戦後80年談話 注目は石破ではなく田村だった〈動画〉 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
これまでこの終戦談話はずっと書記局長が出してきた*1。昨年、すでに田村智子さんが委員長になっていたけど、談話は小池晃さんの名前だった。ところが今回、田村さんが談話を出したのである。どうしたのだろうと不思議に思った。
まあ深い意味は無いんじゃないですかね。
内容を見て、さらにびっくりした。日本人兵士を初の哀悼の対象にしているのだ*2。
この点
戦後80年にあたって/2025年8月15日 日本共産党委員長 田村智子
日本軍国主義による侵略戦争と植民地支配によって犠牲となられた内外の方々に深い哀悼の意を表します。
日本兵の戦死者は6割が餓死と戦病死でした。こうした侵略戦争と植民地支配の歴史を国民共通の認識とし、未来に継承しなければなりません。
と確かに田村談話には「日本兵の戦死」について書いてはいますが、過去の
終戦記念日にあたって/日本共産党書記局長 小池晃2023.8.15
終戦記念日にあたって/日本共産党書記局長 小池晃2024.8.15
日本軍国主義による植民地支配と侵略戦争の犠牲となられた内外の方々に深い哀悼の意を表します*3。
等の談話においても「兵士」が哀悼の対象外だったわけではないでしょう。「内外の方々」の「内(日本人)*4」には「日本軍兵士も含む(というか「軍人、軍属、民間人をとわず、戦争で死亡した全ての日本人」「内地か、外地*5かをとわず、戦争で死亡した全ての日本人」*6)」と見るのが常識的な解釈でしょう。明示的に「戦没兵士が排除されてない」わけですから。
これを「戦没兵士を除く」と見るのはよほど特異な解釈でしょう。
かつ、田村談話で注目すべきはそんなことよりも「兵士の戦死者の大半は食糧不足による餓死と病死だった」という「日本軍の無策ぶり」の指摘でしょう。この点は藤原彰『餓死した英霊たち』(2001年、青木書店→2018年、ちくま学芸文庫)などが指摘していますが。
勿論「相手(米軍等)の兵器(機関銃等)による死亡」ならいいというものではないですが、「食糧不足による餓死と病死」という「日本軍の無策ぶり」は酷すぎるでしょう。そうした「酷さ」を田村談話は批判しているとみるべきである(つまり、松竹の言うような話ではない)。
また「過去の小池談話がダメ」と言うわけでは全くありませんが、田村談話は「兵士の餓死と病死」以外にも
戦後80年にあたって/2025年8月15日 日本共産党委員長 田村智子
2000万人以上の命が奪われ、植民地支配のもとで強奪・暴行・性暴力など残虐な被害と苦しみがもたらされました。侵略戦争の拡大と長期化によって、沖縄県民を巻き込んだ凄惨な地上戦、広島・長崎への原爆投下、各地の空襲など、日本国民の310万人以上の命が奪われました。
などと「戦争被害(あるいは日本の戦争加害)がかなり具体的に語られていること」、特に「強奪・暴行・性暴力」と「殺人以外の日本軍の加害に明確に触れたこと」が重要でしょう(加害責任に無関心らしい松竹は触れませんが)。
日本兵は、そのアジアの人々を殺したのだから、哀悼の対象ではなかった。だから、全国戦没者追悼式って、各政党の党首は招待されるのだけれど、一度も出席していないのである(今回も田村さんは出席していないだろう)。
そういうことで出席しないのではなく「天皇の政治利用」を理由に出席しないのだと思いますが。
ウィキペディアも
全国戦没者追悼式 - Wikipedia
日本共産党委員長は天皇が追悼の「おことば」を述べることに対し、「追悼式の在り方が天皇中心の追悼式であって国民主権、民主主義の基本に反する」として、党綱領に則り欠席を続けている。
と書いてますし。
コメント欄でも
パトラとソトラ
日本共産党が全国戦没者追悼式に参列しない理由は、政府主催の式典の内容が「国民主権にそぐわない」と考えるためとこれまでに説明しています。
式典が天皇・皇后を主賓として迎え、天皇の「おことば」を聞く形式は天皇中心であり、国民主権・民主主義の原則に反するとしています。
という同様の指摘があります。
なお「パトラとソトラ(松竹シンパらしい。毎回コメントで松竹への共感と党への憎悪を表明)」はそうした党の方針に否定的考え(天皇のお言葉があっても出席すべき)のようですが、それはひとまず置きます。問題は「パトラとソトラ」の指摘「天皇のお言葉を理由に、共産党委員長は今まで欠席してきた(全国戦没者追悼式 - Wikipediaの記述と同じですが)」は松竹の主張「兵士(侵略被害国民への加害者)は哀悼対象外だから、共産党委員長は今まで欠席してきた」を否定していると言うことです。
「パトラとソトラ」が事実上「兵士(侵略被害国民への加害者)は哀悼対象外だから、共産党委員長は今まで欠席してきた」という松竹の主張を否定しながら、松竹を非難しないのも謎なら、そんな「パトラとソトラ」に対して松竹が言い訳しないのも謎です。
松竹といい、「パトラとソトラ」といい「まともな知的能力が欠落しているのか?」と疑いたくなります。
いずれにせよ、松竹の主張「兵士(侵略被害国民への加害者)は哀悼対象外だから、共産党委員長は今まで欠席してきた」には何か根拠があるんでしょうか?。多分根拠レスでデタラメほざいてるだけでしょうが。
お前の親や兄弟は侵略の先兵となってアジアの人々を殺したのだ*7と言わんばかりの共産党の態度には、なかなかついていけないものがあったのである。
これが左翼の弱点となってきたことは、加藤典洋*8『敗戦後論*9』に詳しく書かれている。関心のある方は目を通してほしい。
俺個人は『敗戦後論』よりも『敗戦後論』を「日本人中心主義で、被害国民を無視、軽視してる」と批判する高橋哲哉*10『戦後責任論』(1999年、講談社→2005年、講談社学術文庫:以下、高橋本と呼ぶ)に共感しますね。高橋氏には他にも『靖国問題』(2005年、ちくま新書)もあるので、戦争責任論に興味がある方には一読してほしいですね。
ただし、高橋著書でも『沖縄の米軍基地:「県外移設」を考える』(2015年、集英社新書) という「沖縄基地・本土移転論」については俺は賛同しません(例えば拙記事高世仁に突っ込む(2020年8/9日分) - bogus-simotukareのブログ、沖縄基地本土移設論を改めて批判する(2024年4月29日) - bogus-simotukareのブログ参照)が、それはさておき。
高橋本も批判していますが、そもそも「日本左翼(勿論共産党を含む)が加害責任を終戦直後から重要視してきた(松竹や加藤の言い分)」というのは事実に反するでしょう。
日本左翼(勿論共産党を含む)も「日本国民」であるがゆえに、「彼らが重要視した」のはやはり「東京大空襲」「広島、長崎への原爆投下」などの「日本国民の被害」でした。
正直「加害責任」が浮上してくるのは「冷戦終了前後」でしょう。
なぜなら冷戦終了前後(1990年前後)には「もはや独裁政権など支持する必要は無い。我々はソ連に勝ったのだ」ということで「米国が独裁政権の支援に後ろ向きになった」がゆえに「フィリピンのマルコス政権(1986年崩壊)」「韓国の全斗煥政権(1988年崩壊)」「インドネシアのスハルト政権(マルコスや全に比べ、崩壊がかなり遅れるが、1998年崩壊)」などが崩壊した。
これらの独裁政権は「日本との貿易の利益」を重視して「日本は我々、戦争被害者に賠償せよ」などの「日本の戦争被害者」の声を力で抑え込んできました。
しかし独裁政権が崩壊したことで「日本の戦争被害者」の声が表に出るようになった。
日本左翼が加害責任を意識するようになったのはそれ以降(1990年以降)のこと*11でしょう。当たり前ですが「被害者の側(中韓、東南アジア国民など)」が声を上げなければ「加害者の側(日本国民)」は気づきづらい。
「慰安婦問題についての河野談話(1993年)」が出るのもそれ以降ですし。
左翼が「加害責任」をアピールするから右翼が反発したという松竹や加藤の言い草は「全くの虚偽」であり、「左翼の戦争責任論」とは関係なく、終戦直後から右翼は「加害責任を矮小化しようとしてきた」、左翼に不当な責任転嫁をするなと批判する高橋氏です。
松竹には「戦争責任を矮小化しようとする加藤のような右翼分子」ではなく「加藤を批判するまともな左翼分子である高橋氏の著書」を熟読玩味しろと言いたい。まあ、松竹のような右翼分子は高橋氏を「偏狭な左翼分子」扱いして終わりなのでしょうが。それとも高橋氏の著書を一冊も読んだことがない「怠慢」「不勉強」が松竹か?
なお、上記は松竹記事に投稿しますが掲載拒否でしょう。賛同コメントしか掲載しない松竹には心底呆れます。
【追記】
昨日の共産党田村談話に関する補足を動画でアップ | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
共産党が日本人兵士に対して哀悼の意を表してこなかったことについて、現役党員からも「そんなことはないはずだ」という反応が多くあったことだ。だから、私が間違っているという趣旨であった。
そりゃそう批判されるでしょう。松竹はそのように主張するまともな根拠を何一つ提出していませんから。
この補足とやらでもまともな根拠は何一つ提出されません。というか、そもそも現役党員から「その主張はおかしいんじゃないか?」「そんな話は聞いたことがない」「何が根拠なのか?」と批判される時点で松竹の主張は「明らかにおかしい」と見るべきでしょう。
「俺(松竹)は過去に党の8/15談話に関わった。その際、日本人兵士は哀悼対象外という前提で談話を作った」などという松竹の主張は「松竹の個人的感想」にすぎず、まともな根拠ではない。そもそも本当に松竹が「8/15談話」に関わったかどうかすらも「真偽不明」です。何せ松竹が客観的な根拠も上げずに一方的に主張してるだけですので。
まともな根拠とは
1)党の公式声明で「日本人兵士は哀悼対象外」と表明したことがある
2)党幹部の著作で「日本人兵士は哀悼対象外」と表明したことがある
3)党所属議員(国会でアレ、地方議会でアレ)の質問で「日本人兵士は哀悼対象外」と表明したことがある
4)党幹部が選挙演説、マスコミインタビュー等で「日本人兵士は哀悼対象外」と表明したことがある
などでしょう。
繰り返しますが
終戦記念日にあたって/日本共産党書記局長 小池晃2023.8.15
終戦記念日にあたって/日本共産党書記局長 小池晃2024.8.15
日本軍国主義による植民地支配と侵略戦争の犠牲となられた内外の方々に深い哀悼の意を表します。
という「内外の方々」の「内」には「日本軍兵士も含む(というか「軍人、軍属、民間人をとわず、戦争で死亡した全ての日本人」「内地か、外地かをとわず、戦争で死亡した全ての日本人」)」と見るのが常識的な解釈でしょう。明示的に「戦没兵士が排除されてない」わけですから。これを「戦没兵士を除く」と見るのはよほど特異な解釈でしょう。
なお、上記は松竹記事に投稿しますが掲載拒否でしょう。賛同コメントしか掲載しない松竹には心底呆れます。
*1:志位書記局長時代は確認することは困難ですが、確かに2023年においては志位委員長ではなく、小池書記局長が談話を出しています(終戦記念日にあたって/日本共産党書記局長 小池晃(2023.8.15)参照)。
*2:あえて「松竹の揚げ足を取れば」田村談話には「哀悼のニュアンスはある」でしょうが文章自体は「日本兵の戦死者は6割が餓死と戦病死でした」という事実の指摘でしかありません。まあ声高に「6割が餓死と戦病死とは酷い」等と批判の言葉を書くより「6割が餓死と戦病死」、「(ボーガス注:そうした酷い戦争実態についての認識を)未来に継承しなければなりません」と淡々と書く方が個人的には「哀悼の思い」を強く伝えることが出来るように思いますが。
*3:そもそもこの一文は田村談話と全く同じです。にもかかわらず、「小池談話では戦没兵士が排除され、田村談話では戦没兵士を含んでいる」と解釈する松竹は無茶苦茶なこじつけが過ぎるでしょう。従来は戦没兵士について詳しく言及しなかったが今回詳しく言及したに過ぎないでしょう。なお、詳しい言及は戦没兵士の「餓死、病死」に触れた部分だけでなく、日本の加害について殺人だけでなく「強奪・暴行・性暴力」と言及した部分もあります。
*4:「内外」を「日本人(内)と外国人(外)」と理解しましたがもしかしたら「日本領(内:この場合、日本人だけでなく「九州大学生体解剖事件の被害米兵」など日本国内で死んだ外国人を含む)」と「外国(外:この場合、外国人だけでなく、外国で死んだ日本人も含む)」なのかもしれません。どちらであれ大した問題ではないでしょうが。
*5:朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島、満洲国など日本の植民地、占領地のこと
*6:勿論「外」の方も「軍人、軍属、民間人をとわず、戦争で死亡した全ての外国人」と見るべきでしょう
*7:実際その通りでしょうに。ただしそのことと「遺族(妻子など)の兵士に対する哀悼感情」はまた別問題ですが。いかに凶悪犯罪者とはいえ、死刑囚の遺族(妻子など)が時に、「親族である死刑囚」に哀悼感情を持つのと同じ話でしょう(勿論、持たない場合もあるでしょうが)。ここで「たとえ身内でも死刑囚に哀悼感情など持つな。死刑犯罪を正当化する気か?」というのは酷な話でしょう。一方で哀悼感情を認めるからと言って「だから死刑犯罪がやむを得ない行為だったのか」と言うと全く違う。哀悼感情を持ちだして「日本兵士のした侵略や戦争犯罪」を正当化しようとする「日本ウヨの行為」はそれと同様の意味で許されないでしょう。「哀悼感情(たとえ犯罪者でも身内を哀悼したい)」と「正義の判断」を故意に混同することは許されません。正直、松竹や加藤は「哀悼感情(たとえ犯罪者でも身内を哀悼したい)」と「正義の判断」を故意に混同していないか?。また一方で「加害者(死刑囚でアレ、日本軍人でアレ)の遺族」が加害者に哀悼感情を持つのは親族としてやむを得ないとはいえ、「あるべき人間道徳」として被害者に対しても哀悼感情を持つべきでしょう。なお、高橋氏も指摘していますが、例えば「東条英機の遺族」と「東条英機と日本国民」の関係性は違います。前者が東条を哀悼するのは「親族として当然」でしょうが、後者は「当然」では全くありません。これは「ヒトラーの遺族」「ヒトラーとドイツ国民」とするともっとわかりやすいかもしれない。
*8:1948~2019年。早稲田大学名誉教授。著書『アメリカの影』(1985年、河出書房新社→2009年、講談社文芸文庫)、『日本風景論』(1990年、講談社→2000年、講談社文芸文庫)、『可能性としての戦後以後』(1999年、岩波書店→2020年、岩波現代文庫)、『戦後的思考』(1999年、講談社→2016年、講談社文芸文庫)、『日本の無思想』(1999年、平凡社新書→増訂版、2015年、平凡社ライブラリー)、『日本人の自画像』(2000年、岩波書店→2017年、岩波現代文庫)、『「天皇崩御」の図像学』(2001年、平凡社ライブラリー)、『小説の未来』(2004年、朝日新聞社→2023年、講談社文芸文庫)、『僕が批評家になったわけ』(2005年、岩波書店→2020年、岩波現代文庫)、『村上春樹は、むずかしい』(2015年、岩波新書)、『戦後入門』(2015年、ちくま新書)、『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(2017年、幻戯書房→増補版、2023年、岩波現代文庫)、『敗者の想像力』(2017年、集英社新書)、『村上春樹の世界』(2020年、講談社文芸文庫)、『9条の戦後史』(2021年、ちくま新書)等
*10:1956年生まれ。東京大学名誉教授。著書『逆光のロゴス:現代哲学のコンテクスト』(1992年、未來社)、『記憶のエチカ:戦争・哲学・アウシュビッツ』(1995年、岩波書店)、『「心」と戦争』(2003年、晶文社)、『「物語」の廃墟から:高橋哲哉対話・時評集 : 1995-2004』(2004年、影書房)、『教育と国家』(2004年、講談社現代新書)、『証言のポリティクス』(2004年、未來社)、『国家と犠牲』(2005年、NHKブックス)、『状況への発言:靖国そして教育』(2007年、青土社)、『犠牲のシステム福島・沖縄』(2012年、集英社新書)、『デリダ:脱構築と正義』(2015年、講談社学術文庫)、『日米安保と沖縄基地論争』(2021年、朝日新聞出版)、『沖縄について私たちが知っておきたいこと』(2024年、ちくまプリマー新書)等。なお、高橋氏については以前私が今までに読んだ本の紹介(高橋哲哉編) - bogus-simotukareのブログでも紹介しました。
*11:一部にそれ以前から加害責任にセンシティブな左翼もいたかもしれませんが、残念ながら左翼の多数派とは言えないでしょう。