「嫌味な本、除名を引き出したかった? 」等の松竹批判に大いに共感する

かんけまり監督映画『鳴らせ自由の号笛:人権と民主主義を守るたたかい』ほか - bogus-simotukareのブログ

【女性映画人・かんけまり】内ゲバこそ堕落の極致 『全動労の映画』の意味は 後篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国
 今日、例えば松竹伸幸氏という、少し『変わった人』という印象を受ける1955年*1生まれの男性(68歳の『おじさん』あるいは『おじいさん』)が、『日本共産党の党首公選論*2』というのを呼び掛けていて、それが多少、話題になっている。
 だから、マスコミ的、あるいはメディア的には、『鳴らせ自由の号笛』とか『人権と民主主義を守る戦い』といった言葉は、『表現の自由』とか『党内民主主義を守る』などと言った言葉に置き換えられながら、むしろ、現在の共産党中央の指導の在り方*3を批判する用語として今日では使用されているような気がする。
(もっとも、私の見たところ、松竹氏の主張*4は、現場の共産党員の多くの人たちには、『余り共感を得られていない?』というようにも見える。松竹氏の主張は、『(ボーガス注:一部の)マスコミ受け』、『一部の文化人、知識人受け』しているだけのようにも見えてしまう。

 話が完全に脱線しますが赤字部分には「松竹なんか一部の反共バカが持ち上げてるだけですよねえ!」とガッテン、ガッテンです。
 まあ、この「かんけまり映画」紹介記事において「松竹」云々は完全に脱線ですが。

の続きみたいなところがあります。

【シン・日共宣言】嫌味な本、除名を引き出したかった? 前篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国
 話題となっていたのは、この本である。
 ただし、4人のうち、この本を一部でも読んでいそうなのは、私ともう一人くらいだった。
 それに私も、この本のまだ一部しか読んでいない。
(途中で、読むのをいったん、やめたのは実は理由があって、『あまりにも癖がありすぎる本』だと感じたからだ。)
 そもそも『文春新書』の形で本を出しているところに問題がありそうだが、この本は月刊Hanadaとか、WiLLとか、(産経から出している)正論などの雑誌と似たようなタッチで、日本共産党の幹部たちに対する『嫌味』を満載している。
 不必要?に、不破氏、志位氏、小池氏などの幹部に対して、『彼らは、意外と知らないことが多い』『私のほうが、よく知っている』などと読めるような記述までしている。
 あえて言えば、共産党の幹部たちが、怒り出すに決まっているようなことまで、わざわざ書いているのである。どのような動機で、こうしたことをやっているのかわからないが、このような形で本を出して喜ぶのは、(昨年、暗殺されてしまった)安倍晋三氏の『遺志』を継ぎたいと思う(ボーガス注:反共右翼の)人々くらいであろう。
 松竹氏は、何のために、こんな本を出しているのだろうか?
 私自身は、日本共産党を支持するものでも何でもない(むしろ、はっきり言って、この党は『批判して変わるものでもないし、どうしようもない』と嘆いているというかあきれている?)が、あまりにも、『意図不明』で『挑発的な本』が、無邪気さ?を装って出されていることに対しては、くれぐれも、(ボーガス注:松竹氏と文春に)騙されないようにと訴えたい(この本は、むしろ、松竹氏が自身に対する『除名』という処分を引き出すのを自己目的化?したかのような、『危ない出版物』である。)。

 青字部分で分かるように、この方は決して共産党志位執行部に対し好意的ではありません。そんな方ですら「不必要に挑発的」で「除名狙いか?、故意の挑発か?」と疑うような本が松竹本であるわけです。

【シン・日共宣言】立派な『挑発』というべき本 『文春・新潮』流 中篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国
 私が疑問に感じているのは、次の2点である。
 第一に、松竹氏は、仮に共産党の党首公選(それが実現したとしても)に出たとしても、全く、『当選の見込みがない』ばかりか、彼が本の中で指摘している、『外交・安全保障政策』に関する、党中央への批判は、(多くの党員*5の気持ちと)全く逆方向?からのものであり、到底、支持を得られそうにないものであることを自覚しているようである(本書の110ページの記述)。
それなら、なぜ、『党首公選』などということを主張するのか?
 第二に、たしかに、松竹氏は、(ボーガス注:志位委員長等、共産党側が批判するように)これまで党の各種機関に対して『質問権』を行使したり、といった党員として認められている権利の行使に対しては、比較的『無関心』だったようである。
 それなのに
、今回、このような本を『文春新書』から出版して、『党首公選を求め、立候補する』という、あたかも『シングル・イッシュー』での出馬論者であるかのような装いをこらして、世間の注目を集めようとしている。
 それは、なぜなのか?ということである。

 この本で書かれている内容で印象に残るのは、どちらかというと、『私は、外交・安保政策について非常に詳しい』『共産党員というよりも、かもがわ出版編集主幹という顔を利用して、世間つまり党外で幅広く活動してきたから、私のほうが(共産党の大幹部たちよりも)知識は上である』という強烈な自負である。
(中略)
 これまで引用してきた内容を見てもわかるように、松竹氏はこの著書のなかで、『いかに共産党の大幹部たちは、物事についての知識・経験の幅が狭く、(ある意味で)自信を持てないでいる状態なのか』を微に入り、細に入り指摘している。
 しかも、その書き方は、(普通に考えて)書かれた人々が『相当、嫌がるであろう』という(ボーガス注:嫌みたらしい)書き方である。
 こうした内容を読んでいくと、とてもではないが、松竹氏が、『党首公選制』を実現することで、それをきっかけにして、『共産党を良くしていこう』というような『善意』でこの本を書いているとは、なかなか、思いにくいのである。
 このような欠陥がチラチラしている本を、ヨイショするような社説を書いているように見えてしまう『朝日新聞』や『毎日新聞』は何を考えているのだろうか?
 そのような疑問も感じてしまう。

【シン・日共宣言】ネットで動画を見た 共産党の悪い部分を引き出してどうする? 後篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国
 もし、松竹氏が、自身が主張しているような方向で、『安保・防衛政策』の政党(左の自由民主党みたいな政党)を構築したいのであれば、それを日本共産党を動かして、実現するというのは、『無理な話』だと思う。
 そういう思いがあるのならば、(ボーガス注:離党して松竹新党でも作って)日本共産党以外の人々に対して働きかけるほうが、良いだろう。

 いくら、松竹氏に(例えば、『健康事情』など?)隠された裏事情があったとしても、自分の寿命などに合わせて、日本共産党』自体、あるいはその周辺の人々が、自分の思うような『政治的主張』に変わってほしいというのは、『単なる願望』に過ぎず、『ないものねだり』だという気がして、しようがない。

話題の松竹氏もアメーバブログを使用 ”共産党員は、党にとどまってください” | 北京老学生・台湾から日本に本帰国
 私のブログでも『ネタ』にさせていただいた松竹伸幸さん。
 例の日本共産党に『党首公選制』*6を導入すべきと主張されているおじさん(私より、若いが…)であるが、私は、正直言って支持してはいない。
 何よりも『文春新書』などという怪しげなところ(本にもよるとは思うが、特に今回の『シン・日本共産党宣言』は、月刊HanadaとかWiLLなどの品のない編集センスと同じものが随所に感じられる。編集者に問題ありと思う)から出版したのがいけない。

【シン・日共宣言 松竹氏】矛盾が激化、苦し気な表情も | 北京老学生・台湾から日本に本帰国
 私が、(今回の『シン・日本共産党宣言』のいう本を巡る騒ぎのなかで)私自身、もともと『日本共産党』の支持者ではないこと、さらにマルクス主義というものの実践的な政治思想としての、有効性にも疑問を感じていること(つまり、『ユートピア思想』としてあこがれを感じるのは勝手であるが…)は、改めてここに記しておきたい。
 そういう存在でありながら、最近、松竹伸幸氏の主張を批判しているのは、彼の言っていること、書いていることがあまりにもご都合主義的な気がしているからだ。
 その後、さらに感じたことがあるので、書いてみよう。
 この『志位和夫委員長への手紙~日本共産党の新生を願って』という本は、『シン・日本共産党宣言』よりも、さらに激しい調子で、志位委員長をはじめとする、現在の日本共産党の幹部たちを批判している。
 共産党の専従職員になり、京都北地区委員会と京都府委員会において常任委員を務めたという。
 だが、よく読んでいくと、この人も松竹氏と同様に、長い間共産党員としての直接の活動からは、少し遠い位置にいたようである。
『仕事と1級障害者の妻の介護に追われ、「赤旗」は斜め読みする程度でした。ところが5年ほど前から居住地である京都の洛西ニュータウンにおいて共産党の単位後援会(200名余り)の会長に担ぎあげられ…』、再び、『共産党の機関紙「赤旗」もきちんと読み、共産党を含めた日本の政治動向に目を向けるようになりました』と書かれている。
 ここまで、『良し』としよう。
 しかし、(恐らく、年齢のせいもあるのだろうが)短期間に自分自身と見識を同じくするように、日本共産党に変わってもらわなければならないという認識からか、好き勝手なことを書いているのである。
 最後に、昨日(14日)見たAbemaTVの番組について少々、感想を書いておきたい。
 この『Abema Prime』というニュース番組に、松竹氏は出席していたのだが、少し苦し気な表情をしていた。
 というのは、これまで、彼は『自分には、党内に支持者がおおぜいいる』『党首公選制を望む党員のほうが、7割り方存在していて、多数派である』などというような話を随所でしてきた。
 そのため、『党首公選制』というのは、共産党で導入可能なのではないか、とか仮に党首公選制が導入されたら、松竹氏が当選する可能性もあるのでは、という『誤った認識』が一部では、広がっていたように感じる。
 ところがこの間の経過で、松竹氏というのは、共産党内においても『あまり一般党員に知られていない存在』らしくて、ほとんど影響力ないらしいという感じが広がってきた。
 おそらく、仮に次の『党大会』で松竹氏の除名の再審査を求めたとしても、それに賛同する代議員など『ゼロ』か、あるいは一桁にとどまるであろうという気がする。
 そういうこともあって、『松竹氏の支持者など、共産党内にほとんどいないのではないか?』『彼の言っていることは、誇大宣伝、誇大広告ではないか?』という懐疑心?までメディアの中では広がっているようだ。
 昨日は、この番組の出演者の一人である田村淳(あつし、お笑いタレント)さんなども、こんなことも言っていた。
『志位さんたちには、相当、嫌われていたんじゃないですか?』だから、『無理に共産党内にとどまらず、別個の政党でも作って、仮にそれが成功したら、その後、新旧共産党の合併を模索したほうがいいという選択肢もあるのでは?』などと(まあ、これも無責任な発言*7だが)主張していた。
 これに対しては、松竹氏も『苦し気な表情』をせざるを得なかったと私は見た。
 共産党内でそのような声が多数というわけでもないのに、『党首公選制』*8という新しい主張でもって、メディア業界においてプロモーション?をはかり、逆に『メディアでの多数の主張』ということを論拠?にして、共産党内に『逆輸入』しようとした、プロモーション戦略、マーケティング戦略は、(最初の)一つの壁にぶつかりつつあるように見える。

 青字部分で分かるように、この方は決して共産党志位執行部に対し好意的ではありません。そんな方ですらこのように松竹に疑問を感じる。まあこの方の見立て通りなんでしょうね。松竹は「マスコミという虎」の威を借りようとした狐にすぎなかったのでしょう。

【映画『人間の壁』】沖電気争議や松竹伸幸氏のことを連想 前篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国2023.2.16
 一昨日(14日)、東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で映画『人間の壁』を見た。
 (私自身の印象のなかでは)監督の山本薩夫氏(1910年~1983年、73歳で亡くなった)は、『日本共産党員であった』ということを当時から、ほぼ公言しているような人物で、なおかつ『娯楽性の高い作品』を作る監督ということで有名だったという気がしている。
 あと、面白かったのは、この映画のなかで、(これを見ながら、一瞬、私は共産党の党首公選論を主張している『松竹伸幸氏』を連想してしまったのだが)香川京子の夫の役で、とんでもない人物が登場することである。
(もっとも、『松竹氏を連想』というのは、ややもすると、このような『(ボーガス注:完全に右翼転落した筆坂秀世のような)人物に転落してしまうのではなかろうか?』と密かに心配しているような姿に関してであって、現時点で、そうなっているというわけでは必ずしもない。

【映画『人間の壁』】松竹伸幸氏を連想してしまった登場人物 後篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国2023.2.17
 14日に、東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で見た、1959年製作の日本映画『人間の壁』(原作・石川達三、監督・山本薩夫、山本プロ作品)について感想を書いている。
 この映画で主人公の小学校の女性教師『ふみ子』を演じているのは香川京子さんである。
(中略)
 この人は、1951年に(ボーガス注:大映から『船上爽(ふながみ・そう)』という芸名で)デビューするが、東映移籍後の1954年より、『南原伸二』という芸名に変更し、主演作など多数で活躍を始めたという。1960年に、芸名を『南原宏治』に改名している。
 ということで、『南原伸二』名で出演している作品が多数あるらしい。 
 『南原宏治*9』というと、何やらアクの強い登場人物のイメージがあるが、この作品でもまさにそうである。
 香川京子(『志野田ふみ子』、旧姓『尾崎ふみ子』である)の夫(志野田健一郎)は、彼女と同じく『佐賀県職員組合』に所属しているが、夫の方は、元中学校の教師で、現在は組合の専従役員をしている。
 『出世主義者』として描かれていて、組合の執行部を絶えず(裏では)『無能』であるとして批判している。自分がとって代わり、委員長になることを画策していた。
 しかし、それは、何か労働組合の仕事について、自分の理想があってそうしているというよりも、単なる『不平分子』、ギラギラした『出世主義者』に過ぎないようだ。
 『ふみ子』は、彼と見合い結婚をしたらしい。
 最初は、夫・健一郎に好意を寄せていたようだが、今や、(健一郎の本質というか本性を知って)夫婦仲は冷え切っている。
 健一郎は、『ふみ子』に単に『家政婦的な役割』を期待しているだけであり、しょっちゅう、自分の不満の爆発の対象として、『ふみ子』に対して暴言を吐き、また暴力をふるっている。
 この健一郎が、(なぜそうなっているのか、知らないが)共産党の『秘密党員らしい』というデマが流されているらしい。
((ボーガス注:社会党寄りの)現執行部に対して、絶えず、批判・攻撃を繰り返しているためなのかもしれない。)
 『ふみ子』は、『夫が共働きだから、生活は他の人たちよりも保証されているでしょ』と教育委員会や校長などから言われて、『退職勧奨』の対象とされている。同時に夫に、『共産党の秘密党員のうわさ』があることも、彼らの『肩叩き』をより強いものにさせている。
 しかし、この映画の途中で、夫の健一郎は、組合の婦人部長(沢村貞子さんが演じている)に『浮気』を仕掛けて、拒否されたりし、その後は、『組合の現在の委員長は無能である』として、委員長選挙に立候補したりしている。
 だが、(人望がないため?)この委員長選挙で敗北してしまうと
、今度は、組合から逃亡(脱走?)してしまうようだ。
オルグの途中で、カネなどを持ち逃げして、姿をくらましてしまったようだ。この時、『ふみ子』の金も持ち出そうとしていた。)
 そして、映画の最後のほうでは、健一郎が今度は、『日教組』全体を批判する『右派』の評論家として、突然、『その手の雑誌』に登場するに至る。
 まあ、いかにもといった感じの役回りであるが、これが『南原伸二』いや『南原宏治』の肉体を借りて演じていると、『いかにも、存在していそうな人物』になっている。
 そして、これは(前回も書いたように)、少し松竹伸幸氏に対して、失礼過ぎるだろうという気もしてしまうのだが、今日、(ひょっとすると)松竹氏の名前にかぶせて、イメージされている事柄とも重複している部分があるような気がする。
(といっても、世間では、必ずしも松竹氏だけを、『ピエロ』と見ているわけではない。『日本共産党』の現在の執行部に対しても、どちらに対しても、『シラケた気分』でいる人が、少なくとも党外においては多いのだろう。
 なお、この映画、石川達三氏の長編『新聞小説』を大胆に編集(カット?)した内容であり、『ふみ子』に同情(共感)した女性教師たちが、一斉に『校長室』に談判のために押しかけるところで、映画は終わっている。
(この辺は、『明日に希望を残す』という意味で、東宝争議後、日本共産党員であることが、ほぼ『公然化』していた、山本薩夫監督の作品らしい終わり方のような気がする。
 もっとも、山本薩夫監督は、『いかにも日本共産党員らしい』というような鯱張った教条主義者ではなく、むしろ、『娯楽としての映画を大事にする、職人肌の人物』でもあったようだ。

 赤字部分なんかもろに「離党後の筆坂秀世」を連想しますし、今後の「松竹の姿ではないか」と言う気もします。
 なお、青字部分で分かるように、この方は決して共産党志位執行部に対し好意的ではありません。

*1:加藤勝信官房長官、紙智子参院議員(共産)、福島瑞穂社民党党首、保坂展人世田谷区長などが1955年生まれであり、松竹としては「志位が俺を厚遇してくれれば彼らのように政治家になれた」という恨みがあるのではないか?

*2:むしろ奴が主張してるのはそれよりも「日米安保容認」「敵基地攻撃能力容認」などの右翼的安保主張であり、公選論は「バカどもにはちょうどいい目くらましだ(ムスカ)」と思いますが。

*3:他の問題はともかく、松竹除名は「反党分子が当然の処分を受けただけ」の話です。むしろ、いきなり外部から攻撃を開始した松竹のやり口の方が「党内民主主義に反する」のではないか。

*4:特に「右翼的安保政策」はそうでしょう。

*5:党員だけでなく後援会員や「共産党に好意的な無党派層(俺もその一人ですが)」も多くはそうでしょう。

*6:むしろ奴が主張してるのはそれよりも「日米安保容認」「敵基地攻撃能力容認」などの右翼的安保主張であり、公選論は「バカどもにはちょうどいい目くらましだ(ムスカ)」と思いますが。

*7:とはいえ松竹は「俺のやり方なら成功する」と言う趣旨のことを吹いていたのだから田村淳から「なら(社会党を離党してできた民社党社民連自民党を離党してできた新党さきがけみんなの党、維新などのように)離党して新党を作れば?」「成功するんでしょ?」と言われるのは自業自得です。

*8:松竹の場合、それプラス右翼的安保施策ですが

*9:1927~2001年。個性的な悪役として活躍。政界のフィクサー暴力団のボスなど重厚な巨悪を演じる一方、映画『修羅雪姫・怨み恋歌』(1974年)における聾唖の殺し屋「蜍」、TBSテレビ時代劇『風』(1968年)の怪剣士「野ざらし主膳」など、常軌を逸した狂気的な敵役としても数多く出演した。アクの強い特異な個性で強烈な存在感を見せた(南原宏治 - Wikipedia参照)。