リベラル21 共産党の衰退を嘆く(阿部治平)
不愉快なので引用は省略しますが
◆「ベンチがアホやから野球ができない」という野球選手(当時、阪神投手だった江本孟紀のことでアホ呼ばわりされたのは当時の中西太監督)が昔いたが、「執行部がアホやから選挙に勝てない*1」のではないか
◆党幹部の外遊報告など、党幹部を持ち上げるレベルの低い記事が多いから記者が多数辞めて、記者募集の広告がよく赤旗に乗るのではないか
→先日の「2000万円スクープ」など知ってるだろうに良くも誹謗が抜かせたもんです。そもそも「記者募集がある=多数辞めてる」でもなければ、「記者が辞める=記事が低レベル」でもないでしょう。残念ながら赤旗記者の給与は「全国紙(朝日、読売、毎日)記者」等に比べると多少低いのかもしれない。
(要約)
等、共産党にどんな恨みがあるのか知りませんが「反共分子の阿部」が共産に悪口してるだけの駄記事です。建設的な提言とはとても言えないでしょう。これが「阿部の個人サイト」ならまだしも「リベラル21」に乗るのには呆れますね。まあ、阿部に賛同してると言うよりは、阿部のような常連投稿者*2はノーチェックで掲載なんでしょうが。
そもそもそんなに共産党がろくでもないと思うのなら「無視してくれ」と思いますけどね。
「阿部とリベラル21のお仲間連中」で「素晴らしい政治活動」をやればいいだけの話です。まあやる能力も気概もないんでしょうが。
共産党は阿部ら「反党分子」の「憂さ晴らしのサンドバッグ」じゃないんですが。
なお、上記は阿部記事に投稿しますが掲載拒否でしょうね。自称「リベラル」が聞いて呆れます。
ちなみに話が脱線しますが、後でウィキペディアの記述を紹介しますが、中西はコーチ、監督として一定の実績があり、「アホ」とはいえないでしょうね。
監督としては12シーズン(西鉄、日本ハム、阪神)でAクラス6回(うち優勝1回)にすぎず、日本ハム監督時代(1974、1975年)は2年連続最下位とはいえ、優勝やAクラス入りできない監督もいるし、打撃コーチとしては明らかに有能でしょう。
まあ、江本だって「投手交代を告げられたこと」に逆上して口が滑ったにすぎないでしょうが(江本孟紀 - Wikipedia参照)。皮肉にも「中西」をアホ呼ばわりした江本の方は「テレビタレント(野球解説など)」としてはそれなりに成功した物の、中西のようにコーチ、監督として活躍することはなかった。
それは「周囲が江本を選手としては評価しても、コーチや監督のような指導者としては評価してなかった」ということでしょう。
参考
中西太 - Wikipedia参照
1933~2023年(享年90歳)。
1952年に西鉄へ正式入団すると、開幕から七番打者、三塁手に抜擢され活躍。打率.281、12本塁打で新人王を獲得。
1953年には7月から四番打者に座り、トリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成。1953年から6年連続でベストナインに選出される。また、1953年から4年連続で本塁打王を獲得。1954年には西鉄は球団初のリーグ優勝。1956年からは西鉄は3年連続日本一という黄金時代を築き上げた。1958年は打率.314と23本塁打で二冠王。
1962年から選手兼任監督となり、1963年にリーグ優勝を達成。1969年の西鉄監督退任(5位という成績と「黒い霧事件」が理由)後もヤクルト(1971年~1973年:ヘッドコーチ、1983年~1984年:一軍ヘッド兼打撃コーチ)、日本ハム(1974年~1975年:監督)、阪神(1979年~1980年:一軍打撃コーチ、1980年~1981年:監督)、近鉄(1985年~1988年:一軍打撃コーチ、1989年~1990年:ヘッドコーチ)、巨人(1992年:一軍打撃総合コーチ)、ロッテ(1994年:ヘッドコーチ)、オリックス(1995年~1997年:ヘッドコーチ)で監督、コーチを歴任。
ヤクルトコーチ1期目にはプロ入り前から若松勉の素質を見抜き、体の小ささを理由にプロ入りを拒否していた若松(当時、社会人野球の電電公社北海道に所属)に対して北海道まで出向いて説得を行い、入団後はマンツーマン指導により首位打者を獲得するまでに育て上げた。2009年に若松が野球殿堂入りを果たした時は「自分の殿堂入り*3よりも嬉しかった」と述べている。2期目には八重樫幸雄と二人三脚で独特のオープンスタンスの打撃フォームを造り上げ、これにより打力が向上した八重樫は正捕手の座を獲得し、現役晩年は代打の切り札として活躍した。
阪神監督時代は1981年は3位になるも退任し、コーチ時代から仲の悪かった江本孟紀に「ベンチがアホや」と公言され、確執が修復不能なほど悪化して江本を引退に追い込んでしまう。ただし一方で、掛布雅之を中心とした猛虎打線の基礎を横溝桂打撃コーチと共に築き上げた。掛布から師と仰がれ「中西さんは選手のいい所をどんどん引き出してくれてね。それで欠点を補っちゃうんだよ」と掛布は振り返る。
近鉄コーチ時代は仰木彬監督(1935~2005年。中西が西鉄選手時代の同僚)とタッグを組み、1989年のリーグ優勝に貢献。オリックスコーチ時代には仰木監督と再びタッグを組み、リーグ2連覇(1995、1996年)と1996年の日本一に貢献。
1989年近鉄優勝の立役者となったラルフ・ブライアント(1988~1995年まで近鉄に在籍)は、1988年途中まで中日二軍でプレーしていたが、仰木らと共に二軍戦を視察した中西が「獲れ。ワシが直す」と進言し、金銭トレードでの近鉄移籍が実現。その後はマンツーマンの練習を行い成功に繋げ、後に日本での成功の秘訣を訊かれたブライアントは、中西の口癖である「シンボウ」(辛抱)と答えている。
1999年にはヤクルト監督を務めていた若松勉の依頼により、バッティングアドバイザーに就任し、2001年まで務めた。在任中は宮本慎也を指導し、これにより打力が向上。2012年にプロ通算2000安打を達成した際に宮本は「(中西との出会いがなければ)2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている。
西鉄、日本ハム、阪神で計12シーズンにわたって監督を務め、Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つが、野村克也(1935~2020年。南海で選手兼任監督、ヤクルト、阪神、楽天で監督)は著書『あぁ、監督:名将、奇将、珍将』(2009年、角川oneテーマ21)で監督としては「失敗」という評価をしている。
一方で、コーチとしては数多くの強打者を指導しており、前述の野村もコーチとしての指導実績は高く評価している。吉田義男(阪神で監督)は「中西さんは教える達人でしたね」と話しており、江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは権藤博さん(横浜で監督)、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている。
中西本人も、若手選手と直接向き合える打撃コーチが天職で、監督には向いていないと公言していた。
*1:むしろ俺個人は「国民がアホだから選挙に勝てない」と言いたいですね。「推定で7兆円の税収減になる」という「基礎控除引き上げ(国民民主党)」を「俺の税金が安くなりそう」程度の軽い気持ちで支持する「バカ国民」が多数いるようでは共産党もなかなか勝つことは難しい。とはいえ諦めず戦うほかない訳ですが。
*2:前も書きましたが、リベラル21は阿部(1939年生まれ)以外も「岩垂弘、田畑光永(1935年生まれ)」「広原盛明(1938年生まれ)」など「特定少数の常連投稿者」しか寄稿者がおらず、その寄稿者が全て「70歳以上の高齢男性(つまり1954年より前に誕生)」だから呆れます。二階元幹事長(1939年生まれ:今回の選挙には出馬せず引退)など、多くの高齢男性が第一線から引退してるのに寄稿者は高齢者ばかりで、また「女性の社会進出」が問題になる時代に「寄稿者に女性が皆無(当然ながら夫婦別姓など女性問題に触れる記事も皆無)」とは、全く何を考えてるのか(呆)
*3:中西は1999年に殿堂入り