松本清張『遠い接近』(2022年8/15記載)

【産経抄】8月15日 - 産経ニュース

 戦後、社会派推理小説の第一人者となった清張には、戦争をテーマにした作品が少なくない。『遠い接近』もその一つである。主人公の山尾は、6人の家族を抱えて色版画工として忙しく働いていた。ある日、30歳を超えていた山尾に召集令状が届く。復員を果たしたものの、(ボーガス注:東京から広島に疎開した*1)家族は(ボーガス注:原爆で)全滅していた。中年の自分に赤紙を送った人物が生きているのを知り、復讐を誓う。
▼前半部分は、清張自身の体験と重なっている。『半生の記』によると、赤紙が指定した日に出向いた検査場で係官とこんなやり取りを交わしている。
「お前、教練にはよく出たか」。「あまり、出てない」。「ははあ、それでやられたな」。
 教練とは、各地の在郷軍人支部が入隊の経験のない男子に施していた軍事教練である。
▼「「教練に不熱心な者は(ボーガス注:報復として)戦場に引っ張り出すくらいのことは市役所の兵事係には出来たらしい」」と清張は書いている。ただ『遠い接近』執筆の直接のきっかけとなったのは、召集者の決定に関わったとされる人物の手記だった。有力者の縁者が不正に召集を免除される実例が示されていた。
ウクライナを侵略しているロシア軍の戦死者の大半は、少数民族や地方出身者だと、ロシアの独立系メディアが伝えていた。首都モスクワなど大都市圏出身のスラブ系ロシア人の犠牲が少ないことが、反戦機運が高まらない要因の一つだという。

 単なる偶然でしかないのですが映画の話ばかりでなく、戦争によって人生が根本的に変わったということも多かったのだなと改めて思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)とかぶる内容ですね。
 なお、遠い接近 - Wikipediaによれば「教練に不熱心な者は(ボーガス注:報復として)戦場に引っ張り出すくらいのことは市役所の兵事係には出来たらしい」という設定での「主人公」の「復讐*2(勿論殺害)の決意」のようです。まあ、「通常業務として召集令状を送った」だけなら恨まれる筋合いもありませんからね。なお、読まないと何とも言えませんが、「原爆投下で家族死亡」という設定は失敗ではないか。
 「自分が出征したことで家族が生活苦→餓死、自殺」などならともかく原爆投下それ自体は「召集令状を送った人物」の責任ではないし、出征しなければ主人公も恐らく、「家族と一緒に死亡していただけ」だからです。
 「俺が出征しなければ家族は死ななかった」という設定でないと読者も犯行動機に共感しづらいのではないか。それとも「出征しなければ広島に疎開しなかった」という設定なのか?

参考

遠い接近 | ハッピーエンド急行
 事前にあらすじを読んで、戦争はプロローグ程度で復讐が本筋かと思ったら全然そうではなく、前半はほぼ軍隊生活の描写一色である。そして終戦後の闇屋暮らしがしばらく続き、終盤になってやっと復讐計画が始動、推理小説らしくなる。
 なんといっても圧巻は、前半すべてを使って繰り広げられる地獄のような軍隊生活の描写だ。
 古参兵のしごきの恐ろしさ、理不尽さは筆舌に尽くしがたい。山尾の隊には安川という古参兵がいて好き放題やっている。「気合を入れてやる」と称して後輩の兵卒に暴行をふるうのだが、何の理由も必要性もなく、ただ憂さ晴らしや八つ当たりで暴力のはけ口にされる。いびられ、虐待され、侮辱され、人間の尊厳のすべてを踏みにじられる。家畜以下の扱いだ。耐えられずに自殺する兵卒も多いというが、まったく信じられないひどさである。
 安川はこうやって後輩をいびりながら、自分は仮病を使って訓練をさぼっている。安川もこれだけ山尾を虐待しておきながら、いざ山尾が看護兵になると、医者に取り入るために山尾に対してもおべっかを使い始める。愛想笑いをしながら「なあ山尾、もう気合を入れたりはしないから心配するな。あれは先輩から言われて、しかたなくやったんだ。おれとお前の仲じゃないか、水に流してくれ」などとすり寄ってくるのである。
 広島は東京より安全だなどと言われながら終戦間際に原爆で全滅してしまう悪夢的な衝撃も、当時の人々の感覚がナマで伝わってくるような凄みがある。終戦後の闇屋の仕事ぶり。本書の3/4は、赤紙をもらった男の壮絶かつ生々しいサバイバル記録として読めるし、それだけでもう十分に面白い。
 そして最後の1/4で、ようやく倒叙推理小説*3になる。緻密な犯罪計画を立てて、自分に赤紙を送ってきた男と安川に復讐*4を決行する。警察が登場する。あれだけ慎重にやったんだから大丈夫だ、と自分に言い聞かせながらも刑事が来ると不安になる。
 このパートは短いが、倒叙推理としての緊張感と丁寧な展開は見事だ。犯人の目にとって何が盲点になっているのか、最後の最後まで分からない。大丈夫なはずなのに、不安感に苛まれる。警察の言動も謎めいていて、どっちに転ぶかまったく分からない。スリル満点である。
 そんなわけで、本書は特異な戦争小説と倒叙推理が融合したような大変ユニークな小説だった。しかも傑作である。清張ファンは必読。

松本清張 『遠い接近』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧
 この作品は、端的に言い表すなら、戦争にまつわる復讐譚である。それも、自分に恣意的に教育召集をかけた区役所の兵事係長をしていた男と、軍隊で自分を徹底的に苛めた男への復讐が、殺人へと発展してゆく物語だ。平和な時代を生きてきた自分のような者には、復讐するなら無謀な戦争を始めた官僚や高等軍人を対象とすべきであろうと思えるので、このストーリー展開には違和感がある。また、殺人の実行についても、接点のない二人を別々に呼び出して三重県鈴鹿山中で偽装殺人を行うのだが、いくらそれらしく取り繕っても、二人とそれぞれに接触しているのが自分一人とあれば、露見するのは当然のような気もする。と言うわけで、読み終えての感想としては、松本清張らしくない失敗作ではないかというものであった。
 もしかしたら、著者はミステリーの体裁だけを取って、実質は戦争の悲惨さを描きたかったのかも知れない。家族は広島へ疎開し、原爆で全滅して、戦争が終って帰還したとき、信治は一人ぼっちになっていた。
 闇市での安川との再会があり、彼の軍事物資の横流しを手伝うようになりひもじい暮らしからは抜け出した信治だが、相変わらず軍隊の部下のような接し方をする安川への思いは複雑だ。安川が出版社に出資し、雑誌編集に関わるようになった信治は、召集のからくりを記事にするという名目で、かつての兵事係長であった河島佐一郎が自分に赤紙を回したことを確認する。彼はようやく復讐の具体的な相手を特定できたのだ。
 このあたりから物語は信治の殺人への計画や下調べへと一変し、彼としては周到な下準備も着々と手を打ってゆく。信治としては、河島が安川を殺害し、その後自殺するというストーリーを描いて、辻褄を合せるための小道具なども用意してゆくのだ。しかし、それは客観的に見れば疎漏があり、完全犯罪とはゆきそうにないのは、前述の通りである。
 前半は戦争と軍隊の陰湿な描写が続き、それが信治の復讐心を培養してもゆくのだが、必ずしも楽しい読書とは言えない。後半の半分は終戦後の混乱が繰り返し描かれるのだが、正直者が馬鹿を見るという部分もあって、それが歴史の一画であるとしても、読むのが辛い。そして、最後、全体の4分の1ほどが信治の殺人計画とその実行であるが、これも「大丈夫かしら?」という心配が先立ち、ワクワク感とは程遠かった。
 松本清張の作品は、途中からグイグイ引っ張られるような感じをしばしば抱くのだが、この『遠い接近』に関しては、少なからず醒めた感覚で読み進めたような気がする。失敗作とは言い過ぎかも知れないが、物足りなさが残ったのは隠しようもない。

松本清張の「遠い接近」 - 邦画ブラボー
 男は恐ろしい執念で赤紙発令に携わった役人(下元勉)を探し出す。
 完全犯罪をもくろんで遂に復讐を遂げるのだが。
 中条静夫がいかにも辣腕刑事らしく理路整然と小林を追い詰めていく過程に緊張感がありました。

土曜ドラマ 『松本清張シリーズ 遠い接近』 (1975年) | NHK放送史(動画・記事)
 戦争によって人生と家族を奪われた男が、終戦後、自分の召集が兵事係の工作によるものだったことを知り、復讐の炎を燃やす。戦争が生んだ怨念を描いた話題作。
 主人公の山尾は、理不尽なからくりで50代の自分に召集令状が届き、その結果、人生と家族を失った。そのからくりに真っ向から迫り、うらみを晴らすための殺人計画を練るというもの。この物語は、原作の松本清張さんの実体験が込められているという。
【俳優・松本清張の誕生!】
 土曜ドラマ松本清張シリーズ」全作品に脇役で自ら出演した松本清張さん。記念すべき第一作が『遠い接近』の洋モク(外国たばこ)売りだった。ヤミ市で出会った山尾に火を付けてやるという芝居(?)もあった。
 当初は、群衆の中にさりげなくまぎれるということを考えていたという。「ヒッチコックみたいにね。後から、あそこに出ていたのがそうだったのかという目立たない演出でやろうって言ったんだよ。それが脚本の段階でヤミ市の洋モク売りになったわけだよ。それからエスカレートしてね。あれ出ろ、これ出ろと、あなたの説得力には負けちゃう」とは、当時、和田勉チーフ・ディレクターとの対談で清張さんが語った言葉だ。(グラフNHKより)
 以来、4年にわたる松本清張シリーズ全作品に出演して話題を集めた。
【コラム】
 昭和17年。印刷版画工の山尾(小林桂樹)は肺を患ったことがあり、3か月間の教育召集として軍に入る。安川*5荒井注*6)による暴力的ないじめに耐える山尾だったが、突然、赤紙による本召集となり、転属させられてしまう。そして昭和20年、山尾の両親と妻子*7疎開先の広島で原爆により死亡。なぜ病歴のある自分に赤紙が来たのか。そこには有力者が役所の係*8を買収して、召集を免れる不正があった。山尾は自分と家族の運命を狂わせた者たちに復讐を誓う。
 多くの国民を悲劇に巻き込んだ赤紙の発行経緯がこんなにでたらめだったのかと衝撃を受ける。

*1:田舎の広島の方が安全という判断だったのでしょうが裏目に出たわけです。

*2:清張作品には『砂の器』『ゼロの焦点』のような保身のための殺人もありますが、一方でこのような恨みによる犯行もあります。

*3:この辺り「犯行動機となった事件の描写」であり「犯行そのものではない部分」に3/4も使ってることは人によっては「面白くない」になるでしょう。

*4:勿論、殺害

*5:ということで役所の係だけでなく「安川」も恨みから殺害されます。

*6:1974年にドリフターズを脱退し、このドラマの放送された1975年には俳優に転身していました。

*7:遠い接近 - Wikipediaによれば父を笠智衆が、妻を吉行和子が演じた。

*8:遠い接近 - Wikipediaによれば下元勉が演じた。