北朝鮮とは何だったのか(R6.8.31)|荒木和博ARAKI, Kazuhiro
「何だったのか」と
植民地文化学会編『「満洲国」とは何だったのか』(2008年、小学館)
→内容については弁護士会の読書:満州国とは何だったのか参照
のように書く荒木ですが、北朝鮮は
「蝦夷共和国(榎本武揚*1が『建国』するが明治新政府に敗れ崩壊)」
「琉球王国(現在の沖縄県)」
「ハワイ王国(現在の米国ハワイ州)」
「満州国(日本の傀儡国家。現在の中国東北部(遼寧省、吉林省、黒竜江省))」
「南ベトナム(北ベトナムが軍事統一)」
「東ドイツ(西ドイツに統合)」等と違い、勿論「なくなったわけではない」のですがそれはさておき。
荒木にまともな議論ができるとはとても思えません。
実際、この記事においても
北朝鮮の挑発・工作活動についての原稿を書いていて、「一体何をやりたかったんだろう」という思いが払拭できません。結局そもそも金日成も金正日も金正恩も統一するつもり*2はなかったのではないか。しかし、ある意味「ヤルヤル詐欺」のお陰で死んでいった若者は少なくありません。
として、反共右翼の立場から北朝鮮に悪口するだけです。
なお、北朝鮮については
【刊行年順】
◆和田春樹(東大名誉教授)『北朝鮮現代史』(2012年、岩波新書)
◆平岩俊司*3(南山大学教授)『北朝鮮』(2013年、中公新書)
などは「まともに論じてる」のでしょう(未読ですが)。
「憲法の制約」という嘘(R6.8.30)|荒木和博ARAKI, Kazuhiro
「拉致被害者・自衛隊救出論」の極右・荒木が「憲法に抵触しない」「いや仮に抵触したって構わない、過去には『赤軍派の釈放』という超法規的措置(ダッカ日航機ハイジャック事件 - Wikipediaでの福田赳夫政権)だってやったではないか。超法規的措置でやればいい」などと言うのとは別の意味で「嘘」ではあります。
まず第一に、「最大の制約」は憲法ではない。「拉致被害者の居場所が分からないこと」です。
第二に憲法の制約がなくてもそんなことはリスキーすぎて出来はしない。
「日本国憲法九条」のような制約がない米国も
◆プエブロ号事件 - Wikipedia(1968年、ジョンソン*4政権)
◆イランアメリカ大使館人質事件 - Wikipedia(1979~1981年、1979年のカーター*5政権時に発生したが解決は1981年のレーガン*6政権時)
◆オットー・ワームビア - Wikipediaの救出(2017年、トランプ政権)
などは軍事作戦ではなく、外交交渉で解決しました。
というか「ダッカ事件での超法規的措置」を持ち出すならむしろ「犯罪組織(日本赤軍)にすら人質解放のためにバーター取引した。拉致解決のために国連加盟国(北朝鮮)とバーター取引して何が問題なのか?」となるべきでしょうが、そうはならないのが荒木らしい。
それにしても「岸信介*7の子分で改憲右派」の福田*8ですら「人命は地球より重い」として「超法規的措置した」し、それに対して
ダッカ日航機ハイジャック事件 - Wikipedia参照
福田一*9法相は、超法規的措置の施行に対して強硬に反発した。福田は措置が決定された後に抗議辞任した(後任法相は瀬戸山三男*10)。
という反発は一部ありましたが、大多数は「やむを得ない」と容認したわけで「北朝鮮に対しても同様の態度を取ればいいのに」と思わずにはいられない。
【参考:人命は地球よりも重い】
一人の生命は地球よりも重い(2016/9) | 法話の窓 | 法話アーカイブ | 妙心寺
1977年、日航機がハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられました。犯人は、日本政府に拘置・服役中のメンバーの釈放と高額な身代金を要求しました。拒否すれば、人質となった乗員、乗客を殺害すると。
苦渋の決断を迫られた政府は、超法規的措置をとり、要求に応じたのでした。その時、当時の福田首相がつぶやいた一言が、「人の生命は地球よりも重い」でした。
実はこの言葉は、敗戦直後の新憲法のもとで、死刑の是非が争点となった最高裁判決*11の冒頭部分にも「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い」と使われています。判決文を書いた真野毅*12判事は、明治の多くの人々が愛読した『西国立志編』(中村正直著)の序文から引用したと、後に明かしています。「一人の命は全地球よりも重い」は、明治以来ずっと、日本人の心の中でこだまし、問いかけてきた言葉なのです。
死刑制度合憲判決事件 - Wikipedia
判決文では「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。憲法第13条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時にもし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども、立法上制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさらに憲法第31条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである。」として、「社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されている」と結論付け、死刑を合憲とした。
なお、この判決には島保*13、藤田八郎*14、岩松三郎*15、河村又介*16の4裁判官による補充意見と、井上登*17裁判官の意見が付せられている。
島裁判官ら4人の補充意見は、「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によつて定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第31条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。」としている。
井上裁判官の意見は、島裁判官らの補充意見は「何と云つても死刑は嫌なものに相違ない、一日も早くこんなものを必要としない時代が来ればいい」といったような思想ないし感情が基になっているのであろうと推察した上で、「この感情に於て私も決して人後に落ちるとは思はない、しかし憲法は絶対に死刑を許さぬ趣旨ではないと云う丈けで固より死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから若し死刑を必要としない、若しくは国民全体の感情が死刑を忍び得ないと云う様な時が来れば国会は進んで死刑の条文を廃止するであろうし又条文は残つて居ても事実上裁判官が死刑を選択しないであろう」とする。
【参考:真野毅】
【虎に翼】寅子の言葉が物語の指針に…「おかしいと声を上げた人の声は決して消えない」 | デイリー新潮2024.7.5
3日放送の第68回。この物語の中心人物は最高裁裁判官を務めていた穂高重親(小林薫)。
この朝ドラのテーマは憲法第14条「法の下の平等」。このため、脚本を書いている吉田恵理香氏(36)は、尊属殺人の重罰規定は避けて通れない問題だと思っていたはずだ。
そう考えると、大物民法学者・穂積重遠(1883~1951年)をモデルとする穂高重親を登場させた理由がはっきりと見えてくる。
この朝ドラの第68回(1950年)、15人いる最高裁裁判官の1人になっていた穂高は、尊属殺人の重罰規定が合憲か違憲かの判断を迫られ、違憲と主張する。モデルの穂積も同じだった。
穂高はこの刑罰の差が法の下の平等に反すると主張したのだが、同調した裁判官は1人しかいなかった。第49回の民法改正審議会(1947年)において穂高と対立した(ボーガス注:保守派の)東京帝大教授の神保衛彦(木場勝己)らほかの13人の裁判官は合憲とした。
寅子(伊藤沙莉)の甥・猪爪直治(楠楓馬)は違憲と主張した裁判官が穂高ら2人しかいなかったことを知ると、「それっぽっちじゃ何も変わらないよ」と嘆く。
だが、寅子は「ううん、そうとも言い切れない」と語り、そのあと、こう続けた。今後の物語の指針となりそうな言葉だった。
「たとえ2人でも判決が覆らなくても、おかしいと声を上げた人の声は決して消えない。その声がいつか誰かの力になる日になる日がきっと来る。私の声だって、みんなの声だって、決して消えることはないわ」(寅子)
事実、穂高のモデル・穂積の声は消えなかった。最高裁は1973年、「刑法第200条は憲法第14条に違反する無効の規定」との判決を出した。重罰規定は違憲としたのだ。初の違憲判断だった。
物語で穂高と一緒に1950年の時点で尊属殺人の重罰規定を違憲としたのは矢野裁判官。モデルは真野毅だ。真野は1973年の判決を高く評価した。しかし、穂積はこの判決を知らない。1951年に他界したからである。
我が師・真野毅先生
東京第二弁護士会広報委員長・山田勝利
「人の生命は尊貴である。一人の生命は全地球よりも重い。」
今や、こんな判決文を知っている司法修習生は殆どいない。私が修習生であった頃は、殆どの修習生が知っていたのだが。
『尊属殺』を違憲であるとした真野毅判事と、合憲であるとした斎藤悠輔判事との激論も既に昔日のことである。真野少数説に対して斎藤判事曰く「世道人心を誤るもの」「驚くべき小児病的な民主主義」「ただ徒に新奇を逐う思い上がった忘恩の思想」「国辱的な曲学阿世の論」「休み休み御教示に預かりたい」。
こうした言辞が、最高裁の判決文の中に踊っていたのである。私は、真野先生に尋ねたことがある。
「斎藤先生と灰皿を投げ合って論争したというのは本当ですか?」
真野先生「そんなことはしない。六法全書を投げ合ったんだよ」。
真野先生は、二弁創設者の一人であり、戦後、最高裁入りされた弁護士第一号である。「人権擁護と社会正義」を謳う弁護士法第一条の草案者でもいらしたことは余り知られていないようである。
【参考:斎藤悠輔】
最高裁判所における白熱の議論ーー荒ぶる齋藤悠輔最高裁判事 | ブログ | 東京都日本橋の法律事務所なら弁護士 濵門俊也
現在の日本国憲法において大審院は最高裁判所に生まれ変わりました。そして、最高裁判所が設立された当初の10年間は、合議における多数意見と少数意見の白熱した議論がかなり過激に表現されていました。場合によっては行き過ぎてしまい「少数意見制度の濫用」と批判されるものすら生じました。
憲法学者であり後に最高裁の裁判官となられた伊藤正己*18先生は、著書『裁判官と学者の間*19』において、「少数意見制は、ときに不当とみられる用い方をされるおそれがあるといわれる。その一つの例は、もっぱら個人的感情を露呈し、自己と異なる意見を論難し、さらに特定の裁判官の名を示して罵倒するようなものである。(中略)我が国の最高裁にあって、初期の不慣れな時期にこの種の少数意見が散見され批判を呼んだ」(伊藤正己著「裁判官と学者の間」74頁)と説明されています。
現在では、反対の意思を強く表現する場合でも「(多数意見には)到底賛同できない」という程度のものが多いですが、当時はまったく違ったのです。
このような少数意見のなかでもとくに過激な最高裁判事の代表の一人として、齋藤悠輔最高裁判事(以下「齋藤裁判官」といいます。)をあげることができます。
齋藤裁判官の意見がその過激さの頂点に達したのは、尊属傷害致死罪を合憲とした多数意見の立場から、尊属傷害致死罪を違憲とする穂積重遠最高裁判事、真野毅最高裁判事に対して齋藤裁判官が述べた意見でしょう。
「(前略)民主主義の美名の下にその実得手勝手なわがままを基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに耐えない。」(最判昭和25年10月11日刑集4巻10号2037頁)
さすがにこのような攻撃は、その激しすぎる言葉づかいゆえ、裁判官訴追委員会の調査が行われたそうですが、結局不訴追となったそうです。後日談ですが、東京第二弁護士会広報委員長(当時)が真野裁判官に対し、「齋藤先生と灰皿を投げ合って論争したというのは本当ですか?」と聞きますと、真野裁判官は「そんなことはしない。六法全書を投げ合ったんだよ」と(ボーガス注:ジョークで)答えたというエピソードが残っているそうです。
*1:江戸幕府で幕府海軍副総裁。明治新政府でロシア公使、海軍卿、清国公使、第一次伊藤、黒田内閣逓信相、黒田、第一次山県内閣文相、第一次松方内閣外相、第二次伊藤、第二次松方内閣農商務相等を歴任
*2:金日成政権の初期においては「統一する気はあった(例えば1950~1953年の朝鮮戦争、1968年の朴正熙暗殺未遂(青瓦台襲撃未遂事件))」が「1980年代以降」はあまりに韓国と「経済力の差(勿論韓国の方が上)」が付きすぎて「北朝鮮主導の統一」は現実的ではなくなります(北朝鮮も「北朝鮮主導の統一」はこの時点で恐らく諦めた)。実際、1980年代以降、北朝鮮が主張した「統一の方法論」 高麗民主連邦共和国 - Wikipediaは「韓国との外交交渉でEU的な国家をまず作る」と言う物で「北朝鮮主導の統一」は放棄されています。
*3:著書『北朝鮮はいま、何を考えているのか』(2017年、NHK出版新書)等
*5:ジョージア州知事を経て大統領。2002年ノーベル平和賞受賞
*7:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相
*8:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行管庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経企庁長官等を経て首相
*9:池田内閣通産相、田中、三木内閣自治相・国家公安委員長、福田内閣法相、衆院議長等を歴任
*10:佐藤内閣建設相、福田内閣法相、中曽根内閣文相等を歴任
*11:死刑制度自体は合憲とされた
*12:1888~1968年。第二東京弁護士会会長、最高裁判事を歴任。尊属傷害致死重罰規定を合憲とした昭和25年10月11日最高裁大法廷判決において違憲とする少数意見を書いたことで知られる(その後、最高裁は1973年(昭和48年)に判例変更し、尊属殺重罰規定に違憲判決を下した)。この真野少数意見に対して保守派の齋藤悠輔最高裁判事(1892~1981年。検事出身。広島、大阪控訴院検事長等を経て最高裁判事)は「補足意見」で「民主主義の美名の下にその実、得手勝手なわがままを基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに堪えない」とまで非難した。後に、第二東京弁護士会広報委員長が「斎藤先生と灰皿を投げ合って論争したというのは本当ですか?」と聞くと、真野は「そんなことはしない。六法全書を投げ合った」とジョークで答えたという(真野毅 - Wikipedia参照)
*13:1892~1972年。東京控訴院部長、東京刑事地裁所長、大審院部長等を経て最高裁判事
*14:1892~1976年。大阪地裁所長、札幌控訴院院長等を経て最高裁判事
*15:1893~1978年。広島地裁、大阪地裁、東京地裁所長、福岡控訴院長を経て最高裁判事
*16:1894~1979年。東北帝国大学教授、九州帝国大学教授を経て最高裁判事
*17:1885~1971年。東京控訴院判事、大審院判事を経て最高裁判事
*18:1919~2010年。東京大学名誉教授、文化功労者。著書『言論・出版の自由』(1959年、岩波書店)、『アメリカ法入門』(1961年、日本評論新社)、『プライバシーの権利』(1963年、岩波書店)、『現代社会と言論の自由』(1974年、有信堂)、『イギリス法研究』(1978年、東京大学出版会)等(伊藤正己 - Wikipedia参照)