「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年5/10日分:荒木和博の巻)

とりあえず拉致、あとから洗脳【調査会NEWS3602】(R4.5.10): 荒木和博BLOG
 タイトルだけで読む気が失せます(正直読む価値はないですが)。仮に「拉致の目的」の一部が「洗脳して工作員にすること」だったとしてそんなことが「荒木」の「建前上の活動目的」である拉致の解決と何の関係があるのか。何の関係もない。


国会議員のための弁明(R4.5.11): 荒木和博BLOG

 私も国会議員を批判しますし、ときには面と向かって言いますが、でも皆さん色々な分野で見えない仕事をたくさんされているのも事実です。

 5分の動画です。タイトルと説明文だけで見る気が失せます(正直見る価値はないですが)。
 そんなことが「荒木」の「建前上の活動目的」である拉致の解決と何の関係があるのか。何の関係もない。
 俺はいわゆる「橋本敦質問」を評価する人間ですが、その橋本質問だって「拉致解決」という意味では今論じることには意味はありません。勿論「元民社党職員」の「反共右翼」荒木は「橋本敦氏」を評価などしません。さすがに非難もしませんが「完全に無視する」わけです(例えば国会で、早い時点で北朝鮮拉致の可能性を指摘し政府側の答弁を引き出した橋本敦氏の死に際して、その件が必ずしも報道されていないことが拉致風化を物語る - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)。
 さて荒木が何か「具体例」を出すかと思って動画を見てみました。
 出てきた名前は柄谷道一(からたに・みちかず)、門司亮(もじ・りょう*1)と「旧民社党の政治家」の上に「拉致問題と全く関係ない」ので呆れました。
 とはいえ、柄谷氏はともかく「門司氏」は「ウィキペディア門司亮 - Wikipediaを信じれば」俺的に「それなりに」評価できそうな御仁です。つうか、そういう御仁が旧民社だと言うことが信じられませんが。
 イヤー、「Wikipediaを見るしか能がないお馬鹿さんid:kojitaken氏への嫌み:そりゃドストエフスキーは「大ロシア主義者」に決まってますよ。それが何か? - kojitakenの日記参照)」で「どーもサーセン(棒読み)」。でも「オウオウ、だってしようがないじゃない、私もバカだから」「だってしようがないじゃない、ウィキペディアは便利だから」(和田アキ子風に)。
 今回は「門司氏」という「面白そうな御仁」を荒木が紹介してくれたことについては「マジで感謝したい」と思います。
参考

柄谷道一 - Wikipediaなど参照
 1924~2001年。日東紡績労組書記長、副委員長、全繊同盟書記長、副会長などを歴任。1974年の参議院議員通常選挙で全国区から民社党公認で立候補して当選、1986年まで2期12年務めた。民社党では組織局長、総務局長、政策審議会副会長などを務めた。

門司亮 - Wikipedia参照
 1897~1993年。1934年、横浜市会議員に、1936年、神奈川県会議員に当選(当時は市会議員と兼職が可能。社会大衆党所属)。
 戦後は1945年の日本社会党結成と同時に入党。1947年の衆議院議員総選挙(神奈川県第1区)に日本社会党から出馬し当選。その後、当選を重ねるが、1972年の衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退。次の選挙から、三浦隆*2が後継出馬している。
 その間、1961年~1962年、民社党国会議員団副団長、1963年~1966年、民社党国会議員団長など歴任。
【面白エピソード】
◆浅野造船ドック労働者時代に鶴見で関東大震災(1923年)に遭遇し、朝鮮人暴動のデマに踊らされた民衆に対して身体を張ってなだめ、説得した大川常吉*3・神奈川警察署鶴見分署長を目の当たりにして、「社会運動をする上で大きな教訓になった」と述べている。
 衆議院議員時代に鶴見朝鮮学院(鶴見朝鮮初級学校の前身)開設において、土地取得保証人になった。
衆議院議員当選間もない時期に、議員パスを使ってバスに乗ったところ、みすぼらしい格好だったためにバス運転手に偽者と疑われて鶴見区上末吉駐在所(現・鶴見警察署上末吉交番)に連行されたことがある。大内啓伍*4は「満員電車で国会に通い、『ボクの顔ではグリーン車には乗せてくれないからね』とおどけておられた」と証言している。
社会党右派の河上*5派に属していたが、春日一幸*6と共に民社党結党に参加。塚本三郎*7は「『(ボーガス注:民社党初代委員長の)西尾末廣*8は好きではないが、春日君がいうなら、移るよ。』といって民社党結党に加わった。『春日君』と君付けで呼べるのは門司さんぐらいだった」と証言している。
非武装中立日韓基本条約反対、日米安保無用論、沖縄の「核抜き本土並み」を主張し、社会党張りの論調を展開して曽祢益*9と真っ向から対立。
◆1966年5月21日に鶴見区で発生した殺人事件被害者の両親が始めた犯罪被害者補償法制定運動(映画「衝動殺人・息子よ*10」のモデル)を支援し、1967年6月4日、鶴見区内で開かれた殺人犯罪撲滅推進遺族会にも参加した。なお、門司自身が横浜市会議員の門司真(1965年2月28日に食道ガンのため44歳で逝去)を含む3人の子に戦後先立たれている(すべて成人後の他界)

鶴見朝鮮初級学校 - Wikipedia
 1946年、横浜市立下野谷小学校の校舎を借りて鶴見朝鮮学院が設立される。『神奈川のなかの朝鮮』(1998年、明石書店)によれば、この際に、衆議院議員・門司亮が保証人として土地取得に協力した。

 赤字部分は「え、マジで?」ですね。なお、荒木の動画においては「当然」というべきか、赤字部分のエピソードは全く紹介されません。つうか赤字部分のような左翼的(?)エピソードを持つ御仁を、荒木が青字部分エピソード*11を理由に「清廉な人物と高評価した」のには驚きました。
 「アンチ立民」荒木のことなので「門司さんに比べて、元立民参院議員の詐欺行為は論外だ」と言い出すかと思いきやそれはありませんでした(詐欺については例えばやはりこの事件も、繰り返しの犯行の末の発覚だ(元国会議員のJR券詐取の詐欺行為) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学))。

Communio - カトリック鷺沼教会公式サイト
 先日、燦葉出版社刊行の本の中に<関東大震災時の鶴見警察署長・大川常吉の勇気>という記事を見つけました。素晴らしい話なので皆様にもお伝えしたいと思います。
 1923年9月1日に発生した関東大震災
(中略)
 デマによってあちこちで朝鮮人に対する虐殺や暴行事件が頻発し、そのとき多くの朝鮮人たちが警察に保護を求めてきました。鶴見警察署長・大川常吉はその朝鮮人たちを警察署内に保護しますが、暴徒たちがやって来て「朝鮮人たちを殺せ!」「朝鮮人に味方する警察など、叩き潰せ」と叫びます。
 今はこれまでと覚悟を決めた署長は、
「よし、君らがそれほどまでにこの大川を信頼せず、言うことを聴かないのなら、もはや是非もない。朝鮮人を殺す前にまずこの大川を殺せ」と大喝し、群衆の前に大手を広げて立ちふさがった、といいます。
 また、群衆にこうも言ったそうです。
朝鮮人が毒を投入した井戸の水を持ってこい。私が先に諸君の前で飲むから。そして異常があれば朝鮮人は諸君に引き渡す。異常がなければ私にあずけよ!」と。
 上記の大川署長の言動を身近に見ていた門司亮さんは後に衆議院議員となり、社会正義の実現に尽くしたのでした。彼は著書『私の人生』の中でこう述べています。
「人命の尊厳を知り、法と秩序を守りとおした大川常吉署長の決断と行動を身近に見て、何か社会的に大きな示唆を与えられたような気がしました。これは私がその後、社会主義者として社会運動をする上に大きな教訓となりました。」

*1:門司亮とは - コトバンクは「もじ・りょう」、門司亮 - Wikipediaは「もんじ・まこと」と呼んでいるが荒木が「もじ・りょう」と呼んでるのでここでは「もじ・りょう」表記にしました。

*2:1930~2011年。1979年の総選挙で初当選、以後 3期連続当選。1986年の総選挙で落選し、国会議員を引退。民社党では、学生対策委員長(1983年~1984年)、政策審議会副会長(1990~1992年)など歴任。議員在任中に北海道旧土人保護法から「旧土人」の表記を外すことを国会で訴えた。議員在任中に実現することはなかったが、後に同法廃止とアイヌ文化振興法制定という形で実を結んだ(三浦隆 - Wikipedia参照)。

*3:1877~1940年。鶴見警察署長、大磯警察署長、厚木警察署長など歴任。1953年、東漸寺に大川を顕彰する石碑が「在日朝鮮統一民主戦線」(朝鮮総連の前身)により建立されている(大川常吉 - Wikipedia 参照)

*4:1930~2016年。民社党政策審議会長、書記長、委員長、細川内閣厚生相など歴任。民社党解散後、自民党に入党し1996年の第41回衆議院議員総選挙には東京4区から自民党公認で立候補したが、無所属の新井将敬に敗れ落選。2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロックから自民党公認(名簿単独5位)で立候補したが、自民党の東京ブロックでの議席獲得数が4議席に留まったため、落選。政界を引退した(大内啓伍 - Wikipedia参照)。

*5:1889~1965年。右派社会党委員長、社会党書記長、委員長など歴任(河上丈太郎 - Wikipedia参照)

*6:1901~1989年。民社党国対委員長、書記長、委員長など歴任(春日一幸 - Wikipedia参照)

*7:1927~2020年。民社党書記長、委員長など歴任。1996年1月に自民党に入党し、自民党公認で1996年総選挙に愛知4区から立候補するも新進党(当時)の三沢淳に敗れて政界引退。その後は米国下院121号決議(いわゆる慰安婦決議)の全面撤回を求める抗議書に賛同者として名を連ねたり、国家基本問題研究所理事、頑張れ日本!全国行動委員会愛知県本部顧問、「明治の日推進協議会」会長などを務めるなど右翼活動に従事(塚本三郎 - Wikipedia参照)

*8:1891~1981年。社会党書記長(片山委員長時代)、片山内閣官房長官、芦田内閣副総理、民社党委員長、常任顧問など歴任(西尾末広 - Wikipedia参照)

*9:1903~1980年。民社党初代書記長(曽祢益 - Wikipedia参照)

*10:主演の若山富三郎キネマ旬報賞ブルーリボン賞毎日映画コンクール日本アカデミー賞などの主演男優賞を受賞(衝動殺人 息子よ - Wikipedia参照)

*11:ただしこれは「立派な態度」とはいえ「政治家としての実績」とは違いますが。