日本の女性映画監督でいろいろ(2021年12月26日)

 世間に知られ始めた「田中絹代が映画監督だった」と言う事実ほか(2021年12/25版) - bogus-simotukareのブログで紹介した日本の女性監督: 「女性らしい映画じゃない」 - トピックス - 日本の女性監督: Goethe-Institut Japan関係でいくつかぐぐってヒットした記事を紹介しておきます。

渋谷昶子 - Wikipedia

【News】3/19(土)開催 渋谷昶子さん追悼上映会『挑戦』『大連と私』@渋谷女性センターアイリス - neoneo web2016.3.16
 日本では女性の映画監督が珍しかった1960年代から今日まで、道を切り開きながら自分にしかできない映像を追求したドキュメンタリー映画監督・渋谷昶子(のぶこ)さんが、さる2月1日に亡くなられました。
 彼女の思いを映像で知ることで、ささやかな追悼としたいと思います。
【上映作品】
『挑戦』(1963年/33分/カラー/電通映画社)
 ディレクター:渋谷昶子 ナレーション:宇野重吉
 制作:多田忠 撮影:関口敏雄 照明:秋山清幸 音楽:池野成 効果:浅沼幸一
※1964年カンヌ映画祭 短編部門 グランプリ受賞
 「東洋の魔女」と言われた日紡貝塚バレーチームが大松博文監督のもと、東京オリンピックを目指した死闘の練習風景を撮ったドキュメンタリー。カメラ7台を駆使し、徹底的な反復練習を劇的な躍動感で捉え話題となり、カンヌ映画祭短編部門グランプリを受賞する。
『大連と私』(2013年/38分/カラー)
監督・制作:渋谷昶子
 大連に生まれ、15歳まで過ごした渋谷監督が、2012年にその地を訪れる。後の生き方に大きな影響を与えた大連の、のびのびした女学校教育。自身は無事帰国できたが、過酷な体験をした引き揚げ者たちへの申し訳ないという思いは強く、どうしても映像にしなくては、という決意のもとで制作された、渾身の遺作。
渋谷昶子(しぶや・のぶこ)監督プロフィール
 1932年大連生まれ。中学校1年の時に敗戦、帰国後は鹿児島で育つ。中央大学を中退し、スクリプターとして五所平之助山本薩夫新藤兼人今井正などの現場に参加。
 一貫してフリーの立場で、ドキュメンタリーのテレビ番組や映画を数多く手掛けた。代表作に『挑戦』(1963)『鏡のない家に光あふれー斉藤百合の生涯ー』(1996)『Kaneko(兼子)*1』(2004)など。2016年2月1日没。

東京2020への伝言:/7 女性映画監督、カンヌで最高賞 東洋の魔女、もう一つの「金」 私財投じ晩年も自主製作 | 毎日新聞2017.1.7
 飛んでくるボールに女性たちが体を投げ出し、転がったあと懸命に立ち上がる*2。半世紀前に「東洋の魔女」と呼ばれた世界最強の女子バレーボールチーム日紡貝塚大阪府貝塚市)。
 その傍らでカメラを回す女性がいた。
 主力選手たちは1964年東京五輪代表として世界を制した。彼女たちを追った記録映画「挑戦」で渋谷昶子(のぶこ)監督は同年、仏カンヌ国際映画祭短編部門で日本初のグランプリに輝いた。「東洋の魔女」に寄り添い、別の「金メダル」をとった女性を知る人は多くない。

『鏡のない家に光あふれ』
 幼い頃に全盲となった斉藤百合の、戦後亡くなるまでの生涯を追った記録映画である。      
 斉藤百合は劇団民芸所属の女優斉藤美和さんの母でもあった。                
 その斉藤美和さんを通して百合の足跡をたどるという構成である。  

 ちなみに映画『挑戦』(もちろん『東京五輪金メダルへの挑戦』の意味)は2021年12月26日現在、挑戦ー1964年カンヌ映画祭短編部門グランプリ作品 - YouTubeで視聴が出来ました。今は亡き名優「宇野重吉」の名ナレーター(?)が視聴できます。
 「広報宣伝映画なので誇張してる可能性は当然ある」でしょうが延々「鬼の大松」による「回転レシーブ」のしごきが続くのは「何だかなあ」感を個人的には感じます。
 また、2021年12月26日現在、『鏡のない家に光あふれー斉藤百合の生涯ー』(1996、57分)は鏡のない家に光りあふれー斉藤百合の生涯ー 文部省選定 - YouTubeで視聴が出来ます。なお、斉藤百合については、粟津キヨ『光に向って咲け:斎藤百合の生涯』(1986年、岩波新書)という著書があります。


時枝俊江

時枝俊江さんのデビュー作上映 直方ゆかりの記録映画作家 11月3日|【西日本新聞me】2019.10.20
 直方市市民グループが主催する「第6回殿町シネマ」が11月3日に同市山部のユメニティのおがた小ホールであり、地元ゆかりの女性記録映画作家、時枝俊江さん(1929~2012)のデビュー作品「町の政治 べんきょうするお母さん」(32分・1957年)を上映する。

日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 19「時枝俊江」から一部引用
時枝俊江(以下、時枝)
 今ならスクリプターは女の人のふつうの職業だけれども、当時スクリプターは女性の職業としては輝かしい職業だった。スチュワーデスになるか、スクリプターになるか(笑)。そういう先輩がときどき寮にきてね、私たちが憧れている女優さんの話とか、監督の話をしていたのよ。
 その頃『文化革命』という雑誌があって、新橋にあった産別会館の編集部に私はアルバイトに行っていたの。その雑誌に日本映画社(日映)のデスクがコラムを書いていて、アルバイトの私が原稿取りに行っていました。そのうち東宝の監督さんのところにも原稿取りに行くようになったの。それで争議中の東宝撮影所にも出入りしました。…東宝争議はレッドパージなんですね。
 私はサラリーマンの娘で、サラリーマン以外の世界は知らなかったから、東宝撮影所に行くとすごく自由な雰囲気があって、監督と録音技師とか撮影技師たちのつながりが強い。ほかの世界をまだ何にも知らないうちだからそういう世界にとても興味をひかれていくんですね。卒業するころになって、日映のデスクの岩佐氏壽さんにお願いして、今度は日映でアルバイトをはじめたのです。アルバイトだから何でもやらされるのだけれども、ちょっとしたドラマでウサギを使うと、そのウサギの番をしてろとかね(笑)。当時、日映は給料遅配がはじまっていたから、4月に私が入って12月にはつぶれてしまうの。
今泉文子(以下、今泉)
 時枝さんは1951年岩波映画入社ですが、岩波映画の創立はその前の年ですよね。いろんな方たちがここに集まってきて、社会的に影響力ある映画づくりをしようとしていた時ですね。
時枝
 私が学校を卒業したのが20歳だから、岩波映画入社は21歳の時ですね。小林勇さん、吉野馨治さん、小口禎三さん、そして羽仁進さん、羽田澄子さんたちがいました。私は27歳で『町の政治』(1957)という映画の監督をさせてもらったのだけど、小林さんや吉野さんには、既成の映画人は使いたくないという強い信念があって、まったく新しい映画づくりに挑戦しようと思っていたようです。小林さんは新しい映画の力、映画の役割というものを確信されていたのでしょうね。小林さんが、はじめから文化映画とか科学映画とか言わずに、単純に記録映画にしようとおっしゃっていたのは後になってよくわかる気がします。敗戦前に小林さんは出版のことで横浜事件という治安維持法に引っかけられて捕まった経験があるのです。その経験から、本や活字では検閲されて××にさせられるけれど、もっと黙っていても伝えられる…つまり検閲をされないで伝えるべきことを伝える“手段”があるのではないかと考えていたようですね。それを岩波映画の映画や岩波写真文庫の出版で実験したということがあったと思います。でもそういう草創期の雰囲気はいつまで続いたのかと今振り返ると、社屋が神保町から水道橋に移る頃までだったような気がする。
今泉
 岩波映画に私が出入りするようになった1980年代前後には、過去の伝説は伝説としてあったけれども、実態としては草創期のメンバーの多くが岩波を去り、フリーランサーが潤滑油のような役割を果たしていた時代でした。そういう実態が外部に向かって表面化するのは倒産する時なのですが、それでも一貫したよい風潮として、女性蔑視というものが社内になかったと言えると思うのです。
時枝
 私の環境において仕事の上での男女の差別はなかったですね。ひとつは岩波書店が女性編集者を旧姓のまま認めていたということがあったし、映画界はわりと自由で、もともと女性差別がなかったような気がしますね。
今泉
 次は『夜明けの国』(1967)を中心としたお話、それに『絵図に偲ぶ江戸のくらし』(1977)と『ぶんきょうゆかりの文人たち:観潮楼をめぐって』(1988)。この3つをめぐってお話していただこうと思います。最初にうかがいたいのは1967年に製作された『夜明けの国』についてです。中国の文化大革命は1966年にはじまっています。まだ日本が中国と国交回復をしていない時代に、どのような経緯であの映画を撮ることになったのでしょうか?
今泉
 それは岩波茂雄さんが中国と戦争していることを残念に思っていて、何か中国のためになることをしたいと願っていたの。戦後、中国の大学に岩波書店の出版物を全部寄贈していたということがあるんです。中国とは国交がないので、日中文化交流協会を通じて映画製作の申し入れを13年間続けてやっと実現したのです。日中文化交流協会はフランス文学者の中島健蔵先生を中心に志のある知識人たちによって、国交のない中国と文化の交流を通して関係を持続させていたのですが…。
今泉
 文化大革命を撮りに行ったのではなくて、たまたま文化大革命のはじまった時期に中国ロケが行われたという成り行きだったのですか?
時枝
 そうです。もともとは、岩波茂雄さんの志を受け継いだ小林勇さんが、長い間願っていた企画だったのです。
 文化大革命について中国共産党が声明を出したのは8月8日です。私たちが撮影のために羽田を発って香港から入国したのがちょうど8月8日でした。
今泉
 撮影の時に中国側からの規制などはありましたか?
時枝
 国境を撮らないこと。軍事施設を撮らないこと。合弁企業を撮らないこと。これは中国が外国企業に対する礼儀の問題だとして許可されませんでした。この3つ以外は「現地の人たちと相談してやってくれ」ということになっていました。ま、この3つは私の主たる関心でもなかったし「わかりました」ということになりました。でもこういうこともありましたよ。前日にロケハンをして、翌日の撮影のことを打ち合わせるでしょ。それで翌日撮影機材をもって現場にいくと、たとえば工場の機械全部に“毛沢東語録”が並んでいる。それを私が「毛沢東思想は実践の場で表現されるものだから、これは照明のじゃまになるからどけてください」、それはすごいことを言ったらしいのね(笑)。そうしたらある労働者が私の前で大泣きするんですよ。昨夜は徹夜で準備したんだって…困りました。
(以下略)

*1:ググったところ、柳兼子 - Wikipediaを取り上げた映画のようです。

*2:東洋の魔女」の代名詞と言っていい「回転レシーブ」と言う奴です。