故宮本顕治は大の読売ファンで川上哲治を尊敬していたらしい - kojitakenの日記
「らしい」とはつまり「反共分子」id:kojitakenですら「宮本氏*1が自著にそう書いていた」など「根拠のある間違いない事実」といえない怪しい話、つまりは噂話に過ぎないわけです。本当に宮本氏が巨人ファンや川上監督ファンかどうか自体が怪しい。
当然ながら「ファンかどうか怪しい」のだから
川上采配をリスペクトして「党運営もかくあるべし」と周囲に話していた
などというのはもっと真偽が怪しい。
その程度の話で
川上*2といえば、広岡達朗*3がお手本にしたばかりかそれをさらに発展させた「管理野球」の元祖。「民主集中制」とは相性抜群*4だ。しかも川上は「哲のカーテン*5」と呼ばれた報道規制でも知られる。
ミヤケンが絶賛したのも道理だ。
と宮本氏に悪口するのだから「反共分子」kojitakenのバカさには心底呆れます。こんなアホ記事にスターをつけてる反共バカ(id:hayakuzaka、id:carechi1964、id:sumita-m)にも呆れますが。
こんなんでいいのなら、後で紹介する江田三郎や成田知巳への批判(酒で寿命を縮めた)も何ら問題ないでしょう。多分kojitakenは「江田シンパ」としてマジギレでしょうが。
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/478-4.pdf
「日労」系*6指導者の戦後と『社会思潮*7』(5・完):松井政吉氏*8に聞く、から一部引用
◆松井
僕は80歳を超えているんだよ。
◆インタビュアー(吉田健二*9)
元気の秘訣は何ですか。
◆松井
僕は昔から酒は一滴も飲まない。それが一つ,健康に役立っているんじゃないかと思っています*10。僕らの仲間*11でベラボウに酒を飲む連中は実際,早死しているんです。(ボーガス注:69歳で死んだ)江田三郎*12しかり,(ボーガス注:66歳で死んだ)成田知巳*13しかりです。
永田町に,国会議事堂を少し下りたところに酒屋があるんです。飲み屋じゃなくて,普通の酒屋です。成田さんはその酒屋で椅子に腰掛けて冷や酒をグイッと何杯も飲んでいた*14んですよ。だから成田は早死した。
江田三郎は肝臓が悪かったのです。顔色をみればわかります。医者からもストップがかけられていたらしい。それで僕は「江田君,少し酒を遠慮したらどうかね」と何回も忠告したのです。江田は「俺は好きな酒を止めてまで長生きしたいとは思わないよ」と耳を貸さず,止めようとはしなかった。それで江田三郎は早死した。
酒は適量であれば,血液の循環がよくなって身体にも良いといわれています。飲んで元気が出る人も中にはいるだろう。しかし毎日飲めば健康を害してしまうことは疑いない。本当に,江田三郎も成田知巳も大酒飲みだった。僕はその昔,全農*15のオルグ*16となって社会運動に身を投じて以来,酒を飲まないことにしています。これが長生きの秘訣だと思っております。
【付記】
松井政吉氏は1993年9月19日,急性心不全により死去された。享年91歳*17であった。松井氏は日本社会党の派閥関係において最後は「江田派」に属していた。氏からは故江田三郎氏についても記録してほしいとの申し入れがあり,証言のため準備をなさっておられたが,氏の死去により断念の止む無きに至った。残念の極みである。衷心より松井氏の冥福をお祈り申し上げたい。
(吉田健二)
ちなみにこの松井証言は俺が持ってる本、法政大学大原社会問題研究所編『証言・占領期の左翼メディア』(2005年、御茶の水書房)に収録されています(なお、証言の初出は大原が出してる「大原社会問題研究所雑誌」)。
松井氏は左翼メディアである社会党機関誌「社会思潮」の編集に関わったことでの登場です(ただし社会思潮が話のメインとはいえそれオンリーではなく、上記のように多少脱線した発言もあります。当然ながら、日本対外文化協会理事長や社会党国会議員としての話は出てきません)。
松井氏以外では
書評『証言占領期の左翼メディア』参照
◆『民衆新聞』の吉武三雄や読売争議の増山太助*18
◆『人民』、『真相』の佐和慶太郎*19や『前衛*20』の寺尾五郎*21
◆『夕刊京都*22』の和田洋一*23
等が証言者です。
お酒の話、長く楽しむために! | すずき院長のブログ
一気飲みはせずゆっくり飲むこと、空きっ腹ではなくチーズ、豆腐、野菜スティックなどをつまんでから飲みましょう。
かつて社会党の委員長を務めた成田知巳氏は酒豪としても有名だったそうで、地方講演があると二日前から一切の飲食を絶ったといいます。「空きっ腹の方が酒の本当の味が分かる」という理由だそうですが、これはいけません。
酒の肴と言えば、ポテトチップス、塩辛、から揚げ、ソーセージなどが好まれますが、油分や塩分が多くメタボの原因にもなりますので刺身、豆類、卯の花、お浸し、海藻サラダのような一品を積極的に加えてください。
【追記その1】
コメント欄の
については以下を紹介しておきます。
作家の大西巨人氏死去 長編小説「神聖喜劇」 97歳 - イザ!
昭和27年のエッセー「俗情との結託」では、野間宏氏の小説「真空地帯」を批判。野間氏を擁護した後の共産党議長、宮本顕治氏と「新日本文学」誌上で論争した。
また「角打ち」についてはググってヒットした以下を紹介しておきます。
「角打ち(かくうち)」の意味・由来とは?お店の探し方から楽しみ方まで - KUBOTAYA
◆角打ちの発祥地
角打ちは北九州が発祥の地といわれており、北九州では今でも多くの酒屋で角打ちが楽しめます。
この始まりは北九州工業地帯。八幡製鉄所の深夜労働者達が仕事を終えて一杯やる場所に選んだのが、朝から営業している酒屋でした。彼らは酒屋の店先で買った酒を飲むようになり、角打ちの文化が生まれました。
その後千葉に新たな製鉄所ができ、労働者が北九州から関東に移り住むことで、角打ちの文化も徐々に広がっていったのです。
◆角打ちの魅力
①気軽に楽しめる
角打ちの魅力は何と言ってもその手軽さ。飲み屋と違って、一杯だけ飲みたいときにも気兼ねなく利用できます。また、飲む分だけをその都度支払うシステムとなるので、飲食店のようなサービス料やお通し代などもかかりません。おつまみも低価格な場合がほとんどですのでリーズナブルに楽しめます。
②時間に縛られず飲める
居酒屋で飲もうと思うと夕方以降の開店を待たなければならない場合がほとんどですが、酒屋は午前中から営業していることが多く、店舗によっては早朝*24からでも楽しめます。この「時間に縛られず飲める」というのは角打ちが始まった理由でもあり、大きな魅力のひとつです。
③酒好きな人と交流できる
酒屋の店内で行われる角打ちは、酒好き同士がコミュニケーションをとれる場にもなります。常連さんもいれば初めてそこを訪れる人もいるでしょうけれど、「角打ちをしよう」と考える時点で酒好きに違いありません。見知らぬ人であっても、同じ空間で酒を楽しむと会話も弾むはずです。
④飲み比べて購入できる
角打ちでは少量ずつ試せるので、異なる種類を飲み比べて自分好みの日本酒を探せます。酒屋は日本全国のさまざまな銘柄を取り揃えている場所である上、そこにいる店員さんは酒のエキスパート*25です。どんな日本酒が飲みたいか伝えれば、おすすめの酒を提案してもらうこともできます。
◆角打ちの作法
立ち飲みスタイルの店が多く、スペースに限りがある店舗がほとんどなので、「長居しすぎないこと」を角打ちのマナーとして覚えておきましょう。
昭和の古き良きを知る。東京の酒屋で「角打ち」ができる店7選 | icotto(イコット)
【追記その2】
コメント欄で指摘がありますが、宮本氏は1908年生まれ*26。
党書記長(後に委員長に改称:党首のこと)となって名実ともにナンバー1になったのが1958年で50歳です(宮本顕治 - Wikipedia参照)。
一方、田中角栄*27(1918年生まれ*28)が首相になったのが1972年で54歳です。
戦前の伊藤博文*29(44歳)、近衛文麿*30(45歳)、黒田清隆*31(47歳)、山県有朋*32(51歳)、桂太郎*33(53歳)を除けば、当時「最年少総理だったのが田中(つまりは戦後の最年少総理)」です。
この「戦後最年少総理」記録は「第一次安倍内閣」で安倍晋三*34(当時52歳)が首相に就任するまで破られませんでした(以上は、内閣制度と歴代内閣参照)。
田中は「最年少総理」「専門学校卒(最終学歴)」で彼より年上で学歴も上の「福田赳夫*35(1905年生まれ、東大卒)」を破って首相就任したことで「今太閤」と呼ばれました。
何が言いたいかと言えば、「共産党というミニ政党」とはいえ「田中よりも若い年齢で党首になった宮本氏」はやはり偉大、有能だと言うことですね。
反共分子「id:kojitaken」はこうした指摘を「ボーガスは共産盲従」と罵倒するのかもしれませんが、「客観的事実」として宮本氏は「偉大で有能」でしょう(勿論、それは宮本氏の全てを肯定するという話とは違います)。
*1:1908~2007年。日本共産党書記長、委員長、議長を歴任。作家の宮本(旧姓:中條)百合子は妻。北海道大学名誉教授、中央大学教授(政治学)の宮本太郎は長男(但し、百合子死後に宮本が再婚した後妻の息子。また政治的には共産党ではなく立憲民主党左派や社民党に近いとみられる)。
*2:1920~2013年。日本プロ野球史上初の2000安打を達成。監督としても王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」(9年連続セ・リーグ優勝、日本一)を達成。著書『悪の管理学』(1984年、光文社文庫)、『監督の条件』(1995年、読売新聞社)、『遺言』(2001年、文藝春秋)など(川上哲治 - Wikipedia参照)
*3:1932年生まれ。現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝、日本一に導いた。著書『勝者の方程式』(1991年、講談社文庫)、『監督論』(2004年、集英社インターナショナル)、『広岡イズム』(2017年、ワニブックスPLUS新書)、『日本野球よ、それは間違っている!』(2018年、幻冬舎)、『プロ野球激闘史』(2020年、幻冬舎)、『巨人が勝てない7つの理由』(2022年、幻冬舎)など(広岡達朗 - Wikipedia参照)。
*4:管理野球から俺が連想するのはむしろ「トヨタのカンバン方式」のような「日本企業の経営管理」ですが「反共分子」kojitakenは違うようです。
*5:勿論鉄のカーテン - Wikipediaをもじっている。
*6:社会党創設メンバーの内、日本労農党(日労)出身者(中間派)のことをこう呼ぶ。具体的には三輪寿壮(日本労農党書記長。弁護士(第二東京弁護士会会長、日弁連副会長を歴任)でありゾルゲ事件の尾崎秀美や戦犯容疑者として身柄拘束された岸信介、昭和電工事件の西尾末広の弁護人になったことでも知られる。なお、岸とは東大時代からの友人で、左派の反対で挫折したが一時は岸は三輪のつてで社会党に入党しようとしていた。三輪の葬儀では岸が弔辞を読んでいる。三輪と岸の関係については今日もkojitakenに悪口する(2022年11月17日記載)(追記あり) - bogus-simotukareのブログでも触れました)、浅沼稲次郎(社会党書記長、委員長を歴任)など。これに対し社会民衆党出身者を社民系(右派:後の民社党の源流)、日本無産党出身者を日無系(左派)と呼ぶ。具体的には社民系は片山哲(社会党書記長、委員長、首相、民社党常任顧問を歴任)、西尾末広(社会党書記長、片山内閣官房長官、芦田内閣副総理、民社党委員長を歴任)など。日無系は鈴木茂三郎(後に社会党委員長)、高津正道 - Wikipedia(いわゆる第一次共産党創立メンバー、戦後、衆院副議長:高津については以前新刊紹介:「歴史評論」2022年2月号 - bogus-simotukareのブログで取り上げました)など
*8:1906~1993年。日本社会党衆院議員(1949年初当選し、当選6回)。社会党労働部長、農民部長、組織部長などを歴任。1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織「日本対外文化協会(対文協)」を松前重義(社会党衆院議員、東海大創設者)、石原萌記(自由社社長)らとともに設立。対文協副会長、理事長を務め、日ソ友好に尽力。著書『戦後日本社会党私記』(1972年、自由社)、『国会断罪・議員追想』(1981年、自由社)、『裏方政治家の人生』(1990年、自由社)。ということで社会党右派の政治家ですね(松井政吉 - Wikipedia参照)
*9:著書『戦後改革期の政論新聞:『民報』に集ったジャーナリストたち』(2002年、文化書房博文社)
*10:勿論「一般論」として「飲酒(アルコール)」が健康に悪い事は事実です。まあ、でも俺は酒好きなのでアル中や肝臓病などになるような酷い飲み方はせず「健康に留意した上で」呑みますけどね。
*12:1907~1977年。日本社会党書記長、副委員長、社会市民連合(社市連:社民連の前身)代表を歴任
*13:1912~1979年。日本社会党政策審議会長、書記長、委員長を歴任
*14:角打ち - Wikipediaと言う奴です。成田の出身地「香川」ではもしかしたら「角打ち」が一般的なのかもしれない。ちなみに「明らかに角打ちに否定的な(そもそも酒嫌いor下戸?)」松井氏の出身は新潟です(出身地はウィキペディアを参照)。俺個人は「長居ができない」「居酒屋ではないのでつまみがなかったり、あっても乾き物や缶詰と言ったできあいの物が多い(但し近年は簡単な惣菜を出す店も増えてるようですが)」というデメリットはあるとは言え、「一度は角打ちをどこか角打ちの有名店、老舗でしたいなあ」とは思っています。
*15:「戦前、存在した全国農民組合」の略称(全国農民組合とは - コトバンク参照)。現在存在する全農(全国農業協同組合連合会)とは別組織。
*16:オルガナイザー(勧誘者)の略称
*17:松井は1906年3月生まれなので1993年9月死去ならば享年87歳が正しい。
*18:1913~2007年。第1次読売争議では闘争委員、従業員組合書記長として活動し勝利を実現。1946年6月12日からの第2次読売争議では敗退したが、争議団代表として会社側と交渉にあたった。また、第2次争議中は、日本新聞通信放送労働組合(新聞単一)の副執行委員長・組織部長を務めた。この間、日本共産党に入党、1945年9月中旬ごろ日本共産党の読売細胞(細胞とは党支部の当時の呼び方)を結成。1946年10月、第2次争議の調停が成り読売新聞社を退社。1947年1月、日本民主主義文化連盟の常任理事(組織・出版局長兼務)に就任、機関誌『文化革命』『働く婦人』の編集委員や発行名義人となった。この時期、日本共産党本部文化部員(部長・蔵原惟人)として芸術家・文化人対策を受け持ち、東宝争議に対しても一定の指導を行った。1948年4月より党本部勤務となり文化部員、つづいて選挙対策部・選挙動員本部長として1949年1月の総選挙闘争を指揮した。1950年6月の党分裂以降は関東地方委員会委員や東京都委員長を務めた。1958年7月の第7回党大会で党章草案に反対、これを機に党のいっさいの役職を退いた。1979年5月、規律違反を理由に党を除名された。著書『読売争議1945/1946』(1976年、亜紀書房)、『産別会議十月闘争』(1978年、五月社)、『検証・占領期の労働運動』(1993年、れんが書房)、『戦後期左翼人士群像』(2000年、つげ書房新社)(増山太助 - Wikipedia参照)
*19:1910~2000年。昭和20年人民社を設立し、暴露雑誌「真相」で天皇の戦争責任などの追及を行った。のち青銅社をおこし、1951年に無着成恭編著『山びこ学校』(現在は岩波文庫)を出版(佐和慶太郎とは - コトバンク参照)。
*20:法政大学大原社会問題研究所編『証言・占領期の左翼メディア』(2005年、御茶の水書房)によれば、寺尾は党機関誌「前衛」編集長だった宮本顕治の秘書として前衛編集に関わった。
*21:1921~1999年。1961年に日本朝鮮研究所を設立してその理事に就任し、『朝鮮・その北と南』(1961年、新日本出版社)、『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(1964年、日本朝鮮研究所)、『朝鮮問題入門』(1965年、新日本新書)など、北朝鮮関連の書物を多く著す(1967年に退任)。1966年に中国で文化大革命が起こるとこれを熱烈に支持し、1967年の善隣学生会館事件の際にも中国共産党側に立ち、日本共産党を非難したため、1968年に「中国派」として日本共産党を除名された。その後は文革支持の立場に立つ日本共産党(左派)の結成(1969年)に関与する一方、吉田松陰や安藤昌益等を研究し、特に昌益の研究については、『安藤昌益全集』(農山漁村文化協会、1983~1987年)の監修・執筆を務めるなど、これを後半生のライフワークとしている。著書『革命家吉田松蔭 : 草莽崛起と共和制への展望』(1973年、徳間書店)、『安藤昌益の闘い』(1978年、農山漁村文化協会)、『悪人親鸞』(1989年、徳間文庫)、『中岡慎太郎と坂本竜馬』(1990年、徳間文庫)、『草莽吉田松陰』(1991年、徳間文庫)、『論考安藤昌益』(1992年、農山漁村文化協会)など(寺尾五郎 - Wikipedia参照)
*22:法政大学大原社会問題研究所編『証言・占領期の左翼メディア』(2005年、御茶の水書房)によれば、和田は一時『夕刊京都』学芸部長を務めた。
*23:1903~1993年。同志社大学名誉教授。元同志社大学文学部長。著書『国際反ファシズム文化運動』(1948年、三一書房)、『新島襄』(1973年、日本基督教団出版局→2015年、岩波現代文庫)、『私の昭和史:「世界文化」のころ』(1976年、小学館)、『わたしの始末書:キリスト教・革命・戦争』(1984年、日本基督教団出版局)、『灰色のユーモア:私の昭和史』(2018年、人文書院:『灰色のユーモア:私の昭和史ノオト』(理論社、1958年)を改題し、復刻)など
*24:まあ、朝から呑みたければ今の時代なら「ファミレス」「牛丼チェーン」とかでも呑めるでしょうが。
*25:少なくとも「角打ちをやる酒屋の店員」はそうあってほしいものですが果たして実態はどんな物やら。
*26:宮本氏(50歳で書記長就任)と同じ1908年生まれの著名人としてはジョンソン米国大統領(55歳で就任)、勝間田清一社会党委員長(59歳で就任)などがいる(1908年 - Wikipedia参照)
*27:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相
*28:田中(54歳で首相就任)と同じ1918年生まれの著名人としてはシュミットドイツ首相(56歳で就任)、中曽根元首相(64歳で就任)、マンデラ南ア大統領(76歳で就任)などがいる(1918年 - Wikipedia参照)。
*29:工部卿、内務卿、宮内卿、首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など歴任。元老の一人
*30:貴族院議長、首相を歴任。戦後、戦犯指定を苦にして自殺
*31:北海道開拓長官、第一次伊藤内閣農商務相、首相、第二次伊藤内閣逓信相、枢密院議長など歴任。元老の一人
*32:陸軍卿、内務卿、第一次伊藤内閣内務相、首相、第二次伊藤内閣司法相、枢密院議長など歴任。元老の一人
*33:台湾総督、第三次伊藤、第一次大隈、第二次山県、第四次伊藤内閣陸軍大臣、首相、内大臣(侍従長兼務)など歴任
*34:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相
*35:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官などを経て首相