「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2023年5/10日分:荒木和博の巻)(副題:志村けんについていろいろ)

◆荒木ツイート

荒木和博
 令和5年5月9日火曜日「荒木和博のショートメッセージ」第1120号。映画「めぐみへの誓い」で(ボーガス注:北朝鮮にいる親族を人質に取られて拉致に加担させられた)仁支川峰子さん*1小松政夫さん*2の扮する在日は加害者でもあり被害者でもありました。現実にそういう人は多数いたと思います。

 6分23秒の動画です。第一にそんなことが「拉致被害者帰国」と何の関係があるのかと心底呆れます。
 第二に荒木の言うような「在日朝鮮人の拉致犯行関与」など今だ公式に認定されていません。
 それにしても昨今売れてるとは言いがたい「仁支川」はともかく「晩年は日本喜劇人協会会長*3も務めた大御所コメディアン*4の小松」の遺作がこんな右翼作品とはねえ(呆)。小松本人が右翼なのか、後援会長、事務所社長等の周囲とのしがらみか知りませんが晩節を汚したと言うべきでしょう。
 なお、この映画、仁支川や小松以外では「原田大二郎*5横田滋役)」が比較的、有名俳優である以外は「ほとんど無名俳優であること」は「キャスト」で確認できます。

【参考:志村けん

志村けん頂点の後「3年半の低迷期」窮地でも貫いた「喜劇役者」の顔2020.4.16
 志村にも、実は低迷期がある。具体的に言うと、『だいじょうぶだぁ』終了後の1994年から1997年前半あたりまでの約3年半だ。若者を中心に、「志村のコントは古い」という扱いを受けていた。
 『志村けんはいかがでしょう*6』(フジテレビ系・1993年10月~1995年9月終了)では、舞台コントを続けながらもクイズコーナーを設けるなどしてリニューアルを施す。しかし、視聴率低迷は免れず、放送日や番組名を変更するなど苦戦を強いられた。
 ついには、後続番組『けんちゃんのオーマイゴッド』(フジテレビ系・1996年4月~同年9月終了)の打ち切りが決まってゴールデンから撤退。
 ここから、つい最近まで放送されていた『志村でナイト*7』まで続く、深夜のコント番組がスタートした。「志村が死んだ」という噂*8が世間に広まったのもこの時期である。
 私には忘れられない記憶がある。志村の低迷期に関口宏との特番が放送されたのだ。内容は、何軒かの居酒屋をハシゴしながら対談するというもの。珍しい組み合わせだが、理由はシンプルだった。
 『いかがでしょう』末期あたりから『関口宏東京フレンドパークII』(TBS系)と放送時間が重なり、視聴率に苦戦して志村の番組が終了した経緯があった。関口はそれを気にかけて志村にオファーしたのだ。
 番組では、「最後の喜劇役者」として志村が紹介され、「日本の宝を守れ」というムードがあった。それほど業界内では、志村が消えてしまうという危機感があったのだろう。
 志村の経歴などに触れた後、話が佳境に入ったところで関口は「ドラマや映画は興味ないんですか?」という趣旨の質問をする。これに志村は、タバコをくゆらせながら「今は一切興味ないですね*9」と、はにかみ笑いで答えた。その姿勢に私はしびれた 。
 愚直なまでにお笑いに向き合う姿勢を見せたどころか、『だいじょうぶだぁ』のオープニングコントで使用するばあさんのカツラを関口にかぶせて、笑いどころまでつくった。仮にも、自分の番組を追いやった相手を持ち上げたのだ。視聴者だった私は、「こんな格好いい大人がいるのか」と震えた。
 志村も思うところがあったのだろう。この頃、苦手だったトークバラエティーにも少しだけ露出している。正月特番の『さんまのまんま』(関西テレビ制作/フジテレビ系)では、途中までバカ殿の姿で登場。家老に扮した桑野信義を同席させ、キャラになり切ってしゃべっていたのが印象的だった。それほどにシャイだったのだ。
 そんな志村の姿勢を軟化させた芸人が現れる。それが、ナインティナイン岡村隆史だった。
 今年4月に放送された『岡村隆史オールナイトニッポン』(ニッポン放送)の中で、岡村は急逝した志村について振り返りながら(中略)「僕なんかホンマ普通のファンじゃないですか。勝手にこっちがもうまねして 、アイーンって。(志村が)「それ、オレのだよ!」みたいなのを言いながらやってくれはって」と笑い交じりに当時を回想している。
 あくまでも岡村はファン目線で当時のやり取りを語っていたが、この「アイーン」によって志村は再ブレークした。
 岡村は一時期、ことあるごとに志村のまねをして「アイーン」ポーズを見せていた。
 そこから志村はトークに対する肩の力が抜けたのか、以前よりもトークバラエティーの露出が増えていった。
 2004年4月には『天才!志村どうぶつ園』(日本テレビ系)がスタート。かねてより動物好きだった志村だが、このあたりから素の状態でテレビに露出することに違和感がなくなった。
 しかし、志村の挑戦はまだ続く。
 2014年からは『となりのシムラ』(NHK総合・2016年12月まで全6回)をスタートさせ、メイクやカツラは一切なしのコントに挑んだ。日常を生きるおじさんの滑稽さと切なさを表現した「あるあるネタ」で構成されており、志村には珍しく等身大のキャラクターを演じた。
 2015年7月に放送の『スタジオパークからこんにちは』(同局)に出演した志村は、『となりのシムラ』で共演した西田敏行について「いつも会ってる人だと『あ、だいたいこうくるだろうな』って思ってるけど、『そっちからくるのか!』とかっていうのはね(ほとんどない)。非常に緊張するし、また楽しい」と語っている。このあたりで、「俳優と演じる」ことの面白さを再確認していたのかもしれない。
 今年に入って役者業のスタートが報じられ、映画やドラマでも活躍が期待されていた。新型コロナウイルスによる死は、そんな矢先の出来事だった。
 最後に、2015年11月に放送された『SWITCHインタビュー達人達』(NHK Eテレ)の中で、テクノポップユニット・Perfumeと共演した志村が「理想の喜劇役者」について語った言葉を添えておく。
「(舞台に喜劇役者が)歩いて出てきただけでも笑って、『おー!(と、観客が笑顔で拍手して)頭下げたぜ、おい!(そのまま舞台袖へと退いて)へぇ~!(と、笑顔でうなずく)』っていうのが理想だね。それぐらい面白いってイメージが植えつけられてると、顔見ただけで笑っちゃうじゃないですか」
 亡くなったあなたの追悼番組で、実際に私は顔を見ただけで笑い、涙した。

志村けんが50代で役者業を始めた理由 弟子が明かした〝ぶれない軸〟2022.3.3
山崎まさや*10
 『だいじょうぶだぁ』の中で、半年に1回ぐらいオカリナ奏者・宗次郎さんの寂しげな曲(「悲しみの果て」)だけ流す15分~20分のワンストーリーをやり出した時は驚きました。セリフを全部カットして、一切笑いも入れなかったですからね。
 最後は母親役のいしのようこさんが不幸になったり、雪の中で一人志村さんが血を吐いて亡くなったりもする。そのシリーズが放送されるたび、周りから「泣いたけど、あれはどういうこと?」と言われて、「いや、僕に聞かないでください」って答えてました*11
◆記者
 2020年にはNHK朝の連続テレビ小説『エール』に志村さんが出演。(ボーガス注:志村の病死により沢田研二主演に変更されたが)山田洋次監督の映画『キネマの神様』の主演も予定していました。晩年になって役者業を始めたのは、どんな理由があると思いますか?
山崎まさや
 そもそも俳優ができる方だと思うんですよ。本当は「芝居ができなかったらコントはできない」と思ってる方なので。でも、40代まではあえてコント一本でいくっていうこだわりがあったと思うんです。それが、50歳*12を過ぎて『志村どうぶつ園*13』とかトーク番組とか、やりたいことをやるようになっていった。その延長に、もしかしたら役者というものがあったのかなという気はしますよね。
 やりたくないものはやらない方なので、「断る理由がない」という感じでしょうね。だから、「何で白塗りにしちゃったんだろうな」って冗談で愚痴を言いながらも、『バカ殿様』をずーっと続けたんだと思いますし。それと同じように高倉健さんとの映画*14のオファーが来たら、「出たい、出たくない」とかじゃなくて「断る理由がない」っていう。
 実は『となりのシムラ』(NHK総合)の企画会議の段階で、僕二人で飲んだことがあるんですよ。その時、師匠はすごく楽しそうに話してました。「今までやって来たようなコントとはちょっと違うんだよ。ドラマ仕立てになってて、とくに扮装もしてねぇんだよ俺。地頭でさ、普通のお父さんとして出るんだ」って。「すごい見てみたいです」と伝えたら、「うん、けっこう面白いんだよな」って笑みを浮かべていました。
 だから、役者とかコメディアンとか、シリアスものだとかバカ殿様だとか、そういうことじゃなくて。自分が楽しいと思ったり、自分がやってみたいことをやられるようになったんじゃないかと思いますね。ただ、その根本には「俺はコメディアンだ」っていうのがあるんです。
 もっと役者業をやられていたらギャップがあって楽しかっただろうなと思います。志村さんがシリアスな役を演じるドラマが終わってから、「この後はバカ殿様!」ってナレーションが入ったら面白いし(笑)。そういうの、もっともっと見たかったですね。

「志村けんのだいじょうぶだぁ」を見て甦った「鬱展開」の記憶 - テレビの土踏まず2009.6.3
 2 日のフジ系「志村けんのだいじょうぶだぁ」 2 時間スペシャルを見た。
こんなコントがあった。
 志村けん扮する父親が優香扮する娘を連れて歩く。妻は「買い物に行く」と行ったきり 3 ヶ月も帰ってこない。ド貧乏で雨が降っても濡れっぱなし。娘が風邪をひいても満足に薬も買えない。水たまりをよける長靴も買えない。ひもじい生活。
 それでもなんとか 500 円の長靴を娘に買いあたえて束の間の幸せをかみしめる。水たまりにもどんどんハマれる、とはしゃぐ優香。
 しかし調子にのって親子ふたりで大きな水たまりに入ってみたら、実はものすごく底が深くて膝上までどっぷりハマッてしまう。身動きが取れない。
 いかにも悲劇を演出する旋律の音楽が流れる中、ふたりにはピンスポットライトが当たり、その周囲はすべて暗転。微妙に暗ーい感じで終わっていく。そんなコント。
 それなりに笑いどころもあったし、またおなじみ「笑い屋 SE 」的な音声も挿入されていたので、素直に笑っていいコントという受け取り方をして良いのだと思う。しかし「バカ親子」みたいに鼻垂らしたりふざけた言動をするわけでもなく、「貧乏で満足にモノが買えない」ということにやたら重みがあって、ほんのりシリアスなコントだった。
 このコントを見ていて思い出したことがある。
 「志村けんのだいじょうぶだぁ」がまだレギュラー放送をしていた時代、じっとコントだと思って見ていたら、実はそれがコントでもなんでもなく、笑いどころはおろか「笑い声 SE 」もそして演者たちのセリフすらいっさい無く、ただただ無言でひたすらシリアスに終わる「ミニドラマ」だった、ということが何度かあった。
 もう 15 年以上前のことになる。石野陽子(現いしのようこ)や松本典子、そして田代まさしがレギュラー出演していた月曜 8 時の時代のことだ。
 コントをシリアスの方向に振るだけ振っておいて、でもオチは「変なおじさん」でした! なーんだくだらない! というどんでん返しなら、まだいい。たとえ予定調和であろうともそのほうがオチが効果的だ。
 ところがそれをあえてシリアスなままで終わらせる。
 ぼくがちょっとトラウマなのは、志村けん石野陽子扮する老夫婦みたいなのが、海岸の砂浜から海のほうに一歩一歩近づいていって、そのまま荒れた波に沈んで消えていってしまう…というワンシーンだ。笑いどころもオチもない。謎を残したままこの「コント」は終わるが、もちろんもはやコントでもなんでもなかった。
 「そういうドラマだ」と最初から心構えができているならよいが、なまじバラエティ丸出しの「だいじょうぶだぁ」なだけに、そのギャップは大きく、まだ小学生かそこらの年齢だったぼくには妙にショックだった。
 当時の「だいじょうぶだぁ」で放送された、そんな鬱展開のコント。別名で『シリアス無言劇』などとも呼ばれているらしい。 
志村けんのだいじょうぶだぁ - Wikipediaで詳細が記されていたので以下に引用する。

シリアス無言劇
 コントではないシリアスなサイレントドラマ。これはスタッフと飲んでいた際に志村が「人を笑わせられるなら、人を泣かすぐらい簡単な話」と豪語したことが発端となった企画で、志村にとってはスタッフ・視聴者との「勝負」であった。志村は「コントの中に予告なく悲しいドラマを入れることで視聴者を驚かせたかった」と後に語っている。
 番組内で異色の存在だったが、それまでの爆笑コントと非常にシリアスな内容とのギャップ、さらには BGM のオカリナの音色が視聴者の感動を呼び、番組終了までに十数本放映された。
 ただし、シリアス無言劇と見せかけて、途中から「変なおじさん」や「好きになった人」になる引っかけ的なコントになることもある。

笑いでなく「泣き」を追求、志村けんさんの「シリアス無言劇」シリーズとは (2020年4月29日) - エキサイトニュース
 セリフはなく、オカリナ奏者の宗次郎による『悲しみの果て』のBGMに乗せて、志村さんと、当時の相棒として活躍していた石野陽子(現・いしのようこ)がサイレントドラマを繰り広げる。
 その内容は、老人役の志村さんが過去を回想しながら死を迎えるといった、切ない余韻を残すものから、妻であった石野が自分の元を去ったため、志村さんが男手一つで子供を育てるも、アルコール中毒と過労の果てに血を吐いて死ぬといった、救いのない展開まで多くの内容が見られた。子供ながらに「トラウマ」となった視聴者も多いようだ。
 伊集院光は志村さんの死を受けて、ラジオ番組『伊集院光とらじおと』(TBSラジオ)で、この企画について語っていた。かつて、伊集院が志村さんから聞いたところによれば、「悲劇は喜劇より上」「笑わせるのは簡単だが泣かせるのは難しい」と批判する人がおり、悔しさを感じた志村さんは泣ける悲劇コントを思い立ったのだという。

伊集院光、志村けんが『だいじょうぶだぁ』で悲劇のコント「シリアス無言劇」へ込めた思いについて語る「口で言うんじゃなくて、見せたくて…」 | ラジサマリー
 2020年3月30日放送のTBSラジオ系のラジオ番組『伊集院光とらじおと*15』(毎週月~木 8:30~11:00)にて、お笑い芸人・伊集院光が、志村けんが『志村けんのだいじょうぶだぁ』で悲劇のコント「シリアス無言劇」へ込めた思いについて語っていた。
伊集院光
 『日曜日の秘密基地*16』で、リスナーの人の記憶の穴を埋めるコーナーがあったんですけど。「こんなことあったんですけど、本当でしょうか?」みたいなコーナーがあって。
 その中に、「小さい時、『だいじょうぶだぁ』を見てたら、突然悲しいコントが始まって、オチも笑いも全くないまま、悲しいまま終わったって思い出があるんですけど、あれは何でしょう?」っていうのが来て。で、色々調べたら、志村さんが突然、何本か「シリアス劇場」っていって、突然、コントじゃないの。悲しい劇をやってて。
 で、ご本人に訊いたら、当時、照れくさそうに、「悲劇の方が、喜劇よりも上だっていう人がいてね」と。「笑わせるのは簡単だけど、泣かせるのは難しいっていう人がいて。ちょっとさぁ、悔しくてさ」っていう。
 「上も下もないんだけど、悔しくてさ。できるぜっていうのを、口で言うんじゃなくて、見せたくてさ」って話をなさってて。
 「ああ、凄いなぁ」って。
 本当に、ご冥福をお祈りしますとしか言えないんですけどね、色んなものを与えてもらいました。

私は 志村けんさんの無言劇で 泣いてました。 - ポルトガルが好きなんです!
 「母さん、よく志村の番組見て泣いてたよね」と息子に言われました。よく覚えてましたね。苦笑。
  そう、もちろん笑いもしましたが、私は子供の前で恥ずかしげもなくバスタオルを片手に大泣きしていたのです。
 志村さんには映画の主役、朝ドラの出演も決まっていて、動き出していたそうですね。本当に残念です。コメディアンだけでなくシリアスな俳優としてもそろそろ活躍していただきたかったです。志村さんも無念だったと思います。
 ご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。
 そしてありがとうございました。拝。

志村けんさんのシリアス無言劇と母の涙|吉浦敦博
 チャップリンサイレント映画を考えていると、なぜか志村さんの「志村けんのだいじょうぶだぁ」の中のシリアス無言劇の事を思い出した。
 母は泣きたくても泣けない女性だった。
 祖父母のお葬式でも父のお葬式でも泣けない自分を責めた。「冷たい女だと思われても、涙がでない」と憔悴しきった顔で私に言った。
 母はお笑いが好きだった。TVは「笑えるのが一番」と言って、笑い声は一段と高くなった。
 その年は淋しいお正月だった。
 帰省したのは私一人で、父はうつ病のため入院していて、祖母は一年くらい前から認知症を発病し、部屋にこもったままだった。
 TVではお正月にふさわしく華やかな腰元を引き連れ志村さんのバカ殿様がおどけていた。私は炬燵で、母はマッサージ・チェアを使いながらテレビを見ていた。
 やがてTVからセリフが消え、静かに音楽(宗次郎「悲しみの果て」)が流れ始めた。志村さんは老人に扮し床を敷き横たわっていた。老婆役の若い歌手は枕元に座り、コメディアンの医者は神妙な面持ちで診察を続けていた。そこに孫を連れた娘が飛び込んできた。それはどの家庭でも起こる日常だった。コントとコントの間に挟まれた笑いのない退屈な日常のドラマ…。
 次の場面で志村さんは若返り、赤ん坊を抱いている。桜が咲き、女の子はランドセルを背負い、そんな娘に志村さんは目を細め、次の場面では、小学校の授業参観で、後ろの方で不安そうに娘をみつめていた。
 やがて娘は成長し、父を罵り、戸をきつく閉めて、自室に籠って泣いている。その間も単調な音楽は続き、父である志村さんは、なす術もなくおろおろするばかりだった。
 母はじっと画面を見ていた。
 母は養女だった。本当の父を母は知らない。母の生みの親は養母の妹だった。若くして子供を作り離婚し、子供のできない姉である祖母に引き取られた。
 テレビでは、志村さんが娘の受験祈願のためにお百度参りをしている。娘は無事大学に入学し、彼氏を連れて家に現れ、やがて嫁ぎ、初孫を生み、今老いた志村さんの枕元にいる。
 そして志村さんは満足そうに笑って静かに目を閉じた。妻と娘の呼びかけに老人はもう答えなかった。
ほんの10分弱のドラマの後に、やたら賑やかなCMが始まり私は無理矢理、正月気分に引き戻された。それなのに母はマッサージ・チェアに座ったまま目を開き、まるで意志とは関係なく流れてくる涙を、しきりに拭いていた。それは泣くというより、身体が勝手に反応してしまい、困惑しきっているように見えた。
 この志村さんの無言劇が母の目にどのように映ったのだろうか。生まれてすぐ実母から引き離され、田舎にもらわれ、生年月日を二つ持つ母。芸者の子と呼ばれ、もらいっ子と言われ虐められた母。
 田舎で大火に遭い財産を失い、満州に渡り終戦を迎え、再び大阪で事業を始め失敗し田舎に舞い戻った、そんな波乱に満ちた養父の生き方に翻弄され続けた母にとって志村さん扮する老人がどう見えたのだろうか?
 志村さんの言葉のない演技から伝わる切実な何かが、長年、泣きたいのに泣けなかった母の石のように固まった心を深く揺さぶったように思う。
 生きていればまさに「キネマの神様」になったであろう俳優・志村けんさんの第二の人生を見たかった。

 「やろうとすれば『志村けんのだいじょうぶだぁ』時代から既に、志村にもシリアスな演技ができた」「しかし、あえてコントにこだわった(但し、『お笑いしかできない』と言われるのが悔しくて、無言劇をやってみた)」ということがわかります。但し、晩年はそのこだわりも薄れていたのでしょう。

*1:1958年生まれ。1974年『あなたにあげる』で歌手デビュー。NHK紅白歌合戦には、初出場の1975年(第26回)から1978年(第29回)まで、4年連続出場。その後、声が思うように出なくなったこともあり、演歌歌手から女優に転向(仁支川峰子 - Wikipedia参照)

*2:1942~2020年。著書『のぼせもんやけん:昭和三〇年代横浜〜セールスマン時代のこと。』(2006年、竹書房)、『のぼせもんやけん2:植木等の付き人時代のこと。』(2007年、竹書房)、『昭和と師弟愛:植木等と歩いた43年』(2017年、KADOKAWA)等

*3:日本喜劇人協会 - Wikipediaによれば2020年の小松死後、会長は空席。なお、公式サイト一般社団法人 日本喜劇人協会【訃報】: 日本喜劇人協会 オフィシャルブログ(2020年12月22日)以降は長期間にわたって更新がストップしているようなので更新して欲しいところです。

*4:とはいえ、年を取ってからシリアス役が増えてきた「クレイジーキャッツ植木等谷啓ハナ肇」「ドリフターズいかりや長介志村けん(例えば志村については志村けんが50代で役者業を始めた理由 弟子が明かした〝ぶれない軸〟参照)」「『てなもんや三度笠』の藤田まこと」「てんぷくトリオ三波伸介伊東四朗(三波については三波伸介も、やはりシリアスな方向へもシフトしようという意思があったのだと思う(ご存命なら今月90歳) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)」等と同様、晩年の小松は真面目な役が増えてはいます。以前も書きましたが年を取ると多くのコメディアンはそうなりますね。

*5:1944年生まれ。1970年、永山則夫事件を描いた新藤兼人監督映画『裸の十九才』で主役(映画の役名は山田道夫)としてデビュー。1975年にTBSのテレビドラマ『Gメン'75』の関屋一郎警部補役で、全国に名前を知られるようになる(原田大二郎 - Wikipedia参照)。

*6:志村けんのだいじょうぶだぁ』(1987年11月~1993年9月)の後継番組。その後、『志村けんのオレがナニしたのヨ?』(1995年10月~1996年3月)→『けんちゃんのオーマイゴッド』(1996年4月~9月)となる(志村けんはいかがでしょう - Wikipedia参照)

*7:2018~2020年まで放送(志村でナイト - Wikipedia参照)

*8:この件について、当時、志村の付き人だった乾き亭げそ太郎は、志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了し、関東ローカルの深夜帯に移り露出が減ったこと、更にスケジュールに余裕が出来たことで宇都宮市のゴルフ場へ行くことがふえ、その近所に栃木県立がんセンターがあったことで目撃者が誤解したとしている(志村けん - Wikipedia参照)。

*9:1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりや長介と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断る(クラファイト⑫ けんさんから拳さんへ! | Professor's Tweet.NETによれば緒形拳が犯人を演じた『黒岩博士の恐怖』とのこと)など、志村は長い間、コントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていたとされる(志村けん - Wikipedia参照)。なお、志村のようなお笑い芸人では「明石家さんま」「笑福亭鶴瓶」が『古畑任三郎』の犯人役を演じている(古畑任三郎の犯人 - Wikipedia参照)

*10:1990年代初頭、東八郎の私塾に入塾していたが、東の急逝後には志村けんの付き人をしており、当時は『志村けんのだいじょうぶだぁ』に端役で出演するなどしていた。その後、1992年に三又又三とジョーダンズを結成。1997年からフジ『ボキャブラ天国』にコンビ出演し人気を博すも、2007年2月に解散。解散後はピン芸人として活動(山崎まさや - Wikipedia参照)

*11:これについては例えば「志村けんのだいじょうぶだぁ」を見て甦った「鬱展開」の記憶 - テレビの土踏まず(2009.6.3)参照

*12:志村は1950年生まれ

*13:2004~2020年9月まで日本テレビで放送。志村死後は『I LOVE みんなのどうぶつ園(2020年10月~2022年3月)→嗚呼!!みんなの動物園(2022年4月以降)』と改名し、志村MC時代から出演していた相葉雅紀がMCで現在も放送中

*14:鉄道員(ぽっぽや)』のこと

*15:2016年4月から2022年3月まで放送(伊集院光とらじおと - Wikipedia参照)

*16:伊集院がMCで2000年10月から2008年3月までTBSラジオで放送(伊集院光 日曜日の秘密基地 - Wikipedia参照)