新刊紹介:「歴史評論」2022年8月号

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『占領とは何か:日本戦後史の出発点を問う』
◆占領管理体制から戦後体制へ:占領によって日本の法はどう変わったのか(出口雄一*1
(内容紹介)

憲法
 「ドイツを模範」から「米国を模範」にして改正。「GHQ=事実上、米国」であることが「憲法が典型的」だが日本法への「米国法の一部導入」をもたらした。
 「国民主権」「天皇象徴化」「平和主義(戦争放棄)」「政教分離国家神道の否定)」「違憲立法審査権の導入」「首長公選制(戦前は官選)」「三権分立(戦前においては行政、立法、司法の三権の上に立つ存在として天皇があった)」などが大きな変化と言える。
民法
 家族法部分における家制度の廃止など
→この改正作業に関わったことで知られるのが我妻栄(東大名誉教授)や中川善之助(金沢大名誉教授)です。
◆刑法
 不敬罪、大逆罪の廃止。一般人同様に「天皇、皇族の被害」には名誉毀損罪、殺人罪が適用されることになった。
→現行刑法では天皇、皇族に対する殺人、殺人未遂は戦前の「大逆事件(1910年、明治天皇暗殺未遂。幸徳秋水らに死刑判決。但し故意のでっち上げ、冤罪が通説)」「虎ノ門事件(1923年、摂政裕仁(後の昭和天皇)暗殺未遂。難波大助に死刑判決)」「桜田門事件(1932年、昭和天皇暗殺未遂。李奉昌*2に死刑判決)」と違い当然に死刑にはなりません。
 まあ、東アジア反日武装戦線の虹作戦(1974年、昭和天皇暗殺計画。但し、実現可能性は低かったとされる)を除けば天皇、皇族に対する殺人、殺人未遂は「戦後」存在せずほとんど考えられませんが。
◆刑訴法

といった大きな変化(その場合、多く、米国法が導入された)も勿論あったが、法改革は専ら「日本の民主化、非軍事化」に関わる部分に限定されており、戦前からの法体系(ドイツやフランスの法体系)がかなり残存したと評価できる。


◆近現代日本農業史の中の農地改革(齋藤邦明*3
(内容紹介)
 農地改革について「土地の細分化を招き、農家経営を悪化させた」として「否定的な近年の説(大規模農業を志向*4)」について「当時の農地改革を強く希望する小作人の意思」を軽視しているとして「少なくとも農地改革当時には、改革には合理性があった」としている。
 また、農地改革については、実現しなかったものの「戦前から小作人と地主の対立から農地改革的な方向性が出ていたこと」を指摘。
 「米国による改革」という面を強調する一部の論について批判を加えている。
 なお、筆者は指摘していませんが「農地改革」では「山林地主は対象外だったこと」を指摘しておきます。
 映画『大誘拐』(1991年公開、岡本喜八監督)では山林地主の老婆(北林谷栄)が主人公として登場しますが、それは山林が農地改革の対象外だったからです。


◆占領体制と戦争責任論の形成(中立悠紀*5
(内容紹介)
 日本の戦争責任論(日中戦争、太平洋戦争)が当初は「アジアへの加害責任論」よりは「無謀な戦争による国民の被害(戦死など)」を「戦争指導層(ただし東条元首相ら陸軍が専ら想定されており、天皇は除外)」に問うという「日本国民に対する戦争指導層の加害責任論(被害者責任論)」であったと論じている。
 なお、そうした「戦争指導層の無謀な戦争で被害を受けた」という感情が強かったため、日本人の多くは「東京裁判による東条*6・元首相(太平洋戦争当時の首相)、武藤*7・元陸軍省軍務局長(太平洋戦争当時の軍務局長)、板垣*8・元関東軍高級参謀(満州事変当時の高級参謀)らの死刑など」については「東條らのせいで酷い目にあったのだから当然だ」として概ね受け入れていた。靖国へのA級戦犯(東條、武藤、板垣ら)合祀が長くされなかった(1978年に靖国が強行)のも、合祀後、天皇の参拝が亡くなったこと(いわゆる富田メモなど)もそうした国民意識が反映されている。
 その意味で東京裁判を「報復裁判」とし「東條らを昭和殉難者と描き出す」靖国の認識は事実に反すると言っていい。
 なお、こうした「日本人の加害責任意識のなさ(1957年に『三光:日本人の中国における戦争犯罪の告白』(カッパ・ブックス)に関わった中帰連中国帰還者連絡会)など一部例外を除く)」は「(米ソ冷戦での)米国の日本支配方針」「中台対立」「南北朝鮮分裂」によっても助長されたと言える。
 裏返せば「米ソ冷戦がなければ」「日本の統治が米国による統治でなければ」「中台対立が存在しなければ(特に蒋介石が内戦に勝利するなど、中国の状況が米国に有利な方向となり日本に配慮する必要が低くなった場合)」「南北朝鮮が分裂しなければ(特に韓国が朝鮮半島を全面支配するなど、朝鮮半島の状況が米国に有利な方向となり日本に配慮する必要が低くなった場合)」日本の「戦争責任」についても現状とは異なった可能性がある(外国から厳しい追及を受け、加害責任をより深く感じた可能性がある)。
 米国は「アジアでの冷戦対立(共産中国や北朝鮮の誕生)」の中「日本を反共の砦」とするため、「国民の支持が強く、生かした方が政治的に使えると見なした昭和天皇」の戦争責任を問わなかったにとどまらず、「東京裁判終身刑を言い渡した賀屋興宣(第一次近衛、東条内閣蔵相)」すら、仮釈放したあげく、公職追放も解除し、政治家(池田内閣法相、自民党政調会長(池田総裁時代))として復権することを容認した。
 台湾・蒋介石政権や韓国・朴正熙政権*9は「中国や北朝鮮」との対立において日本の支援を得るために「加害責任をあまり追及しない方向」で日本に応対した(蒋介石は結局、日本への賠償請求を放棄)。
 この点は、1972年の国交樹立における中国政府も「戦争指導層には責任があるが、一般日本人は戦争被害者である(いわゆる二分論)」として変わらなかったと言える。中国政府も「中国との国交樹立(そして『一つの中国』に基づく『台湾との断交』)」を日本に促すために「加害責任をあまり追及しない方向」で日本に応対した(毛沢東中国共産党は結局、日本への賠償請求を放棄)。
 しかし、そうした「加害責任のなさ」も1972年の日中国交正常化以降

本多勝一『中国の旅』(1972年、朝日新聞社→1981年、朝日文庫)、『南京への道』(1987年、朝日新聞社→1990年、朝日文庫)、『天皇の軍隊』(1991年、朝日文庫)
森村誠一悪魔の飽食』(1983年、角川文庫)
中国帰還者連絡会『完全版・三光』(1984年、晩聲社
◆吉見義明『従軍慰安婦』(1995年、岩波新書

などによって変化していると言える。


【参考:三光】

三光 - Wikipedia
 第二次世界大戦後、中国の戦犯収容所に収容された日本人戦犯が執筆、神吉晴夫(後に光文社社長)が編集し、光文社カッパブックスから1957年に出版された戦争犯罪に関する手記。
【逸話】
 カッパ・ブックスの編集者・市川元夫は、陸軍中野学校出身で、当時鉄道弘済会広報室に勤務していた元憲兵曹長・宮崎清隆が、3・4人で来て、「戦争になればどこの国でもやる。自分も血の雨をくぐってきた。憲兵としてしかるべきことをやってきた。絶版にしろ」と神吉の前で述べた、と伝えている。また、この後にカッパ・ブックス編集長となった塩浜方美は、発売直後、千枚通しを手にした男が神吉に迫ったため、二人の間に身を入れて制したが、塩浜はその場で、文藝春秋池島信平(後に社長)に電話をいれ調停を依頼した、と伝えている。
 さらに、塩浜の説明に拠れば、その年の5月1日、メーデーのデモ行進に対して、右翼団体員がトラックで乗り付け逮捕される事件があったが、その男の自供に「光文社から資金が出た」というものがあった。当時の右翼関係者の間では、光文社は右翼側の要求を受け入れ、『三光』は増刷を取り止めたことになっていた。1960年に再び、デモ隊に右翼団体のトラックが乗り込み、光文社の社員も怪我をする事件が発生したが、その際、塩浜は、刑事から「だけど編集長さん、あのトラックの一部は、おたくの偉いさんが買ってやったようなものですよ」と説明された。1961年の嶋中事件後、塩浜は中央公論社長の嶋中鵬二から、「こんなことになったのも、『三光』事件でおたくがあまりにも弱腰だったからですよ。責任を痛感してもらわなくては」と告げられ、編集者として責任を取るため光文社を去る決心をつけた、と述べている(塩浜方美「光文社『カッパ神話』の内幕」(『創』1983年8~11月号掲載)。

【参考:A級戦犯
 以下の通り、「靖国の主張」とは異なり、日本人の多くはA級戦犯にはむしろ否定的だったわけです。

東條英機自殺未遂事件 - Wikipedia参照
 1945年(昭和20年)9月11日に、拳銃自殺を図ったが、未遂に終わった一件である。なぜ確実に死ぬ頭を狙わず、胸を撃ったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解もあるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説もある。東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の夫で近衛第一師団参謀の古賀秀正少佐(宮城事件の首謀者の一人、計画失敗後に自決)の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ったという説がある。
【戦陣訓】
 下村定*10陸軍大臣は自殺未遂前日の9月10日に、逮捕が間近とみられていた東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上(昭和天皇)のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得。戦陣訓を引き合いに出して「潔く自決したい」と主張する東條に「あれは戦場のことではありませんか」と反論して、自殺を思いとどまらせその日は別れたという。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵*11との会話の中では、「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云うことが書いてあるから、自分も当然自殺を図った」と語ったという。
【日本社会の反応】
 自殺未遂については【1】戦陣訓どおりに死ねなかった、【2】阿南惟幾*12陸軍大臣(1945年8月15日自決)、大西瀧治郎*13軍令部次長(1945年8月16日自決)、田中静壱*14第12方面軍司令官(東部軍管区司令官兼務)(1945年8月24日自決)、杉山元*15第1総軍司令官(1945年9月12日自決、東條の自殺未遂の翌日の自決)といった「自決に成功した軍人(なお、阿南、大西が切腹、田中、杉山がピストル自殺)」と違い「自決」に失敗した東條に対して「臆病者」「武士道に反する」といった悪評が起こったという。
 作家の山田風太郎は当時の日記に「『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか」「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今まで未練げに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。」と書いた。
 なお、東條に同情的な日本人もいなかったわけではない。河辺虎四郎*16・参謀次長は自決失敗を「気の毒なりと思う」と9月11日の日記に記し、世間の悪評を「(ボーガス注:真珠湾攻撃勝利の際には東條を称えたのに?)不快の極み」と評している。

号外:東條英機の自殺未遂に対する当時の国民の反響 | 戦前日本のアンティーク〜銀器・装身具・高級磁器〜
 東條英機の自殺未遂事件は1945年9月12日に各新聞に報道されました。その翌日、警視庁や京都、千葉、埼玉の各県警では、東條の自殺未遂報道についての聞き取り調査を行いました。その結果は『資料日本現代史2 敗戦直後の政治と社会』(大月書店)に掲載されています。(回答:70名程度)
 総じて見ると、いや~どれもこれも非難囂々ですね。
 主なものを挙げると、
(1)国民は、東條大将は戦争の最高責任者*17として連合軍の法廷に立って堂々と国家の正当性の主張を行うものだと思っていたのに、全く其の期待は裏切られた。
(2)米軍に踏み込まれて慌てて自決を図り、しかも失敗するとは日本の恥を世界にさらしたようなものだ。(ボーガス注:阿南惟幾陸軍大臣(1945年8月15日自決)、大西瀧治郎軍令部次長(1945年8月16日自決)、田中静壱第12方面軍司令官(東部軍管区司令官兼務)(1945年8月24日自決)のように)死ぬならそれまでにいくらでも時間はあった筈だ。時期が遅すぎた。
(3)武人ならピストルではなく(ボーガス注:阿南陸相、大西軍令部次長のように)割腹すべきだ。(注:そんな江戸時代じゃあるまいし)
(4)杉山元阿南惟幾らと違って死ぬ覚悟がなかったのだろう。だから死に切れなかったし、しかも敵軍の輸血を受けるとはなんとだらしない。
(5)大東亜戦争を起こしたのは東條大将など軍閥*18の専横的な施策の結果であって、一国の犯罪人であると同時に国内的にも犯罪人たるを免れない。
などなど、大変なことになっています。
 東條に対する非難の中で、最も気になった見解を挙げてみますと・・・
貴族院議員 三井清一郎*19
「確実なる情報によると、最近の東條大将の心境は、死ぬ事は易いが自分は大東亜戦争の責任者で戦端を開くに至った経緯真相を相手国に堂々と声明をしなければならないので今は死ねない、と言っていたとのことで、それを信じていた自分としては、今更ピストル自殺を図るくらいならその様な広言を云わず謹慎して居ればよいと思う。死とすればもっと時期があった筈だ。米国軍が逮捕に来て慌ててピストル自殺は軍人らしくない。あの儘死んでしまえばよいが蘇生することになると本当に生恥をかき、その上喋らなくてよいこと迄ぺらぺら喋って、我が国に不利になる様な事を調子に乗って喋らなければよいがと思っている。
 なんとも情けない政治家の発言。自分だって開戦時は意気揚々と東條内閣に開戦を迫ったというのに、責任感ゼロ。
 もっとひどいのは、
代議士(衆議院議員) 岡田忠彦*20
「東條大将は死損じて敵陣に拘引されその後米人の輸血を受けたので、例え蘇生しても混血児となったから駄目だ。
 本当にこんな発言をした人物が帝国議会議員だったのでしょうか。恥ずかしくて仕方がありません。
 殆どがこんな調子なのですが、中にはなるほどと思えるしっかりした見解を述べている人たちもいます
(といってもわずか数名ですが)。私もかくありたいものです。
毎日新聞記者 杉山某
「東條大将の自決は大分評判が悪い様だが、生命を取り留めて査問委員会に廻される事を望む。何故ならば、大東亜戦勃発当初の国際情勢や国内情勢を一般国民に知らしめて、今後帝国再興及国民指導の糧とすることが最も必要な事であるからだ。無智な一般国民は大東亜戦を斯様な結果に終わらせた責任は東條個人にあるかの如く言って居るが、当時の状況を多少なりとも知って居る人達は、大東亜戦勃発が当然の事実*21であった事は肯ぜられることと思う。東條としては大東亜戦に関する一切の責任は自己にありと言う信念の下に責任の全部を一心に負う決意であったことは、平常の言語、動作等よりも窺われるので、終戦の結末を付けてから後自決を覚悟して居ったものと考えられるが、矛盾した状況と連合軍の直接行動とが本人の自決を早めたものと思う。」
鳥取連隊区司令部 広吉少佐
東條大将に今となって国民が白眼視して居ることは不当である。大将は人格者で、国民生活の確保には実に尽力された事を知って居る。大将が財閥と結託して産を為したとか、豪壮な邸宅を建てたとか云って酷評する声が強かったが、何れも些細に事実を知れば根拠は薄い事が判る筈だ。大東亜戦争開戦当時は国内世論が開戦論で持ち切りであり、大将一人が開戦を独断したのではない。結果論から云っても開戦せずして今日に至ったなら現在以上に惨めな事になって居ったかもしれない*22と思う。大将も負ける為の政治をやられたのではない事は誰しも判るだろう。今になって酷評するは国民として採るべき態度ではない。

 まあ「東條に戦争責任がない」とは言いません。靖国のような「東條美化」は論外ですが、一方で「事情はどうあれ、対米開戦を容認した」自分たちを棚上げした上で、掌返しで東條をボコボコに非難するのもどうかとは思います。いずれにせよ、靖国の東條美化は「1945年当時の日本国民大多数の東條評価」とは明らかに異なっています。

戦争の有名人 その子孫たちは「いま」【第1部】東條英機 松岡洋右 廣田弘毅……「戦犯の家族」と呼ばれてその名前を恨んだこともありました(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
「私は東條英機の曾孫に当たります。祖父は英隆、父は英勝。東條家では代々、長男の名に英という字をつけるのです」
 こう語るのは現在、国際教養振興協会代表理事を務める東條英利氏(42歳)だ。
「イジメや差別ということでは、祖父や父の世代はずっと過酷だったと聞きます。祖父はどこの会社にも雇ってもらえず、祖母の内職で食いつなぐしかなく、経済的にも苦しかった。父の場合は小学校の先生が担任を引き受けたがらなくて、クラスが決まらなかったそうです。一人だけ授業が受けられず、校庭の登り棒に登って2階の教室の中を眺めていたこともあったといいます。私が30歳を過ぎて一緒に晩酌をしていたときに、突然涙を流したことがありました。そのとき幼い頃から東條英機の孫ということで背負ってきたものの重さはいかほどであったかと実感しました。父の場合も祖父と同様、なかなか勤め口が見つからず、最終的にはかつて陸軍運輸部と関係のあった西武運輸に就職しました。」
 国際連盟脱退や日独伊三国同盟に関わった外交官で、A級戦犯被告ながらも公判中に病死した松岡洋右の兄の孫にあたる松岡満寿男氏(80歳)
 満寿男氏は満州から引き揚げてきて「日本人というのは簡単に変節する民族だな」と感じた。
「戦時中は『鬼畜米英』と言っておきながら、戦争が終われば、手のひらを返したようになる。私たちも『戦犯の一族』ということで石をぶつけられるような扱いだった。」

 さすがに家族まで敵視するのはどうかと思います。

【参考:阿南と田中の自決】
 面白(?)エピソードとして紹介しておきます。

佐々木 栄一郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
 私が田中軍司令官に言われて、「阿南陸軍大将はどういう自決をされるか、聞いて来い」と言われて、「それじゃちょっと簡単な手紙を書いてください」って、それを持って陸軍省に行った。
 「自決なさるのはどういう方法ですか」って。そしたら「阿南さんはいろいろ考えたが、やっぱり腹を切るよ」とおっしゃったから、「介錯はどうなさるんですか」って。「介錯か、まぁいらないな。」っていうのは、剣道の達人だって、その人のクビ切ったりなんてないんですよ。それは大概失敗して、肩切ったりなんかしてね、痛い目に遭うんです。それは阿南大将も知っているから、「俺はやっぱり腹を切って、頸動脈を切るよ」と。あぁ、そうですかと。それで僕は帰ってその事をうちの田中大将に伝えた。そのとおり阿南さんは自分で腹切って頸動脈切って血だらけで死んだ。
 それで、うちの田中大将に「どうされますか」って言ったら、「腹切るのは痛そうだなぁ」って言って。
 「俺の拳銃どこにやったんだ」って。塚本少佐*23が「私が預かっています」って。「それを俺によこせ」って。塚本はいい返事をしなかった。「どこへいきましたか、探してきます」って。「グズグズ言わずに出せ」ってね。その前に田中大将の奥さんから、塚本少佐のところに電話が何回か来て、「主人が拳銃を欲しがっていますから、渡してやってください」って。それを塚本が「あぁだこうだ」言って渡さなかったけれど、「もうしょうがない」と思って、渡した。そうして心臓で一発で亡くなったですね。そのときは軍医だとかみんな部屋の外で待って、血だらけですよ。それで僕は翌日当時の第一生命*24の社長のところにね、「大変部屋をよごしてすみません」って謝りに言ったら、目を涙にいっぱいためてね、黙っていましたね。

「池上彰の戦争を考えるSP~こうして戦争は終わり、戦後の復興が始まった~」を見た感想 | ミュージカル7
 当時34歳、現在100歳、佐々木榮一郎
 東部軍管区司令部の田中大将の副官。陸軍主計大尉。
 東部軍管区・田中静壱大将からの命令で、阿南閣下が自決する可能性があるから、どうやって自決するのか、聞いてこいとのこと。
 佐々木榮一郎も、率直に阿南閣下に対し、「阿南閣下、自決はどういう方法でやられますか?」とストレートすぎる質問。
 陸軍大臣阿南惟幾はそれに対し、
 「作法通り十字に切って、頸動脈を切る」
 「介錯はどうしますか?」
 「そんなものはいらん。そんなうまく人の首切った奴はいないはずだ」
 「あ~そうですか」と引き返したそうです。
 また、すごい話。
 割腹自殺は大変なんですけどね。
 いかに頸動脈を切っても、苦しかったことでしょう。
 本当は介錯が必要なんですけど。
 それらの説明を東部軍管区・田中静壱大将に伝えると、
「俺も阿南閣下みたいに、腹切れりゃいいんだけど、なんだか痛そうだな」と答えたそうです。
 そして数日後、東部軍管区・田中静壱大将も自決。
 拳銃で自殺しようとして、副官の塚本に「俺の拳銃をもってこい」と命令しますが、副官の塚本は自殺することがわかっているため、「あれ?どこにいったでしょうね~?」と、おとぼけ。
 何度怒られても持ってこなかったそうです。
 しかし、軍司令官の奥さんから塚本氏のところに電話がきて、「可哀想だから拳銃を渡してやってください」と言われ、仕方なく、拳銃をもっていってあげたそうです。
 そして、数人の方に見守られながら自決したそうです。

【参考:いわゆる二分論】

中国の読者から:戦犯は、中日の人民双方への加害者
 ごく少数の軍国主義者を除き、軍隊の大部分は強制的に徴兵された人々だった。彼らは、自らの意志で中国に来て殺人や放火に手を染めたわけではない。もし選択の自由があり、洗脳されていなければ、ほとんどが家にいて平安な生活を望んだのは間違いない。
 しかし、天皇絶対主義の制度下では、彼らに選択の自由は無かった。さらに、軍国主義教育に多くの人が染まった。ひとたび戦場に行くと、自分の体も思うようにならず、命がけで目の前の道を進むしかなかった。人道主義の立場からしても、普通の兵隊は同情に値する被害者だ。罪人は、戦争を企て、戦犯と宣告された当時の日本政府の要人なのだ。
 もし、日本政府の指導者が、14人の戦犯*25を合祀した靖国神社にそれでも参拝するというのなら、(ボーガス注:戦争被害者である)日本の民衆に敵対し、さらに(ボーガス注:戦争被害者である)中国やフィリピン、ミャンマー、韓国人などに敵対する行為となる。靖国神社参拝の問題を解決する合理的な方法は、戦犯の碑を靖国神社から撤去することである。

大連で迎えた日本の敗戦(劉徳有*26・元文化部副部長)
 私は、「9・18」(いわゆる「満州事変」)のあった1931年に、日本の植民地、大連に生まれ、小学校から日本語を学ばされた。終戦になって、これからはもう二度と日本語を話さない、いやむしろ「話してやるものか」という気持ちが強かった。
 もちろん、日本軍国主義者と日本人民を分けて考えることもできなかった。身内の者が殺されたり、家を焼き払われたりした中国の大衆は、過去の日本侵略者の行為に反感を抱いていた。中国人は感情の切り替えが必要であった。私の場合、感情を最初にほぐしてくれたのは、毛沢東主席と周恩来総理だった。
 毛主席と周総理は早くから、中国の民衆に対し、広範な日本人民と一握りの軍国主義者を厳格に区別するよう、繰り返し教育した。
 1956年、北京で日本商品見本市が開かれた際、「日の丸」の掲揚が大問題となった。中国の民衆は、「『日の丸』を見ると、日本兵が村を襲って来たのを思い出す」といって、どうしても受けつけなかった。
 周総理は「中日両国人民はともに日本軍国主義が発動した侵略戦争の被害者であり、日本人民には責任がない。日本人民は中国人民と仲良くしたいと望んでいる。今、中国も日本も、もはや過去の中国や日本ではない。新しい基礎の上に両国の友好関係を図らなければならない」と諄々と言い聞かせ、商品見本市を成功へと導いた。

人民日報社説「日中関係史の新たな一章」(1972.9.30)
 日本軍国主義者の中国侵略はかつて中国人民に大きな災厄をもたらし、同時に、日本人民にも大きな災禍をもたらした。中国人民は毛主席の教えにしたがって、広範な日本人民と極少数の軍国主義分子とを厳格に区別し、日本人民のうけた戦争の災禍に深い同情の気持をいだいている。

周恩来総理と中日関係(上) 生誕110周年にあたって_人民中国2007.12.18
 中国の対日政策の中で、2つのことがとりわけ重要な意味を持っている。一つは、日本人民と日本軍国主義を厳格に区別することである。つまり、侵略戦争を起こし、中国やアジア各国の人民に巨大な災難をもたらしたのは日本軍国主義であり、日本人民もまたその被害者である、ということである。  

中国首相が「歴史の責任」に言及、戦後70年の安倍談話を牽制か(木村正人) - 個人 - Yahoo!ニュース2015.3.15
 習近平国家主席は「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」の昨年12月13日、旧日本軍の南京占領時の犠牲者を追悼する式典でこう演説している。
「少数の軍国主義者が侵略戦争を起こしたことによって、その民族を敵視すべきではない。戦争の罪と責任を背負うのは少数の軍国主義者であり、国民ではない」

程永華駐日大使,TBSラジオ番組に出演 - 中華人民共和国駐日本国大使館(2015.7.3)から一部引用
 2015年6月23日、程永華駐日大使はTBSラジオのニュース情報番組「荒川強啓デイ・キャッチ!*27」に出演し、中日関係、歴史問題、安倍首相談話、南海問題などについて司会者の質問に答えた。
程永華*28
中国の歴史問題に対する立場は明確で一貫している。われわれは、かつて日本軍国主義が起こした侵略戦争は中国人民に一大災難をもたらし、日本人民にも大きな被害を受けたと考えている。われわれは一貫して軍国主義者と一般の日本人民を区別してきた。習近平主席はこのほど、中日友好交流大会で日本人民もあの戦争の被害者であると再度強調した。

温家宝首相 日本人孤児謝恩訪中団と会見 - 中華人民共和国駐日本国大使館
 温首相は日本人孤児謝恩団に歓迎の意を表した後、次のように述べた。
 日本軍国主義が起こした中国侵略戦争は、中国人民を極めて大きな災難にあわせ、日本人民にも苦しみを与えた。この侵略戦争の責任はごく少数の日本軍国主義分子が負うべきで、日本人民も被害者である。

藤田茂「中国人民の寛大政策について」
 広州で、あるレセプションに出席いたしましたとき、その席上で広州市革命委員会の副首席の方の挨拶がありましたが、その一節で「私の故郷は河北省であります。そこでは軒並みに日本軍によって殺された人がたくさんいました。私は日中問題について長い間悩んでいました。毛沢東思想の学習と党と政府の辛抱強い指導によって、ようやく日本人民と日本軍国主義を区別することができるようになりました」と言っておられました。

靖国神社問題とは?日中友好協会全国青年委員会委員長・寺沢秀文)
 戦後、日本と中国とが国交正常化する時、日本が引き起こした戦争によって中国人民が被った被害を賠償する問題、すなわち「戦争責任賠償」が大きな問題となりました。中国人民の中でこの要求が大きい中で、多額な賠償請求をされたら日本側としては国交回復に応じることは無理という情況があり、これを懸念した中国政府首脳らが取った考え方は「あの戦争は一部の日本の軍国主義者(つまりA級戦犯)が引き起こしたもので、いわば日本の一般国民もそれによる被害者。同じ被害者である日本人民を苦しめるような賠償請求は放棄しよう」というものでした。したがって、もしも、ここで日本を代表する政治家、特には最高責任者でもある首相が、このA級戦犯が祀られている靖国神社公式参拝することは、これらA級戦犯の戦争責任をあいまいにし、彼等の名誉復活を図るものであり、一般の日本国民も彼等の被害者として納得した中国人民の心情を裏切る行為である

『靖国問題:A級戦犯分祀で歴史の刺抜け』朱建栄東洋学園大学教授(国際政治学)(朝日新聞7/5「私の視点」より)
中国政府は、中国に侵略し、多大な人命と物的損害をもたらしたあの戦争の責任はごく少数の軍国主義者だけが負うべきだとして自国民を説得し続けた。
 したがって、東条元首相ら対中侵略の首謀者たちに小泉首相が慰霊し「敬意を表する」と映ることは、中国人の感情を深く傷つけるだけでなく、現在の日本政府をごく少数の軍国主義者から区別して友好を求める、という北京指導部の国民説得論理も崩れることになる。

 赤字部分がいわゆる二分論です。日本ウヨの言う「中国共産党が国民相手に反日を扇動」云々が大嘘であることが改めてよく分かります。
 当然ながらこの中国の立場では靖国神社問題とは?『靖国問題:A級戦犯分祀で歴史の刺抜け』が指摘するように「戦犯(日本軍国主義の象徴)が合祀された靖国」に首相(中曽根、小泉、安倍)が参拝することは容認できる話ではない。


◆占領とジェンダー:モノ資料から考える(長志珠絵*29
(内容紹介)
 女性就業支援センター資料室*30の所蔵する労働省婦人少年局資料(労働省婦人少年局が意識啓発のために作成した紙芝居やパンフなど)について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


在日朝鮮人史から考える日本占領(鄭栄恒*31
(内容紹介)
 いわゆる「阪神教育闘争(1948年)」について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

阪神教育事件 - Wikipedia
 1947年(昭和22年)10月、GHQ司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の学校教育法に従わせるよう」に指令した。1948年1月24日、文部省学校局長は各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し、朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した(朝鮮学校閉鎖令)。1月27日、在日本朝鮮人連盟(朝連)は朝鮮学校閉鎖令に対し反対を表明した。
◆事件の決着
 5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、「教育基本法と学校教育法を遵守する」「私立学校の自主性の範囲の中で朝鮮人独自の教育を認め、朝鮮人学校を私立学校として認可する」との覚書が交わされた。

朝鮮学校巡る闘争を映画に「今も変わらぬ差別知って」 | 毎日新聞2019.5.12
 朝鮮学校の閉鎖を求める当局に抗議した「阪神教育闘争」(1948年)を題材にしたドキュメンタリー映画「ニジノキセキ」が神戸市などで公開される。闘争から70年以上経た今、朝鮮学校は国の高校教育無償化の対象から除外され、抗議する声が上がっている。映画では朝鮮学校で学ぶ現在の子どもたちの風景も活写されており、朴英二(パク・ヨンイ)監督(44)は「映画を機に、今も当時と変わらぬ差別があることを知って」と訴える。
 教育闘争はGHQ連合国軍総司令部支配下の1948年1月、政府が都道府県を通じて朝鮮学校の閉鎖を命じたことに対して起きた。在日コリアンらが各地で抗議運動を展開し、特に兵庫、大阪両府県で大規模な反対運動が展開された。神戸では同年4月24日、当局に閉鎖命令を撤回させたことから「4・24(朝鮮語でサイサ)阪神教育闘争」とも呼ばれる。

兵庫)71年前と今、朝鮮学校は 「教育闘争」の映画:朝日新聞デジタル2019.5.19
 71年前、在日朝鮮人による民族教育を連合国軍総司令部(GHQ)や日本政府が弾圧し、兵庫県警の記録で1700人以上が検挙された「阪神教育闘争」をテーマにしたドキュメンタリー映画が完成した。作品が問うのは「71年前といま、朝鮮学校の置かれた現状はどう変わったのか」。11~31日に神戸市中央区の元町映画館で上映される。
 タイトルは「ニジノキセキ」。上映時間は約80分で、朝鮮語の会話には日本語字幕がつく。大半を神戸市内の朝鮮学校で撮影し、ナレーションは神戸朝鮮初中級学校(神戸市中央区)の現役の女性教諭が担当した。


沖縄返還後も継続する基地支配:「復帰」50年から考える「占領」(謝花直美*32
(内容紹介)
 沖縄基地問題について基地に批判的な立場から論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


歴史科学協議会第55回大会報告『コロナ禍の中の女性労働とケアの諸問題』(蓑輪明子*33
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

コロナ危機で明らかになった新自由主義の問題点 社会保障政策の転換を | 日本自治体労働組合総連合2021.7.1
 記念講演では蓑輪明子・名城大学准教授が「ジェンダー社会保障」と題して講演。蓑輪さんは「資本主義社会では労働力の再生産とケア(社会保障)のコストを最小化するため、女性が差別・搾取される」「安倍・菅政権の女性政策は『強い国家と経済のための女性活躍』であり、労働市場社会保障新自由主義にもとづき整備される。その結果、安上がりな労働力として女性労働者や非正規雇用が増加し、低処遇や長時間労働が多い」と指摘しました。
 「ジェンダー平等のためには、女性が単身でも子育てできる賃金保障や社会サービスの整備が必要」とし、「今後、労働運動におけるジェンダー主流化は不可欠な課題で、女性に多い最低賃金水準の労働者と運動の受け皿づくりや公的社会サービス拡充の公務労働運動がカギになる」と話しました。

女性の力で政権交代 輝く社会に変えよう/はたらく女性の中央集会/ジェンダー平等・均等待遇・ハラスメント根絶・憲法いかす2021.10.26
 蓑輪明子・名城大学准教授が講演。コロナ禍で女性労働者の窮状は新自由主義がもたらしたものだと指摘。最低賃金引き上げや社会保障拡充で、ケアと就労が両立可能な仕組みをつくることが重要だと強調しました。


◆歴史の眼『文化財保全活動の地平はどこに:新型感染症蔓延下における地域史料保全有志の会の活動を通して』(白水智*34
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【一年ぶりに報告会開催します!】3月12日に! | 地域史料保全有志の会のブログ2022.2.8
 栄村での文化財保全活動、残念ながら今年度はコロナ感染拡大のために一切の活動ができず、昨年3月の文化財保全活動報告会以来何も動きがとれませんでした。
 ですが、1ヶ月後の3月12日に一年ぶりの報告会を開催することになりました。
 報告会のメインタイトルは「第1回 栄村の文化と自然報告会」。
 そう、「文化財保全活動報告会」ではないのです。今年度はまったく保全活動はできませんでしたので、「保全活動報告会」としては開催することができません。
 しかし、昨年の報告会において、震災に関わる保全活動報告以外にも、村で進められている稀少生物の調査報告が加えられて新たな関心が広がったのがヒントになり、栄村の歴史分野や自然について幅広く発表する報告会として続けていければ、との発想が生まれました。
 昨年の報告では、自然の面でも、栄村は実に貴重 な資源を豊かに維持していることが明らかになりました。
 (ボーガス注:2011年の長野県北部)震災を契機に10年にわたって開催し続けてきた文化財保全活動報告会でしたが、これからは自然も含むより広い栄村の文化をテーマに、最新の研究成果を発信する報告会として開催していきたいと考えております。

いよいよ今週土曜日、「第1回 栄村の文化と自然報告会」開催です! | 地域史料保全有志の会のブログ2022.3.9
 新型コロナの感染拡大で開催が危ぶまれましたが、長野県は蔓延防止措置が解除され、栄村の会場とオンライン(Zoom利用)の併用で予定どおり開催することになりました。
 栄村内や近隣市町村の方などは密を避け、感染に注意しながら会場にお越しいただくことができます。遠隔地の方はどうぞオンラインでご参加ください。

報告会の動画をアップしました! | 地域史料保全有志の会のブログ2022.3.14
 ぜひ参加したかったのに、どうしても都合がつかず報告を聞けなかった、という方何人かから動画アップのご希望をいただいておりました。
 そこで、今回の報告会の様子を視聴できるように、YouTubeにアップしました。

*1:桐蔭横浜大学教授。著書『戦後法制改革と占領管理体制』(2017年、慶應義塾大学出版会)

*2:1962年、李は韓国政府(朴正煕政権時代)から建国勲章大統領章(2等級)を追叙された。1992年には没後60年を記念する百ウォン切手が発行された。韓国では上海天長節爆弾事件上海派遣軍司令官・白川義則を暗殺)の尹奉吉(死刑判決。1962年、韓国政府(朴正煕政権時代)が建国勲章大統領章(1等級)を追叙)、駐中公使・有吉明暗殺未遂事件の白貞基(無期懲役で服役中に病死)とともに「独立三義士」と呼ばれる。

*3:和光大学准教授

*4:勿論、赤旗主張/「家族農業の10年」/農業再生への展望を開く年にのように「小規模農業、家族農業」を重視し、大規模化を当然視しない考えに立てば話は違ってきますが。

*5:朝鮮大学校助教授。明治大学客員研究員

*6:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任

*7:参謀本部作戦課長、中支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長兼調査部長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任

*8:関東軍高級参謀、関東軍参謀長、第一次近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任

*9:近年、韓国で『日本に対する戦争責任問題での批判』が高まってるのは「北朝鮮に対抗するために日本の支援が欲しい」という朴正熙政権時代の政治環境が崩壊したからです。韓国は世界の経済大国になり、一方、北朝鮮は貧乏国です。韓国にとって必要以上に日本に媚びる理由がない。一方、中国に政治的に追い詰められる台湾(蔡英文)は「八田與一美化」など「戦前日本を美化し、日本右翼の歓心を買い、日本右翼(元々、反共反中国ですが)を台湾支持に持って行く方向」にシフト。この結果日本ウヨの「韓国は反日だが台湾は親日」と言う物言いも生まれるようになります。

*10:戦前、第13軍司令官、西部軍司令官、北支那方面軍司令官などを、戦後、東久邇宮、幣原内閣陸軍大臣を歴任

*11:戦前、東條、小磯内閣外相。戦後、禁固7年。逆コースにより公職追放が解除され政界に復帰。改進党総裁、日本民主党副総裁(鳩山総裁)、鳩山内閣外相など歴任

*12:侍従武官、陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、陸軍航空本部長、鈴木内閣陸軍大臣を歴任

*13:第11航空艦隊参謀長、第1航空艦隊司令長官、軍令部次長など歴任

*14:関東憲兵隊司令官、第13師団長、 東部軍司令官、第14軍(フィリピン)司令官、陸軍大学校長、第12方面軍司令官(東部軍管区司令官兼務)など歴任

*15:陸軍省軍務局長、陸軍航空本部長、参謀次長、陸軍教育総監、林、第一次近衛内閣陸軍大臣、北支那方面軍司令官、参謀総長、小磯内閣陸軍大臣、第1総軍司令官など歴任

*16:参謀本部戦争指導課長、参謀本部作戦課長、防衛総司令部総参謀長、第2飛行師団長、第2航空軍司令官、陸軍航空総監部次長、参謀次長など歴任

*17:最高責任者は「大元帥昭和天皇なのですが「何ともかんとも」です。

*18:軍閥云々として「昭和天皇」の責任が免罪されてる辺りは「何だかなあ」ですね。

*19:1867~1949年。東京陸軍経理部長、陸軍経理学校長、陸軍省経理局長など歴任

*20:1878~1958年。内務官僚として埼玉県知事、長野県知事熊本県知事などを経て1923年、内務省警保局長に就任するが、虎の門事件で引責辞職。その後、衆院議員に転じ、衆院副議長、議長、鈴木内閣厚生相など歴任

*21:ハルノートを受諾すれば戦争回避できた」ので「開戦は当然」では全くありませんが昭和天皇の意思を無視して東條が「開戦」で暴走したわけではないと言う意味では「責任は東條個人にある」わけではありません。

*22:普通に考えて開戦しない方がましだったでしょう。

*23:戦後、塚本總業を創設した塚本素山のこと(塚本素山 - Wikipedia参照)

*24:当時、田中が司令官を務めた東部軍の本部が置かれていた

*25:死刑囚(板垣征四郎陸軍大臣木村兵太郎元陸軍次官、東條英機元首相(元陸軍大臣)、土肥原賢二奉天特務機関長、広田弘毅元首相(元外相)、松井石根元中支那方面軍司令官、武藤章陸軍省軍務局長)、服役中に病死(小磯国昭元首相、梅津美治郎関東軍司令官、白鳥敏夫元イタリア大使、東郷茂徳元外相、平沼騏一郎元首相)、裁判中病死(永野修身軍令部総長(元海軍大臣)、松岡洋右元外相)のこと

*26:著書『時は流れて:日中関係秘史五十年』(2002年、藤原書店)、『日本語と中国語』(2006年、講談社)、『わが人生の日本語』(2007年、日本僑報社

*27:1995年4月10日~2019年3月29日まで放送

*28:マレーシア大使、韓国大使、駐日大使など歴任

*29:神戸大学教授。著書『近代日本と国語ナショナリズム』(1998年、吉川弘文館)、『占領期・占領空間と戦争の記憶』(2013年、有志舎)

*30:但し、筆者に寄れば2022年2月28日に閉室となり、所蔵資料の散逸が危惧されてるとのこと

*31:明治学院大学教授。著書『朝鮮独立への隘路:在日朝鮮人の解放五年史』(2013年、法政大学出版局)、『忘却のための「和解」:『帝国の慰安婦』と日本の責任』(2016年、世織書房)、『歴史のなかの朝鮮籍』(2022年、以文社

*32:著書『戦場の童:沖縄戦の孤児たち』(2005年、沖縄タイムス社)、『証言・沖縄「集団自決」』(2008年、岩波新書)、『戦後沖縄と復興の「異音」: 米軍占領下・復興を求めた人々の生存と希望』(2021年、有志舎)、『沈黙の記憶1948年:砲弾の島・伊江島米軍LCT爆発事件』(2022年、インパクト出版会

*33:名城大学准教授

*34:中央学院大学教授。著書『知られざる日本:山村の語る歴史世界』(2005年、NHKブックス)、『古文書はいかに歴史を描くのか:フィールドワークがつなぐ過去と未来』(2015年、NHKブックス)、『中近世山村の生業と社会』(2018年、吉川弘文館