松尾匡氏に突っ込む(2025年7/20日分)

本家れいわはドイツのれいわの二の舞を避けられるか——参政党対策|松尾 匡
 批判してない箇所もありますが「上手い批判が思い浮かばないだけ」で必ずしも賛同してるわけではありません。

 アベノミクスで景気回復して安倍自民党が選挙で大勝すると警告して、左派・リベラル派野党がそれを上回る景気対策を掲げて対抗することを訴えたときも、見事に無視されて警告したとおりになった。

 少なくとも左派・リベラル派野党の「主観」においては無視はされてないと思いますが。
 そもそも「現実性無視で景気のいい話をぶち上げろ」というならともかく景気対策はそう簡単に打ち出せるものでもないでしょう。(まあ、現実性無視で景気のいい話をぶち上げるのもそう簡単ではないでしょうが)。
 松尾氏的には「俺の主張した景気対策は正しいんだからそれを打ち出せ」というのかもしれませんが、そういう話でもないでしょう。
 何も野党各党は松尾ファンではない(恐らく、松尾氏がれいわに肩入れするのは彼の主観では『れいわが彼の経済主張に最も好意的だから』なのでしょうが)
 また政権後期に安倍が「地方創生」「女性活躍」「働き方改革」など「アベノミクス(大規模金融緩和)と別のこと」を打ち出したことを考えれば果たして『アベノミクス』がどれほど安倍の政権維持で効果があったか。せいぜい政権当初だけではないか。

 『新しい左翼入門*1』で、日本の左派には上から目線の理論押し付け路線と、抑圧された現場の大衆の情動に依拠する「コンニャロー」路線との対立が生まれる宿痾があることを指摘して、この対立を乗り越えることを提唱したのだが、その十数年後の日本では、共産党とれいわ新選組の対立が、この宿痾の歴史に新たな一例を追加している。

 おいおいですね。「上から目線」が恐らく共産で、「大衆の情動」云々がれいわでしょうが、何が根拠なのか?
 そのように単純に描き出す事が出来るほど、「共産」は「上意下達」でもなければ、れいわは「現場主義」でもないでしょう。れいわ支持者の松尾氏の偏見ではないか。
 ついでにいえばれいわが敵対的なのは「共産だけではなく、れいわ以外の全ての政党」といっていいでしょう。
 れいわと共産の対立は「専られいわに責任がある」と俺は思っています。
 れいわが独善的に「れいわ以外の政党(勿論共産を含むが、立民などそれ以外も含む)は茶番」と悪口するから対立関係になるのであって「上から目線」と「現場主義」の対立なんて「高尚な話」ではそもそもないでしょう。
 というか『新しい左翼入門』を未読の俺がこういうことを書くのはどうかとも思いますが「過去」についても「上から目線」と「現場主義」の対立なんて言えるものがどれほどあったのか。
 「共産党社会党など」の組織内においての「上から目線(上層部)」と「現場主義(下部組織)」の対立ならともかく、「社会党共産党の意見対立」「いわゆる既存左翼(社会党共産党)と新左翼の対立」などは「意見対立」ではあっても「上から目線」と「現場主義」の対立といえるのかどうか。

 (ボーガス注:ドイツ国会選挙で惨敗した)BSWがれいわ新選組だとすると、(ボーガス注:ドイツ国会選挙で躍進した極右政党)AfDが参政党、(ボーガス注:ドイツ国会選挙で議席増した)左翼党が共産党となって、このシーンを再現しつつある。
 参政党がいかにやばい政党かという宣伝が盛り上がるにつれて、これを中心的に担っている共産党の支持が回復し、それと対照的に(ボーガス注:共産に比べそうした宣伝が弱い)れいわ新選組の支持率はじりじりと低下している。

 この松尾氏の見方が正しいなら勿論、共産支持者の俺としては嬉しい。
 なお、こうした指摘をされてもれいわが、松尾氏の希望を受け入れて「排外主義批判」を強めることはないでしょう。れいわとは「そういう政党だ」と俺は批判的に見ています。
 なお、「排外主義批判」によって議席を大幅に伸ばしたドイツ左翼党と違い、排外主義批判が受けない日本では、共産は「厳しい選挙予想報道」ですが、それでも松尾氏においては「排外主義批判によって共産はリベラル派に高く評価された。仮にドイツ左翼党と違い選挙結果が厳しいものでも明日につながる成果ではないか。一方、れいわは排外主義批判が弱いとして、リベラル派の評価を落としてる。現時点の選挙予想も芳しくないし、ボランティア頼りで、共産に比べしっかりした党組織もない(ボランティア頼りである点については本家れいわはドイツのれいわの二の舞を避けられるか——参政党対策|松尾 匡でも指摘がある)。選挙後、一気に衰退過程になりかねない」と評価してるのでしょう。共産支持者、れいわ批判派の俺としては「そうあってほしい」ところです。

 自民党や維新の会の政治家たちはこれまで、生活保護の受給者だとか、公務員だとか、障害者だとかのスケープゴートをその時々作って、その他の一般の人たちをけしかけてきた。国に金がなくて、貴重な予算を彼らに取られるために、自分たちは税金の払い損になってしまうという思い込みを利用して憎悪を煽り、票を集めて、真に大衆を支配して搾取しているごく一部の強者に大衆の怒りが向かないようにしてきたのである。
 これに対して、「税や社会保険料で集めたお金を誰かのために使う」という図式を共有した上で対抗しようとしたリベラル派が敗北したのは当然である。
 新自由主義に痛めつけられて毎日の生活に汲々とする大衆には、他人のために思いやりの心を持って犠牲を甘受する余裕はないのである。
 積極財政論はそれに対して、それは偽りの対立だということを示した。

 いや俺的には「敗北したのは当然ではない」のですが。
 「真に大衆を支配して搾取しているごく一部の強者」こそが問題である、生活保護の受給者だとか、公務員だとか、障害者だとかのスケープゴートは問題ではないとリベラル派は指摘してきた訳ですがそれが「何か問題なのか」。「税や社会保険料で集めたお金を誰かのために使う」という図式は当たり前の話ではないのか。そもそも税や社会保険料とは「誰かのために使う」ことが目的でしょう。
 仮に「日本では大衆受けが悪い」としても「税や社会保険料で集めたお金を誰かのために使う」という図式真に大衆を支配して搾取しているごく一部の強者」こそが問題であると言う指摘は『事実』でしょうし、そうした指摘をせずに「国債発行すればいくらでも国に金がある(積極財政論)」かのように言うのは真に大衆を支配して搾取しているごく一部の強者(政財官等の上層部)を批判することから逃げる「ある種の逃げ」であるとともに事実に反するでしょう。
 また、「国債発行すればいくらでも国に金がある」かのような主張をしたところで「それがどれほど大衆受けするかどうかは疑問(そのような主張をしてない立民は支持率で野党1位)」ですし、そのような主張をする政党(例えば国民民主党)が生活保護の受給者だとか、公務員だとか、障害者だとかのスケープゴートを叩いてないわけでもない。
 松尾氏は「国民民主党の積極財政論はエセ。単に国債発行を唱えるだけでは積極財政論と言えない」と言い出すのかもしれませんが「国債発行すればいくらでも国に金がある」と生活保護の受給者だとか、公務員だとか、障害者だとかのスケープゴート叩きを現実に「どちらも国民民主党が行っている」以上、積極財政論が「生活保護の受給者だとか、公務員だとか、障害者だとかのスケープゴート叩き」打破という意味で、「真に大衆を支配して搾取しているごく一部の強者」こそが問題である、という指摘よりも「政治的に有効」という松尾主張はそもそも成り立たないのではないか。
 また、新自由主義に痛めつけられて毎日の生活に汲々とする大衆には、他人のために思いやりの心を持って犠牲を甘受する余裕はないと言う松尾氏の認識も果たして正しいかどうか。
 むしろ、生活保護の受給者だとか、公務員だとか、障害者だとかのスケープゴート叩きを支持してるのは、「下級階級」ではなく、「彼らのためになぜ金持ちの俺が税金を払わねばならぬ」という「上流階級」ではないか。
 失礼ながら松尾主張は「穴だらけ」だと思います。
 なお、お断りしておけば、共産は野放図な国債発行に反対してるだけであって、私見では「反積極財政」「緊縮財政」と評価は出来ないと思います(この点は立民なども同じかもしれない)。
 共産は「社会福祉や教育の充実」を主張しているので「そうした分野については当然ながら積極財政(予算拡大)になる」わけです。
 一方で例えば「軍縮」を主張してるので軍事分野は緊縮財政(予算縮小)になるわけですが。
 そもそも「国債発行しまくれば良い」と言う見地に立たない限り「予算には限りがあります」。
 全ての分野に予算を潤沢に付けることは無理です。
 そういう意味では「積極財政はあり得ない」でしょう。
 しかしそれは「全ての分野で予算を減らす」と言う意味ではない。現在の自民党政権では「医療費削減」を唱える一方で、軍事費は拡大されてるし、逆に共産は「軍縮」「社会福祉や教育予算の拡大」を主張してるわけです。
 抽象的に「積極財政」を論じるのではなく、具体的に論じることが重要でしょう。

 医療と社会保障の抑制政策のせいで、病院も介護施設も続々と潰されている。
 その一方で、内外の富裕層向けの高級ホテルなどのサービスは「生産性が高い」と称して振興している

という松尾氏の指摘も私見を裏付けてるかと思います。
 自公政権は「医療や社会保障」については縮小財政ですが、ホテルサービス(観光業)については積極財政のわけです。
 抽象的に積極財政か、緊縮財政かを論じるのではなく、あるいは「国債発行すれば積極財政」と単純化するのではなく、具体的に論じ、例えば

◆教育、福祉分野については共産は積極財政だが、国民民主は消極財政だ。
◆積極財政云々の問題は、財政支出を増やすかどうか、増やす場合にどこの財政支出を増やすかどうか(共産の場合は教育、福祉分野については積極財政、軍事については消極財政)であって、国債発行を野放図にするかどうかではない
◆予算に限りがある以上、全ての分野で積極財政は無理だが、重要な分野(共産の場合は教育、福祉分野)では積極財政をしていく。

と訴えることではないか。まあ、そうしたアピールは難しいことであり、世間受けがいいかも疑問ではあります。しかし「世間受け」も大事でしょうが、そればかりにこだわって正論を主張しないのもどうかと思います。

 参政党の憲法案に見られるような、復古主義的なイデオロギーを指摘することはどうだろうか。
 それも本当に大事なことだからぜひやればよい。
 しかし、思い出してみよう。(ボーガス注:1970年代など)共産党が今よりもっと強かった時、共産党自身はソ連のような国にはしないと言っていたが、信じなかった有権者も多かった。きっとソ連のような独裁をすると警戒しながら、しかし、共産党に入れていた有権者がたくさんいたのである。なぜか。
 どうせ政権とらないと思っていたからである。万一取っても連立相手の社会党のほうがよほど大きいので、共産党の思い通りにはできない。だから、自民党を懲らしめるために共産党に入れていたのである。
 参政党も同じである。どうせ政権をとらないと思って、今の自民党を懲らしめるために入れているのである。そんな人には、参政党のイデオロギーがいかにトンデモな復古主義かを語っても、あまり効果はない。

 いやいや、共産党に投票しなかった人はともかく、共産党に投票していた人は「共産党はそんなことはしない」と思っていたんじゃないですかね(1990年代後半に選挙権を得た団塊ジュニアの俺もその一人ですが)。勿論「客観的力量」から見て「共産党には失礼ながら、共産が社会党議席を上回ることはないだろう」とは見ていたでしょうし、「長期政権の自民党ですら、独裁的な施策はあっても、完全な独裁体制なんかしてないから、共産党が仮に単独与党になってもそんなことは無理」とは思っていたでしょうが、そういう否定的な見方をする人は共産党に投票しないでしょう。
 「自民党を懲らしめるため」だけなら、社会党(最大野党)など「共産党以外に投票しても良かった」わけで、その理由が何であれ「共産党に強い魅力を感じ、社会党など他党にあまり魅力を感じてなかった」から投票したのであったのであって、松尾氏の共産支持者評価は明らかにおかしいでしょう。
 そうした「共産党はそんなことはしない」と言う評価においては
1)地方自治体に過ぎず、また社会党が主導権を握っていたとはいえ「革新自治体」への共産の参加
2)自民党の「独裁的な政策(例えば中曽根内閣でのスパイ防止法案)」への共産の「自由主義的な観点からの批判」、そしてそうした批判の過程における、野党各党、市民団体等との協力関係
が大きかったのではないか。
 また参政党が「公然とトンデモ主張(ユダヤ陰謀論復古主義女性差別、高齢者差別など)をしている」のに対し、共産は建前ではそんなことはしていない点も共産と参政は大きく違う(本音でも共産はそんなことは考えてないでしょうが)。
 それにしても「自民を懲らしめるために共産(参政)」で話を終わらせる松尾氏には「何だかなあ?」ですね。
 1970年代においては共産党以外に「社会党公明党民社党社民連」などが存在したし、今は参政党以外に「立民、維新、国民民主、共産、れいわ、社民」などが存在するわけです。
 懲らしめるため「だけ」なら共産や参政に投票する理由にはならないでしょう。
 そこには「共産や参政の独自主張」に何か魅力を感じてるとみるべきでしょう。俺には参政に魅力を感じる人間は「理解の範囲外」ではありますが。

 移民政策に関連して、参政党との同一視の余地のない打ち出し方をもっとしていくことも重要だろう。例えば、我々(ボーガス注:れいわ)の言う移民反対は、すでに日本で働いている外国人労働者の境遇を守るための主張でもあるのだという打ち出し方である。

 「何だかなあ」ですね。
 なぜ、共産党日本ペンクラブ、日本アムネスティなどのようにストレートに「参政の排外主義に反対」「外国人優遇など存在しない。そうした主張はデマ」などと言わないのか。
 そもそも「移民に反対(正確には今以上に移民(外国人労働者)を増やすことに反対)」した「だけ」では、今居る外国人労働者の労働条件も、日本人の労働条件も改善しません。
 松尾氏がどう言い訳しようと「れいわは排外主義ではないのか」という疑念を禁じ得ませんね。