自民党政治のどこをどう切っても「社会民主主義」など全く出てこない - kojitakenの日記
今の「新自由主義」自民は、その通りでしょうが過去の自民党については石橋湛山*1、三木武夫*2(片山社会党内閣で逓信相)、宇都宮徳馬などの「いわゆる傍流(自民左派)」も含めればそこまで言い切れるかどうか?(勿論、傍流の政治的影響力が小さいことはその通りですが)
また「野党(社会党、共産党、社民連など)やマスコミ等の批判によって」と言う面は勿論大きいわけですが、「介護保険制度(1997年に介護保険法制定(当時は橋本内閣)、2000年に介護保険法施行(当時は森*3内閣)でスタート)」などの「社民的施策」を「極めて不十分ながらも自民党政権が行ってきたこと」にも触れる必要はあるでしょう。
コメント欄でも「国民皆保険制度」は「1958年(当時は岸*4内閣)に法制定、1961年(当時は池田*5内閣)に施行」と指摘があります。
あるいはこのkojitakenの主張だと
◆もともとは社会党出身(勿論、社会党右派ですが)の鈴木善幸*6(そんな人は勿論自民党内において少数派ですが)
◆自社さ連立政権
◆自民党離党組(武村正義*7、鳩山由紀夫*8など)が結成した新党さきがけに『社会党出身の堂本暁子(さきがけで参院議員会長、後に千葉県知事)』、『社民連出身の菅直人(社民連で副代表、さきがけで政調会長、後に首相)』が参加したこと
はどう評価されるのか。全て「社会党や社民連が右傾化しただけ」等で片付けるのか。
1970年に赤字財政を問題視したのは大蔵官僚上がり*9の福田赳夫*10であり、1978年に総理大臣になって「小さな政府」をブチ上げたのが同じく大蔵官僚上がりの大平正芳*11だった。この2人とは違って、田中角栄*12は1973年を「福祉元年」と銘打って、社会保障費の大幅な増額を目指したが時既に遅く、まさに角栄が「福祉元年」と位置づけようとした1973年こそ高度成長時代最後の年だった。そのために日本は欧州のような福祉国家になり損ね*13、アメリカと同様の「小さな政府」の国になってしまった。
果たして田中の「福祉元年」がそれほど評価できるかどうか。
id:kojitakenが悪口する福田、大平はともに「田中内閣の重要閣僚(福田が蔵相、大平が外相)」でしたし、大平が福田を破って首相になれたのは、まさに田中の支援のおかげでした。
この田中の支援に大平は「西村英一*14副総裁、二階堂進*15総務会長」「橋本龍太郎*16厚生相、江崎真澄*17通産相(第一次大平内閣)」「竹下登*18蔵相、後藤田正晴*19自治相・国家公安委員長(第二次大平内閣)」など田中派議員を要職に就けることで恩返しします。
【追記あり】
岸信介 - Wikipedia参照
1953年(昭和28年)、日本再建連盟*20(岸が党首)の1952年衆院選挙大敗(当選者が武知勇記(後に岸と共に鳩山民主党に参加し、鳩山内閣で郵政相)のたった1名)によって、日本社会党に入党しようと親友の三輪寿壮に働きかけるも社会党内の反対が激しく入党はできず、1月13日自由党入党の意向を表明。自由党総裁の吉田首相は了承し、3月18日に正式入党、4月に自由党公認候補として衆院選挙に当選して吉田から憲法調査会会長に任じられた。しかし、1954年(昭和29年)に吉田の「軽武装、対米協調」路線を批判したため自由党を除名された。1954年11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。1955年(昭和30年)に日本自由党と日本民主党が合同し自由民主党が誕生すると初代総裁に鳩山(当時、首相)が、初代幹事長には「日本民主党幹事長だった」岸が就任した。
三輪寿壮 - Wikipedia
【社会党幹部としての三輪】
大正15年(1926年)労働農民党書記長となり、同年末、同党中間派が集まった日本労農党が発足するとその書記長に就任。太平洋戦争中は大政翼賛会連絡部長、大日本産業報国会厚生部長を歴任。戦後は一時、公職追放となるが、追放解除後、昭和27年(1952年)の衆院議員総選挙において旧東京3区(目黒・世田谷が地域であった)から衆議院議員に返り咲くと、社会党右派の重鎮として活躍
【岸の親友としての三輪】
◆東大の同期であり、首席を争った岸信介元首相、我妻栄東大名誉教授(民法学)、蠟山政道*21お茶の水女子大学名誉教授(政治学)とは生涯の親友であった。
◆戦犯容疑者として身柄拘束された岸信介の弁護を担当している。
◆岸は三輪の葬儀において自ら買って出て弔辞を読み、「本当に残念だ。これで政権を渡す相手がいなくなった」と嘆いた。
孫の安倍晋三は著書『美しい国へ』(2006年、文春新書)の中で、岸政権下で成立した国民年金法の背後に、社会保障政策に尽力した政治的ライバルで親友の三輪の存在があったのではないかと指摘している。
こうしたエピソードはid:kojitaken的にはどう評価されるんですかね。kojitaken的には「岸の社会党入党を画策するような三輪は社民主義ではない」のか。
なお、安倍はどう見ても「頭が悪い」上に「明らかに右翼的なこと(九条改憲等)以外に興味がない」ので「国民年金法」「三輪寿壮」云々の部分は明らかにゴーストライターの執筆でしょうが、安倍が「うちの祖父はただの極右じゃない」「福祉にもある程度興味があった」アピールしたいことはよく分かります。
なお、以前kojitakenからは「ウィキペディア引用ばかりする能なし」呼ばわりされましたが、このようにウィキペディアは実に便利です。「岸が日本再建連盟党首だったこと」「岸が一時社会党入党を画策していたこと」は知らない方も多いのではないか(そもそも日本再建連盟自体が有名ではないですが)。
時々「要出典」の信用性の怪しい記述もありますが。
*2:国民協同党委員長、片山内閣逓信相、国民民主党幹事長、改進党幹事長、鳩山内閣運輸相、岸内閣科学技術庁長官(経済企画庁長官兼務)、池田内閣科学技術庁長官、自民党政調会長、幹事長(池田総裁時代)、佐藤内閣通産相、外相、田中内閣副総理・環境庁長官等を経て首相
*3:中曽根内閣文相、宮沢内閣通産相、村山内閣建設相、自民党総務会長(橋本総裁時代)、幹事長(小渕総裁時代)などを経て首相
*4:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相
*5:大蔵次官から政界入り。吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相などを経て首相
*6:池田内閣郵政相、官房長官、佐藤内閣厚生相、福田内閣農林相、自民党総務会長(佐藤、田中、大平総裁時代)などを経て首相
*7:新党さきがけ代表、細川内閣官房長官、村山内閣蔵相など歴任
*8:新党さきがけ代表幹事、細川内閣官房副長官、民主党幹事長などを経て首相
*9:ちなみに大蔵官僚上がりの首相としては他に「松方正義(第一次伊藤、黒田、第一次山県、第二次伊藤、第二次山県内閣蔵相)」「高橋是清(第一次山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相)」「若槻礼次郎(第三次桂、第二次大隈内閣蔵相)」「浜口雄幸(加藤高明、第一次若槻内閣蔵相)」(戦前)、「池田勇人(吉田、石橋、岸内閣蔵相)」「宮沢喜一(中曽根、竹下内閣蔵相)」(戦後)がいます。なお、昔は多かった「官僚出身首相(外務省出身の幣原(加藤高明、第一次若槻、濱口、第二次若槻内閣外相)、吉田(東久邇宮、幣原内閣外相)、芦田(片山内閣外相)、商工省出身の岸(東条内閣商工相)、運輸省出身の佐藤(運輸次官)など)」も宮沢が最後で昨今はむしろ「小泉純一郎(小泉純也・佐藤内閣防衛庁長官の息子)」「安倍晋三(岸元首相の孫、安倍晋太郎・中曽根内閣外相の息子)」「福田康夫(福田赳夫元首相の息子)」「鳩山由紀夫(鳩山一郎元首相の孫)」と「世襲議員の首相」ばかりです。
*10:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官などを経て首相
*11:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相
*12:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相
*13:高度経済成長時代に福祉に力を入れなかったから「福祉国家になり損ねた」と言う見方は果たして適切かどうか。福祉に金を使わないことで企業支援に金を投じ「高度経済成長」につながった等、話ははもっと複雑ではないか。
*14:池田内閣厚生相、佐藤内閣建設相、田中内閣国土庁長官、福田内閣行政管理庁長官、自民党副総裁(大平、鈴木総裁時代)など歴任
*15:田中内閣官房長官、自民党幹事長(田中、鈴木、中曽根総裁時代)、総務会長(大平総裁時代)、副総裁(中曽根総裁時代)など歴任
*16:大平内閣厚生相、中曽根内閣運輸相、海部内閣蔵相、自民党政調会長(河野総裁時代)、村山内閣通産相などを経て首相。首相退任後も森内閣行革相
*17:佐藤、池田内閣防衛庁長官、田中内閣自治相・国家公安委員長、大平内閣通産相、自民党総務会長、政調会長(福田総裁時代)など歴任
*18:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)などを経て首相
*19:警察庁長官から政界入り。大平内閣自治相・国家公安委員長、中曽根内閣官房長官、総務庁長官、宮沢内閣副総理・法相など歴任
*20:再建連盟は1952年衆院選挙大敗後の1953年に解散。しかし自然消滅に近かったらしく、岸は後年「日本再建連盟高知県支部役員をしていたという人から『あなたは自民党に入って総理・総裁にもなったが再建連盟はどうなったのか。自分は解散通知を受け取った覚えがない』という手紙をもらった(笑)」と語っている(日本再建連盟 - Wikipedia参照)。