新刊紹介:「歴史評論」2025年3月号(追記あり)

◆報告:ページ数の削減について
 物価高騰により「価格値上げ」「ページ削減」のいずれを行うか*1と検討した結果、しばらく前に値上げしたばかりなので、現在112ページのページ数を96ページに削減することを断腸の思いで決定したとのこと。


特集「再考・美術史学と歴史学の現在」
◆仏像製作の歴史的背景:神護寺薬師如来像と僧道鏡*2をめぐって(西木政統*3
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

神護寺薬師如来立像と八幡神の悔過―第2回文化財情報資料部研究会の開催 :: 東文研アーカイブデータベース2022年5月
 京都・神護寺に伝来する薬師如来立像は、その特異な風貌と和気清麻呂(733–799)が発願したという来歴を持つことから、早くから美術史上で注目をあつめ、多くの議論が積み重ねられてきました。とりわけ、当初の安置場所が神護寺の前身である神願寺あるいは高雄山寺のいずれなのか、どのような経緯で造立されたのかということが、大きな論点となってきました。近年では、政敵であった道鏡(?–772)に対抗するために仏の力を必要とした八幡神の要請に応じた清麻呂が、神願寺の本尊として薬師如来を造像したとする皿井舞*4の学説*5が広く支持されています。
 令和4(2022)年5月30日に開催した文化財情報資料部研究会では、原浩史氏慶應志木高等学校教諭)が「神護寺薬師如来立像の造立意図と八幡神悔過*6」と題した発表を行いました。原氏は、神護寺像の当初の安置場所を神願寺とした上で諸史料を精読し、八幡神道鏡との対立が後世に創作されたものであることを指摘し、神護寺像は八幡神が悔過を行うための本尊であり、清麻呂の私的な願意によって製作されたものと結論付けました。

 西木氏も原氏を支持し仏像の創作背景として「清麻呂道鏡の対立」という説(例えば中野氏、皿井氏)は根拠に乏しく、恐らく「後世の創作であろう」としています。
 他にも「道鏡」云々に否定的な説として以下(長坂氏)を紹介しておきます。

観仏日々帖 神護寺・薬師如来像をめぐる話あれこれ⑦: 神護寺薬師は何故怖い?その「怖い訳」を考える 〈その1〉 【2024.09.01】2024.9.1
 ここからは本題の、神護寺薬師像が「異相ともいえる怖い顔」に造られた訳が、どのように想定されるのかという話に入りたいと思います。
 昭和30年代まで、神護寺薬師の畏怖相、霊威相の造形表現については、「平安初期彫刻の森厳な表現」という括りのなかで捉えられてきたように思えます。
 「唐様式の影響を受けた反古典的様式」とか「森厳な密教芸術の一様相」とか「奈良旧仏教から革新の気息を蔵した時代精神」といったことが、神護寺薬師をはじめとする森厳な平安初期彫刻の造形表現がなされるようになったと説明されていました。
 こうしたなかで、神護寺薬師の畏怖相は、時代様式の一様相としてだけ捉えるのではなくて、その固有の造立事情、経緯に由来するものだという画期的な考え方が提示されました。
 中野玄三*7による新説で、
神護寺薬師像の尋常ならざる畏怖相は、和気清麻呂道鏡の怨霊や一派の呪詛に対抗するために造立されたものだからだ。」
というものでした。
 昭和39年(1964)刊、「仏教芸術」誌に、
「8世紀後半における木彫発生の背景~神護寺薬師如来立像の制作事情を中心にして」仏教芸術54号・1964年)
という論文で発表されました。
 道鏡は、「宇佐八幡神託事件」で和気清麻呂により失脚させられ下野で没しますが、清麻呂は、その道鏡の恨みが怨霊となって和気氏に災いをもたらすのを封じるため、これを撃退する霊力を発する仏として、あの恐ろしい形相の薬師像を造立したのだというのです。
 中野玄三氏は自説についてこのように語っています。
清麻呂はかつて道鏡の失脚に大きな役割を果たしました。
結果、道鏡ははるか遠くの下野の地でこの世を去ったのですが、それはかえって清麻呂を不安にしたものと想像されます。
 なぜなら、地上での権力の巻き返しはもはや不可能となった道鏡の恨みが怨霊となり、自身や和気氏の子孫たちに災いをもたらすのではないかという不安が、彼の心をとらえたからです。
 目に見えぬ病気の原因を取り除いてくれる薬師如来は、同様に、目に見えぬ怨霊に対してもそれを撃退する強い霊力を発する仏です。
自己の対立者に対する疑心暗鬼と、自らの犯した罪に対する懺悔とを交錯させて、政治闘争を続けたくらい貴族社会を背景にして、神願寺の本尊は造立されたと考えるのです。」
(中野玄三・加須屋*8著「仏教美術を学ぶ」2013年・思文閣出版刊所収)
中野氏の「怨霊呪詛対抗説」は、これまでになかった画期的な視点からの論説で、大いに注目を浴びました。
 専門家の間でも、神護寺薬師の尋常ならざる畏怖相の訳を説明する考え方として、共感され支持を得て、定説とまでは言えないものの、大変有力説として認知されていったのではないかと思います。
 一方で、(ボーガス注:長坂氏、西木氏、原氏など)中野氏の「怨霊呪詛対抗説」への反論や、別の視点からの造像背景を考えた説も、続々と提示されます。
 中野説が提示されて以来、60年程が経ちますが、この間ごく最近に至るまで、数多くの研究者から、「様々な視点での神護寺薬師の造像背景論」が論じられています。
 1990年代に入ると、「怨霊呪詛対抗説」への疑問が呈され、「国家鎮護の為の薬師悔過の本尊」という説が論じられるようになります。
 「怨霊呪詛調伏説」への反論のポイントは、
・当時、対抗呪術としての薬師信仰、すなわち呪詛の本尊としての薬師信仰が存在したとは認め難い
・当時、怨霊に対抗し闘うという考え方や事例は存在せず、そもそも怨霊は調伏するものではなく慰撫、救済する魂鎮めの対象であった
と考えられることから、怨霊呪詛対抗の為の造像とは想定できないという主張です。
 和気清麻呂は、桓武天皇と緊密な関係にあり重臣として重用されていたことや、神願寺が官寺に準ずる「定額寺」に列せられていることなどからすれば、
・薬師像は国家鎮護を祈願するための薬師悔過の本尊として造像された
と考えられるというものです。
 さらには、八幡神の存在、神願というものを強く意識して、
・「仏力をもって神威を増す」という神願を叶えるための造像であるという説(皿井舞氏)が提示され、近年の有力説とされているようです。
 ほかにも、
・薬師像は仏像ではなく、「神像」として造立された
という説さえもあるようです。
 「神護寺薬師の造像背景論」は以上のようなものなのですが、私など趣味の仏像愛好者には、読んでいても頭がこんがらがってくるだけで、よく理解できていないというのが本音の処です。
 いずれの考えが妥当なのかと云われても、よく判りません。
 いずれにせよ、神護寺薬師の造像背景については、専門家の世界でも重要なテーマであり、また大変難しい問題だということなのだと思います。

観仏日々帖 神護寺・薬師如来像をめぐる話あれこれ⑧: 神護寺薬師は何故怖い?その「怖い訳」を考える〈その2〉 【2024.09.12】2024.9.12
 神護寺薬師像の尋常ならざる畏怖相の表現についても、このような見解が述べられているのを見つけました。
「その(註:神護寺薬師の)表情のいわゆる「異相」についての解釈は、和気氏の神願寺ゆえという個別理由からはすべきではないと思う。
 その「異相」とされる表情も、目鼻を面相の下側かつ中央に集め、鼻先に力を集中させる相貌、鼻翼の形と彫り方、両端に力を入れてへしませる唇、頬骨の位置、眦(まなじり)からこめかみにかけての曲面のとりかたなど、大きく見ると同時期の元興寺薬師如来像や、奈良国立博物館薬師如来坐像東大寺試みの弥勒仏坐像などに通ずるところがあるように思われる。
 今後は、その制作理由を個別かつ情緒的に詮索し過ぎることをやめ、様式的研究を進める方向に向かうべきではなかろうか。
(長坂一郎*9平安時代前期の神宮寺における薬師如来像造立について」東北芸術工科大学文化財保存修復研究センター紀要3号2013.03)
 神護寺薬師の異相、即ち怖い訳を、(ボーガス注:道鏡清麻呂の対立という)個別の制作事情にその理由を求めるべきではなくて、平安初期彫刻の造形表現のバリエーション、一様相のなかで捉え考えていくべきだというのです。
 そのように考えていくと、神護寺薬師の強い畏怖相という異相も、多様な造形表現のなかの一様相というふうに考えることも可能なのかもしれません。
 個別の造像背景ということではなくて、この時代の宗教思想に尊像に霊威を求めるという信仰上の背景があって、そうしたことが威厳ある造形表現につながっているということなのでしょうか。
 平安前期には、神護寺薬師タイプの畏怖相の仏像が、他にいくつも存在したのかもしれません。
 正覚寺地蔵菩薩像の畏怖相、怖い目鼻立ちなどは、神護寺薬師のそれと結構近いように思え、神護寺薬師タイプの畏怖相の一様相・バリエーションとみることが出来るのではないかという気もします。


◆美術史研究と「贋作」:「鑑定学」が必要とされる理由(杉本欣久*10
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。感覚的には我々日本人は「贋作」「鑑定」というのは

春峯庵事件(1934年)】
春峯庵事件 - Wikipedia
春峯庵事件(1)浮世絵贋作事件のあらまし | ARTISTIAN
 昭和九年(1934)4月26日、東京朝日新聞に「珍しや写楽の肉筆現る」という大見出しが載った。記事では、某大名華族で春峯庵と号する人が秘蔵していたもので「いづれも得難い珍品」だと大学教授の笹川臨風*11が絶賛。同年5月14日には「発見」された一連の品々の売立入札会が行われた。入札会に先立ち、豪華な画集『春峯庵華宝集』が作られ、笹川が序文を記した。
 入札会は、総額20万円のうち9万円が売約済みとなったが、読売新聞をはじめとする各社で贋作疑惑が報じられ、ほとんどの売約はキャンセルされた。そして2週間持たずに贋作者をはじめ浮世絵骨董商や神官、出版業者などが関わった大がかりな犯行であることが明るみに出た。春峯庵という号も全てでっちあげだったのだ。詐欺事件として立件され、関係者のうち中心人物とされる(ボーガス注:画商の)金子清次(孚水)、贋作を請け負った矢田家の長男・三千男、三男・修らが有罪判決を受けることとなった。
 法外な報酬で画集に序文を寄せたため、贋作と知りながら協力した共犯者と疑われた笹川臨風も警察に出頭。笹川は罪には問われなかったが、(ボーガス注:真贋の見極めもできないのかとして)専門家としての地位を失った。笹川は学者失格の烙印を押され、一切の公職から身を引くことになる。事件は大学教授という権威が真贋を見誤った事件として、世間に大きな衝撃を与えた。
(中略)
 春峯庵は大きく話題になる一方、すでに浮世絵商のあいだでは贋作の噂が立ち始めていた。(ボーガス注:戦後、第一次吉田内閣)文部大臣や芸術院長など要職を歴任し、浮世絵コレクターとしても知られる高橋誠一郎*12は入札前に浮世絵商数人に電話で意見を求めた。「いずれも『私どもには判り兼ねる代物で御座います。お暇が御座いましたら、御参考までに御覧になって置くのも御一興かと存じます』というような円滑な返事であった」という。学者連と違って、日々商いで贋作に触れることの多い浮世絵商は場数が違ったのだろう。
 ニセモノ情報が騒がれるなか、警察も動いた。事件関係者は召喚されて取調べを受けた。
 最終的に「署名印章偽造行使・詐欺」により、(ボーガス注:画商の)金子孚水は懲役2年、(ボーガス注:贋作製造に関わった矢田家の三男)矢田修は懲役1年6ヶ月の実刑判決、「詐欺ほう助」として(ボーガス注:贋作製造に関わった矢田家の長男)矢田三千男と(ボーガス注:画商の)清水源泉堂は執行猶予付き懲役1年の判決が言い渡された。
春峯庵事件(2)浮世絵贋作事件関係者のその後 | ARTISTIAN
笹川臨風
 浮世絵界での権威は失墜、全ての公職から身を引くことになった。事件後、浮世絵とは離れていった。もともと史料編纂などで業績があったため、歴史家として『赤穂義士研究』『和歌から見た日本女性』などの著作を残している。
◆矢田三千男
 贋作制作をしていた矢田家のなかでプロデューサー的な役割をしていた長男・三千男(みちお)。彼の浮世絵に関する知識は、生半可な学者以上だった。事件後も浮世絵研究を続け、昭和三十二年(1957)には岩佐又兵衛に関する研究成果を彼の個人雑誌「彩雲」のなかで発表している。また江戸期の文人画家、浦上玉堂の研究を160ページの稿本にまとめ、玉堂が岡山藩を脱藩する理由として「陽明学を信奉していた玉堂は、朱子学を主流とする藩の権力者に弾圧されていた」とする新説を発表し、研究者をうならせた。
 しかし、「春峯庵事件の矢田」とあっては文筆家にも学者にもなれず、浮世絵模写画のプロデューサーという元の道に戻るとともに、古美術蒐集家の影の顧問という職に就くより他になかった。「弁舌も爽かであり、筆もよく立つ。多趣味多方面の才人」とも評された三千男は、古美術蒐集家の富裕層への取り入り方もうまかったようだ。
 現在、林原美術館岡山県岡山市)の収蔵品となっているカバヤキャラメル*13社長・林原一郎のコレクションに、一時は顧問として蒐集に携わっていたという(後に高額な手数料を売り手から受け取ったことがバレてしまい解雇されている)。またコスモ石油の前身、丸善石油の社長・和田完二が作った宇宙の宮美術館(大阪府箕面市、すでに閉鎖)の収蔵品蒐集に関わったり、日本通運が伊豆に作った富士見ランド内の資料館に常設展示されていた長崎版画・横浜版画を入れたのも自分だと語っていたという。
◆金子孚水
 葛飾北斎への思い入れが強く、昭和四十二年(1967)にはソ連で「北斎展」を実現、日中国交正常化の際には中国側に「葛飾北斎展」の挙行を熱望する趣旨書を提出し、これも実現させている。また、信州小布施の北斎館開館にも尽力している。
 春峯庵事件は関わった人物の人生を変えた。事件後を追ってみると、贋作を見分けられなかったとして罪を免れた笹川臨風が浮世絵界には復帰できず、贋作に関わったとして罪に問われた矢田三千男や金子孚水が形は違えど浮世絵界に戻っているという、皮肉な結果となっていた。

【永仁の壺事件(1960年)】
永仁の壺事件 - Wikipedia
神戸新聞NEXT|総合|戦後の一大贋作事件 「永仁の壺」が姫路で発見?2020.1.28
 「永仁の壺」かもしれない。昨年末、兵庫県姫路市内の骨董品収集家から、こんな情報が寄せられた。永仁の壺とは約60年前、「鎌倉後期の傑作」として国の重要文化財に指定されながら、実は偽物だった品。戦後の一大贋作事件ともいい、姫路で見つかれば大ニュースだ。しかし取材を進めると、意外ないきさつが明らかに…。(井沢泰斗)
 壺を手にするのは、姫路市の電子機器メーカー「大成化研」会長の松原賢政さん(79)。くだんの壺は2019年11月、知人から託された。
 唐九郎の作品を所有する東京の美術商を見つけた。
 「記念館にあると聞いたことがある」。
 事件で表舞台を追われたはずの唐九郎に、記念館があるのだろうか。
 あった。名古屋市の唐九郎陶芸記念館。そして壺もそこにあった。唐九郎と親交のあった元技術官僚で、エフエム愛知社長などを務めた故本多静雄氏*14を経て寄贈されたそうだ。
 では、姫路にある壺は何なのか。本多氏の著書に答えがあった。事件の後、なんと「永仁の壺」の偽作が流行したという。世間の注目度の高さから瀬戸の陶工が売り出したところ人気を集め、それに目を付けた業者が大量生産を始めた。「数万個が全国へ流れた」と著書に書かれている。
 つまり、偽物の偽物。現在もインターネットのオークションサイトには、数千~数万円の値で「永仁の壺」がいくつも売り出されている。
倉本聰の新作映画「海の沈黙」 60年前の事件に「納得いかず」構想 [北海道]:朝日新聞2024.10.13
脚本・倉本聰、主演・本木雅弘の話題作「海の沈黙」…モデルとなった「永仁の壺事件」を週刊新潮のスクープ記事で振り返る(全文) | デイリー新潮2024.11.23
 11月22日から、映画「海の沈黙」(若松節朗*15監督)が公開されている。89歳になる巨匠脚本家、倉本聰さんが36年ぶりに手がけた新作としても話題だ。実は、この物語の“モデル”は、1959~1960年に発生し、日本中を驚かせた「永仁の壺事件」だという。重要文化財の「永仁の壺」が現代作家による贋作だったとわかったとたん、文化財指定が取り消され、価値が下がった大騒動だ。

三越『古代ペルシア秘宝展』事件(1982年)】
三越事件 - Wikipedia参照
 1982年8月29日、三越日本橋本店で開催された「古代ペルシア秘宝展」の出展物の大半が贋作であると、朝日新聞社が報道。
 贋作事件発覚後、三越をグループ傘下に置く三井グループ二木会」では、岡田茂三越社長に対して退陣を勧告。また、社外取締役であった三井銀行(現・三井住友銀行)相談役の小山五郎*16も「公正取引委員会から違法と認定された独禁法違反行為」「愛人問題(愛人・竹久みちへの背任の疑いのある利益誘導)」等ではなく、古代ペルシア秘宝展問題の引責を辞任理由とすれば、岡田にあまり傷がつかないとして岡田に辞任を勧告したが、岡田は喧嘩腰に拒否した。以降、小山ら三井グループ幹部や三越内部の反岡田派は、岡田の社長追い落としを図り始めた。
 1982年9月22日、取締役会で第5号議案までの審議が終わった後、岡田は腹心の杉田忠義専務に議長を交代した。配布資料で「その他」とのみ書かれていた第6号議案は、事前の打ち合わせでは岡田についての風説は事実に反することの確認とされており、それゆえの議長交代であった。しかし、杉田は岡田の社長解任を求め、それに応じて14人の取締役が起立した。
 驚いた岡田は「おかしいじゃねえか。議長は俺だ!」と食い下がるが、小山五郎社外取締役の提案により改めて発議された動議は16対0で可決成立し、岡田は非常勤取締役に降格となった。この時に岡田が発したとされる言葉「なぜだ!」はこの年の流行語となった。
 後任社長には、岡田によって左遷された名古屋三越社長の市原晃が就任した。岡田解任後の1982年10月18日、竹久みちは脱税、特別背任容疑で逮捕される。竹久逮捕後の10月29日、岡田も特別背任容疑で逮捕された。

【贋作をテーマとした作品】
松本清張の短編小説『真贋の森 - Wikipedia』(1958年初出:春峯庵事件(1934年)をヒントに書かれたとされる)、『美の虚像』
→いずれも、松本清張『ジャンル別作品集3:美術ミステリ』(2016年、双葉文庫)に収録。『真贋の森』については以前松本清張作品『真贋の森』紹介(注:完全なネタばらしがあります) - bogus-simotukareのブログで紹介しました(但し、俺が『真贋の森』を読んだのは清張『ジャンル別作品集3:美術ミステリ』(2016年、双葉文庫)ではなく清張『憎悪の依頼』(1982年、新潮文庫)ですが。『美の虚像』も『憎悪の依頼』に収録されています)。
細野不二彦の漫画『ギャラリーフェイク - Wikipedia

開運!なんでも鑑定団 - Wikipedia
等で「何となくのイメージ」はあるものの、実際には我々素人は「よく分からないところ」があります。
 なお、杉本論文では「美術品の贋作」についてのみ論じられていますが勿論歴史学の分野には「椿井文書 - Wikipedia」「田中上奏文 - Wikipedia」「東日流外三郡誌 - Wikipedia」等の偽書も存在しますし、2000年には旧石器捏造事件 - Wikipediaという遺物捏造が発覚しています。
 また、杉本氏も指摘していますが最近も以下のように贋作事件が起こっており、贋作問題は決して過去の出来事ではありません。
 美術館学芸員やデパートの美術品担当と言う「プロのはずの人間」ですら騙されるのだから、「小生のような素人」が手を出せる分野ではない気がします。
【参考:最近の日本での贋作事件】

【独自】平山郁夫や東山魁夷の偽版画、大量流通…一部百貨店が買い戻す事態に : 読売新聞2021.2.7
 日本画の巨匠、平山郁夫東山魁夷らの絵画を基にした版画の偽作が、約8年前から国内で大量に流通していることが業界団体「日本現代版画商協同組合」(日版商)などへの取材でわかった。大阪府の画商が日版商に偽作の販売を認めた。警視庁は著作権法違反容疑で関係先を捜索し、捜査を始めた。
 一部の百貨店は販売した版画の買い戻しを進め、影響が広がっている。美術商の全国組織「全国美術商連合会」(全美連)の浅木正勝会長は「大きな問題で、業界としてしっかり対応する」と話している。

贋作絵画販売そごう・西武に平山郁夫実弟が憤り「鑑識眼が失われた」|NEWSポストセブン2021.3.24
 「贋作が流通したのは、日本画家の平山郁夫東山魁夷片岡球子の作品群です。ここでいう贋作とは、『無許可で複製された作品』のこと。複製画自体は画家本人や著作権保持者の許可を得た上で、数を制限して制作・販売することはありますが、この3人の作品は不自然に多くの複製画が流通しており、日版商(日本現代版画商協同組合)が調査していた」(全国紙記者)
 この過程で昨年末、大阪の画商男性が無許可で複製画を制作、販売していたことを認めたと報じられた。
 これらの贋作は大手百貨店を中心に販売されており、2月8日、そごう・西武は2009年から20年にかけて疑いのある作品71点を計5500万円で販売したと発表した。
「購入されたお客様には直接連絡を取らせていただき、いったん作品をお預かりした上で、第三者の鑑定機関で調査しています。贋作と判明した場合は販売した価格での引き取りをご提案させていただく予定です」(そごう・西武広報担当)
 なぜ取引過程で贋作の可能性に気付かなかったのか。平山郁夫の弟・平山助成氏(平山郁夫美術館館長)が語る。
「近年は印刷技術の進歩もあり、原画を忠実に再現することが容易になりました。精巧なものも多く、プロが見てもなかなか真贋の区別が難しい。兄の存命時は、複製画を作るにしても信頼できる業者に依頼し、100部だけとか限定してやっていた。全ての複製画を兄がチェックし、納得いくものだけに許可を出していた」
 百貨店のスタッフに“目利き”がいなくなったことも大きいという。
「かつての美術担当は芸大卒も多く、絵画に造詣深い専門職でした。でも、いまは美術担当者の部署異動も多く、専門家よりも“単なる販売員”が目立ちます。売る側から鑑識眼が失われてしまったのでしょう」(助成氏)

偽版画事件の容疑者は「プロ中のプロ」 出回った贋作は見抜けるのか:朝日新聞2021.9.29
 有名画家の偽の版画を制作したとして、著作権法違反容疑で元画商と版画作家が警視庁に逮捕された。
 逮捕され28日に送検されたのは、元画商で大阪市北区の画廊「かとう美術」(閉鎖)の代表だった加藤雄三容疑者(53)と、版画作家で奈良県大和郡山市に工房を構えていた北畑雅史容疑者(67)。
 2人は2017年1月から19年1月の間、日本画家・東山魁夷(1908~99)の偽の版画を計7点作って親族らが持つ著作権者の権利を侵害した疑いがある。
 そもそもの発端は昨年春。全国の画商でつくる日本現代版画商協同組合(日版商)の会員が、贋作とみられる版画が流通していることに気づいたのがきっかけだった。
 相談を受けた警視庁は、2人の関係先から東山のほか、日本画家の平山郁夫(1930~2009)と片岡球子(1905~2008)、洋画家の有元利夫(1946~85)らの版画を約80点押収し、このうち約30点を贋作と確認した。

徳島県立近代美術館 ”偽物の疑い” 絵画の展示取りやめ|NHK 徳島県のニュース2024.7.12
 徳島県立近代美術館は、所蔵する絵画が偽物の疑いがあるとして今月下旬に開催する展示会で、この絵画の展示を取りやめることを決めました。
 偽物の疑いがあるのは、20世紀前半にかけて活躍したフランス人の画家ジャン・メッツァンジェが描いたとされる、「自転車乗り」という絵画です。
 県立近代美術館によりますと、この作品は26年前の平成10年度に大阪の画廊で6720万円で購入し、これまでに常設で展示していたほか、国内の美術館にあわせて6回貸し出しを行っていたということです。
 県立近代美術館の竹内利夫課長は、「偽物の疑いがあるということで、美術館職員みなショックを受けており、県民の方にも大変申し訳なく思っています。本物かどうか調査を進めていきたい」と話しています。
 (ボーガス注:近年の贋作事件としては)2021年には、戦後を代表する日本画家、平山郁夫東山魁夷の作品をもとにした偽物の版画が、大阪や東京の百貨店などで販売されていたことがわかりました。
 百貨店は返金対応などに追われ、画廊を営んでいた被告が、東山魁夷の偽物の版画を無許可で制作・販売したとして、著作権法違反の罪に問われ、懲役3年、執行猶予4年、罰金200万円を言い渡されました。

ホンモノ?ニセモノ?誰が決めるの? 贋作騒動「日本の作品、俺が描いた」と豪語する画家が投げかける問い(47NEWS) - Yahoo!ニュース2024.10.14
 ベルトラッキ氏(73歳)は、10年以上前に世界の美術界を騒がせた絵画偽造事件の中心人物で、2011年に(ボーガス注:懲役6年の)実刑判決を受けた。服役後は自分の名前で画家として活動。出版やドキュメンタリー映画への出演、講演なども行っている。
 その知名度を生かし、Tシャツの通信販売や、複製が困難なデジタル資産「非代替性トークン(NFT)」の発行なども手がけている。一言で言うなら〝やりたい放題〟だ。
 日本での騒動の始まりは、2024年6月。徳島県立近代美術館が海外メディアのベルトラッキ氏に関する報道を確認したところ、贋作として紹介された中に、美術館が所蔵するフランスの画家ジャン・メッツァンジェ作とされる「自転車乗り」があったのだ。
 その報道はさらに、ドイツの画家ハインリヒ・カンペンドンク作とされる油彩画「少女と白鳥」も贋作だと指摘していた。
 驚くべきことに、ベルトラッキ氏は、もう1枚別の贋作が日本にあると証言した。フランスの女性画家マリー・ローランサンが描いたとされる肖像画「アルフレッド・フレヒトハイムの肖像」だ。
 日本の美術館や来館者をだましていた点について聞いた。するとベルトラッキ氏は「だましたとは思わない。絵は素晴らしく、傑作だからだ」とまたもや即答した。悪びれる様子はなく、むしろ胸を張るようだった。
 作品を偽ったカンペンドンクらは、ベルトラッキ氏が若い時から大好きな画家だったといい「私の(偽物の)絵によって、さらに価値が高まった」と主張した。実際、贋作の中で最も高額なものはカンペンドンク作と称した作品で、2006年に競売で280万ユーロ(現在のレートで約4億5千万円)もの値が付いた。
 ベルトラッキ氏自身の名前で描いた絵は現在、作品によってはそれに近い値段で売れ、安くても60万ユーロほどするという。
 ベルトラッキ氏の贋作が初めて発覚したのは2008年にさかのぼる。280万ユーロで競り落とされた例のカンペンドンク作とされる絵が、分析調査にかけられたことが発端だった。結果、塗料から微量のチタンが検出された。
 絵は1914年作とされていたが、チタンが(ボーガス注:絵の具の成分に)使われ始めたのは1920年代以降だ。これをきっかけにうそが芋づる式に暴かれ、ドイツの捜査当局がベルトラッキ氏や妻らを逮捕するに至った。
 ただ大半が時効で、14点についてのみ訴追された。計300点に及ぶとされる贋作もいまだ100点ほどしか回収されておらず、残りは所在不明だ。ベルトラッキ氏によると、17世紀の作品だと偽った絵画はまだ1点も見つかっていない。

徳島や高知の美術館で発覚 贋作疑惑 世界的に有名な“贋作師” ヴォルフガング・ベルトラッキ氏の告白 | NHK | WEB特集 | 文芸2024.12.23
 ことの発端は、徳島県立近代美術館が所蔵する作品に「贋作ではないか」という疑惑が持ち上がったことにあった。
 1990年に開館したこの美術館では、地元徳島出身の洋画家・伊原宇三郎キュビズムの手法を日本に広めたことから、所蔵品としてピカソなど(ボーガス注:キュビズム)の作品を探し求めていた。
 その中で学芸員の目にとまったのが、フランスのキュビズム画家として知られるジャン・メッツァンジェが描いたとされる「自転車乗り」だったという。1998年度、美術館は「メッツァンジェの初期の頂点を飾る代表作だ」と評価し、6720万円で大阪の画廊から購入。常設で展示したり、ほかの美術館に貸し出したりすることもあった。
 しかし、ことし6月、美術館の関係者に衝撃が走った。
 アメリカのメディアの記事で「自転車乗り」が贋作として紹介されていたのだ。
 贋作疑惑は、高知県の美術館にも飛び火する。
 アメリカのメディアの記事には、徳島だけでなく、高知県立美術館が所蔵する絵画についても触れられていたのだ。
 贋作として紹介されていたのは、20世紀初頭に活躍したドイツ表現主義を代表する画家、ハインリヒ・カンペンドンクが1919年に描いたとされる「少女と白鳥」。美術館はこの絵画を名古屋市の画廊から1800万円で購入したという。
高知県立美術館・奥野克仁学芸課長
「カンペンドンクの大型の作品が手に入るかもしれないと心が踊った記憶があります。1億円を超えることもあるカンペンドンクの作品の中では、破格の安値でした。購入の際、専門家のお墨付きの文書も付いていたものですし、『贋作かもしれない』という連絡があったときも、それはあり得ないと思いました」
 この2つの作品を描いたと話すのが、世界的に有名な“贋作師”として知られる、ドイツ出身のヴォルフガング・ベルトラッキ氏だ。過去に数々の贋作を描き、10億円以上をだまし取った罪などで、2011年に懲役6年の判決を受けている。
 私たちはドイツにも取材を広げた。ベルトラッキ氏をかつて逮捕したベルリン州警察が取材に応じるというのだ。
 警察では、捜査を指揮した美術犯罪捜査班のルネ・アロンジュ主任捜査官が出迎えてくれた。
 警察では、捜査が終わったあとも、被害の拡大を防ぐためベルトラッキ氏の贋作の疑いリストの更新を続けている。
 今回、その最新のリストが世界のメディアで初めてNHKに公開された。
 それによると、ベルトラッキ氏による贋作の疑いがある絵画は世界で89点。
 ベルリン州警察のリストには、徳島、高知以外に、国内でもう1つ贋作の疑いがある作品が載っていた。
 東京にあるマリー・ローランサン美術館が所蔵する「アルフレッド・フレヒトハイムの肖像」だ。
 20世紀前半にフランスで活躍したマリー・ローランサンの作品とされている。
 この絵画については、歴代の所有者を記した来歴に不審点がないことや購入元が信頼できる画廊だったこと、さらにマリー・ローランサンの研究者として世界的な権威とされるフランス人の“お墨付き”もあったことから美術館では本物だと判断。
 1989年、フランスの画廊から約3000万円で購入したという。
 果たしてこの絵画の真贋はどうなのか。
 NHKでは美術館の吉澤公寿館長の許可を得たうえで、独自に絵画の鑑定を試みた。依頼したのは「Art Recognition」というAIを使った鑑定システムを独自に開発したスイスの会社だ。大量の絵画の画像データをAIに学習させて解析し、絵画の真贋を鑑定する。
◆「Art Recognition」 カリーナ・ポポヴィッチCEO
「非常に精巧に描かれた贋作と言えます。ただ、制作者は顔を中心に人物像を慎重に描いていましたが、背景についてはあまり注意しておらず、AIが強く反応して贋作だと判断しました」
 ベルトラッキ氏の贋作によって、多くの人たちが翻弄され、莫大な被害が発生したのは間違いない。
 そして今もどこかに彼が手がけた贋作が、そうとはわからず展示されている可能性もあり、彼の行った行為は深刻な影響を与え続けている。

“有名贋作師"ベルトラッキ氏と語る人物へインタビュー 徳島高知の美術館で偽物の疑い | NHK2025.2.5
 徳島県高知県の県立美術館は、所蔵する絵画の中に偽物の疑いがある作品を発見しました。本当の作者と指摘されたのは、世界的に有名な"贋作師"のウォルフガング・ベルトラッキ氏です。本人だと語る人物がNHKの取材に応じ、知られざる制作の経緯を語りました。
 NHKでは2/7(金)「四国らしんばん」でベルトラッキ氏が語った手口をお伝えします。

あなたにとって“本物の価値”とはなんですか - 四国らしんばん - NHK2025.2.7
 四国らしんばん、今回のテーマは「絵画・贋作疑惑」。今回、番組を制作するにあたり、犯罪行為である贋作を糾弾しつつ、本物の価値とはいったい何だろうという考えを私自身も深めていきました。
 スタジオゲストの、画家の中島健太さんは
「世界的な価値のある名画は何ですかと言ったら、モナリザでしょなんていう方が多いと思うんですよ。
 でもあなたにとって、本当に心に届く作品は何ですかと言ったら、もしかしたら、自分の子供が、これお父さん描いたよ。お母さん描いたよって描いてくれた似顔絵かもしれない」と話しました。
 そもそも価値は値段だけでは決まらないでしょう。
 例えば、(ボーガス注:テレビ朝日芸能人格付けチェック - Wikipedia』など)値段が大きく異なる楽器や食べ物などを比較し、どちらが高価なものなのかを当てるようなテレビ番組の企画を見ると、自信をもって違いを認識できる人は少ないですし、正解を聞いてから比べると、分かった気がする、人間の感覚なんて当てにならないなぁなんて思ってしまいますよね。
 贋作と聞くと、現物が存在する絵画をそっくりトレースして、本物と見間違うほどの精密さで描かれたものとイメージするかもしれませんが、今回登場した贋作疑惑の作品は、実際の本物は誰も見たことのない、ある意味での贋作師のオリジナル。
 (ボーガス注:所在不明になったが)資料に残された作品のタイトルから想像し、生み出したものです。
 仮に贋作だとしても、その作品に感動し、心動いたとしたら、その人の気持ちまでは誰も否定できません。
 もう一つ大きく興味があるのは今後もし、本物の絵画が発見された場合です。
 果たして本物の作者はどう描いたのか。
 全く違うのか、はたまた、どこか奇跡的に似ているところがあるのか。
 本物の作品を見たときに、贋作を見る目に変化は起きるのか。
 本物よりも、贋作が良いと思うこともありうるのか。
 やはり、本物の圧倒さを感じることができるのか(私はそう感じたい)
 今回の贋作騒動。多くの人にとって本物の価値を、考えるきっかけにはなったかもしれません。

高知県立美術館 所蔵の絵画 科学調査で贋作の可能性高まる|NHK 高知県のニュース2025.2.7
 当時、「少女と白鳥」とされる絵画の購入を担当した高知県立美術館の奥野克仁学芸課長は7日の会見で、贋作の可能性が高まったことについて「県民の皆さんにだまされた感覚を味わわせてしまったことは素直におわびしたい」と述べました。

贋作疑いの6700万円の絵画、徳島県が独警察と連携し調査 購入ルートなど調べる - 産経ニュース2025.2.25
 贋作の可能性が指摘されている徳島県立近代美術館徳島市)の油彩画「自転車乗り」を巡り、徳島県は25日、ドイツの警察とも連携し、昨年6月から調査を進めていると明らかにした。県議会の経済委員会で県担当者が報告した。
 フランスの画家ジャン・メッツァンジェが描いたとされていた「自転車乗り」は平成11年に6720万円で購入。しかし昨年6月、海外の報道でドイツの有名な贋作家、ウォルフガング・ベルトラッキ氏による偽物の疑いがあることが判明した。

高知県立美術館所蔵の絵画 “贋作だと判断” 高知県 | NHK | 高知県2025.3.14
 高知県立美術館が所蔵する20世紀初頭のドイツ人画家、ハインリヒ・カンペンドンクの「少女と白鳥」とされる作品は、ドイツ人の贋作師ヴォルフガング・ベルトラッキ氏による贋作の疑いが指摘されていました。
 これを受けて高知県では京都大学の専門家*17に依頼し、科学調査を進めていましたが、使用されていた青と白、それに緑の絵の具は絵画が描かれたとされる1919年には流通していなかった可能性が高いと判明したということです。
 また絵画の裏に貼ってあった元の持ち主の名前などが書かれたラベルについて、ベルトラッキ氏の贋作事件を捜査してきたドイツの警察の資料と照合した結果、偽造されたものだと判明したということです。
 これらを踏まえて、県はこの絵画を贋作だと判断したと14日、発表しました。
 絵画は29年前に名古屋市の画廊から1800万円で購入したものだということで、県ではこの画廊に対し、返金を求めることにしています。
 一方、高知県立美術館は、「贋作といえどもレベルの高い絵画であり、贋作という犯罪を伝える点で重要だ」などとして、ことし夏ごろをめどに購入の経緯などとともに展示する方針です。

独作家による贋作騒動、現地警察「78点が偽物の可能性大」判断 高知などの3点も - 産経ニュース2025.3.15
 ドイツ出身の贋作家ウォルフガング・ベルトラッキ氏(74)が著名画家の作品の偽物を多数制作した騒動を巡り、日本の美術館が所蔵する3点を含む少なくとも78点について、ドイツ警察当局が贋作の可能性が高いと判断していることが15日、分かった。
 日本の3点は徳島県立近代美術館徳島市)のほか、高知県立美術館(高知市)とマリー・ローランサン美術館(東京都、閉館)が所蔵。ベルトラッキ氏はいずれも自身による贋作だと証言した。高知の作品については14日、県が贋作と判断したと発表。徳島でも真贋について調査が進められている。
 捜査を主導したドイツ・ベルリン警察のアロンジュ主任捜査官によると、徳島と高知の2点は枠に貼られたラベルや関係者の証言から贋作だとほぼ断定した。東京の1点は実物の調査情報が欠けており、確実に贋作とまでは言い切れないとした。美術犯罪の捜査で約50年の知見があり、欧州で同様の捜査の中核を担うベルリン警察は、3点をドイツで調査することも提案している。

【参考:杉本氏の主張】

【真贋と研究】33 杉本通信〜「鑑定学」への招待〜|こちら杉本〈古美術〉研究室2022.3.27
 学芸員時代にも貨幣や刀など各分野から見た真贋と「鑑定」について、他の専門の方と共に講演会を開催していました。
 それでは、なぜわざわざ「真贋」に立ち向かわなければならないのでしょうか?
 美術史を研究する者の役目として画家の思想、ひいてはその当時の思想をできる限り正確に探るため、「真」を見抜く術は一人一人が身につけて当然のもの。
 ただ、身についていない「研究者」がいるのもまた現実であり、そんな現状に向き合うべく、杉本が取り組みを行っているわけです。

『鑑定学への招待 「偽」の実態と「観察」による判別』杉本欣久著(中央公論美術出版) 3520円 : 読売新聞2023.5.20
 著者は江戸期の絵画を専門とする大学教員だが、関西の古文化研究所で20年の 研鑽を積み鑑定を学んだ。いわば「現場」での実践に裏付けられた書だ。まず「偽」の実態について具体例を挙げ、「観察」の重要性を力説。ついで物質面や技術面、落款など周辺情報の判断について方法論を提示。さらに「観察」に不可欠の「比較」について具体例を挙げながら解き明かす。きわめて論理的な展開は、最終章「批判的『観察』と科学」において、科学哲学者ポパー*18の批判的合理主義を援用して補強され、かつ、おわりにとあとがきで今後の鑑定学の展望を開示する。

【BOOKS】杉本欣久『鑑定学への招待』(中央公論美術出版) 重版した芸術選書を10ページ分試し読み – 美術展ナビ
 「真」「偽」の判別は、その作品を資料として用いて良いか、研究において最も重要な第一歩のはずである。
 けれども、残念ながら所蔵者との関係や金銭的価値の問題、さらに狭い世界ゆえの人間関係的配慮などによってタブー視され、それが「真理」を追究する純粋な研究にとって大きな障害となっている。この現状に対し、

 美術史の研究者は、さらに深い研究をしようとするならば鑑識・鑑定にも責任を持つべきである。本物と偽物の区別を曖昧にしたままで、どうしてその作家がほんとうに成し遂げたことを理解し評価できるだろうか。

と、東京大学名誉教授の佐藤康宏氏*19も苦言を呈されている。
 確かにタブーをタブーのまま放っておいたのでは学問の発展は望むべくもなく、むしろ衰亡の坂をゆるやかに降り落ちるしかないだろう。
 本書では頻繁に「真」「偽」の語を使用するが、誤解を生まないためにあらかじめ意味するところを定義しておく。
 まず、「真」とは落款に記された人物自らの手になる作品をいう。これに対する「偽」とは、落款に記された人物ではなく、個人と組織とに関わらず、別の人物によって作られた作品を指す。
 ただし、全てが「真」と「偽」に割り切れるわけではなく、そこに複雑な状況が存在しているのは言うまでもない。
 たとえば現代におけるブランドの商標のように、落款がその組織における制作代表者の意味しか持たなかったり、下絵はその落款の人物の手になるが、作品の制作自体は門人が行ういわゆる「工房作」や「代作」と称するもの、敬意や向上心などの結果として落款にいたるまで「真」をそのまま写した「模写作」などもある。これらは厳密な意味での「真」ではないが、研究資料として重視すべき作品であることに違いはない。


ジェンダー視点と美術展覧会(小勝禮子
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
【参考:ジェンダーと美術展】

長野県立美術館の新館長に笠原美智子(現アーティゾン美術館副館長)。国内主要館に女性館長の就任続く|Tokyo Art Beat2024.2.17
 長野県立美術館の新館長にアーティゾン美術館副館長の笠原美智子が4月1日付で就任する。長野県が2月15日に発表した。
(中略)
 国内の国公立美術館では近年、逢坂恵理子*20国立新美術館)、蔵屋美香*21横浜美術館)、妹島和世*22東京都庭園美術館)、長谷川祐子*23金沢21世紀美術館)、林洋子(兵庫県立美術館)ら女性館長の就任が相次いでいる。性差による待遇や昇進の不均衡が指摘されてきた日本の美術館行政。ジェンダーバランス是正のさらなる動きにも期待したい。

東京国立近代美術館はなぜ「女性と抽象」展を開催するのか。コレクションにおける女性の作家の再発見とジェンダーバランスについて担当者に聞く|Tokyo Art Beat2023.10.20
 現在、東京国立近代美術館のコレクションを展示するギャラリー4で小企画展「女性と抽象」(9月20日〜12月3日)が開催されている。
 (ボーガス注:企画者の)小川綾子、横山由季子、小林紗由里の3人に話を聞いた。
小川綾子(以下、小川)
 2019年の台北市立美術館「她的抽象(彼女の抽象)」展や、2021年から翌年にかけて開催されたパリのポンピドゥー・センター「彼女たちは抽象芸術を作る(Elles font l’abstraction)」展とスペインのビルバオグッゲンハイム美術館*24での巡回展「Women in Abstraction」展、同年に開催されたホイットニー美術館の「Labyrinth of Forms: Women and Abstraction, 1930-1950」展などの動向を見て、私が発案者となって提案しました。
横山由季子(以下、横山) 
 これまでも、MOMAT(東京国立近代美術館)コレクションで女性のアーティストを特集的に取り上げたことは何度かありました。2019年には「解放され行く人間性 女性アーティストによる作品を中心に」(担当:保坂健二朗、現滋賀県立美術館ディレクター)が開催されています。
 またここ2〜3年で当館の女性研究員の比率が増えたことも、良い追い風になっているかもしれません。
 今回の「女性と抽象」展で紹介している作品のなかには、収蔵以降、ほとんど館内で展示されることのなかったものもいくつかあります。たとえば藤川栄子は、女流画家協会の発起人のひとりであり非常に重要な作家なのですが、その作品《塊》(1959)は、今回が収蔵後初の展示となりました。女性のアーティストの作品は、作家本人やご遺族からの寄贈で収蔵されたケースも多く、館が積極的に収集したわけではないということも、評価が進まなかった原因のひとつかもしれません。

【参考:小勝氏の主張】

「私たち」へ送るエール 30~70代の女性アーティスト8人 22日までさいたまで展覧会 病や生死、老い…「年齢重ね分かったこと表現」:東京新聞デジタル2023.10.14
 女性の生活や人生をテーマに創作を続ける女性アーティスト8人による展覧会「Women’s Lives 女たちは生きている-病い、老い、死、そして再生」が22日まで、さいたま市プラザノース(同市北区)のノースギャラリーで開かれている。開催中のさいたま国際芸術祭2023で、市民プロジェクトの一環として開催。参加したのは県内在住者を含む30代から70代までのアーティスト。絵画や映像など多彩な作品を展示している。(出田阿生)
 企画したのは久喜市在住のキュレーター小勝禮子(れいこ)さん。「妊娠や出産、育児でキャリアの中断につながりがちな女性の人生を、女性作家の表現で前向きにとらえなおしたい。病気や死というネガティブな体験にもアートを通して向き合えたら」と語る。

アートとジェンダー ~病・老い・死~ 小勝禮子(1)/松下誠子 弱きもの守る装置を形に・・・今日の「赤旗」記事 - (新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々2024.12.3
アートとジェンダー ~病・老い・死~ 小勝禮子(2)/宮森敬子 生きる営みの一瞬伝える・・・今日の「赤旗」記事 - (新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々2024.12.10
アートとジェンダー ~病・老い・死~ 小勝禮子(3)/岸かおる 女性への抑圧を世に問う・・・今日の「赤旗」記事 - (新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々2024.12.17
アートとジェンダー ~病・老い・死~ 小勝禮子(4)/井上廣子 隔離された人間の痛みを・・・今日の「赤旗」記事 - (新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々2024.12.24

NHK高校講座・美術第12回『アートとジェンダー』
 フランスのブルジョワ階級の娘として生まれたベルト・モリゾ*25
 今回のゲストは、美術におけるジェンダーの問題を研究している小勝禮子さん。
 女性芸術家を紹介する展覧会も手掛けてきました。
 モリゾが生きた19世紀、フランス社会は、さまざまな制約があったといいます。
◆小勝さん
「当時は、上流社会の女性が一人で自由に外出することは、非常識とされていたんです。外で絵を描けないモリゾは、自分の周囲の家族たち、特に親しい姉エドマとその子どもたちや、自分が結婚してからは自分の家族の日常を描くようになります。」
加藤諒さん
「じゃあ、モリゾは田園風景や街のにぎわいとかを描きたくても、描けなかったんですね。」
◆小勝さん
「そうですね。当時は女性が画家になれたとしても、『男性の空間』と『女性の空間』の区別がありました。モリゾもその境界を越えることはできなかったんです。」

08 小勝禮子「なぜ私はジェンダー視点の展覧会を企画してきたか?ー1990年代から現在まで」 | Can curatorial attitudes become form? | 東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)
 1990年代から、日本でもジェンダー視点を導入した展覧会が開催されるようになった。その流れを牽引したのが、2018年まで東京都写真美術館事業企画課長を務めた笠原美智子*26と、2016年まで栃木県立美術館学芸課長を務めた小勝禮子だ。美術館という現場の最前線で、現在まで継続してジェンダーの問題に多角的に取り組んでいる2人に、これまで企画した展覧会や、美術館制度について話を聞いた。(『美術手帖』2017年11月号特集「GENDER IS OVER!?」より転載)
◆小勝
 2004年にジェンダー史学会が設立されて、昨年発行された会誌『ジェンダー史学』第12号に「美術史とジェンダー:日本の美術史研究・美術展におけるジェンダー視点の導入と現状」という論文を寄稿したのですが、美術史とジェンダーの流れを概括するテーマが同誌のシリーズ企画に取り上げられたのはこれが初めてだったんですね。笠原さんが東京都写真美術館で「私という未知へ向かって:現代女性セルフ・ポートレイト」(1991年)を企画なさったのが26年前なのに、状況は当時とほぼ変わっていないと思います。
◆笠原
 ジェンダーの視点から企画した美術館主催の展覧会としては、日本でもかなり早かったと思います。
◆小勝
 群を抜いて早かったです。その後が東京都写真美術館の「ジェンダー 記憶の淵から」(1996年)で、これを皮切りに世田谷美術館の「デ・ジェンダリズム:回帰する身体」(1997年)、水戸芸術館の「水戸アニュアル‘97: しなやかな共生」(1997年)、そして私が栃木県立美術館で企画した「揺れる女/揺らぐイメージ フェミニズムの誕生から現在まで」(1997年)など、96年から97年にかけて、ほぼ毎月のように関東を中心にジェンダーを問題にした展覧会が開かれている状況がありました。しかしそこで、後に「ジェンダー論争」と呼ばれる、男性批評家・研究者らによる批判が起こります。大ざっぱに言うと「頭でっかちの女たちが輸入したジェンダー思想は、欧米由来の価値観であって日本の現実にはそぐわない」という批判でした。
◆記者
 美術史家の千野香織さん*27が論争についてまとめたテキストなどを読むと、小勝さんや千野さんたちの応答に対し、批判者が論点をずらしていって本質的な議論に発展しなかった印象を受けます。ところで、笠原さんがジェンダーをテーマにした展覧会を最初に企画した動機はなんだったのでしょうか?
◆笠原
 1987年にシカゴ・コロンビア大学を修了して、東京都写真美術館に入ったのが1989年だったのですが、アメリカの社会学、写真史や美術批評の分野ではジェンダー的な視点は当たり前に共有されているのに、日本では存在すらしないことに驚きました。大昔にタイムワープしたような感じで、だから動機はほとんど怒りですね(笑)。
  「ジェンダー論争」の時代には男性側からの批判として「社会で女性はこんなに活躍してるじゃないか。家に帰れば主婦がお金を握っているじゃないか。これ以上どうやって強くなるんだ」といった声がありましたが、その認識自体が時代錯誤。日本国内にも時代とリンクしたアーティストや表現動向が登場しているにもかかわらず、周囲の状況はまったく変わっていかないことの耐え難さが、いまも展覧会を企画し続ける個人的な動機です。
◆小勝
 笠原さんや千野さん、美術史学者の若桑みどりさん*28や鈴木杜幾子さん*29たちが95年に発足した「イメージ&ジェンダー研究会」は、一般の人やアーティストを含め、誰でも参加できる研究会として始まり、いまも大学院生が加わるなど活動を継続していますね。ジェンダーフェミニズムの最新動向に触れられる、有意義な場です。
◆記者
 小勝さんは、ジェンダーの視点を取り入れた美術史の見直しを主に展覧会を通して続けていらっしゃいますが、その経緯はどのようなものでしょう?
◆小勝
 大学時代は19世紀ヨーロッパの版画を研究していまして、美術館に就職してからも版画部門を担当していました。そこで19世紀の挿絵本研究に基づく「モードと諷刺」展(1995年)を企画しました。この時代のファッションを見ると、当時の女性の立場がよくわかります。華美なドレスで着飾ることで、男性の所有物・資産として女性が扱われている時代です。18世紀までは男性も着飾っていたのですが、19世紀になると男性の衣服は黒の礼服といったシンプルなものに変化しますが、女性は変転する流行の衣装をまとうという点では変化がない。同展でのリサーチの過程で、美術における社会学的なテーマに目覚め、19世紀ヨーロッパから現代アートまでを扱う「揺れる女/揺らぐイメージ」へと続いていきました。
◆記者
 その後、小勝さんは「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後1930─1950年代」(2001年)、「前衛の女性1950─1975」(2005年)、「アジアをつなぐ─境界を生きる女たち1984─2012」(2012〜2013年)と、戦前から現代に至る女性作家の活動を、美術史のなかに新たに位置づける展覧会を手掛けられました。いまお2人から伺った、ジェンダー視点を導入した研究や論争が盛んになった1990年代当時の、女性研究者たちの間で共有されていた時代感覚についてお聞きしたいです。​
◆​笠原
 フェミニズムに対する、ある種のフォビア(嫌悪)が、男女を問わずありました。例えば写真家の石内都さんに初めてお会いしたときに「私はフェミニストではないからね」と言われたんです。でもその発言も無理からぬことで、当時の日本で一般に流通していたフェミニスト像はとても歪んだものでした。作家がフェミニストを自称すると、すなわち活動家であると認識されるような極端な状況ですらありました。
◆小勝
 1970年代に起きたウーマンリブ運動への一種のバックラッシュ(反動)ですよね。その活動自体もかなり過激化していた側面はあるのですが、それをマスコミが助長して取り上げるなどした結果、戦う女性像に対する社会的な嫌悪感が醸成された。それは当時のアーティストやキュレーターにも大きく影響しています。
◆笠原
 作品で扱っているテーマやコンセプトには明らかにフェミニスト的なメッセージが込められていても、フェミニストと名乗ることは否定したくなってしまう心証が根付いてしまった。先ほどの「ジェンダー論争」も論争ですらないんです。「生理的に嫌い」という感情が先に立ってしまっている。日本ではいまだに「ジェンダーは学問じゃない」と平気で言う大学の先生がいますから。
 だけど、ようやく変わってきたものもある。それは女性の経済とセクシュアリティに対する意識。例えば私たちが20代の頃は「女性はクリスマスケーキ」と言われていた時代でした。意味わかります?
◆記者
 わからないです。
◆小勝
 24、25(日/歳)を過ぎて、26になって売れ残っていたら、誰も買わないっていう意味。
◆笠原
 女性の処女性が貴重なものとされてたわけ。それが1980年代後半から晩婚化が進んで、1986年に男女雇用機会均等法も施行された。出産も40歳あたりまで繰り延ばされた。つまりセクシュアリティの変化というのは、独身者が性的な身体であるという認識と自信を堂々と持てるようになったということ。そして経済に関しては、結婚しても簡単に仕事を辞めなくなりましたよね。共働きせざるをえない、という社会事情もあるにせよ、この2つの変化が女性の意識をものすごく変えたわけです。
 しかし、そうやって意識が変わらざるをえなくなっているにもかかわらず社会システムのほうは、まったく変わっていない。
 夫婦別姓すらいまだに認められてないですからね。
◆小勝
 システムを動かす側に女性の権利意識、ジェンダーの意識を持った女性がいなかったってことですよね。例えば、美術館の館長も圧倒的に男性が多いでしょう。
◆笠原
 すべては時代状況と密接なんです。私たちが美術館に採用された時期はちょうどバブル期で、全国規模でたくさんの美術館が新設された。それまでは大学内の学閥での人間関係で、就職の可否が決まる場合がほとんどだったけれど、例えば新興の写真分野であれば、日本の大学では社会学を専攻していてまったくコネのない、はぐれ者みたいな私でも学芸員になれる状態だったんです(笑)。何しろ人員が必要な時代ですから。裏を返せば、若い世代が自発性さえあれば企画を立てることのできる時代だった。もっとも、その後の景気後退で雇用状態が悪くなって非常勤が増えたことも、女性学芸員の増加の理由ではあるんですけどね。社会通念として、男性は正規雇用の職を選ばざるをえないバイアスが強いですから。でも、それも崩れ始めて、男性の非常勤が当たり前になってやっと社会問題化してきた。
◆記者
 様々な社会的背景があるにせよ、いまでは美術館は女性の活躍が目立ちます。それは今後の美術館制度にとってポジティブな変化としてとらえていらっしゃいますか?
◆笠原
 東京都写真美術館を見てください。とてもアクティブにやってるでしょう(笑)。学芸員12人中、男性は3人しかいません(取材当時)。でも、若手の伊藤貴弘さんも主体的に仕事をしていて、自分の企画展第一弾として2017年9月末からの長島有里枝さんの個展を企画しています。
 長島さんはデビュー時に「ガーリーフォト=女の子写真」と名指されて、当時はそれが許容される社会だったわけだけど、それに対する反発や長島さんへの共感は、伊藤さんも私もまったく変わらない。でも、個々の意識は変化しているとはいえ、美術館の問題は、もっと上層部を含めたシステムを変えなければいけないと思う。
◆記者
 では、アーティストの側はどうでしょう? この数十年でジェンダーを扱う表現動向に変化は起きていると感じますか?
◆笠原
 どんどん成熟されていると思います。1990年代まで寡占的だった二項対立的な図式ではなく、性差や民族性などの複雑さを抱えた豊かな視点・表現が現れて、世界基準で評価されるアーティストが増えています。実際、世界の主要美術館での展覧会や国際展を見ても、あえて極端に言えばゲイと女性と非白人の作家が世界の美術を席巻してるようなものですよね。​
◆小勝
 でも多くは、写真や映像の作家ですよね? それ以外のジャンルに関しては、日本に限定するとちょっと厳しいと私は思っています。アジア全域に視野を広げると、私も企画した「アジアをつなぐ」展にも出品したインドのナリニ・マラニやシルパ・グプタなど、かなり面白い人がいますね。中国の曹斐(ツァオ・フェイ)は、かつてのポップカルチャー的な世界観からジェンダー的なテーマに移行しつつあって、とても興味深い。いっぽう、日本ではアニメやゲームを想像力の源泉とする表現が、村上隆さんを筆頭に20世紀末から一定数登場しましたが、その後は表層的な意匠に留まっていて、コンセプトがアップデートされた印象がなく、残念に感じます。日本的なるものとして海外である程度ウケるという側面もあるのですが、そこに無防備に乗っかっていく女性アーティストが目立つようになった。​
◆記者
 そこで気になるのは、近年の女性作家を特集した展覧会です。例えば、水戸芸術館の「クワイエット・アテンションズ 彼女からの出発」(2011年)や、金沢21世紀美術館の「Inner Voices ─内なる声」(2011年)はそれぞれ意義深い展覧会ですが、ジェンダーを持ち出すことによる政治的・心理的摩擦を避けようとする姿勢も感じられます。抽象度を上げたり、ある種の弱さを戦略的に装わなければ、女性の意思を届けられない状況がいまだに続いていると言えるのかもしれません。
◆小勝
 「クワイエット・アテンションズ」展を企画した高橋瑞木さん*30ジェンダーについてきちんと研究されていたのが図録のテキストからわかります。ただ私はその2つの展覧会のタイトルを見て仰天しました(苦笑)。女性の声が、なぜいまもそんなに密やかで内にこもったものとされるのか。
◆笠原
 2017年5月に企画した「ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館」(2017)での実施がすごくスムースだったのは、インドの女性作家で、生まれ育った環境も使う言語もまるで違うのに、社会に対する感じ方や価値観に差がなかったこと。それはダヤニータ自身が世界中を拠点とするコスモポリタン的な女性だからだと思います。住む場所や国籍は問題ではなくて、同時代的なあるレイヤーを共有していれば精神的な共感を得やすい。逆にいえば、精神的に鎖国している人とはブレイクスルーできない。声が届かない。
 私、最近は外国の女性作家の小説をよく読んでいて、例えば、ウクライナに住んでいる人が書く物語がものすごく身近なものとして響くんですね。逆に、日本語で書かれた男性作家の本は腹が立って全然読めないものもある(笑)。それくらい共感できる社会意識や時代認識のレイヤーが世界的に張り巡らされているってことでもあるし、逆に既存の価値観内での利益の享受者、つまり一部の男性ってことですけど、彼らが社会の変化の中で自分たちの利益が侵されつつあることに危機感を抱いているのが文章から伝わってくるんですね。人の意識だけでなく、社会のシステムも変化せざるをえなくなっている。これは、その予兆のような気がします。

【追記】
 この拙記事で08 小勝禮子「なぜ私はジェンダー視点の展覧会を企画してきたか?ー1990年代から現在まで」 | Can curatorial attitudes become form? | 東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)(『美術手帖』2017年11月号特集「GENDER IS OVER!?」より転載)を紹介したためか、グーグルの「おすすめ記事」に過小評価されてきた女性アーティストたちに光を当てる。フランスの非営利団体「AWARE」の日本語セクションが開設|美術手帖(『美術手帖』の記事で、小勝氏について触れられてる)が表示されました(多分、今まで気づかなかっただけで以前から「俺のブログ記事ネタから判断した、グーグルのおすすめ記事」が表示されてたと思います)。
 「その存在を知らない記事をおすすめしてもらえる(おすすめ記事が読みたい記事なら助かるし、読みたくない記事でも無視すればいいだけ)」と言う点で便利な反面、「個人情報(はてなブログで記事にしたネタ)がグーグルに収拾されている」わけで、少し怖い気もします。
 それはともかく以下の通り紹介しておきます。

過小評価されてきた女性アーティストたちに光を当てる。フランスの非営利団体「AWARE」の日本語セクションが開設|美術手帖2025.2.15
 18世紀〜20世紀の女性アーティストたちを可視化するため、彼女たちの功績についてのコンテンツをウェブサイトで無料公開している「Archives of Women Artists, Research and Exhibitions」(以下、AWARE*31)。そのウェブサイトの日本語セクションAWARE-日本 — AWAREが開設され、記者発表会が東京都内で行われた。
(文=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部))
 美術史において十分に評価されてこなかった女性アーティストの功績を可視化するために設立されたフランスの非営利団体「AWARE」。そのウェブサイトの日本語セクションの開設に伴い、記者発表会がアンスティチュ・フランセ東京で行われた。
 AWAREは、2014年にフランスのキュレーターで美術史家のカミーユ・モリノーらによってパリで設立。18世紀〜20世紀の女性アーティストたちを可視化するため、彼女たちの功績についてのコンテンツをフランス語と英語の2ヶ国語で作成し、ウェブサイトで無料公開している。10周年を迎えた2024年には日本チームが発足し、ウェブサイトに日本語による新たなセクションが開設された。
 また、AWAREは過去5年間にわたり、日本の専門家や機関との協力のもと様々なプログラムを行ってきた。例えば、「TEAM: Teaching, E-Learning, Agency, Mentoring」(以下、TEAM)は2020年に設立された国際的な学術ネットワークであり、女性アーティストに関する学術的リソースの収集や出版、美術史における平等の問題に取り組む新たな世代の研究者を育成することを目的としている。
 日本からも大阪大学大学院人文学研究科の中嶋泉*32授を准教授が参加している。
 さらに、カルティエの助成による(ボーガス注:AWAREの)プログラム「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」は、19世紀から21世紀にかけて活躍した女性アーティストに関する研究を通じて、女性アーティストの歴史とその世界的な貢献を明らかにしようとしている。今年で完結するこのプログラムだが、メンバーのひとりである小勝禮子(プログラム特別顧問。研究者、美術史家、美術評論家。元栃木県立美術館学芸課長。「アジアの女性アーティスト:ジェンダー、歴史、境界」創設者)は、今後は日本だけでなく、アジアの国々の女性アーティストに対するリサーチをAWAREに継続していってもらいたいとしつつ、日本の美術館においてより多くの女性アーティストの掘り起こしや検証の展覧会の開催に対する期待を寄せている。


◆生活図画事件(川嶋均*33
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。勿論「ガチの共産主義運動」でも弾圧(例:小林多喜二が小説『一九二八年三月十五日 - Wikipedia』で描いた三・一五事件 - Wikipedia(1928年))など許されませんが、「明らかに共産主義運動とは言いがたい代物が無茶苦茶な拡大解釈(こじつけ、いいがかり)で、共産主義運動として弾圧された」と言う点で生活図画事件は問題の訳です。他にもそうした事件として、三浦綾子*34の小説「銃口 (小説) - Wikipedia」で取り上げられた「北海道綴方教育連盟事件」などもありますが。

北海道放送【特集】弾圧を生き延びた親友との絆を胸に国への請願を(2024年5月27日放送)
 北海道旭川市の老人ホームで暮らす菱谷良一さん。102歳です*35
 菱谷さんは19歳の時に、自身が描いた1枚の絵が治安維持法に違反したとして逮捕されました。
 旭川師範学校、いまの北海道教育大学旭川校の美術部の学生や教師など26人が、特高警察に逮捕された 「生活図画事件」 です。
 生活図画とは、身の回りの生活を見つめ、ありのままを描くことで、いまよりもいい生活を目指そうとする教育運動です。
東京藝術大学・川嶋均講師
「菱谷さんの場合、美術部で書いた『話し合う人々』という作品が、証拠資料に採用された。絵としてはその本の中身までは見えないというか、ただ白いページが描かれているだけだが、特高警察は、『これは共産主義の本を読んで語り合ってるところだろう。そうに違いない』というような追及をされたそうです」
 特高の恫喝と暴力に、菱谷さんはでっちあげの自白調書に押印し、1年3か月もの間、旭川刑務所などに投獄されました。
 獄中で自殺まで考えるほどの絶望の中、菱谷さんを支えたのは、ある友の存在でした。
 松本五郎さん。事件当時、旭川師範学校美術部の部長で、菱谷さんと共に逮捕されました。
 2020年10月、松本さんが亡くなり、事件の被害者で生きているのは菱谷さんだけになりました。
 「治安維持法」 による逮捕者は数十万人にのぼるとされていて、拷問などによって1600人以上が死亡したといわれています(治安維持法犠牲者国家賠償要求調べ)

生活図画事件 - Wikipedia

戦前の北海道・生活図画教育事件とは?2008.5.10
 生活図画教育とは、1932~1940年、北海道旭川師範学校(現在の北海道教育大学旭川校)・熊田満佐吾、旭川中学校・上野成之両教師とその教え子たちが実践した美術教育です。
 それは、教え子たちに、身の回りの生活を見つめさせ、題材を選び、自らと現実の生活をより良く変革することをめざす絵の教育でした。しかし、戦争を推し進める国家権力はこうした教育さえ許さず、1941年に北海道綴方教育連盟への弾圧*36(1940年)に次いでこれらの教師たちを弾圧しました。これが「生活図画事件」といわれるものです。
 熊田は「リアリズムの図画を通してその時代の現実を正しく反映させなければならない」として「美術とは何か」「美術は人間に何をもたらすか」を学生に討論させ、工場などで働く人びとを描かせました。
 上野は、1931~1935年に続いた大凶作の現実に生徒の目を向けさせ、「凶作地の人たちを救おう」「欠食児童に学用品を送ろう」をテーマに美術部員にポスターを共同制作させました。ポスター「スペイン動乱は何をもたらしたか」の制作では「戦争という現実を考え直してみる目を要求した」と後年、語っています。
 これらの実践は、1932年、旭川中等学校美術連盟の組織へと発展、卒業生は「北風画会」を結成し毎年、旭川市内で展覧会を開き、市民に親しまれました。
 教師となった卒業生は、生活図画教育のみならず、生活綴方にも取り組み、アイヌ差別やいじめの解決、地域青年団の活動など、戦後民主教育の先駆ともいえる実践をしました。
 1941年1月、北海道綴方教育連盟の教師53人とともに熊田は検挙されました。師範学校は美術部員を取り調べ、卒業直前に5年生5人を留年・思想善導、1人を放校にします。9月、特高は留年の5人を含む熊田の教え子(国民学校教師)21人、上野と教え子3人を検挙します。軍隊に入隊または入隊直前3人(判明分)は、後に憲兵に取り調べを受け、1人が虐待で亡くなっています。
 裁判では、稲刈り途中で腰を伸ばした農婦を描いた「凶作地の人たちを救おう」のポスターについて、「地主ト凶作ノ桎梏(しっこく)ニ喘(あえ)グ農民ヲ資本主義社会機構ヨリ解放セントスル階級思想ヲ啓蒙スルモノ」として処断し、これらの絵を総括して「プロレタリアートによる社会変革に必要な階級的感情及意欲を培養し昂揚する為の絵画である」(旭川区裁、堀口検事)と断定。治安維持法目的遂行罪として熊田を3年半、上野、本間勝四郎を2年半の実刑に、12人を執行猶予付の有罪としました。

「生活図画事件」被害者の松本五郎さん死去 [北海道]:朝日新聞2020.10.28
 第2次大戦中に北海道で起きた思想弾圧事件「生活図画事件」の被害者で、北海道音更町の元教員の松本五郎さんが24日、肺炎のため死去した。99歳だった。
 葬儀は27日に執り行われた。喪主は長女の夫・前谷良信さん。
 鳥取市出身で、1927年に北海道に入植。旭川師範学校に入学し、美術部の教師の指導の下、身の回りの生活を題材にありのままの生活を描く「生活図画教育」運動に参加した。しかしそれが「共産主義思想を広める」とみなされ、1941年9月に治安維持法違反容疑で逮捕、42年12月まで投獄された。
 戦後は教職に就き、下音更小学校校長を最後に81年に定年を迎えるまで32年間、子どもたちの教育に尽くした。退職後は美術サークルの結成や個展開催など創作活動を続ける一方、事件の経緯をまとめた著作を出版し、平和や表現の自由の大切さを訴えた。
 著書「証言・生活図画事件」のあとがきでは「国民一人一人の絶えざる努力によって平和をまもる以外に道はない」と記した。

101歳のことば ~生活図画事件 最後の生き証人~|TBSテレビ:ドキュメンタリー「解放区」2023.11.5
 絵を描いただけで逮捕される。いまでは信じられないことが、太平洋戦争直前に北海道旭川市であった。
 「生活図画事件」と呼ばれるこの事件は、現在の北海道教育大学旭川校美術部の学生など20人以上が検挙された。彼らが逮捕された理由は「治安維持法」違反。「生活図画」=身の回りの生活を見つめ、ありのままを描くことさえも許されない時代がかつてあった。
 この事件の被害者の1人、旭川の老人ホームで生活する菱谷良一さんはまもなく102歳を迎える。19歳の時に検挙され、何気ない日常を描いた絵が「共産主義を啓蒙している」と決めつけられて、マイナス30度を超える極寒の刑務所などに1年以上投獄された。
 事件から82年。事件の犠牲者は菱谷さんのみとなった。亡き友の遺志を継ぎ、老体に鞭を打ちながら「最後の生き証人」として声を上げ続けている。

「絵を描いただけで罪」 生活図画事件の102歳、親友の遺影に誓う | 毎日新聞2023.11.14
 太平洋戦争中の北海道旭川市で教員や学生ら20人余が摘発された思想弾圧事件「生活図画事件」。日常生活の絵を描いただけで危険思想として投獄され、2020年10月に99歳で死去した音更町の元美術教師、松本五郎さんの自宅を13日、一緒に投獄された親友の菱谷良一さん=旭川市=が訪ねた。
 「生きているうちは『平和と自由』のために頑張るからな」。
 遺影にそう語りかけた菱谷さんは14日、102歳になった。


◆「書」という見方:空海筆「風信帖」を例として(高橋利郎*37
(内容紹介)
 空海の代表作とされる「風信帖」の評価においては、「中国の書家王羲之 - Wikipedia」との比較で語られることが多いことを指摘。
 日本書道文化における王羲之の影響の大きさが指摘される。
参考

日本の書のパイオニア~空海「風信帖」~
 風信帖は、平安時代の初期、日本を代表する僧侶だった空海最澄に宛てた手紙です。
 遣唐使の一員として中国に渡った空海は、当時書の最高峰と言われていた王羲之をはじめとして、先端の中国文化を学びました。
 風信帖も中国の文化を取り入れ、堂々とした行書で書かれているのが特徴です。
 空海の書には王羲之の影響が見受けられます。
 風信帖(空海)と蘭亭序(王羲之)を比べてみると、「風」や「恵」などの字が特に似ています。
 これらの文字は骨格がしっかりしているのが特徴で、当時の中国でよく使われていたため唐様(からよう)とよばれています。
 ただし、あまり似ていない文字もあります。


◆歴史の眼「再び出会い続けるために:朝鮮半島と東アジアをめぐる二つの近代美術展覧会」(李美那*38
(内容紹介)
 筆者が学芸員として関わった静岡県立美術館「東アジア/絵画の近代:油画の誕生と展開」(1999年)、神奈川県立近代美術館「ふたたびの出会い・日韓近代美術家のまなざし:『朝鮮』で描く」(2015年)の紹介ですが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆歴史の眼「アイヌ伝承文化の継承と振興」(廣岡絵美*39
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。単に文化財を保存するだけでなく継承と振興(つまりはアイヌ工芸の販売等ですが)が大事なポイントかと思います。

アイヌ文化が息づく二風谷でアイヌ民芸 木彫、刺繍、織物の今昔に触れる|モデルコース | トレたび - 鉄道・旅行情報サイト
 平取町立二風谷アイヌ文化博物館のすぐ隣に位置する建物は、アイヌ文化の普及や情報発信を行なう施設。
 地域で活動する作家の作品を展示販売する二風谷工芸館を併設しています。
 町内には織物や刺繍、木彫をたしなむ人が多く暮らしていますが、現在、一般に訪ねることができる工房の一つに「平取町アイヌ工芸伝承館ウレㇱパ」があります。
 展覧会やコンクールで受賞歴がある工芸師をはじめとする、二風谷民芸組合所属の作家による手仕事の品を手に取り購入することができる貴重な場所でもあります。

 なお、平取町立二風谷アイヌ文化博物館ですが

二風谷アイヌ文化博物館 - Wikipedia
 展示物については、1972年開業の萱野茂二風谷アイヌ資料館の展示物であった物で、萱野茂の好意により平取町に寄付されたものも多くある。

いうことで萱野茂*40平取町出身)が深く関わっていたようです。


◆歴史の眼「歴史フェスという試み」(河西秀哉*41、福島幸宏*42
(内容紹介)
 歴史フェスに関わった河西氏、福島氏の報告ですが、ネット上の記事紹介で代替。なお、2025年も9/14(日曜)に京都市国際交流会館で開催予定とのこと。

歴史しませんか? 生成AIもマンガもテーマに「歴史フェス」開催へ:朝日新聞2024.2.15
 歴史にふれる面白さや、後世に歴史をつなぐ方法について、研究者も一般の人々も関係なく語り合いたい。
 こんな思いから研究者らが企画した「歴史フェス」が、3月に初めて名古屋市で開かれる。
 人気歴史マンガ「アンナ・コムネナ」の創作の舞台裏に、歴史教育での生成AI(人工知能)の使い方まで。こうした八つのセッションが、冒頭のシンポジウムの後に並ぶ。参加者からの発言を重視する双方向式の催しも目立つ。考古学での3D活用や、デジタルアーカイブの使い方など最先端の技術を考える企画も設けた。
 フェスを企画したのは、早稲田大教授の藤野裕子さん*43(日本近現代史)ら6人。大河ドラマや小説、ゲームなど、日本社会では歴史にふれる機会が非常に多い。一方で、研究者と一般の人が一緒に歴史を語り合う場は、まだまだ少ないのが現状だという。専門家向けの「学会」よりも、もっと間口の広い場所があれば。そうして思いついたのが「フェス」だった。
(以下は有料記事です)

「歴史フェス」学者と市民がお祭り感覚で対話を 名古屋大で3月17日に開催:中日新聞Web2024.2.17
 「歴史フェス」と題したイベントが3月17日、名古屋大(名古屋市千種区)で初めて開催される。学者も市民も、音楽フェスのような「お祭り感覚」で歴史を楽しんでもらおうと企画された。実行委員を務める名大の研究者*44に尋ねると、背景には交流サイト(SNS)全盛期の現代ならではの問題意識があった。 
(以下は会員登録しないと読めません)

【現地リポート】日本史講師が”歴史フェス”に潜入!!|Sato@国語・社会科講師2024.3.17
☆全体シンポジウム
「歴史フェス、はじめました。これからどうする?」
☆第一部
◎セッション(同時開催)
・「歴史創作の現場に聞く!佐藤二葉『アンナ・コムネナ』と歴史考証」
→ボーガス注:歴史漫画『アンナ・コムネナ』を連載している漫画家の佐藤氏が歴史考証について講演
・「地震資料の利活用を考える in 東海 :みんなで翻刻と減災古文書研究会の取り組み」
→ボーガス注:減災古文書研究会及びプロジェクトみんなで翻刻 - MINNA DE HONKOKUの取り組み報告と、参加者の翻刻体験
・「デジタルアーカイブを使いこなそう!:アジア歴史資料センターの魅力と活用法」
→ボーガス注:国立公文書館アジア歴史資料センターによる活動報告
・「未来は明るい!?〜歴史学系学生のキャリア形成をめぐって〜」
→ボーガス注:歴史系学生のキャリア形成について講師の講演と参加者の質疑応答
☆第二部
 ◎セッション(同時開催)
・「歴史研究者の若手支援現場に聞く!歴史家ワークショップの活動紹介」
→ボーガス注:歴史研究者の若手支援の試みである歴史家ワークショップの活動紹介
・「いま、考古学3Dが熱い:その概要と実践」
→ボーガス注:考古学における3D活用についての報告
・「歴史教育と研究で生成AIをどのように使うか?」
→ボーガス注:歴史教育と研究における生成AIの活用についての報告
・「真夜中の補講・特別編 ネガティブな歴史を、地域の力に変える?!」
→ボーガス注:新刊紹介:「経済」2025年2月号(副題:三江線遺跡、「幻の匹見わさび」ほか) - bogus-simotukareのブログで紹介した『「困難な過去」に向き合い「地域の価値」をつくる:倉敷市水島の「環境再生のまちづくり」』の筆者である林美帆氏*45が自らの取組(「倉敷公害訴訟」の資料を集めた「みずしま資料交流館」の活動)を報告
(歴史フェス公式HPより)
 今回、私は全体シンポジウム「歴史フェス、はじめました。これからどうする?」とセッション「未来は明るい!?〜歴史学系学生のキャリア形成をめぐって〜」・「歴史教育と研究で生成AIをどのように使うか?」に潜入してきました。
☆全体シンポジウム「歴史フェス、はじめました。これからどうする?」
 ここでは、今回初めての開催となった歴史フェスを今後どうしていくかについて、(ボーガス注:剣持久木氏*46が報告した)フランスの歴史集会の事例をもとに参加者全員で考えました。
☆セッション「未来は明るい!?〜歴史学系学生のキャリア形成をめぐって〜」
 世間では「大学で歴史を学んでも食べていけない」とよく言われます。
 (ボーガス注:大学等の)研究者や(ボーガス注:博物館等の)学芸員は狭き門。
 仮に実力が十分にあったとしても、ポストが空かなければ募集されませんから、それらの職に就くことはできません。
 次に自治体の文化財担当職員ですが、研究者や学芸員よりはマシかもしれませんが、こちらも募集人数が多いとはお世辞にも言えません。
 しかし、諦めるのはまだ早い。
 このセッションで示されたことの一つに、資料の保存・継承・活用を業務とする民間企業の存在がありました。
 私はこれを知ったときに、「こんな企業があるのか」と驚きました。
 それと同時にこのような企業の存在感がもっと増せば、「大学で歴史を学んでも食べていけない」という世の風潮を打ち破れるのではないかと思いました。
☆セッション「歴史教育と研究で生成AIをどのように使うか?」
 このセッションでは、歴史教育と歴史研究における生成AIの活用方法について報告者とフロアの皆さんで検討しました。
 歴史教育のパートでは、生成AIを活用した授業実践の事例として、中学校の探究の授業と高校の古典探究の授業が報告されました。
 いっぽう歴史研究のパートでは、歴史研究における生成AIの活用実践についての報告が行われました。
 このセッションによって、生成AIの明確な長所・短所が参加者全員に共有され、こちらも有意義なセッションになったと感じました。新たな可能性を感じたセッションでした。
 今回の”歴史フェス”という新たな試みですが、とても良いなと思いました。
 純粋に楽しかったということもあるわけですが、やはり特筆すべきなのはそのカジュアルさです。
 私もしばしば歴史学の研究会などにお邪魔させていただいておりますが、こんなにカジュアルなイベントは初めての体験でした。
 研究者や大学生でない人が学会や研究会に行くのはなかなか心理的ハードルが高いでしょうし、ましてや懇親会はもっとそうでしょう。
(私は研究会には参加することもありますが、懇親会は恐くて出たことがありません。)
 それに対して、この”歴史フェス”にはそのような心理的ハードルはありませんでした。
 ”歴史フェス”の画期的な点は、歴史(学)の間口を恐れずに広げたことにあると私は考えています。
 間口の拡大はリスクをはらむ一方で、とても重要なことだと思っています。
 それは、学問はそれに携わる人が少なくなってしまうと、規模が縮小してしまうからです。
 ましてや、日本は人口減少社会です。
 何もしなければ、歴史学の規模もどんどん縮小してしまうでしょう。
 歴史学を守り、存続させていくには歴史に関心をもつ人を増やしていかなければならないのです。
 その点、この”歴史フェス”はその大きな一歩だったのではないかと思います。
 そんなカジュアルさをもった”歴史フェス”の第2回が開催されることを祈って、この記事を締めくくりたいと思います。

歴史フェスに参加した感想。歴史に携わる仕事の裏側を知ることができた楽しいイベントでした! in名古屋大学 | 中世ルネサンス ブックカフェ Tür テューア2024.3.21
セッション1『歴史創作の現場に聞く!佐藤二葉「アンナ・コムネナ」と歴史考証』
 私が一番楽しみにしていたセッション。これを聞きたいが為に、歴史フェスに参加したと言っても過言ではありません…!
 幸村誠*47先生作「ヴィンランド・サガ」のアニメ版の時代考証をされた小澤実先生*48と、漫画「アンナ・コムネナ」の作者である佐藤二葉先生が、お仕事の裏側を話してくださいました。
 「ヴィンランド・サガ」は11世紀頃のヴァイキングをテーマにした漫画で、主人公トルフィンは実在したとされるアイスランドの探検家をモデルにしています。当店にも置かせていただいており、私が好きな漫画の一つです。
 小澤先生のお話で印象に残っているのは、「2秒に10時間かけた」という手紙を書くシーン。とある契約書に真実味を持たせる為に、監督に提示された日本語をラテン語に翻訳し、時代に則った形式で文章を作られたそうです。
 その考証にかなりの時間がかかったというのに、手紙のシーンはたったの2秒…。私だったら発狂しそうです…。細部まで手を抜かない、研究者の心意気というか高潔なる魂を感じましたね。
 他にもノルド語で詩を作って、アイスランド大使館の方に音声をご協力いただく話とか、幸村先生とのエピソードとか、興味深いお話がてんこ盛りでした!
 次に、佐藤二葉先生の「アンナ・コムネナ」。
 こちらは11世紀のビザンツ帝国に実在した、中世最初で最後の女性歴史家であるアンナ・コムネナさんを描いたフルカラーコミックです。
 佐藤先生は漫画家、小説家、音楽家、舞台役者、演出家、リューラー奏者とかなりマルチでご活躍されている、恐ろしいくらい凄い女性です。登壇された際にはビザンツ風の装飾のある煌びやかなお召し物を着ており、その身振り話しぶりからも古代ギリシア悲劇に対する愛と熱意が物凄く感じられました。
 佐藤先生は「アンナ・コムネナ」をどう作って時代考証をしているのかという事を、とても見やすくて魅力的なスライドと共に説明してくださいました。
セッション5『歴史研究者の若手支援現場に聞く!歴史家ワークショップの活動紹介』
 歴史家ワークショップと聞いて「歴史グッズをブースにて販売するお話なのかしら?」と少し思っていましたら、歴史研究者の卵さんを支援し、支えていく活動でした。
 研究者になるには、やはり外国語にて発表や論文を書いてキャリアを地道に積んでいく必要があるのですが、今までは練習する機会があまりないままぶっつけ本番、みたいな感じであったようです。慣れない発表に失敗を恐れ、大変であったとか。しかし、歴史家ワークショップ様が論文の添削を行い、失敗しても大丈夫という発表の場を設けたことにより、若手研究者の方はとても助かっているそうです。
セッション6『いま、考古学3Dが熱いーその概要と実践』
 最初に「石棒神経衰弱」なるものが行われていたようですが、私達が入室した時には終わっておりました。なんでも箱で目隠ししたまま数種の石棒を触り、その後QRコードで3Dの石棒を検索。どの石棒を触ったのかを考えて、答えるというゲームであるとか。
 次に、考古学における平面図と3Dの歴史を学び、3Dを実際にどのように研究で使用しているかとか、美術館や博物館での活用法などを教えていただきました。古物品が3Dデータ化され、全国のデータベースで自由に見れるようになるのはとても嬉しいことですよね!私はおそらく3Dを見た後、実物が見たくなってしまいます…。
 次に(ボーガス注:岐阜県飛騨市の)「飛騨みやがわ考古民俗館*49」を管理されている方*50にお越しいただき、過疎化が進む地域における考古学の在り方というお話をしていただきました。こちらの民俗館は市役所から27キロほど離れたかなりの山奥のようで、(ボーガス注:飛騨市*51自体も)過疎化が酷いそうです。
 民俗館での一押しの展示品は1000点以上ある「石棒」。こちらは縄文などの古代に祈りの為に作られたとされています。
 はじめは民俗館の認知度は無いに等しく、年間30日しか空いていない為に来館者数は200人くらいであったとか。
 しかし、SNSにて積極的に宣伝し、石棒を全て3D化して公開し、常識の範囲内での使用であるなら無料ダウンロードOKとしたことで状況はかわります。ネットでの検索数は町の人口を軽く超え、来館者数も3~4倍に増えたそうです。
 他のセッションに参加された方はまた違った感想を持たれるかもしれませんが、私は普段知ることができない歴史を生業とする方々の仕事の裏側、若手研究者の支援や研究の現状を分かりやすく学ぶことができた、興味深く面白いイベントでした。
 質問タイムのやり取りや、若手研究者の学術的な説明などは少し専門的に感じられる部分がありましたが、学術世界を垣間見ることができてそれはそれで良かったと思います。
 歴史愛好家の方だけではなく、「興味があるけど歴史は難しい」と感じている方に入口として示すことができるのではないでしょうか。

 アンナ・コムネナについては以下(有料記事なので一部しか読めませんが)を紹介しておきます。

「男の学問」歴史に挑んだ女性がいた 中世ビザンツ描いた異色作完結:朝日新聞2025.3.16
 中世キリスト教世界で唯一とされる女性歴史家を主人公にしたマンガ「アンナ・コムネナ」(星海社)が2月に完結した。東地中海世界で栄華を誇ったビザンツ帝国を舞台に、当時は「男の学問」とされていた歴史叙述に挑んだ皇女の一生を描いた。

 飛騨市の過疎化飛騨みやがわ考古民俗館については以下を紹介しておきます。

過疎進む山あいの資料館、たどり着いた無人開館 持続可能な運営模索 [岐阜県]:朝日新聞2024.8.19
 岐阜県飛驒市の山間部にある飛驒みやがわ考古民俗館が今春から「無人開館」している。人手不足に悩むなか、市は設備を遠隔操作し、管理人が不在でも自由に見学ができるようにした。今夏には、所蔵品を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)のデータベースで公開するための覚書も結び、持続可能な館の運営と活用を模索している。
 飛驒みやがわ考古民俗館は1995年、富山県境に近い旧宮川村に開館した。
 国の重要有形民俗文化財「宮川及び周辺地域の積雪期用具」を含む江戸時代~現代の民俗資料1万6千点、旧石器~縄文時代の石器や土器など考古資料4万点を所蔵する。
 考古学ファンには縄文時代の石棒の展示でも知られる。ただ、飛驒市中心部から車で40分ほどかかり、豪雪に見舞われる冬季は閉鎖される。
 近年の開館日は年間30日程度。市は開館日を増やそうと、昨秋に、職員らが詰めないで見学者を迎える「無人開館」をテスト。今年4月の開館当初から年120日程度の「無人開館」を導入し、春の大型連休や8月半ばなど30日程度を有人で開館することにした。
 無人開館は全国でも珍しい取り組みという。
(以下は有料記事です)

“人口減少先進地”飛騨市、移住者でなく「ファン」を増やす斬新な施策!お互いさま精神で地域のお手伝いサービス「ヒダスケ!」 | スーモジャーナル - 住まい・暮らしのニュース・コラムサイト2022.12.12
 岐阜県の最北端に位置する飛騨市は、アニメ映画『君の名は。』のモデルとしても知られる景観が美しいまち。一方で、人口減少率が日本の30年先を行く、まさに「人口減少先進地」でもある。
 2004年に2町2村*52が合併して誕生した岐阜県飛騨市。飛騨高山が観光地として知られる高山市や、合掌造りで有名な白川村と隣接し、人口は2万2549人(2022年12月1日現在)、高齢化率は40.05%となっている。
 飛騨市役所の上田さんは話す。
飛騨市は、2015年からの30年で、全国平均の倍のスピードで人口減少すると予測される過疎地域です。現在、すでに2045年の日本の高齢化率を上回っているという現状があります。一方で、2016年に公開されたアニメ映画『君の名は。』で、聖地巡礼に来てくれる人たちが増えました。それ以外にも、スーパーカミオカンデで知られ、古川まつりは(ボーガス注:「山・鉾・屋台行事」の一部として)ユネスコ無形文化遺産に登録されています。これまでも、観光などで飛騨市に来てくださる方などの存在に気づいていましたが、名前などがわからず、連絡を取ることができませんでした。そこで、飛騨市に心を寄せてくださるファンの方を見える化して、直接コミュニケーションが取れる仕組みを構築しようと考え、2017年1月に『飛騨市ファンクラブ』を立ち上げました」

道の駅「飛騨古川いぶし」が廃業へ「運営を引き継ぐ会社を募ったが実現せず」 全国5例目の登録取り消し 岐阜・飛騨市 | TBS NEWS DIG (1ページ)2025.2.14
 岐阜県飛騨市の道の駅「飛騨古川いぶし」が経営不振などを理由に廃業することになりました。
 飛騨市によりますと施設は地元の組合が運営してきましたが、経営不振などからおととし11月に休業。組合も去年10月に解散していました。
 地元から市に道の駅廃止の申し出があり、岐阜県などと協議し、国に登録取り消しの手続きを行うことになったということで、取り消しは全国で5例目*53、東海三県*54では初ということです。
 飛騨市は「交通網の変化で周辺の通行量も減った。運営を引き継ぐ会社を募ったりもしたが、実現しなかった。廃業は残念」としています。


◆猪飼隆明氏を偲ぶ(大日向純夫*55
(内容紹介)
 2024年5月に逝去された猪飼大阪大学名誉教授の追悼文。

猪飼隆明 - Wikipedia
【著書】
西郷隆盛*56西南戦争への道』(1992年、岩波新書
『熊本の明治秘史』(1999年、熊本日日新聞社
『ハンナ・リデル*57と回春病院』(2005年、熊本出版文化会館)
『「性の隔離」と隔離政策:ハンナ・リデルと日本の選択』(2005年、熊本出版文化会館)
『遅咲きの女たちの遺言:家族史研究会創始のひとたち』(2006年、熊本出版文化会館)
西南戦争:戦争の大義と動員される民衆』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
『近代日本におけるハンセン病政策の成立と病者たち』(2016年、校倉書房
『維新変革の奇才・横井小楠*58』(2024年、KADOKAWA


◆書評:伊藤之雄*59『維新の政治と明治天皇:岩倉*60・大久保*61・木戸*62の「公論」主義 1862~1871』(2023年、名古屋大学出版会)(評者:伊故海(いこみ)貴則*63
(内容紹介)
 副題の「1862(文久元年)~1871年(明治3~4年)」の間には以下の出来事がありました(ウィキペディア参照)。つまり「岩倉、大久保、木戸が関わった重大事件」でも「征韓論、地租改正、徴兵令(1873年)」「台湾出兵(1874年)」「秩禄処分(1876年)」など「1872年以降の出来事」は取り上げられていないわけです。

1862年(万延元年~2年、文久元年)】
・9月14日
 生麦事件薩摩藩士が英国人を無礼打ちにした事件)
1863年文久2~3年)】
・6月25日
 下関砲撃事件(長州藩が外国船を砲撃)
・8月15日
 薩英戦争。前年に起こった生麦事件に対する英国側の報復で薩摩藩が敗北。しかし、これを契機にパークス公使が薩摩藩を支援し、薩摩は英国の支援を受けて倒幕に乗り出すことになる。
・8月18日
 八月十八日の政変公武合体派が、三条実美*64尊王攘夷派公卿を宮中から排除したクーデター)
1864年文久3~4年、元治元年)】
・5月2日
 天狗党の乱(水戸藩尊攘派が挙兵)
・7月8日
 池田屋事件(京都で挙兵を画策していた尊攘派新選組が摘発)
・7月19日
 禁門の変蛤御門の変)。京都で長州軍と幕府軍薩摩藩会津藩も参加)が激突し長州が敗北。久坂玄瑞が自決
・7月23日
 第一次長州征伐(朝廷から幕府に征伐の勅命)。11月4日、幕府は三家老(国司親相*65益田親施、福原元僴*66)の切腹等を条件に長州藩の降伏を受け入れ。11日に国司、益田が、12日に福原が切腹
・9月5日
 四国(米英仏蘭)艦隊下関砲撃事件。前年の、長州藩による外国船への砲撃に対する報復。長州藩が敗北し、長州藩は攘夷を捨て、英国からの支援で倒幕を画策するようになる。
【1865年(元治元~2年、慶応元年)】
・3月1日
 天狗党の首領である武田耕雲斎が斬首される。3月20日には藤田小四郎が斬首。
【1866年(慶応元~2年)】
・3月7日
 薩長同盟成立
・3月9日
 寺田屋事件坂本龍馬が伏見奉行によって襲撃されるが、捕縛を免れ逃走)
・7月18日
 第二次長州征伐の開始(しかし薩摩藩の長州支援もあり、幕府側が勝利した第一次征伐と違い、幕府が敗色)
・8月29日
 14代将軍・徳川家茂が病死
【1867年(慶応2~3年)】
・1月10日
 徳川慶喜が第15代将軍に就任。
・1月30日
 孝明天皇崩御。2月13日に明治天皇が即位(勿論、即位当時は「明治という元号がない」ので明治天皇ではないですが)
・11月9日
 薩摩藩長州藩に討幕の密勅が下される。
・11月10日
 倒幕の動きを察知した徳川慶喜大政奉還を申し出る。明治天皇が勅許し大政奉還成立。
・11月16日
 徳川慶喜大政奉還を布告。討幕の密勅が撤回される。
・11月19日
 徳川慶喜が将軍を辞任。
・12月10日
 坂本龍馬中岡慎太郎京都見廻組に暗殺される(近江屋事件)。
・12月13日
 新選組を離脱し、御陵衛士を結成した伊東甲子太郎が、近藤勇新選組によって暗殺される(油小路事件)。
【1868年(慶応3~4年、明治元年)】
・1月3日
  王政復古の大号令。岩倉、大久保、西郷ら討幕派の主導により「毛利敬親長州藩主)の官位復活と入京許可*67」「三条実美八月十八日の政変で追放された尊攘派公卿の赦免」「征夷大将軍職の廃止」を決定。
 小御所会議。「徳川慶喜の官位(内大臣)辞職及び徳川宗家領の没収(いわゆる辞官納地)」が決定。なお、評者・伊故海氏も指摘しているが「議論自体は岩倉ら倒幕派」が主導したものの「独裁的決定ではなく異論も聞いた」というアリバイ作り(この時点では討幕派もそうしたアリバイ作りをせざるを得なかった)のため、この会議には徳川慶勝(元尾張藩主)、松平春嶽(前越前藩主、元政事総裁職)など「幕府に近い公武合体派」も出席はしている。
・1月27日
 鳥羽・伏見の戦い(幕府側が敗北)
・4月6日
 明治天皇五箇条の御誓文を発する。
・5月3日
 江戸開城
・10月23日
 元号が慶応から明治に改元
【1869年(明治元~2年)】
・5月9日
 東京奠都(京都から明治天皇が東京に到着)
・6月27日
 明治新政府の勝利で、箱館戦争終結戊辰戦争終結
・7月25日
 版籍奉還華族制度発足。
・8月6日
 戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として、東京招魂社(のちの靖国神社)が創建される。
・8月15日
 明治政府が太政官制を導入。民部省、大蔵省(現在の財務省)、兵部省(現在の防衛省)、刑部省(現在の法務省)、宮内省(現在の宮内庁)、外務省の二官六省制を採用。当時の省名はほとんど現存しないが、外務省は現在も改称せずに現存。北海道開拓使を設置。
【1870年(明治2~3年)】
・12月12日
 工部省設立(民部省より分離)
1871年(明治3~4年)】
・6月27日
 新貨条例制定(円・銭・厘の採用)
・8月24日
 司法省設置(刑部省の廃止)
・8月29日
 廃藩置県
・9月2日
 文部省設置
・9月11日
 民部省廃止(大蔵省に吸収)
・12月23日
 岩倉具視大久保利通木戸孝允らが欧米に派遣される(岩倉使節団

 伊藤著書はこの間の事件のウチ「岩倉、大久保、木戸(岩倉遣欧使節団メンバーであり、征韓論論争では反対派として薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助*68後藤象二郎*69肥前江藤新平*70副島種臣*71征韓論派参議を打倒し下野に追い込む)が関わった事件(廃藩置県など明治新政府の政策など)」を「公論主義」という分析概念から論じてるわけです。
 なお、「木戸と大久保の関係」が一番分かりやすいですが「岩倉、大久保、木戸」が「公論主義」の立場だと言っても一枚岩ではなく

木戸孝允 - Wikipedia参照
版籍奉還(1869年)では一致協力した木戸と大久保であったが、徴兵制による国民皆兵を唱える木戸に対して薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発した。木戸は国民皆兵論を通し切ることが出来なくなり、明治4年1871年)、薩長土三藩による御親兵が設置された(なお、明治6年1873年)に徴兵令が制定された)。
台湾出兵が決定された明治7年(1874年)5月には、抗議して参議を辞職している。

等の対立は存在しました。
 評者(伊故海氏)に寄れば、著者・伊藤は岩倉、大久保、木戸らのいわゆる有司専制を「公論主義」という概念(但し、これは伊藤の分析概念で、岩倉らがそのように自分たちの立場を定義づけたわけではない)で理解しています。
 この「公論主義*72」は評者の指摘を信じれば

鄧小平 - Wikipedia
天安門事件当時「中国に西欧的民主主義を持ち込めば、国内は混乱し、難民が周辺地域に何億人も流出するだろう」と述べたと伝えられている。
・「自由化して党の指導が否定されたら建設(富国強兵)などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」

という「鄧小平*73中国共産党のレジェンド)の認識」に似ていると言えるでしょう。
 つまり「民主主義は重要だ。しかし今のわが国(鄧の場合は中国、岩倉らの場合は日本)に民主主義を単純適用はできない。わが国の民度は低い。民主主義を導入しても愚民政治にしかならない。そして今大事なことは、遅れて貧乏なわが国を近代化し富国強兵することだ。近代化し富国強兵しなければわが国は西欧の植民地になりかねない。しばらくはエリートの我々によって、「民主主義を多少、犠牲にしても」近代化、富国強兵のための「正しい道」を進まざるを得ない(我々に問題がないとは言わないが、エリートの我々の方が愚民よりはマシだ*74)。いずれ、私たち(岩倉らの場合は、彼らが仕切る明治新政府、鄧の場合は中国共産党)の正しさを批判派(例えば岩倉らの場合は不平士族や自由民権派など、鄧の場合は天安門事件の学生など)も分かるはずだ。100年など長い年月が経てば、近代化、富国強兵の成果によって、私たちの方が正しいと評価されるはずだ」と言う話です。「公論主義」と言うと一見「聞こえはいい」ですが、「公論主義=ある種の選民主義」と言っていいでしょう(勿論それを、著者・伊藤や評者・伊故海は是としているわけではなく、あくまでも彼らの「岩倉、大久保、木戸への評価、分析」にすぎません)。
 勿論こうした「公論主義(幕府を組み入れる穏健改革では、富国強兵、近代化はできない。どんな手段を使ってでも幕府を排除することが公論だ)」に基づき「幕府を組み入れる形の穏健改革(岩倉らがそうしようとすればその方向の政治もできたはず)」ではなく「倒幕」という強行路線が採用されたわけです。そして明治新政府建設後は「いわゆる有司専制(岩倉、大久保、木戸を中心とした専制的政治)」と言う形で「公論主義」が継続されたと。
 まあ岩倉ら明治維新メンバー、鄧小平に限らず「独裁的政治の正当化(特に、明治維新期日本、鄧小平時代の中国、欧米から独立直後のアジア、アフリカ諸国など、近代化していない後進国)」ではありがちな話ですが。 
 大事なことは岩倉らも鄧も、「反対派を懐柔し、自己を正当化するための、ただの建前」か「本心」かはともかく、「民度が低いし、近代化、富国強兵が最重要課題だから今は専制政治せざるをえない。民度が高まり、近代化、富国強兵も実現すれば、徐々に民主主義は進める」という建前で動いてると言うことです。
 その結果、中国共産党の場合「全人代」「政治協商会議」といった「民主的システム(欧米の議会と同一視はできないでしょうが)」を否定できない。
 岩倉らの場合も「板垣退助らの国会開設要求」を完全否定はできない。岩倉、大久保、木戸の死後ではありますが、「彼らの後継者である伊藤*75、山縣*76ら」は国会開設を認めざるを得ませんでした(というか、拙記事積極支持ではない消極的支持(諦め)であれ、「デマ扇動やメディア統制による詐欺的支持獲得(いわゆるポピュリズム)」であれ、国民の支持無しでは独裁は成り立たない(追記あり) - bogus-simotukareのブログにも書きましたが独裁であっても一定の「支持」は必要ですが)。
 しかし、それでも「愚民政治を避けなればならない。政党政治家に政治の全てを委ねることはできない(俺たち明治維新のレジェンドが国家の舵取りをしなければならない)」という価値観を「岩倉、大久保、木戸の後継者」である伊藤、山縣らは完全に捨てることはできませんでした(特に立憲政友会総裁となり、政党政治家と妥協した伊藤はともかく、そのような妥協のなかった山縣は)。
 それが

貴族院
 伊藤が一時、議長を務めた
・枢密院
 伊藤、山縣が一時、議長を務めた。伊藤、山縣以外では明治維新のレジェンドとしては黒田清隆*77が一時議長を務めた。
・元老
 貴族院議長、枢密院議長、内大臣と違い、任期制ではなく死ぬまで元老。伊藤、山縣も元老の一人。伊藤、山縣以外では明治維新のレジェンドとしては井上馨*78大山巌*79黒田清隆西郷従道*80松方正義*81が元老*82
内大臣
 明治維新のレジェンドとしては三条実美大山巌松方正義が一時、この職を務めた。
統帥権独立

といった「政党(衆議院)から距離を置く戦前の政治システム」だったと言っていいでしょう。これらは戦後全て廃止されますが。


◆菊池勇夫*83『近世の気象災害と危機対応』(2024年、吉川弘文館)(評者:武井弘一*84
(内容紹介)
 批評は多岐にわたっていますが、俺的に興味深かったのは収録論文『稲の品種と冷害対応』に触れた部分ですね。
 東北の飢饉において「多収量(つまり換金性が高い)だが冷害に弱い稲」が東北地方に広まったことで、「飢饉の被害が助長された」と思われることを指摘し、1)飢饉には人災的な面があったこと(冷害に強い稲なら被害はより軽微で済んだ)、2)江戸時代に農業の商業化がかなり進んだことが述べられてるそうです。 
 また、「農業分野での労働力不足」が飢饉を助長したとした上で、弘前藩では「松前稼ぎ」と呼ばれた「隣藩・松前藩への出稼ぎ(ニシン漁に従事。その方が農業従事よりも金になった)」がその一因だったという部分も俺的に興味深い。
 なお「松前稼ぎ」については評者・武井氏の著書『イワシとニシンの江戸時代:人と自然の関係史』(編著、2022年、吉川弘文館)でも触れてるので参照して欲しいとのこと。


高橋亮*85『北方海域をめぐる国際政治史:明治期日本の海獣猟業』(2024年、日本経済評論社)(評者・伊藤孝治*86
(内容紹介)

『北方海域をめぐる国際政治史:明治期日本の海獣猟業』
序章 明治期日本における海洋進出とラッコ・オットセイ猟業
(中略)
第四章 日露漁業・猟業紛争の展開と日露戦争
(中略)
第七章 一九一一年オットセイ保護条約の締結*87
補章 北方海域における海獣猟業と先住民

ということで副題にもあるように「明治期日本の海獣(ラッコ、オットセイ)猟業」について論じている本です。
 評者曰く「日本の対外関係研究(明治~昭和戦前期)は、日本の満州、朝鮮支配に関わる外交関係を論じる物が多かった。それは勿論大事だが、本書はそれとは別の視点で対外関係を論じてる点に意義がある」とのこと。
 第四章「日露漁業・猟業紛争の展開と日露戦争」では、ポーツマス条約の「ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える」と言う趣旨の規定によって漁業紛争が解決されたことが論じられてるそうですが、確かにポーツマス条約についてはそこよりも「南樺太の割譲」「関東州利権の割譲(南満州鉄道と満鉄を防衛するための関東都督府陸軍部(後の関東軍)の設立)」の方が一般的には知られてるでしょう。
 第七章「一九一一年オットセイ保護条約の締結」では保護条約とそれに基づく国内法「臘虎膃肭獣猟獲取締法」によって「毛皮を目的としたラッコ、オットセイの捕獲*88」が原則禁止されたことで、ラッコ、オットセイ漁師が「サケ、マス漁業」「捕鯨」に転進し、彼らが「日本の北洋漁業の重要な担い手になった」と論じているとのこと(ロシアEEZで3年ぶりサケ・マス漁 漁獲量は最低水準|NHK 北海道のニュース(2024.7.13)と言う報道がある「サケ、マス漁業」はともかく、山口 下関に30年ぶり捕鯨母船 日本の捕鯨の将来は | NHK | ビジネス特集 | 水産業(2024.4.9)、新たな捕鯨母船操業へ 商業捕鯨の将来像は - 時論公論 - NHK(2024.5.30)(なお、NHKは記事本文で捕鯨が商業として成り立ってると言えるか疑問と指摘)、待望の商業捕鯨復活も手放しで喜べず 低迷する鯨食文化や厳しい国際情勢にどう抗うか - 産経ニュース(2025.2.7)という捕鯨は今やメジャーな産業とは言えませんが)。
 補章「北方海域における海獣猟業と先住民」では日本の海獣政策が先住民アイヌに与えた影響を論じているとのこと。
【参考:臘虎膃肭獣(ラッコ・オットセイ)猟獲取締法】

臘虎膃肭獣猟獲取締法 - Wikipedia
 1912年(明治45年)4月22日に公布。日本国内におけるラッコ(臘虎)、オットセイ(膃肭獣)の捕獲及び毛皮製品の製造・販売について定めている。1911年(明治44年)に日本、米国、カナダ、ロシア間で締結され1941年(昭和16年)に失効した膃肭獣(オットセイ)保護条約(明治44年条約第13号)を実行するための国内法として成立したものだが、条約が失効した現在も有効である。対象は日本国内で猟獲されるラッコ、オットセイであり、輸入品はこの法律の対象外である。

いきもの通信 Vol.279[今日の事件]「臘虎膃肭獣猟獲取締法」って何と読む?/明治生まれの忘れられつつある法律2005.8.14
 明治45年の公布というのがすごいですね。改正があったのは昭和の前半に3回と平成に1回だけで、ほとんど放置されてきたといっていいでしょう。しかも文章はカタカナ書きのまま。
 この法律(と施行規則)の概要は、ラッコ・オットセイの捕獲を原則禁止するというものです。その毛皮製品の製造・販売も同じ扱いです。ただし、これは国内だけにしか効力はありませんので、輸入品は対象外となります。
 ところで、日本に野生のラッコやオットセイなんていたっけ?と思われる方もいることでしょう。かつては北海道にも生息していましたし、(中略)現在もおそらく北方領土には生息しているはずで、この法律を無効にしてしまうこともできないのでしょうね。
 なぜこの法律が鳥獣保護法から独立して存在しているのかというと、陸棲動物と海棲動物は区別して取り扱っていたという歴史的な経緯があるからのようです。海の動物は漁業関連として別扱いだったわけですね。これは臘虎膃肭獣猟獲取締法第4条「漁業法第七十四条第一項ノ漁業監督官又ハ漁業監督吏員ハ同条ノ例ニ依リ本法ノ励行ニ関スル事務ヲ掌ル」にもあるように漁業法と関連付けされていることからもわかります。鳥獣保護法(昭和38年以前は「狩猟法」)は、戦前は農商務省(農林水産省と旧通産省を合わせたような役所)または農林省(昭和になってから農商務省農林省と商工省*89に分割されたため)の管轄、戦後は農林水産省、後に環境庁(現・環境省)が設置されてから(昭和46年)は環境庁の管轄となっています。
 臘虎膃肭獣猟獲取締法もその性格から管轄省庁は同じような経緯をたどったはずですが、環境庁管轄とはならずに現在も農林水産省の管轄のままになっています。これは上記のように、同法が漁業法と深くかかわっているためというのが理由のようです。
 ただ、鳥獣保護法は2002年の改正でニホンアシカ、アザラシ5種(ゼニガタアザラシゴマフアザラシ、ワモンアザラシ、クラカケアザラシアゴヒゲアザラシ)、ジュゴンも対象に加わりました。ラッコとオットセイを別扱いというのも現在では変な話です。将来は臘虎膃肭獣猟獲取締法鳥獣保護法に取り込まれるのではないかと思われます。

「オットセイの死体が100体あるのですが…」ある電話から始まった動物解剖学者の「修羅場」とは? - 山と溪谷オンライン2021.7.22
 お世話になっている水族館の獣医さんから、申し訳なさそうな雰囲気で連絡をもらった。理由を尋ねると、「飼育中に死んだオットセイたちの死体を、ずっと冷凍庫に保管してきたのだけど、定年前に処理しなければならないことになった。どうしたもんだろう」という。
 私は即答した。
「ぜひ、うちで引き取らせてください!」
 オットセイの死体を欲しがる人間など、世の中にそういないだろう。しかし、私にとっては夢のような宝物であった。
 私の勤務する国立科学博物館(以下、科博)には、さまざまな生物の標本が保管・展示されている。私の専門である海の哺乳類だけでも150種、8000個体もの標本があるが、当時はオットセイのような「鰭脚類(ききゃくるい)」の標本は少なく、ちょうどその数を増やしたいと考えていたところであった。
 すぐにでも、茨城県つくば市にある科博の研究施設へ搬送したい思いだったが、「では、明日トラックで受け取りに行きます!」とはいかないのが、魚類や昆虫などとは違うところである。
 オットセイは、臘虎膃肭獣猟獲取締法(らっこおっとせいりょうかくとりしまりほう)(明治45年公布)により管理されている動物種なので、水族館で飼育したり、水族館から他の機関に譲渡したりする際は、水産庁の許可が必要となる。死体も例外ではない。
 このときも、法に従って事務手続きを済ませ、2ヶ月の期間を経て、やっとオットセイの受け入れが許可された。

ラッコが日本の水族館からいなくなる?…飼育継続の意義を聞いた | 動物のリアルを伝えるWebメディア「REANIMAL」2022.3.14
 可愛い仕草で人気があるイタチ科の動物「ラッコ」。お腹の上で貝を割り、水上に浮かんで食べる姿が特徴的だ。このラッコが、日本の水族館で見られなくなるかもしれない。
 1990年代には日本全国の水族館などで飼育されていたが、現在ではわずか4頭しか残っていない。ラッコを飼育しているのは、三重県鳥羽水族館と福岡県のマリンワールド海の中道、千葉県の鴨川シーワールドの3か所のみとなっている*90
 日本には、明治45(1912)年に公布された「臘虎膃肭獣猟獲取締法(らっこおっとせいりょうかくとりしまりほう)」があり、ラッコとオットセイを捕まえることが法律で禁止されている。そのため、日本での展示はアラスカなどから輸入した個体で始まった。その後は日本で生まれた子どもたちも加わり、ピーク時には各地に122頭いたという。
 アメリカにも1972年施行の「海洋哺乳類保護法」などがあるが、科学的研究や公的な展示などの目的に限っては輸出が認められていた。しかし1990年代の終わりになると、基本的にラッコの捕獲が禁止され、日本の水族館が新たな個体を得ることができなくなった。
 ラッコはかつて、毛皮のために乱獲され個体数が激減した。アメリカの方針変更は、保護に一層の力を入れるべきとの考えがあったと思われる。

【参考:捕鯨&クジラ給食】

あなたも認定 神戸遺産(2)鯨肉のノルウェー風 | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT2017.8.15
 商業捕鯨の禁止によって、1986(昭和61)年に神戸の教室から姿を消した人気の給食メニューがある。その名は「鯨肉のノルウェー風」。
 レシピを見て思い出した。大阪市出身の記者も、よく似た料理を給食で食べた気がする。
 大阪市教委に問い合わせてみると、大阪は「鯨のオーロラ煮」。ただし、同市は1975(昭和50)年から2001(平成13)年まで鯨肉の使用をやめており、30代の記者が食べたのは後継メニューの「まぐろのオーロラ煮」だった。ケチャップや赤みそ、ショウガ汁で味付けした肉を揚げ、ソースをからませる。
 しかし、「ノルウェー」とか「オーロラ」とか、なぜ名前が北欧風なのか?
 神戸市教委に聞くと「鯨はノルウェーでよく捕れますから」。大阪市教委は「ケチャップとマヨネーズを合わせたものがオーロラソース。ケチャップを使うのでオーロラ煮です」。マヨネーズは使っていないが?。
 ちなみに、神戸市では現在、鯨を牛肉に置き換えたノルウェー風の後継メニューを出している。その名も「牛肉のウエスタン風」。

「鯨肉のノルウェー風」後継メニュー名付け親は… | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT2017.9.14
 神戸の学校給食から1986(昭和61)年に消えた「鯨肉のノルウェー風」。
 神戸に限らず、他府県からは「同じメニューがあった」「自分が食べた献立と同じようだが、名前が違う」との声も。
 鯨文化を研究する関西大学東西学術研究所非常勤研究員の茶谷まりえさんによると、鯨肉が日本でなじみ深くなった契機は、太平洋戦争後の深刻な食糧難だった。高タンパクで安価なため、連合国軍総司令部GHQ)が推奨し、全国的に給食でも定番の食材となったという。

懐かしい?新鮮?給食に鯨の竜田揚げ……この肉はどこから来たのか:朝日新聞2021.12.16
 大阪市立の414小中学校で11月、給食にクジラが出た。
 メニューは竜田揚げで、(中略)鯨専門の仲卸「奥野水産」を通じて仕入れた。
 ずっと途絶えていたクジラ給食を、大阪市が再び始めたきっかけは、同社4代目の奥野良二社長(52)の「営業」だった。
 戦後の食糧難の時代、安価だった鯨肉は日本の食生活を支えた。ピークの1962年の消費量は23万トン。牛肉、鶏肉を上回ったほどだ。ただ、他の肉の生産や輸入が伸びた1970年代から消費量は減少していった。
 奥野さんは24年前、消防車を製造する会社を辞め、母親が営む奥野水産に入った。鯨肉消費がすでに落ち込んだ1990年代。店頭で売れ残り、色が悪くなった鯨肉を寂しい思いで見ていた。
 そんな時、同業者がこんなことを口にした。
 「昔は給食で、クジラがよう食べられてたんやけどなあ」
 学校給食では1950~1970年代、竜田揚げなどが定番メニューだった。
 「だったら給食に使ってもらえるよう、自分で営業して回ればいい」。
 元会社員の奥野さんは、そう考えた。2001年、ついに兵庫県三田市が給食に採用してくれた。
(以下は有料記事です)

山口 下関に30年ぶり捕鯨母船 日本の捕鯨の将来は | NHK | ビジネス特集 | 水産業2024.4.9
 日本の捕鯨を取り巻く環境は、厳しいものがある。その大きな要因の1つが、海外を中心に反対の声が根強いことだ。
 もう一つ大きな課題となっているのが、全国的な消費の低迷だ。
 国内の鯨肉の消費量は年間1000トンから2000トン程度で推移し、ピーク時の1960年代の20万トン前後と比べるとわずか1%程度にとどまっている。
 鯨の肉が貴重なタンパク源だった頃に比べ、食文化が多様化したこと、商業捕鯨の中断期間が30年にも及び鯨の肉になじみのない人が増えたこと、捕鯨に対する賛否が大きく分かれる中で鯨の肉の販売を控える流通業者がいることなどが、背景として指摘されている。
 消費の動向は、捕鯨が産業として成立するかに大きく関わる。
 こうした中で、消費を少しでも増やそうと模索が始まっている。
 「共同船舶」は、鯨の肉を買える場を少しでも増やそうと、2023年から、東京、横浜、大阪のあわせて6か所に自動販売機を設置した。冷凍された鯨の赤身やベーコン、ステーキ、それに缶詰などが1000円から3000円で販売され、売り上げは拡大傾向だという。
 一方、東京の飲食店でも、鯨の肉になじみのない若い世代に身近に感じてもらおうという取り組みが始まっている。
 東京港区にある専門店では、値段を気にせず、さまざまな鯨料理を楽しめるよう、土曜日限定で、刺身や竜田揚げ、ステーキなど8種類のメニューが90分間楽しめる食べ放題のメニューを提供している。
 しかし、今、捕鯨の将来がはっきりと見通せているとは言い難いのが実情だ。

新たな捕鯨母船操業へ 商業捕鯨の将来像は - 時論公論 - NHK2024.5.30
 再開した商業捕鯨。しかし、今も「軌道に乗っている」とは言い難い状況です。
 大きな要因は、クジラ肉の市場の縮小です。
 1人が1年間に消費するクジラ肉の量は、ピークの1962年度には2.4キロありましたが、直近の2022年度は20グラムほど。1%にも満たない量です。
 首都圏で展開する大手スーパーでは「販売してはいるが、需要はごく限られ、今後、取り扱いを縮小する可能性がある」と話していました。市場が拡大する材料はなかなか見当たらないのが実情です。
公的支援からの脱却という課題】
 関係者は、新たな母船の操業に期待を込めています。しかし、依然、課題が残っています。
 1つは、船の費用負担です。
 捕鯨会社は商業捕鯨再開以降、赤字が続き、2022年度にようやく黒字となった状況です。そこに船の建造費用、およそ75億円の返済が生じます。20年で返すとしても年間、4億円近く。売上高およそ35億円という会社にとって重荷です。
 公的な支援からいち早く脱却し、「自立」する必要にも迫られています。
 というのも再開以降、捕鯨業界の支援のため、国は毎年およそ51億円を予算として投じています。
 捕鯨の産業規模と比較すると、異例とも言える大きな支出です。
 水産庁は、長期間、商業ベースの捕鯨が行われていなかったので一定の支援は必要だと説明しています。だとしても、いったいいつになったら支援を縮小していけるのか、少なくとも見通しを示すべきでしょう。
 捕鯨会社が収益性を高めることを通じて、民間の事業として続くようにならなければ、本来の「商業捕鯨」とは言えません。
【「普通の漁業」として地域に貢献を】
 「(ボーガス注:鯨の竜田揚げなど)給食で食べた」という世代を除けば、多くの消費者にとって、クジラ肉は決して身近な食べ物というわけではないでしょう。「(ボーガス注:毎年50億円も税金を投入するなど)どうしてここまで苦労して、捕鯨を続けるのか?」という疑問を抱く人は、少なくないと思います。
 だからこそ、できるだけ早く捕鯨が「(ボーガス注:国の支援がなくても商業的に成立する)普通の漁業」になること。商業捕鯨の将来像は、そこにあります。

待望の商業捕鯨復活も手放しで喜べず 低迷する鯨食文化や厳しい国際情勢にどう抗うか - 産経ニュース2025.2.7
 戦後の復興期から高度経済成長期にかけ、貴重なたんぱく源として日本人を支えた鯨肉。近年は国内の生産量、消費量ともにピーク時の1%程度にまで低迷し、伝統の鯨食文化の存続が危ぶまれている。昨年には、最新鋭の技術を搭載し73年ぶりに建造された捕鯨母船「関鯨(かんげい)丸」が鯨食文化復興の期待を背負って初漁へ。ナガスクジラの捕獲も解禁されたが、前途は多難といえる。
 共同船舶(東京都中央区)が約75億円を投じ、昨年3月に新造した関鯨丸。仙台港を拠点に同年5月から、排他的経済水域EEZ)の北海道沖や東北沖で初めての商業捕鯨を実施し、同年12月に母港である山口県下関市に帰港した。
 一方で、肝心の鯨食文化そのものが低迷する状況が続くなど、依然として課題は多い。
 近年のクジラの捕獲量減少に比例するように、鯨肉の消費量は少ない。水産庁によると、ピークである昭和37年の80分の1程度の3千トンにとどまっている。
 2019年に国際捕鯨委員会IWC)から脱退し、非加盟国となったことも大きい。これにより、IWC加盟が条件となる南極海での調査捕鯨はできなくなり、捕鯨EEZの200カイリ内に限定されたからだ。
 日本の鯨食の歴史は古く、縄文時代にまでさかのぼるとされる。
 戦後の食糧難では貴重な動物性たんぱく源として日本人の食を支えた。
 一方で近年では、欧米などで反捕鯨運動が行われるようになり、状況は一変。日本は2019年、IWCからも脱退したが、捕鯨を続ける日本に対し、「シー・シェパード」に代表されるような海外の反捕鯨団体から、過激な抗議活動が続いている。
◆日本のやり方説明し、堂々捕鯨を 生態系総合研究所代表理事の小松正之氏*91
 国際捕鯨委員会IWC)脱退に伴い再開された商業捕鯨は、現時点では商業として成立しておらず、補助金頼みとなっている。
 非加盟国となったことでクジラの少ない200カイリの中に自分たちを封じ込めてしまった。これでは鯨肉の供給が少なくなって価格も高価になる。
 反捕鯨国が言うような「クジラを殺すことは環境破壊だ」という主張は実態と真逆*92となっている。日本はそうした国の批判を恐れることなく、IWCに復帰し、国際捕鯨取締条約に基づいた調査捕鯨を資源の多い南極海北太平洋で再開するべきだ。そのうえで科学的根拠に基づきながら獲ったものを「ありがたくいただいている」という日本のやり方を説明し、堂々と捕鯨を行えばいい。

*1:こうした話は勿論「他の雑誌でもある話」であり、「歴史評論」に限った話ではありません。

*2:なお、西木氏は、1)道鏡の政治力は「称徳天皇」との個人的関係に寄るところが大きく、それほどの力ではなかった、2)道鏡が就いた役職「太政大臣禅師」「法王」も行政官ではなく宗教職にすぎず、しかも称徳時代に道鏡のために新設されもので権威や権限に乏しい、3)道鏡の周囲では最も出世した弓削浄人実弟)ですら「太政大臣」「左大臣」「右大臣」ではなく、「大納言」に留まる(勿論、浄人以外はもっと低い官位)、4)だからこそ称徳死後、急速に道鏡は失脚した、5)従って和気清麻呂にとって称徳はともかく道鏡自体は何ら脅威ではなかった、6)しかし「忠臣」としての「自己の宣伝」のため、清麻呂はあえて道鏡を自己にとっての脅威として描き出したと見ている。

*3:東京国立博物館主任研究員

*4:学習院大学教授

*5:皿井『神護寺薬師如来像の造像背景』・日本仏教綜合研究9号(2011年)、『神護寺薬師如来像の史的考察』・ 美術研究403号 (国立文化財機構東京文化財研究所)(2011年3月)

*6:後に原『神護寺薬師如来立像の造立意図:和気清麻呂の作善と八幡神の悔過』・美術研究440号 (国立文化財機構東京文化財研究所)(2023年08月)として発表

*7:1924~2014年。京都府教育庁文化財保護課職員、奈良国立博物館職員、京都国立博物館職員、京都文化短期大学(現、京都学園大学)教員、嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学)教員を歴任。著書『日本仏教絵画研究』(1982年、法蔵館)、『日本仏教美術史研究』(1984年、思文閣出版)、『来迎図の美術』(1985年、同朋舎出版)、『日本人の動物画』(1986年、朝日選書)、『六道絵の研究』(1989年、淡交社)、『続日本仏教美術史研究』(2006年、思文閣出版)、『続々日本仏教美術史研究』(2008年、思文閣出版)等(中野玄三 :: 東文研アーカイブデータベース参照)

*8:1960年生まれ。帝塚山大学助教授、奈良女子大学助教授、教授を歴任。著書『生老病死図像学:仏教説話画を読む』(2012年、筑摩選書)、『地獄めぐり』(2019年、講談社現代新書)、『記憶の図像学』(2019年、吉川弘文館)等

*9:神戸大学教授。著書『神仏習合像の研究』(2005年、中央公論美術出版

*10:黒川古文化研究所研究員を経て、東北大学教授。著書『武士の絵画:中国絵画の受容と文人精神の展開』(2020年、中央公論美術出版)、『鑑定学への招待:「偽」の実態と「観察」による判別』(2023年、中央公論美術出版

*11:1870~1949年。当時、東洋大学教授

*12:1884~1982年。慶應義塾大学名誉教授。文化勲章受章者。第一次吉田内閣文相、日本芸術院長、文化財保護委員会委員長、映画倫理管理委員会委員長、国立劇場会長など歴任

*13:創業当初は林原グループだったが1979年に林原グループから独立(カバヤ食品 - Wikipedia参照)

*14:1898~1999年。戦前、興亜院技術部長、技術院第一部長等を歴任するが1943年に退官。戦後、日本電話施設社長、名古屋電気短期大学教授、愛知工業大学教授、名古屋電気通信技術学校校長、エフエム愛知社長、会長等を歴任(本多静雄 - Wikipedia参照)

*15:1949年生まれ。フジテレビ系の共同テレビジョンに所属。フジで『振り返れば奴がいる』(1993年)、『お金がない!』(1994年)、『正義は勝つ』(1995年)、『恋はあせらず』(1998年)など織田裕二の主演ドラマを多数演出し、その縁で2000年、織田主演の映画『ホワイトアウト』で映画監督デビュー(若松節朗 - Wikipedia参照)

*16:1909~2006年。三井銀行丸の内支店長、大阪支店長、社長、会長、相談役等を歴任

*17:高知県、1800万円で購入の絵画を贋作と判断 画廊に返金請求へ | 毎日新聞によれば田口かおり京都大学准教授(著書『改訂・保存修復の技法と思想:古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(2024年、平凡社ライブラリー)等

*18:1902~1994年。著書『果てしなき探求:知的自伝』(岩波現代文庫)、『開かれた社会とその敵』(岩波文庫)等

*19:著書『若冲伝』(2019年、河出書房新社)、『若冲の世紀:十八世紀日本絵画史研究』(2022年、東京大学出版会)等

*20:1950年生まれ。横浜美術館館長、国立新美術館館長等を経て2021年7月より国立美術館理事長

*21:1966年生まれ。東京国立近代美術館企画課長等を経て、横浜美術館

*22:1956年生まれ。建築家。横浜国立大学名誉教授。1987年、妹島和世建築設計事務所を設立。2010年、女性として「2004年のザハ・ハディド」に次いで2人目、日本人女性として初のプリツカー賞(建築界のノーベル賞と呼ばれる)を受賞。2016年、紫綬褒章を、2024年、文化功労者を受章

*23:1957年生まれ。金沢21世紀美術館学芸課長、東京都現代美術館チーフキュレーター等を経て金沢21世紀美術館館長。著書『「なぜ?」から始める現代アート』(2011年、NHK出版新書)、『キュレーション:知と感性を揺さぶる力』(2013年、集英社新書)等

*24:米国のグッゲンハイム財団が設立したグッゲンハイム美術館の分館でスペイン・ビルバオにある

*25:1841~1895年。エドゥアール・マネ(1832~1883年)の絵画のモデルとしても知られる、19世紀印象派の画家。夫はエドゥアールの弟で画家のウジェーヌ・マネ(1833~1892年)。一人娘は画家のジュリー・マネ(1878~1966年)(ベルト・モリゾ - Wikipedia参照)

*26:アーティゾン美術館副館長等を経て、2024年4月から長野県立美術館館長(例えば長野県立美術館の新館長に笠原美智子(現アーティゾン美術館副館長)。国内主要館に女性館長の就任続く|Tokyo Art Beat(2024.2.17)参照)。著書『ヌードのポリティクス:女性写真家の仕事』(1998年、筑摩書房)、『写真、時代に抗するもの』(2002年、青弓社)、『ジェンダー写真論(増補版)』(2022年、里山社)

*27:1952~2001年。学習院大学教授

*28:1935~2007年。千葉大学名誉教授。著書『女性画家列伝』(1985年、岩波新書)、『絵画を読む:イコノロジー入門』(1993年、NHKブックス→2022年、ちくま学芸文庫)、『イメージを読む:美術史入門』(1993年、ちくまプリマーブックス→2005年、ちくま学芸文庫)、『マニエリスム芸術論』(1994年、ちくま学芸文庫)、『戦争がつくる女性像』(2000年、ちくま学芸文庫)、『お姫様とジェンダー:アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(2003年、ちくま新書)等

*29:1945年生まれ。明治学院大学名誉教授。著書『ナポレオン伝説の形成:フランス19世紀美術のもう一つの顔』(1994年、ちくまライブラリー)、『フランス絵画の「近代」』(1995年、講談社選書メチエ)、『画家たちのフランス革命:王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』(2020年、角川選書)等

*30:著書『現代アートをたのしむ』(共著、2020年、祥伝社新書)

*31:恐らく英語の「AWARE(気づく)」とかけている。

*32:広島市立大学准教授、首都大学東京准教授を経て大阪大学准教授。2020年、著書『アンチ・アクション:日本戦後絵画と女性画家』(2019年、ブリュッケ)でサントリー学芸賞(芸術・文学部門)(サントリー文化財団)、女性史青山なを賞(東京女子大学女性学研究所)を受章(中嶋泉 - Wikipedia参照)

*33:東京芸術大学非常勤講師

*34:1922~1999年。1963年、朝日新聞社による懸賞小説公募に、小説『氷点』を投稿し、入選。1964年12月9日より朝日新聞朝刊に『氷点』の連載を開始する。『氷点』は、1965年に朝日新聞社より出版され、71万部の売り上げを記録。大ベストセラーとなり、1966年には映画化された。また数度にわたりラジオドラマ、テレビドラマ化されている。ちなみに、日本テレビ系番組『笑点』(1966年5月放送開始)は、この頃、ベストセラーであった『氷点』から題名を取ったと言われる(三浦綾子 - Wikipedia参照)

*35:ググった限り訃報記事がヒットしなかったので未だ存命と思いたいところですが、「2024年5月時点で102歳(何時逝去されてもおかしくない年齢)」なので、2025年2月現在では既に逝去された可能性があります。なお、「菱谷氏の名前」でググった限りでは最新記事は『戦時中に旭川市の教員や学生ら二十数人が摘発された思想弾圧事件「生活図画事件」で投獄された同市在住の画家、菱谷良一さん(102)と、その親友、恩師の絵画を一堂に集めた「師弟三人展」が札幌市西区の「ギャラリー北のモンパルナス」で開かれている。』という「芸術は平和に貢献」 「生活図画事件」投獄でも筆を折らず 札幌で「師弟三人展」 /北海道 | 毎日新聞(2024.11.13)であり「2024.11.13時点(約3ヶ月前)ではご存命であること」が確認できます。

*36:これについては例えば、赤旗北海道綴方連盟事件で命を奪われた教師とは?(2006.6.8)参照

*37:成田山書道美術館主任学芸員を経て、大東文化大学准教授。著書『江戸の書』(2010年、二玄社)、『近代日本における書への眼差し:日本書道史形成の軌跡』(2012年、思文閣出版

*38:静岡県立美術館学芸員を経て神奈川県立近代美術館主任学芸員

*39:平取町立二風谷アイヌ文化博物館学芸員

*40:1926~2006年。元参院議員(1994~1998年)。著書『アイヌ歳時記』(2017年、ちくま学芸文庫)、『完本・アイヌの碑』(2021年、朝日文庫)等

*41:名古屋大学准教授。著書 『皇居の近現代史』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『うたごえの戦後史』(2016年、人文書院)、『天皇制と民主主義の昭和史』(2018年、人文書院)、『近代天皇制から象徴天皇制へ』(2018年、吉田書店)、『平成の天皇と戦後日本』(2019年、人文書院)、『皇室とメディア』(2024年、新潮選書)等

*42:慶應義塾大学准教授

*43:著書『都市と暴動の民衆史:東京・1905-1923年』(2015年、有志舎)、『民衆暴力:一揆・暴動・虐殺の日本近代』(2020年、中公新書)等

*44:河西秀哉名古屋大学准教授のこと

*45:岡山理科大学准教授。みずしま滞在型環境学習コンソーシアム事務局長。著書『「地域の価値」をつくる:倉敷・水島の公害から環境再生へ』(除本理史氏らとの共著、2022年、東信堂

*46:名城大学助教授を経て静岡県立大学教授。著書『記憶の中のファシズム:「火の十字団」とフランス現代史』(2008年、講談社選書メチエ)、『よくわかるフランス近現代史』(編著、2018年、ミネルヴァ書房)等

*47:1976年生まれ。1999年『モーニング』でスペースデブリの掃除屋を描いたSF漫画『プラネテス』でデビュー。2005年4月から北欧のヴァイキングを描いた歴史漫画『ヴィンランド・サガ』を連載。当初は『週刊少年マガジン』にて毎号連載だったのだが、幸村の遅筆が原因で休載がしばしばあり2005年10月で連載を中断。12月より『月刊アフタヌーン』に移り連載を再開した(幸村誠 - Wikipedia参照)

*48:立教大学教授。著書『近代日本の偽史言説』(2017年、勉誠出版)等

*49:飛騨市教育委員会が管理する文化施設。1989年に旧宮川村の民俗資料を収集展示する施設として設置されたが、2004年に吉城郡古川町神岡町、河合村、宮川村が合併して飛騨市が成立すると、飛騨市の施設となった。2019年3月、市内外のファンを増やすことを目的に、民俗館が保有する石棒を活用するプロジェクト「石棒クラブ」を立ち上げた。(飛騨みやがわ考古民俗館 - Wikipedia参照)

*50:学芸員の三好清超氏のこと。三好氏については例えば学芸員が選ぶ おすすめミュージアム [ 第32回 ] 飛騨みやがわ考古民俗館 → 朝日町まいぶんKAN | アイエム[インターネットミュージアム]参照

*51:飛驒市の公式表記としては「飛驒」だが、マスコミ報道など一般的には「飛騨」が使用される。総務省や飛驒市も「飛騨」表記の使用を容認している。拙記事でも「飛驒」表記の引用以外は、「飛騨」表記にしています。(飛騨市 - Wikipedia参照)

*52:吉城郡古川町神岡町、河合村、宮川村のこと

*53:過去の4例は道の駅茶処・和束(京都府相楽郡和束町、2004年登録抹消)、道の駅山崎(兵庫県宍粟市山崎町、2013年登録抹消)、道の駅足寄湖(北海道足寄郡足寄町、2022年登録抹消)、道の駅フォーレスト276大滝(北海道伊達市大滝区、2022年登録抹消)(道の駅 - Wikipedia参照)

*54:岐阜県、愛知県、三重県のこと

*55:早稲田大学名誉教授。著書『天皇制警察と民衆』(1987年、日本評論社)、『自由民権運動立憲改進党』(1991年、早稲田大学出版部)、『日本近代国家の成立と警察』(1992年、校倉書房)、『警察の社会史』(1993年、岩波新書)、『近代日本の警察と地域社会』(2000年、筑摩書房)、『自由民権期の社会』(2012年、敬文舎)、『維新政府の密偵たち:御庭番と警察のあいだ』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『「主権国家』成立の内と外』(2016年、吉川弘文館)、『世界の中の近代日本と東アジア:対外政策と認識の形成』(2021年、吉川弘文館)、『唱歌蛍の光」と帝国日本』(2022年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近現代日本の警察と国家・地域』(2024年、日本評論社)、『早稲田大学の学祖小野梓』(2024年、早稲田大学出版部)等

*56:1828~1877年。明治新政府で陸軍大将、近衛都督、参議。征韓論論争で下野し、西南戦争を起こすが敗れ自決

*57:1855~1932年。イギリスの宣教師。1895年熊本に熊本初のハンセン病病院、回春病院を作ったことで知られる(ハンナ・リデル - Wikipedia参照)

*58:1809~1869年。福井藩主の松平春嶽(1828~1890年)に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍。明治維新後に新政府に参与として出仕するが不平士族によって暗殺された

*59:京大名誉教授。著書『大正デモクラシー政党政治』(1987年、山川出版社)、『大正デモクラシー』(1992年、岩波ブックレット)、『立憲国家の確立と伊藤博文:内政と外交 1889~1898』(1999年、吉川弘文館)、『立憲国家と日露戦争:外交と内政 1898~1905』(2000年、木鐸社)、『政党政治天皇』(2002年、講談社→2010年、講談社学術文庫)、『昭和天皇立憲君主制の崩壊』(2005年、名古屋大学出版会)、『明治天皇』(2006年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『元老西園寺公望』(2007年、文春新書)、『山県有朋』(2009年、文春新書)、『伊藤博文』(2009年、講談社→2015年、講談社学術文庫)、『京都の近代と天皇:御所をめぐる伝統と革新の都市空間1868~1952』(2010年、千倉書房)、『昭和天皇伝』(2011年、文藝春秋→2014年、文春文庫)、『伊藤博文をめぐる日韓関係:韓国統治の夢と挫折1905-1921』(2011年、ミネルヴァ書房)、『原敬』(2014年、講談社選書メチエ)、『元老』(2016年、中公新書)、『「大京都」の誕生:都市改造と公共性の時代 1895-1931年』(2018年、ミネルヴァ書房)、『大隈重信』(2019年、中公新書)、『真実の原敬』(2020年、講談社現代新書)、『最も期待された皇族東久邇宮 : 虚像と実像 一八八七~一九三一年』(2021年、千倉書房)、『東久邇宮の太平洋戦争と戦後:陸軍大将・首相の虚実・一九三二~九〇年』(2021年、ミネルヴァ書房)、『原敬大隈重信』(2024年、法律文化社)等。個人サイト伊藤之雄のホームページ

*60:1825~1883年。外務卿、右大臣を歴任

*61:1830~1878年。参議、大蔵卿、内務卿を歴任。紀尾井坂の変で暗殺される

*62:1833~1877年。参議、内務卿、文部卿を歴任

*63:北海学園大学講師。著書『明治維新と〈公議〉』(2022年、吉川弘文館

*64:明治新政府太政大臣内大臣を歴任

*65:1842~1864年。死後の明治21年1888年)に靖国神社合祀

*66:1815~1864年長州藩支藩である周防徳山藩の藩主・毛利広鎮の六男で、最後の長州藩主となる毛利元徳毛利広鎮の十男)の実兄。六男であるために家督を継ぐことはできず、安政5年(1858年)に福原親俊(1833~1858年)の家督を継承した。死後の慶応2年(1866年)11月に維新招魂社(現・宇部護国神社)の主神として遷座された

*67:こうすることで京都での長州藩の活動を合法化した

*68:参議、第二次伊藤、第二次松方、第一次大隈内務相を歴任

*69:参議、黒田、第一次山縣、第一次松方内閣逓信相、第二次伊藤内閣農商務相を歴任

*70:司法卿、参議。下野後、佐賀の乱を起こし敗れて処刑

*71:外務卿、参議、枢密院副議長、第一次松方内閣内務相を歴任

*72:つまりは「世論(多数意見)とは違う公論(たとえ少数意見でも正しい意見)がある(まあ日本における死刑廃止論などは『公論』だと俺個人は思います、死刑が廃止されないことは日本の民度の低さの象徴でしょう)」と言う前提の元に「公論なら独裁していい(日本の民度は低いし、富国強兵を急いでしないといけないし)」という立場に「岩倉、大久保、木戸は立っていた」わけです。まあ俺個人は「公論なら独裁してもいい」とは勿論思いませんし、さすがに「共産の支持が少なくとも構わない。支持しない愚民がバカなのだ」とまでは思いませんが「公論かどうかが一番大事だ(支持率は二の次だ)」とは思っています。だから、共産に対する紙屋や松竹の悪口(例えば反党分子『松竹伸幸』『紙屋研究所』に悪口する(2025年2/14日分) - bogus-simotukareのブログで批判した駄文若者に見放された共産党への憂慮は共通 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba)にも「それがどうかしたのか。お前らに取って公論(あるべき政治論)という概念はないのか。そんなに若者支持が大事だと思うなら、めでたく(?)共産から除名されたことだし、世論調査で若者支持が高いという国民民主やれいわにでも入党しろよ。それか、お前らが新党を作って若者の支持でも集めてみろ(無能だから、無理だと思うけど)」と心底呆れます。まあ、そもそも偉そうなことを抜かす紙屋や松竹が、共産党に比べて支持されてるかと言えばどう見ても「若者にも中高年にも高齢者にも」支持されてませんけど(マスコミ各社も野党各党も紙屋や松竹などまともに相手にしていない)。紙屋や松竹や「類友」の「虚勢」「身の程知らず」には心底呆れ「何様のつもりだ」「分際を知れ」と言いたい。ということで「機会があればこのように、松竹や紙屋への悪口雑言」をブログ記事にどんどんぶち込んでいく予定です。

*73:1904~1997年。副首相、中国共産党副主席、国家中央軍事委員会主席、中国共産党中央軍事委員会主席など要職を歴任

*74:まあ俺も「上院襲撃扇動・トランプ当選」「パワハラ・斎藤元彦再選」とか見ると「愚民(米国民や兵庫県民)の民主政治より、公平無私なエリート(賢人)の独裁の方がマシじゃね?」と言いたくなります。但し問題は「独裁者の多く」は「賢人でもなければ公平無私でもない」わけですが

*75:工部卿、内務卿、宮内大臣、首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監を歴任。元老の一人

*76:陸軍卿、内務卿、第一次伊藤内閣内務相、首相、第二次伊藤内閣司法相、枢密院議長を歴任。元老の一人

*77:北海道開拓使長官、第一次伊藤内閣農商務相、首相、第二次伊藤内閣逓信相、枢密院議長を歴任。元老の一人

*78:工部卿、外務卿、第一次伊藤内閣外相、黒田内閣農商務相、第二次伊藤内閣内務相、第三次伊藤内閣蔵相を歴任。元老の一人

*79:陸軍卿、参謀総長、第一次伊藤、黒田、第一次山縣、第一次松方、第二次伊藤、第二次松方内閣陸軍大臣を歴任。元老の一人

*80:文部卿、陸軍卿、農商務卿、第一次伊藤、黒田、第一次山縣、第二次伊藤、第二次松方、第三次伊藤、第一次大隈内閣海軍大臣を歴任。元老の一人。陸軍大将、近衛都督、参議を務めた西郷隆盛の弟

*81:大蔵卿、第一次伊藤、黒田、第一次山縣、第二次伊藤、第二次山縣内閣蔵相、首相、内大臣を歴任。元老の一人

*82:桂太郎元首相(第三次伊藤、第一次大隈、第二次山縣、第四次伊藤内閣で陸軍大臣)、西園寺公望元首相(第二次伊藤、第二次松方内閣で文相)を除いて、元老は全て「明治維新のレジェンド」といっていいでしょう。なお、終戦時まで継続した枢密院等とは違い、元老制度だけは、「生前の西園寺が元老制度継続に否定的だったこと」もあり、1940年の西園寺公望元老(元首相:最後の元老)の死後、元老が選ばれなかったことで事実上消滅し、その後は「木戸内大臣(第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相)」「若槻元首相(憲政会、立憲民政党の元総裁。加藤高明内閣内務相)」「岡田元首相(田中、斎藤内閣海軍大臣)」「広田元首相(斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相)」「近衛元首相(元貴族院議長)」「米内元首相(林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣)」らいわゆる重臣が元老の代わりになります(重臣会議 - Wikipedia参照)

*83:宮城学院女子大学教授。一関市博物館館長。著書『幕藩体制蝦夷地』(1984年、雄山閣出版)、『北方史のなかの近世日本』(1991年、校倉書房)、『アイヌ民族と日本人』(1994年、朝日選書)、『飢饉の社会史』(1994年、校倉書房)、『近世の飢饉』(1997年、吉川弘文館)、『エトロフ島・つくられた国境』(1999年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『飢饉:飢えと食の日本史』(2000年、集英社新書)、『飢饉から読む近世社会』(2003年、校倉書房)、『菅江真澄』(2007年、吉川弘文館人物叢書)、 『菅江真澄が見たアイヌ文化』(2010年、御茶の水書房)、『東北から考える近世史』(2012年、清文堂出版)、『アイヌ松前の政治文化論』(2013年、校倉書房)、『五稜郭の戦い』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近世北日本の生活世界』(2016年、清文堂出版)、『非常非命の歴史学:東北大飢饉再考』(2017年、校倉書房)、『探究の人菅江真澄』(2017年、無明舎出版)、 『江戸時代の災害・飢饉・疫病』(2023年、吉川弘文館)等

*84:琉球大学教授。著書『鉄砲を手放さなかった百姓たち:刀狩りから幕末まで』(2010年、朝日選書)、『江戸日本の転換点:水田の激増は何をもたらしたか』(2015年、NHKブックス)、『茶と琉球人』(2018年、岩波新書)、『琉球沖縄史への新たな視座』(2021年、弦書房)、『百姓と自然の江戸時代』(2025年、ミネルヴァ書房)等

*85:國學院大學非常勤講師

*86:大阪大学講師

*87:日本、米国、カナダ、ロシア間で締結。1941年10月22日に失効。1957年に膃肭獣保護条約を引き継ぐ形で、「北太平洋のオットセイの保存に関する暫定条約」が旧加盟国により締結された。1984年に暫定条約も歴史的使命を終えたとして失効している。(膃肭獣保護条約 - Wikipedia参照)

*88:今もその毛皮がコート等に使われるミンク等と同様に毛皮目的で捕獲は行われていた。

*89:通商産業省を経て現在は経済産業省

*90:国内唯一の雄ラッコ「リロ」死ぬ 福岡市マリンワールドの人気者 残るは鳥羽の雌2頭に - 産経ニュース(2025.1.4)、水族館のラッコが消える?一方で北海道では野生のラッコを確認! | TBSラジオ(2025.01.20)、日本の水族館からラッコが消える日 122頭から現存は雌2頭のみ、繁殖できず輸入も困難 - 産経ニュース(2025.2.4)、【動画】国内唯一「メイ」と「キラ」日本中が鳥羽にラブコール 人気の裏に個体減「元気なうちに」:中日新聞Web(2025.2.16)によればその後、マリンワールド海の中道鴨川シーワールドのラッコは高齢化で死去したため、現在は鳥羽水族館にしかいない

*91:1953年生まれ。水産庁漁場資源課長、水産総合研究センター理事等を歴任。著書『クジラは食べていい』(2000年、宝島社新書)、『国際マグロ裁判』(共著、2002年、岩波新書)、『さかなはいつまで食べられる:衰退する日本の水産業の驚愕すべき現状』(2007年、筑波書房ブックレット)、『日本の食卓から魚が消える日』(2010年、日本経済新聞出版社)、『日本の鯨食文化』(2011年、祥伝社新書)、『これから食えなくなる魚』(2013年、幻冬舎新書)、『世界と日本の漁業管理』(2016年、成山堂書店)等

*92:「真逆」とは恐らく「クジラがサンマや鰯を食べる事でかえって魚が減ってる」という、いわゆる「クジラ食害論」でしょう。「食害論は事実に反する」と言う指摘もありますが無知なので特に論じません。