今日の産経ニュース(2023年1/18日分)

立民と維新、協調を正式合意 増税反対や「身を切る改革」 - 産経ニュース
 「事実上の野党共闘破壊行為」にいそしむ泉立民です。しかし共産、社民、れいわとの過去の共闘に比べて成果があるとも思えません。リベラル層は立民から離れ、右派層は維新から奪えず、どんどん衰退するという「泉が代表就任から続く自滅の道」が今後も続くだけでしょう。参院選での敗北(どう見ても泉路線*1に対する国民のノー)が泉をやめさせるチャンスだったのにそれができず、泉の暴走を容認する立民には心底呆れます。それにしてもこんな自滅の道に「共産も付き合え」と批判?いえ、共産党が必要だという叫びです | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Amebaでほざく松竹のバカさには心底呆れます。「改憲右翼」「新自由主義による福祉切り捨て」「歴史修正主義慰安婦銅像でのサンフランシスコ市との姉妹都市廃棄など)」「コロナ無策による医療崩壊」「カジノ計画」「不祥事常習」等と「共産と共通点がまるでない」「まだ河野洋平福田康夫などの方がまし」な維新と何で共闘できるとか、すべきとか思うのか。
 「党本部職員もまともに務まらなかった無能の分際」で大言壮語する松竹がバカなのはどうでもいいですが、党を「無理心中の道連れ」にしようとするのはやめてほしい。そんなに志位執行部が気に入らないなら松竹は離党したらどうなのか。
 それにしても維新も当初は立民に散々悪口していた物の、「安倍死後、自民は敵対はしないものの、維新から一定の距離を置き」、維新単独では参院選で思ったほど伸びない中「立民にすり寄ること」にしたようですが、「俺の願望込み」ですが、これは「右からも左からも野合扱い」で、立民だけでなく「維新の自滅も招く」のではないか。


給食カレーに漂白剤混入 女性教諭起訴 埼玉 - 産経ニュース
下半身露出の自衛官停職 青森・三沢基地 - 産経ニュース
 勿論こうした行為は許されませんが、「何故こうなったのか」は考えるべきでしょう。「超過勤務で精神を病んでいた」など勤務状況に問題があった可能性もあるでしょうから。個人責任にしていいのかどうか。


【チャンネル正論】安倍元首相暗殺犯擁護 危険な風潮 - 産経ニュース
 安倍や自民党統一協会を批判し、山上に対して可能な限りの寛刑を希望すること何が問題なのかと怒りを禁じ得ません。
 それは例えば「老老介護での介護疲れ殺人」について日本の貧弱な医療制度を批判し、被告に寛刑を望むのと何が違うのか。
 

世界遺産・姫路城は売られていたかもしれない 学芸員が紐解いた歴史の真実 - 産経ニュース
 日本の城が、明治時代初期に酷い扱いを受けていたことについては以前、拙記事で以下のように書きましたので改めて紹介しておきます。姫路城に関する記述部分を今回赤字にしておきます。

新刊紹介:「歴史評論」2022年4月号(追記あり) - bogus-simotukareのブログ
◆近世城郭の保存と華族宮内省研究(篠崎佑太*2
【参考:廃城令】

全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方 - Wikipedia
 いわゆる「廃城令」の正式名称。
 それまで全国の城郭の土地建物については、陸軍省所管財産であったが、今後陸軍が軍用財産として残す部分については存城処分、すなわち引き続き陸軍省所管の行政財産とするも、それ以外については廃城処分、すなわち大蔵省所管の普通財産に所管換えし、大蔵省において処分すべきものとした。
 この場合の「存城処分」とは旧城郭を「文化財」として保存しようとするものではない。その後、陸軍の兵営地とする目的で城郭建造物がすべて取り壊された若松城の例がある一方、一部の建造物が取り壊され、陸軍施設が設置されたが、天守等の主要な建造物やほとんどの遺構が現存し、国宝、特別史跡になっている姫路城の例がある。例外的に、存城処分として陸軍用地となった城郭であっても、彦根城のように、明治政府の特例政策として城郭の土地と建造物が保存され、国宝、特別史跡となっているものもある。
 また、廃城処分とは大蔵省の普通財産に所管換えし、学校敷地等として売却するための用地となったものである。全国のほとんどの城郭陣屋の建造物が取り壊され、土地は払下げられた。ただし、犬山城松本城のように、建造物が売却、取壊しの対象になったが、結果的に現存し、国宝、史跡になっているものもある。
 後に、1890年(明治23年)になって、陸軍省用地としたものの不用になった城郭が、元藩主や地方団体に限り、公売によらず相当対価をもって払い下げられることもあった。「旧城主は祖先以来数百年間伝来の縁故により、これを払い渡し旧形を保存し、後世に伝えるなら歴史上の沿革を示す一端となり好都合である」ことを理由とした。「史跡としての文化財保護」のさきがけといえるが、史跡の法的な保護制度は、1919年(大正8年)制定の史蹟名勝天然紀念物保存法を待たなければならない。

【超入門!お城セミナー】現存天守はなぜ12城しか残っていないの?
 明治時代まで残った城たちにとって運命の分かれ道となったのが、明治6年(1873)の「廃城令」です。廃藩置県を機に、一旦城はすべて陸軍省の財産となりましたが、すべてが軍用地として必要なわけでもなく、管理も大変で手に余ります。そこで、要塞として必要な城は「存城」、不要な城は「廃城」が通達され、廃城となった城は大蔵省の普通財産になりました。
 この時40城余りが存城となったとはいえ、文化財として保存されるわけではありません。軍用地確保のために建物を壊したり、逆に主要な建物は残して石垣や堀を壊したりといった扱いでした。一方、廃城処分となった約150城の中には、学校用地となったものも多かったようです。確かに、城跡に建っている学校をよく見かけますよね。また建造物のうち、小ぶりな門や櫓・玄関や式台などは、近くの寺や神社に移築・再利用された例もたくさんあります。
 では、天守はどうでしょう? 天守は、巨大なため取り壊し・移築・再利用のどの道を選んでも莫大な費用がかかります。そのため無用の長物と判断され、超低価格で払い下げられてしまいます。存城処置となっても、その後結局払い下げられた天守も多く、現在国宝の松江城島根県天守は180円、世界遺産でもある姫路城(兵庫県天守はなんと、23円50銭の値しかつかなかったといいます。当時は米1俵が3円弱。姫路城天守はたった米10俵の価値だったということになります。
 (ボーガス注:取り壊された城郭の材木によって)薪の値段が暴落するほど全国の城が一斉に取り壊される中、城を守ろう!と動いた人たちもいました。陸軍大佐の中村重遠は、日本の城が建築的・美術的に価値あるものだと考えた一人。陸軍トップの山県有朋に建白書を提出し、これが認められて永久保存決定・修理されたのが、姫路城と名古屋城(愛知県)です。彦根城滋賀県)も、立ち寄った明治天皇大隈重信が保存を奏上したことにより、勅命で保存が決定しました。また、松本城(長野県)は、『信飛新聞』発刊者の民権運動家・市川量造が、有志から資金を集めて落札主から天守を借り受け、さらに県の協力も取り付けて天守で博覧会を開催。その収益で天守を買い戻し、取り壊しを回避したのです。

超入門!お城セミナー 第114回【歴史】明治時代にお城がたくさん破壊されてしまったって本当?「廃城令」って?
 今回のテーマは廃城令。なぜ、無数に築かれた城は激減してしまったのか。その大きな原因となった「廃城令」について解説します。
 まだ廃城令が出される前、明治維新の時点で日本に存在していた城は193、城持ちではない大名の本拠地・陣屋は127、これ以外の重要拠点である要害が20で、合計340城あったといいます。しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始めていました。版籍奉還によって大名所有の土地と人民、そして城も明治政府のものとなりましたが、管理を委託されたのは旧藩主の知藩事。城は巨大建築であるがゆえに老朽化が激しく、屋根は波打って瓦がずれ落ち、壁の漆喰は剥落、板戸や窓枠は外れ、草がぼうぼうに生い茂るといった有り様。また、新政府への反抗運動の拠り所となるのを防ぐために取り壊された城もありました。そして、明治4年(1871)の「廃藩置県」で知藩事という職がなくなり、彼らが東京移住を命じられると、主がいなくなった城はさらに荒廃していきました。
 そして明治6年(1873)、廃城令が発せられます。簡単にいうと、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」ということでした。存城処分となったのは、東京城江戸城/東京都)、仙台城宮城県)、名古屋城(愛知県)、大阪城大阪府)、広島城広島県)、熊本城(熊本県)などをはじめとする43城1要害のみ(諸説あり)。残りはほとんどが廃城処分となりました。
◆存城=保存ではない! 城郭保存へいたる長い道のり
 存城・廃城と運命が分かれた城たちですが、ここで大切なのは、「存城=保存」ではないということです。あくまでも軍用地としての存続なので、存城となっても、広い場所を確保するために堀を埋めたり、石垣を破壊したり、建造物を取り壊したりという例が少なくありませんでした。逆に、本丸や二の丸など主要部以外の広い曲輪を軍用地としたため、天守などの建造物は残されたという例も。会津若松城福島県)は前者の例で、存城となったものの、すべての城郭建造物が取り壊されました。姫路城(兵庫県)は、典型的な後者の例です。現在三の丸を囲む堀の外側に建つ市立美術館は、元は明治時代に建てられた軍の倉庫でした。存城となっても、遺構の残り方は一様ではなかったということですね。
 さて、明治10年前後には、存城処分となり軍用地として存続していても、老朽化によって取り壊しの危機を迎える城が続出しました。この時、軍内部や庶民に、初めて城を文化財として残そうと考えた人たちが現れ、これによって姫路城、名古屋城彦根城滋賀県)、松本城(長野県)、松江城島根県)などが取り壊しを免れています。

城の終焉「廃城令」と名城のその後 「青天を衝け」の城 (11) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
 1871(明治4)年の廃藩置県で、藩庁である城も役目を終えた。そして、1873(明治6)年1月14日に廃城令が公布されると、全国の城の多くが姿を消すこととなった。
 (ボーガス注:廃城令とは)明治維新により陸軍省所管財産となっていた城の土地や建物を、「存城処分」として陸軍省所管の行政財産とするか、「廃城処分」として大蔵省所管の普通財産にして売却処分するかに分けるもので、これにより43城(諸説あり)が存城処分、そのほかの城のほとんどは廃城とされた。
 存城処分といっても城を後世に残すことが目的ではなく、あくまで陸軍用地としての利用が目的だ。そのため、軍の施設建設のために広大な敷地を確保すべく、城内の石垣は壊され、堀は埋め立てられ、建物も次々に破却された。
 たとえば姫路城(兵庫県姫路市)には8棟の国宝天守群と74棟の国指定重要文化財という計82棟の現存建造物があるが、御殿はひとつも残っていない。
 廃城令から数年経ち、城への文化的な価値に目が向けられはじめたことで、城の建物は貴重な文化財として後世に残ることになる。破却が進んでいた姫路城では、中村重遠陸軍大佐が陸軍卿の山縣有朋に姫路城の価値を述べた建白書を提出。天守群ほか多くの櫓や土塀などが取り壊しを免れた。
 彦根城天守も、運よく破却を免れた国宝天守だ。陸軍省が管轄していたものの、老朽化のため売却、破却されることになったが、1878(明治11)年、明治天皇行幸した折に随行していた大隈重信の働きかけで天守や櫓が保存されることが決定。皇室付属地彦根御料所となった後、最後の彦根藩主・井伊直憲に下賜されて保存がかなった。
 藩の象徴であっただけに、旧藩士などの奔走によって守られた城も多い。たとえば1875(明治8)年に売却された松江城松江市)の天守は、旧藩の銅山経営にあたった豪農の勝部本右衛門と元藩士の高城権八らが資金を調達して落札額と同額で買い戻されている。落札額は180円(約360万円)で、天守以外の建物は4〜5円だった。丸亀城天守と大手門も、旧藩士の懇願で破却を免れたとされる。
 松本城の国宝天守も、民間人の奔走により奇跡的に残った。廃城令により競売にかけられ取り壊しが決まると、下横田町の副戸長・市川量造が私財を投げ打ち買い戻しに奔走。資金が足りなかったため、博覧会ブームを受けて天守内での博覧会開催を提案し、1873(明治6)年から1876(明治9)年まで5回の博覧会を催して、その利益で補充したという。
 老朽化が進んだ天守はその後、松本中学校長の小林有也(うなり)が資金調達に奔走。1903〜1913(明治36〜大正2)年に大修理されている。

近代 | 名古屋城の歴史 | 知る | 名古屋城公式ウェブサイト
 明治に入ると名古屋城は陸軍の所管となり、取り壊しの危機を迎えます。
 しかし、全国屈指の名城として永久保存されることが決まると、宮内省所管の名古屋離宮となり、天皇や皇后、皇族の宿泊などに利用されました。
 名古屋城は、1872年(明治5)に本丸に陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、同年に二之丸、三之丸も陸軍省の所管になります。翌年、東京鎮台第三分営から名古屋鎮台に改称され、天守を仮兵舎、本丸御殿が名古屋鎮台本部に。その後、二之丸、三之丸に兵舎などが整えられていきます。この頃、場内に新たに陸軍の施設が建てられると同時に、二之丸御殿をはじめ多くの建物が撤去されました。
 こうした動向に対し、名古屋城を保存すべきとの声が挙がりました。1879年(明治12)に、陸軍省内務省、大蔵省は、名古屋城を姫路城とともに「全国中屈指の城」として、永久保存する方針を決定。この決定によって、保存修理の費用や人員の負担が重くなったことをひとつの要因に、名古屋城陸軍省から宮内省への移管が1891年(明治24)に決まりました。
 名古屋城宮内省に移管され、1893年(明治26)に本丸・西之丸東部は名古屋離宮*3となりました。この後、1930年(昭和5)までこの名で呼ばれ、天皇や皇后を度々迎えます。本丸御殿は、皇族の宿泊所として利用されました。
 1930年(昭和5)、名古屋離宮名古屋市へと下賜されて、再び名古屋城と呼ばれるようになりました。翌年には一般公開が始まり、多くの市民が足を運びました。

中村大佐顕彰碑 | 姫路城完全観光案内所
 姫路城を訪れて、この碑に注目される方はなかなか少ないんですよ、こんなにいい場所に建てられているのに。
 ここに名前が刻まれている中村大佐とは、明治初期に陸軍歩兵大佐であった中村重遠大佐のことです。姫路城が今日までその美しい姿を伝えている裏側には、実に多くの人たちの努力と苦労があったのですが、この中村大佐はその中でも第一級の働きをされた方として、ここにその業績を顕彰し、「姫路城の恩人」として称えられています。
 明治維新によって廃藩置県がなされ、全国にあった封建制度の象徴と言うべきお城は存続か廃城かの見直しがなされ、陸軍が兵営地や訓練場所としての価値を認めた全国43城以外は、明治6年の「廃城令」によりすべて廃却されました。
 姫路城は幸いにもその43城の中に入り、お城は残ることになりましたが、それは姫路城の敷地は陸軍の師団が駐屯するのに好都合だからそのまま残された、というだけのことであり、今日のようにお城の歴史的・文化的価値を認める、などという発想はまだ誰にもありませんでした。そのため建築物などは荒れるに任され、明治11年ごろまでには姫路城も取り壊しや売却の危機に瀕しました。このとき、陸軍の建築、修繕を担当する部局第四局で局長代理の任にあったのが中村重遠大佐でした。中村大佐は全国の城を視察する中で、とくに姫路城と名古屋城の文化的価値を認め、ときの陸軍卿山縣有朋に、この天下の二名城を後世に残すよう太政官に上申してもらいたい、という意見書を提出し、その結果陸軍参謀本部がこの上申を認め、とにもかくにも応急の保存工事が国の予算の中からできることとなり、のちの大規模な修理工事へとつながるのです。
 ほんとうに、この中村大佐がいなければ今ごろは姫路城もほかの多くのお城と同じように、石垣だけが残る「城跡」になっていたことでしょう。ありがたいことです。

*1:自民党と似たり寄ったりの路線を取れば自民批判派は立民から離れ、自民支持層は「自民が与党なのに立民を支持するメリットがない」で当然立民など支持せず、立民が惨敗するのも当然でしょうがそうは思わないらしい泉には心底呆れます。

*2:宮内庁宮内公文書館研究員

*3:日本では皇族が利用する建物のうち、一定規模以上の建造物と敷地を有するものを離宮とし、小規模のものを御用邸と称している。名古屋離宮名古屋城)のように近世城郭が一時的に離宮となったケースとしては他に「二条離宮(二条城)」がある。なお、離宮としては現在、桂離宮修学院離宮が存在する。御用邸としては、現在、那須御用邸葉山御用邸須崎御用邸が存在する(離宮 - Wikipedia御用邸 - Wikipedia参照)