特集「鎌倉時代史研究の現在」
◆鎌倉期の王家*1・摂関家と貴族社会(海上貴彦(うなかみ・たかひこ)*2)
(内容紹介)
「鎌倉期における王家・摂関家」の変容の特徴を「分散から統合」「自立から他律」と表現している。
「分散から統合」とは所領の「分割相続」から「嫡子単独相続」という変化を表現している。
「自律から他律」とはいわゆる「両統迭立(持明院統*3と大覚寺統*4の対立)」「五摂家の誕生」を表現している。
「五摂家間の対立」「持明院統と大覚寺統の対立」を王家や摂関家は必ずしも自主的に解決することが出来ず、その結果、鎌倉幕府が摂関人事や皇位継承に介入すること(例:いわゆる両統迭立)が可能になった。
参考
持明院統 - Wikipedia参照
後嵯峨天皇は、息子の後深草天皇に譲位し、後深草天皇が病にかかると、その弟の亀山天皇が即位した。その後、亀山天皇の皇子世仁親王が皇太子となった。しかし、皇位継承者を指名するべき治天の君である後嵯峨上皇は、鎌倉幕府にはっきりとした意思を伝えないまま、崩御した。困惑した幕府は、後嵯峨院の中宮で、後深草上皇と亀山天皇の母である大宮院に後嵯峨院の胸中を尋ね、それが亀山天皇にあったと知らされると、亀山天皇が治天の君となり、程なくして亀山の皇子・世仁が後宇多天皇として即位し、亀山は院政を開始する。
しかし、亀山上皇の兄であるのに自身の子孫の皇位継承の見込みが立たなくなり、不満を持った後深草上皇は、太上天皇号を返上し出家する意思を表明した。これに同情した幕府は、亀山に対し後深草に配慮するように求め、後深草の皇子である熙仁親王が皇太子となる。その後、霜月騒動(有力御家人・安達泰盛が粛清され内管領・平頼綱が実権を握る)により幕府内の親亀山勢力が減退すると後深草方の力が有利となり、弘安10年(1287年)に熙仁が伏見天皇として即位。皇太子にも熙仁の皇子である胤仁親王が立てられた。
しかし、鎌倉幕府は、胤仁親王が後伏見天皇として即位した後の皇太子には、後宇多天皇の皇子である邦治親王(後の後二条天皇)を立てた。
これによって、伏見を始祖とする持明院統(後の北朝)と、亀山を始祖とする大覚寺統(後の南朝)が「亀山、後宇多(亀山の子)(大覚寺統)→伏見、後伏見(伏見の子)(持明院統)→後二条(後宇多の子、大覚寺統)→花園(伏見の子、持明院統)」等とおおよそ交互に即位する両統迭立がはじまった。
その後、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇(大覚寺統)により一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたが、後醍醐が足利尊氏と対立したことで、尊氏が持明院統の光厳天皇を擁立し、南北朝時代となる。
その後、明徳の和約(1392年:南朝は後亀山天皇、北朝は後小松天皇。将軍は足利義満)によって南北朝統一が実現し、南北朝時代は終了する。皇位は両統迭立とすることが約束されたが、北朝は、応永19年(1412年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。反発した南朝の後胤(後亀山天皇の子である小倉宮恒敦など)や遺臣(伊勢国司の北畠満雅など)は、朝廷(北朝)や室町幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。
昭和の敗戦後の混乱期には後南朝の子孫を自称する熊沢寛道(熊沢天皇:1889~1966年)*5が現れ、一時は世の注目を浴びた。しかし戦後復興が進むにつれて人々の関心もやがて薄れていった。
◆鎌倉初期の公武関係と在京武士(長村祥知*6)
(内容紹介)
初期の武士研究においては、「鎌倉幕府初代将軍」源頼朝*7が東国武士の支持を得て、東国(鎌倉)に本拠を置いたことから「東国武士」が重視されたが、最近は「承久の乱で、後鳥羽上皇*8に与した藤原秀康*9、三浦胤義*10、大内惟信*11、山田重忠*12(承久の乱 - Wikipedia参照)」など在京武士が注目され、東国武士との相違点が研究されているという(なお、承久の乱により従来の在京武士は没落し、東国武士の影響力が強まった)。
なお、「京都に政権を築こうとした平氏や源義仲*13が滅んだこと(滅ぼしたのはいずれも源頼朝)」からその二の舞を踏みたくないとして、源頼朝が「鎌倉に政権を置いた」とする見方は「そのような描き方をする時代劇」の影響もあって一般に広まっていると思われるが、筆者もそうした認識は「時代劇の通俗的な見方」と切って捨てることは出来ないとし、在京武士の存在が「平氏や義仲が京都に強力な政権を築けなかった一因」とみなす。
しかしそうした在京武士も承久の乱で没落したことで、後に「室町幕府」という「在京の武家政権が成立した」と評価する。
◆中世武士団の「地域」支配(田中大喜(たなか・ひろき)*14)
(内容紹介)
中世武士研究の初期段階であるいわゆる「在地領主制論」では「在地領主としての武士」に注目され、その地域支配は「土地(農地)支配」と理解される傾向があったが、近年は農地支配に留まらない「交通や商業の拠点を支配する武士」と言う観点が論じられることが指摘される。
参考
中世武士の地域支配の真実に迫る『中世武士団 ― 地域に生きた武家の領主 ―』展 | 歴史人
国立歴史民俗博物館は2022年3月15日(火)~5月8日(日)の期間、企画展示「中世武士団―地域に生きた武家の領主―*15」を開催する。
◆第2章 列島を翔る武士団 ― 移動と都市生活
中世の武士は、草深い田舎にある先祖から代々受け継いできた「一か所」の所領(領地)を命懸けで守り、それを生活の頼みとして生きたという「一所懸命」のイメージでしばしば語られる。しかし、本章ではそうした中世武士のイメージを相対化している。
◆第4章 武士団の港湾支配 ― 地域の内と外をつなぐもの
武士団は領主として交通や物流を支配していて、沿海地域の場合は、いかに港湾を支配するかが重要であった。石見益田の事例を中心として、港湾の景観、船舶の航路、そして武士団による支配の様相に迫っている。
◆第5章 霊場を興隆する武士団―治者意識の目覚め
職業戦士集団であることを本質とする武士団自体は、地域社会を支配(統合)する論理(正当性)を持てなかった。そのため、地域社会の救済を実践する宗教者集団と提携し、その活動と拠点となる寺社=霊場を整備・保護することで、地域社会支配の論理を獲得しようとした。
また、宗教者集団との接触は、武士団に統治者としてのあるべき姿勢について自覚させる契機にもなった。すなわち武士団は、宗教者集団から民衆を憐れむことを心がける「撫民(ぶみん)」の思想を学び、殺生と無縁ではいられない現実との狭間で苦悩しながらも、その体得を目指したのだ。ここに武士団は、圧倒的な武力を振るう残忍な戦士集団からの脱却の一歩を踏み出したが、本章ではそうした武士団の姿を展示している。
◆鎌倉幕府法の実践と地域社会(佐藤雄基*16)
(内容紹介)
地域社会において鎌倉幕府法(御成敗式目)がどのように実践されたのか(受容されたのか)、特に「もともとは御家人対象の法律」がどのように「御家人(朝廷、公家、寺社、百姓など)以外にも受容されたのか」が論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考
『御成敗式目』/佐藤雄基インタビュー|web中公新書
◆インタビュアー
式目は大変有名ですが、何が定められているのかはよくわかりません。かいつまんで教えていただけますか。
◆佐藤
しばしば「基本法」という言い方がなされるのですが、現代の憲法のようなイメージで捉えることはできません。1232年の制定当時、幕府の裁判の場などで実際に起こっていた問題について、こういう場合にはこのように判断する、という例示がなされています。ですから、かなり具体的な状況やパターンが書かれていて、歳月が経って社会状況などが変化してしまうと、そのほとんどは意味をなさない規定になってしまいました。しかし、文言の一部分が切り取られて引用されたりしています。そのとき、この場合にはこうするという具体的な部分よりも、その前置きとして述べられているような一般論のほうがむしろ引用される傾向がありました。
◆インタビュアー
式目が制定された時代背景について教えてください。
◆佐藤
1221年の承久の乱で幕府が朝廷に勝利して、本格的な「武家の世」が到来したことを象徴する法典であるといわれてきました。北条氏が幕府の政権運営を担うようになり、全国の政治に責任を持つようになったのは確かです。しかし、実際には京都には朝廷や荘園領主、大寺社が健在でしたし、幕府と主従関係を結んだ「御家人」ではない武士(非御家人)も多かったのです。式目制定当時、西日本では武士(地頭・御家人)勢力と荘園領主との紛争が多発するほか、「寛喜の大飢饉」と呼ばれる社会的危機に直面していました。幕府は自分の支配領域・責任範囲を明確にして、諸勢力との共存を目指す必要に迫られていたのです。そうした中、幕府はこういう場合にはこういう判断を出す、という一種のマニフェストとして出されたのが式目だと考えています。
◆インタビュアー
『御成敗式目ハンドブック』という本をお出しになりましたね。どういった内容ですか?
◆佐藤
新書ではそれなりに研究史を踏まえながらもかなり思い切った独自の議論を展開している箇所もありますし、読者も高校生・大学生から社会人までかなり幅広い層を想定しています。『御成敗式目ハンドブック』(2024年、吉川弘文館)は「研究入門」的な内容で、これから中世法の勉強を始めたい文学部・法学部の大学生を想定読者として、テーマごとに基本的な研究史や史料の読み方、今後の研究課題などを提示しています。大学生の方でレポートを書きたい、卒論を書きたいという人にまず座右においてほしい一冊です。新書では五十一箇条の「書き下し」(漢文を日本語として読んだもの)を付録につけていますが、ハンドブックでは「現代語訳」を載せています。
日本の歴史上、最も有名な武家法「御成敗式目」はなにが画期的だったのか? 気鋭の歴史学者・佐藤雄基に訊く|Real Sound|リアルサウンド ブック
◆インタビュアー
本書のポイントのひとつとして、条文の具体的な内容や、その背景にある社会状況だけではなく、その「受容の変化」についても触れているところがあるように思いました。
◆佐藤
御成敗式目というのは、1232年に制定されたときとそのあとでは、使われ方、受け取られ方の変化がかなり大きいというのが、ひとつ特徴だと思っていて。制定された当時は、先ほど言ったように承久の乱のあとなので、いろいろと細かい揉めごとがいっぱいあったんですよ。ただ、それから月日が経って、五十一箇条全体ではないけれど、その中の特定の条文に関しては、いろいろな人たちに引用されるようになっていきました。それこそ、武士とは何の関係もない百姓たちや寺社関係者たちまでが、それを引用しながら使っていくようになるんです。
今でも神社に行くと、御成敗式目の第一条にある「神は人の敬ひによって威を増し、人は神の徳によって運を添ふ」という一節が、掲げてあったりするんですよ。
◆インタビュアー
使い勝手の良いところを、各勢力が自由に引用しながら残っていったところがあると。
◆佐藤
そうなんです。だから、先ほど「あまり読まれていない」と言いましたけど、特定の部分に関しては切り取られて、今も残っていたりして。そこが、御成敗式目のすごく面白いところなんですよね。
◆インタビュアー
その「受容の変化」というところが、本書の肝になるわけですね。
◆佐藤
御成敗式目を制定した北条泰時*17が生きていた頃はともかく、彼が亡くなったあと、それがどう運用されていったかというのが、ひとつ本書のポイントだと思います。
佐藤雄基『御成敗式目』(中公新書) 7点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
御成敗式目は御家人を対象とした法ですが、御家人以外が絡むような場面も想定されている部分があります。
例えば、人妻との密通を禁じた第34条は、後半で「辻捕(つじとり)」という行為を禁止しています。この辻捕とは道路において女性を捕まえる行為で、「物くさ太郎」に自社参詣をしている女性を強引に妻にしようとするシーンがあるように中世社会では珍しいものではありませんでした。
この辻捕の被害者には庶民の女性も含まれていると考えられます。つまり、ここでは対象は御家人だけにとどまらないのです。
ちなみに辻捕の罰は、御家人は百箇日の出仕の停止、郎従以下は片方の鬢髪を削ぎ落とす、法師ならそのときに斟酌する、となっています。
結果として、式目の対象は御家人を越えて広がったとも言えます。
また、式目の第42条では、百姓が「逃散」したときに妻子や財産を奪い取ることを禁じ、年貢の未進が解消されたあとに百姓が領主のもとから立ち去ることを認めています。
これらは年貢未進を理由に領主が百姓やその妻子を奴隷化してしまうことを防ぐためのもので、幕府の百姓への保護政策だと考えられます。
成立当初の式目は当時のニーズに沿って出されたものですが、それが次第に一般原則を示すものとして解釈されるようになったといいます。
例えば、式目の第8条は20年の実効支配で権利が認められる規定として知られています。一方、見出しは「知行せずに年月を経た所領について」となっています(192p)。
この規定は、幕府の下文(くだしぶみ)を持ちながら実効支配しないまま一定期間を起こすことが問題となっていたために置かれたものと考えられています。つまり訴訟を抑制するための規定です。
ところが、のちの世になると、20年の実効支配で権利が生じるという一般原則を定めたものとして式目が引用されるようになっていったのです。
「私領」の売買を認めたと解釈されることもある第48条も、基本的には幕府から与えられた恩領を勝手に売ってはならないというもので、その前段として「相伝の私領を売却するのは、「定法」である」(198p)と書かれています。
これはあくまでも(ボーガス注:「幕府の恩領を勝手に売るな」という定めの)前振りの様なものなのですが、後世になると式目が私領の売買を認めたと理解されるようになります(のちに幕府は御家人の没落を防ぐために私領の売却を制限するようになる)。
このように式目の内容が一般原則として理解されるようになるにつれ、朝廷や寺社、さらには村掟などにも式目を意識したものが見られるようになりました。
そして、御成敗式目は古典になります。式目に対する注釈書もつくられるようになり、「本文」がなかったはずの式目を中国の古典や律令に引きつけて解釈する動きも出てきます。
近世になると、式目は寺子屋の教材として使われるようになります。そのために出版もされましたが、これによって式目追加やその後の注釈は切り離され、51箇条の式目だけが「古典」として流通していくことになりました。
このように本書は御成敗式目の内容だけではなく、それが生まれてきた背景や後世における受容にまで目を配った分析が行われています。本書に「御成敗式目への注目は高いが本文が紹介されることはあまりない」と書かれていますが、日本史の教科書などを見てもそういう感じです。ですから、内容を含めた分析を行い、当時の文脈を紹介してくれる本書は非常に有益だと思います。
【書評】御成敗式目を「歴史の覗き窓」として鎌倉時代を理解できる良書!佐藤雄基『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』 - 明晰夢工房
御成敗式目には、鎌倉時代の治安の悪さを実感できる条文が多い。たとえば、4章では「悪口の咎」について解説されているが、これは文字通り悪口=根拠のない誹謗についての規定だ。悪口を言うと、流罪か召し籠め(他の御家人への身柄預け置き)になるのだが、これは悪口への罰としては重過ぎるように思える。だがこれには理由があって、本書によれば悪口が喧嘩や殺人の原因になるからだという。喧嘩が日常茶飯事だったからこそ、武士同士の喧嘩をふせぐために悪口を厳罰に処す必要があったのだ。もっとも、著者は「喧嘩が日常茶飯事であった武士社会において、この条文通りに厳罰が科されたのかどうかは分からない」という。
7章で解説されている三十四条の後半部分には「辻捕」という言葉が出てくる。これは路上において女性を捕らえ襲う行為だ。「辻捕」の加害者としてはおもに御家人とその郎従が想定されている。犯行現場は市場や寺社で、女性にとっては参詣すら一人でするのは危険だった。「辻捕」の罰は出仕停止や頭髪を半分剃る、というものだ。性犯罪に対して罪が軽すぎるように思うが、著者は「面子を重んじる武士にとって耐えがたいものだったかもしれない」という。やはり中世の武士の感覚は現代人には理解しがたいところがある。
治安の悪い話が続いたので、最後に救いのある話をひとつ紹介したい。地頭には百姓をこき使っているイメージがあるが、実は地頭が百姓を保護することもある。7章では、備後国の地頭が、「下向してきた代官たちが妻を帯同して百姓の家に住ませたり、百姓の妻を強姦するなどしている」として、荘園領主の高野山に抗議する例を紹介している。この地頭は百姓の妻を犯したことが御成敗式目に反すると主張している。具体的には三十四条の他人妻密懐の規定だが、このように地頭が式目を利用して百姓を守ることもあった。地頭・御家人は百姓を搾取する存在でもあったが、領地経営をつうじて民を慈しむ「撫民」の精神も持ちはじめていた。その存在が地頭=御家人の在り方まで変えていくところにも、御成敗式目の面白さがある。
◆鎌倉期の荘園制研究と荘官論(永野弘明*18)
(内容紹介)
鎌倉期の荘園制研究について、荘官を中心に論じていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆門主幼年期における宮門跡の運営と里方:文化期の一乗院と伏見宮家を事例に(石津裕之*19)
(内容紹介)
「門主幼年期における宮門跡の運営」とそれに対する「里方(門主の実家のこと:今回は伏見宮家)の関与」について一条院の幼年門主となった尊誠法親王(伏見宮貞敬親王の第四王子)を題材に論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆紹介:崔誠姫*20著『女性たちの韓国近現代史*21』(評者:朝倉希実加)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介等で代替。
慶應義塾大学出版会 | 女性たちの韓国近現代史 | 崔誠姫
第一章 近代と出会う女性たち――朝鮮の開国
1 王妃閔氏とその時代
2 開港後の朝鮮と女性
[コラム]フィクションからみる歴史①
ドラマとミュージカルのヒロインとなった明成皇后
戦うヒロイン『ミスター・サンシャイン』のユン・エシン
第二章 「外」へ飛び出す女性たち――1910~30年代の朝鮮
1 韓国併合と「李王家」の結婚
2 韓国併合後の女子教育
第三章 朝鮮半島の戦争と女性たち――動員、協力、被害
1 日本の戦争と朝鮮の女性たち
2 日本軍「慰安婦」問題
3 朝鮮戦争と女性たち
[コラム]朝鮮映画のスター文藝峰*22
第四章 「戦う」女性たち――独裁政権から民主化へ
1 独裁政権期の女性たち――女性運動の始まり
2 民主化と女性たちの戦い
3 民主化後の韓国社会と女性――新たな戦い
[コラム]フィクションからみる歴史②
民主化運動を描く『1987 ある闘いの真実*23』
慰安婦と向き合う『I Can Speak』
第五章 「アジア」を移動する女性たち
1 日本へ渡る女性たち
2 中国へ渡る女性たち
3 「アジア」から朝鮮半島をめざす女性たち
[コラム]日本人妻の物語『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。』
第六章 「キム・ジヨン」たちの韓国
1 IMF危機と女性の社会進出・政治進出
2 朴槿恵大統領の就任
3 韓国フェミニズム小説『82年生まれ、キム・ジヨン*24』の爆発的ヒット
4 「女嫌」犯罪と#MeToo運動
5 LGBTQ+をめぐる問題
6 北朝鮮の女性たち
[コラム]南北分断のロミオとジュリエット『愛の不時着』
【試し読み】『女性たちの韓国近現代史』|慶應義塾大学出版会 Keio University Press
(ボーガス注:慶應義塾大学出版会から)2024年10月刊行の『女性たちの韓国近現代史』は、開国から植民地期、朝鮮戦争を経て現代へ至るまで、激動の世紀を生き抜いた女性たちを描く韓国・朝鮮ジェンダー史の基本書です。著者である大阪産業大学国際学部准教授の崔誠姫先生は、連続テレビ小説「虎に翼」の朝鮮学生考証で制作に携わった、今注目される若手研究者の一人です。今回は冒頭の「はじめに」を特別公開致します。ぜひご一読下さい。
【はじめに】
大学で歴史に関連する授業をするとき、初回ガイダンスで学生に必ずする質問がある。その質問は次のとおりである。
(便宜上、大阪の大学での質問という設定)。読者の皆様もこの質問の答えを考えてみてほしい。
【質問】
今から配る用紙に歴史上の人物を三名書いてください。国や時代は問いません。ただし存命中の人物、現在放送しているNHK大河ドラマの主人公、大阪で最も有名な人物といえる豊臣秀吉は除きます。
読者の皆様が選んだ三名はどのような人物だっただろうか。この質問には二つ目的がある。一つは学生の歴史に対する知識・関心を問うことである。集計を出すとたいてい戦国大名が多くなる傾向があり、次いで日本やアメリカの政治家となるケースが多い。これはおそらく大河ドラマやニュースの影響といえる。そして戦国大名は全員が、政治家はほとんどが男性なのである。
朝鮮半島の歴史もまた男性中心に述べられてきた。たとえば世界記録遺産に登録されている歴史書『朝鮮王朝実録』は国王の一挙手一投足が詳細に述べられているが、それに比べ王妃や王女たちの記録はほんのわずかである。
近年、このような男性中心の歴史に異を唱えるかのように、女性・ジェンダーに着目した歴史研究/歴史叙述が世界中で増えている。これは、そこにいたはずの人たちに着目し、「可視化」するための作業といえるだろう。本書もこのような問題意識を出発点とし、朝鮮半島の近現代の歴史を女性中心に述べている。
「女性たちの韓国近現代史」書評 教科書的記述と異なる交流の姿|好書好日
近年、男性を中心に語られてきた歴史を見直し、女性の役割に目を向けるジェンダー史が盛んになってきた。本書は、この手法で19世紀末以降の韓国の通史を描く。
例えば、本書は朝鮮王朝末期の国王高宗の王妃である閔氏*25の再評価を行う。閔氏といえば、国王に影響を及ぼして清国やロシアに接近するなどの策を巡らせ、最後は日本に暗殺される人物として描かれやすい。だが、儒教が支配的な時代に女性が政治の表舞台に出たこと自体、驚くべきではないか。従来の閔氏への低い評価は、行動する女性への男性の拒否感を反映していたのかもしれない。
また、韓国政治史の華というべき80年代の民主化の描き方も、教科書的な記述とは異なる。民主化運動には、組織を率いる男性たちを女性たちが食事や医療で支えるという家父長制的な構図*26があった。男性支配との戦いの転換点はむしろ97年のIMF危機にある。男性の没落を機に女性の社会進出が進む中で、クォータ制によって女性議員が増加し、女性家族部が誕生し、#MeToo運動も広がった*27。
◆紹介:安井三吉*28著『孫文・華僑・神戸*29』(評者・村田省一)
(内容紹介)
孫文記念館(神戸市)の館長を務めたことがあり、過去にも孫文関係で
の著書がある安井氏(神戸大学名誉教授)の「孫文と神戸(神戸華僑など)」の関係性について論じた本が紹介されています。
目次は以下の通りです。
孫文 華僑 神戸|神戸新聞総合出版センター
第一章 孫文を迎えた人々
1 〝中山の大業は必ず成就すべし〟―三上豊夷
2 二人の楊寿彭
3 呉錦堂・王敬祥・楊寿彭
第二章 孫文を語りついできた人々
1 舞子の「天下為公」碑―元山清と池田豊
2 神戸華僑歴史博物館と孫文記念館の創設―陳徳仁*30
3 平和と友好を願う―林同春
4 神戸華僑華人研究会―山口一郎と長谷川善計
第三章 「大同の夢」を求めて―陳舜臣*31の孫文像
【参考:安井『孫文・華僑・神戸』】
千佳の神戸生活雑感(32)神戸にゆかりのある孫文と陳舜臣氏のこと | 海馬文学会(神戸)2025.2.5
昨年9月下旬、神戸新聞文化欄の小さな広告が目に入った。神戸大学出版会発行の『孫文・華僑・神戸』という新書の紹介で、作者は中国近現代史が専門の神戸大学名誉教授・安井三吉氏である。
垂水にある「孫文記念館」と三宮の「神戸華僑歴史博物館」の名誉館長でもある。
その著作によれば、2024年は近代中国の革命家・孫文が神戸で「大アジア主義」という講演を行ってから百年、また神戸ゆかりの作家・陳舜臣氏の生誕百年でもあるという。とすれば孫文が講演した1924年は、陳氏が産声をあげた年でもあったのだ。
二つの百年を機に、作者はこの二人を通して神戸の地における日中両国の過去と未来を詳しく論じている。
著作で安井氏は、陳舜臣は孫文に自らの理想を重ね、作品を通してその思いを発信したと言う。また彼が台湾の民主化や中国の天安門事件などに影響を受け、彼自身の孫文像を変化させていくその変遷を論じていた。
そして神戸にゆかりがあるこの二人は、国家や民族の概念があまりなく、差別と紛争のない「大同」という理想社会を共に夢見ていたのだと指摘している。
しかし神戸で孫文よりも身近に感じたのは、やはり陳舜臣氏の方である。陳氏とは直接の面識はないが、三十数年前、元町のある中華料理店で、ご夫婦が隣りのテーブルで食事されているのを見かけたことがある。
彼の作品には、神戸の元町やトアロードあたりがよく登場することにも親近感を覚えていた。
陳氏の両親は台湾出身だが、彼は神戸の元町で生まれ育った。
陳舜臣氏は、2015年1月老衰のため亡くなった。相前後してメリケンパークの近くに(ボーガス注:陳舜臣氏の)記念館ができた。
その後残念ながらコロナ禍を経て入場者が激減し、2、3年前とうとう閉館になってしまったようだ。
【参考:呉錦堂】
呉錦堂 - Wikipedia
1855~1926年。貿易商。神戸華僑の実力者。
孫文(1866~1925年)の支援者としても有名で、国民党神戸支部長を務めた。孫文は神戸にある呉の別荘・移情閣でしばしば英気を養った。移情閣は現在、孫文記念館として残されている。
*1:勿論日本においては天皇家のことですが、小生も無知なので「王家」表現と「天皇家(あるいは皇家)」表現の違いはよくわかりません。
*5:戦前は皇族を自称することは不敬罪として処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。
*6:富山大学准教授。著書『中世公武関係と承久の乱』(2015年、吉川弘文館)、『源頼朝と木曾義仲』(2023年、吉川弘文館)
*8:乱に敗れ、隠岐島に流罪となりその地で死去した。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では尾上松也が演じた
*9:後鳥羽上皇の最側近で、総大将だが後に斬首。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では星智也が演じた
*10:鎌倉幕府の有力武将である父「三浦義澄(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では佐藤B作が演じた)」、兄「三浦義村(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では山本耕史が演じた)」を後鳥羽側に付けようと働きかけたが失敗し、後に自害(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では岸田タツヤが演じた)。
*11:有力御家人「大内惟義」の長男(なお、承久の乱時点では惟義は病死していたとみられる)。後に流罪
*12:幕府軍に敗れ自害。大正6年(1917年)に鏡久綱(承久の乱の後鳥羽側の武将の一人で自刃)、宮崎定範(承久の乱の後鳥羽側の武将の一人だが死亡理由については不明)とともに朝廷に尽くした忠臣として正五位を追贈
*14:日本大学教授。著書『中世武士団構造の研究』(2011年、校倉書房)、『新田一族の中世』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『足利氏と新田氏』(2021年、吉川弘文館)
*15:田中大喜氏が展示企画に関わっており、当然ながら田中論文と似た「中世武士団」認識が見られる。
*16:立教大学教授。著書『日本中世初期の文書と訴訟』(2012年、山川出版社)、『御成敗式目』(2023年、中公新書)
*17:三代執権。初代執権・北条時政(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では坂東彌十郎が演じた)の孫。二代執権・北条義時(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では小栗旬が演じた)の長男。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では坂口健太郎が演じた。
*19:東京大学准教授。著書『近世の神社・門跡と朝廷』(2024年、吉川弘文館)
*20:大阪産業大学准教授。著書『近代朝鮮の中等教育:1920~30年代の高等普通学校・女子高等普通学校を中心に』(2019年、晃洋書房)
*22:1917~1999年。女優。朝鮮初のトーキー映画『春香伝』(1935年)でヒロイン「成春香」を演じたことで知られる(文藝峰 - Wikipedia参照)
*23:1987年1月14日の学生運動家・朴鍾哲拷問致死事件を描いた(1987、ある闘いの真実 - Wikipedia参照)
*25:韓国では明成皇后と呼ばれる。
*26:この辺りは日本の新左翼運動などでも指摘されるところかと思います。
*27:別記事で触れましたが、一方でその反動として、韓国若年男性に「女性嫌悪」が広がりつつあるようです。
*28:著書『盧溝橋事件』(1993年、研文出版)、『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』(2003年、研文出版)、『帝国日本と華僑:日本・台湾・朝鮮』(2005年、青木書店)等
*31:1924~2015年。1961年に神戸を舞台にした長編推理小説『枯草の根』で江戸川乱歩賞を、1969年に『青玉獅子香炉』で直木賞を、1970年に『玉嶺よふたたび』、『孔雀の道』で日本推理作家協会賞を受賞。孫文関係の著書に評伝小説『孫文』(2006年、中公文庫)。『孫文』のほかにも『小説十八史略』、『阿片戦争』、『太平天国』(以上、講談社文庫)、『耶律楚材』(集英社文庫)、『チンギス・ハーンの一族』(集英社文庫、中公文庫)、『諸葛孔明』、『曹操』、『実録・アヘン戦争』、『江は流れず:小説日清戦争』(以上、中公文庫)、『秘本三国志』(中公文庫、文春文庫)、『秦の始皇帝』(文春文庫)等、中国史を描いた小説、評論が多数ある(陳舜臣 - Wikipedia参照)