新刊紹介:「歴史評論」2023年2月号(副題:真珠湾攻撃勝利に歓喜した当時の日本人多数派、ほか)

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『日記の歴史学:その新たな可能性』
文学研究から見た日記研究歴史学(中丸貴史*1
(内容紹介)
 藤原師通の日記『後二条師通記』を中心に論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、「文学研究から見た日記研究」ですが、中丸論文によれば中世日記研究においては未だに

◆『和泉式部*2日記』
藤原道綱母*3の『蜻蛉日記
◆藤原長子の『讃岐典侍日記』
菅原孝標女の『更級日記
清少納言*4の『枕草子
◆『紫式部*5日記』

といった「女性が書いた日記(いわゆる女流日記)」は「国文学方面の研究が専ら」で「歴史研究は手薄」であり、その理由を
1)女性は政治の中心ではない→男性の日記は政治についての記述が多いが、女性の日記は私的な記述が多い
2)歴史学の本流は政治史
という昔からの見方が未だに「影響してるのではないか」と中丸氏は指摘。
 1)、2)は現在の視点においては適切とは言えない(中世の女性も様々な形で政治に関わっているので当然、政治についての記述が男性に比べて少ないとは一概に言えないし、歴史学イコール政治史でもない)と批判しています。


◆平安期の日記と歴史学古瀬奈津子*6
(内容紹介)
 藤原道長の日記『御堂関白記*7』、藤原行成*8の日記『権記*9』、藤原実資の『小右記*10』について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆中世漢文日記の刊行と史料学(高橋秀樹*11
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

漢文日記の現代語訳 - 中世文学漫歩
 松薗斉さん*12の「漢文日記の現代語訳をめぐって・ノート」(「愛知学院大学文学部紀要」51)を読みました。ここ40年ばかりの間に古記録を使った研究が進展し、より広い範囲の人々が漢文日記に興味を持つようになったので、漢文日記を訓読文だけでなく現代語訳や地図や図版などを付して通読しやすくして公刊すべきだ、それも抄訳でなく全巻を、入手しやすい価格で、との主張です。
 堀田善衛*13の『定家明月記私抄*14』を引き、現代語訳によって多くの人が漢文日記を知るようにするのも専門家の責務ではないか、将来的には公開DBとして利用できるのが望ましい、と結びます。


◆近世日記の可能性(神崎直美*15
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
【参考:神崎氏の内藤充真院研究】

幕末大名夫人の知的好奇心
 日向国延岡藩主内藤政順の奥方充姫(充真院[じゅうしんいん]。寛政12年[1800]-明治13年[1880])に関する初めての人物伝。なお充姫は彦根藩井伊直中の娘で、大老井伊直弼は異母弟にあたる。
 本書では、充真院の著書のなかから主として『色々見聞したる事を笑ひに書』『五十三次ねむりの合の手』を選び、その知的好奇心と人物像を明らかにした。
 前者は、幕末から明治初期の江戸(東京)と延岡で見聞した日常雑記で、後者は、文久3年(1863)、充真院64歳、生まれ育った江戸を離れ、初めて領国に転居することになった時の旅日記である。

幕末大名夫人の寺社参詣
 前著『幕末大名夫人の知的好奇心-日向国延岡藩内藤充真院』(岩田書院 2016)の続編。
 本書では、日向国延岡藩主内藤政順の奥方充姫(充真院・じゅうしんいん。寛政12年[1800]-明治13年[1880])が、江戸と国許とを往復する途中に立ち寄った寺社について、自身で詳細に記録した旅日記をもとに、当時の参詣の様子を明らかにする。

神崎直美『幕末大名夫人の寺社参詣ー日向国延岡藩内藤充真院・続―』(岩田書院)が出版されました【城西大学 経済学部】 | 城西大学
 経済学部教授の神崎直美先生が『幕末大名夫人の寺社参詣ー日向国延岡藩内藤充真院・続―』(岩田書院)を出版されましたので、ご紹介させていただきます。
 本著作は、神崎直美先生が平成28年(2016年)に出版された『幕末大名夫人の知的好奇心―日向国延岡藩内藤充真院』(岩田書院)の姉妹編です。ヒロインの充真院は元の名を充姫、幕府大老井伊直弼の姉で、延岡藩主の内藤家に嫁ぎました。前著は充真院の著作を分析して、日常における蔵書の傾向、生き物飼育、薬やまじない、生活の知恵、江戸から延岡への転居の旅における見聞と関心事項について明らかにし、幕末期の大名家の奥方が何に興味持ったか、どんな考え方をしていたのかが分かる興味深い内容です。充真院の知的好奇心豊かな姿勢は、人生の手本にもなります。
 その続編となる本著作は、充真院が人生で旅した寺社参詣10か所を本人の紀行文を主にまとめたもの。例えば香川県の金毘羅様には3回訪れたとのこと。道すがら、詳細にメモをとったようです。江戸時代にあっても後期になると寺社参詣と称して庶民にも旅行ブームが訪れており、充真院は旅に楽しさを見つけたのでしょう。充真院の寺社巡りをたどりながら、新型コロナで抑え気味の今日この頃にも旅行の楽しみを味わえる著作です。

不満だった延岡帰邑、内藤充真院』前田博仁*16(宮崎県民俗学会副会長)
 ところで、文久2年の参勤緩和策に基づき充真院は延岡に帰藩することになるがどのような気持ちだったのか、日記で窺える。
 「御上が国に帰れということであるが、生まれてこの年になるまで江戸を一度も離れたこともなく、はるばると(延岡まで)遠い旅路も憂きことと思い、出立をのばしていればそのうちには世の中の様子も変わるのではないか、また、人々がすすめるとき発たないでいて、行く末にこれ以上迷っては老いの身どのような恥をさらすか予想しがたく、秋になっては思慮もなく、ゆっくり出発の準備を整えようと思っていると、またまた世間が騒がしくなり、町方も近在へ立ち退くなど騒々しくなってきた。
 60歳余りなって住み慣れた江戸での居住さえもままならぬという世の中に涙がでそうなるばかり、もはや余命幾許もないのにはるばる山海を越えて延岡で終わると思えば、泣く泣く四月の六日に江戸を発つと定めた」というようなことを書き綴っている。
 元々、大名の妻子が江戸に居住するということは、大名たちが徳川幕府に差し出した人質である。しかし、泰平の世が永く続き江戸で生まれ育ちそこで生活している者にとって江戸が故郷であり、人質として江戸に住んでいるという意識は毛頭なく、充真院にとって延岡は地の果てという意識であったに違いない。
 まして充真院は、実弟である井伊直弼桜田門外で暗殺されたとはいえ、徳川家茂(いえもち)を14代将軍とし、また勅許を待たずに諸外国との条約を結び、それに反対する者を弾圧*17するなど日本の命運を左右する政策を決める大政治家であった。そのような井伊直弼や譜代の井伊家を誇りに思っていたであろう充真院にとって、所払い的に江戸を追われることは納得し難いお触れで、その上、延岡は想像もできないほどの遠国、60歳を過ぎた者まで延岡に行かなければならないのかと絶望的な感情がふつふつと沸きあがったのであろう。

内藤繁子と「くらわんか餅」 | 菓子資料室 虎屋文庫 | 株式会社 虎屋
 内藤繁子(ないとうしげこ・1800~1880)は、幕末の大老井伊直弼(いい・なおすけ)の実の姉にあたり、延岡藩主内藤政順(まさより)に嫁ぎました。彼女は『源氏物語』をすべて書き写し、注釈を加えたり文学の素養が豊かで、絵や和歌にもたくみな大変教養のある女性でした。
 江戸時代、大名の正室は江戸に住むことを強制されていましたが、文久2年(1862)になると、幕府は規制をゆるめ国元に住むことを許可したのです。延岡藩内藤家でも先代藩主の奥方である繁子を国元に住まわすことにしました。
 しかし、繁子は江戸生まれの江戸育ち、内心では遠い延岡に行くことは不満だったのでしょう。旅の様子を記した旅日記の題名を『五十三次ねむりの合の手』と少し沈んだ調子で表現しています。とは言え、旅日記からは繁子が道中名物を味わったり、土産を買ったりと、それなりに道中を楽しんでいた様子がうかがえます。ちなみに後年江戸に帰る時の道中日記は、『海陸返り咲ことはの手拍子』と明るい表題です。

【参考:近世の日記研究一般】

(江戸時代後期、むらの記録①)庶民の日記のおもしろさ: 江戸時代研究の休み時間(高尾善希*18
 わたしが本格的に村落史研究をはじめたのは、武蔵国入間郡赤尾村名主、林半三郎信海(はやし・はんざぶろう・のぶみ)日記との出会いからです(埼玉県立文書館蔵)。彼の日記を一見して「これは分析してみたい」と思いました。
 一見してわたしが興味をもったのは、書いてある内容ではありません。その日記の途方もない量でした。
 横帳にびっしりと埋め尽くされた3ミリ程度(!)の蟻の行列。目をこすってよくみれば、全て信海の手によるくずし字です。「人間はこれだけマメになり得るのか」と仰天しました。「日常生活の天才」といっていいでしょう。毎日つけたその日記群は途方もない量で、主に、
 ①家にいるときの日記、
 ②外出したときの日記、
 ③地域社会(村)の主な出来事を記した日記、
 ④金銭出納のありさまを記した日記、
の4種類があるのです。これには参りました。
 この日記を書き記す主な理由は、
役に立つかどうかはわからぬが、とにかく子孫の参考のために書き残す。
というものでした。


◆「日記文化」研究の進展(田中祐介*19
(内容紹介)

◆長谷川貴彦*20編著『エゴ・ドキュメント歴史学』(2020年、岩波書店

などの著書でも分かるように最近注目される、いわゆる「エゴドキュメント*21」について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお「エゴドキュメント」については田中氏は以下の指摘をしています。
1)そうした概念を使う必要性に疑義を感じ

【自己語り】
◆渡辺浩一*22編著『自己語りと記憶の比較都市史』(2015年、 勉誠出版
◆小林多寿子*23編著『自己語り社会学』(2018年、新曜社

など「自己語り(自分語り)史料」など別の表現をする学者もいる
2)エゴドキュメント概念を使用する学者においても実は「定義が一致している」とは限らない。例えば「エゴドキュメント(個人の文書記録)」と「オーラルヒストリー(聞き取り調査)」の上位概念として「パーソナルナラティブ(個人の語り)」という概念を定義する学者もいればそうした上位概念を用いない学者もいる
3)「ドキュメント」は直訳すると文書だが、近年は「エゴドキュメント/自己語り(自分語り)史料」については「写真(家族写真など)」「録音、動画」といった「非文書資料」も存在する点に注意が必要。
 勿論将来的にはこうした「ブログ記事」もエゴドキュメントの一種にはなるでしょう。
4)エゴドキュメント研究の際には「個人の日記」を「その個人が属する集団の認識」と安易に認定してはならない。例えば「宮本百合子の日記」が仮にあるとして、日記での宮本の認識を、宮本が所属する集団である「当時の日本共産党員(あるいは女性作家)」の「認識」と安易に見なすことはできない。
 あるいは笠原十九司、吉田裕編の小林太郎『中国戦線、ある日本人兵士の日記』(2021年、新日本出版社から刊行:コメント欄でご教示頂きましたが)にしても、「小林の日記での認識」を安易に彼が属する「日本軍の認識」とすることはできない。「その個人が属する集団の認識」を「日記を元に確定する」には当然ながら「可能な限り、その集団に属する個人の日記」を多数収集し、比較検討する必要がある。
【参考:NHK『新・ドキュメント太平洋戦争』】
 1992~1993年放送のドキュメント太平洋戦争 - Wikipediaの「新版」として2021年、2022年に放送された「新・ドキュメント太平洋戦争」がエゴドキュメントに注目したことをアピールしていたので紹介しておきます。

新・ドキュメント太平洋戦争 「1941 第1回 開戦(後編)」 - NHKスペシャル - NHK
 太平洋戦争開戦。
 この新たな戦争が、中国との長引く戦いで鬱屈した社会の空気を変えてくれるかもしれないと、人々は歓喜した。一方、最前線の兵士たちは、銃後の熱狂とはかけ離れた現実に直面していた。
 今、専門家たちが注目するのが、戦時下に個人が記した日記や手記、エゴドキュメントだ。全国各地に眠っていた、兵士や市民、指導者たちの膨大な言葉。そこには、表現の自由が制約された時代の本音が刻まれている。
 大国アメリカ相手の勝利に国中が歓喜した。
 育児日記をつけていた、金原まさ子さん*24
血湧き肉躍る思いに胸がいっぱいになる。一生忘れ得ぬだろう、今日この日。しっかりとしっかりと大声で叫びたい思いでいっぱいだ。大変なのよ、住代ちゃん、しっかりしてね』(主婦・金原まさ子 日記より)
『朝の軽い眠りを楽しんでいた自分は、待ちに待った臨時ニュースの知らせに床をけり、階段をかけ下り、ラジオの前に立った。心臓が破れそうの興奮である』(学生・西脇慶弥 日記より)
この時に生まれ合わせたことは、とても幸福なことであると思う。五時間目、住吉神社へ戦勝祈願に行った。皆、真心込めてお祈りした』(国民学校*25六年生 絵日記*26より)
大東亜共栄圏建設の世界史的偉業は、光栄ある大和民族の双肩に、すでに現実のものとして、燦然と登場しているのである』(埼玉の役場職員)
共栄圏からの悪手を取りのぞいて、日本を中心に新しい東亜を作ろうとしているのだ』(国民学校六年の少女)
 アジア解放の理想を信じていた銃後の市民たち。アメリカを真珠湾で撃破し、今度は、イギリスの軍事拠点に迫った日本軍。熱狂が続いていた。
シンガポール敵前上陸!すばらしいことをやったものだ。なんという私たちは幸せな国に生まれたのだろう』(主婦・金原まさ子 日記より)
 アメリカ、そしてイギリスに対し、緒戦の勝利を収めた日本。シンガポール陥落の3日後、全国で一斉に戦勝の祝賀式が開かれた。
今日の感激を一生忘れないだろう。一斉に日本バンザイを叫ぶ。陥落後の将兵、ただ眠るばかりの由。涙なしにはいられず』(主婦・金原まさ子 日記より)
 日本で祝賀式が行われたその日、憲兵分隊長として(ボーガス注:シンガポールの)治安維持にあたった大西覚は、「日本軍の作戦を妨害する者、治安と秩序を乱す者、また乱す可能性のある者」などを選別し、処刑するよう命令を受けたという。
 戦後、イギリス軍による裁判でこの虐殺*27に関わった大西ら5人は終身刑、2人*28の死刑が確定した。処刑された司令官は、5千人を粛正したと日記に記しており、裁判の証拠とされた。しかし、シンガポールでは、虐殺は数万人規模にのぼるとみる専門家もおり、研究が続いている。

新・ドキュメント 太平洋戦争 「1942 大日本帝国の分岐点(前編)」 - NHKスペシャル - NHK
 「皇軍、連戦連勝。今年は、なんというおめでたいお正月だろう」(1月5日 金原まさ子日記)
 東京で新聞記者をしていた森正蔵*29。森は、新年を、すがすがしい気持ちで迎えていた。
「鯛など手に入れられるはずがなく、わが家の新春の食卓は、いつにもなく貧しかった。それでありながら、この新年を迎える心持ちは、格別である。(ボーガス注:真珠湾攻撃が大戦果を上げた)十二月八日が、日本を包むすべてのものに、一大転機を与えたのだ。この戦争は、希望の持てる戦争である」(1月1日 森正蔵日記)
 元日の午後、森は新聞社で、あるニュース映画を見た興奮を日記につづった。
「これほどの大戦争を、その最中に撮影したフィルムというものは、いまだ例を見ないだろう」(1月1日 森正蔵日記)
 およそ1か月前の1941年12月8日、日本は、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。それを記録した映画は、正月に封切られ、立ち見が出るほど大ヒットした。
「いよいよ母艦から離れて死地に臨もうとする将兵が、みな笑っているのだ。これほど荘厳な気分を表したものが、またとあろうか。拍手を送る余裕もなく、瞼(まぶた)にあふれる涙を止めることができなかった」(1月1日 森正蔵日記)
「突然、『ニュースを申し上げます』とラジオが言い出した。みんなはシーンとなった。マニラ完全占領。うれしいうれしい、待ちに待ったニュース。私の心はおどっていた」(1月3日 和田恭子日記)
 京都に暮らす12歳の和田恭子は、日本の占領地が拡大していく様を、色鮮やかに、日記に描いた。
 日本軍は、アジア・太平洋地域で、アメリカ軍やイギリス軍を次々に撃破。占領地の拡大は、日本人一人ひとりの日常に、明るいものとして現れてくる。
 1942年2月18日、内閣総理大臣東條英機*30が演説する祝典には、10万人が押し寄せた。
 金原まさ子も、祝典の様子をラジオで聞いていた。
「東條首相のマイクの前における万歳発声。全国の民草、街頭にあるものも、家庭にある者も、一斉に日本バンザイを叫ぶ。盛大に挙行された今日の感激を、一生忘れないだろう」(2月18日 金原まさ子日記)
排日、侮日の数々に、おごり高ぶるアメリカ!。鬼畜とも等しい行為を、あえてなしてきたイギリス!。今こそ思い知らせるべき時が来たのです。国を挙げての大決戦下にある、我々、大日本の上に栄光あれ」(2月6日 金原まさ子日記)
 1942年4月18日。連戦連勝に沸いていた人々に、衝撃を与える事件が起きる。
「高射砲のとどろき、とうとう帝都、敵機襲来。近くの士官学校裏手から、もくもくとした煙。大爆撃。敏感な住代ちゃん、おびえてかわいそうだった」(4月18日 金原まさ子日記/四ッ谷)
 目撃したのは、アメリカ軍による初めての本土空襲。市民の日記から、各地で被害があったことが浮かび上がった。
 「買い物に三越へ入った。突如としてドンドンと空に響く轟音(ごうおん)。私は窓際を離れ、思わず急ぎ足になりながら、階段を下りかけた。若いお母さんたちは、子どもの手を引きずるようにして階段を下りてくる」(4月18日 山内泰子日記/銀座)
 アメリカ軍の爆撃機に対し、日本軍は地上から高射砲を撃ち、撃墜しようとした。
「黒い飛行機が低空状態で、全速力で来る。それが我々の頭上に来た。目撃した者の全部の顔色が青くなった。自分だって全く理性を覆されて、ただ生きようとする動物の本能になった」(4月18日 小長谷三郎日記/横浜)
 後に「ドーリットル空襲」と呼ばれる奇襲作戦。そのきっかけとなったのは、4か月前の真珠湾攻撃だった。開戦以来、劣勢に立たされてきたアメリカのルーズベルト大統領は、一矢報いる機会を狙っていた。
 アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト「日本に爆撃する作戦はどうだ。日本をできる限り早く爆撃することが、アメリカ国民の戦意のために、なによりも重要だ」(大統領側近の手記)
 16機のB25が、東京、横浜、名古屋、神戸など、各地の都市を爆撃し、甚大な被害を与えた。死者87名。アメリカ軍の本土空襲による、初の民間人の犠牲者だった。
(中略)
 1942年6月5日、大本営に、ミッドウェー海戦の敗北が伝えられた。衝撃が広がるなか、海軍報道部の士官たちは、大本営発表の準備にとりかかった。
 議論は三日三晩続いた。報道部は、真相を国民に知らせるべきだと、主張したという。
 真相の公表に反対したのは、作戦指導の中核を担っていた部署だった。公表することは、戦争遂行を危うくすると訴えた。
「これは当然発表すべきではありません。これだけの大損害を、大本営発表をもって確認することは、敵に一層、傍若無人な積極作戦をとらせるだけであります。抗戦持続不可能になる恐れありとすら言えます。戦争中の報道は、当然、作戦の目的にそわしめることが、第一義であります。そのため同胞が欺かれる結果となっても、戦争中のことゆえ、真にやむをえないと考えます」(吉田尚義「大本営発表はかく行なわれた」)
 実際の損害を公表すれば、アメリカの攻勢を招きかねない。戦争を続けていくという大義のために、国民を欺くことは正当化された。こうして、大本営発表は、真相とはかけ離れたものになった。
 発表された損害は、空母1隻喪失、1隻大破。戦果は、空母2隻撃沈。損害は半分、戦果はほぼ倍。戦果が喪失を上回り、勝ったことになってしまった。
 その後、戦況は悪化の一途をたどった。しかし報道は、その事実を正確に伝えようとはしなかった。
 1942年。日本軍の連戦連勝に歓喜し、勝利に酔っていた人々。知らぬ間に敗北が積み重なり、日本は暗がりへ落ち込んでいく。
 東京四谷で、子育てにいそしんでいた金原まさ子。ラジオが伝える大本営発表に、この日も聞き入っていた。
「午後三時のニュース。『敵は幾万』のレコードが始まったので、胸とどろかせて待っていると、『我が精鋭なる陸軍は、アッツ島に敵前上陸敢行。同島を占領せり』と力強い報道があった。今度の大東亜戦争ほど雄大なことは、古今にその例を見ないであろう」(6月25日 金原まさ子日記)
 偽りの戦果を信じ、真実に向き合わないまま、戦争に突き進んだ日本。虚構に身を委ねた代償は、あまりにも大きなものとなる。

新・ドキュメント太平洋戦争 「1942 大日本帝国の分岐点(後編)」 - NHKスペシャル - NHK
 1941年から1945年まで、日本が繰り広げた戦争を個人の視点から1年ごとに追体験する、シリーズ「新ドキュメント 太平洋戦争」。その手がかりとなるのが、戦時下に個人が記した日記や手記「エゴドキュメント」だ。兵士や市民、指導者の膨大な言葉。そこには表現の自由が制約された時代に生きた人々の思いが刻まれている。
 第一子を出産したばかりだった榊原喜佐子*31。夫は東南アジアの統治に関わる軍人で、開戦の1か月前に、南方に派遣されていた。以来、喜佐子は夫に手紙を送り続けてきた。
 1942年6月。日本がミッドウェー海戦で大敗した直後の手紙。
「ちょうど大東亜戦開始以来、半年。おわかれして半年と半月。まだ、たった半年なのね。日本全土の四倍の地域に軍政確立。雄渾(ゆうこん)な作戦、大きい時代、力強い時代に生きている事実が、ひしひしと胸に迫ります」(6月14日 榊原喜佐子 夫への手紙)
 ミッドウェーでの大敗をつゆ知らず、日本の占領地拡大に喝采を送っていた。
 一方で、日々の暮らしについて、ある不満をこぼしていた。
「今日は、銀座のとおりを四丁目から新橋まで、一人でブラブラと一軒ごとのぞいて歩いてみたの。何かお送りするようなものないかと。缶づめ類は全く無し。うすい味なしソーダ水、形だけのアイスクリーム、甘くないみつ豆に、たかっているわ」(6月17日 榊原喜佐子 夫への手紙)
 戦争によって、物資は軍に優先的に回されるようになった。物不足は、当時の市民にとって大きな悩みの種だった。
 南方軍で物資調達に関わっていた夫の政春は、アジアを解放し自給自足の経済圏を建設する「大東亜共栄圏」の実現に向けて、まい進していた。
「我々の希望は、百年の大計を打ち立てんとする大東亜建設の大事業だ。かくしてこそ、我ら青年の身は躍り、血はほとばしらんとする。各民族が、日本を中心とした大東亜共栄圏内における自己の地位を認識し、自己の義務を完全に遂行することであらねばならない」(榊原政春日記)
 東南アジア各地を占領下に置き、軍政を敷いた日本。アジアの人々は、日本占領下の暮らしについて、日記などに書き残していた。
インドネシアの雰囲気としては、心の中では喜んでいたといっていいだろう」
「日本人を見たのは、そのときが初めてだったので感服もした。こんなに小さいのに、オランダの大男たちをやっつけたのだから」(ジャワの医学生「Di bawah Pendudukan Jepang」)
 インドネシアでは、長年続いたオランダによる植民地支配への反発から、日本の解放に期待する声も上がっていた。
 日本は現地の支持を得るため、占領の初期は融和的に統治を進めた。オランダから危険視され捕らえられていた民族主義者、スカルノ(後の初代インドネシア大統領)を解放するという思い切った手にも出た。一方で、異なる文化を持つ人々に対し、「日本化」を推し進めた。皇居の方角へ最敬礼する「宮城遙拝(きゅうじょうようはい)」。宗教の異なる現地の人に、「天皇は神だ」と教えた。
 「共栄」という言葉に反して、占領によって生活が苦しくなっていく様もつづられていた。
 「食べるための米は、配給となった。たくさんの人が行列していた」(ジャワの雑貨店店主「Di bawah Pendudukan Jepang」)
 占領当初から多くの人が日本への批判を記していた国もあった。アメリカの植民地だったフィリピンだ。
 アメリカ統治下で高等教育を受けたパシータ・ペスタニョ・ハシント、当時27歳。
「『アジア人のためのアジア』が、新しい戦争のスローガンだ。でもなぜ日本人が、アジアの盟主でなければならないのだろう」(2月14日 パシータ・ペスタニョ日記)
 宣伝部隊を率いた陸軍中尉の人見潤介は、占領開始当初、家族に手紙で意気込みを伝えていた。
 「バナナは一房、十銭くらい。土人原文ママ)は日本に好意をもっています。東洋平和の日は近いです」(人見潤介 両親への手紙)
 かつて中国東北部満州で住民の激しい抵抗にあった人見は、苦い経験を繰り返すまいと、たびたび集会を開き、フィリピンの人々に直接訴えた。
 「日本を中心に東亜の各民族が決起し、白人どもの桎梏(しっこく)を脱して、いわゆる東亜共栄圏を確立すべき旨を強調した。宣伝により、一つの方向と安堵(あんど)を与うることは、目下、その要度(ようど)極めて大なり」(人見小隊「宣伝工作実施報告」)
 こうした日本軍の主張に、厳しい目を向ける人がいた。穀物関連の団体を運営し、日本軍から食料増産を命じられていたビクトル・ブエンカミノだ。
「日本の占領を祝うパレード。日本人が言うように、彼らが『解放者』ならば、どうして私たちの息子は、収容所から解放されないのだ」(ビクトル・ブエンカミノ日記)
 ビクトルの息子フェリペは、国を守ろうとアメリカ軍とともに戦いに参加し、日本軍の捕虜となっていた。
 フェリペが直面したのは、後に戦争犯罪として厳しく問われることになる、いわゆる「バターン死の行進*32」(1942年4月)。フェリぺは、収容所に向かうおよそ100キロの道のりを、徒歩で移動することになった。
「『君らは自由だ。フィリピン人だから』と日本人は言った。しかし、そうではないということはすぐにわかった。太陽はとても暑かった。同胞の兵士が、怒った日本兵に銃剣で突き刺されているのも見た。彼は地面に崩れ落ち、そこに横たわり、目で助けをもとめていた。私は、彼を助けなかったみんなを呪った。だが、自分も呪わないといけない。私も気にしなかったのだ」(4月10日 フェリペ・ブエンカミノ日記)
 日本の大義を伝える、人見潤介の活動も壁にぶつかっていた。
「集会を催すも、出席者は極めて一部のみなるをもって、宣伝は専ら各家庭の巡回によるほか手段なく、極めて原始的方法を採用するのやむなき状態なり。民心まったく我になく」(人見小隊「宣伝工作記録」)
 一方、銃後の市民は、東南アジアの状況を知る由もなかった。夫が、東南アジアの軍政に関わっていた榊原喜佐子。
東京もすっかり夏らしくなりました。赤ちゃん、相変らずとてもアバレン坊。男の子みたい。今どこ?ジャバ?昭南島*33(しょうなんとう)?ビルマ?南の広い天地で、大きい気持ちで、働きがいを覚えていらっしゃるのかと」(榊原喜佐子 夫への手紙)
 大東亜共栄圏大義を伝える宣伝部隊を率いていた人見潤介。市民がゲリラに賛同して、日本軍に抵抗する新たな事態に直面していた。
 占領当初、「東洋平和の日は近い」と記していた人見。この年の終わり、内地に送った手紙には、まったく違う心境がつづられていた。
「お変わりありませんか。僕は毎日毎日はげしい思想の戦いに、血みどろな戦いをつづけています。大東亜戦争の前途はますます多難を極めることでありましょう。我々は骨と皮になっても戦いぬき、必ず勝たねばなりません」(12月 人見潤介 婚約者への手紙)
 戦争の大義に酔い、現実から目を背けた大日本帝国。立ち止まることはできなかった。その後、太平洋の島々で部隊は次々に全滅。アジアの人々を巻き込みながら、破滅への道を進んでいく。

 青字部分などからは戦争初期の「内地の日本人」が、戦争被害を受けることなく、大本営発表の影響もあり、脳天気だったこと*34が窺えます。しかし戦争末期「東京大空襲」「広島、長崎の原爆」などで「内地の日本人」も「近づく敗戦」を実感します。しかしそのときはもはや「後の祭り」でした。
 改めて

『銃後』とは『自由』な『自己実現』ができる時代だった(副題:NHKスペシャル「銃後の女性たち―戦争にのめりこんだ‟普通の人々”」) - bogus-simotukareのブログ
 「悲惨さ」だけで戦争を語るのではなく「戦争」での「栄光」「喜び」「楽しさ」「自由」「自己実現」「開放感」なども語る必要があるでしょう。もちろん「産経や日本会議」のような戦前賛美、侵略正当化と言う意味ではなく「真に反省するため」の前提作業としての話です。
 たとえそれらが「偽りの間違ったもの」であれ、そうした「栄光」「喜び」などで日本人は戦争に突入した。「苦しみやつらさ」しかないなら誰も戦争など選択しません。
 そうした「戦争の栄光」を理解しなければ「日本人が戦争に突入した理由」は的確には理解できないでしょうし、それでは戦争理解として「一面的で浅い」でしょう。当然ながら「反省」としても充分とは言えないでしょう。

という思いを感じます。そして2か月弱死が伏せられていたのだから、立花隆もたぶん世間的には「過去の人」だったのだろう(外地・旧植民地で生まれたり育った人たちもどんどん亡くなっている) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)も指摘するように、終戦(1945年)から77年が経ち、戦前・戦中世代がどんどん無くなる今「戦前、戦中世代」の「戦争体験のエゴドキュメント(日記、手紙など)」の社会的意義(戦争体験の伝達)は今後ますます大きくなるでしょう。
 勿論「エゴドキュメント=戦争体験では必ずしもない」のですが、日本人にとって「沖縄戦」「東京大空襲」「広島、長崎への原爆投下」などの悲劇を招いた「日中、太平洋戦争のインパクト」を考えれば「戦争体験のエゴドキュメント」に注目が集まるのはよく理解できます。
 例は何でもいいのですが、

きけ わだつみのこえ - Wikipedia
三光 - Wikipedia

なども「戦争体験のエゴドキュメント」の一種です。

エゴドキュメントで読み解く“大東亜共栄圏” | NHK | WEB特集 | NHKスペシャル2022.8.10
 いま専門家たちの間で注目されている「エゴドキュメント」。人びとの言論の自由が制約された時代に、表だって言えなかった“本音”を記した日記や手記、私信などを指す。
 都内の大学に、ある日本の軍人が残した膨大な資料が保管されていた。
 80年前、フィリピンの占領に最前線で関わった陸軍中尉、人見潤介が残した当時の手紙や写真、その数は1200点を超える。

(1942年マニラ占領直後に両親にあてた手紙)
「バナナは一房十銭くらい。土人原文ママ)は日本人に好意を持っています。東洋平和の日は近いです」
「我等は暴戻なる(注・横暴な)米国の東洋に於ける唯一にしてしかも最後の侵略拠点をいよいよ完全に粉砕すべく冲天の意気をもって戦っています」

 人見が占領当初に残した言葉は、希望に満ちあふれていた。
 日本を盟主にアジアが栄えるという“大東亜共栄圏”の理想が、現地の人々にも受け入れられると信じていたのだ。
 一方、人見の目には友好的に映った現地の人々は、その内心で何を考えていたのか?私たちは人見がいたフィリピンでエゴドキュメントの収集を進めた。
 そこには日本人の記録から見える世界とはまったく異なる現実があった。
 マニラに暮らしていたパシータ・ペスタニョ・ハシント(当時27歳)。
 日本軍が、フィリピンを占領下に置くため、空からの爆撃を開始した1941年12月から日記を書き始めていた。

(1941年12月9日パシータの日記「Living with the Enemy」より)
「私たちとって、これまで戦争は新聞で読んだり、ニュース映画や映像で見たりするだけのものでした。これが現実だなんてありえない!」
「いつもの暮らしを続けようとしたが、もはや正常な状態ではなかった。戦争の空気が私たちの心を支配した。常に不安を感じ、日本が落とす爆弾を警戒している」

 アメリカ統治下、パシータは医者として働く夫との間に子を授かり平穏な生活を送っていた。
 本の虫で、文章を書いたり社会について議論したりすることが好きな女性だった。
 突如始まった戦争は、彼女の生活を一変させていく。
 妊娠中の子どもの誕生を心待ちにする日常から、マニラへと進攻する日本軍を警戒する日々に変わっていったのだ。

(1942年1月1日パシータの日記)
「地方での日本の残虐行為が私たちの耳に届いた。最初は信じないようにしたが、知人が直接夫に伝えたことだから嘘だとはもう思えない。彼は話した『日本人は女性たちを町の教会に丸一日閉じ込めた。彼らは獣だ。獣よりもひどい。私たちは我慢できなかった、女性たちの叫び声とうめき声…』。私の心には恐怖が芽生えた。善良な神がどうしてこのすべてが起こることを許すのだろうか?」

 フィリピンでの作戦初期に、日本軍による強姦が多発したという事実は、日本側の極秘文書の中にも記述が残されている。
 現地の日本軍の参謀長が「軍紀風紀」について述べた文書。
 軍は、略奪や強姦を固く禁じていたが、占領下、それが徹底されることはなかった。
 さらに、欧米に取って代わった日本には、新たな経済圏を確立するだけの国力はなかった。激しいインフレと食料・生活物資の不足が人々の生活を圧迫し「大東亜共栄圏」という日本の大義を霞ませていく。しかし、日本の指導者たちは銃後の国民に対して「大東亜共栄圏の建設は着々と進んでいる」と繰り返すばかりで現実を伝えることはなかった。
 パシータは日本への不信感を強めていた。

(1942年2月パシータの日記)
「“アジア人のためのアジア”が新しい戦争のスローガンだ。でも、なぜ日本人が盟主でなければならないのだろう?」

 この時、パシータの傍らにはまだ生まれたばかりの赤ちゃんがいた。
 娘のメルトさん。
 あれから80年近くが経ち、今も存命だということが分かった。
 私たちは、メルトさんを捜し当て、話を聞くことができた。
「私は、高校生になってから母が書いていた日記を初めて読みました。衝撃を受けました。普通、第一子の妊娠や出産はとても大きな出来事です。でも、80年前は戦争でしたから。他にも大きな問題はたくさんあったから子どもの出産をただ喜ぶわけにはいかなかったのだろうなと思いました」
 メルトさんは、日本の占領下の日々をエゴドキュメントに残した母への思いを聞かせてくれた。
「自分が真実だと思うことを書き留めることは本当に重要だと教えられます。見たのならば、私たちは書き残さなくてはいけないのだと思うのです」
 戦争の時代を生きた人たちにとって、日記を書くという行為は、自らの存在を残すための行為でもあった。
 ジャーナリスト志望だったフェリペ・ブエンカミノ(22)もその一人だ。
 日記には、参加した戦闘の厳しい現実が綴られていく。

(1942年2月1日フェリペ・ブエンカミノ日記)
「ジャップ(原文ママ)は軍とともにいた民間人を爆撃した。地獄絵図のようだった。パニック。男性、女性、子どもたちが殺された。死者の長い行列が小さな門をくぐって延々と続く担架の列で運び出されているのを見た」

 やがて、所属していた部隊は降伏。
 日本軍の捕虜となったフェリペにさらなる事態が待ち受けていた。
 後に日本が“戦争犯罪”として厳しく問われることになる、いわゆる“バターン死の行進”だ。
 フェリペの日記をたどると、捕虜となったバターン半島南端から北の捕虜収容所までの間、約100キロを歩いたことがわかる。

(4月10日 フェリペ・ブエンカミノ日記)
「『君らは自由だ、フィリピン人だから』と日本人は言った。しかし、そうではないということはすぐにわかった。太陽はとても暑かった。同胞の兵士が怒った日本兵に銃剣で突き刺されているのも見た。彼は地面に崩れ落ち、そこに横たわり、目で助けをもとめていた。私は彼を助けなかったみんなを呪った。だが、自分も呪わないといけない。私も気にしなかったのだ。」

 大東亜共栄圏の理想に燃え、宣伝隊を率いていた人見潤介の活動も、次第に壁にぶつかるようになる。
 日本軍による占領への不満からフィリピンの人々がゲリラ化し、抵抗を強めていったからだ。
 占領当初、「東洋平和の日は近い」と両親に手紙で書き送った人見だが、その後内地の婚約者に送った手紙には、全く異なる思いがつづられている。

(1942年12月の手紙)
「お変わりありませんか。僕は毎日毎日はげしい思想の戦いに血みどろな戦いをつづけています。大東亜戦争の前途は益々多難を極める事でありましょう。我々は骨と皮になっても、戦い抜き必ず勝たねばなりません」

 人見は日本の敗戦をフィリピンで迎えアメリカ軍の捕虜となる。
 人見は捕虜収容所の中でも小さなノートにエゴドキュメントをつづり続けた。
 帰国後もその記録全てを大切に保管し続け、生前、信頼していた研究者・一橋大学の中野聡*35教授に託した。
「とにかく戦争はしてはいけない。平和のためにいかして欲しい」と何度も繰り返し言っていたという。


◆近代朝鮮史における日記:金允植*36『陰晴史』『続・陰晴史』を中心に(木下隆男*37
(内容紹介)
 金允植の日記『陰晴史』『続・陰晴史』について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆書評:井上敬介*38『立憲民政党の地方組織と北海道:自由民主党への道*39』(評者・官田光史*40
(内容紹介)
 「未読」ですが、タイトルだけで感じる疑問としては
1)自民党の源流を戦前に求めるとしても何故研究対象が「過去に社会党の横路知事が誕生」し自民党王国とは言いがたい北海道なのか。失礼ながら著者が北海道生まれ、北海道大学助教で北海道に思い入れがあるからに過ぎないのではないのか
2)戦前、保守政党は主要な政党*41に限っても、立憲民政党とは別に立憲政友会(戦前は田中内閣書記官長、犬養、斎藤内閣文相などを、戦後は初代自民党総裁、首相などを務めた鳩山一郎、戦後、自民党副総裁を務めた川島正次郎(池田、佐藤総裁時代)などが所属)があるのに何故民政党を分析するのか
でしょう。 
 評者も「その点」を疑問とするとともに
3)著者は自民党の特徴を「非組織的政党(議員の個人後援会の力が強く、組織政党の公明党共産党に比べて党の議員コントロール力が弱い→新自由クラブ河野洋平)、新生党羽田孜小沢一郎)、新党さきがけ武村正義)、みんなの党渡辺喜美)などといった自民党離党者による新党結成はその一例)」「中央の統制力の弱さ(都道府県連の力が強い→都連が鈴木俊一を、党中央が磯村尚徳を担いだ1991年都知事選はその一例)」とした上でその源流として「北海道の民政党」を分析しているが、「他地域の民政党」「(自民党の源流の一つである)政友会」も分析しなければ「北海道の民政党の特殊事情に過ぎないのではないか→戦後自民党とつなげることには慎重であるべき」という批判を免れないのではないか
という疑問も指摘し、読んでも疑問が解消されなかったとしています。


◆紹介:大串潤児*42編『国策紙芝居*43』(長島祐基*44
(内容紹介)
 国策紙芝居 NOA-webSHOP | 御茶の水書房で目次が確認できますが、個人的には以下に興味がありますね。

第1章 紙芝居研究のおもしろさとは何だろうか? ―方法的エッセイ―
  Ⅱ 国策紙芝居のなかの漫画―近藤日出造横山隆一をめぐって―(冨澤達三*45
第3章 植民地や海外で紙芝居はどのように行われていたか―研究交流のあしあと―
 Ⅱ 台湾における紙芝居研究への関心(邱昱翔*46
 Ⅲ 韓国における植民地朝鮮紙芝居研究(權稀珠)

 「近藤*47や横山*48て国策紙芝居に関わってたんだ」とか「台湾や韓国でもやはりそういうことをやっていたのか」とか。第三章は韓国、台湾だけのようですが勿論「満州国」「汪兆銘政権」「東南アジアの親日政権」でもやっていたでしょうから、その辺りの研究もして欲しいところです。

参考

街頭紙芝居と子どもたち 畑中圭一|東京都立図書館
 街頭紙芝居というのは、文字どおり、「街頭」つまり街なかで演じられる紙芝居です。自転車の荷台に舞台をのせた紙芝居屋さんが路地や公園にやって来て、子どもを集め、アメやセンベイなどのお菓子を売ります。そのお菓子を買った子どもだけが紙芝居を見ることができるのです。つまり、お菓子が見料というわけです。
 街頭紙芝居は誕生すると間もなく街の人気者となり、不況による失業者の増大ということもあって、紙芝居を演じる業者(以後、「業者」と呼びます)も急激に増えていきました。昭和10年東京市社会局が出した『紙芝居に関する調査』によると、昭和9年末で「日本画劇教育協会」所属の貸元から紙芝居の絵を借りている業者は、1050人となっています。
 さらに内山憲尚著『紙芝居精義』(東洋図書、1939年)の中の「全国紙芝居業者分布図(昭和11年現在)」によると、全国の業者数は9000人を越え、当時の台湾、朝鮮を含め、ほとんどの道府県で業者が営業をしていたことがわかります。
 こうした紙芝居ブームは、第二次大戦終了直後にもう一度現れます。昭和27年の『全国児童文化会議参考資料』(文部省社会教育局)によると、同年七月現在の街頭紙芝居業者数は東京2000人、大阪1000人をはじめ、全国で7075人となっていますが、実際にはもっと多くの業者がいたものと思われます。
 しかし、テレビの普及などによって、昭和30年代後半に入ると街頭紙芝居は急激に衰退してしまいます。
 街頭紙芝居が盛んなころ、子どもたちはどのくらいの頻度で見ていたのでしょうか。この点については戦前と戦後の間に大差はなく、全体では「週2〜3回」が37.5%、「週1回」が28.0%で、10日に1回とか、月に1回というのは10%以下でした。しかし、「ほとんど毎日」見たと答えた人が14.9%いたことは注目すべきことです。当時の子どもたちがいかに紙芝居にのめり込んでいたかが、よく分かります。
 子どもたちを惹きつけた街頭紙芝居の魅力とは何だったのでしょうか。その一つは《開放的で自由な雰囲気》ということです。すなわち、お菓子を食べながらリラックスして物語の世界へ入っていけるということ、先生も親もそばにいないのでのびのびと紙芝居を楽しめるということです。これが幼稚園などで演じられる印刷紙芝居と違う点です。したがって、街頭紙芝居の場合はこのお菓子が大事なはたらきをしています。子どもたちにとっては、紙芝居の世界に入って夢中になるのも楽しいことでしたが、それと同じくらいお菓子そのものに魅力を感じていたのです。アンケートの回答を見ても、紙芝居のタイトルや主人公の名前は忘れている人が多いのに、お菓子の種類については克明に書いてくれる人が多かったのです。

 話が脱線しますが、もともとは水木しげるは紙芝居作者だったところ、急速に紙芝居が衰退し、とても食えなくなったので貸本漫画家に転じたが、その貸本漫画業界も急速に衰退したので、商業漫画家に転じたことは有名な話ですね(水木しげる - Wikipedia参照)。

『国策紙芝居からみる日本の戦争』 神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター「戦時下日本の大衆メディア」研究班(代表・安田常雄)編著 : 読売新聞オンライン2018.5.1
 国策紙芝居は、絵がらも内容も個性的だ。横山隆一の漫画の主人公「フクチャン」がお小遣いで戦時国債を買う日常系の作品もあれば、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の航空作戦を描く劇画戦記もある。
 国策紙芝居には天皇の姿が全く描かれない、という指摘は鋭い。これは戦後の特撮映画で怪獣が皇居をスルーする源流かもしれない。

紙芝居が担った戦時宣伝: 日本経済新聞(安田常雄*49)2018.9.28
 紙芝居といえば、ある世代より上の人は懐かしく思い出すだろう。荷台付きの自転車に乗ったおじさんが現れ、拍子木を打って人を集める。子供たちは(ボーガス注:おじさんから購入した)水あめをなめながら、楽しい漫画や悲しい話などに見入った。私にも戦後、その記憶がある。
 こうした街頭紙芝居は1935~36年に最盛期を迎える。当時、東京では1日に100万人を超す子供が見ていたという調査結果がある。37年以後の戦時下には「国策紙芝居」と呼ばれ、国民的メディアとして人々を戦争に駆り立てるプロパガンダ(政治宣伝)の役割を担った。
 私は神奈川大学非文字資料研究センターの研究チームとともに、その調査・分析を続けてきた。いつ、誰によって、どんな作品が作られたのか。そしていかなるプロパガンダ機能を持っていたのか。
 センターは戦時下に刊行された241点の紙芝居を所蔵する。6年前に作家の櫻本富雄氏*50の収集品を購入したもので、大半が国策紙芝居の最大の版元、日本教育画劇の作品だ。
 ここに図版を掲げたのは「忠魂の歌」という作品の一場面。短歌をたしなむ陸軍軍曹が獅子奮迅の働きをするも負傷、いまわの際で詠んだ歌を妹に託した――という物語だ。生々しい戦闘の画面に〈わが體(からだ)砲煙の中にくだくとも陛下の御為なに惜しからん〉という歌が重なる。雄々しく散る軍人を礼賛した作品だ。
 国策紙芝居は実に多彩だ。兵士の活躍はもちろん、銃後を守る女性や子供ら模範的な国民像を教示する作品、楠木正成新田義貞ら忠臣の伝記ものなどが数多く作られた。動物が登場するほのぼのしたお話にも巧妙に戦意高揚の含意があり、子供たちを鼓舞する仕掛けになっている。
 貯蓄や国債購入の意義を説いたり、公衆衛生の重要さを訴えたりする作品も目につく。これらは大人向けで、当時の政策と連動している。陸軍省海軍省などが国策的な団体である日本教育紙芝居協会に制作を依頼し、その指示を受けて日本教育画劇などの出版社が企画・編集したのである。
 作品にもよるが平均発行部数は2000部ほどだったとの見方が有力だ。戦時下、紙芝居は学校や常会(町内会)、農村部では寺などで上演された。演じたのは教員のほか役場や郵便局の職員、そして大政翼賛会傘下の翼賛壮年団や産業報国会のメンバーら。国策紙芝居の目的は「教化指導」だったから、演者は大衆の上に立つリーダーという意識を持っていた。
 作家はどんな人たちだったのだろうか。例えば漫画家の近藤日出造は紙芝居も多く手がけており「敵だ!倒すぞ米英を」ではルーズベルトチャーチルを鬼やギャングとして描いた。幼児ものが得意な川崎大治*51、「紙芝居の父」といわれる堀尾青史*52、稲庭桂子*53ら力のある作家も携わった。
 作家の中には(ボーガス注:日本プロレタリア作家同盟に参加していた川崎大治など)プロレタリア文学や生活綴(つづ)り方など左翼運動に関わっていた者もいた。彼らは転向させられ、戦争が始まると国策への積極的な協力を強いられる。作品に表れた内面の屈折を読み解くのがこれからの課題である。
 国策紙芝居は日本統治下の植民地でも上演された。日本語を普及させ、皇民意識を植え付ける狙いがあった。私たちは特に台湾での状況を調べたが、熱中した子供がいた一方で、伝統的な人形芝居に親しんでいたため、紙芝居には違和感を覚えたという声もある。言語や文化の壁があり、当局が意図した成果を十分に挙げたかどうかは、今後検証していきたい。
 国策紙芝居の多くは戦後、GHQ連合国軍総司令部)の指示で廃棄・焼却された。そのため全容はわからないが、1000~1500作品が制作されたとみられる。今年、センターで所蔵する241点の図録と解説などをまとめた「国策紙芝居からみる日本の戦争」(勉誠出版)を刊行した。また戦時下の紙芝居をテーマとする公開講座も計画しており、知見を広めていきたいと考えている。
 翼賛的な文学や戦争画の研究は進んでいるが、大衆に近い紙芝居についてはまだ総括されていない。総力戦とは一体何だったのかという問題を冷静に考察していきたい。

 「話が脱線します」が、紙芝居というとドラえもんで『のび太の両親』の子ども時代の描写(勿論初期作品ですが)で出てきますね。
 何せドラえもんの連載開始は1969年。のび太の年齢設定は小学4年生(10歳、つまり1959年生まれ)と言う設定だから両親が紙芝居世代*54でも何ら不思議ではない。日テレアニメの放送開始(1972年、この場合だと1962年生まれ)やテレ朝アニメ(現在も放送)の放送開始(1979年、この場合だと1969年生まれ)でカウントしても両親が紙芝居世代だとしてもおかしくない。
 のび太を実年齢通り成長させれば既に「子どもではない」し、両親も「既に無くなってていてもおかしくない年齢」です。
 藤子Fも連載当初はこれほどのロングランになると思ってなかったでしょう。

戦争への協力呼びかけた「国策紙芝居」の展示会 長野市|NHK 長野県のニュース2022.11.4
 「国策紙芝居」は、戦争への協力を呼びかけるため、最盛期には年間、80万部が発行されたとみられ、長野市清泉女学院大学・短期大学の上野キャンパスの図書館には、当時の「国策紙芝居」のほか、手に取って見られるように複製も展示されています。
 「協和的隣居」は旧満州国で作られたため日本語と中国語でせりふが書かれているほか、子どもたちにも伝わるようにキャラクターが動物で描かれています。
 清泉女学院短期大学の塚原成幸准教授は「国際情勢が複雑ななか、国策紙芝居を通して戦争だけでなく当時の人たちの様子についても知ってもらいたい」と話していました。

【「歴史評論」購入前のメモ書き】
 「日記、歴史学」でググってヒットした記事を紹介しておきます。

歴史史料としての日記|国立国会図書館憲政資料室 日記の世界から一部引用
季武嘉也*55(すえたけ・よしなり:創価大学教授・国立国会図書館客員調査員)
1.歴史史料としての日記
 歴史研究者は昔も今も日記を歴史史料として非常に重視してきた。
 今回、電子展示会「国立国会図書館憲政資料室 日記の世界」で取り上げるものは同館憲政資料室所蔵のものであり、記主の多くは近現代日本の政治家である。そこで、つぎに政治家の日記に焦点をあててその特徴を考えてみよう。
 これが政治家の日記の最大の特徴でもあるが、(中略)自己顕示的要素が強いということである。政治家であれば積極的に自らの正当性を後世に訴えようとするのも当然かもしれない。このようなプライドや自己顕示意識の強さの裏側として、それを守るために都合の悪いことは書いていないということである。政治家の日記でカネや女性の話が登場することはまずないし、また重要な政治的出来事であっても自分の政治的立場にとって都合が悪ければ、故意に無視、軽視することもある。もっとも、そのような重大な隠蔽はなかなか隠しきれるものではなく、それを探し出すのも日記を読む醍醐味の一つといえよう。
2.幕末・明治前期の日記
 大正から昭和初期にかけて、大久保利通*56木戸孝允*57広沢真臣*58ら幕末・明治初期の重要人物の日記がまとまって刊行された。その背景は次のようなものであった。すなわち、幕末の危機を乗り越えて大日本帝国憲法発布に漕ぎつけ、さらに日清・日露戦争に勝利して世界の八大国*59の一つに数えられるほどに成長した。この苦難の足跡を明らかにしようと明治44(1911)年、文部省中に井上馨*60を総裁として維新史料編纂会が設置され、国家による本格的な史料編纂事業が始まった。そして、大正4(1915)年には同会関係者が日本史籍協会を立ち上げ、『日本史籍協会叢書』シリーズの刊行を開始した。このシリーズの一部として、先ほどの日記も含まれていたのである。
 日記には個性が現れる。明治10(1877)年2月18日、西郷隆盛*61が蹶起し、熊本県に向けて進軍したことが東京の明治政府に伝えられた。大久保利通はその日の日記に「鹿児島暴徒、熊本管内水俣、佐敷へ乱入の赴き相聞こえ、勅使〔派遣〕御見合わせ、直ちに征討を仰せ出され、征討総督を有栖川宮*62へ命ぜられるの御評議これあり」(以下、史料引用に際しては現代文風に一部改めた)と簡単に記しているのに対し、維新三傑のもう一人木戸孝允は、事実のみならず「この度、薩州の暴挙によりては必ず一大難を醸せしは必然にて、余も征討宮に随従し出発においては必至尽力いたさんことを欲し、過日来しばしば三条*63大臣へ歎願し、今日また再応その許可を乞う。また大久保、山県らの処に至りその尽力を依頼し置けり。余は政治上において痛心苦思すること在藩以来十五六年、しかして近来着実党甚だ微にして、ますます余の意見も容易に貫徹せず、〔中略〕余これを末期の奉公と決しこの念勃々として休まず、大久保には切に相乞い、また時弊をつぶさに陳述し置けり」と長々と心情を綴っている。
 大久保と西郷の関係を考えれば、大久保こそ感慨を長々と書いてもよさそうであるが、逆にこのような簡潔で記録型的な文章にこそ、鉄の意志を持つといわれた大久保の真骨頂が感じられるのではないであろうか。一方の木戸は、ご覧の通り、饒舌に自らの感情を表現しており、これを読む時、維新の頃の人々が命がけで政治に向き合っていたことを我々は思い知らされる。しかし、この饒舌さは単に彼がセンチメンタリストであったからというのではなく、「日記を記しながら、考えを整理していた。あるいは整理するために日記を書いている」ためであったという。いずれにしても、この両日記が歴史研究に裨益したところは大きく、現在においても一級の史料としての位置を保ち続けている。
 しかし、いわば藩閥の第二世代といわれる伊藤博文*64山県有朋*65黒田清隆*66松方正義*67はあまり日記を書くことがなかった。伊藤は外遊の際には書いたが、大隈重信*68に至っては日記を書くことすらしなかった。これは、彼らに政治家としての自覚が足りなかったという訳ではない。彼らは日記の代わりに大量の書簡と書類を遺していることが多い。
 このように、首相級の人物こそ日記はないが、幸いというべきか、周辺の人物はかなり遺してくれている。まず佐佐木高行*69徳大寺実則*70・土方久元*71尾崎三良*72ら宮中関係者を挙げることができる。一般に、天皇側近者は天皇の言動について詳細な記録を遺すことが多いが、そこでは国民の前で見せる通常の国務行為者としての姿とは異なる、頂点に立つ人間として喜怒哀楽し苦悩する姿を描こうとしているように思われる。また閣僚級の政治家の日記としては、樺山資紀*73・伊東巳代治*74・野村靖*75・宮島誠一郎らのものが存在する。
 議会人としては植木枝盛田中正造・片岡健吉・西潟為蔵・市島謙吉*76河野広中*77・龍野周一郎ら民党系議員や、対外硬派の貴族院議長近衛篤麿*78らのものがある。
3.明治後期・大正期の日記
 「大正デモクラシー」という言葉を耳にするが、これも大戦後の造語である。そして、その代名詞的存在となったのが昭和25(1950)年に発刊された原奎一郎編『原敬*79日記』(乾元社)であった。原はその場その場で手帳などに書き込み、それをもとに「毎夜就寝前の数分を割いて、その日の出来事の要点だけ」を鉛筆でメモし、さらに週末には別荘で記憶によって補足しながら丹念に清書したという。原の場合は「日記を記しながら、政治をしていた」のである。
 もっとも、その後、新たな史料が世に知られるようになり、研究も様々な方向に発展した。その新たな史料の一つとして「田健治郎*80日記」を挙げることができる。貴族院山県閥のリーダーであった田の日記には、「原敬日記」には全く触れられていなかった山県閥内部や貴族院内部の動向が詳細に記されている。一例を挙げよう。大正7(1918)年8月、米騒動が全国的に広がり国内が騒然となった。これに対し、原は寺内内閣の失政として特に大きな意味を見出してはいないが、田は「今や米価騒動となる。俗物の迷夢を打破しこの機会に乗じ、断乎これら社会政策を実行」すべしと記し、深刻に受け止めていることがわかる。当時の政治家としては、非常に鋭敏な感覚を持っていたといえよう。
 この他の日記を列挙してみれば、貴族院議員の石黒忠悳*81三島弥太郎*82・水野直*83黒田清輝*84・安川敬一郎*85麻生太吉*86衆議院議員では政友会の小川平吉*87・村野常右衛門・野田卯太郎*88・永江純一・横田千之助*89・伊藤大八*90、非政友会系の大石正巳*91・山宮藤吉らのものがある。官僚系政治家では、牧野伸顕*92・倉富勇三郎*93阪谷芳郎*94・西原亀三*95後藤新平*96・江木千之*97永田秀次郎*98・樺山資英*99・岡実*100らの、または軍人では、陸軍の寺内正毅*101・上原勇作*102・宇都宮太郎*103、海軍では斎藤実*104・財部彪*105・竹下勇*106らのものがある。
4.昭和期の日記
 原田熊雄の日記が『西園寺公と政局』(岩波書店)として公刊されたのも昭和25(1950)年であった。原田は元老西園寺公望*107の情報係ともいうべき存在である。「日記の世界」には、やはり西園寺の秘書であった熊谷八十三(くまがいやそぞう)の日記も紹介されている。昭和期ではいっそう多くの日記が公刊、公開されている。まず、昭和戦前期で主なものだけを挙げれば、議会関係者では浜口雄幸*108高橋是清*109鳩山一郎*110有馬頼寧*111小橋一太*112斎藤隆夫*113・山口政二・岡田忠彦*114・大木操*115・小林次郎*116、宮中関係では牧野伸顕のほかに東久邇宮稔彦*117近衛文麿*118・大蔵公望*119・関屋貞三郎*120・河井弥八*121・岡部長景*122細川護貞*123徳川義寛*124・城英一郎*125、そして軍人では陸軍の宇垣一成*126・南次郎*127・真崎甚三郎*128荒木貞夫*129林銑十郎*130阿南惟幾*131・本庄繁*132・畑俊六*133・鈴木貞一*134・岡村寧次*135松井石根*136・宮崎周一*137・有末精三*138・片倉衷*139・今井武夫*140・中島今朝吾*141、海軍の高松宮宣仁親王*142東郷平八郎*143岡田啓介*144高木惣吉*145加藤寛治*146・小笠原長生*147・宇垣纏*148嶋田繁太郎*149・沢本頼雄*150岡敬純*151・石川信吾*152南雲忠一*153、外交関係者では重光葵*154・石射猪太郎*155芦田均*156天羽英二*157・清沢冽*158、このほかに矢部貞治*159・松本学*160など多種多彩な日記が存在する。
 戦後では、宮中関係は木下道雄*161・寺崎英成*162入江相政*163卜部亮吾*164ら、議会関係者は前述の分を除けば、安藤正純*165石橋湛山*166緒方竹虎*167石井光次郎*168・加藤鐐五郎*169佐藤栄作*170・楠田実*171坊秀男*172細田吉蔵*173河上丈太郎*174・和田博雄*175平野貞夫*176細川護熙*177らの日記がある。この他に大平正芳*178中曽根康弘*179宮澤喜一*180ら首相経験者も日記を遺したことが分かっている。

*1:防衛大学校准教授。著書『「後二条師通記」論』(2019年、和泉書院

*2:中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人(和泉式部 - Wikipedia参照)

*3:中古三十六歌仙の一人(藤原道綱母 - Wikipedia参照)

*4:中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人(清少納言 - Wikipedia参照)

*5:中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。『源氏物語』の作者(紫式部 - Wikipedia参照)

*6:お茶の水女子大学教授。著書『日本古代王権と儀式』(1998年、吉川弘文館)、『遣唐使の見た中国』(2003年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『摂関政治』(2011年、岩波新書

*7:現存する世界最古の直筆日記とされ、2013年6月にユネスコ世界遺産に登録された(御堂関白記 - Wikipedia参照)。

*8:三跡の一人(他の二人は小野道風藤原佐理三跡 - Wikipedia参照)

*9:『行成卿記』、『権大納言記』とも言う(権記 - Wikipedia参照)

*10:藤原道長・頼通の全盛時代の社会や政治、宮廷の儀式、故実などを詳細に記録してあり、それらを知るうえで大変重要な史料(小右記 - Wikipedia参照)。

*11:國學院大学教授。著書『日本中世の家と親族』(1996年、吉川弘文館)、『中世の家と性』(2004年、山川出版社日本史リブレット)、『古記録入門』(2005年、東京堂出版)、『三浦一族の中世』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『三浦一族の研究』(2016年、吉川弘文館)、『北条氏と三浦氏』(2021年、吉川弘文館

*12:愛知学院大学教授。著書『日記の家:中世国家の記録組織』(1997年、吉川弘文館)、『王朝日記論』(2006年、法政大学出版局)、『日記に魅入られた人々:王朝貴族と中世公家』(2017年、臨川書店)、『中世禁裏女房の研究』(2018年、思文閣出版

*13:1918~1998年。著書『方丈記私記』(1988年、ちくま文庫)、『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』(2005年、集英社文庫)など

*14:1996年、ちくま学芸文庫藤原定家の日記『明月記』を読み解いた堀田の著書

*15:城西大学教授。著書『近世日本の法と刑罰』(1998年、巌南堂書店)、『幕末大名夫人の知的好奇心:日向国延岡藩内藤充真院』(2016年、岩田書院)、『幕末大名夫人の寺社参詣:続・日向国延岡藩内藤充真院』(2021年、岩田書院

*16:著書『近世日向の仏師たち』(2009年、鉱脈社)、『近世日向の修験道』(2016年、鉱脈社)など

*17:安政の大獄のこと

*18:三重大学准教授。著書『やさしい古文書の読み方』(2018年、日本実業出版社)など

*19:明治学院大学専任講師。著書『日記文化から近代日本を問う:人々はいかに書き、書かされ、書き遺してきたか』(編著、2018年、笠間書院)、『無数のひとりが紡ぐ歴史:日記文化から近現代日本を照射する』(編著、2022年、文学通信)

*20:北海道大学教授(英国史)。著書『産業革命』(2012年、山川出版社世界史リブレット)、『イギリス福祉国家の歴史的源流』(2014年、東京大学出版会)、『イギリス現代史』(2017年、岩波新書)など

*21:今ひとつよく分からない概念ですが政治家や財界人、文化人といった偉人ではなく「一般庶民の日記、手紙、自分史(回顧録)等」について使われる言葉のようです。

*22:国文学研究資料館教授。著書『近世日本の都市と民衆:住民結合と序列意識』(1999年、吉川弘文館)、『まちの記憶:播州三木町の歴史叙述』(2004年、清文堂出版)、『日本近世都市の文書と記憶』(2014年、勉誠出版)、『江戸水没:寛政改革の水害対策』(2019年、平凡社)、『近世都市〈江戸〉の水害』(2022年、吉川弘文館

*23:一橋大学教授。著書『物語られる「人生」:自分史を書くということ』(1997年、学陽書房

*24:1911~2017年。俳人。著書に俳句集『カルナヴァル』(2013年、草思社)、エッセイ集『あら、もう102歳:俳人金原まさ子の、ふしぎでゆかいな生き方』(2013年、草思社)(金原まさ子 - Wikipedia参照)

*25:1941年の国民学校令で設置。現在の小学校にあたる(国民学校 - Wikipedia参照)

*26:この絵日記が「夏休みの友 - Wikipedia」のような学校提出用日記かどうかは一つの問題でしょう(NHK記事ではその点が分かりませんが)。学校提出が前提であるならば学校の教師が喜ぶような建前論(戦争勝利祈念)を書いたにすぎない可能性があります。歴史評論論文で、田中氏も指摘していますが、日記を評価する際には「公開(他者が読むこと)が前提(学校提出日記、交換日記など)」か「非公開が前提」かは、重要な点でしょう。

*27:この事件については中島正人『謀殺の航跡:シンガポール華僑虐殺事件』(1985年、講談社)、林博史シンガポール華僑粛清』(2007年、高文研)等の著書がある。

*28:昭南警備司令官だった河村参郎(1896~1947年)と第2野戦憲兵隊長だった大石正幸のこと(河村参郎 - Wikipedia大石正幸 - Wikipedia参照)

*29:1900~1953年。毎日新聞大阪本社外信部ロシア課長、東京本社社会部長、出版局長、論説委員長などを歴任。著書『解禁昭和裏面史:旋風二十年』(2009年、ちくま学芸文庫)(森正蔵 - Wikipedia参照)

*30:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*31:1921~2013年。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の孫。越後高田藩榊原家第16代当主で子爵の榊原政春(1911~2002年。著書『一中尉の東南アジア軍政日記』(1998年、草思社))の妻。著書『徳川慶喜家の子ども部屋』(2000年、角川文庫→2012年、草思社文庫)(榊原喜佐子 - Wikipedia参照)

*32:戦後、本間雅晴第14軍司令官に死刑判決(本間雅晴 - Wikipedia参照)

*33:日本が占領していたシンガポールのこと

*34:こうした今となっては「恥ずかしい日記」を公開したのが「本人か遺族か」はともかくその誠実さ、勇気は大いに称えたい。

*35:著書『フィリピン独立問題史』(1997年、龍溪書舎)、『歴史経験としてのアメリカ帝国:米比関係史の群像』(2007年、岩波書店)、『東南アジア占領と日本人:帝国・日本の解体』(2012年、岩波書店

*36:1835~1922年。金弘集内閣(1894~1896年)で外部大臣(外相にあたる)を務めた。1910年の日韓併合に協力して、併合後に日本政府から子爵(朝鮮貴族)を授けられるが、1919年の三・一運動の際に韓国独立請願書を日本政府と朝鮮総督府に提出し、1919年7月、爵位を剥奪された(金允植 - Wikipedia参照)

*37:著書『評伝・尹致昊:「親日キリスト者による朝鮮近代60年の日記』(2017年、明石書店

*38:北海道大学助教。著書『立憲民政党と政党改良:戦前二大政党制の崩壊』(2013年、北海道大学出版会)、『戦前期北海道政党史研究:北海道拓殖政策を中心に』(2019年、北海道大学出版会)

*39:2022年、吉川弘文館

*40:関西大学准教授。著書『戦時期日本の翼賛政治』(2016年、吉川弘文館

*41:マイナー政党まで入れれば、この著書が研究対象とした1930年代では、1)立憲民政党を離党した安達謙蔵(加藤高明、第一次若槻内閣逓信相、濱口、第二次若槻内閣内務相を歴任)、中野正剛らが1936年に結成した「国民同盟」、2)安達との意見対立から国民同盟を離党した中野が1936年に結成した「東方会」があります。

*42:信州大学教授。『「銃後」の民衆経験:地域における翼賛運動』(2016年、岩波書店)など

*43:2022年、御茶の水書房

*44:法政大学大原社会問題研究所兼任研究員

*45:著書『錦絵のちから:幕末の時事的錦絵とかわら版』(2004年、文生書院)

*46:大阪公立大学非常勤講師

*47:1908~1979年。読売新聞政治面に長く政治マンガを描いた

*48:1909~2001年。代表作『フクちゃん』。漫画家の横山泰三(1917~2007年)は弟

*49:神奈川大学特任教授、神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター客員研究員。国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。著書『日本ファシズムと民衆運動』、(1979年、れんが書房新社、1979年)『出会いの思想史=渋谷定輔論:『農民哀史』の世界』(1981年、勁草書房)、『暮らしの社会思想』(1987年、勁草書房)、『国策紙芝居からみる日本の戦争』(共著、2018年、勉誠出版

*50:著書『満蒙開拓青少年義勇軍』(1987年、青木書店)、『大東亜戦争と日本映画』、『文化人たちの大東亜戦争』(以上、1993年、青木書店)、『日本文学報国会』(1995年、青木書店)、『ぼくは皇国少年だった』(1999年、インパクト出版会)、『戦争とマンガ』(2000年、創土社)、『歌と戦争:みんなが軍歌をうたっていた』(2005年、アテネ書房)など

*51:1902~1980年。1962年、『池にうかんだびわ』で高橋五山賞を受賞。また、戦後、日本児童文学者協会会長を務めた(川崎大治 - Wikipedia参照)。

*52:1914~1991年。1963年、『つきよとめがね』で、1966年、『宮沢賢治童話名作集』で、1970年、『こねこちゃん』で、1971年、『どこへいくのかな』で、1980年、『くじらのしま』で高橋五山賞を受賞。1991年には、宮沢賢治研究の功績で花巻市から宮沢賢治賞を受賞。著書『年譜宮沢賢治伝』(1991年、中公文庫)など(堀尾青史 - Wikipedia参照)。

*53:1916~1975年。童心社創業者(稲庭桂子 - Wikipedia参照)

*54:両親については初期作品では「国民学校生としての疎開体験」が出てくるので「1945年当時小学1年生(7歳)」と仮定すると1938年生まれ(細川元首相など)になります。

*55:著書『大正期の政治構造』(1998年、吉川弘文館)、『原敬』(2010年、山川出版社日本史リブレット人)など

*56:参議、大蔵卿、内務卿を歴任。紀尾井坂の変で暗殺される

*57:参議、内務卿、文部卿を歴任

*58:参議。1871年に暗殺されるが犯人は逮捕されなかった。

*59:日本、米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリア・ハンガリー帝国

*60:参議兼工部卿、外務卿、第一次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第二次伊藤内閣内務相、第三次伊藤内閣蔵相など歴任。元老の一人

*61:参議、近衛都督、陸軍大将を歴任

*62:東征大総督兵部卿元老院議長、鹿児島県逆徒征討総督、参謀総長など歴任(有栖川宮熾仁親王 - Wikipedia参照)

*63:外国事務総督(外相)、右大臣、太政大臣内大臣など歴任した三条実美のこと

*64:参議兼工部卿、内務卿、首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など歴任。元老の一人

*65:陸軍卿、内務卿、第一次伊藤内閣内務相、首相、第二次伊藤内閣司法相、枢密院議長など歴任。元老の一人

*66:第一次伊藤内閣農商務相、首相、第二次伊藤内閣逓信相、枢密院議長など歴任。元老の一人

*67:大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第一次山県、第二次伊藤、第二次山県内閣蔵相、首相、内大臣など歴任。元老の一人

*68:大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第二次松方内閣外相、首相など歴任

*69:工部卿、枢密顧問官など歴任

*70:宮内卿内大臣侍従長など歴任。元老・西園寺公望の兄

*71:第一次伊藤内閣農商務相、宮内大臣など歴任

*72:元老院議官、法制局長官など歴任

*73:第一次山県、第一次松方内閣海軍大臣、海軍軍令部長、台湾総督、第二次松方内閣内務相、第二次山県内閣文相など歴任

*74:第二次伊藤内閣書記官長、第三次伊藤内閣農商務相など歴任

*75:第二次伊藤内閣内務相、第二次松方内閣逓信相など歴任

*76:大隈重信の腹心の一人。大隈が事実上、党首を務めた立憲改進党から出馬し、1894年、衆院議員初当選。1901年、体調不良を理由に議員引退。その後は早稲田大学初代図書館長など歴任

*77:衆院議長、第二次大隈内閣農商務相など歴任

*78:貴族院議長、学習院院長など歴任。近衛文麿元首相の父

*79:第四次伊藤内閣逓信相、第一次西園寺、第二次西園寺、第一次山本内閣内務相等を経て首相

*80:寺内内閣逓信相、台湾総督、第二次山本内閣農商務相など歴任

*81:陸軍省医務局長、日本赤十字社社長など歴任

*82:横浜正金銀行東京銀行東京三菱銀行三菱東京UFJ銀行を経て現・三菱UFJ銀行)頭取、日銀総裁など歴任

*83:加藤高明内閣陸軍政務次官

*84:東京美術学校教授、帝国美術院院長など歴任

*85:安川電機の創業者

*86:麻生鉱業創業者。麻生太郎自民党副総裁の曾祖父

*87:加藤高明内閣司法相、田中内閣鉄道相など歴任。佐藤内閣労働相、福田内閣自治相、鈴木内閣文相を歴任した小川平二は次男。宮沢喜一元首相は孫

*88:原、高橋内閣逓信相、加藤高明内閣商工相など歴任。岸内閣労働相、佐藤内閣防衛庁長官、農林相を務めた松野頼三は孫。維新の党代表を務めた松野頼久はひ孫

*89:立憲政友会幹事長、法制局長官、加藤高明内閣司法相など歴任

*90:立憲政友会幹事長、南満州鉄道副総裁など歴任

*91:第一次大隈内閣農商務相

*92:第一次西園寺内閣文相、第二次西園寺内閣農商務相、第一次山本内閣外相、宮内大臣内大臣など歴任。大久保利通の次男

*93:法制局長官、枢密院議長など歴任

*94:第一次西園寺内閣蔵相、東京市長など歴任

*95:西原借款 - Wikipediaの発案者として知られる人物

*96:南満州鉄道総裁、第二次桂内閣逓信相、寺内内閣内務相、外相、東京市長、第二次山本内閣内務相など歴任

*97:茨城、栃木、愛知、広島、熊本県知事、清浦内閣文相、枢密顧問官など歴任

*98:三重県知事、東京市長、広田内閣拓務相、阿部内閣鉄道相など歴任

*99:第二次山本内閣書記官長、国際電話社長など歴任

*100:農商務省工務局長、商工局長などを歴任。途中退官し大阪毎日新聞副社長、会長を歴任

*101:第一次桂、第一次西園寺、第二次桂内閣陸軍大臣朝鮮総督、首相など歴任

*102:第二次西園寺内閣陸軍大臣

*103:三・一運動当時の朝鮮軍司令官

*104:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。226事件で暗殺される。

*105:加藤友三郎、第二次山本、加藤高明、第一次若槻、濱口内閣で海軍大臣

*106:軍令部次長、連合艦隊司令長官、呉鎮守府司令長官など歴任

*107:第二次、第三次伊藤内閣文相、首相など歴任

*108:日銀総裁加藤高明、第一次若槻内閣蔵相、第一次若槻内閣内務相などを経て首相

*109:日銀総裁、第一次山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相を歴任。226事件で暗殺される

*110:戦前、田中内閣書記官長、犬養、斎藤内閣文相。戦後、首相

*111:戦前、第一次近衛内閣農林相。戦後、日本中央競馬会理事長。有馬記念は彼の名に由来する。

*112:清浦内閣書記官長、浜口内閣文相、東京市長など歴任

*113:第一次吉田、片山内閣行政調査部総裁

*114:戦前、衆院議長、鈴木内閣厚生相など歴任

*115:戦前、衆院書記官長。戦後、東京都副知事

*116:戦前、貴族院書記官長。戦後、参院事務総長

*117:戦前、陸軍航空本部長。戦後、首相

*118:貴族院議長、首相を歴任。戦後、戦犯指定を苦にして自決

*119:南満州鉄道理事、日本交通公社会長など歴任

*120:静岡県知事、宮内次官、枢密顧問官など歴任

*121:戦前、侍従次長。戦後、参院議長

*122:東条内閣文相

*123:第二次近衛内閣首相秘書官。細川元首相の父

*124:侍従長。著書『侍従長の遺言:昭和天皇との50年』(1997年、朝日新聞社

*125:海軍侍従武官

*126:清浦、加藤高明、第一次若槻、濱口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第一次近衛内閣外相など歴任

*127:満州事変当時の陸軍大臣(第一次若槻内閣)。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*128:台湾軍司令官、参謀次長、陸軍教育総監など歴任

*129:犬養、齋藤内閣陸軍大臣、第一次近衛、平沼内閣文相など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*130:朝鮮軍司令官、斎藤、岡田内閣陸軍大臣、首相を歴任

*131:鈴木内閣陸軍大臣

*132:満州事変当時の関東軍司令官、226事件当時の侍従武官長。戦後、戦犯指定を苦にして自決

*133:阿部、米内内閣陸軍大臣。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*134:第二次、第三次近衛、東条内閣企画院総裁。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*135:支那方面軍司令官、支那派遣軍総司令官など歴任

*136:南京事件当時の現地軍司令官(中支那方面軍司令官)。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*137:終戦時、参謀本部第1部長

*138:終戦時、参謀本部第2部長

*139:終戦時、第202師団長(群馬県高崎市

*140:終戦時、支那派遣軍総参謀副長

*141:第16師団長、第4軍司令官など歴任

*142:大正天皇の三男。大本営海軍参謀

*143:連合艦隊司令長官、海軍軍令部長東宮御学問所総裁など歴任

*144:連合艦隊司令長官横須賀鎮守府司令長官、田中、斎藤内閣海軍大臣、首相を歴任

*145:1893~1979年。終戦時、海軍省教育局長。著書『自伝的日本海軍始末記』(1995年、光人社NF文庫)、『私観太平洋戦争』(1998年、光人社NF文庫)など

*146:連合艦隊司令長官、海軍軍令部長など歴任

*147:軍令部参謀、東宮御学問所幹事、宮中顧問官など歴任

*148:終戦時、第5航空艦隊司令長官

*149:東条内閣海軍大臣。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*150:海軍次官、呉鎮守府司令長官など歴任

*151:太平洋戦争開戦当時の海軍次官。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*152:海軍省軍務局第二課長、第23航空戦隊司令官など歴任。著書『真珠湾までの経緯:海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』(2019年、中公文庫)

*153:海軍大学校校長、第一航空艦隊司令長官、第三艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官、中部太平洋方面艦隊司令長官兼第十四航空艦隊司令長官など歴任。サイパンの戦いで自決

*154:戦前、ソ連大使、英国大使、東条、小磯内閣外相など歴任。戦後、禁固7年。公職追放も受けるが後に解除され政界に復帰。改進党総裁、日本民主党副総裁(総裁は鳩山一郎)、鳩山内閣外相を歴任

*155:1887~1954年。戦前、上海総領事、外務省東亜局長、オランダ公使、ブラジル大使、ビルマ大使など歴任。著書『外交官の一生』(中公文庫)

*156:幣原内閣厚生相、片山内閣副総理・外相を経て首相

*157:日独伊三国同盟締結時のイタリア大使。東条内閣内閣情報局総裁

*158:1890~1945年。外交評論家。著書『外政家としての大久保利通』(1993年、中公文庫)など

*159:1902~1967年。東京帝国大学教授、拓殖大学総長など歴任。著書『政治学入門』(1977年、講談社学術文庫)、『政治・民族・国家の話』(1980年、講談社学術文庫)、『近衛文麿』(1993年、光人社NF文庫)など

*160:戦前、静岡、鹿児島、福岡県知事、内務省警保局長など歴任

*161:侍従次長。著書『側近日誌:侍従次長が見た終戦直後の天皇』(2017年、中公文庫)

*162:宮内省御用掛(通訳)

*163:侍従長。著書『侍従とパイプ』(1979年、中公文庫)、『侍従長のひとりごと』(1985年、講談社文庫)、『天皇さまの還暦』(1989年、朝日文庫)など

*164:侍従

*165:戦前、犬養内閣文部政務次官立憲政友会幹事長など歴任。戦後、日本自由党政調会長(鳩山総裁時代)、鳩山内閣文相など歴任

*166:戦前、東洋経済新報主幹。戦後、吉田内閣蔵相、鳩山内閣通産相を経て首相

*167:戦前、朝日新聞政治部長、編集局長、常務、専務、副社長、小磯内閣内閣情報局総裁など歴任。戦後、吉田内閣官房長官、副総理、自由党総裁を歴任

*168:吉田内閣商工相、運輸相、岸内閣副総理、池田内閣通産相、佐藤内閣法相、衆院議長など歴任

*169:吉田内閣法相、衆院議長など歴任

*170:運輸次官から政界入り。吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*171:産経新聞政治部次長。佐藤内閣首相秘書官

*172:佐藤内閣厚生相、福田内閣蔵相など歴任

*173:田中内閣行政管理庁長官、大平内閣防衛庁長官、中曽根内閣運輸相など歴任。現在、衆議院議長細田博之は長男

*174:日本社会党委員長

*175:戦後、農林省農林局長、吉田内閣農林相、片山内閣経済安定本部総務長官(後の経企庁長官)を経て、退官し社会党から政界進出。社会党政策審議会長、国際局長、副委員長など歴任。なお、左派である和田の農林相登用に、与党・自由党内では反対の声があがったが、三木武吉が「和田農相を拒否して、吉田内閣がつぶれた後に、GHQ社会党共産党に連立政権を呼びかけたらどうする」と説いて、和田の農林相就任を認めさせたのは有名な話である

*176:衆院事務局職員を経て参院議員。著書『平成政治20年史』(2008年、幻冬舎新書)など

*177:熊本県知事、日本新党代表、首相を歴任。著書『権不十年』(1992年、NHK出版)、『跡無き工夫・削ぎ落とした生き方』(2013年、角川oneテーマ21)、『明日あるまじく候:勇気を与えてくれる言葉』(2021年、文春新書)など

*178:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相

*179:1918~2019年。岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相。著書『日本の総理学』(2004年、PHP新書)、『保守の遺言』(2010年、角川oneテーマ21)、『自省録』(2017年、新潮文庫)など

*180:1919~2007年。池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経済企画庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相。著書『戦後政治の証言』(1991年、読売新聞社)、『新・護憲宣言』(1995年、朝日新聞社)など