珍右翼・高世仁に突っ込む(2023年2/14日分)(副題:新しき村と『ニートのシェアハウス』)

中村哲医師とフランクル7 - 高世仁のジャーナルな日々
 「共同体重視(あるいは農業重視?)」という意味で「中村氏(但し、中村氏の場合はアフガンの地域共同体)」と「新しき村」に共通点があると高世は言いたいようですがはっきり言ってこじつけでしょう。

 白樺派の作家、武者小路実篤の「新しき村」が、「村民」が3人まで減って、大きな転機を迎えているという。「新しき村」って、まだあったのか。
 50代以下は知らない人が多い*1と思うが、「新しき村」とは、近代的な個を尊重しながら、自然と親しみ共に生きていくという実篤の理念のもとに1918年に開かれた農業共同体。理想の共同体をつくる運動の草分けのような存在だった。
武者小路実篤の理想郷の100年後 「新しき村」が挑む再生への道:朝日新聞デジタル(永沼仁)2023.2.7
 白樺派の作家、武者小路実篤(1885~1976)が開いた理想郷「新しき村」が大きな転機を迎えている。100年を超え存続してきたものの、本拠地の「村民」は減り続け、今や3人だけ。再生に向け、新たな挑戦が始まった。
 村では現在、40~70代の男性3人がそれぞれ別棟で暮らし、協力しながら無農薬で米や茶を栽培している。
 始まりは、大正時代にさかのぼる。ロシア革命の翌年、第1次世界大戦が終わった1918年。国内では、米騒動スペイン風邪が流行していた。
 そんな不安定な時代に、実篤は、仲間と宮崎県の山間地を開拓した。一定の労働をすれば衣食住が平等に保証され、自由に余暇を過ごせる「人間らしい生活」のできる場をめざした。
 しかし、ダム建設で主な農地が水に沈むことになり、1939年に現在の場所に本拠地を移した。
 当初、村外からの経済支援が欠かせなかった。だが、戦後に始めた養鶏事業が成功した。1958年には、村の事業だけで自分たちの生活費をまかなえるようになったという。1960、70年代には若者の入村や出産が相次ぎ、幼稚園もつくった。村の人口は、最盛期で60人を超えた。
 しかし、その後は高齢化と村民の減少が進む。卵価の低迷などによる収入減が大きな理由だった。
 財政を安定させようと始めた太陽光発電が、窮状に拍車をかけた。2010年に導入したものの、固定価格買い取り制度が終わり、売電価格が大幅に下落したからだ。
 村の先行きが見通せなくなり、一部では「解散」もささやかれた。100周年を迎えた2018年に8人いた村民のうち、70、80代の5人が昨年春、去っていった。
 村を運営する一般財団法人の理事長*2を務めていた寺島洋さん(81)も、その1人だ。村内で結婚し、約60年暮らした。愛着は強いが、村の立て直しを主導することに限界を感じた。
 自分が村から離れれば、少しでも経費が減らせる。「新たな人たちにバトンタッチする時期だと思い、決断しました」という。
 施設の老朽化は目立つ。村内にある、実篤の遺品を展示する美術館を訪れる人はまばらだ。従来のやり方では村の維持は難しい。

 高世の紹介するのは朝日新聞記事ですが他の記事も紹介しておきます。

新しき村 - Wikipedia
 近年、高齢化が進み、鶏卵の値下がりや人手不足で養鶏を止めるなど農業収入の低迷もあり、村の運営が困難になってきている。過去の積立金を取り崩して赤字を補填している。2010年に太陽光発電を始めたが、固定価格買い取り制度終了で売電価格が下がったことも財政難の一因になった。
 2013年時点の(埼玉の「新しき村」での?)村内生活者数は13人。村外会員は約160人ほど。2018年時点では宮崎の「新しき村」で3人、埼玉の「新しき村」で8人が暮らしていたが、2021年春に70~80代の5人が離村し、2023年2月時点では埼玉の「新しき村」村民は3人へと減った。

開村100年の理想郷 新しき村に生きる人達(2019年5月4日放送)|特集|U-doki|UMKテレビ宮崎*32019.5.6

【SAITAMA珍奇ツアー】「自他共生」の理念つなぎ100年 実篤の理想郷「新しき村」 埼玉・毛呂山町 - 産経ニュース(中村智隆*4)2022.11.27
 埼玉県南西部に位置する毛呂山町の中心部にほど近い丘陵地帯。周囲とはどこか違う空気をまとう一画がある。小説家、武者小路実篤が開いた農業共同体「新しき村」。「自他共生」の理念をつなぎ100年を数える。だが、ここにきて住む人が最盛期の20分の1に減り、存続の危機が叫ばれている。実篤の目指した理想郷はどこへ向かうのか。
 毛呂山町の県道30号飯能寄居線から脇道に入り、JR八高線の踏切を渡ってさらに奥。林に挟まれた細い道を抜けると、茶畑などが広がる集落が現れる。
 村では作ったコメや茶を販売し、太陽光発電設備を置いて売電収入も得ている。村の住人は農業などの労働を分担する共同生活を送り、月3万5千円の生活費などをもらうそうだ。
 実篤*5の援助も受けながら村は発展、養鶏事業などを柱に昭和の終わりごろには50~60人が暮らすまでになった。しかし事業は衰退し住人は3人にまで減った。
 それでも、手をこまねいているわけではない。村は「一般財団法人」だが、5月に県に「公益法人」の認定を申請。公益法人に寄付する人は税制優遇があり、寄付が増える可能性がある。
▼所在地=毛呂山町葛貫423の1
▼アクセス=東武越生線武州長瀬駅から車で約5分、JR八高線毛呂駅から車で約10分

「新しき村」100年続いた理由 「村人」希望いるのに増やせない理由朝日新聞記者・初見翔)2018.11.27
 ここで、50年以上この村で暮らす寺島洋さん(76)と待ち合わせ、3時間ほど話を聞きました。
 まずは率直な疑問です。どうして新しき村は100年も続いたのでしょうか。寺島さんはその理由に「仲間割れを起こさなかった」ことを挙げました。
 「もちろんいろんな人が一緒に住むのは大変。人間関係がこじれて村を離れる人もいましたが、村に恨みをもった人はいなかったと思います」
 新しき村には村の中で実際に暮らす「村内会員」に対して、村に住まないけれど外から応援する「村外会員」という人たちがいます。
 月500円の会費を払うことで誰でも参加でき、いまは全国各地に200人弱いるそうです。(私も研究を始めるにあたって、まずはこの村外会員になりました)
 新しき村では村内会員になるのも、やめて村を出ていくのも基本的には本人の自由です。
 過去をさかのぼると、様々な事情があって(一番は男女間の問題だった、と寺島さんは教えてくれました)村を去る人もいたのですが、そうした人の多くが村外会員として村との関係を保っています。
 なかには今でも頻繁に村に通って農作業を手伝っている人もいます。
 それでは、新しき村での実際の生活はどのようなものなのでしょうか。
 まず、よくイメージされがちな「自給自足」ではありません。お米や野菜など自分たちで作っているものももちろん食べますが、肉や魚をはじめ、必要なものは外から買ってきます。
 生活費は、年齢や担当している仕事に関わらず、1人あたり毎月3万5千円が支給されます。
 それとは別に、一部の生活必需品などに対しては費用の補助もあります。私有財産は認められていて、村に住む前の貯金などもそのまま持ち続けることができます。
 プライバシーもしっかりと守られています。住居は世帯ごとに別々の戸建てで、仕事の担当が違うと1日に一度も顔を見ない人も。
 そんな実情を知ったとき、私が思い描いていた「共同生活」とは少し違って不思議でした。
 ただ、元々は赤の他人なわけで、不要な接触を避けた方が人間関係の摩擦も少なく、関係が長続きするのかな、とも思いました。
一方で、共同生活ならではの厳しさもあります。
 それがよく表れていると感じたのが、新たな「村人」の受け入れに対する態度です。新しき村で暮らす人たちと接した限り、彼ら彼女らは新規「村人」の獲得にあまり熱心ではありません。むしろ、後ろ向きと感じることさえありました。
 例えば、私が6年前に研究を始めるにあたって、村に泊まって農作業を手伝いたい、という旨のメールを送ってみたのですが、返事は「1泊2日や日帰りなら認められるが、1週間や1カ月は認められない」という少し素っ気ないものでした。
 他にも、村に滞在していると手紙や電話で新しき村に「入村」して生活したい、という申し出が届くことがあるのですが、やんわりと断ることが多かった印象です。近年「入村」したある人は、何度も村に通い、熱意を示すことで徐々に受け入れられたようでした。
 私は新しき村を訪れるまで、「少しでも仲間を増やしたい」「若い人は大歓迎」といったイメージを勝手に抱いていたのですが、全くの見当違いでした。
 こうした態度の背景について、寺島さんは「経済的な厳しさ」を挙げます。
人が増えると村の出費は増えますが、その分を賄えるほど利益が出る仕事はなかなか見つからない、ということです。
 新しき村ではかつて、鶏を育てて卵を売る「養鶏」が経済的な繁栄を支えました。当時としては最先端の設備を導入し、最盛期には5万羽以上の鶏を飼育して3億円もの売り上げを出したこともありました。
 村で暮らす人数が増えても、飼育する鶏の数を増やし、新しく村に入った人をその担当にすることで必要な経費の増加分を賄えたそうです。
 ただ、卵の価格低迷や担当者の負担増が原因で、鶏の飼育は数年前にやめてしまいました。米や椎茸、お茶など、村でつくった他の作物も売っていますがかつての鶏卵の収入には及ばず、さらには2011年の東日本大震災で出荷停止や客離れがおきます。
 過去には、希望者をどんどん受け入れた結果、働かない怠け者が出てきてしまい、問題になったこともあったこともあったとか。
 こうしたことも、どんな人物かしっかり見極めるまでは簡単に受け入れられない、という姿勢につながっていると考えられます。
 とはいえ、村で暮らす人の減少や高齢化は避けて通れない課題です。埼玉県の新しき村では、私が訪れた6年前には当時13人の方が暮らしていましたが、3人が亡くなり、2人は村を離れました。現在の8人*6の年齢は40~80代で、平均しても65歳ほどになります。
 100年も続いてきた新しき村ですが、このままでは過去のものになってしまう可能性もあります。
 新しき村には、現代でも通用する理想があると感じます。
 「男女平等、モノの共有、病気になったら仕事を休む。村は時代の先を進みすぎていたんです。いまは社会のほうが少し近づいてきているのかもしれない」と寺島さんは言います。
 例えば、モノの共有。
 私は普段、自動車産業の取材を担当していますが、みんなで共有しながら必要なときだけ使う「カーシェアリング」は日本でも普及してきました。
 車に限らず、住居を共有する「シェアハウス」や「民泊*7」など、シェアリングエコノミー*8は時代のトレンドとも言えます。そんな、必要なものはみんなで共有する、という考えは新しき村では昔から当たり前だったといいます。
 新しき村の「誰もが人間らしく」という考え方は、格差や分断が広がるいまの社会にこそ見直されるべきではないか。このままなくなってしまうとしたら、あまりにもったいない。
 久々に村を訪れ、そんな思いを強くしました。

 そのうち「新しき村」は自然消滅するんじゃないか。失礼ながら無理に残す必要があるとも思えないし「残せる可能性がある」とも思えない。
 以前、小生がこの村に行ったとき(入村希望ではなく単なる観光)は

◆「文さん」こと山本文郎*9のテレポート6(1975~1990年に放送、山本がキャスターだったのは1976~1987年)で、村が取り上げられた時の番組のビデオテープ(ミニコーナーで確か5分程度)

を見せてもらいましたが「その番組での村(1970~1980年代でまだ賑やかだった)とは明らかにかけ離れた現状(人の気配が少ない)」に何ともわびしさを感じました。
 朝日や産経の記事は「継承」云々といったトーンですが「新しき村」100年続いた理由 「村人」希望いるのに増やせない理由を読む限りでは「村外会員」はともかく、とてもそんな意思が村民にあるか疑わしい。
 確かに「変な怠け者に来てもらっても困る」「信用できる人間でないと受け入れられない」あるいは逆に「経済的に厳しいのでよほどの覚悟がないと無理」、だから「安易に新規村民を受け入れることなどできない」というのは真実ではあるでしょうが。

【読書感想】「新しき村」の百年―〈愚者の園〉の真実― ☆☆☆ - 琥珀色の戯言2018.11.23
 「新しき村」って、まだあったのか。
 著者*10は1944年生まれの民俗研究者ということなのですが、1970年代生まれの僕からすると、なんかちょっとピンと来ない感じではあるんですよね。
 理想とかユートピアとか言うけれど、こういう、生きづらい人たちが農村で集団生活をする、という仕組みそのものが、今は時代錯誤になってしまっているのではないかなあ。
 それこそ、ニートが集まるシェアハウスのほうが、よほど「現代的なユートピア」だと思うのです。
 「新しき村」が100年続いてきたのは、すごいことだけれど、その一方で、あまり大きな人数にならなかったからこそ、細々と続けてこられたのではないか、という気もするんですよね。
 2013年の時点での、埼玉県の「新しき村」の村内生活者は13名で、村外会員が160名。
 高齢化がすすんでおり、農業や鶏卵などの事業も立ち行かなくなっている状況です。
 これまでの預金を切り崩して、なんとか生計を立てているのです。
 実際は「新しき村」という名前を受け継いでいるだけの、高齢者たちが集まって生活しているだけの小さな集落でしかなさそうなんですよ。
 もともと自由度が高かっただけに、「ヤマギシ会」のような「特別な生活をしている集団」という感じでもありません。
 創設者の武者小路実篤さん自身も、「新しき村」で生活していたのは一時期だけで、その後は自ら(家庭の事情ということで)村を出て、村外会員として、経済的に村を支えています。
 実際のところ、「新しき村」を経済的に長い間支えていたのは実篤さんの原稿料で、農業や陶業、鶏卵事業などで自活できるようになるのは、かなり時間が経ってからでした。
 この本を読むと、「新しき村」の場合、内部での諍いで村での生活から離れてしまった人でも、村外会員として会の活動を支援していくことが多かったようです。
 細々とながらも、100年も続いてきたのは、そういう「緩さ」みたいなものが幸いしたのではないか、と僕は思います。
 「新しき村」のような選択肢が存在するのは良いことだと思うけど、若者は、たぶん、いまの「新しき村」には、魅力を感じないと思います。単なる限界集落だものなあ。
 もっと、今、「新しき村」で生活している人たちの生活ぶりやナマの声が収録されているのかと思っていたのですが、メンバー紹介や村の歴史などに多くのページが割かれていて、「創立○○周年記念の社史」あるいは「公式ガイドブック」のような内容です。
 「データとしては、どこかに残されているべきなのだろうけれど、ちょっと興味を持って新書を手にとった僕にはつらいな」というのが率直な印象でした。

 ニートが集まるシェアハウスについてはググってヒットした以下の記事を紹介しておきます。

“山奥ニート”が、見つけた幸せ~限界集落のシェアハウス~ | NHK | WEB特集2021.6.11
 人口わずか5人だった和歌山の限界集落。コンビニも娯楽施設もないこの場所に、若者たちが集うシェアハウスがあります。
 都会での暮らしに生きづらさを感じ、ここへとやってきた若者たちは、食べていくのに必要な分だけ働き、あとはのんびり。ゆるゆると暮らし、“山奥ニート”と自称しています。
 そして、いつの間にか、すっかり地区のお年寄りたちとも打ち解け、一緒に酒を酌み交わす仲に…。そこには、不思議な“つながり”が生まれていました。
 “山奥ニート”たちが、限界集落で見つけた豊かな暮らし。少しのぞいてみませんか?
(経済番組ディレクター 金武孝幸)
 和歌山県田辺市、最寄り駅から車で2時間の五味地区にあるシェアハウス「共生舎」。
 7年前から、ひきこもりやニートが公的な支援に頼らずに暮らせる居場所となってきました。現在は、全国から集まった20代から30代の男女10人余りが暮らしています。
 廃校となった校舎を無償で譲り受けて住んでいるので家賃はかかりません。
 生活費は、月におよそ2万円。近くの農家やキャンプ場などで時折アルバイトをするなどして収入を得ています。もちろん、税金や健康保険料*11も納めています。
 豊かな自然に囲まれた山奥ですが、シェアハウスの中はインターネットが完備され、住民たちは動画やゲームを楽しんだり、ギターを弾いたり、マンガを描いたり、それぞれのペースで暮らしています。
 食事はすべて自炊。日が傾くと、なんとなく誰かが、全員分の晩ご飯をつくり始めます。
 ここでは、決められたルールはなく、掃除や買い出しなど、それぞれができることをして助け合います。
 共生舎の理事を務める石井新さん(32歳)は、ここに来るまでは、ひきこもりでした。
 今でも心はひきこもりのままだといいますが、ひきこもる範囲は、部屋の中から、地区全体へと広がりました。
 31歳の本多寛由久さんは、3日に1度、障害者福祉施設で働いています。人手不足に苦しんできた施設にとって、本多さんはありがたい存在。
 本多さんも、なくてはならない一員として、大切にされていると感じています。
 5年前、共生舎にやって来たとき、本多さんは心身ともに、ボロボロの状態でした。
 もともとは、大阪の小さな建設会社の管理職でしたが、毎日15時間働き、休みは週に1日だけという激務でした。
 責任も重く、次第に精神的に追い詰められていきましたが、相談できる相手はいませんでした。
 本多さんは、共生舎に来たばかりの頃は自室にひきこもっていたといいますが、周囲は干渉もせず、無視もせず、そっとしてくれたと言います。

*1:まあ、でも「50代以下」でも地元民(埼玉県入間郡毛呂山町(一部は坂戸市)、宮崎県児湯郡木城町)や「埼玉県民」「宮崎県民」は割と知ってるんじゃないか。埼玉県民(但し毛呂山町民ではない)の俺も一応知っていますし。最近は毛呂山と言えば瀬戸大也の出身地としてむしろ有名ですが(例えば競泳・瀬戸大也選手の出身地・毛呂山町で応援の動画 - 東京オリンピック [競泳]:朝日新聞デジタル(2021.7.24))

*2:新しき村によれば現在の理事長は武者小路知行(実篤の孫、1947年生まれ、調布市武者小路実篤記念館運営事業団理事長も務める)

*3:保護がかかってるのでコピペできませんのでリンク先をお読みください。後継者がおらず、宮崎の「新しき村」が早晩自然消滅することは間違いないだろうという記事が読めます。

*4:中村氏の名前でググる【SAITAMA珍奇ツアー】謎の人工洞窟「巌窟ホテル」 埼玉・吉見町 - 産経ニュース(2022.10.10)、 【SAITAMA珍奇ツアー】 龍と天狗が眠る「法雲寺」 太古の海の記憶と妖怪伝説 埼玉・秩父 - 産経ニュース(2022.10.23) 【SAITAMA珍奇ツアー】伝説のオートレストラン跡地の「鉄剣タロー食堂」 魅惑の異世界、再び 埼玉・行田市 - 産経ニュース(2022.10.30)、 【SAITAMA珍奇ツアー】埼玉の田園地帯から台湾にワープ⁉ ド派手な道教のお宮「聖天宮」 埼玉・坂戸市 - 産経ニュース(2022.11.6)、【SAITAMA珍奇ツアー】地下迷宮備えた九龍城⁉ 大宮の再開発ビル隣で異彩放つ「大一ビル」 さいたま市 - 産経ニュース(2022.11.20)、 【SAITAMA珍奇ツアー】秩父の山奥で中国4千年の登攀修行!? 中華建築のクライミング施設「神怡舘」 小鹿野町 - 産経ニュース(2022.12.11)、 【SAITAMA珍奇ツアー】学校裏の河原に大量の手榴弾!? 軍需工場跡地に眠る戦争のリアル 川越市 - 産経ニュース(2022.12.18)、 【SAITAMA珍奇ツアー】クールジャパンの〝ネオ神社〟 創作の神威あらたか「武蔵野坐令和神社」 埼玉・所沢市 - 産経ニュース(2022.12.24)、【SAITAMA珍奇ツアー】埼玉にあるのに東京の水!? 謎の越境水がめ「狭山湖」 所沢市 - 産経ニュース(2023.1.22)など埼玉記事がヒットするので埼玉支局の記者と思われる。

*5:村の創設者だが、後に村外会員となり村民として生活したのは1918~1924年の6年に留まる(武者小路実篤 - Wikipedia参照)

*6:このうち、今や既に5人が離村し、3人しかいないことは上で紹介した朝日記事、産経記事の通りです。

*7:「民泊=民家への宿泊」は「昔からある民宿」の「拡大版」みたいなもんでシェアリングエコノミーと言う話ではないでしょう。

*8:明らかに「一人では車が持てない、家に住めない」と言う要素(貧困者の増大)が背景にありますので、この記事ほど手放しで評価できる話ではないでしょう。

*9:1934~2014年。TBSで報道局ニュース部長、報道局編集部長兼ラジオ局アナウンス室専門部長、報道総局社会情報局長などを歴任。1994年にTBSを退職しフリーアナ。またTBS「テレポート6」キャスター(1976~1987年)、「モーニングEye」キャスター(1987~1996年)を担当(山本文郎 - Wikipedia参照)

*10:1944年生まれ。1995~2003年まで『新潮』編集長。新潮社を退社後は民俗学研究を開始。著書『白の民俗学へ:白山信仰の謎を追って』(2006年、河出書房新社)、『海を渡った白山信仰』(2013年、現代書館)、『白山信仰の謎と被差別部落』(2013年、河出書房新社)、『「新しき村」の百年:〈愚者の園〉の真実』(2017年、新潮新書)、『北の白山信仰:もう一つの「海上の道」』(2018年、河出書房新社)、『海人族の古代史』(2020年、河出書房新社)など(前田速夫 - Wikipedia参照)

*11:コメント欄で指摘がありますが厚生年金保険料(企業)や共済保険料(公務員や教員の場合)ではなく、国民年金保険料でしょう。