新刊紹介:「歴史評論」2022年2月号

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
◆特集『いま、「ワシントン体制」を考える』
【前振り】
 「ワシントン体制」とは何かというと

◆1922年のワシントン会議でのワシントン海軍軍縮条約 - Wikipedia
締結から1936年の条約失効(日本が脱退した)までの期間、あるいはワシントン海軍軍縮条約と同様の軍縮条約であるロンドン海軍軍縮条約が失効(日本が脱退)した1938年までの期間

を示す言葉です。
 ワシントン海軍軍縮条約の参加国は「英米日仏伊」で、ロンドン海軍軍縮条約の参加国は「英米日」でした。つまりワシントン体制とは「英米日の協調体制」を意味しており、その終了は「英米日の対立激化」を意味していました。その結果、日本は1941年に英米相手の戦争に突入するわけです。
 なお、ワシントン会議では四か国条約(米英日仏)が締結され日英同盟が失効しました。また九か国条約(アメリカ、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国)が結ばれ、中国が日本の侵略を「九か国条約違反」として非難する根拠の一つになります。
 また、ロンドン海軍軍縮条約を巡っては

ロンドン海軍軍縮会議 - Wikipedia
 海軍内部では条約に賛成する「条約派加藤友三郎、第2次山本内閣、加藤高明、第1次若槻、濱口内閣海相を務めた財部彪、連合艦隊司令長官軍令部長を務めた谷口尚真など)」とこれに反対する「艦隊派軍令部総長を務めた伏見宮博恭王、海軍軍令部長を務めた加藤寛治など)」という対立構造が生まれた。
 艦隊派同様に条約締結に反対する野党・立憲政友会犬養毅*1鳩山一郎*2らや、伊東巳代治*3や金子堅太郎*4などの枢密顧問官は、大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾に、政府が統帥権事項である兵力量(軍政権)を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だとする、いわゆる「統帥権干犯問題」を提起した。
 濱口内閣は与党・民政党衆議院の多数を占めていたことを背景に、条約批准にこぎつけることができたが、この時に野党・立憲政友会が与党攻撃のために統帥権を持ちだしたことにより、統帥権独立を口実とした「軍部の暴走」や右翼テロが助長された。

として対立が発生、それは結果として「日本の右傾化」を助長することになります。
【前振り終わり】

軍縮下における海軍と地域社会:海軍志願兵募集活動を中心として(木村美幸*5
(内容紹介)
 ワシントン海軍軍縮条約締結(1922年)によって「海軍軍人が大幅に削減される」というイメージが広まり、海軍志願兵が減ったため、海軍は「そのようなことはない」という宣伝活動に努めたが目立った成果は得られなかった(なお、1920年のいわゆる「戦後恐慌」は1927年の昭和金融恐慌*6、1929年の昭和恐慌と比較すると、被害は小規模にとどまり、1922年時点においては、もはや海軍志願兵を増やす効果を持たなかった)。
 1927年以降、海軍志願兵が増加するが、それは「宣伝の成果」というよりも1927年の昭和金融恐慌、1929年の昭和恐慌の影響(安定した職業としての軍人志願)と見なすべきである。

【参考:1920年の戦後恐慌】

山本唯三郎 - Wikipedia
 1873~1927年。第一次世界大戦時の大戦景気で成功した「船成金」の一人。朝鮮半島で大規模な虎狩りを催して「虎大尽」とあだ名されるなど、莫大な財産を豪快に使ったエピソードで知られるが、1920年の戦後恐慌で財産のほとんどを失った。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、船舶需要の急増を見越して船舶輸送業を強化。購入あるいは傭船した20隻以上の船を欧州航路などに投入し、巨万の富を築いた。山本は大戦景気で成功した典型的な船成金であり、最盛期の資産は約4千万円と噂された。
 1920年に戦後恐慌の波が直撃し、船舶需要が激減する中で、経営は行き詰った。「池上御殿」と言われた4万7000坪の自宅を手放したのをはじめ、山本はほとんどの財産を失い、わびしい生活を送ったという。1927年(昭和2年)、胃痙攣のために自宅で急死(54歳没)。
◆エピソード
 内田信也*7(内田汽船)、山下亀三郎(山下汽船)など船成金は他にもあったが、山本の豪遊ぶりは突出しており、「捨てるようにカネを使った」という。もっとも、『瀬戸内の経済人』を記した赤井克己は、「百円札に火をつけた」とされる件も含め、「船成金神話」がすべて山本の行動とされている嫌いがある、と述べている。
◆虎大尽
 1917年(大正6年)に朝鮮半島で大規模な虎狩りを行ったことが有名である。
 虎狩り終了後、まず京城の朝鮮ホテルで、山縣伊三郎*8朝鮮総督府政務総監らを招き、虎などの獲物の試食会を行い、更に東京に到着後、帝国ホテルに清浦奎吾*9枢密院議長、寺内内閣の田健治郎*10逓信大臣、仲小路廉*11農商務大臣、渋沢栄一大倉財閥創設者・大倉喜八郎ら200余名を招き、大々的な虎肉試食会を行った。しかし肝心の虎肉はトマトケチャップでマリネにして提供されたが、試食に耐えられるものではなかったという。
 山本はこの虎狩りで世間から虎大尽と呼ばれるようになった。
 山本は朝鮮虎(アムールトラ)2頭の標本(剥製)を皇太子(後の昭和天皇)と同志社に寄付した。
◆佐竹本三十六歌仙絵巻の購入
 1917年(大正6年)、旧秋田藩主・佐竹侯爵家が手放した鎌倉時代の絵巻物『佐竹本三十六歌仙絵巻』を購入した。しかし、第一次世界大戦後の不況を受け、早くも1919年(大正8年)には売りに出されることになった。しかしあまりの高額(総額37万6000円)のために一括しての買い手がつかず、三十六歌仙一人一人が切り売りされることになった。
◆母校・同志社への寄付
 同志社大学の設立に際して、設立委員の一人となり、5000円の寄付をした(村井貞之助の1万円に次いで2位)。
 また、新図書館建設費用として8万円を寄付した(当初は6万円を寄付したが、工事費が不足したため更に追加で2万円を寄付した)。
岡山市立図書館の寄付
 1916年(大正5年)に設立が認可された岡山市立岡山図書館(現在の岡山市立中央図書館)は、山本が図書館建設資金の寄付を申し出たことから生まれた施設である。山本はその工費・施設費1万8000円を寄付した。


アメリカとワシントン体制(高光佳絵*12
(内容紹介)
 アメリカが「多国間協調体制」である「四か国条約」「九か国条約」「ワシントン海軍軍縮条約」に参加しながらも「国際連盟には参加しなかった理由」が論じられる。
 その理由は
1)「四か国条約」「九か国条約」「ワシントン海軍軍縮条約」「国際連盟」について「国際協調主義」の立場から「全て参加すべきだ」とする立場(以下、Aグループと呼ぶ)がある一方で
2)「トランプ的な米国第一主義」の立場から「米国の主権が不当に制限される」として連盟参加に反対する一方で、「四か国条約」「九か国条約」「ワシントン海軍軍縮条約」を「日本の軍事大国化、中国侵略の脅威を排除し、米国の国益に資するもの」と見なし、これらへの参加は支持する立場(以下、Bグループと呼ぶ)があったからである。
 「連盟加盟に賛成」のAグループと「反対」のBグループの政治力は拮抗していたが故に連盟への参加は実現しなかった。一方で「国際協調主義(Aグループ)」、「日本封じ込め(Bグループ)」と「賛成理由は違う」ものの、Aグループ、Bグループとも「四か国条約」「九か国条約」「ワシントン海軍軍縮条約」には賛成したため、米国はこれらには参加した。


◆中国とワシントン体制(小池求*13
(内容紹介)
 中国の希望が全て叶ったわけではないものの、ワシントン会議において、中国が目標としていた

◆「中英友好の阻害要件」である日英同盟の失効(四か国条約締結による)
◆「日本の中国に対する特殊権益」を認めた石井・ランシング協定 - Wikipediaの破棄(九か国条約締結による)
山東懸案解決に関する条約 - Wikipediaによる『日本の山東省利権』の中国への返還

が実現した。
 これは中国にとって「大きな外交的勝利」といえる。ただし、九ヵ国条約は「中国へのさらなる侵略」を否定すると言う意味では、中国にとって利益であったが「現状容認(例えば、関税自主権の否定や治外法権といった不平等条約)にとどまる」と言う意味では不利益であった。その後、中国は「九ヵ国条約」参加国と個別に「不平等条約」の是正を交渉することとなる。
 また、ワシントン会議に参加したドイツが九ヵ国条約に結局参加しなかったことについて、
1)「中国の反対だけが理由ではない」ものの、中国がドイツの参加に反対したことが不参加理由として大きかったこと
2)中国が反対理由として「九ヵ国条約は、中国に利権を持つ国が対象であり、山東省利権を失ったドイツは参加資格がない」と主張したことが指摘されている。
 2)からは中国が「現状維持にとどまる」と言う点で九ヵ国条約を手放しで評価していたわけではないことがうかがえる。


◆ワシントン体制と植民地問題:経済開発とソビエトロシア、極東共和国を中心に(浅野豊美*14
(内容紹介)
 ワシントン会議に招かれた中国政府は「いわゆる北京政府 - Wikipedia」であり孫文の広東政府ではなかった。
 そんな孫文ソ連側は政治的に接近。「孫文ヨッフェ共同宣言」(1923年)を経て1924年に第一次国共合作が成立した。
 こうしたソ連の「侵略被害国」に対する政治的働きかけは中国にとどまるものではなく、「北朝鮮金日成」「ベトナムホーチミン」をあげることができる。
 なお、一方でソ連が「欧米列強や日本」をいたずらに敵視していたわけではなく「ある種の現実主義だったこと」に注意が必要である。
1)日本の反対などで挫折したがソ連は「極東共和国(建前上は独立国だがソ連の影響が強く後にソ連に吸収される)」をワシントン会議に出席させることを目指していたこと
極東共和国を通じて、ソ連と「欧米列強、日本との関係改善」を目指していたとみられる。
2)日本と極東共和国との外交交渉である大連会議(1921年)や長春会議(1922年)
がそうした「現実主義の例」としてあげることができる。

参考

大連会議 - Wikipedia
 1921年8月26日から1922年4月16日にかけて、大連で開催された日本と極東共和国(実質はソビエト連邦)との国交協議。1917年の十月革命によるボリシェヴィキ政権樹立によって関係が途絶していた日本とロシア(=ソビエト連邦)の間の初めての本格的な外交交渉となった。
 極東共和国は、日本軍の早期シベリア撤退とソビエト連邦を含めた国交樹立を目指したが、日本側は国交樹立には否定的で極東共和国とも通商関係に留め、更にシベリアからの撤兵には尼港事件の全面解決を必要とする立場を示した。
 尼港事件の全面解決を軍撤退の前提条件とする日本側と日本軍撤退を尼港事件に関する協議及び通商協議開始の前提条件とする極東共和国側との溝は埋まらず、1922年4月15日に日本側は交渉打ち切りを表明し、翌日会議は決裂した。

長春会議 - Wikipedia
 1922年9月4日から25日にかけて、長春*15で開催された日本と極東共和国(実質はソビエト連邦)との国交協議。
 日本がソビエト政権との交渉に入ったのは1921年8月から1922年4月まで行われた大連会議である(ただし、表向きはソビエト連邦が設置した緩衝国である極東共和国との通商交渉という形を取った)。だが、尼港事件に対する謝罪と賠償を求める日本側と北樺太をはじめとする日本軍占領地域からの撤退期日の明記を求める極東共和国側との溝は大きく、会議は失敗に終わった。ただし、決裂直後の4月24日に極東共和国ヤンソン外相から高橋内閣の内田康哉*16外相に交渉再開を求める書簡を送り、内田も5月13日に同様の希望を伝えた。また、ジェノバ会議でソビエト連邦と西欧諸国が経済協力について一定の合意をみたことも日本に交渉再開を迫る一因となった(ソビエト代表としてナリマン・ナリマノフらがジェノバ会議に参加した)。
 9月に入り、長春で新たな交渉が持たれ、日本側から北樺太からの日本軍の撤退は尼港事件の全面解決後に改めて協議することが提案された。これに対して極東共和国側からは極東共和国の外交合意はソビエト連邦憲法の批准手続が無ければ無効である(裏を返せばソビエト連邦を日本が承認しない限りは合意は無効である)という見解が出され、更に尼港事件の解決如何を問わずに北樺太からの撤退期日を示すように求められた。このため、話し合いは折り合いがつかず、1ヶ月も持たずに交渉は決裂に終わった。更に日本軍が一方的に北樺太以外の全域から撤退したことを受けて10月には極東共和国ソビエト連邦への統合が行われた。
 大連・長春両会談における日本側の立場は一貫して、ソビエト連邦の国家承認先送りを図るとともに、外交交渉によって極東共和国ソビエト政権から完全に切り離して同国から独自に極東ロシア地域の経済活動の自由と漁業利権などの経済権益の保障を確保することにあった。だが、ソ連側からすればロシア本土から日本軍が撤退し、西欧諸国との外交交渉が軌道に乗り始めた現状で日本との関係改善を急ぐ必要はなくなりつつあった。このため、日本側はその外交戦略の見直しを迫られ、交渉は振り出しに戻ることになった。

日ソ基本条約 - Wikipedia
 1925年(大正14年)1月20日に日本とソビエト連邦の間で締結された国交回復のための二国間条約。長春会議決裂と日本軍撤兵にともなって、ソ連は極東地区における緩衝国として維持していた極東共和国を廃止して併合し、1923年(大正12年)より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。1925年(大正14年)1月20日に至って北京で日ソ基本条約が締結された。
◆条約調印に至る日本側の背景
 冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。例えば、敦賀港・舞鶴港を通して沿海州と貿易を行っていた関西財界は輸送網を遮断されてしまい、オホーツク海で漁業を行っていた漁師らは、ソ連の沿岸住民らの妨害にさらされた。世論にはソ連との修好回復を望む声があらわれたので、日本も国交正常化に前向きとなっていった。


◆歴史の眼『多田富雄*17新作能「望恨歌」の上演運動について』(保立道久*18
(内容紹介)
 保立氏のブログ記事紹介で代替。また、保立道久編『能楽の源流を東アジアに問う:多田富雄「望恨歌」から世阿弥以前へ』(2021年、風響社)という著書もあるとのこと。
日本と韓国の神話と民俗 20200125保立道久|保立道久の研究雑記|note
『能楽の源流を東アジアに問う――多田富雄「望恨歌」から世阿弥以前へ』(風響社、12月25日、国立能楽堂での「望恨歌」上演の時までに刊行の予定、そこに書きました。|保立道久の研究雑記|note
「望恨歌」の物語るもの 百済歌謡「井邑詞」と能「井筒」 20211225国立能楽堂 保立道久|保立道久の研究雑記|note


◆歴史の眼『歴史認識で焦点化する軍艦島:産業遺産情報センターの展示を巡って』(新海智広)
(内容紹介)
 日本政府の「強制連行否定の詭弁」について新海論文では具体的な批判(例えば日本人炭鉱労働者が「差別はなかった」と証言しても、それは「虚偽発言」や「差別を差別と認識していなかっただけ」の可能性があるので、安易に信用できないなど)がされていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

参考

「日本の軍艦島の歴史歪曲は、侵略戦争を認めることができないため」 : 政治•社会 : hankyoreh japan
 日本政府はなぜ(ボーガス注:違法、不当な朝鮮人強制連行という)軍艦島の真実を恐れるのか。第2次世界大戦時の強制動員被害者を支援する日本の市民団体「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」事務局長の新海智広さんは、「日本政府が約束を履行しない根本的な原因は、過去の『不法な』植民地支配やアジア諸国への侵略を認めることができないため」だと述べた。
 新海さんは日本の平和運動家であり、韓国や中国を行き来しながら第2次世界大戦強制動員被害者を支援してきた。民族問題研究所など韓国の平和団体とも緊密な交流を続けている。
◆インタビュアー
 産業遺産情報センターで強制動員の真実はどのように隠蔽されたのか。
◆新海氏
 朝鮮半島出身者が労働者だったという事実は認めるが、強制労働や差別はなかったというふうに歪曲している。

きょうの潮流 2021年7月29日(木)2021.7.29
 軍艦島をはじめとする世界文化遺産をめぐっても、日本政府はユネスコから「強い遺憾」を突きつけられています。朝鮮半島から徴用され、過酷な労働を強いられた人々についての説明が不十分だとして
▼負の側面も伝えると国際社会に約束しながら、光の部分だけを強調する。そんな口先だけの首相に未来へ引き継ぐ遺産を語る資格はありません。

社説:産業遺産で「遺憾」決議 負の面認め誠実な対応を | 毎日新聞2021.8.7
 世界文化遺産を巡る日本政府の対応に、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の委員会が「強い遺憾」を表明する決議を採択した。
 6年前に登録された「明治日本の産業革命遺産」だ。軍艦島として知られる長崎県端島(はしま)炭坑で戦時中に働かされた朝鮮半島出身の元徴用工に関する説明が、不十分だと批判された。
 日本政府は登録の際、「自らの意思に反して連れてこられ、厳しい環境下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいたこと」を説明すると約束していた。登録に難色を示した韓国政府の理解を得るためだった。
 遺産は、8県に散在する23の炭鉱や造船所、製鉄所などで構成される。全体像を紹介する産業遺産情報センターが昨年、東京都内に開設された。
 だが元徴用工に関しては、センターの資料室で関係法令や当時の行政文書を紹介する程度にとどまっている。
 今年6月にセンターを視察したユネスコの専門家は「強制的に働かされた人はいないと読める内容だ」と報告書で指摘した。
 ユネスコの委員会はこれまでも韓国との対話を促してきた。3回目となる今回の決議は、専門家の報告書に基づいて日本に対応を求めた。
 歴史に対して誠実であろうとするならば、負の側面も直視するのは当然だ。

軍艦島に続きまた…日本「朝鮮人強制労働」の佐渡鉱山の世界文化遺産登録を推進 | Joongang Ilbo | 中央日報2021.12.28
 日本の文化庁は28日、新潟県佐渡鉱山をユネスコ世界文化遺産への登録を目標とする国内候補に選定したと発表した。
 問題は太平洋戦争が本格化してからここが銅と鉄、亜鉛など戦争物資を生産する鉱山に変貌したことだ。当時日帝は不足した労働力を埋めるために朝鮮人労働者を佐渡鉱山に大挙動員した。記録によると佐渡鉱山で強制労働をした朝鮮人は1000人を超え、彼らは給料もまともにもらえなかった。
 日本は2015年に「明治日本の産業革命遺産」をユネスコ世界文化遺産に登録し当時の朝鮮人労働者の犠牲を意図的に隠蔽、縮小しユネスコの指摘を受けた状態だ。
 この遺産には朝鮮人5万7900人が強制動員された「軍艦島」(羽島炭鉱)、長崎造船所など7つの施設が含まれている。日本はユネスコ登録当時に強制労働犠牲者を賛える展示館などを別に作ると約束し、昨年東京に産業遺産情報センターを開館した。
 だがここでも韓国人に対する差別はなかったという証言動画など強制徴用の現実を歪曲する内容が展示されている。ここを視察したユネスコは7月に、日本が世界文化遺産に登録された時に約束した「犠牲者を賛えるための後続措置」をまともに履行していないという内容の決定文を採択したが、日本はまだ特別な措置を取らずにいる。

林外務大臣会見記録(令和4年1月7日(金曜日))
世界文化遺産(「佐渡の金山」の国内推薦候補選定)
新潟日報 横山記者】
 佐渡の金山が、先日、文化審議会から世界遺産の国内推薦候補に選ばれたことについてお伺いします。戦時中に、佐渡の金山で朝鮮人労働者が強制労働させられたとして、韓国政府から反発する声が上がっています。日本政府として、どのように対応されるのでしょうか。また、佐渡の金山での、戦時中の朝鮮人労働者の実態について、日本政府としてはどのように認識されているでしょうか。
【林外務大臣
 今、お尋ねのあった件については、文化審議会のほうで、いろいろと検討が進んでいる状況というふうに仄聞しておりますが、政府全体として、その後どうしていくのかということについては、今、検討中だというふうに承知をしております。


◆書評:黒川伊織*19『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト:1920~1970年』(2020年、有志舎)(評者:福家崇洋*20
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』有志舎,2020年を読んで(川端望*21
 日本の共産主義運動と日本共産党の歴史を,中国,朝鮮半島,日本のコミュニスト社会運動家独立運動家の交流を軸として描いた研究だ。著者によれば新たな史実の発掘に努めたのではなく,すでに明らかな事実を統合して歴史の新たな語りを提示したということであるが,こちらの不勉強ゆえに初めて知ることも多かった。
 本書は,共産党のある組織論上の論点をめぐって展開されている。コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」がとられており,したがって在日朝鮮人や在日中国人が多数日本共産党に加入していたこと,逆に日本人が日本以外の共産党に加入していたことだ。この原則は米ソの平和共存論への転換,第三世界台頭の中での内政不干渉原則の浮上を背景に解消され,日本共産党は日本人のみによって構成される政党となり,議会進出を中心に合法活動による政権獲得をめざす路線に転換していく。
 これまで,コミンテルン日本共産党への指導と援助,あるいはその名の下での支配介入のことはまあまあ常識程度に知ってはいたが,朝鮮人や中国人のの日本共産党への加入のことは,本当に形式的にしか知らなかった。『日本共産党の60年』で,戦後直後の中央委員会の構成に金天海という名前を見つけ,はてこれは誰だろうと思ったことが最初だったと思う。その後,コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」により,在日朝鮮人が多数日本共産党に加入していたこと,府中刑務所から志賀義雄,徳田球一金天海を含む政治犯が釈放されたときに出迎えに来ていたのがほとんど在日朝鮮人であったことを知り,宮崎学『不逞者*22』で金の足跡を多少たどることができた。
 大韓民国臨時政府と日本の共産主義運動の人的交流などは,これまで全く知らないことだった。これらは,今この瞬間を含む後の時代になって見れば,「光」とされることも「影」とも,果ては「闇」とされることもあるだろう。しかし,記録されるべきであり,書き落としてはならないことであると思う。その意味で,本書は大変貴重なものだと思う。

 金天海については、最近は樋口雄一*23『金天海:在日朝鮮人社会運動家の生涯』(2014年、社会評論社)などで以前よりは知られるようになってきたとは思います。

シリーズ・結党100年の中国共産党と日本(2): 言葉で日中をつないだ中国知識人の留学体験 | nippon.com(黒川伊織)
 1959年に中国・商務印書館から刊行された『日漢辞典』は、中華人民共和国初の日本語―中国語辞典として、日中国交回復までに中国国内だけで50万部以上も売れた。日本や香港でも刊行されたこの辞典の編纂にあたったのは、日本留学経験をもつ北京外貿易学院・北京大学の中国人日本語教師たちであり、非常に高い日本語の素養を身につけた人びとだった。
 編纂の中心人物が、北京外貿易学院の日本語教師・陳濤(1900-1989)である。奉天で生まれた彼は1920年に日本に留学し、26年に帰国するまで同時代の日本の社会主義運動と中国の革命運動の懸け橋となった。陳の日本留学体験と帰国後の数奇な人生から、20世紀の日本と中国の知られざるつながりをたどってみよう。
 1925年は、陳の革命家としての人生を決定づける一年となった。春には、日本国内の国民党支部を統一して中国国民党駐日総支部を組織するとともに、中華留日学生総会の主席にも就任して、政治運動と留学生運動の両方を担うこととなった。この時期の陳にとって一生忘れられない経験となったのが、多摩川の河原でのピクニックである。1925年春のある土曜日の午後、高津正道ら日本人社会主義者朝鮮人留学生、そして陳ら中国人留学生が集い、「ブルジョア階級打倒」を「叫んだ」というこのピクニックは、長く陳の記憶に留まり続けた。
 大連での陳は、1908年に創刊された日本人経営の中国語新聞『泰東日報』に職を得た。副社長兼編集長の飯河道雄が退職すると、後任編集長として政治面を担当して、同紙を事実上「共産党の宣伝道具」として部数を順調に拡大させ、これまでの赤字を解消させた。『泰東日報』を拠点に大連での党組織設立を目指した陳は、31年2月に大連の日本領事館警察に逮捕され、3年間を裁判闘争に費やした。
 35年、冀東(きとう)防共自治政府(※1)の小学校教科書の印刷・発行権を得た飯河は、東方印書館の経営に乗り出した。福島県出身の飯河は、1906年東京高等師範学校を卒業して外国人教師として清に渡り、13年まで河南省で理科・数学・美術を教えた。その後満洲に移って、中国人向けの中等教育機関である南満中学堂・旅順二中で教鞭をとったのち、『泰東日報』に移ったようだ。教育者としての経験から教科書編纂に乗り出した飯河は旧知の陳に協力を求め、華北での中国共産党の活動の便宜を図ろうとした陳もこの機会を利用した。日本の傀儡(かいらい)政権下で中国共産党員の陳が担った教科書編纂事業は、共産党の地下活動の隠れみのにもなったのだ。
 冀東防共自治政府中華民国臨時政府に合流すると、陳らの教科書編纂事業も中華民国臨時政府のもとで行われることになり、陳は北平(北京)に移った。北平では、陳達民の変名で中華民国臨時政府教育部編審会副編纂に就任し、下中弥三郎*24が経営する新民印書館での教科書編纂事業に加わっている。下中が日本内地で経営していた平凡社は、1930年代前半に『大百科事典』全28巻の刊行で大成功を収めたものの、続く出版事業が失敗して35年には破産に追い込まれていた。
 1910年代には教師として働き、教職員の運動を組織化した経験をもつ下中は、安定した収入が見込める教科書出版に目をつけて新民印書館を設立したのだ。満洲事変以降国家社会主義に転じた下中は、排日教科書の駆逐による排日思想の根絶を目指してもいた。中国共産党員でありながら官吏として傀儡政権が掲げる「新民主義」教育に従事した陳は、北京大学への法学院設置を要求するなど、中国の高等教育の発展にも尽力した。
 42年、共産党員であることが密告されて国民党に逮捕された陳は、44年まで北平監獄で過ごすことになったが、獄中で『日華辞典』の草稿を著している。この草稿は失われたが、のちの『日漢辞典』への取り組みはすでに始まっていたのだ。
 1944年10月の釈放後は北平で地下活動に復帰し、日本の敗戦後に解放区へと脱出した陳は、48年に華北人民政府に参加し、49年の建国後は商業部外貿易部長を経て高級商業幹部学校委員に就任した。ただし、陳の党生活は紆余曲折を経た。50年6月に党籍が回復されるも、52年に始まった三反運動(※2)華北人民政府時代の活動を問題視されて党籍を剥奪されたのだ。
 54年に北京外貿易学院が開校すると同校での日本語教育にあたり、56年からは『日漢辞典』の編纂に献身した。41年に再婚した妻の張京先は日本人の母を持ち、38年に奈良女子高等師範学校を卒業している。彼女も北京外貿易学院で日本語を教え、のち北京大学に転じて長く日本語教育を担った。
 66年に文化大革命が始まると、日本留学経験のある中国知識人のほとんどが紅衛兵による激しい批判にさらされる。「紅衛兵は日本の憲兵よりたちが悪い」と語ったという陳は、73歳で下放先の河南省から北京への帰還を果たし、1982年に党籍も回復された。
 81年、55年ぶりの訪日を果たした陳が誰よりも再会を望んだのは、下中弥三郎高津正道だった*251921年4月24日の日本共産党暫定中央執行委員会の成立(事実上の日本共産党の創立)に立ち会い、共産党を離れた後も左派の立場を守り、戦後は日本社会党代議士として日中・日ソ国交回復国民会議にも関わった高津は、30年代に平凡社の『大百科事典』の編纂で糊口をしのぐ日々を送ったこともあって、下中とは縁が深かった。さらに高津の長女は平凡社に勤務し、長女の夫は日中貿易に携わってもいた。
 2021年、日本共産党中国共産党はともに創立100年を迎える。日本共産党の公式見解では共産党創立記念日は1922年7月15日とされているが、(ボーガス注:1921年4月24日の日本共産党暫定中央執行委員会の成立(事実上の日本共産党の創立)共産党創立と見なすべきであり)これは1932年に獄中で裁判闘争を闘う中で戦後初期の日本共産党書記長となる徳田球一が創り出した党創立記念「神話」でしかない。日本共産党は、高津のような社会党左派の立場をとる人びとにとっても思想的原点なのであり、紆余曲折を経た日中共産党の100年間には、両共産党の公式見解に局限されないさまざまな人びとが、互いに縁を結んだのであった。
(※1) 編集部注:1935年から39年まで、中国河北省に存在した政府。
(※2) 編集部注:官僚主義汚職・浪費の「三害」に反対する国民運動

 高津正道(1893~1974年)はシリーズ・結党100年の中国共産党と日本(2): 言葉で日中をつないだ中国知識人の留学体験 | nippon.com第一次共産党 (日本) - Wikipedia高津正道 - Wikipediaに書かれていますが、「1922年に結成された日本共産党(いわゆる第1次日本共産党)創立メンバー」の一人だが、その後、共産党を離れて、戦後は社会党左派の代議士として活動した人物です。いわゆる第一次共産党創立メンバーでは戦後は社会党左派(いわゆる労農派)として活動した人物としては、第一次共産党 (日本) - Wikipediaによれば、他に浅沼稲次郎(戦後、社会党書記長、委員長を歴任)、荒畑寒村山川均(戦後、社会主義協会代表)がいます。
 また、第一次共産党 (日本) - Wikipediaによれば第一次共産党創立メンバーで右翼転向したメンツとしては

赤松克麿 - Wikipedia
 1894~1955年。1922年(大正11年)には日本共産党(第一次共産党)に加わって中央委員に就任するも、検挙され獄中転向。それ以降は寧ろ社民右派の立ち位置を取る様になり、1926年(大正15年)に社会民衆党社民党)の結党に参加し、中央委員となった。1931年に勃発した満州事変を契機に社民右派から国家社会主義へ転向し、日本国家社会党に参加。また、陸軍統制派のクーデター計画である三月事件や十月事件にも関与。戦後は公職追放となるが、追放解除後の1953年(昭和28年)に日本産業協力連盟を設立、理事長として労務管理に携わる。
近藤栄蔵 - Wikipedia
 1883~1965年。1931年に勃発した満州事変を契機に国家社会主義へ転向し、大日本国家社会党に参加。第二次世界大戦後は公職追放を経て政治活動を完全に止め、1946年には全国戦災者同盟を、1953年には社会福祉法人「春陽会」をそれぞれ設立。亡くなるまで理事長を務めるなど、もっぱら社会福祉事業で活動した。
鍋山貞親 - Wikipedia
 1901~1979年。1933年、獄中で佐野学 - Wikipediaとともに転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を出し右翼転向。1946年には塩路一郎(日産自動車労組委員長、自動車総連会長、同盟副会長など歴任)や宇佐美忠信(全繊同盟会長、同盟会長、連合副会長、日本会議代表委員など歴任)など、右派労働運動家が出入りする世界民主研究所を設立、その代表理事として反共運動を指導。1950年に結成された民主社会主義連盟では佐野と共に発起人、評議員に名を連ね、民社党、同盟のブレーンとしても活動した。

などがいます。
 是非はともかく、黒川氏が言うように「共産党」の「公式見解」において「浅沼や高津のようなメンツ(戦後は社会党に所属)」や「佐野や鍋山のようなメンツ(完全な極右)」が「第一次共産党創立メンバーであること」が「あまり語られないこと」は事実でしょう。
 第一次共産党メンバーについて言えば「社会党左派に転じた高津ら」「右翼転向した佐野ら」よりも「死ぬまで共産党員だった徳田球一や渡辺政之輔」の方が、日本共産党においては明らかに語られるわけです(徳田の場合、武装闘争路線への批判から極めて否定的な語られ方ですが)。

【参考:黒川伊織氏】

◆著書『帝国に抗する社会運動:第一次日本共産党の思想と運動』(2014年、有志舎)のアマゾン書評
朱徳
 第1次日本共産党の思想と、その後の広がりを示した初めての本格的研究書である。これまでは徳田球一の裁判証言に引きずられて、初期の不十分な運動であり、解党につながったという常識が広がっていたが、この本でこうした見方は一掃され、コミンテルンとの緊密な関係のもと、合法党建設を目指し、雑誌『改造』という合法的な大衆雑誌で一気に思想を広めた大変な運動であったことが明らかになった。当然にも32テーゼ以降の講座派対労農派から逆に前史をでっち上げるという、俗流化した、これまでの党史観に対する痛撃になっている。党史研究は現在の所、黒川伊織が群を抜いた研究成果をあげており、余人を寄せ付けていない。


◆書評:岩島史*26『つくられる〈農村女性〉:戦後日本の農村女性政策とエンパワーメントの物語』(2020年、有志舎)(評者:倉敷伸子*27
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
 なお、副題の「エンパワーメント」ですが「パワー=力」。「エンパワー=力をつける」。「エンパワーメント=力をつけること、能力開花」ですね。「エン」を頭につけることで「ホニャララする」と「名詞が動詞」になり、「メント」を後ろにつけることで「ホニャララすること」と「名詞が動詞」になる。
 「エンリッチメント=リッチにすること」「エンカレッジメント=勇気づけること」とかいろいろあります。

岩島 史(教員紹介)|教員紹介|同志社大学 政策学部
 近年、過疎化・高齢化がさけばれる農山村において、明るい話題といえば農産物直売所や女性起業によるスモールビジネスの成功、そして「農業女子」です。これまで伝統的な家族制度の犠牲者と考えられてきた農村の女性が、起業や農業での成功によってスポットライトを浴びることは、戦後日本における「女性解放」のモデルの一つともされてきました。「女性解放」というと古い言葉のようですが、「女性の活躍」やエンパワーメントと言い換えれば、農村に限らず現在の日本社会における重要課題のひとつですし、グローバルな持続可能な開発においても必ずとりあげられる課題です。
 しかし、女性の活躍やエンパワーメントをゴールに設定し、成功例をとりあげたり課題の解決をはかるだけで本当に良いのか、「女性の活躍をめざす」こと自体を問い直す必要があるのではないか、と考えたことがこの研究を始めたきっかけです。もともとはグローバルな開発問題への関心から研究をスタートさせましたが、このような問いを明らかにするために、戦後日本の農村女性政策の歴史的経験を分析することにしました。特に、1950年〜60年代に農林省(当時)が主管していた生活改善普及事業や文部省(当時)が主管していた社会教育・婦人教育を分析対象に、農村女性をエンパワーメントしようとする諸政策が、ある特定の人々を政策対象として設定することで結果的に〈農村女性〉なる集団をつくりだしていくこと、その過程で政策側が想定しない農村女性の生き方・あり方、経験は、存在しないもののようにされていくことを研究してきました。このような「女性の活躍・エンパワーメント」の物語のなかでは、過去の評価だけでなく現在や将来の解釈も単線的なストーリーに限定されてしまいます。このような農村女性政策の批判的検討をもとに、現状の延長線上とは異なるところにオルタナティブな未来を構想することは農業・農村にとってのみならず、現在の社会全体にとっても重要なことだと考えています。

*1:第1次大隈内閣文相、第2次山本、加藤高明内閣逓信相などを経て首相

*2:戦前、田中内閣書記官長、犬飼、斎藤内閣文相を歴任。戦後、日本自由党総裁、日本民主党総裁、首相、自民党総裁を歴任

*3:第二次伊藤内閣書記官長、第三次伊藤内閣農商務相など歴任

*4:第三次伊藤内閣農商務相、第四次伊藤内閣司法相など歴任

*5:福井工業高等専門学校助教

*6:東京渡辺銀行鈴木商店の経営破綻などが起こった。詳しくは昭和金融恐慌 - Wikipedia参照

*7:1880~1971年。後に政界進出。戦前、岡田内閣鉄道相、東条内閣農商相を、戦後、吉田内閣農林相を歴任

*8:1858~1927年。第一次西園寺内閣で逓信

*9:1850~1942年。第二次松方、第二次山県、第一次桂内閣司法相、枢密院議長、首相など歴任

*10:1855~1930年。寺内内閣逓信相、台湾総督、第二次山本内閣農商務相など歴任

*11:1866~1924年。第三次桂、寺内内閣で農商務相

*12:千葉大学准教授。著書『アメリカと戦間期の東アジア』(2008年、青弓社

*13:亜細亜大学専任講師。著書『20世紀初頭の清朝とドイツ』(2015年、勁草書房

*14:早稲田大学教授。著書『帝国日本の植民地法制』(2008年、名古屋大学出版会)

*15:現在、吉林省省都

*16:第二次西園寺、原、高橋、加藤友三郎、斎藤内閣で外相。通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である(内田康哉 - Wikipedia参照)。

*17:1934~2010年。東京大学名誉教授。エッセイストとして知られ、『免疫の意味論』(1993年、青土社)で大佛次郎賞、『独酌余滴』(1999年、朝日新聞社→2006年、朝日文庫)で日本エッセイスト・クラブ賞、『寡黙なる巨人』(2007年、集英社→2010年、集英社文庫)で小林秀雄賞を受賞。また新作能の作者として知られ、脳死の人を主題にした『無明の井』、朝鮮半島から強制連行された人を主題とした『望恨歌』、アインシュタイン相対性理論を主題とした『一石仙人』、広島の被爆を主題とした『原爆忌』といった作品がある(多田富雄 - Wikipedia参照)。

*18:東京大学名誉教授。著書『中世の愛と従属』(1986年、平凡社)、『平安王朝』(1996年、岩波新書)、 『物語の中世』(1998年、東京大学出版会→2013年、講談社学術文庫)、『中世の女の一生』(1999年、洋泉社)、『日本の歴史〈3〉平安時代』(1999年、岩波ジュニア新書)、『黄金国家:東アジアと平安日本』(2004年、青木書店)、『歴史学をみつめ直す:封建制概念の放棄』(2004年、校倉書房)、『義経の登場』(2004年、NHKブックス)、『かぐや姫と王権神話』(2010年、洋泉社新書y)、『歴史のなかの大地動乱:奈良・平安の地震天皇』(2012年、岩波新書)、『中世の国土高権と天皇武家』(2015年、校倉書房)など。個人サイト保立道久の研究雑記|note

*19:神戸大学協力研究員、大阪産業労働資料館(エル・ライブラリー)特別研究員。著書『帝国に抗する社会運動:第一次日本共産党の思想と運動』(2014年、有志舎)

*20:京都大学准教授。著書『戦間期日本の社会思想』(2010年、人文書院)、『日本ファシズム論争:大戦前夜の思想家たち』(2012年、河出ブックス)、『満川亀太郎』(2016年、ミネルヴァ書房日本評伝選)など

*21:東北大学教授。著書『東アジア鉄鋼業の構造とダイナミズム』(2005年、ミネルヴァ書房)など

*22:1999年、幻冬舎アウトロー文庫

*23:著書『戦時下朝鮮の農民生活誌:1939~1945』(1998年、社会評論社)、『日本の朝鮮・韓国人』(2002年、同成社)、『日本の植民地支配と朝鮮農民』(2010年、同成社)、『植民地支配下の朝鮮農民』(2020年、社会評論社)など

*24:1878~1961年。平凡社創業者。世界平和アピール七人委員会創立メンバー(下中弥三郎 - Wikipedia参照)

*25:ただし、下中は1961年に、高津は1974年に死去しているため、1981年の訪日では当然会えません。

*26:同志社大学助教

*27:四国学院大学教授