個人的には清張短編『酒井の刃傷』が、実在の事件「姫路騒動」(姫路藩酒井家の家老・川合勘解由左衛門定恒が、意見対立から家老・本多民部左衛門光彬や用人・犬塚又内を殺害した後、自らも自害)を元にしており、先行作品として
◆『顎十郎捕物帳*1』で知られる時代小説作家・久生十蘭の短編『無惨やな』
◆『赤穂浪士』『鞍馬天狗』で知られる時代小説作家・大佛次郎の短編『夕凪』
があること(読み比べとして久生短編、大佛短編も『清張の牢獄』に収録)を指摘してるのが興味深かったですね(当然、清張も先行作品も参考に執筆したとみられる)。個人的には清張作品が『酒井の刃傷』という「タイトル」も含めて一番わかりやすく*2面白かったですが。
小説での暗殺理由は川合定恒 - Wikipediaなどの紹介とほぼ同じです。
前橋藩*3から、姫路藩への国替えについての
◆家康公からの命を反故にするなどとは「忠義を重んじる」武士にあるまじき振る舞い。「武士は食わねど高楊枝」があるべき姿。犬塚や本多は藩政を歪める奸物*4だ。藩の将来のために野放しにしておく訳にはいかない(川合)
◆藩の財政難がそうしたきれい事で解決できるのか。姫路藩への国替え運動は藩主の命令によるものであり、藩士のほとんども喜んでる。反対してるのはあなた(川合)ぐらいのものだ(本多や犬塚)
という意見対立があるわけですが、「実際がどうだったのか」はともかく、清張小説では「自らが藩重役(家老)であるにもかかわらず、本多や犬塚、彼らを支持する藩主・酒井忠恭*5などから、『時代錯誤の老害』『無用の長物』扱いされること」への憤懣もあったように描かれており、「奸臣」「君側の奸物」と見なした人物(本多や犬塚)を殺害する「単純な忠臣」とは描かれていません。
【参考:姫路騒動】
川合定恒 - Wikipedia
川合家は、代々、酒井家の家老を務める家柄であった。
酒井家は財政難のために、利根川の氾濫で荒廃し実高に乏しい前橋藩から豊かな姫路藩への転封を画策したが、定恒は「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」「酒井家が家康公より任された要衝の地を捨てるのは不忠である」と大反対した。寛延2年(1749年)、家老・本多光彬や用人・犬塚又内が幕府側用人・大岡忠光*6ら幕閣への工作を行い、姫路への転封に成功した。定恒も藩主忠恭の説得で了承し、先立って姫路に向かい転封の準備に当たった。寛延2年(1749年)7月大雨により船場川が決壊し、姫路城下を洪水が襲う事態となったため、独断で避難民を城内に収容。米蔵から備蓄米を被災者に与えた。
寛延4年(1751年)、転封や災害の後始末を終え、7月10日光彬と又内を自邸に招き、二人を殺害した上で自害した。享年46歳。この事件は「姫路騒動」と呼ばれる。
川合家はお家断絶となり、妻子は、定恒の実弟・松下高通に引き取られた。宝暦5年(1755年)、定恒の功績や由緒ある家柄が考慮されて次男・宗見が30人扶持で召し出され、後に累進して安永7年(1778年)には旧禄の1000石に復し、家老となる。
2. 酒井家の所替と刃傷事件 | 播磨歴史ネットの会
酒井家の所替えの願望は、(ボーガス注:忠恭の父)忠挙*7時代からの積年の課題でした。しかし、河合定恒は、前橋からの所替えに大反対の家老でした。所替えの混乱が収まった2年後に事件は起きます。
寛延4年(1751)7月、参勤交替で藩主・酒井忠恭(ただずみ)は国元に帰っていました。所替えに功績のあった二人の重臣・犬塚又内(ゆうない)と本多民部左衛門も藩主に随行して帰城しています。二人が御用を済ませ、江戸へ出立する時、定恒は、江戸表への隠密の御用があるので相談をしたいと自宅へ招きます。そして、二人をそれぞれ別室へ案内して「御主(おぬし)は御家に仇(あだ)成す者である」と殺害し、自分もまた自害するという藩内を震撼させる凄惨な事件が起こりました。「姫路藩士騒動記」という史料はじめ「酒井忠儀録」や「紀陽陰語」等という題名で事件の顛末が記録され流布しています。
家老の河合定恒にとって前橋城は、権現様(家康)から直々拝領した由緒ある城でした。君臣の忠義を重んじる定恒にとって、家康公の遺訓に背き前橋の城を捨てて所替えを決定することはとんでもないことでした。このため当時の儒教的な道徳観では、家老定恒は、忠義に生きた武士の鑑としてもてはやされました。しかし、一方の犬塚と本多は積年の課題を成就したにもかかわらず権現様の遺訓に背く奸臣として評判を落としました。事件は、家老定恒の「乱心」として処理され、御家騒動にはなりませんでした。河合家へは、家禄没収・御家断絶の沙汰が下りました。
諸大名憧れの地、姫路藩 | 醸す 造る 播磨
姫路藩を所望した大名のなかで、最も有名なのは、江戸時代中期の大名・酒井忠恭(ただずみ)です。もともと酒井家は、徳川家から北の守りの要として、前橋に配置されていました。「ここは北の守りとして重要な地だから、酒井家はここで永代守ってくれ」と、徳川家から信頼されていたのです。しかし、残念ながら前橋はあまり実入りがよくありませんでした。利根川が曲がりくねったところで、毎年田畑が流されるような水害があり、しょっちゅう赤字で困っていたのです。そこで、当時の当主・忠恭は、豊かな姫路に行って税収を上げたいと、転封(国替え)を希望します。結果、その希望は叶い、晴れて忠恭は姫路藩酒井家初代藩主となるわけですが、これに猛反対していた家老・河合定恒(さだつね)が、転封を取り計らった関係者たちを殺害するという事件が起こります。定恒からすれば「神君家康公から前橋を与えてもらって、永代動くなと言われているのに、何で動くんだ!」と、深い怨念を持っていたわけですが、酒井氏にとっては、それを押し切ってでもやって来るほどの魅力が、姫路藩にあったということでしょう。
「銘菓・玉椿」を喜代姫の輿入れで用意した、姫路藩の名家老・寸翁の思い | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る
徳川幕府の成立以来、姫路に転封となるまで、譜代大名・酒井家は上野国前橋(現在の群馬県前橋市)に居城を置き、忠恭で9代を数えた。しかし、利根川の治水に苦労するなど、経営が難しい地であるうえに、幕閣としての支出も多く、債務は膨らむ一方であり、財政は難しい局面を迎えていた。
その状況で画策されたのが、より豊かな地への領地替えであり、候補地として挙がったのが、姫路であった。要人への工作が実り、この国替えは幕府の承認を得るところとなる。
ところが、酒井家の姫路入府は最悪のタイミングとなった。前年の夏、大旱魃に襲われながらも前領主の松平氏は年貢を抑えず、民の不満が高まるなかで藩主が没した。藩政は動揺し、一部所領で農民の蜂起が始まる。さらに、年が明けて国替えが公表されると、借金の踏み倒しを恐れた民衆が各地で庄屋などを襲撃する。寛延大一揆である。
この一揆は寛延2年2月ごろに鎮静するが、これによって新藩士の移住が遅れ、ようやく始まったばかりの7月に台風が襲来。城下の船場川が氾濫して町に浸水し、死者・行方不明者は400名を超えた。8月にも再び台風が直撃し、このときには農地への被害に加えて3000名余の死者が出た。財政改善をめざした酒井家の計画は、完全に裏目に出てしまったのである。
これら一揆の後始末や災害に対処せざるをえなかったのは、先遣役として姫路に入った家老の川合定恒(さだつね)であった。定恒は水没した城下町の人々を独断で姫路城内に避難させ、備蓄米を被災者に提供するなど、領民の保護に尽くしたという。
しかし、災害対応が一段落ついた寛延4年(1751)7月、その定恒が、同格の国家老・本多光彬(みつあき)と江戸家老の犬塚又内(ゆうない)を自邸に招いたうえで、両名を斬り捨てて殺害。定恒も切腹するという事件を起こす。世を震撼させた「姫路騒動」である。
実は、姫路転封を画策した中心人物こそ、光彬と又内であり、秘密裡に進められたこの計画が内定して藩士一同に伝達されたときに、ひとり強く反発したのが定恒であった。
「前橋城は、権現様より拝領した際、『この城は江戸の守護として築かれた、二つとない城である。永代にわたって所替えなど願い出ることなく、幕府からも申し付けることはない』とのお言葉をいただいた城。これを捨てるのは不忠である」というのが、彼の主張であり、藩主の忠恭にさえ、激しく意見したという。
家老・川合家は、もとは「河合」の姓を称して徳川家康に仕え、酒井家が家康の家臣から大名へと出世する際に、家康の命で付家老となったという経緯があった。いわば目付役である自分を出し抜いての、光彬たちの所業に対して、自身の立場を貫くという意志も事件の背後にあったのであろう。
事件後、川合家は断絶。跡継ぎで当時19歳の宗見(むねみ)は、母ら家族とともに叔父のもとに預けられることになる。
宝暦5年(1755)、同情の声が大きかった川合家に配慮してか、宗見が書院番に召し出されて家名を再興。次第に加禄のうえ地位を高めて、ついに安永7年(1778)、父の旧禄1000石とともに家老の地位を回復するに至った。
*1:人並外れた巨大な顎を持つ「顎十郎」こと「北町奉行所同心」仙波阿古十郎(せんば・あこじゅうろう)を主人公とする捕物帳(顎十郎捕物帳 - Wikipedia参照)
*2:「財政難だから、裕福な藩に国替えしたい」という犬塚らの主張は理解しやすい反面、川合の反対理由は、うまく書かないと後世の人間には理解が難しい
*3:利根川による前橋城の被害が拡大したため、明和4年(1767年)、武蔵国・川越城(現在の埼玉県川越市)に居城を移転することとなり、以降を川越藩と呼び、前橋は川越藩の飛び地となった。前橋城は明和5年(1768年)に取り壊しの命令が出され廃城となった。文久3年(1863年)、前橋城再築内願書を幕府に提出した川越藩主・松平直克に前橋城再築が許された。この背景には、利根川の治水事業が進み危険が取り除かれたことがある。慶応3年(1867年)2月2日の前橋城再建以降は、居城が川越城から前橋城に移り、再び前橋藩と呼ばれる。川越城は前橋藩の手から離れ、棚倉藩主・松平康英(外国奉行、勘定奉行、大目付、江戸南町奉行、奏者番兼寺社奉行、老中等を歴任)が8万4千石で川越藩主として入封した。明治4年(1871年)廃藩置県により、前橋藩は前橋県となり、その後、群馬県に編入された。(前橋藩 - Wikipedia、川越藩 - Wikipedia参照)
*4:ちなみに「宮本委員長時代からの方針「日米安保廃止」を反故にしようとするなどとは「アメリカ帝国主義を批判すべき」党員にあるまじき振る舞い」「紙屋や松竹は党運営を歪めようとする反党分子」「党の将来のために野放しにしておく訳にはいかない」として志位委員長(当時、現議長)ら党執行部によって除名された(さすがに川合のような暗殺ではない)のが松竹や紙屋です。