今日の産経ニュース(2023年1/1日分)(副題:産経の「新年挨拶」を批判する)

 新年の挨拶は抜きで、「新年の挨拶代わり」に早速いつも通り産経を批判してみます。批判するのは「産経の新年の挨拶」にあたる記事複数です(それ以外の産経記事は別記事今日の産経ニュースほか(2022年12/30~2023年1/1分) - bogus-simotukareのブログで批判します)。
【正論】年頭にあたり 日本の覚醒と令和の栄光の実現 文芸批評家・新保祐司 - 産経ニュース
 そのような橋川理解が正しいかどうか自体議論がありうるでしょうが、ここで紹介される橋川文三*1は「戦前日本を美化するただの右翼イデオローグ」でしかありません。そうした産経の認識が正しいなら橋川は全く評価に値しないでしょう。

 戦後の日本には、繁栄はあったが、栄光はなかった。
 「明治の栄光*2」は、物質的な面ではなく「明治の精神」の偉大さにあり、それは、日露戦争において発揮され、「明治大帝」の死に際して乃木大将*3の悲劇*4を生んだ。

 「はあ?」ですね。産経にとっての「栄光」とは何なのか?。「戦争や殉死(あるいはそこで示される自己犠牲精神?)」が「栄光」ならそんな「栄光」は願い下げです。
 なお、当時ですら乃木の殉死は「生きて、次の天皇大正天皇)に使えるのが忠義では無いか」という批判がありました。そもそも江戸時代には

殉死 - Wikipedia
 寛文元年(1661年)7月、水戸藩徳川光圀重臣団からの徳川頼房(光圀の父、前藩主)への殉死願いを許さず、同年閏8月には会津藩保科正之*5が殉死の禁止を藩法に加えた。当時の幕閣を指導していた保科正之の指導の下、寛文3年(1663年)5月の武家諸法度の公布とともに、幕府は殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が各大名家に口頭伝達された。1668年には禁に反したという理由で宇都宮藩(11万石)の奥平昌能が山形藩(9万石)への転封処分を受けている(追腹一件)。
 この後、延宝8年に堀田正信*6が4代将軍・家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。

ということで殉死が幕府によって禁止されていましたしね(殉死されては人材が枯渇してしまうため)。また乃木以外の政府高官(例えば元老・井上馨*7松方正義*8山県有朋*9)は殉死しなかったわけです。
 乃木の殉死をヒントに書かれたのが森鴎外阿部一族』とされます(阿部一族 - Wikipedia参照)。
 阿部一族の当主は「殉死しないで我が子に仕えろ」という藩主の命令に従おうとしますが、それが「命を惜しんでる」と非難されたことで悲劇が起きます。
 ちなみに映画『切腹 (映画) - Wikipedia』、『上意討ち 拝領妻始末 - Wikipedia』の原作者・滝口康彦にも似た設定の小説『高柳父子』があります。
 『高柳父子』についてはググってヒットした同調圧力がテーマとなった物語『高柳父子』(滝口康彦さん 1957年)|桜井篤|noteを紹介しておきます。『阿部一族』にせよ『高柳父子』にせよ明らかに「殉死」を否定的に描いているかと思います。


【年のはじめに】「国民を守る日本」へ進もう 論説委員長・榊原智 - 産経ニュース

「日本が努力しなかったら、戦後初めて戦争を仕掛けられるかもしれない。戦争したくないから抑止力を高めようとしているんですよ」
 このように語ると、たいていの人が首肯してくれた。

 事実だとしても、産経記者の知人ならウヨだからそうなるのでしょう。俺なら「何処の国が何を理由にいつ攻めてくるのですか?」ですが。
 そもそも「抑止しかできない軍事力」などというものはどこにもありません。
 つまり産経の主張は「自己防衛」を理由に銃規制に反対し「銃器犯罪の危険性」を無視する「全米ライフル協会」並に物騒な話だと俺は思っています。

 ロシアがウクライナを侵略し、岸田首相は「東アジアは明日のウクライナかもしれない」と語った。

 デマも大概にして欲しい。「何処の国(中国や北朝鮮?)が何を理由にいつどこの東アジア(日本、韓国、台湾?)に攻めてくるのですか?」ですね。
 戦争とは酔っ払いの喧嘩では無い。
 第一にたとえ「嘘八百」でも大義名分が要ります。第二に最悪でも引き分けにしなければならず「負けることはできません」。
 日本(あるいは韓国、台湾の軍隊)に対してどんな「大義名分」で戦争するのか。そして「負けないこと」が可能な国がどれほどあるのか。自衛隊(あるいは台湾、韓国の軍隊)は現状でも決して弱い軍隊では無い。
 また「ロシアと地続きのウクライナ」と違い、日本、台湾について言えば「地続きの国が無い」ので侵攻は困難です。

 反撃能力保有をめぐり一部野党や多くのメディアは「相手国が発射する前の反撃能力行使は先制攻撃になる恐れ」や「歯止め」を専ら論じている。

 恐れでは無く完全に先制攻撃であり反撃とは呼べません。
 そもそも「相手が攻撃する前でも攻撃の高い可能性があれば攻撃していい」とはまさに「プーチンウクライナに侵攻した論理(ウクライナが近い将来ロシアに侵攻するので機先を制した)」であることを産経はどう理解しているのか。

 理由なく相手を叩く先制攻撃が国際法上不可なのは自衛隊も先刻承知だ。

 「理由無く」と言う辺りが産経らしい姑息さです。「理由ある先制攻撃ならやっていい」という詭弁ですがそもそも「攻撃前に相手の攻撃意思が確実に分かる」などというのは非現実的な仮定です。
 実際には「相手に攻撃意思がない」にも関わらず「あると誤認して」、あるいは誤認どころかプーチンのように最初から「攻撃意思がないことを知りながらあると強弁して戦争を開始すること」になりかねない。

 ロシアは国際法を無視してウクライナの民間人・施設をミサイル攻撃している。このような非人道的な戦術を中朝両国が有事に真似ない保証はない。

 まずそんな可能性は無いですね(特に軍事小国の北朝鮮は)。
 第一に、自衛隊在日米軍の軍事的反撃を考えれば、第二にロシアに対して行われたような「国連非難決議」「経済制裁」を考えればそんなことをやるわけがない。
 そもそもロシアがあのような暴挙に打って出た理由の一つは「クリミア併合の成功体験」でしょう。そうした成功体験の結果、「ウクライナの軍事力」「米国などのロシアへの態度」を甘く見たロシアは大規模侵攻に打って出ましたがそうした「成功体験」は中朝には無い。
 またそもそも「近年、韓国相手に局地戦(ヨンビョン島砲撃など)はやっても大規模戦はやらない北朝鮮」「香港デモにすら軍隊を出さなかった中国」が何故ロシアのような大規模軍事攻撃をすると思えるのか。
 第三にああしたミサイル攻撃は「キーウ陥落などができず追い詰められたロシアのあがき(とにかくウクライナに打撃を与えればいい)」といっていい(そのあがきが長期にわたって続いてるところが困りものですが)。ロシアも戦争当初からあの種の行為をやる気は無かった(つまり当初はそれだけウクライナを舐めてたという事ですが)でしょうし、あんな行為をせざるを得ないならそれは「負け戦も同然」でありそんなことをやりたがる国はまず無いでしょう。

 台湾のように、日本でも地下シェルター整備は急務

 「バカも大概にしろ」ですね。国民全員を収容するシェルターなんか何処に作るのか。

 北朝鮮に拉致されたり、それに似た状況*10に置かれた国民を、自衛隊は海外で救出することが許されていない。憲法9条の解釈で海外での武力行使が禁じられているせいだ。

 拉致被害者の居場所も分からないのにどうやって救出するのか。

 1976年にイスラエル軍は、ウガンダエンテベ空港で、テロリストがハイジャックした民航機を急襲し、人質だった自国民のほとんどを解放した。このとき、ウガンダ政府は反イスラエルの姿勢だった。

 あんなのは様々な幸運に恵まれたレアケースです。大抵の場合そんな幸運は無い。現地国政府の協力無しで救出などまず無理でしょう。

*1:1922~1983年。明治大学教授。著書『柳田国男』(1977年、講談社学術文庫)、『昭和維新試論』(1993年、朝日選書→2013年、講談社学術文庫)、『日本浪曼派批判序説』(1998年、講談社文芸文庫)、『黄禍物語』(2000年、岩波現代文庫)、『ナショナリズム』(2015年、ちくま学芸文庫)、『幕末明治人物誌』(2017年、中公文庫)など

*2:こういう場合に「大正の栄光」でない辺りが興味深い。戦争勝利を重視するらしい産経にとって大正期の「第一次大戦でのパラナ獲得」は明治期の「日清戦争での台湾獲得や賠償金」「日露戦争での満州利権や南樺太獲得」に比べ評価に値しないのでしょう。

*3:歩兵第1旅団長(日清戦争)、第2師団長(台湾征服戦争)、台湾総督、第3軍司令官(日露戦争)、学習院長など歴任

*4:殉死と書かないのは何故でしょうか?

*5:信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩主。3代将軍・家光の異母弟(初代将軍・家康の孫、二代将軍秀忠の子)で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした(保科正之 - Wikipedia参照)。

*6:下総佐倉藩主。万治3年(1660年)10月8日、「幕府の失政により旗本、御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之宛てに提出し、無断で佐倉へ帰城した。その結果、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主・脇坂安政に預けられた。寛文12年(1672年)5月、安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主・酒井忠直に預け替えられる。しかし延宝5年(1677年)6月14日、密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺石清水八幡宮を参拝した。これにより、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。延宝8年(1680年)5月、第4代将軍・徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島にて喉を突き自殺した(堀田正信 - Wikipedia参照)。

*7:参議兼工部卿、外務卿、第一次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第二次伊藤内閣内務相、第三次伊藤内閣蔵相など歴任

*8:大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第一次山県、第二次伊藤、第二次山県内閣蔵相、首相、内大臣など歴任

*9:陸軍卿、内務卿、第一次伊藤内閣内務相、首相、第二次伊藤内閣司法相、枢密院議長など歴任

*10:「それに似た状況」と言うのも意味不明な言葉です。「意図的に身柄拘束されたケース」だけを指すのか、それとも「結果的に帰国が難しいケース」も指すのか。