松代大本営と『スターリン秘史』と終末期の戦争指導 - 紙屋研究所
戦後80年ということで、テレビの特集番組や新聞各紙では、戦争の悲惨さ*1の報道とともに、戦争指導についての検証も多かった。
つまり「負けると分かっていたのになぜ引き返せなかったのか」「もう負けが確定していたのにどうしてずるずると結論を引き延ばしたのか」などである。
少なくとも主観的には「サイパン陥落→本土空襲」などで敗戦が誰の目にも明らかになるまでは昭和天皇ら日本政府首脳は米国相手に「勝つ気」でいました。当たり前ですが「米国に負けると思って、真珠湾攻撃して開戦する人間」はいません。
最近、マスコミが報じる「総力戦研究所の敗戦予想」は「一つの予想(その予想には俺は賛同できない。間違ってると思う)」としか評価されてなかった。
そうした「アメリカ相手にも勝てる、勝たねばならぬ」と言う思いを強化したのが【1】ドイツの快進撃、【2】ハルノートでしょう。
【1】によって「ドイツはフランスを降伏させた。いずれ英国も降伏するだろう(実際は降伏しませんでしたが)。そうなれば米国は日独伊三国と単独で戦わねばならなくなる。米国で厭戦論が台頭し、日露戦争(ロシア国内で厭戦論が台頭)で日本が有利な状況で講和したようなことが十分可能だ」と都合よく考えた。
【2】ですがハルノートは「蒋介石政権を唯一の中国の正統政府と認めること(汪兆銘政府の否定)」「蒋介石打倒を諦め、日本軍が中国から撤退すること」「仏印からの日本軍撤退」を要求していた。「敗戦予測」を受け入れれば、ハルノートの要求を受け入れざるを得ないが「そんな要求は受け入れられない」が当時の日本政府の判断でした。その結果「勝利の可能性はある」と言う考えに傾斜していく。
そうしたことを「総力戦研究所の敗戦予想」を報じたマスコミはどこまで報じたのか。
【1】、【2】によって日本政府指導部が戦争に踏み切ったことに触れないで、「総力戦研究所の敗戦予想」だけ報じたのでは当時の日本が「ただのバカ」にしか見えません。「総力戦研究所の敗戦予想」だけ報じるのでは報道姿勢として不適切でしょう。
それはともかく「アメリカ相手にも勝てる、勝たねばならぬ」という日本政府首脳の楽観的考えは緒戦の「真珠湾攻撃勝利」等で強化されます。「ミッドウェー海戦」敗戦までは「明らかな日本の敗戦」はなく、一応「互角の勝負」だったと言えるのではないか(大国米国は例えるなら「横綱」、日本は平幕であり、互角の勝負と言っても、平幕が必死に頑張ったに過ぎず、やはり横綱の方に分がありましたが)。
ある時点(例:遅くともサイパン陥落による本土空襲)から「負けが確実なのに引き延ばした」のは昭和天皇が「一撃講和論(一度でいいから日本が米国に勝利し、状況をよくしてから講和する)」と「条件付き降伏(降伏条件は天皇制(国体)の維持)」に固執したからです。
戦前の国家体制においては「天皇の力」は強く、彼が「一撃講和論」「条件付き降伏」に固執する限り、それらがいかに非現実的であろうとも降伏しようがない。だからこそ、天皇は長野県松代町(現在は市町村合併で長野市松代町)に大本営を作って、皇居からそこに移ることすら画策した。
ちなみに
松代大本営跡 - Wikipedia
大日向悦夫*2は「沖縄戦は勝ち負けの戦いではなく、松代大本営ができるのを待つための時間稼ぎの戦いだった」と評価している。
と言う指摘もあります。
ソ連参戦により「ソ連を仲介とした条件付き降伏」の見込みがなくなり、昭和天皇ら日本政府指導部は「無条件降伏」の方向に動いて行きます。
誰もが当事者意識がない
こうした事態を助長したのは「それだけが理由ではない」としても「統帥権の独立」でしょう。戦争は勿論、昭和天皇と軍部だけで出来る話ではないですが、「統帥権の独立」を口実に軍部が強硬論を唱え、それに「渋々」であれ、「積極的」であれ、内閣が従うことが多かった。その結果「統帥権独立なんだから軍部と昭和天皇以外に戦争阻止のために何が出来たのか」と「軍部と天皇以外」は言い訳したくなる。とはいえ軍部や昭和天皇にもどれほど当事者意識があったかは疑問ですが。
天皇は天皇で「軍部がまともな報告をしないから(俺は悪くない)」、軍部(と言うか軍中央)は軍部で「関東軍など現地軍がまともな報告をしないから(俺は悪くない)」と思っていた疑いがあります。
国家全体、あるいは巨大組織全体が、まちがった方向に進んでいく*3ときに、「引き返せない」とあきらめるのか、そこから引き返せるようにどういう仕組みや働きかけを行うのか、ということだ、
「統帥権独立(今後採用されることがあり得ないシステム)」という特殊条件があるので「戦前日本の経験(日中戦争、太平洋戦争の敗戦)」は「国や組織が間違った方向に進まないようにするにはどうするか」と言う意味ではどれほど役立つか疑問です。なお、一般論として言えば、国における「三権分立」「会計検査院」など、企業における「社外取締役」「監査役」などの牽制システム、チェックシステムの機能強化ということになるでしょう。
但し、「チェックシステムを運営するのは神ではなく、結局、人間」「最悪、なくそうとすればチェックシステムをなくすことも出来る」ので、結局は「一人一人の人間が所属組織が誤った判断をしないように、自らの知的能力を向上させること」しかないのではないか。
それなりのチェックシステムがあるとみられていた米国ですら「トランプ一味」によって国が目茶苦茶になってますからね(チェックシステムがなかったらもっと無茶苦茶になってるでしょうが、チェックシステムは無法を完全に阻止することはできなかった)。チェックシステムは勿論重要ですが、それに過剰な期待はすべきではない気がします。「自らの知的能力の向上」に関し、戦前日本について言えば「御真影」「教育勅語」などによる「天皇崇拝」の悪影響が大きかったのではないか。
【追記】
上記は紙屋記事に投稿しましたが、俺の「暫定連立内閣なんか現実的じゃない」などの紙屋批判コメントには星を付けなかった紙屋が「紙屋批判コメントでない俺のコメント」には星を付けることには「紙屋は、すがすがしいまでのクズだな」と改めて呆れました。
【参考:佐々木忠綱】
ムグラシ
村民たちを満州に開拓団として送りこみ、結果としてほぼ全員を死なせる結果になった村長*4が戦後に自責の念に耐えきれずに自殺をしたことについて考えてしまうんだけど、同じ村長という立場で全く違う行動をした人がいたことを知った。
同じ長野県の大下條村*5の村長の佐々木忠綱という人で、日本が国策として満州にどんどん開拓団を送ろうとしていた時に、彼は満州の開拓団を視察して、「自分の村からは人を送らない」と決断したんだよ。戦時中に国策を拒否するのすごすぎる。
現地を自分の目で見ることで、実情が「開拓」などではなく、「開拓団」が所有する耕地は彼らが開拓したものではなく、満人から既墾地を奪ったものだと理解し、また、現地の日本人の態度が横暴なのを見て、そこが「希望に満ちた新天地」などではないと判断したんだよ。
強硬な態度に出ると村長の座を追われて、代わりに村長になったものが村民を満州に送るだろうことを予想して、「村長の座に残りつつ、国の政策に反して村人は送らない」という難しいことをやってのけた。すごすぎる
信念に生きた男~満州移民に抵抗した村長・佐々木忠綱~
かつて多くの犠牲を生んだ満州移民。満州国(現在の中国東北部)へ渡った人は全国各地からおよそ27万人。長野県からは全国最大の3万7千人、なかでも多くの人々を送り出したのが飯田下伊那地域だった。
その飯田下伊那地域で村人を満州へ送り出すことに抵抗した村長がいた。大下條村(現在の阿南町)村長・佐々木忠綱。
そのきっかけは下伊那郡町村会主催の満州視察旅行に参加し、自分の目で満州を見たことだった。
流山で、ある二人の村長の判断の分岐点を考えた。その2 - 上田恵子(ウエダケイコ) | 選挙ドットコム
一人は、大下条村(現阿南町)の佐々木忠綱村長、
もう一人は、河野村(現豊丘町)の胡桃沢盛村長。
佐々木村長については、大日方悦夫「満州分村移民を拒否した村長〜佐々木忠綱の生き方と信念〜」2018年、信濃毎日新聞社、胡桃沢村長については、手塚孝典*6「幻の村〜衰史・満蒙開拓」2021年、早稲田新書に詳しい。
佐々木村長は、満州への分村移民を拒否する。
一方で、胡桃沢村長は、1943年に分村移民をする。その後、河野村から送り出した94人中73人がソ連の猛攻の中、集団自決する。この事実を知った胡桃沢村長は、自責の念に駆られ、1946年に自死している。
吉野信次氏曰く、佐々木村長が分村移民をのらりくらりと延ばし、結局、分村移民を拒否できた背景には、「本心で語り、行動できる仲間」がいたからではないか。特に、共に伊那自由大学で学び、議論し、苦労を共にした仲間「五人組」が助役、収入役、書記、村会議員にいて、佐々木村長をしっかりと支えた。
その一方で、胡桃沢村長の関連資料からは、そのような仲間の存在が描かれていないという。
佐々木村長は、1938年5月の下伊那町村会の「満州農移民業地視察団」に参加し、自分の目で、満州開拓を確認している。その際に、視察団の報告書に反して、旧満人の耕地を追い出して日本人が入植していること、ハルピン市内で日本人が満人に対して威張りすぎている様子などを見て、「本来の開拓ではない」ことに不安をもった。そして、「自分の眼で見たもの」を信じて行動したという。
*1:こういう場合、東京大空襲など「被害の悲惨さ」ばかりで「南京事件」「731部隊(細菌兵器の人体実験)」「バターン死の行進」など「加害の悲惨さ」をまるで描かないという批判は以前からされるところです。
*2:元長野県立高校校長。地域史研究者。著書『満洲分村移民を拒否した村長:佐々木忠綱の生き方』(2018年、信毎選書)、『1945.8.13 長野空襲の真実』(共著、2022年、信濃毎日新聞社)。佐々木忠綱については例えば信念に生きた男~満州移民に抵抗した村長佐々木忠綱~ - FNSドキュメンタリー大賞参照
*3:まあ紙屋のことなので恐らくは、共産党執行部への当てこすりという意味合いもあるのでしょうが。
*4:拙記事新刊紹介:「前衛」2025年9月号 - bogus-simotukareのブログで紹介した◆テレビ「戦争の非人間性の実像に迫る」(沢木啓三)が言及した長野県河野村(現・豊丘村)の村長「胡桃澤盛(くるみざわ・もり)」のこと。胡桃澤については例えば第32回 決壊 ~祖父が見た満州の夢~ | 民教協スペシャル | 民教協の番組 | 公益財団法人 民間放送教育協会、村民73人の集団自決、自責の念で自殺した村長…「その孫だからこそ」満蒙開拓団の悲劇語り継ぐ 劇作家・胡桃沢伸さん:東京新聞デジタル(2024.1.24)参照
*5:1957年7月1日に和合村、旦開村(あさげむら)と合併して阿南町
*6:信越放送ディレクターとして、胡桃澤を取り上げた第32回 決壊 ~祖父が見た満州の夢~ | 民教協スペシャル | 民教協の番組 | 公益財団法人 民間放送教育協会等を制作