昔なら言いたいことは山ほどあったが、ナベツネの読売社内での影響力が既にすっかり弱まった今となってはその気力はかなり減退している。
何を根拠に「すっかり弱まった」と評価するのか、何一つ根拠を上げず全く意味不明な点がid:kojitakenらしいアホさです。
そうした理解は「争いのない事実」とはとても言えないでしょう。
むしろウィキペディアには
渡邉恒雄 - Wikipedia
2024年11月末まで定期的に出社し役員会などに出席、12月に体調を崩して病院で治療を受けるも死去数日前まで社説の原稿に目を通すなど、最後まで執務を続けていたという。
と「kojitakenの主張とは逆のこと」が書いてあるのですが。
なお、小沢一郎 カテゴリーの記事一覧 - kojitakenの日記で小沢氏に悪口し、また「大連立構想」当時、福田内閣発足自体が「大連立」の撒き餌だった - kojitakenの日記(2007.11.5)で、小沢氏を批判していた「アンチ小沢」のkojitakenなら
小沢一郎氏「あの時、大連立をやっていれば…」 渡辺恒雄氏を悼む [立憲] [自民]:朝日新聞デジタル
渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆は2007年、与党・自民党と野党第1党・民主党の「大連立政権」の実現に向け動いた人物として知られる。当時、民主党代表だった小沢一郎*1衆院議員(現・立憲民主党)は19日、記者団の取材に対し「非常に鋭い政治感覚の持ち主だった」と渡辺さんを悼みつつ、「あの時に大連立*2をやっていれば、もう少し立憲民主党も政党らしい政党に成長できたのではないか」と語った。
大連立構想は民主党が参院で与党を過半数割れに追い込んだ中、当時の福田康夫*3首相が政権運営に苦慮する中で浮上した。小沢氏は記者団に対し「福田首相から連立の話を持ちかけられた。その仲介役みたいなことをしてくれたのが渡辺さん」とした上で、「(ねじれ国会の政治状況を)打開するには大連立以外ないと感覚的に彼(渡辺さん)は判断したのだろう。たまたま私もそういう判断だった。非常に鋭い政治感覚の持ち主だった」と語った。
などの記事を元に小沢氏に悪口するかと思いきや意外なことに小沢非難はありません。
というか「小沢一郎」カテゴリーの一番「新しい記事」は「ここ数年もっとも共産と良好な関係を築けていた」はずの立民の「野田小沢手塚ライン」と共産とのパイプが、なぜ「急に詰まった」(\しらたき/氏のX) のか - kojitakenの日記(2024.9.22)で今から3ヶ月も前なんですよねえ。
1)小沢は「もはや終わった政治家」と考えが変わったのか
それとも逆に
2)「支持政党」立民を持ち上げるためには都合が悪いので、「立民所属議員」小沢批判をしないことにした、あるいは「小沢は偉大な政治家だ」と考えが変わったのか
理由が何かは知りませんがあれほど「id:kojitakenが熱狂していた」小沢批判を何故かすっかり止めたようです。
なお、この小沢発言、「当時の福田内閣同様に、政権維持に苦慮する石破*4内閣」と立民の「大連立」を小沢氏が画策してる*5とも理解できる発言であり、極めて問題発言でしょう。今後、党内外から小沢批判が出てくるのではないか。勿論俺も小沢を批判しますが。
なお、小沢以外にも
渡辺恒雄氏が死去、石破茂首相「まだ教えほしかった」 - 日本経済新聞2024.12.19
石破茂首相は19日、読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄氏が同日死去したことについて「ご冥福をお祈り申し上げる」と語った。「党や民主主義のあり方、日本のこれからの平和国家としてのあり方について、まだまだ教えをいただきたかった」としのんだ。
渡辺恒雄氏死去 政界から悼む声相次ぐ 岸田氏「一つの時代が終わった」 野田氏「言論界の巨星」(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) - Yahoo!ニュース2024.12.19
林*6官房長官は19日午前の記者会見で「心よりお悔やみを申し上げる」と述べた上で、渡辺氏の言論、新聞経営、スポーツ界などでの功績に触れ、「多くの政治家と接した戦後政治の生き証人である渡辺さんの迫力ある著作に長く接してきたところであり、また何度かお会いする機会に恵まれ、政治に対する該博な知識・見識から多くのこをと学ばせていただいた」と語った。
国民民主党の代表役職停止中の玉木衆院議員は「まさに巨星墜つという印象だ。戦後の政治やメディアに大きな影響を与えた人物であることは衆目の一致するところ。主筆の部屋にお邪魔した際、国民民主党のパンフレットが机の上に置いてあり驚いたことを覚えています。衆院選後の政治状況や我が党の在り方についてご意見を伺いたかったのですが、もはや叶わず残念です」と悼んだ。
渡辺恒雄氏死去、政界から悼む声 「戦後政治の生き証人」:東京新聞デジタル2024.12.19
公明党の斉藤鉄夫*7代表は、消費税の軽減税率導入を巡り、渡辺氏から「新聞文化を守るために必要だ」と激励を受け、公明の主張を後押ししてもらったと述懐した。
日本維新の会の前原誠司*8共同代表は記者会見で「何度もアドバイスをいただき、政治に対する見識が勉強になった」と話した。
渡辺恒雄氏死去、政財界から悼む声…菅義偉氏「日本のあるべき姿について、意見を聞きたくなる人だった」 : 読売新聞2024.12.20
自民党の岸田文雄*9前首相は「父の旧制高校の同級生で、若い頃から親しく指導していただいた。厳しい一面も示された方ではあるが、私にとっては絶えず心を温める優しい人柄だった」と述べた。「言論人として大きな影響を日本の戦後の歴史に残された。一つの時代が終わった」とも振り返った。
菅義偉*10元首相は「経営者、ジャーナリストとして、日本全体を見て何を政治に求めるかを考えていた。日本のあるべき姿を考える時に、どうしても意見を聞きたくなる人だった。安倍晋三*11元首相もよく(話を)聞いていた」と語った。
森喜朗*12元首相は「巨星墜つという言葉では物足りない。我々にとっては最も良き相談相手というか、父親という感じがした。難しい問題があれば相談に乗ってもらえた」と悼んだ。
民主党政権末期を率いた立憲民主党の野田佳彦*13元首相は、尖閣諸島(沖縄県)の国有化問題について相談するため、2012年に渡辺氏を首相公邸に招いた。
「『歴代の首相とたくさんお付き合いしてきたが、公邸に招いてくれたのはあなたが最初だ*14』とうれしそうだった」と懐かしんだ。
額賀*15衆院議長は「新聞記者出身の政治家*16として、公私ともにご指導いただいた。時代を先導してきた論客を失うことは大きな損失だ」とのコメントを出した。
などの発言があり、ナベツネ本人、あるいは彼の「権力の源」である「読売新聞」には多くの保守政治家(自民議員が多いが、立民(野田代表)、国民民主(玉木代表)、維新(前原共同代表)のウヨ議員もいる)が「利用価値を認めてすり寄るのか」と思うとげんなりします。
なお渡辺は「福田康夫内閣時代の大連立構想*17」以外にも
渡邉恒雄 - Wikipedia参照
読売新聞では大野伴睦*18の番記者になった。
渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて、ゴーストライターとして、週刊誌の論説の執筆まで引き受ける。
大野の著書『大野伴睦回想録』(1962年、弘文堂*19→2021年、中公文庫)も実際の筆者は渡辺だとされる(大野から渡辺が聞き書き)。
渡邉は、初入閣を望む中曽根*20と1959年当時、自民党副総裁の大野との仲を取り持った。大野は造船疑獄の際に、自らを追及した*21中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約し、中曽根は岸内閣科技庁長官として初入閣した。
大野との関係で、大野と親しい右翼・児玉誉士夫*22と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている。
1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根出馬に自民党最大派閥「田中派」領袖・田中角栄*23の支持を得るため、田中の秘書早坂茂三に中曽根を引き合わせ働きかけた。その結果、中曽根は田中の支持を得て総裁選に勝利した。
早坂茂三 - Wikipedia参照
1982年の自民党総裁選では渡辺恒雄と共に、中曽根康弘の総裁就任に奔走した。中曽根嫌いの田中が、中曽根支持に動いたのは当時、田中の秘書だった早坂の手腕が大きいという。なお、中曽根は首相就任後、渡辺と共に料亭で田中や早坂と面会し、中曽根が土下座し田中や早坂へ賛辞を述べた。
村上勇 - Wikipedia参照
自民党大野派が、大野の死後、村上派(村上勇*24)と船田派(船田中*25)に分裂した際、渡邉は村上を嫌っていたため、大野後援企業に村上派への政治献金を取り止め、船田派に一本化するよう要請する挨拶状に差出人の一人として名を連ねた。
なお、その後、船田派から分裂して生まれた水田派(水田三喜男*26)に村上派が合流する形で村上派は消滅している(水田派も水田死後、多くが田中派入りし派閥が消滅)。
船田派も船田死後、田中派に合流する形で派閥が消滅した。
といった言動をしており「ジャーナリストとは言えないフィクサー的人物」として俺は批判的です。ナベツネの「右翼的政治観(自民の大野伴睦や中曽根康弘と交遊、論説委員長として右翼的社説を執筆など)」に勿論、俺は否定的ですが、仮にナベツネの応援した人物が「左派」であろうとも「彼の行為はもろにフィクサー」であり「ジャーナリストがやるべき行為」ではない。
正直「渡辺(あるいは後述する三浦甲子二)がいなかったら中曽根は首相にならなかったのでは?(俺は改憲ウヨの中曽根には勿論批判的、否定的です)」「読売も今ほど右翼紙面ではなかったのでは?」「日本のマスコミや政治ももっとまともだったのでは?」感を禁じ得ない。
なお、何故かナベツネに比べれば「ナベツネと違い表舞台に何故か出たがらなかったせいか」知名度は低いものの「テレ朝のドン」と呼ばれた三浦甲子二にもナベツネ同様の「フィクサー話」があり、三浦(中曽根の番記者だった)もナベツネ同様「中曽根の依頼」で「田中」に「中曽根の首相就任」を働きかけたと言われています。
三浦が「ある意味ナベツネより怖い」のは
【1】「自民党に深く食い込む」一方で「ソ連にも何故かつながりがあったらしいこと(ナベツネには恐らくそれはない)」
【2】ナベツネと違い、表舞台にあまり出なかったため知名度が低いこと(ある意味、裏方に徹したこと)
でしょう。以下にウィキペディア等の記述を紹介します。
三浦甲子二 - Wikipedia
【自民党と三浦のつながり】
広岡知男*27(のちに社長)に近づき、広岡が東京本社編集局長に就いた年に政治部入りを果たし、池田勇人*28、河野一郎*29ら大物政治家に深く食い込み、読売新聞社長となる渡邉恒雄やNHK会長になった島桂次*30と並ぶ派閥記者として名を馳せていった。
『佐藤栄作日記』(1963年2月12日)には、「村山・朝日社長宅で岸(信介)夫妻と共に夕食に招かれる。例によって三浦君大いにシャベル」の記述がある。
魚住昭*31は、池田首相が退任(1964年10月)した頃に「三浦の威光は朝日の社内を圧倒していた」と著書『渡邉恒雄・メディアと権力』(2000年、講談社→2003年、講談社文庫)に記し、その理由について「後に社長になる広岡編集局長に引き立てられ、また、村山長挙*32社長の夫人・藤子にもかわいがられていたからだ」としている。
しかし1963年(昭和38年)に朝日で起きた社内紛争である村山事件で、永井大三常務が村山社長に解任されると、村山社長の横暴に反発した全国の朝日新聞販売店が朝日への新聞代金納入をストップした。その結果、村山は社長辞任に追い込まれ、後任社長には朝日新聞社顧問(元朝日新聞常務)の美土路昌一*33が就任し、美土路の下で専務に昇格した広岡が、論説主幹の森恭三*34ら「反村山派」と組んで実権を握った。広岡は1967年(昭和42年)7月21日に社長となり、朝日新聞社の経営から村山家を排除する路線を推進した。
その結果、村山事件が起こるまで「朝日新聞最強の実力者」と言われた「村山派」三浦(政治部次長)は、社内で後ろ盾となっていた村山(社長辞任)、広岡(反村山に転向し、三浦を見捨てる)を失って失脚し、1965年(昭和40年)3月に日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)取締役に転出した。
ところが、三浦は当時、日本教育テレビ会長だった赤尾好夫(旺文社創業者)や日本教育テレビの大株主・東映とも如才なく接し、日本教育テレビの「影の実力者」として確実に影響力を増していった。
1979年6月、三浦はテレビ朝日を実質的に切り盛りする専務となった。
1982年の自民党総裁選では、読売新聞の渡邉恒雄とともに、最大派閥「田中派」の領袖・田中角栄に中曽根への支持を頼みこむ地ならしを行い、中曽根の総裁当選に寄与した。
1985年5月10日、60歳の若さで急死した。三浦が後押しした現職の首相、中曽根はまっさきに通夜に駆けつけ、葬儀にも参列し弔事を読んだ。中曽根曰く「私にとっては、中曽根内閣成立に生涯をかけた一人であると信じている」。
【ソ連とのつながり】
1977年3月10日、NET(4月から全国朝日放送)は「1980年モスクワ五輪」の独占放送権を獲得し世間をあっと言わせた。その立役者が三浦で、長らく対日工作の責任者だったソ連共産党国際部副部長のコワレンコ*35らを入り口に、日本人としてはじめて最高実力者のブレジネフ書記長と会見するなど下準備を重ねてきた成果であった。
ただしソ連のアフガン侵攻(1979年)を理由とした、西側の五輪ボイコットによって、皮肉にも視聴率は取れず、約20億円の損失を被った。
1983年(昭和58年)6月、2年前にテレビ朝日に天下ってきた田代喜久雄*36(朝日新聞社会部長、西部本社編集局長、東京本社編集局長、常務、専務を歴任したやり手)が社長に就任。モスクワ五輪が結果的に失敗したこともあり、三浦は実力派社長・田代に実権を奪われていく。
1982年(昭和57年)7月のレフチェンコ事件*37では、レフチェンコ・メモに三浦の名があり(コードネームは「ムーヒン」)、ソ連のエージェントとしての活動が記録されている。
なお、朝日出身者と言えば三浦以外にも「緒方竹虎*38」「石井光次郎*39」「橋本登美三郎*40」「松島みどり*41」などが「自民党に親しい面子」としており、朝日の記者(特に政治部記者)は皆が「反自民」ではないことを指摘しておきます(勘違いしてるアンチ朝日のウヨがいますが)。
自民に批判的として名前が挙がる記者達の多く(本多勝一氏*42、松井やより氏*43等)は「社会部(本多氏、松井氏)」「経済部(竹信三恵子氏*44等)」など政治部以外の人間です。
*1:中曽根内閣自治相、自民党幹事長(海部総裁時代)、新生党代表幹事、新進党幹事長(海部党首時代)、党首、自由党党首、民主党幹事長(鳩山代表時代)等を歴任
*4:小泉内閣防衛庁長官、福田内閣防衛相、麻生内閣農水相、自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方創生担当相等を経て首相
*5:勿論そうした考えに石破首相や野田立民党代表が乗るかは不明ですが。
*6:福田内閣防衛相、麻生内閣経済財政担当相、第二次、第三次安倍内閣農水相、第四次安倍内閣文科相、岸田内閣外相、官房長官等を経て石破内閣官房長官
*7:福田、麻生内閣環境相、公明党政調会長、幹事長、岸田、石破内閣国交相等を経て公明党代表
*8:鳩山内閣国交相、菅内閣外相、野田内閣国家戦略担当相、民進党代表、国民民主党代表代行等を経て維新の会共同代表
*9:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)等を経て首相
*10:第一次安倍内閣総務相、第二~第四次安倍内閣官房長官、首相等を経て自民党副総裁
*11:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官等を経て首相
*12:中曽根内閣文相、自民党政調会長(宮沢総裁時代)、宮沢内閣通産相、村山内閣建設相、自民党総務会長(橋本総裁時代)、幹事長(小渕総裁時代)等を経て首相
*13:民主党国対委員長(前原代表時代)、鳩山内閣財務副大臣、菅内閣財務相、首相、民進党幹事長(蓮舫代表時代)、立民党最高顧問等を経て立民党代表
*14:ナベツネと親しい関係にあったという中曽根なら招きそうなもんですが、違うのか?。それとも単なる「野田へのおべっか」か?
*15:小渕内閣防衛庁長官、森内閣経企庁長官、自民党政調会長(小泉総裁時代)、小泉内閣防衛庁長官、第一次安倍、福田内閣財務相等を経て衆院議長
*16:なお、額賀は産経出身
*17:なお、大連立構想 (日本 2007) - Wikipediaによれば渡辺の盟友である中曽根元首相や氏家斉一郎元日本テレビ会長(読売新聞での渡辺との権力争いに敗れ、読売新聞広告局長から日本テレビ副社長に出向させられるが後に渡辺と和解)も大連立支持で動いたとのこと
*18:自民党大野派領袖。日本自由党幹事長、衆院議長、吉田内閣北海道開発庁長官、自由党総務会長、自民党副総裁(岸、池田総裁時代)等を歴任
*19:渡辺は大野回想録出版以前にも著書『派閥:保守党の解剖』(1958年)、『大臣』(1959年)、『党首と政党 : そのリーダーシップの研究』(1961年)を弘文堂から出版している。弘文堂 - Wikipediaによれば当時の弘文堂社長は渡辺恒雄の弟・渡辺昭男。ちなみに 弘文堂 - Wikipediaにも記載がありますが、弘文堂は田中二郎(東大名誉教授)『行政法』、鈴木竹雄(東大名誉教授)『会社法』、江頭憲治郎(東大名誉教授)『商取引法』、菅野和夫(東大名誉教授)『労働法』、西田典之(東大名誉教授)『刑法総論』等の版元であり、法律分野で知られています。
*20:岸内閣科技庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相、自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行管庁長官等を経て首相
*21:造船疑獄当時(1954年)は自民党は存在しておらず、大野は自由党(吉田首相が総裁、大野は総務会長)に、中曽根は自由党と対立する改進党(重光葵総裁)に所属していた。後に改進党は日本民主党(鳩山一郎総裁、重光葵副総裁、岸信介幹事長など)を経て自由党と保守合同し、1955年に自民党(鳩山一郎総裁(首相)、岸信介幹事長など)が誕生
*22:日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介首相は、1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした。その立会人が大野と親しい児玉であり、河野一郎(自民党河野派領袖。岸内閣経企庁長官、自民党総務会長(岸総裁時代)等を歴任。河野洋平元自民党総裁の父)や佐藤栄作(岸の実弟。自民党総務会長(岸総裁時代)、岸内閣蔵相等を経て首相)も署名した誓約書が残されている。しかし岸は誓約を反故にし、池田勇人(岸内閣で蔵相、通産相を歴任)に政権を禅譲している。一説にはこの事について岸は「床の間(首相ポスト)に肥溜め(大野)を置けるわけがない」と言い放ったという。誓約を反故にされたことで大野は岸を恨み、一説には、岸が首相正式辞任直前に右翼(児玉の部下であり、面子を潰された児玉の報復とされる)に刺され負傷した際には「ざまみやがれ、あの法螺吹きが」と言い放ったという。(児玉誉士夫 - Wikipedia、大野伴睦 - Wikipedia参照)
*23:岸内閣郵政相、自民党政調会長(池田総裁時代)、池田、佐藤内閣蔵相、自民党幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣通産相等を経て首相
*24:鳩山内閣郵政相、岸内閣建設相、三木内閣郵政相等を歴任
*25:鳩山内閣防衛庁長官、自民党政調会長(岸総裁時代)、衆院議長、自民党副総裁(福田総裁時代)等を歴任。栃木県知事を務めた船田譲は息子。宮沢内閣経企庁長官を務めた船田元(船田譲の息子)は孫
*26:吉田内閣経済審議庁長官、石橋、岸内閣通産相、池田、佐藤内閣蔵相、自民党政調会長(鳩山、佐藤、田中総裁時代)等を歴任
*27:1907~2002年。朝日新聞大阪本社経済部長、東京本社経済部長、東京本社編集局次長、東京本社編集局長、専務、社長、会長を歴任(広岡知男 - Wikipedia参照)
*28:元大蔵事務次官。吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相等を経て首相
*29:自民党河野派領袖。鳩山内閣農林相、行管庁長官、岸内閣経企庁長官、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣農林相、建設相、副総理、佐藤内閣副総理等を歴任。河野洋平元自民党総裁の父。第四次安倍内閣外相、防衛相、菅内閣行革相、岸田内閣デジタル相を歴任した河野太郎は孫
*30:1927~1996年。宏池会(池田派)の番記者となり、宏池会と親密な関係にあった。NHKアメリカ総局長、放送総局主幹、報道局次長、報道局長、専務理事、副会長を経て会長(島桂次 - Wikipedia参照)
*31:著書『特捜検察』(1997年、岩波新書)、『特捜検察の闇』(2001年、文藝春秋→2003年、文春文庫)、『野中広務・差別と権力』(2004年、講談社→2006年、講談社文庫)、『国家とメディア』(2006年、ちくま文庫)、『官僚とメディア』(2007年、角川ワンテーマ21)、『冤罪法廷:特捜検察の落日』(2010年、講談社)、『出版と権力:講談社と野間家の一一〇年』(2021年、講談社)等
*32:村山家は朝日創業者一族で村山長挙は創業者・村山龍平(初代社長)の女婿。村山長挙(1894~1977年)は大阪朝日新聞印刷局長、朝日ビルディング社長等を経て朝日新聞社社長
*33:1886~1973年。戦前、朝日新聞社会部長、整理部長、編集局長、常務を、戦後、全日本空輸社長、朝日新聞社長を歴任
*34:1907~1984年。朝日新聞ヨーロッパ総局長、論説主幹等を歴任
*35:1919~2005年。ソ連共産党国際部日本課長、国際部副部長等を歴任。著書『対日工作の回想』(1996年、文藝春秋)
*36:1917~1993年。朝日新聞社会部長時代(1960年代)にまだ若手だった疋田桂一郎(1924~2002年、のち天声人語子)や本多勝一(1932年生まれ)を登用。また、テレビ朝日社長時代の1985年(昭和60年)、久米宏をメインキャスターに据えた『ニュースステーション』をスタートさせたことで知られる(田代喜久雄 - Wikipedia参照)
*37:レフチェンコによってソ連エージェントとされたのは、「フーバー」こと石田博英(自民党代議士。石橋、岸内閣官房長官、岸、池田、佐藤内閣労働相、三木内閣運輸相、福田内閣労働相等を歴任)、「ギャバー」こと勝間田清一(元日本社会党委員長)、「グレース」こと伊藤茂(日本社会党政審会長、細川内閣運輸相、社民党副党首等を歴任)と「ウラノフ」こと上田卓三(拙記事kojitakenに悪口する(2024年12/15日分)(副題:「リクルート疑惑の上田卓三」&「部落解放同盟の不祥事」について) - bogus-simotukareのブログで触れたリクルート事件で名前が浮上した御仁と同一人物)の両社会党代議士、「カント」こと山根卓二(サンケイ新聞編集局次長。この疑惑を元に産経退社に追い込まれ、西友顧問、日本衛星放送(現・WOWOW)取締役、テレビ埼玉社長を歴任)、「ムーヒン」こと三浦甲子二(テレビ朝日専務)等である。但しKGBエージェントとされた日本人はいずれも「事実無根」「身に覚えがない」と疑惑を否定した(レフチェンコ事件 - Wikipedia参照)。
*38:1888~1956年。戦前、朝日新聞政治部長、編集局長、常務、専務、小磯内閣情報局総裁を歴任。戦後、東久邇宮内閣書記官長、吉田内閣官房長官、副総理、自由党総裁を歴任
*39:1889~1981年。戦前、朝日新聞専務。戦後、朝日放送社長。後に政界に進出し吉田内閣商工相、自由党幹事長(緒方総裁時代)、岸内閣行管庁長官、池田内閣通産相、佐藤内閣法相、衆院議長等を歴任。自民党石井派領袖
*40:1901~1990年。戦前、朝日新聞外信部長。戦後、池田内閣建設相、佐藤内閣官房長官、建設相、運輸相、自民党総務会長(佐藤総裁時代)、幹事長(田中総裁時代)等を歴任。運輸相時代に全日空から収賄したとしてロッキード事件で有罪判決
*42:1932年生まれ。著書『中学生からの作文技術』(朝日選書)、『新・アメリカ合州国』(朝日文芸文庫)、『アイヌ民族』、『アメリカ合州国』、『アラビア遊牧民』、『植村直己の冒険』、『NHK受信料拒否の論理』、『カナダ=エスキモー』、『きたぐにの動物たち』、『釧路湿原:日本環境の現在』、『検証・カンボジア大虐殺』、『50歳から再開した山歩き』、『子供たちの復讐』、『殺される側の論理』、『殺す側の論理』、『事実とは何か』、『実戦・日本語の作文技術』、『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』、『憧憬のヒマラヤ』、『職業としてのジャーナリスト』、『先住民族アイヌの現在』、『戦場の村』、『そして我が祖国・日本』、『中国の旅』、『天皇の軍隊』、『南京への道』、『日本環境報告』、『新版・日本語の作文技術』、『ニューギニア高地人』、『冒険と日本人』、『北海道探検記』、『滅びゆくジャーナリズム』、『マスコミかジャーナリズムか』、『マゼランが来た』、『新版 山を考える』、『リーダーは何をしていたか』、『ルポルタージュの方法』(以上、朝日文庫)、『本多勝一の戦争論』、『本多勝一の日本論:ロシア、アメリカとの関係を問う』(以上、新日本出版社)等
*43:1934~2002年。著書『女たちのアジア』(1987年、岩波新書)、『市民と援助』(1990年、岩波新書)、『女たちがつくるアジア』(1996年、岩波新書)等
*44:1953年生まれ。朝日新聞退社後、和光大学名誉教授。著書『ルポ雇用劣化不況』(2009年、岩波新書)、『女性を活用する国、しない国』(2010年、岩波ブックレット)、『ルポ賃金差別』(2012年、ちくま新書)、『しあわせに働ける社会へ』(2012年、岩波ジュニア新書)、『家事労働ハラスメント』(2013年、岩波新書)、『正社員消滅』(2017年、朝日新書)、『これを知らずに働けますか?:学生と考える、労働問題ソボクな疑問30』(2017年、ちくまプリマー新書)、『10代から考える生き方選び』(2020年、岩波ジュニア新書)、『女性不況サバイバル』(2023年、岩波新書)等、労働問題の著書多数。そういえば例の「リベラル21」も竹信氏に「労働問題の記事執筆」を依頼してもいいところ、そうしないのは「連中が親しい仲間だけでサイト運営したいだけ」の内弁慶だからではないか。