都電の話(R4.5.1): 荒木和博BLOG
5分40秒の動画です。タイトルで分かるように荒木の鉄道趣味話で拉致は関係ありません。
都電は昔は沢山ありましたが、現在では「荒川線(愛称:東京さくらトラム)」しかありません。荒木も動画内でその辺りに簡単に触れています。
参考
東京都電車 - Wikipedia
◆1963年(昭和38年)10月1日
北青山一丁目ー三宅坂間、半蔵門ー九段上間が、1964年東京五輪開催に伴う道路整備のため廃止。
◆1963年12月1日
杉並線新宿駅前ー荻窪駅前間が、営団地下鉄荻窪線と競合のため廃止。
◆1966年(昭和41年)5月29日
志村線巣鴨車庫前ー志村橋間、都営地下鉄6号線建設工事のため廃止。
◆1967年(昭和42年)12月10日
財政再建に伴う都電撤去計画に基づき、第一次都電撤去(品川駅前ー東京港口間、他12線区・都電本通線(通三丁目以南。通称:銀座線)など8系統線廃止)
◆1968年(昭和43年)2月25日、3月31日
第二次都電撤去(2月:千住四丁目ー三ノ輪橋間、他3線区、3月:数寄屋橋ー文京区役所前間、他2線区)
◆1968年9月29日
第三次都電撤去(渋谷駅前ー北青山一丁目間、他6線区)
◆1969年(昭和44年)10月25日
第四次都電撤去(泉岳寺前ー四谷三丁目間、他11線区)
◆1970年(昭和45年)3月27日
第五次都電撤去(新宿駅前ー外神田二丁目、他2線区)
◆1971年(昭和46年)3月18日
第六次都電撤去(大塚駅前ー本所一丁目、他7線区)
◆1972年(昭和47年)11月12日
第七次都電撤去(錦糸町駅前ー日本橋間、他6線区)
◆1974年(昭和49年)10月1日
残存区間の撤去計画撤回。恒久化が決定され、「荒川線」の呼称を採用。
◆1978年(昭和53年)10月1日
全車ワンマン化。
◆2017年(平成29年)4月28日
荒川線の愛称を「東京さくらトラム」に決定
都電荒川線 - Wikipedia
東京都荒川区の三ノ輪橋停留場から新宿区の早稲田停留場までを結ぶ。都電で唯一現存する路線。東京都23区内で営業を行う軌道線は、「AGTである日暮里・舎人ライナー、ゆりかもめの軌道扱い区間」を除外すると、荒川線と東急世田谷線*1のみとなっている。大部分は専用軌道となっており、自動車道路と重なる併用軌道区間は約1.7キロメートル(全区間の14%)である。併用軌道は明治通り(国道122号)上の王子駅前ー飛鳥山間と小台ー熊野前間のみで、後者は道路中央の区分された空間に軌道を敷設するセンターリザベーション方式が採用されているため、車道と区分されていないのは前者のみである。
かつて新宿ゴールデン街を疾走していた都電で「荒川線」だけが生き残ったワケ(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース
明治44(1911)年に東京鉄道は市営となり、東京市電気局(後の東京都交通局)が発足。都電の前身となる「市電」が誕生した。東京の人口約200万人だった時代に1日あたり約51万人もののべ利用者があった。
その存在感にかげりが見えだしたのは、1950年代後半。高度経済成長期に入って急速に進展したモータリゼーションが原因だった。
自動車が急増するなか、やがて「専用軌道を独占する都電は自動車の交通渋滞を引き起こす元凶」と、都の公安委員会から悪者扱いされてしまう事態に。
さらに、自動車の都電軌道内への進入規制が解除されると都電の運行は妨げられ、大きな遅延も生じるようになって利用者が激減。経営状態が赤字となり、経営再建の過程で昭和47(1972)年までに合計181kmもの路線が廃止に追い込まれてしまったのである。
ところで、次々と廃止されていった都電路線のなかで、荒川線だけが唯一今も存続している。この路線だけが生き延びたのには理由があるのだ。
実は、荒川線も他の路線同様に当初は廃止される予定であった。にもかかわらず、同路線独自の事情が助け舟となる。
大きな理由は3つ。
まず、現在の荒川線にあたる27系統と32系統の利用者数が1日10万人を超えていたこと。
次に、荒川線が走る三ノ輪橋から早稲田までの区間の9割が、道路渋滞への影響が少ない専用軌道であること。
そして3つめが、並行する道路がないためにバスによる代替輸送が困難なことである。
これらに加えて、沿線住民の要望と都電の廃止を惜しむ声が後押しとなり、昭和49年に、2系統を統一する形で永久存続が決定したのである。
車窓に映る 昭和 都電に魅せられ 本紙読者が写真集:東京新聞 TOKYO Web2021.8.2
かつて都心の路上を縫うように走っていた都電の姿を収めた写真集「想いでの都電」(東京新聞)を、本紙読者の関根敏男さん(67)=写真、茨城県牛久市=が出版した。
埼玉県立秩父高校一年だった一九六九年夏から、父に借りた「アサヒペンタックスSP」を首に下げ、片道二時間半、電車を乗り継いで都電の撮影に通い続けた。学校をサボったこともしばしばで「学校では不良扱いだった」。
初めて都電を撮ったのは王子駅(北区)。
「秩父鉄道で寄居に出てSLを撮り、大宮機関区に寄って、京浜東北線で都内に入ったら、高架から都電が見えたんだ」
何げなく降りた王子駅を行き交う都電に、関根さんは魅了される。荒川線として大部分が残った27、32系統に加え、王子と通三丁目(中央区)を結ぶ19系統の三系統が通っていた。
当時、都電を撮影する鉄道ファンはほとんどいなかったという。
「いかにも田舎から出てきた格好をした少年が立派なカメラで何撮ってるんだ、という視線を感じたよ」。
そんな視線に気おされながら撮影したのが、新宿・靖国通りの真ん中に並ぶ三車両=写真(1)。自動車が端に追いやられているように見える。撮影からほどなくして、12、13系統は廃止となる。関根さんの高校三年間は、都電が次々と廃止された時期とほぼ重なる。
そんな中で残った荒川線の、完全ワンマン化を祝って運転されたのが、写真(2)の花電車。
フィルムは全て、撮影順に保管してきた。
「高校時代の全てを撮影に懸けたと言ってもいい」。
五十年の時を経て、えりすぐりの八十六枚を集めた思い出深い一冊が出来上がった。
写真集 想いでの都電:東京新聞 TOKYO Web
都電の写真集といえば戦前や昭和20~30年代の写真が多いものですが、本書は昭和40年代の都電荒川線を中心にまとめました。
◆関根敏男
1953年、埼玉県川越市生まれ。高校在学中より機関車や都電など鉄道写真を撮ることを趣味とする。1979年、国鉄首都圏本部に入社し大宮工場中心に勤務。1985年、宇宙開発事業団(NASDA、現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA))に入社しH-2射点建設の電気系システムを担当するなど種子島宇宙センター、調布航空宇宙センター、筑波宇宙センターに勤務後、2019年に定年退職。現在はフリーカメラマンとして活躍。
*1:但し、荒川線と違い、現在、道路上を走行する併用軌道はない