高世仁に悪口する(2022年9/7日分)

ウクライナはなぜ降伏しないのか - 高世仁のジャーナルな日々

 9月2日、(中略)在日ウクライナ人の話を聴く機会があった。片岡ソフィヤさん*1の講演で、演題は「なぜウクライナに『降伏する』という選択肢はないのか」。

 高世も片岡氏もやれやれです。
 「早期の停戦主張」ならまだしも、「ウクライナは降伏すべき」なんて人間は「一部の親ロシア派」を除いてほとんどいないでしょう。
 そして「朝鮮戦争の停戦(終戦条約が結ばれていない現状は『建前では停戦状態で、38度線も国境ではなく停戦ライン*2』)」でわかるように「停戦は降伏ではない」。韓国も北朝鮮も勿論「降伏したわけではない」。
 つうか、ウクライナ人とはいえ、戦地「ウクライナ」ならともかく、安全地帯・日本に住む人間(片岡氏)が「徹底抗戦論」を宣伝するのは道徳的にいかがなものか。偉そうなことを抜かすなら、彼女は「死の危険があっても」ウクライナへ向かうべき*3でしょう。俺の価値観では、はっきり言って彼女は「ただの卑怯者」です。彼女には「卑怯者は黙ってろ」と言いたい。高世等、「こんな卑怯者の講演」をありがたがって聞ける人間の気が知れません。俺が彼女の立場ならここまで脳天気に「徹底抗戦論」を安全地帯から放言することには躊躇するでしょう。
 俺が「彼女の立場」なら「戦ってロシア軍を撤退させられるなら、ウクライナ人としてそうしてほしいが停戦を否定しない」「日本という安全地帯から徹底抗戦論は言えない」というでしょう。まあこういうことを書くとid:kojitakenには「ロシア擁護」認定されるようですが。

 ソフィヤさんは、ロシア侵攻で始まった今回の戦争について、日本で次のような意見を耳にしたと言う。
〇戦争をする両者が悪い*4
〇戦って死ぬより生きている方が良い
〇一般市民の命を救うために、ウクライナは戦いをやめるべき

〇大統領はウクライナ国民を闘わせるべきではない*5
 日本で聞かれるこうした声は、ウクライナについての「誤解」から来るものだとソフィヤさんは言う。

 赤字部分は「ロシア軍撤退」の見通しが「長期」ではともかく「短期」ではどう見ても全くない以上一理ある考えではないのか。いずれにせよ「価値観の問題」であって「誤解」と言う話ではない。
 というか〇戦って死ぬより生きている方が良いは「今現在、ウクライナで戦争してるウクライナ人」ですら多くの人間は「建前では非難しない」でしょうに。あくまでも〇戦って死ぬより生きている方が良いが「領土回復、ロシア軍撤退のためにやむを得ず、仕方なくあえて戦ってる(必要悪)」と言う話でしょうに。
 勿論「領土が回復しなくてもいい、とにかく戦争を終わらせよう」と言う価値観に立てば話は変わってきます。徹底抗戦論はそういう意味で「唯一の正しい結論」では全くない。まあこういうことを書くとid:kojitakenには「ロシア擁護」認定(以下略)。

 まずはウクライナとロシアが『兄弟国家』だという誤解。

 「何だかなあ」ですね。
 『兄弟国家』なら「侵攻していいわけではない」し「何をもって兄弟国家と見なすのか」というややこしい問題もあるので、ウクライナ戦争においてそういうことを論じることにどれほど意味があるのか?
 『兄弟国家なら侵攻していいのか?(いや、良くない)』で終わる話でしょう。というかむしろ『兄弟国家なら侵攻すべきではない。話し合いで解決すべきだ。兄弟とはそういう関係であるべきではないのか?(ロシア批判)』とも言えるわけです。
 またコメント欄で指摘があるように「兄弟国家」どころか「同一民族、国民」による

南北戦争(1861~1865年、米国:北部VS南部)
戊辰戦争(1868~1869年、日本:幕府VS明治新政府
◆ロシア内戦(1918~1922年、ロシア:赤軍VS白軍)
国共内戦(一番広い期間だと1927年(第一次国共合作崩壊)~1949年(中華人民共和国建国)、中国:国民党VS共産党
◆スペイン内戦(1936~1939年:フランコ派VS共和派)
朝鮮戦争(1950~1953年、南北朝鮮)
ベトナム戦争(1955~1975年、南北ベトナム

等といった戦争すらある。
 それとも「兄弟国家だから停戦すべきだ」という主張への「徹底抗戦派」としての批判か?。俺の知る限りそんな主張は聞いたことがありませんが。
 いずれにせよ「停戦論のメインの理由」は「戦争が既に半年に及び犠牲が大きいから」でしょう。「兄弟国家だから」ではない。

 ウクライナの文化がロシアに取り込まれた例としてソフィヤさんが挙げたいくつかを紹介すると―赤いスープのボルシチ*6、コサックダンス、民話の『おおきなかぶ*7』などなど。

 「ロシアが無理矢理取り込んだ」と言いたげな片山氏と高世ですが「平和的に取り込まれたわけではない」とする何の根拠も示されてないので、評価は保留します。
 一般論として「隣国の文化」が「平和的な形」で他国に取り込まれることは何ら不思議ではないし勿論「悪いことでもない」。
 例えば日本も「朝鮮半島経由」あるいは「中国から直接」、漢字、儒教、仏教(仏教は元々はインド文化ですが)などの外国文化を吸収し、日本化した。あるいは「天ぷら(元々は戦国時代に南蛮人から伝わった調理法とされる)」「カレーライス(インド)」「札幌味噌ラーメン、博多豚骨ラーメンなどのご当地ラーメン(中国)」なども「外国文化の吸収→日本化」の一例です。
 また、これは「高級な文化だから取り込まれた、野蛮な文化が高尚になった」などとして「取り込まれた方が威張る話」でもなければ、逆に取り込んだ側が「取り込んで、あいつの文化を俺が箔付けしてやった」と威張る話でもない。単なる事実の話でしかない。

 ウクライナ語とロシア語は、英語とオランダ語ほどの違いがあり、完全に別言語だ。

 「英語と日本語」ならともかく、「オランダ語」など知らないので、分かりづらいたとえで苦笑しました。まあ「大阪弁と九州弁(同じ日本)」のような「方言の違いとは違う」程度の意味でしょうが。

 民族のアイデンティティの問題は、おそらく日本人にとって理解が難しいことの一つだ。

と書く高世ですが

◆「フジヤマのトビウオ古橋廣之進)の活躍(1949年にロサンゼルスで行われた全米選手権で世界新記録を樹立)」「湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞(1949年)」「力道山*8の海外レスラーへの勝利」が敗戦下の日本人に勇気を与えた(日本の独立回復は1952年)
◆現在でも『メジャーリーグで活躍する大谷』『日本人によるノーベル賞受賞(一番最近だと2021年ノーベル物理学賞受賞の眞鍋淑郎・プリンストン大学上席研究員)』など『海外での日本人の活躍(あるいは海外からの日本人高評価)』を日本の誇りとして自慢したがる

などの話を考えてもそんなことはないでしょう。
 但し「日本による台湾、朝鮮植民地支配での、あるいはアイヌ民族支配での同化教育」という「日本が他民族のアイデンティティを踏みにじった問題」については「日本が悪くないと言いたい感情論」「そうした感情論によって日本の加害責任について無反省な自民党政府やマスコミ」によって「理解が難しい問題」かもしれません。
 それにしても高世記事に寄れば

 (ボーガス注:ロシア帝国ウクライナをロシア領として支配した時代に)ウクライナ人作家のゴーゴリ*9ウクライナ語で彼の名前はホーホリと発音するそうだ)はロシア語でしか書くことができなかったため、ロシア文学の中に位置づけられている。

と言う話をしながら、片岡氏が講演で「日本による台湾、朝鮮植民地支配での、あるいはアイヌ民族支配での同化教育」に触れなかったらしいのが全く興味深い。
 「高世を含む日本人の多くはそういう話を嫌う(ロシアを一方的に非難して自分を正義の立場に置きたい)」という片岡氏の認識なのでしょうし残念ながら「高世を含む日本人の多くはその通り」なのでしょうが。まあ「日本人の俺」だって正直「愉快な話ではない」ですが「自国の過去を棚上げして、ロシアの過去のウクライナ支配を批判する」ような恥ずかしいことはしたくないので「ごく簡単にですが」触れてみました。
 そして高世もこんな記事を書くのなら「朝鮮学校無償化除外支持」を撤回したらどうなのか。
 「在日朝鮮人の民族的アイデンティティ」を踏みにじることに加担しながら、高世もよくもこんな記事が書けたもんです。高世には「恥を知れ」と言いたい。
 なお、以上の文章は高世記事に投稿しましたがどうせ掲載拒否でしょう。高世も呆れたバカです。
 なお「ウクライナ人作家ゴーゴリウクライナ語で書くことを禁じられた(片岡氏や高世)」云々ですが、ググったところ

ロシア文学とウクライナ(中村唯史) | 『ウクライナを知るための65章』特別公開 | webあかし*10
 ウクライナロシア文学の重要なトポスとなり、多くの作品の舞台となったのは、19世紀前半のことだ。その際に活躍したオレスト・ソモフ*11(1793~1833)とニコライ・ゴーゴリ(1809~52)は、どちらもウクライナの小地主階級出身である。
(中略)
 (ボーガス注:しかし)ソモフやゴーゴリには、自分がウクライナ民族であるという認識は希薄だった。17世紀を舞台にザポロージェ*12・コサックのポーランド*13との闘争を描いたゴーゴリ歴史小説『タラス・ブーリバ*14』(1835)では、コサックたちはくり返し「わがロシアの国土」と口にし、自分たちに「ロシア人の感情」が漲っていることを誇る。
 ただしこのような「ウクライナ性」の希薄さは、あくまでも(ボーガス注:ゴーゴリのように)ロシア語で書くことを選択*15した作家について言えることだ。タラス・シェフチェンコ*16(1814~61)やニコライ(ミコーラ)・コストマーロフ(1817~85)のようにウクライナ人意識を持ち、ウクライナ語で執筆する者が、この時期に現れてきたことも忘れてはならない。
もっとも、近代ウクライナ文学の黎明を担った彼らはバイリンガル作家であり、ロシア語による著作も少なくなかった。

との指摘があり、ウクライナ人作家ゴーゴリはロシア語でしか書くことができなかったと言う指摘(片岡氏や高世)が正しいかどうかは不明です。
 そもそも「ウクライナ国家否定」としか思えない「プーチンの主張」は無茶苦茶ですが

ロシア文学とウクライナ(中村唯史) | 『ウクライナを知るための65章』特別公開 | webあかし
 文学におけるロシアとウクライナとの関係史を語ることには、一定の困難が伴う。その理由のひとつは、両者が過去において、いつも明確に分かれて存在していたわけではないこと*17だ。例えば『原初年代記*18』(12世紀初)や『イーゴリ軍記*19』(1187年頃)がロシア文学ウクライナ文学かを、現代の視点から遡及的に問うことには意味がない。当時はまだ両民族は分離しておらず、「ルーシの民」という意識が優越していたからだ。
 広義の文学においてロシアとウクライナの「関係」を論じることができるのは、17世紀からと言われている。この時期、キエフを中心とする地域とモスクワを中心とする地域の文芸の間に、明らかな相違が認められるようになったからだ。きっかけとなったのは、キエフ神学校でのラテン語教育の導入である。これを契機として、主にポーランド経由で西欧の文化がキエフ流入し、それが後にモスクワに影響を及ぼすルートが生まれた。
(中略)
 多民族・多言語文化を理念としていたソ連では、その後はロシア語作家とウクライナ語作家の分離と住み分けが進んだ。ウクライナ独立後、この傾向はさらに強まっているが、その一方で『ペンギンの憂鬱*20』(原題『局外者の死』1996)のアンドレイ・クルコフ*21(1961~)のように、ウクライナで暮らしながらロシア語で書き、両国で人気の作家もいる。文芸において、ロシアとウクライナの間に明確で固定的な境界が成立したとは、なおも言えないのである。

とはいう指摘を考えれば「昔においてはウクライナとロシアの区別は曖昧だった*22→つまり、片岡氏が言うほど『ロシアによるウクライナへの圧政よばわり』はできない」可能性があります。

*1:ツイッターSofiya Kataoka | 片岡ソフィヤ🌻 (@sofiya_kataoka) / Twitter

*2:勿論事実上は終戦で国境ですが。

*3:当初は「ロシアの侵攻を契機に亡命したのか」と思い「ウクライナに留まるべき」と書きましたが「ロシアの侵攻以前から日本在住」らしいので書き換えました。

*4:他の意見はともかくこんな意見は「親ロシアと思われる一部の人間」を除いてほとんど聞いたことがありませんね。「正当な理由なくロシアが侵攻した」のだからロシアが悪いに決まってる。「ウクライナNATO加盟方針」は是非はともかくさすがにロシアによる侵攻を正当化しません。

*5:職業軍人ではない、一般人にまで武器を持たせて戦わせるべきではない」と言う意見のことでしょうか?。いずれにせよこれは誤解ではなく「価値観の違い」でしかない。

*6:ボルシチについてはボルシチはどこの国の料理なのか〜食文化から考えるロシアとウクライナ | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダスを紹介しておきます。

*7:日本では、トルストイの再話を翻訳した1962年(昭和37年)刊行の絵本『おおきなかぶ』(福音館書店)がベストセラーとして、世代を超えて広く普及している(おおきなかぶ - Wikipedia参照)

*8:とはいえ生前、出自を隠していたとはいえ力道山は日本人でなく朝鮮人(出生地は今の北朝鮮)ですが。

*9:邦訳著書として『外套・鼻』(岩波文庫講談社文芸文庫)、『鼻/外套/査察官』(光文社古典新訳文庫)、『死せる魂』『狂人日記』『検察官』(以上、岩波文庫。なお、『検察官』は光文社古典新訳文庫では『査察官』のタイトル)、『隊長ブーリバ』(潮出版社文学ライブラリー、角川文庫)など。なお、ゴーゴリ『鼻』は芥川龍之介の小説『鼻』の元ネタとされる(芥川が舞台を中世日本に変えて執筆)。

*10:筆者の中村氏は京都大学教授。この文章は中村氏が著書の一部を執筆した『ウクライナを知るための65章』(服部倫卓、原田義也編著、2018年、明石書店)からの転載です。

*11:邦訳著書に『ソモフの妖怪物語』(2011年、群像社ロシア名作ライブラリー)

*12:ザポロージェ原発」で注目されるあの「ザポロージェ」ですね。

*13:『タラス・ブーリバ』で描かれた時代においてはポーランドの方が強国であり、ロシアコサックを支配していた。

*14:邦訳著書として『隊長ブーリバ』(潮出版社文学ライブラリー、角川文庫)

*15:ゴーゴリについて「ウクライナ語で書くことを禁じられた」とする片岡氏に対して、中村氏が「ロシア語で書くことを選択した」と書いており、片岡主張「ウクライナ語で書くことを禁じられた」が正しいかどうかは疑問符がつきます。ウクライナ素人の俺が「ググって気づく程度のこと」に高世は気づかない、あるいは「気づいても、故意にネグった」のでしょう。高世は「無能or不誠実」であり、こんな高世が「ジンネットを倒産させた」のも「当然のこと」でしょう。

*16:邦訳著書に『マリア』(2009年、群像社)、『シェフチェンコ詩集・コブザール』(2018年、群像社

*17:この点はいわゆる「東北工程問題(高句麗渤海について中国が『朝鮮族が建国した中国の一地方国家』と描くのに対し、韓国側が『韓国国家』として強く反発)」も『似たような問題」ではないか。つまり「中国か韓国かを現代のように明確に分けることはできない」と言う話です。韓国側の反発については例えば中国マスコミ、「高句麗は辺境の少数民族政権」報道 : 東亜日報(2004.7.4)、[社説]「恐るべき歴史捏造」中国東北工程の完結 : 東亜日報(2007.12.7)を紹介しておきます。

*18:邦訳は『ロシア原初年代記』(名古屋大学出版会)、『ロシヤ年代記』(原書房

*19:邦訳は『イーゴリ遠征物語』(岩波文庫

*20:2004年、新潮社

*21:邦訳著書として『大統領の最後の恋』(2006年、新潮社)、『ウクライナ日記:国民的作家が綴った祖国激動の155日』(2015年、ホーム社:いわゆるマイダン革命を描いた)

*22:つまり中村論文に寄れば「現代はともかく昔においては」、プーチンの主張「ウクライナとロシアに区別はなかった」は正しいわけです。プーチンの主張「ウクライナ侵攻正当化」を否定するあまり「昔からウクライナとロシアに区別があった」ように言うことはおそらく「歴史の歪曲」になるでしょう。