった。これが田中さんのすごさでしょう。他の女優さんで、例えば山田五十鈴さんや、高峰秀子さんはこういう形でやれたでしょうか。
 当時、田中さんはいろいろ悩んでらしたと思います。特に女優は年齢的に変わってゆかねばならない。あれだけ大変な人気があったから、娘役からの切り替えが大変だったんじゃないかと思います。その後(ボーガス注:新東宝で)「おかあさん」をご一緒させていただいたのですが、あの時が初めての汚れ役だったらしいですね。溝口監督、松竹の社長だった城戸さんは大反対なさって、何で絹代をそんなに汚すんだ。お母さん役なんかやらすんだと、随分、小津さんも言われたらしいんです。
 でも私は素晴らしかったと思うんです。丁度、田中さんがなんとかしなきゃと思っていた時でしょうね。今になって自分のことと照らし合わせ、そんな風に思えるんです。
 でもそれは私がその年齢になって、田中さんとは違った体験ですけど、いろいろやったことでわかったことですね。あの頃は何もわかっていませんでした。
(村川)
 川喜多かしこさん*8との対談の中で、アメリカに行って、私もなにかしなきゃ、女代議士になるわけにもいかないし、それで監督にとおっしゃっています。
(中略)
(香川)
 田中さんという人の迫力は、口では言えないんです。鬼気迫るというか。だから田中絹代賞をいただいたときは、すごく嬉しかったです。これで少しは田中さんに近づけたのかなと思いました。
(村川)
 木下恵介さんは、田中さんはもう出来上がっているから本当に楽ですと、おっしゃっていますね。でも溝口さんの時は、大変だったんだと思うんですけど。
(香川)
  溝口さんは、何もおっしゃらない人ですよ。はい、やってみてくださいと。でも怖かったですね。黒澤さんは、溝口さんの作品に出た人は、鍛えられているから楽です、とおっしゃっていた。何も言わなくてもやってくれるから。
(村川)
 でも溝口さんは田中さんの監督に対しては反対してらしった。
(香川)
  心配してたんでしょう。失敗したら可愛そうだと、そう思いますよ。

あの時が初めての汚れ役だったらしいですね。

については「お母さん役が汚れ役なのかよ?」ですね(映画『おかあさん』 | 普通人の映画体験―虚心な出会いであらすじが分かります)。
 田中が娼婦役を演じた

溝口健二『夜の女たち』(1948年)
小津安二郎『風の中の牝鶏』(1948年)
熊井啓『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)

は汚れ役と言っていいでしょうが。しかし1948年に『夜の女たち(娼婦というのは明らかに汚れ役だと思いますが)』を撮った溝口が、『金色夜叉 - Wikipedia(1932年、ヒロインのお宮(鴫沢宮)役)、伊豆の踊子 - Wikipedia(1933年、ヒロインの踊り子・薫役*9)などで作られた過去の清純派イメージが壊れる』と1952年の『おかあさん』に反対する理由が俺には分かりませんね。

「恋文」で主人公の道子を演じた久我美子にインタビュー(2005 年 3 月 26 日 埼玉県芸術劇場にて)
(実は久我は成瀬巳喜男が田中に監督修行をするように勧めた大映の「あにいもうと」に出演しており、田中の大映での監督修行も見聞もしていた)
(村川)
 「あにいもうと」の時は、どうでしたか。
(久我)
  「私、監督をやるために見学にまいりましたのよ」なんて一言もおっしゃらないし、セットなんかでも暗いところにずっと、立ってらっしゃったような気がします。ロケーションなんか、川原とか、梨畑でも遠くからずっと見てらしったのを覚えています。ただ私たちとはお話しませんでしたけどね。
  私が伺ったのは「田中先生が演出するというのを聞いて、溝口先生は大反対してらしった。田中さんは女優で、監督なんかやったら、ただ恥をかくということで反対した。それだったら東京勢の小津さん木下さん五所さんで『溝口の鼻をあかしてやろうじゃないか』ということで田中さんをバックアップした」ということをうかがいました。
  「カット」なんていう時、大きい声を出すんです。森さんと私を含めて、田中さんはイメージ通りの配役をなさったから、どんどん進行していったんです。森さんの弟さん役の道三さんという方だけが俳優座の方だったらしいんですけど、オーディションでお選びになっていた。
 最初の頃はそうでもなかったらしいのですが、セットの中で道三さんの芝居が気に入らなくて「ちがう。もうちょっとなんとかして」ともめるんです。道三さんは口では言わないけれど「じゃ、監督どうすればいいんですか」みたいな態度をこれみよがしに見せる。それで最後には出て行ってしまった。そうしたら田中さんは「あの態度はいけません。あの態度だけは許せません」ってすごく怒ってらした。それがとっても印象に残っています。
(村川の注)
  田中は最初、礼吉役に森雅之ではなく、自分が選んだ新人を連れてきた。しかしこれは成瀬監督が「第一回の監督で自分がフラフラしているのに、新人を使うなんて、自惚れもはなはだしい」と大反対。こうした助言を聞き入れて礼吉役は森雅之となった。もっとも田中は森雅之という俳優を非常に高く評価していた。森雅之が演じ終わると「大変、結構でございます」というのが口癖だった。
  ただ久我が指摘するように問題は礼吉の弟役、洋をやった道三重三だった。
 もっともスクリプターとして監督田中を観察できる立場にあった河辺美津子は「田中さんにしてみれば、どんな条件でも監督の望むように動くことが俳優の条件と信じているわけですから、じれったくてしょうがないわけです。でも道三さんは田中さんじゃないんです。キャリアも違うわけですからね。それに道三さんはすごく不器用な方でしたから、何で俺だけがいじめられるんだと、とすごく悔しがっていました」と証言する。
 現場では、監督とスタッフの間で、スムーズにいかないことも多かった。助監督の石井輝男は現場で監督とスタッフの調整にてこずった。
 「僕は若かったし、田中さんにとっていい助監督ではなかった。一度、脚本の木下さんがご挨拶にきたことがあって、礼吉と道子と出会うプラットフォームのシーンを僕は質問したことがあったんです。そうしたらたて続けでカメラポジションで 30 カットくらい説明した。もう本を書いている時にコンテが出来ているんですね。田中さんは無理もないけれど、はっきりいって監督じゃないんです。だからコンテもたてられないし、カメラワークなんて何もわからない。カメラをどこに据えていいのか、何をしていいのかわからないんです。俳優さんというのは、僕らの神経ではわからないところがありますが、田中さんは自分で自分を作りすぎて、それで辛くなってしまうんじゃないんでしようか。監督というのは裸にならなければ出来ませんから。だから何度か衝突したことがあった」
 スタッフは超一流だった。照明は藤林甲。日活で石原裕次郎がこの人の言うことだけを聞いたというライトマンである。こうした名人が現場で目を光らせ、少しでもおかしいことがあると、すみずみまで点検した。こうしたちょっと目にはわからない部分まで映画監督田中絹代のために骨を折った。
 興味深いのは、巨匠たちが監督田中絹代に見せたひとかたならぬ配慮である。
 木下恵介は「恋文」のシナリオを書き、木下組の川頭義郎に助監督として田中を助けるように命じた。
 さて巨匠たちの応援は、さまざまなエピソードも生み出した。
 木下恵介は田中のために戦争の傷跡が残る東京を舞台に、いかにも木下らしいラブ・ロマンスを書いた。ところがこのシナリオを成瀬巳喜男は片っ端から削ってゆく。
 「これもいらないね。これもいらない」と。これを側で見ていた川頭義郎は「先生は間違った本をお書きになる筈がありません。どうしても必要だからお書きになったのです。それを削られたら、困ります」と血相を変えて抗議した。それでも成瀬は平気でセリフを削って行く。成瀬はセリフを削ることで有名だった。

 監督デビュー作「恋文」の完成後、田中は次回作を模索していた。監督業に確かな手応えを感じていたからである。田中は第二作目に谷崎潤一郎の「春琴抄」の再映画化を考えていた。これは島津保次郎演出で、田中が盲目のお琴を演じて女優開眼した記念碑的な作品だった。田中はお琴の役が決まってからは、ほぼ一年間、目をつむって盲人の生き様を探り、女優田中絹代の執念を体現したかのような作品となった。田中は自分が演出するならば「私という女の目で春琴を見、女の心で春琴を描きたい」と思っていた。しかし大映伊藤大輔が一足早く再映画化してしまったので断念せざるを得なかった。
 そんな折に、思いがけなく小津安二郎から小津の脚本である「月は上りぬ」の監督をしてみないかという話が舞い込んできた。この話を小津に持ち込んだのは、「西鶴一代女」のプロデューサーだった児井英生である。児井は新しく誕生した日活で破格の待遇で迎えられていた。文芸作品もこなし、同時にヒットメーカーでもあった彼は、日活での一回目のプロデュース作品に、世間があっと驚くような話題作を見つけたかった。そこで児井プロダクションの重役だった懇意の小津に相談すると、思いがけず、田中絹代監督で「月は上りぬ」の映画化の話が持ちかけられたのである。これに応じた児井は、さらに、日本映画監督協会が資金難と聞いて、この案を日本映画監督協会企画、脚本小津安二郎、監督田中絹代として日活に提示した。
 日活はこの豪華な企画をすぐに受け入れた。話題性も十分にあるし、映画監督協会の後援があれば、出演者の問題もそれほど難しくなくなるだろうと考えていた。順調にゆくと思えた企画だったが、すぐに横ヤリが入った。昭和 28 年に日活が制作再開するにあたって、松竹、東宝大映東映、新東宝の五社が、スターやスタッフの引き抜きを禁じる五社協定を結んだのだが「月は上りぬ」が早速槍玉にあがった。日活は監督や俳優を次々に既成五社から招いたが、これを警戒した五社が、五社協定をたてにとって、日活と契約した俳優を契約違反として映画界から締め出そうとしたのである。田中絹代大映と出演契約をしていたために(ボーガス注:当時の大映社長)永田雅一から「月は上りぬ」にクレームが上がった。田中は大映と向こう 20 ヶ月間に五本の映画出演と、さらに税金の支払いのために百五十万円の金を大映から借りていた。
 また高橋貞二久我美子とすでに決定していた主演俳優のキャスティングもこじれて、マスコミから「月は上るか、上らぬか」などと大騒ぎで報じる騒ぎになった。
 久我美子は体調が悪くて出演出来なくなったとマスコミに発表したが、実際は五社協定のために出演出来なくなっていた。大映と田中の専属契約の問題は、幸いなことに小津と児井の手腕で解決された。そして新たに日活新人女優の北原三枝安井昌二、さらに脇役を豪華にということで、笠智衆*10佐野周二*11が松竹から参加した。
北原三枝インタビュー 2005 年 5 月 15 日 成城学園 石原裕次郎邸にて。
(村川)
 田中絹代さんが演出をやるということを、どんな風に感じていたのですか。
(北原)
 当時、私は23歳くらいで、どういう経過で「月は上りぬ」の出演が決まったのか、そのへんのことがわからなかったのです。
 当時田中さんは、全盛時代は終わりましたが、大先輩で、大女優でして、映画の神様の方に入っていた。それで田中さんが監督するということで女流監督第一号*12ということでしたが、私たちには女優ということよりも、神様が監督するのかな、という感覚でした。ですから田中さんがやるということは、ちっとも不思議ではなかった。当時は高峰三枝子さんが全盛で、次が岸恵子さん*13でしたが、田中さんは別格の人でした。私たちは18、19ですから足元にも及ばない若手だったんです。
  「月は上りぬ」は五社協定で出演者が二転、三転して大変だったんですけど。小津先生がいろいろご尽力下さって、私を立ててくださったと聞いています。「あの子は松竹にいたし」というような仲間意識もあったんでしようね。ヒーローとヒロインが五社協定で変わった。安井昌二さんは確か劇団から出てきた方。
 田中さんは私に演技の基礎ができていなかったから手取り、足取り教えてくれたけど、なかなか大物女優の演技指導にはついていけなかった。新人女優は何十年もやっている神様の演技には及ばなかった。逆に言えば、私がへんな芝居を身につけていなかったのが良かったかもしれない。
 小津先生はご自分のシナリオだから、ふと気が付くと、向こうでじっと見ている。小津先生がいらっしゃるんです。
 私は私で、セットに大監督がいらっしゃるということは、安心感というか、すごい温かいものが漂うようでした。ですから何もできない新人が守られているという安心感がありました。
 そういう雰囲気が最後までありましたから、演技とか何も分からず、あの映画は終わってしまいました。
(村川)
 松竹時代に小津さんとの交流はあったのでしょうか。
(北原)
 交流というより、小津先生の映画にワン・カットくらい新人として出ているんです。
 それよりも「月ヶ瀬」というところで何も知らないから、お食事など一緒の場面もあったんです。小津先生は私が松竹でデビューしていた*14ことは知っていたと思います。だから「月は上りぬ」のキャスティングになったのだと思います。作者がノーと言えば、映画はなかなか決まりませんから。

2000 年 4 月 13 日 川喜多メモリアル:斎藤武市、小津ハマ、三上真一郎
 今回は「月は上りぬ」の助監督だった斎藤武市さん*15小津安二郎について小津ハマさん、三上真一郎さんにも参加していただいた。
(斎藤)
 僕が日活に行く事が決まって、小津さんはいろいろな企画を出してきた。これをやれ、あれをやれというんです。伊藤大輔の「忠次旅日記」をやれとかね。小津さんは(ボーガス注:久我がヒロインを主演した田中監督第一作品)「恋文」を見てたのかな。節子にぴったり久我ちゃんを考えていた。小津さんがキャスティングをした久我美子高橋貞二、みんな(ボーガス注:五社協定で)ダメになった。北原三枝今村昌平*16と僕がリハーサルをやって、しごきましたから結果的に良かった。
(村川)
 田中さんの意図はどこまで出たと思いますか。
(斎藤)
 それは無理なんです。演出*17が僕と今村でしょう。それと後ろに小津さんがいる。だからどんなに意見をだしてもかないっこないということがわかっている。
 奈良のロケ、セットを小津さんに褒められた。小津映画で山門向けの庭を作った。小津映画で庭向けというのは絶対にないんです。それだけは変えようと、今村と話した。あれは人物が入れ替わったりして大変なんですけど、それも何シーンにもわたって撮ったから、褒められましてね。ああいうのは、コンテが出来てないとやれないと言われた。まさか、私がコンテを立てたと言えませんでしたけど。
 僕らが監督になっていれば、僕らに来たかもしれない。でもみんな助監督だったし、指名が難しい。田中絹代さんだと、可か不可かわからないけど、無色透明だし、小津さんは田中さんが一番いいと思ったんでしょう。僕らは正直なところ田中さんよりも小津さんの方を向いていた。
(村川の注)
 斎藤武市ら現場の助監督からは、田中監督に意地悪なくらいの厳しい批判があるが、最後に「僕は自分が後で監督になって、あの時、田中さんはやりづらかったろうなと、つくづく思った」とも述懐している。

*1:渋谷昶子 - Wikipediaによれば「『東洋の魔女』と言われた日紡貝塚バレーチームが大松博文監督のもと、東京五輪を目指した死闘の練習が主題」

*2:「岩波」の名前がつき、また1968年の創立時から岩波書店専務であった小林勇(1903~1981年)が代表取締役専務として経営に関わってきたが、岩波書店と直接の資本関係はない。1998年に倒産(岩波映画製作所 - Wikipedia参照)。

*3:ググったところ、文革当時の中国の記録映画のようです。

*4:宮城が創設した「ねむの木学園」のこと

*5:例えば1993年に日活が会社更生法の適用を申請し倒産している(日活 - Wikipedia参照)。また、松竹、東映東宝も「映画が斜陽産業化してから」は「演劇事業(松竹の歌舞伎座東宝の帝国劇場)」「テレビドラマ、アニメ事業」「不動産賃貸事業」など映画以外の事業の収益に寄るところが大きいとされる(松竹 - Wikipedia東映 - Wikipedia東宝 - Wikipedia参照)

*6:1954年公開。オードリー・ヘプバーンがアカデミー主演女優賞にノミネートされた彼女の代表作の一つ(ただし実際に受賞したのは「喝采」のグレース・ケリー)。(麗しのサブリナ - Wikipedia 参照)

*7:著書『国際映画祭への招待』(1995年、丸善ブックス)、『成瀬巳喜男演出術』(編著、1997年、ワイズ出版

*8:東宝東和創業者・川喜多長政の妻。長政死後、東宝東和社長(川喜多かしこ - Wikipedia参照)

*9:伊豆の踊子 - Wikipediaで分かりますが田中絹代以降も「吉永小百合(1963年)」「山口百恵(1974年)」などその時代のアイドル女優が何度も演じています。田中絹代は当初はそういう女優だったわけです。

*10:小生にとっては「寅さんシリーズの御前様」ですが最近の若者は知らないのでしょうね。しかし「小津脚本」で「小津映画常連の笠智衆」つうのも随分とベタです。

*11:最近の若者には「関口宏の父親」「関口知宏関口宏の息子)の祖父」の方がわかりがいいかもしれません。

*12:現在では坂根田鶴子 - Wikipediaが「日本の女性監督第一号」と認識されている。

*13:1953年~1954年にかけて主演映画『君の名は』3部作が大ヒット。松竹の看板女優となった(岸惠子 - Wikipedia参照)。

*14:NDT(日劇ダンシングチーム)に5期生として入団。1952年に退団後、松竹のニューフェイスに合格し入社。木下恵介監督映画『カルメン純情す』で本格的なデビューを果たす。1954年に、活動を再開した日活に引き抜かれる形で移籍。『狂った果実』(1956年)で後に結婚する石原裕次郎と初共演後、日活のドル箱コンビとして23作もの共演作が製作された。1960年に裕次郎と結婚し、女優を引退。裕次郎の死後は「代表取締役」の肩書で2代目社長の渡哲也とともに石原プロを支え続けてきた。2020年7月17日に、「2021年1月16日を以て、株式会社石原プロモーションの芸能事務所としての業務を終了すること」を、公式サイトなどで発表。石原プロの閉鎖後は、裕次郎の遺品管理を行う新組織「一般社団法人ISHIHARA」および、作品の版権を管理する「石原音楽出版社」の名誉会長に就任。(石原まき子 - Wikipedia参照)。

*15:1925~2011年。1959年、小林旭主演の「南国土佐を後にして」、「ギターを持った渡り鳥」が大ヒット。「渡り鳥シリーズ」としてシリーズ化され、娯楽映画監督としての地位を確立した。(齋藤武市 - Wikipedia参照)

*16:1926~2006年。1983年に『楢山節考』で、1997年に『うなぎ』でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞。(今村昌平 - Wikipedia参照)

*17:ここでいう「演出」とは助監督のこと