新刊紹介:「前衛」2024年9月号(その2)(副題:長谷川利行ほか)

文化の話題
◆美術「東京国立近代美術館「TRIO」展」(武居利史)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

「TRIO」展、東西の巨匠共演 東京国立近代美術館で21日開幕 - 日本経済新聞2024.5.21
 東京、大阪、パリの3都市を代表する美術館の所蔵品を集めた「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(日本経済新聞社など主催)が5月21日、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開幕する。テーマやモチーフなどの共通点がある3館の作品で「トリオ」を組むという展示が試みられた。
 パリ市立近代美術館、東京国立近代美術館、大阪中之島美術館のコレクションから、初来日の作品32点を含む34組のトリオで7章を構成する。
 「モデルたちのパワー」では、西洋絵画で伝統的な横たわる女性像ながら、従来の型からはみ出したマティス萬鉄五郎*1モディリアーニの3点が並ぶ。

二度と見られない作品の“並び”!「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(T JAPAN web) - Yahoo!ニュース
 パリ市立近代美術館のアンリ・マティス《椅子にもたれるオダリスク》と、東京国立近代美術館萬鉄五郎《裸体美人》(重要文化財)、大阪中之島美術館のアメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》が並ぶ〈モデルたちのパワー〉。3作品とも片方の肘を曲げて横たわる女性が描かれているが、「ポーズが似ている!」という面白さとともに、それぞれの作風の差異が際立って見える。

「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(東京国立近代美術館)開幕レポート。トリオで再発見する3館のコレクション(美術手帖) - Yahoo!ニュース
 まず、プロローグとして「コレクションのはじまり」と題し各館の原点を紹介するために、ロベール・ドローネー《鏡台の前の裸婦(読書する女性)》(1915)、安井曽太郎*2《金蓉》(1934)、佐伯祐三《郵便配達夫》(1928)がトリオを組む。《鏡台の前の裸婦》はパリ市立近代美術館の開館の契機となったジラルダン博士の遺贈品、《金蓉》は東京国立近代美術館の最初の購入作品のひとつ、《郵便配達夫》は大阪中之島美術館構想のきっかけとなった実業家・山本發次郎*3の旧蔵品だ。
 第1章「3つの都市:パリ、東京、大阪」では、3都市の都市性をテーマとした3作品を様々なテーマで並べている。
 例えば河合新蔵、長谷川利行*4、モーリス・ユトリロの風景画を並べた「都市と人々」では、水の都・大阪の生き生きとした姿を描いた河合、昭和初期の新宿のビル街の賑わいを伝える長谷川、石造りのモンマルトルを豊かな表情で描くユトリロと、三都市のアイデンティティを絵画で表現しようとした3作家の姿が見て取れる。
 第2章「近代化する都市」では、近代都市を題材とする作品から、多様な表現を追求した芸術家の試みを紹介。
 本章のなかの「都市のグラフィティ」では、20世紀において表現の舞台となった路上にフォーカスを当て、佐伯祐三ジャン=ミシェル・バスキア、フランソワ・デュフレーヌを展示している。
 第3章「夢と無意識」では、シュルレアリスムをはじめ、夢や無意識、空想、幻想、非現実、メタファーを表現に取り入れた作家たちによる作品が並ぶ。ヴィクトル・ブローネルは自らの生み出した怪物をルソーの絵画に登場させ、有元利夫フレスコ画仏画を参照しつつ古典的な女性を食卓に鎮座させ、そしてルネ・マグリット*5ボッティチェリの描いた女神を山高帽の男の背中に表した。
 第4章は「生まれ変わる人物表現」だ。ここではアンリ・マティス萬鉄五郎アメデオ・モディリアーニを並べた「モデルたちのパワー」に注目したい。
 第5章「人間の新しい形」(中略)「デフォルメされた体」は(中略)ジェルメーヌ・リシエ、柳原義達*6イヴ・クラインによる立体作品を並べている。
 第6章「響き合う色とフォルム」(中略)「カタストロフと美」は、これからの時代においても普遍的に訪れるであろう自然災害や戦争、病といったカタストロフと向き合った、佐藤雅晴、畠山直哉、グサヴィエ・ヴェイヤンの作品を並べている。佐藤は東日本大震災後に実写映像をトレースするアニメーションを制作、畠山は故郷を襲った津波のあとに残った木を写し、そしてヴェイヤンは新型コロナウイルスによるロックダウン中に描き続けたドローイングを描き連ねた。

【参考:長谷川利行

【アート 美】長谷川利行展 放浪の画家の奔放に生きた美の証し(1/4ページ) - 産経ニュース2018.5.27
 定住することなく友人宅や簡易宿泊所などを転々とした。酒場に入り浸り、たばこやマッチの空き箱の裏に簡単な絵を描き客に売りつけ酒代にした。ときには無銭飲食で酔っ払い、警察のお世話になったこともあった。
 大正15年、二科展に初入選。翌年には「酒売場」などを出品し、新人賞とされる樗牛賞を受賞し、画家としての才能を開花させた。以後、昭和12年まで出品し入選を重ねた。実力は高く評価されたにもかかわらず、型破りの言動のせいで会員に推されることはなかった。
 同時期に二科展に出品していた画家の熊谷守一*7は長谷川についてこんな文章を寄せている。
「酒が入らないとまともに人の顔が見られず、何時までもうつむいているような内気な男であった。(中略)人間としても画家としてもまことに個性的な存在である」(「長谷川利行展」図録から、昭和51年、日本橋三越
 胃がんを患い、路上で倒れ、行路病者として現在の板橋区にあった東京市養育院で知人たちからも看取られずにひっそりと生涯を閉じた。49歳だった。スケッチブックや遺留品は引き取り手もなくすぐに焼却されてしまった。作品の評価は死後ますます高まり、東京国立近代美術館など国内の主要な美術館に収まっている。

【聞きたい。】「日本のゴッホ」の実像あぶり出す 『長谷川利行の絵 芸術家と時代』 大塚信一さん(1/2ページ) - 産経ニュース2020.6.14
 大正末期から昭和10年代前半にかけて、浅草など東京の下町を歩き、風景や人物などを題材に制作した長谷川利行(1891~1940年)。「放浪の天才画家」、あるいは「日本のゴッホ*8などと呼ばれている画家だ。本書は時代背景とともに、画家の足跡や人間関係などを丁寧に追いながら実像をあぶり出す。
 優れた絵画を創作する一方で、生活は破綻し、その日暮らし。知人の家に行っては絵を押し売りしてお金をまきあげ、その金で安酒をあおり、簡易宿泊所を転々とした。揚げ句の果てには路上で倒れ、誰にも看取られずに49年の生涯を閉じた。

持っているもの、持っていないもの - ライターズブルース2023.7.21
 彼は三十前後で絵を描き始めてから四十九歳で亡くなるまで、寺や、木賃宿と呼ばれる簡易宿泊所に寝泊まりして、住所さえ持たなかった。窮民施設で病死した後も係累は現れず、遺留品のスケッチブックや日記は焼却されたという。
 あるとき利行に洋服をくれた人がいた。曰く、絵は買いたいが、着物も髪もとにかく不潔で家に上げられない、その洋服を着て来なさいと。ところが十日経っても来ない、代わりに警察から連絡が来た。洋服が盗品だと疑われたらしい。留置場に迎えに行くと、利行はその人の顔を見るなり足に抱きついて泣き出したという。

 私には私にふさわしい服装がある。あなたがこんな洋服を着せてくれたために、描きたい絵を一週間もかけなかった。くやしいといって司法主任ももてあますほど抱きついて泣いちゃった。食うこと、住むことは木賃宿に住んでいるわけだからなんでもないが、絵が描けないことがいかに苦痛だったかということだ。(中略)大変な泣きじゃくりで、どうして慰めていいか解らない、司法主任も外へ出たらどんどん描けといって慰めた。(座談会「長谷川利行をしのぶ(一)」木村東介*9の談話より)

長谷川利行 ―― 幻の名作と、素描力!。2008.11.17~12.6。不忍画廊。 - アート観客 since 19962022.7.25
 どうして酒に走ったのだろうか。最初はポーズだったのが、酒にやられてしまったのだろうか。でも、今のかなりの年齢の男性がなんとなく、そういう姿勢を含めて評価するのは分かる気がする。破滅型、というけど、なかなかホントに野垂れ死には難しいし。
 だけど、申しわけないけど、鉛筆でさっと描いたであろう絵があれだけ描けるのだから、やっぱりもったいないと思うし、才能の浪費というのは、やっぱりあたっているような気がする。
(2008年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

『長谷川利行の絵~芸術家と時代』 大塚信一 作品社 | 私の読書案内
 利行は金があれば気前よく仲間と酒を飲んでしまい、金がなくなると、自分の絵を知り合いに二束三文で押し売りして小銭を得て飲んでいました。一度売った絵でも、直すと言って取りに来て、そのまま持ち去ることもあったようです。歌人前田夕暮とは知り合って間もなく、突然キャンバスを持って現れ、どうしてもこれから肖像画を描かせてほしいと頼み込み、1時間半で仕上げると、金を「掠奪」して帰っていきました。前田は彼に「不気味なる天才」を感じたと述べています。
 無頼派、破綻者のレッテルを貼られる利行ですが、太平洋画会の若者たちは純粋な彼を尊敬し、絵を購入していました。彼は誰からも慕われ、気楽に付き合える神様のような人という証言もありました。

 「絵の能力と言う面では天才ではあったが生活力に難があったらしい」と言う点では寺田ヒロオは、晩年かなり迷惑な人間になってしまったようだ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の「元漫画家」寺田や、佐藤忠志氏は、あるいは酒の飲みすぎで認知症あるいは感情の制御がさらに難しくなっていたのかもしれない - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の「元予備校人気講師」佐藤忠志氏に似ているかもしれません。
 奇しくも(?)「寺田や佐藤氏が酒で寿命を縮めた」ように、長谷川も酒で寿命を縮めた様です。
 多分

長谷川利行(はせかわ・としゆきの)絵 芸術家と時代 大塚信一著 :東京新聞 TOKYO Web
 彼の生活はひと所に定住せず、家もアトリエもなく、木賃宿や友人の下宿を転々とするルンペン生活であった。油絵でもスケッチでも描いた先から売り、押し売りし、金は借り、ゆすりたかりをし、まず酒を飲んでから宿賃を出した。画材などはどう入手したのか。その結果だが、ガンにかかり、街路で倒れ、行路病者として施設に運ばれて、死んだ。
 戦後、長谷川利行の絵の評価が高まるとともに、自滅的な生活破綻もクローズアップされ、常軌を逸した生活者の絵といった捉え方がされて有名になった。大塚信一*10のこの本は、そのいわば窮乏が生んだ天才伝説を取りのぞき、画家の制作と生活の実態は、戦時下の統制強制に対抗した意識的で知的な実践行為だった可能性を指摘する。時代閉塞の中ながら、ヨーロッパ前衛を理解し、一方で日本の伝統の文人画の精神も研究し、その双方を吸収する知的活動家だったのではないかという。
 知的でも理性的でもあった画家が、その時代と対抗的に生きるために、ルンペン生活を選んだと仮定することによって、大塚氏は、画家の愛読書だったニーチェの自己超克哲学を実践したといい

というのは「長谷川ファンである大塚氏」の「ひいきの引き倒し」でしょう。

【参考:山発産業、山発商店

シュワルツコフヘンケル - Wikipedia
 2000年、ヘアカラーの老舗メーカーとして、白髪染め「パオン」等を販売していた山発産業が債務超過で経営危機に陥っていたところをヘンケルグループが買収。同時にヘアカラー業界への参入を画策していたライオンが資本参加し、社名を「ヘンケル・ライオン・コスメティックス」と変更し、ヘンケルとライオンの合弁会社となった。だが、債務超過が解消されなかったため、2004年にはライオンが自社保有株の大半をヘンケルグループに売却し、2005年に「シュワルツコフヘンケル」へ改称。2016年8月には親会社のヘンケルジャパンに吸収合併され、解散した。「パオン」等、展開していたブランドはヘンケルジャパンに継承されている。

アングル (肌着メーカー) - Wikipedia
 1894年の創業当初より、麻製の肌着・下着で定評を持つと共に、1953年(昭和28年)には同社の基幹ブランド「アサメリー」の名で、販売を展開すると共に、関西を中心にその名を知られた。1963年、山発商店からアングルに商号変更。
 1980年代中期以降、低価格による海外からの製品に流入により、採算が悪化。2002年(平成14年)に御幸毛織の傘下に入ると共に、社名をアングル・ミユキに改名。
 2012年(平成24年)より富士紡ホールディングスの傘下企業となり、再び社名をアングルに戻した。
 2020年(令和2年)に富士紡ホールディングスの傘下企業であるフジボウアパレルが吸収合併し、企業としては126年の歴史に幕を下ろすが、「アングル」ブランドは残っている。

*1:1885~1927年。日本洋画界に、当時の前衛絵画であった「アンリ・マティスらのフォーヴィスム」を導入した先駆者として知られる(萬鉄五郎 - Wikipedia参照)

*2:1888~1955年。1952年に文化勲章受章

*3:1887~1951年。山発産業、山発商店社長。美術収集家としても知られ、1983年、遺族から大阪市に山本コレクションが寄贈されたことを契機に美術館建設が構想され、2022年に大阪中之島美術館が開館した。(山本發次郎 - Wikipedia参照)

*4:1891~1940年。1927年、「酒売場」で第14回二科展で新人賞「樗牛賞」を受賞。だが、長谷川の生活は、浅草の貧民街で一日中絵を描いているか、絵を換金して酒を飲んでいるかだったという。ついには、友人たちに絵を描いて送りつけたり、前田夕暮歌人)、岸田國士(戯曲家。長女は童話作家岸田衿子、次女は女優の岸田今日子)ら著名人のところに押しかけて絵を描き、金をせびるなど生活は荒れていった(ボーガス注:まるで寺田ヒロオは、晩年かなり迷惑な人間になってしまったようだ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)のようです)。このため、知人たちは後世まで彼について堅く口を閉ざしており、その経歴には不明な点が多い。1929年以降は山谷の木賃宿簡易宿泊所救世軍の宿舎などを転々とし、1937年の二科展を最後に公募展へ出展していない。また酒の飲み過ぎで胃潰瘍が悪化したため、1939年以降はほとんど作品を残していない。1940年5月17日、三河島の路上で行き倒れになり養育院に収容される。胃癌の治療を拒否し、10月12日死去(享年49歳)。この際、手元にあったスケッチブックなどの所持品はすべて養育院の規則により焼却された。その無頼な生き方故に贋作が非常に多いこともあって長谷川の作品評価が進んだのは死後のことである。2009年、「カフェ・パウリスタ」が発見され、2月24日放送のテレビ東京『開運!なんでも鑑定団』で紹介された(鑑定額は1800万円)。その後、東京国立近代美術館が2009年度に買い取ったという経緯が、同番組で明かされた。(長谷川利行 - Wikipedia参照)

*5:1898~1967年。前衛芸術家でありながらマグリットの生涯は芸術家にありがちな波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。3LDKのつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、典型的な小市民であった。残されているマグリットの写真は常にスーツにネクタイ姿で実際にこの服装で絵を描いていたといい、「平凡な小市民」を意識して演じていたふしもある。マグリットは専用のアトリエは持たず台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたが、制作は手際がよく服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったという(ルネ・マグリット - Wikipedia参照)

*6:1910~2004年。1996年、文化功労者

*7:1880~1977年。1967年、文化勲章の内示を辞退。また1972年、勲三等叙勲も辞退。 著書『へたも絵のうち』(日本経済新聞私の履歴書」の書籍化。1971年、日本経済新聞社→2000年、平凡社ライブラリー)(熊谷守一 - Wikipedia参照)

*8:「それ、山下清じゃね?」感が。

*9:1901~1992年。美術商(木村東介 - Wikipedia参照)

*10:岩波書店元社長。著書『山口昌男の手紙』(2007年、トランスビュー)、『哲学者・中村雄二郎の仕事』(2008年、トランスビュー)、『河合隼雄心理療法家の誕生』(2009年、トランスビュー)、『松下圭一』(2014年、トランスビュー)、『宇沢弘文のメッセージ』(2015年、集英社新書)、『反抗と祈りの日本画中村正義の世界』(2017年、集英社新書)、『長谷川利行の絵』(2020年、作品社)、『哲学者・木田元』(2021年、作品社)、『津田青楓』(2023年、作品社)、『岩波書店の時代から』(2024年、筑摩選書)等(大塚信一 - Wikipedia参照)