新刊紹介:「歴史評論」2025年9月号(特集「敗戦80年と歴史研究2:『外地』と戦争」)(追記あり)

特集「敗戦80年と歴史研究2:『外地*1』と戦争」
 新刊紹介:「歴史評論」2025年8月号(副題:著書『ソ連兵へ差し出された娘たち』、映画『黒川の女たち』『ハナ子さん』『無法松の一生』、『樺太1945年夏 氷雪の門』、文化放送『大竹まこと・ゴールデンラジオ』ほか) - bogus-simotukareのブログで紹介した8月号の特集「敗戦80年と歴史研究1:人びとが向き合った戦争」の続きです。なお、10月号が「敗戦80年と歴史研究3」になる予定です。
 小生の「説明可能な範囲」で9月号の内容を紹介します。「外地」と言う特集タイトルですが、論文の多くは「朝鮮半島」を取り上げていますし、朝鮮以外を取り上げた◆日本外務省と9カ国条約(樋口真魚)もテーマは中国であり、「外地」という特集タイトルでありながら「南樺太」「南洋諸島」などが取り上げられていないことには個人的に「モヤモヤ感」があります(論文自体が悪いわけではないですが)。それとも「10月号」で「南樺太」「南洋諸島」を取り上げるのか?(現時点では10月号にどんな論文が掲載されるかは不明:【追記】新刊紹介:「歴史評論」2025年10月号 - bogus-simotukareのブログで紹介しましたが、10月号では「日ソ戦争後のサハリン島の境界変動と樺太」(中山大将*2)で南樺太について言及がありました。)。
◆近代日本の対外戦争と朝鮮植民地支配(加藤圭木*3
(内容紹介)
 朝鮮史研究者の筆者が
1)朝鮮植民地支配と
2)そうした支配と近代日本の対外戦争の関わり
朝鮮侵略のために行われた日清戦争(清国に日本の韓国支配を認めさせた)、日露戦争(ロシアに日本の韓国支配を認めさせた)、義兵闘争弾圧
・洪範図*4など朝鮮人ゲリラ部隊を叩くとして行われた間島出兵(1920年
満州事変(1931年)での朝鮮軍の越境攻撃
林銑十郎 - Wikipediaによれば、朝鮮軍参謀神田正種*5陸軍中佐が板垣征四郎*6関東軍高級参謀、石原莞爾関東軍作戦主任参謀ら「満洲事変の実行者達」と気脈を通じており、神田の御膳立てに当時の林銑十郎朝鮮軍司令官がのったという。
 関東軍満州事変同様、奉勅命令(天皇の命令)のない「無許可攻撃」であり違法行為(陸軍刑法違反)だったが結果オーライで政府が容認。林朝鮮軍司令官は英雄扱いされ、その後、陸軍教育総監、斎藤、岡田内閣陸軍大臣、首相を歴任するまでに出世。
 この時、林の越境攻撃命令に「無許可攻撃で違法行為ではないか」として抵抗した(すぐには命令に従わず3日間、第20師団を足止めした)森五六陸軍大佐(朝鮮軍配下の第20師団で参謀長)は1935年に予備役編入になっているが、当時の陸軍大臣は林であり、林に抵抗した森に対する「林の報復、意趣返し」ではないかとされる。
日中戦争、太平洋戦争での朝鮮人動員(従軍慰安婦、徴用工)
について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

【参考:満州事変での朝鮮軍の越境攻撃】

石原莞爾と板垣征四郎 満州事変を首謀した2人の計画 : 読売新聞
 計画は参謀の間で綿密に詰められ、朝鮮軍の神田正種(まさたね)参謀の協力を取りつけた。

統制無視の林銑十郎が「越境将軍」と称賛された理由 : 読売新聞
 石原莞爾関東軍作戦主任参謀らの狙いは、吉林に出動し、手薄になる奉天方面には朝鮮軍の増援を頼んで、事変の拡大をはかることだった。この局面で、(ボーガス注:石原らに加担するという)関東軍朝鮮軍両司令官が示した判断は、後世、問われることになる。
 一人は、本庄繁*7関東軍司令官、もう一人は、林銑十郎朝鮮軍司令官だ。
 第二師団主力が吉林に向かったあと、林は二十一日、神田正種参謀が関東軍への増援を主張したのを受けて、部隊を独断越境させた。
 林は世間から「越境将軍」ともてはやされたが、林の独断に対する称賛は、統帥の乱れを容認することにつながった。
 満州事変は軍部に何をもたらしたのか。
 それは、「統制無視の専断を国士の業と仰ぐ思潮」(伊藤正徳*8軍閥興亡史』(2016年、光人社NF文庫))であり、それは、終戦までのあらゆる場面で国家を引きずっていく。
 歴史家の秦郁彦*9は、「本当なら、石原(関東軍作戦主任参謀)、板垣(関東軍高級参謀、石原の上司)、本庄(関東軍司令官、板垣の上司)、林(朝鮮軍司令官、関東軍の要求に応じ越境攻撃)は陸軍刑法違反で死刑相当」と語る。だが、彼らを待っていたのは、軍法会議どころか(ボーガス注:林の斎藤、岡田内閣陸軍大臣就任、板垣の第一次近衛、平沼内閣陸軍大臣就任、石原の参謀本部作戦課長、参謀本部第一部長*10就任など)出世や勲章の山だった。


◆日本外務省と9カ国条約(樋口真魚*11
(内容紹介)
 満州事変以降の対中国戦争は「9カ国条約違反」として英米(九ヵ国条約参加国)に批判された。
 日本では「9カ国条約脱退論(樋口論文に寄れば佐藤尚*12など)」も台頭したが、対中国戦争によって、有名無実化したとは言え「英米との関係悪化」を恐れた日本はついに九ヵ国条約脱退はせず*13「対中国戦争は日本の自衛行動であり、九ヵ国条約に違反しない」と強弁し続けることになる(河野談話否定論を放言しながら、対外関係悪化を恐れて、それが出来ない自民党政権に似ている)。
 しかしそうした強弁を米英は受け入れず、ついに米国は中国からの日本軍撤退を求めて、「石油、くず鉄の対日禁輸」に踏切り、ハルノートでも「中国からの日本軍撤退」を求めるが、日本は反発。真珠湾攻撃を行うことで対米戦争が開始された。
 「九ヵ国条約違反」を理由に米国が経済制裁(くず鉄、石油禁輸)を発動し、ハルノートで日本軍撤兵を要求し、日本が対米開戦した流れを見れば、日本は「九ヵ国条約」によって日米開戦に追い込まれたとも言える。
 ハルノートについては、外務省関係者のうち、有田八郎*14吉田茂*15などは(戦後の回想であり、リアルタイムでそのように主張したかは不明だが)「受け入れてもいいのではないか?」と見る一方で、東郷茂徳*16(日米交渉当時の外相(東条内閣外相))、野村吉三郎*17(日米交渉当時の米国大使)、重光葵*18は(「軍部が呑むわけがない」ので?)このような案は受け入れられないと否定的見方を示していた(ハル・ノート - Wikipedia参照)。
 東郷外相や野村米国大使と言った外交当事者ですら(「軍部が呑むわけがない」という判断があったのだとしても)ハルノートに否定的立場を示したことで日米開戦は不可避となった。
 一方で「米国の圧力(石油禁輸等)による日本軍の中国撤退」を望む蒋介石にとっては、日本が米国相手に戦争を開始したことは「米国が日本相手に妥協する可能性がなくなった」と言う意味で「願ってもないこと」であった。
 なお、9カ国条約については

日米開戦7『「日米開戦」まで1ヵ月(3)「ハル・ノート」は「天佑」』

機密戦争日誌(上)より
十一月十七日 [月曜]
一、米野村大使より電到着
 米支那に関する経済無差別宣言を提議し来る 九国条約の再確認要求に他ならず。支那事変放棄に等し
 右宣言と共に日本は三国条約を脱退すべしと云ふ 条約を空文化すべしと云ふ
 言語同断(原文のまま。言語道断が正しい)なり

機密戦争日誌(上)より
十一月二十七日 [木曜]
二、果然米武官より来電
  米文書を以て回答す 全く絶望なりと
  曰く
   1、四原則*19の無条件承認
   2、支那仏印よりの全面撤兵
   3、国民政府*20の否認
   4、三国同盟の空文化
 米の回答全く高圧的なり、而も意図極めて明確 九国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし
 交渉は勿論決裂なり
 之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり芽出度芽出度(めでたい、めでたい)、之れ天佑とも云ふべし
 之に依り国民の腹も堅まるべし、国論もー致し易かるべし

「九国条約の再確認要求に他ならず。支那事変放棄に等し」「九国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし」でわかるように「9カ国条約」が「米国の蒋介石支援」の根拠であり「日本にとって迷惑な代物=9カ国条約」と陸軍に評価されていたことが分かります(恐らく陸軍だけでなく海軍や外務省なども同じでしょうが)。
 有名な話ですが芽出度芽出度(めでたい、めでたい)、之れ天佑からは「米国、恐れるに足りず」と米国を舐めていた陸軍が「汪兆銘政府の否定、中国と仏印からの日本軍撤退(つまりは蒋介石政権打倒の断念)など、日米和平派だって飲めるわけがない。対米開戦がこれで確定した。ハルノートは天佑(天の助け)」とむしろ喜んでいたことが分かります。
 「後世の歴史(日本敗戦)」を知る我々からすれば「陸軍は愚劣」ですが、何もそうした甘い考えは陸軍限定でも無かった。
 陸軍が特に強硬な「対米開戦派」とはいえ、それを抑制することをせず、対米戦争に突入したのが「国家トップ(国家元首)の昭和天皇」「外務省など他の政府部門」でした。
参考

九カ国条約 - Wikipedia
 1934年(昭和9年)11月に満洲国において石油専売法が公布されると、イギリス、アメリカ、オランダの三ヶ国は、「9カ国条約違反」として日本に抗議した。それに対し日本は、満洲国は独立国であるため干渉する事ができないと釈明した。
 1937年(昭和12年)7月7日に起きた、盧溝橋事件に始まる日中戦争で戦線が拡大したため、日中和平を仲介すべく1937年(昭和12年)11月にブリュッセルで九カ国条約参加国(アメリカ、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国)による会議(ブリュッセル国際会議)が開催された。しかし日本側は、この会議への出席を拒否した。

ハル・ノート - Wikipedia参照
【当事者・関係者の回想・評価】
【日本外務省関係者】
東郷茂徳外相
 日米交渉の経過について、「日本の提出した要求の過大なることは勿論であるが、米国の態度が四月の所謂日米諒解案の頃とは変調を見せ、六月末の提案を固執して些の譲歩をも示さず、殊に七月末資金凍結以来は極めて非妥協的で、只時日の遷延を図つて居るとしか思へなかつたことである。米のこの態度は交渉の決裂延いては戦争を辞せざるの決意なくしては執れないとの印象を強く受けたのである」「これでは松岡君(ボーガス注:第二次近衛内閣で外相)が交渉不成立を見越してその打ち切りを主張した理由がわかる。むしろ内閣で我が要求条件を緩和しないでただ交渉成立を楽観していた理由が不可解だ」と回想している。
◆野村吉三郎米国大使
 ルーズベルト大統領とハル国務長官について、「米国の信条とする対外政策の諸原則に膠着し、一歩もその埒外に出ることなくgive and takeは少しもなかった」と回想している。
重光葵
 ハル・ノートについて、「試案なりと銘打ってあっても談判の最後的階段に於て提出したものであるから、甚だ非妥協的なものである。日本側が公然述べて居る大東亜共栄圏の確立、支那事変の完遂とは大凡縁の遠いものである。日本の提案と此米国の試案とを調和せしむることは絶望とは云はずとも至難なことである」と手記に書き残している。
有田八郎元外相
ハル・ノートには最恵国待遇及び通商障壁低減の措置に基く日米通商条約の締結、資金凍結令の廃止、円弗為替の安定、原料物資の無差別待遇原則の支持等平和日本の経済発展に有利に利用し得べきものが含まれていたのだから、なお慎重に考え直して見るべきであった」として、ハル・ノートを受諾してもよかったのではないか、と戦後に述べている。
吉田茂
 ハル・ノートについて、「これは『試案』であり、『日米交渉の基礎案』であるといっている。実際の肚の中はともかく外交文書の上では決して『最後通牒』ではなかった筈だ。私はあらためて東郷外務大臣を訪ね、執拗にハル・ノートの右の趣旨をいって、注意を喚起した」「私は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいったものだ」と回想している。
【英国、中国関係者】
チャーチル・英国首相
 英国は対独戦に苦戦しており、戦局打開の策として米国の参戦を切望していた。チャーチル回顧録には、日米開戦の知らせを受け、最終的勝利を確信し狂喜する様が描かれている。
◆蔣介石・中華民国総統
 持久戦となった日中戦争において、蔣介石の悲願は、「米国の圧力(石油禁輸等)による日本軍の中国撤退」であった。蔣介石は米国が対日妥協を行わないよう、対米政治工作を進めていたが、日米開戦を受け、日記に「(ボーガス注:盧溝橋事件(1937年)による日中全面戦争から数えて)抗戦四年半以来の最大の効果であり、また唯一の目的であった」と記した。
汪兆銘・南京国民政府主席
 ハル・ノートを受諾すれば汪兆銘政権は否認されることになるが、汪自身は「もし自分の存在が全面和平に妨害となるならば、何時にても引き下がる」と述べていた。汪は日米交渉を楽観視していたが、畑俊六*21支那派遣軍総司令官から日米開戦を聞かされときは「頗る沈重なる面持」であったという。


◆朝鮮牛の軍需化(蔣允杰*22
(内容紹介)
 「朝鮮牛の軍需化=朝鮮皮革株式会社による軍需品(牛皮を原料とする軍靴)製造」が論じられているが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

生命科学の雑記帳11
 朝鮮牛は農耕用の役牛として重要であったため、輸入禁止することはできませんでした。その代わりに、輸出港で検疫を行い、日本の港でも検疫を行うという二重検疫制度が設けられ釜山検疫所が設立されました。これは、現在、家畜や野生サルの輸入などで行われている対策とまったく同じです。

凄まじい収奪と悲劇的なアイロニー、朝鮮牛の皮革が残した教訓2009.11.13
 朝鮮王朝の建立以後、儒教的原理による農本主義政策が強く、軍事・交通・そして農耕以外の目的の畜牛飼育は不振であり未発達であった。しかし1876年の朝鮮に対する武力的威圧による「日韓修好条規(乙未保護条約)」以後、日本商人たちの朝鮮特産の米・木綿・牛皮などに対する、凄まじい収奪的な貿易が始まった。
 このうち朝鮮牛については、広島青丘文庫の滝尾英二氏*23が「朝鮮牛と日本の皮革産業・考」という文献で、赤裸々にその収奪状況を記載している。それによると、乙未保護条約から5年後の1881年の1年間に元山港から大阪・西成郡渡辺村に積み込まれた牛皮の総計は84万枚におよんでいた。1882年、大阪・渡辺村に朝鮮皮革株式会社が設立されたが、「朝鮮の牛皮を本邦に輸入すれば必ず利益あり」といって、多くの日本商人が買いあさるので、朝鮮政府の官吏は「日本商人へ牛皮等を販売するのを厳禁」した。これをめぐって日本領事館は朝鮮政府に抗議している。20世紀初頭の大阪「西浜部落」は皮革産業で繁栄を極めたという。朝鮮から輸入されるのは牛皮としてでなく、「生牛」として移入され、のちに屠場で解体された牛の源皮が加工され皮革製品となる場合もあった。
 朝鮮は、1910年以後、日本の植民地となり、畜産業もその効率的な収奪のため近代的な振興策が講じられるようになったが、1917~42年に年間移出する朝鮮牛は「朝鮮総督府統計年報」に記載された頭数だけでも3万頭から8万頭におよんでいるという。
 朝鮮の皮革産業で最大の規模を誇った朝鮮皮革株式会社は、操業以来一貫して皮革軍需産業の生産を担ってきた。帝国陸軍の軍靴製造はドイツに学んでいるが、製造原料の大半は朝鮮牛に求められていたのである。
 朝鮮牛の移入においてウイルス病である「牛疫」という伝染病の流行を防ぐことが、最も緊要な課題として提起された。この「牛疫」根絶に成功したのは日本の獣医学者たちの研究成果であり、これは「天然痘」につぐ感染症の根絶となる世界的なすぐれた功績であると評価されている。それについては、東京大学・山内一也*24名誉教授の『史上最大の伝染病・牛疫』(2009年、岩波書店)なる著書があり、日本の獣医学者(ボーガス注:蠣崎千晴、中村稕治)によって開発された「蠣崎ワクチン」と「中村ワクチン」によって根絶されたという。

朝鮮が作った米で日本の消費支える…帝国のフードシステムから見た経済史【レビュー】 : 文化 : ハンギョレ新聞2024.7.26
 朝鮮から日本に持ち出されたのは米だけではなかった。牛も毎年5~6万頭が日本に移出された。1923年に農家100世帯当たりの畜牛頭数は朝鮮が56頭、日本が24頭であり、畜牛総数は朝鮮が161万頭、日本が143万頭だった。日本牛の屠殺率が出産率を大きく上回り、牛の市場構造が慢性的な供給不足に陥り、朝鮮牛がそれを埋めることになった。


◆戦地への朝鮮女性動員にみる軍事主義と植民地主義(宋連玉*25
(内容紹介)
 徴用工、慰安婦と言った「戦地への朝鮮女性動員」について「軍事主義と植民地主義」の観点から論じられているが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆歴史の眼『韓国人「靖国合祀」被害者のたたかい』(野木香里)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

靖国神社に戦没者合祀 賠償求めた韓国籍遺族の敗訴確定 最高裁 | NHK | 韓国20205.1.17
 靖国神社戦没者が合祀されるのは政教分離を定めた憲法に違反すると韓国籍の遺族が国を訴えた裁判で、最高裁判所は、賠償を求めることができる期間が過ぎているとして上告を退け、原告の敗訴が確定しました。一方、裁判官1人は反対意見を述べました。
 最高裁判所第2小法廷の岡村和美*26裁判長は「原告らの家族の合祀は昭和34年までに行われ、賠償を求めることができる20年の期間が過ぎている」として、上告を退け、原告の敗訴が確定しました。
 4人の裁判官のうち、三浦守*27裁判官が反対意見を述べ「国による合祀への協力は、政教分離制度の中心に位置する問題だ。合祀を望まない遺族にとって、亡くなった近親者を思い出すという精神的な営みに影響を及ぼす可能性がある。(ボーガス注:高裁に差し戻して)高裁でさらに審理を尽くすべきだ」としました。
 三浦守裁判官は、高等裁判所で審理をやり直すべきだとする反対意見を述べ「平穏な精神生活が妨げられたという原告の主張には相応の理由がある。政教分離の規定に違反するかどうかは合祀の内容や情報提供の経緯、一般の人の評価などを踏まえて総合的に判断すべきだが、高裁では審理が尽くされていない」としました。
 一方、裁判官出身の尾島明*28裁判官は、判決を補足する意見を述べ、原告の損害について「宗教的な思いの深さで異なるが、命や身体に対する重大な侵害と比べると相当程度軽いと言わざるをえない。そうすると賠償を求めることができる20年の期間が過ぎていることが著しく正義・公平の理念に反するとまでは認められない」としました。

韓国人の靖国合祀 遺族側敗訴確定「あきれて言葉が出ない」-Chosun online 朝鮮日報2025.1.17
 原告のパク・ナムスン氏は判決後、記者団に対し、「あきれて言葉が出ない」と涙ぐみながら話した。
 パク氏は「父親が亡くなったと教えてくれなかっただけでなく、靖国に合祀したことはまったく知らされなかった」とし「合祀するのであれば、遺族に知らせ同意を得るのが当然ではないか」と怒りをにじませた。
 原告側の弁護人は、判事の多数は民法除斥期間を適用して上告を棄却したとし、権利行使をできなくする非常に不当な結論と批判した。
 そのうえで、「遺族が合祀を了解していないことに加え、戦前の靖国神社の役割などを踏まえれば、家族を追悼する平穏な精神生活の維持が妨害されたとする遺族の主張には理由がある」と指摘した三浦守裁判官の意見を紹介した。
 市民団体「民族問題研究所」のキム・ヨンファ対外協力室長は、「日本政府が韓国政府に靖国神社に関連する資料を渡したのが1990年代後半と2000年に入ってからだったため、(ボーガス注:遺族はそれ以前に靖国合祀を知ることが出来ず、権利行使の可能性がないため)除斥期間の適用は話にならない」と指摘した。

(社説)靖国合祀判決 「時の壁」に逃げた司法:朝日新聞2025.1.28
 (ボーガス注:除斥期間を持ち出すことで国(厚生省)の靖国への「戦没者名簿提供」が政教分離に反するかどうかと言う)問題の本質から目をそらした判決といわざるをえない。
 合祀への遺族の心情は一様ではなく、とくに今回のように日本の戦争に旧植民地から動員された場合、遺族が否定的な感情をもつことは想像にかたくない。
 注目したいのは、三浦守裁判官の反対意見だ。国の行為が憲法に違反した疑いについて、高裁では検討が尽くされていないと述べた。そのうえで、遺族が合祀を知ったのは近年になってからといった状況をふまえ、除斥期間が経過したかは明らかではないとも指摘。高裁で審理をやり直すよう求めた。
 最高裁は昨年、旧優生保護法下の強制不妊をめぐる裁判で、国の免責は著しく正義に反するとして除斥期間を適用しなかった。国のモラルが疑われたのは、今回も同じだ。
 昨年には幹部を含む自衛官靖国神社への集団参拝も表面化した。国家と宗教の関係をチェックする司法のまなざしが、強く求められている。

<社説>靖国合祀判決 「政教一体」疑い晴れぬ:東京新聞デジタル2025.2.6
 靖国神社への戦没者合祀訴訟の判決で、最高裁は、国が戦没者名簿を神社側に提供した行為が政教分離を定める憲法に違反するかどうか判断しなかった。
 ただ、裁判官4人のうち三浦守裁判官は高裁での審理やり直しを主張する反対意見を述べた。違憲の疑いが拭えない以上、審理を尽くすべきでなかったか。
 終戦直後は占領軍が合祀祭を中止させていたが、占領終了後に国が戦没者の名簿提供を開始。その後、約30年にわたって名簿を作成し、神社側に提供していた。
 「靖国神社合祀事務協力要綱」という文書が残るように名簿提供が特別な協力だったことは明らかだ。憲法が定める政教分離に抵触すると疑うのが自然だろう。
 遺族として「侵略した側との合祀は侮辱的。静謐な環境で追悼する宗教的人格権を侵害された」との怒りや訴えは理解できる。
 しかし、最高裁第2小法廷は今回、損害の発生から20年で賠償請求権が消滅する除斥期間が過ぎたとして上告を棄却した。
 「時の壁」によって、違憲性の判断を糊塗したと受け取られても仕方があるまい。
 三浦裁判官は反対意見で、国が靖国神社と協議を重ねて一体で合祀を行い、政教分離に違反した可能性を指摘。遺族が合祀を認識できなかった年月を除斥期間に算入するのは不合理と疑問を呈した。うなずける点が多い指摘だ。
 政教分離に関する過去の判例は、国と宗教との関わりをある程度認めた上で、宗教に対する助長や圧迫などの影響が著しい場合などに限って違憲とする限定的な解釈の上に立つ。
 判例を国に有利なように恣意的に適用し、政教分離を空文化させているのが実態ではないか。最高裁憲法判断から逃避せず、「憲法の番人」としての役割を全うすべきである。

 検察出身者は「行政寄りの意見」が多いところ、三浦判事(検察出身)の意見が「俺的に意外」です。
 なお、朝日社説やキム・ヨンファン氏が批判するように「ハンセン病国賠訴訟」では「除斥期間の適用は公平性に反する」として適用しなかったことを考えれば、今回も日本政府が韓国政府に靖国神社に関連する資料を渡したのが1990年代後半と2000年に入ってからだったため、(ボーガス注:遺族はそれ以前に靖国合祀を知ることが出来ず、権利行使の可能性がないため)「適用しない」のが当然ではないか。
【追記】
 その後、以下の訴訟が新たに起こされました。

「孫の世代」に渡った靖国合祀取消訴訟…「痛ましい歴史、私たちの代で終わらせたい」 : 日本•国際 : ハンギョレ新聞2025.9.20
 靖国神社に無断で合祀された朝鮮人犠牲者の孫世代の遺族が19日、日本の裁判所に「第3次無断合祀取消訴訟」を起こした。
 靖国に合祀された朝鮮人の孫の世代が合祀取消訴訟に乗り出したのは今回が初めて。

靖国神社に“無断で合祀され精神的苦痛”韓国籍の遺族が提訴 | NHK | 韓国2025.9.19
 靖国神社に合祀されている戦没者韓国籍の遺族が、「無断で合祀され、精神的な苦痛を受けた」と主張して、国と靖国神社に賠償や合祀の取り消しなどを求める訴えを起こしました。
 東京都千代田区にある靖国神社には、かつて日本の統治下にあった朝鮮半島出身の軍人や軍属の戦没者もまつられています。
 孫にあたる韓国籍の遺族6人は、19日に東京地方裁判所に訴えを起こしました。
 6人は「国が戦没者の名簿を靖国神社に提供したため、無断で家族を合祀されて精神的な苦痛を受けた。政教分離を定めた憲法にも違反している」と主張し、国に賠償を求めるとともに、靖国神社には合祀の取り消しなども求めています。
 同様の裁判で最高裁判所は、ことし1月、賠償を求めることができる期間が過ぎているとして上告を退け、原告の敗訴が確定しました。
 一方で、三浦守裁判官は「遺族の主張を前提にすれば、国による名簿の提供は、政教分離の規定に違反するとみる余地がある」とする反対意見を述べました。
 訴えについて、厚生労働省は「訴状を受け取っておらず、コメントを差し控えたい」としています。


◆書評:古谷紋子*29『日本古代の身分秩序と馬・牛車*30』(評者・京樂真帆子*31
(内容紹介)
 「日本古代の身分秩序」と「馬・牛車」の関係性(例えば、どのような身分の人間が馬や牛車を使えたのかなど)を論じており「交通手段としての馬・牛車」について論じているわけではないと紹介されている。


◆書評:黄霄龍*32『日本中世の地方社会と仏教寺院*33』(評者・外岡慎一朗*34
(内容紹介)
 収録論文は

◆室町期越前国における時衆*35道場の展開と中央権力
◆権威と競争:中世地方社会の真言宗*36寺院の場合
◆中世から近世初頭における本末関係*37の変容:若狭国顕密寺院の天台*38真言
◆中世後期越前・加賀国境地域における真言・時衆勢力

等であり、「中世北陸での時宗天台宗真言宗などの活動」を描くことで「北陸(越前国(今の福井県嶺北地域(福井市鯖江市、越前市など)、敦賀市など)、若狭国(今の福井県から越前国を除いた箇所)、加賀国(今の石川県南部)など)=浄土真宗王国」と言う見方(現在、真宗が強い地域になったことは事実だが、昔からそうだったわけではない)への批判を行っているとのこと。


◆書評:加藤祐介*39『皇室財政の研究*40』(評者:伏見岳人*41

◆皇室財産課税問題の展開:1890〜1920年
→皇室財産は「皇室の私的財産」と見なし課税するかどうか議論があったが、1910年の皇室財産令によって課税対象外であることが確定した。しかし、「課税対象外」であることで、「御料地(皇室が保有、経営する森林や牧場など)を有する自治体」に税収が入ってこないこと(民間企業なら入ってくるのに!)への対応策として、「御料地のある自治体」への下賜金付与が慣行化される。
◆御料農地における争議: 北海道上川郡神楽村の事例
御用邸地をめぐる諸主体:神奈川県足柄下郡田原町の事例
 1901年に小田原城址内部に作られた小田原御用邸は、1923年に関東大震災で被害を受けてからは使われていなかった。その為、小田原町(当時、現在は小田原市)は御用邸部分の払い下げを宮内省に行い、認められた。この払い下げ過程において、小田原藩旧藩主(稲葉子爵家)の存在感は希薄であり、大正時代には既に「小田原藩・旧藩主家」の存在感は小田原において低下していたと論じられる。
 なお、払い下げ後、小田原城址は小田原城址公園(公園内には小田原城歴史見聞館、小田原市立図書館、小田原市郷土文化館などが所在)として整備されている。

などの論文が収録され、皇室財政という観点から「皇室財産」を巡る施策等が論じられているとのこと。
【参考:『皇室財産の研究』の書評】

『皇室財政の研究 もう一つの近代日本政治史』加藤祐介著 : 読売新聞2023.10.23
 1945年10月、GHQは皇室が所有する財産を公開した。現金、有価証券、土地などを合わせるとその額は三井や三菱、住友など財閥を大きく上回っていた。その事実を初めて知った国民は、昭和天皇マッカーサーが一緒に写った写真が新聞に掲載されたのに匹敵する衝撃を受けたという。皇室はなぜそれほどの財産を持つことになったのだろうか。
 国庫支出の皇室費が増加すれば議会の皇室への介入につながるという危機感から、皇室の財政を安定させるために日清戦争の賠償金の一部を皇室に割り当て、株式投資を行い、さらに御料地となった農地や山林の経営が行われていった。
 一方で大正デモクラシーの状況や関東大震災、昭和恐慌後の農村の困窮などに対し、国民統合のため皇室から国民に支出される資金*42も増加した。
 宮内省は増加する支出に対応し、資産価値が安定している国債や地方債を購入していくが、これは皇室の「国家本位」の立場というPRに使われた。一方で御料地の経営をめぐる小作争議や皇室が株式を持つ企業の労働争議宮内省も巻き込まれるようになる。
 皇室財産の拡大と共に、それが皇室の公的性格と矛盾するという議論が起き、北一輝は皇室が財産を自主的に放棄するよう主張し、昭和天皇も御料地を政府に委託する意見を述べる。結局、終戦後に皇室財産に財産税が賦課され大部分は国庫に納められ、皇室財政は予算に計上される皇室費で賄われそれ以外の収入は私的収入として課税対象となり、戦前はあいまいだった皇室の公的領域と私的領域は整理されていく。

【参考:神楽村小作争議

神楽村御料地争議(かぐらむらごりょうちそうぎ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
 1920年(大正9)から23年にかけて争われた北海道最初の組織的小作争議。神楽村(現在の上川(かみかわ)郡東神楽町旭川市の一部)の御料地約1万ヘクタールは1894年(明治27)以後、御料局から借地人(小作人)に貸し下げられたが、開墾が進むにつれて、借地人は借地を又小作させ、高率の小作料を徴収して地主化した。1919年、宮内次官が来村し、実態調査を行ったことを契機に、又小作の無権利状態が明らかになり、翌年、又小作人は、(1)未開の中央高台地の土地貸下げ、(2)小作料軽減を関係官庁(宮内省など)と地主(借地人)に嘆願した。争議は長期化し、1922年2月、日本農民総同盟の支援を受けて、北海道最初の農民大会が開催された。1923年、又小作人は耕作者組合の組織化、上京請願行動を続けた結果、同年10月、未貸付地の貸下げ、小作料減額で妥協が成立した。この争議を契機に北海道の農民運動は活発化した。

東神楽町の歴史 - 東神楽町
 神楽村の御料地はもともと宮内省から借地人に貸し下げられていたものでしたが、農村が成長するにつれて、土地をさらに小作人に貸し付ける借地人が現れ始めました。大正8年(1919年)に宮内次官が来村すると、この小作問題が浮き上がり、土地に関する耕作者の権利は何もないことが明らかにされました。以来、農民たちの不満が募り、これが借地権の獲得をめぐっての大争議に発展。4年にわたって再三協議した結果、大正12年(1923年)に両者妥協のうえでこの大争議も一応の終末を迎えました。


◆野間万里子*43『近代日本牛肉食史*44』(評者・光田達矢*45
(内容紹介)
 評者の批評は多岐にわたっているが「本書が明治以降1920年代まで」を扱い「1930年代以降」を「今後の研究課題」として触れていないことを本書の限界として批判している。
 1930年代以降について著者は「日中戦争長期化により、牛肉消費における軍需が多くなる」としているが「そうした1930年代以降の軍需増加」の影響を無視して『近代日本牛肉食史を論じることは出来ない』と評者は批判している。
 なお、評者は

日本の獣肉食の歴史 - Wikipedia
 1904年(明治37年)から始まった日露戦争のため、戦場食糧として牛肉の大和煮缶詰や乾燥牛肉が考案され、軍隊で牛肉の味を覚えた庶民が増えた。日本内地では戦争のため牛肉が不足し、豚肉が脚光を浴びることになり、1883年(明治16年)には年間消費量1人4グラムであったところ、1926年(大正15年)には500グラム以上にまでなった。

等の指摘があるように、「日中戦争以前も、日中戦争以降ほどでは無いとは言え、牛肉消費における軍需の影響は、著者が論じる以上に大きいのではないか」とも批判している。
 一方で戦前から牛肉輸入があったこと(但し、戦前は日本領だった台湾や朝鮮からの輸入が多いという傾向がある)、戦前から「和牛を高級牛肉として宣伝する戦略」が日本の畜産業界にあったことが本書で指摘されていることを重要な指摘として評価している。
【参考:大和煮

大和煮 - Wikipedia
 砂糖、醤油、生姜などで濃く味付けをした煮物。明治10年代に鶏肉(鴨肉との説もある)を使って作られたのが最初であると言われる。
 その後、鶏肉以外の肉も使われるようになり、1915年(大正4年)には明治屋が牛肉大和煮の缶詰を発売。1923年(大正12年)には日本橋三越で行われたバーゲンセールで目玉商品とされたという記録が残っている。牛肉大和煮は日本陸軍では牛缶と呼ばれ、携帯口糧として将兵らに人気のあるメニューであり、日清、日露戦争時には大和煮缶詰の材料にするため牛が足りなくなった事もある。
 鶏、牛のほか、商業捕鯨が盛んであった時代には鯨肉も使われていた。また他に羊肉、馬肉、鹿肉も使われており、珍しいものとしては熊、トドの肉も使われることがある。
 濃い味付けで肉のクセを隠すことができるため、クセの強い肉であっても素材として使うことができる。ただし、程度問題であり、特にクセの強い肉、例えばトド肉大和煮は好みが分かれる。


◆岩谷將*46『盧溝橋事件から日中戦争*47』(評者:家近亮子*48
(内容紹介)
 評者に寄れば、蒋介石が日本との和平に消極的だった理由として、勿論
1)日本側の要求が蒋介石に受け入れられるような代物ではない、日本に極めて有利なものであることを指摘した上で
岩屋氏が
2)日本人一般がイメージしているほど蒋介石の権限は絶対的なものではなく、うかつに和平交渉をやれば「敵(日本)に対して軟弱だ」と非難され、ライバルである「汪兆銘」等に取って代わられる恐れがあったから(一方で戦時体制であれば、「敵を利してはいけない」「今は非常時(有事)だ」としてトップ批判は自重され、蒋介石に有利に働く)だと、主張していることを評価している。
 話が脱線するが、2)についていえば、ウクライナ戦争についても同じ事(うかつに和平交渉をやれば「敵に対して軟弱だ」と非難され、ライバルに取って代わられる恐れがあるが、戦時体制であれば、「敵(プーチンロシア)を利してはいけない」「今は非常時(有事)だ」としてトップ批判は自重され、ゼレンスキーに有利に働く→ゼレンスキーが和平に消極的)が言えるのではないか(勿論「プーチン・ロシア側の要求がゼレンスキーに受け入れられるような代物ではないロシアに極めて有利なものであること」は指摘しておきます)。
 勿論これは、岩谷氏が「日中和平が成立しなかったのは蒋介石が悪い*49。日本は悪くない」と恐らく主張していないのと同様に、俺も「ウクライナ戦争が終戦(停戦)しないのはゼレンスキーが悪い。プーチンロシアは悪くない」と言ってるわけではないことをお断りしておきます。
 以前「kojitakenなるバカ野郎」に「れいわ新選組伊勢崎賢治」「鈴木宗男佐藤優(鈴木の子分)」と同じレベルの「ロシア贔屓(ロシアシンパ、親ロシア)」扱いされたこと(不当な誹謗中傷であり、俺は今でもkojitakenが「ロシアシンパ扱いしたことは間違っていた」と俺に対し明確に謝罪しない限り、奴*50を許す気はないですが)で俺もこの辺り、かなり注意するようになっています。

参考

「解放求めた声に感謝」5年前に中国当局が拘束、北大・岩谷將教授が樫山賞を受賞 - 産経ニュース2025.1.15
 「第19回樫山純三賞学術書賞が、北海道大教授の岩谷將(のぶ)氏(48)の「盧溝橋事件から日中戦争へ」(東京大学出版会)に決まった。樫山純三賞は、総合アパレルメーカー「オンワードホールディングス」の創業者、故・樫山純三氏が昭和52年に設立した公益財団法人樫山奨学財団(東京都中央区)が主催。樫山氏の遺志を継ぎ、平成18年度から「アジアとの共生」に資する国際的な視野に立った図書(学術書賞・一般書賞の2部門)を表彰している。
 岩谷氏の受賞作は、当初偶発的な発砲事件(ボーガス注:で終わる)と思われた昭和12年7月の盧溝橋事件が局地的紛争で終わらず、日中間の公式和平交渉の終わりを告げる第1次近衛声明へとつながった約半年間の経過を、日中双方の新史料などに基づいて克明に分析した。
 岩谷氏は盧溝橋事件が全面的な日中戦争へと拡大していった経緯について、「双方とも解決を望んでいながら、(ボーガス注:日中両国がお互いに「国内のタカ派の存在を考えたらうかつに妥協できない」「まず日本(中国)から妥協すべきだ」等として)徐々に事態が深刻化していき、明瞭な見通しもないまま泥沼の長期戦へと進んでいった」と解説。「小さな紛争が大規模な戦争へと発展していく過程では、必ずしも当事者が意図したようには進まない。それは現在のウクライナパレスチナの状況を見ても思い当たる。本書が現代に生きるわれわれにとって何らかの教訓や示唆になればと思っている」と話した。

*1:戦前日本が支配していた植民地のこと。具体的には台湾、朝鮮、南樺太(南サハリン)、南洋諸島(現在の北マリアナ諸島パラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦)、満州国(現在の中国東北部)など(外地 - Wikipedia外地(ガイチ)とは? 意味や使い方 - コトバンク参照)

*2:北海道大学准教授。著書『亜寒帯植民地樺太の移民社会形成』(2014年、京都大学学術出版会)、『サハリン残留日本人と戦後日本:樺太住民の境界地域史』(2019年、国際書院)、『歴史総合パートナーズ⑩:国境は誰のためにある?:境界地域サハリン・樺太』(2019年、清水書院)。個人サイト中山大将の研究紹介―T.NAKAYAMA's Research

*3:一橋大学教授。著書『植民地期朝鮮の地域変容:日本の大陸進出と咸鏡北道』(2017年、吉川弘文館)、『紙に描いた「日の丸」:足下から見る朝鮮支配』(2021年、岩波書店)等

*4:洪については例えば洪範図将軍の胸像撤去、歴史学者ら尹政権を批判「極右ユーチューバー水準の焚書坑儒」 : 政治•社会 : ハンギョレ新聞(2023.8.29)、抗日の英雄か共産主義者か 韓国の洪範図、政権交代が評価を翻弄 :中日新聞Web(2023.9.6)、韓国陸軍士官学校の「独立運動家・洪範図の胸像」撤去問題が終結…存置を決定 : 政治•社会 : ハンギョレ新聞(2025.5.28)参照

*5:1890~1983年。太平洋戦争には、第6師団長として出征、ブーゲンビル島の戦いに従軍。1945年4月、第17軍司令官となり、終戦を迎えた。 1945年9月8日、第8艦隊司令官の鮫島具重海軍中将とともにオーストラリア軍との降伏文書に調印した。1947年3月に復員したが、BC級戦犯として1948年11月、禁固14年の判決を受け、1952年8月に仮釈放された。1965年10月、ソロモン群島方面よりの帰還兵で構成される戦友会である全国第17軍ソロモン会(後に全国ソロモン会に改称)初代会長に就任。戦没者の慰霊事業と遺骨収集に尽力した(神田正種 - Wikipedia参照)

*6:1885~1948年。関東軍高級参謀として満州事変を実行。その後、関東軍参謀長、第一次近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍司令官(シンガポール)等を歴任。戦後、満州事変の首謀者として死刑判決。後に靖国に合祀

*7:1876~1945年。満州事変当時の関東軍司令官。226事件当時、侍従武官長だったが、女婿の山口一太郎が事件に参加したこともあり、226事件に参加した将校をかばったことで昭和天皇の不興を買い、事件後、予備役編入(但し、軍の要職とは言えないものの、予備役編入後も傷兵保護院総裁(後に軍事保護院総裁に改称)等の役職に就いている)。戦後、満州事変に加担したことを理由に戦犯指定されたことを苦にして自決(本庄繁 - Wikipedia

*8:1889~1962年。戦前、時事新報編集局長、中部日本新聞社編集局長等を、戦後、共同通信社初代理事長、日本新聞協会初代理事長、時事新報社社長等を歴任。著書『連合艦隊の栄光:太平洋海戦史』(2014年、光人社NF文庫)等

*9:千葉大学教授、日本大学教授を歴任。2014年に慰安婦研究(勿論、吉見義明中央大学名誉教授と違い日本軍の責任を軽くする方向での右翼偏向研究)で産経「正論大賞」を受章したことで悪名高い右翼学者。著書『昭和天皇・五つの決断』(1994年、文春文庫)、『盧溝橋事件の研究』(1996年、東京大学出版会)、『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)、『統帥権と帝国陸海軍の時代』(2006年、平凡社新書)、『南京事件(増補版)』(2007年、中公新書)、『慰安婦問題の決算』(2016年、PHP研究所)、『明と暗のノモンハン戦史』(2023年、講談社学術文庫) 等

*10:但しその後、関東軍参謀副長に左遷される。

*11:成蹊大学准教授。著書『国際連盟と日本外交:集団安全保障の「再発見」』(2021年、東京大学出版会

*12:1882~1971年。戦前、ポーランド大使、ベルギー大使、フランス大使、林内閣外相、イタリア大使、ソ連大使等を歴任

*13:一方で国際連盟からは脱退しており、「九ヵ国条約>国際連盟」と言う当時の日本の価値判断が分かる。

*14:1884~1965年。広田、第一次近衛、平沼、米内内閣で外相

*15:1878~1967年。戦前、天津総領事、奉天総領事、スウェーデン公使、外務次官、イタリア大使、英国大使等を歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣外相を経て首相

*16:1882~1950年。東条、鈴木内閣で外相。戦後、禁固20年で服役中に病死。後に靖国に合祀

*17:1877~1964年。海軍出身。戦前、海軍省教育局長、軍令部次長、呉鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官、阿部内閣外相、米国大使など歴任(軍人出身だが、駐在武官経験があり、外交通として外相や米国大使に登用された)

*18:1887~1957年。戦前、東条、小磯内閣で外相。戦後、戦犯として禁固7年の判決。出所後、公職追放が解除され政界に復帰。改進党総裁、日本民主党副総裁、鳩山内閣外相を歴任

*19:(1)すべての国家の領土と主権を尊重すること、(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること、(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること、(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持することの「4つの原則」のこと(例えばインターネット特別展 公文書に見る日米交渉参照)

*20:汪兆銘政権のこと

*21:1879~1962年。陸軍教育総監、侍従武官長、阿部、米内内閣陸軍大臣支那派遣軍総司令官等を歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*22:学習院大学助教。著書『帝国日本と朝鮮牛:畜産資源の確保と植民地』(2023年、晃洋書房

*23:著書『朝鮮ハンセン病史:日本植民地下の小鹿島』(2001年、未来社

*24:著書『狂牛病と人間』(2002年、岩波ブックレット)、『プリオン病の謎に迫る』(2002年、NHKブックス)、『ウイルスと人間』(2005年、岩波科学ライブラリー)、『ウイルスと地球生命』(2012年、岩波科学ライブラリー)、『近代医学の先駆者:ハンターとジェンナー』(2015年、岩波現代全書)、『はしかの脅威と驚異』(2017年、岩波科学ライブラリー)、『インフルエンザウイルスを発見した日本人』(2023年、岩波科学ライブラリー) 等

*25:青山学院大学名誉教授。著書『植民地「公娼制」に帝国の性政治をみる: 釜山から上海まで』(2023年、有志舎)

*26:1956年生まれ。検察官出身。モルガン・スタンレー証券(現:三菱UFJモルガン・スタンレー証券)法務部長、東京地検検事、法務省刑事局国際課長(法務省初の女性課長)、東京高検検事、最高検検事、法務省人権擁護局長(法務省初の女性局長)、消費者庁長官等を経て最高裁判事岡村和美 - Wikipedia参照)

*27:1956年生まれ。検察官出身。那覇地検検事正、法務省矯正局長、最高検監察指導部長、公判部長、札幌高検検事長大阪高検検事長等を経て最高裁判事。2022年6月17日に福島第一原子力発電所事故に関する訴訟(「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟)で国の賠償責任を認めない最高裁判決が下されたが、この判決に対する反対意見(賠償を認める意見)をつけた(三浦守 - Wikipedia参照)

*28:1958年生まれ。最高裁上席調査官、静岡地裁所長、最高裁首席調査官、大阪高裁長官等を経て最高裁判事尾島明 - Wikipedia参照)

*29:駒澤大学非常勤講師

*30:2024年、塙書房

*31:茨城大学助教授、滋賀県立大学准教授を経て滋賀県立大学教授。著書『平安京都市社会史の研究』(2008年、塙書房)、『英雄になった母親戦士:ベトナム戦争と戦後顕彰』(2014年、有志舎)、『牛車で行こう!:平安貴族と乗り物文化』(2017年、吉川弘文館)、『映画と歴史学』(2024年、塙書房

*32:公立小松大学准教授

*33:2023年、吉川弘文館

*34:敦賀短期大学教授、敦賀市立博物館館長、奈良大学教授を歴任。著書『武家権力と使節遵行』(2015年、同成社)、『大谷吉継』(2016年、戎光祥出版)、『「関ケ原」を読む:戦国武将の手紙』(2018年、同成社)等

*35:時宗信者の意味。時宗は一遍が開祖で一遍宗ともいう。

*36:空海が開祖

*37:「本山と末寺の関係」の意味

*38:最澄が開祖

*39:一橋大学講師

*40:2023年、名古屋大学出版会

*41:東北大学教授。著書『近代日本の予算政治1900~1914:桂太郎の政治指導と政党内閣の確立過程』(2013年、東京大学出版会

*42:いわゆ下賜金のこと

*43:大阪樟蔭女子大学准教授

*44:2024年、吉川弘文館

*45:慶應義塾大学准教授

*46:北海道大学教授。著書『民主と独裁の相克:中国国民党の党治による民主化の蹉跌』(2024年、 千倉書房)

*47:2024年、東京大学出版会

*48:敬愛大学教授。著書『蔣介石と南京国民政府』(2002年、慶應義塾大学出版会)、『蔣介石の外交戦略と日中戦争』(2012年、岩波書店)、『蒋介石』、『東アジア現代史』(以上、2025年、ちくま新書)等

*49:とはいえ、そのように誤解され、「岩谷=戦前日本美化の右翼学者」と評価され、中国側の「身柄拘束」につながった可能性はあるかもしれません(勿論その程度のことが身柄拘束の正当化理由になるとは思わないことは指摘しておきます)。

*50:まあ奴は俺に批判されても無視する「クズ」、宮武嶺など「類友」に「褒められさえすれば」それでいいという「クズ」でしょうが