新刊紹介:「歴史評論」2025年10月号(特集「敗戦80年と歴史研究3:終わらない戦争」)

特集「敗戦80年と歴史研究3:終わらない戦争
 新刊紹介:「歴史評論」2025年9月号 - bogus-simotukareのブログで紹介した9月号の特集「敗戦80年と歴史研究2:『外地*1』と戦争」」の続きです。特集「敗戦80年と歴史研究」の完結編です。
 小生の「説明可能な範囲」で10月号の内容を紹介します。
【まず前振り】

【10月号の巻頭言】
 人びとにとっての戦争は、(ボーガス注:日本政府がポツダム宣言を受諾して、玉音放送が流れた)一九四五年八月を過ぎても決して終わることはありませんでした。たとえば、本特集でも取り上げる「敗戦」直後の食糧問題*2や戦争孤児たちの存在*3、あるいは被爆地広島における住居の問題*4などは、人びとにとっての戦争がいまだ終わっていないことを意味します。さらに、アメリカによる軍政が続いた沖縄では、「銃剣とブルドーザー」による強権的な土地接収によって、人びとは長らく苦しい生活を強いられること*5になります。
 また、日本の「敗戦」は、国家間の境界のみならず、人びとの間にも新たな境界をつくりだすことになりました。それまで「日本人」とされていた旧植民地出身者は、「外国人」とされ*6、その影響は、サハリン島に残留せざるを得ない朝鮮人を生みだすこと*7にもなります。

ということで今回は「戦後の『終わらない戦争』」に触れています。
 なお、話が脱線しますが、何も「終わらない戦争」は本特集の諸論文が問題にした、取り上げたことばかりではありません。
 いくつか思いつきで上げておきましょう。こうした「終わらない戦争」についてマスコミ(特にテレビ局)があまり触れないことが残念ですが。
【1】北方領土問題
 「日ソ戦争で奪われた北方領土を取り返さない限り、戦争は終わってない」と考えれば「終わらない戦争の一部=北方領土問題」ですね。
 問題は「返還の見込みが全くないこと」ですが。俺個人は「ほぼほぼ」返還を諦めてます。
 そもそも北方領土の場合、竹島のような無人島ではないので、「今住んでるロシア人をどうするか?」という難問がある。
 1)日本政府が今まで通り、ロシア人の島への居住を認め、日本国籍も与え*8、ロシア系日本人として引き取る
 2)ロシア人にはロシア本土に移住してもらう
であれ、果たして「日本国内で合意形成」「ロシア側と合意形成」できるかどうか。
 1)は「反対する日本国民が多そう」ですよねえ。何せ「日本人ファースト」「排外主義」参政党が議席増やす国ですから。
 2)も「日本側がロシア人のロシア本土移住費用及び移住後の生活費用を大幅に持つ」位しないと「何で本土に移住しないといけないのか」というロシア人島民の反発は不可避(島民の反発で島が返ってこない)でしょうし、一方で「ロシア人のロシア本土移住費用及び移住後の生活費用を大幅に持つ」のは「反対する日本国民が多そう」ですよねえ。何せ「日本人ファースト」「排外主義」参政党が議席増やす国ですから。結局「島の返還」は諦めるしかないだろうと俺は達観しています。
【2】戦後補償問題。
 ◆大日本帝国から日本国へ(加藤聖文)は「戦前は日本人だった朝鮮人、台湾人兵士、軍属が戦後は外国人扱いされ、戦後補償の対象外になった」と言う形で戦後補償問題に若干触れていますが、「東京大空襲での戦後補償要求」など「外国人が関わらない戦後補償問題」には触れていません。
 例えば以下の記事が最近の「戦後補償問題」に触れた記事の一例です。

80年たっても終わらない 戦争の被害と差別続く「戦後」=栗原俊雄 | 毎日新聞2025.8.15
 広島、長崎に原爆が投下され、長く続いた戦争が終わった1945年8月15日*9から80年。でも日本にとって本当に「あの戦争」は終わったのでしょうか? 栗原俊雄*10記者は、空襲などの一般国民の犠牲への補償は今も十分に行われないままで、「広義の戦争は終わっていない」と指摘します。「戦後」を「新たな戦前」にしないためにも、これからもずっと、国民を置き去りにした「戦後」のあり方を報じ続ける。
 長く戦後補償の問題を追い続けてきた専門記者、栗原記者の決意です。

戦後80年 空襲被害者らが都内で集会 “救済法案 年内成立を” | NHK | 戦後80年2025.8.5
 先の大戦で、空襲の被害に遭った人やその支援者が都内で集会を開き、戦後80年のことし、空襲被害者を救済するための法案が年内に成立するよう求めていくことを確認しました。
 戦時中、空襲や地上戦に巻き込まれた民間の戦争被害者は、軍人や軍属とは異なり、国による補償の対象になっておらず、被害者たちが中心となって救済を求める活動を続けています。
 空襲被害者などでつくる「全国空襲被害者連絡協議会」は都内で集会を開き、3歳の時に東京大空襲に遭い、孤児となった吉田由美子共同代表(84)が「私たちにもう年齢的なゆとりはなく、政治がよい結果を出してくれる日が来ると信じて諦めずに待っている」と訴えました。

【3】加藤論文『大日本帝国から日本国へ』(外国人扱いされた『朝鮮、台湾出身の旧日本軍人、軍属』への日本政府の冷たい態度など)や中山論文『日ソ戦争後のサハリン島の境界変動と樺太』(樺太残留朝鮮人問題)の問題意識とも重なりますが、「フィリピン残留日系人2世」問題。

フィリピン残留2世の日本国籍取得を支援 石破首相が表明 - 日本経済新聞2025.4.29
 石破茂*11首相は29日、太平洋戦争前や戦中にフィリピンで生まれた残留日系人2世の3人と面会した。無国籍状態から日本国籍の取得を支援する考えを示した。「一日も早く国籍取得や一時帰国が実現するよう取り組んでいきたい」と述べた。
 残留日系人2世は戦争終結までにフィリピンに移住した日本人男性と現地の女性との間で生まれ、戦争による生き別れなどで現地に取り残された。現在およそ50人が日本国籍を希望しながら回復できず、無国籍のまま暮らしている。
 首相は3月の参院予算委員会で、フィリピンに残留する日系人2世が親族を捜すために訪日する費用を政府の予算で負担することに意欲を示した。訪日時の面会について「会うことで日本の思いが伝わるのであれば、ぜひ実現したい」と話した。

フィリピン残留2世、親族と対面 「ずっと会いたかった」 - 日本経済新聞2025.8.6
 太平洋戦争後にフィリピンに残された日系2世の竹井ホセさん(82)が6日、日本政府の国費で来日し、父親の親族と初めて対面を果たした。竹井さんは「ずっと会いたいと思っていた。命ある限り関係を続けたい」と喜んだ。
 竹井さんは4月にマニラで石破茂首相と面会していた。無国籍状態となっているフィリピン残留日系人への政府による日本国籍回復支援が、戦後80年の節目にようやく本格化した。

【4】戦争ストレス(戦争PTSD)の問題

きょうの潮流 2025年9月21日(日)
 「終戦」になっても終わらない戦争があります。戦場での過酷な体験、被害や加害の行為が原因で心的外傷後ストレス障害(PTSD)などを患った兵士たちの「心の傷」です。
 戦後80年の今年、厚労省の施設「しょうけい*12館」(戦傷病者史料館)で心の傷をテーマにした展示が行われています。

戦争PTSDの調査を/田村貴昭氏「実態未解明」/衆院厚労委2025.4.2
 日本共産党田村貴昭議員は3月26日の衆院厚生労働委員会で、戦争の過酷な体験で心に傷を負い、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症した兵士の実相解明のため、戦傷病認定されていない兵士への調査と家族への聞き取り調査を行うよう求めました。

戦争の過酷な体験 兵士たちの「心の傷」 国が調査 「しょうけい館」で展示始まる | NHK | 戦後80年2025.7.23
 「心の傷を負った兵士」と題された展示が始まったのは、戦傷病者の歴史を伝える国の史料館で、東京 千代田区にある「しょうけい館」です。
 国は昨年度から、初めて兵士やその家族の「心の傷」に焦点を当て、患者や研究者の資料のほか、戦傷病者の家族の体験記などの調査を始めました。
◆繰り返される戦争と兵士たちの心の傷の被害
 第2次世界大戦のあとも世界各地で戦争が相次ぐ中、兵士たちの心の傷の被害は繰り返されています。
 戦争による兵士の心の傷について、注目が集まったひとつのきっかけとなったのがベトナム戦争です。
 アメリカで1960年代以降、ベトナム戦争の帰還兵に心の傷による症状が見られ、1988年にアメリカの研究者らが帰還した兵士たちの状況について大規模に調べた報告書をまとめています。
 埼玉大学の細渕富夫名誉教授は「海外でも戦争による心の傷は繰り返されており、過去の問題ではなく、現在進行形の問題として考える必要がある。戦後80年がたち、国による調査は遅すぎたと思うが、今からでも家族への詳細な聞き取りなど、さらに調査を行うべきだ」と話していました。

ウクライナ国民の8割超が「ストレスと緊張」、PTSD患者は4倍に 「戦後も問題続く」 - 産経ニュース2025.2.19
 ウクライナメンタルヘルス政策に関わる政府関係者と専門家が来日し、同国のPTSD心的外傷後ストレス障害)の新規患者数は侵略前の4倍に上り、「戦争が終わっても患者はさらに増えるだろう」と実態を語った。
 ウクライナ政府のメンタルヘルスケアのプログラムの開発や実施を担う「メンタルヘルス調整センター」の「オクサナ・ズビトネワ」センター長は、「多くの人が戦争は長く続かないと思っていたが、先の見えない状況は人間に耐えがたい」と戦争の長期化が一因と指摘。戦後も患者は増えるとみられ、「数十年に渡り取り組まねばならない」と述べた。


大日本帝国から日本国へ(加藤聖文*13
(内容紹介)
 「大日本帝国から日本国へ」の変化について触れています。
 そうした変化は、もちろん『天皇主権から国民主権天皇象徴へ(大日本帝国憲法から日本国憲法へ)』もあるが、加藤論文では主として
【1】:海外植民地(台湾、朝鮮、南樺太南洋諸島(現在のパラオなど)など)の喪失
【2】:【1】の結果、『海外出身者(台湾、朝鮮など出身者)の外国人扱い』で生じた問題

【ア】台湾、朝鮮出身兵士、軍属が戦後、BC級戦犯として処罰される一方で、軍人恩給や戦後補償の対象外になる
【イ】台湾、朝鮮出身出身者が外国人扱いで生活保護等の対象外*14となる
などが論じられています。
【参考:朝鮮人、台湾人兵士】

「無念にもBC級戦犯になった朝鮮人、日本はなぜ補償しないのか」 : 日本•国際 : ハンギョレ新聞2025.4.2
 「無念にも『BC級戦犯』になった朝鮮人たちに、日本はなぜ補償しないのですか」
 1日、ハンギョレの取材を受けた朴来洪(パク・ネホン)会長はこう述べた。朴会長は、第2次世界大戦が終わった後、朝鮮人でありながらも「日本軍のBC級戦犯」として処罰を受けた故・朴昌浩(パク・チャンホ)さんの息子だ。同進会はこの日、東京の衆議院で「『同進会』70年の歩みを聞き、外国籍BC級戦犯者問題の早期立法解決を願う集い」を開催し、「日本の軍属として戦争に動員され、『戦犯』となった朝鮮の青年たちは、死刑となったり服役したりした」として、「日本政府はなぜこの問題に目をつぶるのか」と訴えた。
 立憲民主党泉健太*15前代表はこの日の集いに参加し、「国家(日本)の指示と命令に従って戦犯になった方々に補償して謝罪するのは当然のこと」だと述べた。
 同進会は、日本政府に援助と補償を要求したが、「1965年の韓日協定で賠償はすべて終わった」という回答しか返ってこなかった。1991年11月には日本政府を相手取り、「戦犯」となったことに対して謝罪と賠償を求める訴訟を起こした。しかし、7年がかりの裁判は最高裁で「朝鮮人戦犯のための法律がない」という趣旨で棄却された。
 日本では、岸田文雄*16前首相(2021年)と石破茂首相(2024年)宛に、韓国では、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領(2022年)宛にそれぞれ嘆願書を提出したが、応答はなかった。
 この日、結成70年を迎えた同進会は「被害者救済のための法を制定し、当事者と遺族を救済することで、『日本は人権後進国』だという汚名を、遅ればせながらもそそぐことを望む」と要求した。

植民地が見えていますか? 歴史学者が語り合う戦争加害と戦後80年:朝日新聞(2025.4.1)から一部引用
 歴史社会学者の内海愛子さん*17は、忘れられた存在だった朝鮮人BC級戦犯*18が、「日本人」として戦争責任を肩代わりさせられた問題に光をあて、研究を続けてきた。戦後80年を迎え、私たち日本人に戦争加害や植民地の問題は見えているのか。内海さんと歴史学者成田龍一さん*19が語り合った。
◆成田
 内海さんが1980年代に書かれた著書「朝鮮人BC級戦犯の記録」は、「朝鮮人が日本の戦争責任を問われて戦争犯罪人になっている」という書き出しから始まります。1910年の日韓併合後、1945年8月に大日本帝国は敗北し、朝鮮半島をはじめ植民地は解放される。東京裁判で戦争指導者が裁かれて総力戦が総括されます。しかし、祖国は解放されたのに、「日本人」として戦犯に問われ、日本政府によって補償の対象から外された朝鮮人たちは救われないままでいる。そのことを問う内海さんの仕事は、戦争指導者が戦争を引き起こし、多くの民衆の命が奪われたという単純な形での総力戦の総括への異議申し立てだと受け止めています。

日本軍の命令に従い「戦犯」になった朝鮮半島出身者 今も補償の対象から外されたまま 遺族ら国会内で集会:東京新聞デジタル(森本智之)2025.4.2
 朝鮮半島出身の元BC級戦犯への救済を求めてきた「同進会」が1日、発足から70年を迎え、国会内で集会を開いた。戦時中、「日本人」として日本軍の命令で任務に当たり敗戦後に戦犯として裁かれたが、服役後は「外国人」であることを理由に日本政府は補償の対象外としてきた。不条理極まりないが、救済への議論は進んでいるとは言えない。今年は戦後80年、日韓国交正常化60年の節目でもあり、集会では「何とか前に進めたい」と声が上がった。

同じ旧日本軍人だったのに…戦後補償に大きな「内外格差」 朝鮮半島出身者には一時金のみ、でいいの?:東京新聞デジタル2025.4.27
 東京新聞は戦後80年を機に、太平洋戦争の旧日本軍の軍人・軍属に対する日韓の公的補償を整理した。日本人は遺族年金などを毎年受け取っている一方、植民地支配下にあった韓国人は一時金の支給にとどまっている。日韓両政府によると、軍人の戦没者遺族では、日本人は2025年度時点で毎年205万円が最低保障されるが、在日を除く韓国人には一時金2000万ウォン(200万円)が支払われたのみ。同じ旧日本軍人でも大きな格差がある。
 日本政府は補償対象を日本国籍者に限定している。韓国人への補償については、1965(昭和40)年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決した」と確認。その後、本国に戻った韓国人には、徴用工を含め補償金を直接支払っていない。
(以下は有料記事です)

【戦後80年】「日本に見捨てられた気がした」台湾の97歳特攻隊員が証言 「戦争っていうものはね…人間の地獄だよ」台湾有事に警鐘|FNNプライムオンライン(フジテレビ「イット!」2025年6月26日放送より)
 台湾で、80年前に日本兵として特攻艇「震洋」の訓練を受けた97歳の男性が取材に応じ、日本のため戦った誇りと補償がなく見捨てられた苦悩を語った。
 日本の統治下にあった台湾では、20万人を超える人達が「日本人」として戦地に赴いた。
 今も日本を頻繁に訪れるという台湾出身の元特攻隊員の男性が、「かつての祖国」日本への複雑な思いを語った。
 台湾・台北市で取材班が同行させてもらったのは、日本兵を研究している陳柏棕さん(41歳)。
 陳金村さん(97歳)、台湾生まれの元日本兵だ。
 金村さんたちが行っていたのは「特攻」の訓練だった。爆弾を積んだまま、敵艦に体当たり攻撃をする特攻艇「震洋」には、太平洋を震撼させる、という意味が込められていた。
 戦争末期、アメリカ軍の上陸に備えて台湾にも10カ所に震洋の部隊が置かれ、金村さんも整備兵として、その1つに配属された。
 結局、アメリカ軍は台湾に上陸せず、部隊は出撃しないまま終戦を迎えた。
 戦後、台湾にやってきたのは、中国本土からきた国民党政権だ。金村さんは元日本兵ということを隠して生きてきた。
 撤退した日本政府からは、戦没者ら一部に弔慰金が払われただけで、ほとんどの元日本兵に戦後補償はなかった。
 金村さんは今でも数カ月に一度、日本を訪れるという親日家だ。しかし、「かつての祖国」への思いは複雑だ。
◆元日本兵・陳金村さん
日本に見捨てられたみたいな気がする。同じ日本海軍よ。同じ日本の震洋特攻隊よ。みんな日本人は恩給をもらっている。台湾はどうして(ボーガス注:恩給がもらえないの)?。慰問の手紙一枚もないの。僕らね、本当に日本に力を尽くした。日本人として、日本に背いたことはなかった。』
日本兵を研究する陳柏棕さん
『日本の人たちに元日本兵への理解を期待する以前に、まず私たち台湾人自身、若い世代が理解していないんです。』
 台湾では、民主化が進むまで日本統治時代を学ぶ機会が少なく、戦争の記憶が引き継がれてこなかった。柏棕さん自身、身内に元日本兵がいることを大人になるまで知らなかったという。
 いわゆる台湾有事が懸念される現状に、金村さんは警鐘を鳴らす。
◆元日本兵・陳金村さん
『(ボーガス注:台湾の戦後世代は)戦争がどんなものか分からないんだよ。だから今、台湾の政治もそうなってきてるんです。(ボーガス注:有事になったら中国と)戦え、戦えと。戦争っていうものはね…人間の地獄だよ。』
 戦争に翻弄された97歳、金村さんは戦争の記憶が次の世代につながることを願っている。

“日本兵”になった台湾先住民たちの戦争 餓死相次ぐ南方の激戦地の記憶【news23】 | TBS NEWS DIG (1ページ)2025.8.16
 かつて、日本の植民地だった台湾。そこに暮らす先住民たちは、戦時中、“日本兵”として最前線に送られました。あまり語られてこなかった、壮絶な戦場での記憶です。
 戦時中、日本の植民地だった台湾。日本軍は、台湾の先住民たちを志願兵として部隊に組み入れ、戦場へと送り込みました。
 林義賢さん(72)の父親、源治さんは1941年、旧日本軍に入隊。インドネシアモロタイ島などで戦いました。
 先住民たちはかつて「高砂族(たかさごぞく)」と呼ばれていました。日本は、着る服や生活習慣も異なる彼らを、日本式の学校に通わせ、同化を図ろうとしました。しかし、先住民族である高砂族には明確な差別が存在したと当時の手記には記されています。
◆手記
「日本人一等、台湾人二等、高砂族三等国民だと、きわめて不平等であった」
 手記にはまた、「日本兵になれば尊敬され、差別から抜け出せる」という思いが書かれていました。
 先住民たちが送り込まれたのは、12万人以上の日本兵が戦死した、東部ニューギニアなどの南方の激戦地。日本軍は、元々森の中で裸足で暮らし、身体能力に優れていた先住民たちの部隊を結成しました。
 日本軍は、先住民たちに敵陣に忍び寄って襲いかかる「遊撃戦」を担わせました。
 しかし、アメリカなど連合軍との戦力の差は歴然。ジャングルの厳しい自然環境に加えて、食糧の補給路も断たれ、病に倒れたり、餓死したりする兵士が相次ぎました。戦地には4000人を超える先住民が送られ、約7割の兵士が犠牲になったとされています。
 そして日本は戦争に負け、日本による台湾の統治は終わりました。
 日本軍の一員として最前線に送られた台湾の先住民たちは、戦争が終わると「もう日本人ではない」とされ、軍人恩給などほとんどの戦後補償を受けられませんでした。
 源治さんは、こんな言葉を残しています。
◆元日本兵 林源治さん
「もっと日本のために尽くそうと思ったけど、何分学問も乏しいし、ロボット同様だから何の働きもできず、かえって日本に迷惑をかけたような気持ちで、残念に思っております。だから今さら何も言うことは私はないのです」
◆林源治さんの息子 義賢さん
「(父は)亡くなる1年前、病院で『早くドアを閉めて。アメリカ軍に銃で殺される』と訴えた。私は『戦争はお父さんのせいではありません』と慰めました。今は戦争を想像することはできないが、戦争は起きてほしくない。あまりに残酷ですから」
藤森祥平*20キャスター:
 こうして台湾の山奥に行くと、今も日本語を流暢に話す方々がいらっしゃって、胸を痛めながら教えてくれました。
 高砂族日本兵として戦地に送られ、多くの命が失われてしまったことはしっかり受け止めなければいけません。
 一方で、いろいろな方の取材を進めていくと、「日本統治下で日本語を話せるようになってから、部族間のコミュニケーションが進み、先住民族の間の争いが無くなっていった」というプラスの面*21について、積極的にお話ししてくださる方もいらっしゃいました。
 受け止め方が様々あることは、我々もしっかり押さえなければいなけないと思いました。
 いま台湾有事という共通の危機感を持っている中で、こうした事実を学んで、感じて、伝え続けることで、「二度と過ちを繰り返してはいけない」という思いを共にしていきたい、深めていきたいと感じました。
上村彩子*22キャスター:
 日本兵として台湾の人々が戦ったことは知っていましたが、先住民族が危険度の高い任務に従事させられていたことは全く知りませんでした。戦中もそして戦後も、日本に振り回されて、とても長く苦しみが続いたと思うと本当に胸が痛くなります。戦後80年経ってもなお、知られていない事実がまだまだあるなと思いました。

 こうした報道(朝鮮人、台湾人兵士の戦後補償問題)を朝日新聞東京新聞、TBS(News23)、フジテレビ(イット!)がすることを評価しますが、一方で「なぜ他の多くのメディアは無関心なのか?」感は否定できません。
 モロタイ島の高砂族兵士については以下も紹介しておきます。

モロタイ島の戦い - Wikipedia参照
 終戦時に660名の日本兵が投降したが、一部の日本兵は日本の降伏を知らず、(グアム島横井庄一*23、フィリピン・ルバング島小野田寛郎*24のように)なおもジャングル内で生き延びた。例えば1956年には9人の元日本兵が発見され、日本に帰国した。1974年末には高砂義勇隊の中村輝夫(高砂族名はスニオン、台湾人名は李光輝)が発見され、台湾に帰国している。

中村輝夫 (軍人) - Wikipedia参照
 1919~1979年。台湾原住民アミ族出身の元高砂義勇隊員。
 1974年、12月18日、インドネシア軍が中村の身柄を確保。ジャカルタの在インドネシア日本国大使館に中村発見の第一報が入ったのは12月25日で、12月28日には防衛駐在官の湯野正雄一等陸佐(当時)が、空軍機でモロタイ島へ向かい、中村と面会した。
 中村(高砂族名はスニオン、台湾人名は李光輝)の扱いをめぐって日台間で水面下のやり取りが行われたが、「故郷に帰りたい」という中村の希望から、中村は中華民国(台湾)政府発行の帰国証明書を受け取り、1975年1月8日、中華航空機で台湾に帰郷した。
 帰郷後、中村は日本政府や台湾省政府などから合わせて100万新台湾ドル(当時のレートで800万円)あまりの見舞金を受け取り、アミ族一の大金持ちとなった。しかし、このことが原因で中村一家は他のアミ族から疎まれるようになり、中村自身も暴飲暴食、浪費を行うなどすさんだ生活を送るようになった。
 また、中村の発見をきっかけとして、日本人日本兵と台湾人日本兵との弔慰金の格差が表面化し、台湾青年社の王育徳*25(1924~1985年)らが1975年に「台湾人元日本兵の補償問題を考える会」を結成してデモを行うなど、差別解消を求める運動が活発化した。

【日本人の足跡】終戦を知らず、中村輝夫はジャングルで30年も〝戦った〟 - 産経ニュース(河崎真澄*26)2023.5.28
 インドネシア北部のモロタイ島。この島の山中で、55歳になっていた元陸軍1等兵の中村輝夫が、インドネシア軍によって、発見されたのは1974(昭和49)年も押し詰まった12月18日のことだった。
 中村の発見より早く、その年の3月12日に元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだ・ひろお)氏がフィリピンのルバング島から帰還。さらに、その2年前の1972(昭和47)年1月24日には、グアム島で元陸軍軍曹の横井庄一氏が見つかっている。
 南洋のかつての激戦地で、日本の敗戦も、廃虚からの復興も、高度経済成長も知らぬまま、30年近くをジャングルで生き抜いた元日本兵が何人も発見された。1973(昭和48)年に起きた石油ショックと、その後の狂乱物価にかきまわされて必死に生きていた当時の日本人も、度肝を抜かれた。
 だが、不思議なことにその後、「横井庄一」や「小野田寛郎」の名ほどには、「中村輝夫*27」の名は人々の脳裏に刻まれず、記憶も薄れていった。その名が、なぜ忘れ去られようとしているのか。
 日本統治時代の台湾で、先住民族の家に生まれながらも、台湾の漢民族や内地から移住した日本人とともに、同じ「天皇の赤子」として皇民化教育を受け、日本人として育った中村。しかし、モロタイ島で発見されたとき、法的にはすでに日本国籍を失っていた。
 日本の敗戦とともに、台湾を占有したのが、蔣介石が率いる中国国民党だった。その国民党による「中華民国」が台湾住民の戸籍調査をしたとき、大戦で行方不明となった中村に「李光輝」という中国風の名をつけていた。
 本人のあずかり知らぬところで、名前も祖国もすっかり変わっていた。
 国際政治の現実は、さらに中村の人生に逆風となっていく。発見の2年前の1972(昭和47)年9月に、田中角栄*28首相(当時)が北京を訪れ、日本は北京を首都とする中華人民共和国と国交を結ぶ。同時に台湾(中華民国)とは断交したからだ。
 北京政府との関係修復にきゅうきゅうとしていた日本政府にとって、発見当時の中村は「招かれざる客」だったのだろう。発見の翌月、1975(昭和50)年1月8日に、中華民国政府が発行した帰国証明書を携えて「李光輝」として、生まれ故郷の台湾へと帰っていく。
 横井氏や小野田氏とは対照的に、日本には帰れず、台湾に戻っていった中村へは、当時の日本人の受けとめ方も、その後の印象もずいぶん異なったものになっていった。
 中村輝夫(高砂族名スニヨン)を描いた『スニヨンの一生』(1987年、文春文庫)という著書がある作家の佐藤愛子さん*29は、「知識に汚れていない高砂族の純朴な人間性も、戦後の日本はうち捨ててきたのです」と静かに話す。
 佐藤さんは、台湾を訪れ、高砂族に取材したとき、「言いたいこともあるでしょうに、恨みがましいことを言わない…」と言葉を詰まらせたという。運命だと割り切っているのか、「彼らが黙っているほど清らかな魂を感じる」。

 産経文化人「佐藤氏」なら予想の範囲内ですがこういう「日本の台湾植民地統治美化」はいかがなものか(呆)。
 そして、同じ題材(台湾人日本兵)を取り上げながら、TBS「News23」との違いには唖然ですね。


◆日ソ戦争後のサハリン島の境界変動と樺太(中山大将*30
(内容紹介)
 「日ソ戦争」とは「太平洋戦争末期のソ連の日本侵攻」のことであり、「日ソ戦争」でググれば

【刊行年順:刊行年が同じ場合、名前順】
◆ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道:ノモンハンから千島占領まで』(1999年、共同通信社
◆富田武*31『日ソ戦争・1945年8月』(2020年、みすず書房
◆生田美智子*32満洲からシベリア抑留へ:女性たちの日ソ戦争』(2022年、人文書院
◆富田武『日ソ戦争 南樺太・千島の攻防:領土問題の起源を考える』(2022年、みすず書房
◆麻田雅文*33『日ソ戦争:帝国日本最後の戦い』(2024年、中公新書)

等がヒットするように近年、日露関係研究者を中心に使用される概念です(日本では未だ一般的ではないかもしれませんが)。
 勿論「揚げ足取りすれば」ノモンハン事件ノモンハン戦争:1939年)も「日ソ間の戦争」ですが、ここでいう日ソ戦争はそれは含みません。
 「サハリン島の境界変動」とは、「日本領だった南樺太」がソ連領になったことであり、この結果「在樺太日本人の引き揚げ(但し、全てが引き揚げできたわけではなく、残留樺太朝鮮人に比べれば数は少ないとは言え、残留樺太日本人問題が発生)」「残留樺太朝鮮人問題(日本政府が朝鮮人を外国人扱いし、日本への引き揚げに非協力的だった一方、朝鮮半島分断で、朝鮮半島への帰国も難しかった。例えば日弁連会長声明『樺太残留韓国人問題について』(1981.10.7)参照)」という問題が生じます。
 ちなみに、「引き揚げてきた在樺太日本人」のうちの「著名人」としては「巨人・大鵬・卵焼き」「柏鵬時代(柏戸大鵬時代の意味)」「2013年に国民栄誉賞受賞(没後受賞)」の横綱大鵬(1940~2013年)」がいますね。
【参考:大鵬

大鵬幸喜 - Wikipedia
 1940年(昭和15年)、ウクライナ人の元コサック騎兵将校マルキャン・ボリシコの三男として、日本の領有下にあった南樺太敷香町(現在、ロシアの呼び名はサハリン州ポロナイスク)に生まれた。母親は日本人の納谷キヨ。マルキャンはロシア革命後に日本に亡命した、所謂「白系ロシア人」であった。なお、大鵬誕生当時(1940年)の南樺太は日本領であったため、「大鵬二所ノ関部屋入門当時(1956年)」は既にソ連領だが、大鵬は外国出身横綱扱いされない(その結果として、初の外国出身横綱は1993年に横綱に昇進した曙(1969~2024年)とされる)。
 太平洋戦争末期、ソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船「小笠原丸」で北海道へ引き揚げた。
 最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖でソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し死者1,558人、行方不明150人を出したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。
 大鵬日本経済新聞に連載した「私の履歴書」で、大鵬自身も「小樽まで乗船していたら、今の自分はなかった」と語っている。
 その点、同じ焼け跡世代でありながらも戦火とは無縁の山形の自然で伸び伸びと育った柏戸(1938~1996年)とは対照的である。

【参考:樺太残留日本人】

サハリン邦人帰国に尽力した小川岟一さん逝去 - 高世仁のジャーナルな日々2017.8.2
 サハリン協会の元会長、小川岟一(よういち)さん*34が亡くなった。
 サハリンの邦人の実態調査から、一時帰国、さらには永住帰国の実現への流れをパイオニアとして切りひらいた人である。
 ご冥福を祈ります。

日本サハリン協会会長が語る――帰国支援は私の〝責務〟人生を変えたサハリンとの出会い Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)2025.8.12
斎藤弘美(日本サハリン協会会長)
 FM東京アナウンサー。退職後もフリーランスとして報道関係を中心に活動。2012年に日本サハリン協会会長に就任。日本大学文理学部では非常勤講師として民俗学・民俗文化論を教える。
 日本サハリン協会ではこれまで、旧ソ連地域に住む残留日本人の一時帰国や永住帰国の支援を主な事業として行ってきました。
 1945年当時、樺太には40万人近くが住んでいたとされています。
 ソ連軍の侵攻直後に行われた緊急疎開では避難できた人はごくわずかにすぎませんでした。大半の日本人はソ連軍占領後の1946年、1956年の2度にわたる引き揚げ事業により帰国しました。しかし、様々な事情から帰国の機会を逃し、残されたままとなった多くの日本人がいたのです。
 1988年、ソ連ペレストロイカ政策によって実現したピースボートのクルーズで私は初めてサハリンを訪れました。
 この時の日本人女性たちとの出会いが、その後、私の人生に大きくかかわることになりました。私はそれまで、サハリン残留朝鮮人の帰還事業については知っていましたが、まさか日本人が残留しているとは思ってもいませんでした。
 訪問先の日本人女性の家で私は大きなショックを受けました。人形などを飾るサイドボードに、日本人が捨てていった菓子袋やたばこの箱が大事そうに並べられていたのです。ロシア語ばかりになったサハリンで、「日本語が書いてある」だけで嬉しくて、懐かしくて、飾って眺めているというのです。今でもその光景を忘れることはできません。
 戦争中、日本人の男性は戦争に駆り出され、残された女性たちは生きるために朝鮮から来た男性と結婚して自分の家族を養いました。ところが終戦後、朝鮮人は引き揚げの対象にならず、既に朝鮮人と結婚していた女性たちは、子どもを置いて日本に帰ることはできず、残らざるを得なかったという話*35を聞き、胸が締め付けられる思いがしました。
 私がサハリンを訪れた1988年、日本サハリン協会の前身「日本サハリン同胞交流協会」を設立した樺太出身者たちもサハリンで残留日本人に出会い、動き出していたのです。小川岟一会長を中心に1990年に初の集団一時帰国を実現し、私もサハリンで出会った女性に再会することができました。この活動により、「サハリンに残留日本人はいない」としていた国も帰国事業を本格化させ、複雑な帰国手続きを簡略化するなど帰国支援は着実に進んでいきました。
 サハリンに残された日本人には、家族を養う立場となった長女が多かった。長女である私は、もしその頃にサハリンに生まれていたら、あの女性たちと同じような人生を送ったのではないか。その思いは今でも消えることがなく、私がこの活動を自分にとって〝必然〟と感じる最も大きな理由になっています。
 協会がこれまでにかかわってきた一時帰国者数はのべ3734人、永住帰国者数は138世帯で、310人に上ります。
 (ボーガス注:戦後80年が経ち、当事者の多くが死去し)当事者が少なくなる中、永住帰国者の話を語り継ぐ「語り部」の育成*36など、サハリンのことを知ってもらうための様々な取り組みも行われています。
 かつて樺太・サハリンで起こった出来事は、(ボーガス注:ロシアによるウクライナ戦争、イスラエルによるガザ戦争など)現在の世界でも起きています。国と国の戦争により、家族が分断され、多くの人々が犠牲になる。我々が樺太・サハリンの歴史から得られる視点、学びはたくさんあるのです。
 世界では今もなお、自分の国に帰れない人がたくさんいます。「日本」という国があり、いつでも帰ることができる現代の日本人には、なかなか理解しにくいことかもしれませんが、わずか80年前の日本人も、(ボーガス注:サハリン残留、山崎豊子不毛地帯』、映画『ラーゲリより愛を込めて』等で描かれたシベリア抑留など)同じような経験をしていたのです。一人でも多くの方に樺太・サハリンの歴史を知ってほしい。私は今、心からそう願っています。

サハリンに残された「戦後」 多様性の島に生きる残留日本人の思い:朝日新聞GLOBE+2018.6.1
 第2次大戦後、南樺太ソ連が占領すると、広大なソ連の各地から新たな住人が入植してきた。日本人の大半は本土に引き揚げたが、それまで「日本臣民」だった朝鮮人の多くは日本への引き揚げを拒まれこの地に残った。さらに、様々な事情でとどめ置かれた日本人もいる。
 サハリン日本人会(北海道人会)会長の白畑正義(78)もその一人だ。内砂(ないしゃ)と呼ばれた島の南端に近い村で生まれ、日本の学校に入って間もなく終戦を迎えた。山形県から移住した父親は電話線修理の技師。ソ連に必要とされ、引き揚げさせてもらえなかったという。
 白畑が会長を務める日本人会は1990年の発足。冷戦下で日本に渡航できなかった残留邦人にとって悲願だった一時帰国が実現した年だ。東京の「樺太同胞一時帰国促進の会」(現・NPO法人「日本サハリン協会」)と協力し、一時帰国や永住帰国を希望する人たちを支援してきた。
 残留邦人はもともと、朝鮮系の夫と結婚した日本人女性が多く*37、家庭では韓国料理が主流のようだ。
 ただ、日本の家族に会い、日本で暮らそうと思っても、白畑のように日本語を不自由なく話せる人はまれだ。
 在ユジノサハリンスク日本総領事の協力で開かれている日本語教室では、会員たちが懸命に勉強する姿も見られた。授業中、先生に何度も質問をしていたボリス・サイトウ(68)は、幼い時に北海道に引き揚げた家族らともっと話したくて、妻と一緒に勉強を続けているという。「この年齢になると覚えるのが難しい」と苦笑いした。

ウクライナ脱出し祖国へ 樺太残留日本人、戦争に2回変えられた人生 | 毎日新聞2022.3.14
 第二次大戦末、旧ソ連に占領されたロシア・サハリン州樺太)南部で育ち、現在はウクライナに住む日本人男性が、ロシア軍の侵攻を受け、家族とともに隣国ポーランドに避難した。男性らは18日、祖国である日本に向かう。2回の戦争で人生を変えられた男性は今、何を思うのか。
 男性は降旗英捷(ふりはた・ひでかつ)さん*38(78)。長野県で生まれたが、父親の仕事の都合で当時、日本領だった樺太南部に移り住んだ。だが1945年8月、ソ連が日本に侵攻。樺太は占拠され、その後、ソ連領となった。
 樺太に残留した邦人は1959年までに大部分が帰国した。だが降旗さんの父親には許可が出なかった。理由は不明だが、製紙工場で働いていた父親が有能だったため、ソ連が手放さなかったとみられている。
(以下は有料記事です)

79年前に樺太に取り残されウクライナでも戦争に巻き込まれた男性 両親の故郷・信州へ初めての旅 | SBC NEWS | 長野のニュース | SBC信越放送 (1ページ)2024.8.15
 灯台守だった父・利勝さんの仕事のため、一家は太平洋戦争が始まってまもない1942年に樺太=現在のロシア領サハリンへ移住しました。
 しかし、日本の敗戦間際の1945年8月にソ連が侵攻。
 40万人いたとされる日本人は引き揚げを余儀なくされ、父はその船を見送る業務に当たりました。
 最後の引き揚げ船に乗ろうとした矢先、兄の大けがや母の妊娠もあって、帰国できなくなりました。
◆英捷さん
「母は日本に帰りたがっていました。よく手紙を書いていたことを覚えています」
 サハリンには、戦後の混乱で少なくとも400人以上の日本人のほか、戦後、日本国籍から除外された朝鮮半島出身者4万人から5万人が支援がないまま取り残されました。
 さらに東西の冷戦が帰国を阻み、降籏さんの一家は生活のため1954年にソ連の国籍を取得。
 日本との行き来が始まったのは、1990年代に入ってからでした。
 降籏さんはウクライナ出身の妻・リュドミラさんと結婚し、27歳の時にウクライナへと移住。
 妻は5年前に亡くなり、孫やひ孫と穏やかな生活を送っていたのです。
 しかし、おととし(2022年)2月にロシアによるウクライナへの軍事侵攻が起きました。
 英捷さんは、きょうだいが住んでいる北海道に一時避難し、その後、永住帰国しました。

 こうした報道(残留樺太日本人、朝鮮人問題)を朝日新聞毎日新聞がすることを評価しますが、一方で「なぜ他の多くのメディアは無関心なのか?」感は否定できません。
【参考:中山氏のブログ記事】

朝日新聞に談話掲載、樺太引揚げと日露戦争。 | 中山大将の研究紹介―T.NAKAYAMA's Research2024.3.1
 樺太引揚者へのインタビュー記事に関連して、私の短い談話が『朝日新聞』に掲載されました。
40年だけの日本領、「樺太は故郷」と元島民 日露開戦から120年:朝日新聞2024.2.21
 日ソ戦争時・後の日本人の疎開・引揚げを語るなら、日露戦争時にロシア人の退去が起きていたということも想起すべき(ボーガス注:「どっちもどっち」というロシア(ソ連)免罪ではなく、日本の被害ばかりに着目し、加害を軽視するのはいかがな物か?)という指摘です。
 この指摘の着想自体は、私は工藤信彦*39先生から学んだもの(詳細はこちら)ですが、樺太引揚げ関連記事でそこまで言及する記事は少ないように思います。
 今回は日露開戦120年ということで組まれた記事だからこそ言及できたと言えるかもしれません。
 私の談話という形をとってはおりますけれど、樺太に生まれ樺太のことを考え続けた工藤信彦先生の〈思想〉が全国紙に現われたことはたいへんうれしいことですし、またそうした機会を与えてくださった記者さんにも感謝いたします。

道新に談話掲載、サハリン残留日本人問題。 | 中山大将の研究紹介―T.NAKAYAMA's Research2024.5.6
 以下の道新記事にサハリン残留日本人問題に関する談話が掲載されました。

<記者がたどる戦争>樺太残留 日ソのはざまで「目をそらされた人たち」 報道センター・武藤里美(32)㊤:北海道新聞デジタル2024.5.5
 「私は樺太に残りたくて残ったのではありません」
 「1日も早く、お母様の元気な内に一目逢いたい」
 「帰国だけを今は祈っているのです」
 東京都港区にある外務省の外交史料館。ここには、戦後に旧ソ連実効支配下南樺太にとどまらざるを得なかった日本人の悲痛な手紙の写しが残されている。
 日ロ関係に興味を持って北海道で就職した私は、戦後も樺太に残った人々に関心を持っていた。手紙は彼らが日本に「帰らなかった」のではなく「帰れなかった」ことを示していた。これはなぜなのか。道内に引き揚げた家族と手紙をやりとりした女性に会うことができた。
(以下は有料記事です)

 今回も丁寧な取材を受け、自分の研究が記事に活かされました。
 この記事は戦後80年に向けて若手記者が戦争体験者などに取材し記事を書くという企画の一環です。
 残留日本人をめぐっては、〈忘れられた人々〉のように表現されることもあるかもしれませんが、取材ではあえて「目をそらされた人々」と表現しました。
 冷戦期にも墓参などでサハリンへ渡った日本人の中には残留日本人と出会っていた人々はいましたし、日本国内の公的機関への嘆願書に限らず、日本側家族が(ボーガス注:日本社会党など?)ソ連と交流のあった政党に相談したけれど対応してもらえなかったという話も残っております。
 サハリン残留日本人が視界に入っている人々もいた、けれどもまるでサハリン残留日本人がいないかのように、あるいは自分の意思で残留しているのだから何か対応する必要は無いかのようにふるまっていた。そのことを「目をそらされた」と表現しました。
 見ているのに見ていないふりをする。これはサハリン残留日本人問題に限ったことではありません。
 戦後80年を迎えるにあたって、戦後日本が「目をそらしてきた」ものを直視し直すことも意味のあることだと思います。

追悼 富田武先生 | 中山大将の研究紹介―T.NAKAYAMA's Research2025.7.19
 シベリア抑留研究の牽引者*40であった富田武先生がご逝去されました。
 富田先生には、シベリア抑留研究会に二度報告者としてお招きいただいたことがあります。
 一度目は、サハリン残留日本人の歴史の概要についてご報告させいただき、抑留者名簿の作成に尽力なされた故・村山常雄氏*41からもご意見をいただけたほか、そこで知り合った報道関係者の方とは、その後輩の方も含めていまも交流させていただいたております。
 二度目は、拙著『サハリン残留日本人と戦後日本』の書評会をお開きいただき、この時も太田満*42先生をはじめとした関東在住のサハリン残留日本人問題研究者の方々と知り合う機会を得ました(ただ、記憶の限りでは、帰りの飛行機の時間の関係で拙著の書評会であるにもかかわらず、自分が途中退場するということになったはずで、今でもたいへん申し訳なく思っております)。
 また、サハリン樺太史研究会にお招きしたこともあり、その時には、ソ連によって移動を制限されたということからサハリン残留者を(ボーガス注:シベリア抑留者同様の)「抑留者」とみなす富田先生と、ソ連施政下とはいえ(ボーガス注:日本領だった南樺太時代から居住し)従前の居住地で生活を続けていた「残留者」と、異国へと連行され収容所生活を送った「シベリア抑留者」とでは置かれた状況が大きく異なっていることから区別して論じるべきだという私との間で議論をさせていただきました。
 はっきりした物言いをなさるうえ筋を通すことを尊重され研究に突き進むお姿には驚嘆させられておりました。
 ただ、率直すぎるゆえに他者を傷つけてしまうのでは…と心配になってしまう発言も見られましたが、それはご闘病*43ゆえの焦りだったのかもしれないと今となっては思います。
 文字通り「まだまだやりたいことがあったでしょうに…」という方でした。
 富田武先生、ありがとうございました。


◆生産地の報道に見る敗戦直後の「闇*44」:『秋田魁新報』の米を巡る記事から(原山浩介*45
(内容紹介)
 米生産地「秋田」の地方紙『秋田魁新報』の闇米を巡る記事から、秋田県民が闇米問題をどのように認識していたのかを特に「都市住民(消費地、闇米を買う側)と秋田県民(生産地、闇米を売る側)の認識の相違」に焦点を当てて、分析していますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
【参考:闇米】

今生きているのは闇米のおかげ - 声 語りつぐ戦争|戦争体験を知る朝日新聞の投稿データベース:朝日新聞2011.5.25
 母は軍の工場に勤めていたが、戦後は田舎に食料の買い出しに行くのが仕事になった。いわゆる闇買いだが、警察に見つかればせっかく手に入れた食料を没収されるので苦労もあったようである。しかし、配給だけでは生きてゆけない。私たちが生きてこられたのは闇の物資があったからで、買い出しに行くことに罪悪感はなかった。
 闇米を拒否して配給食料のみを食べ続け、栄養失調で亡くなった裁判官*46のことを、新聞が大きく報じたのもこのころである。
 終戦後も食料事情は急には好転しなかった。1951(昭和26)年、職場の研修で東京に行ったが、外食券持参で、寮の食事も丼すりきり1杯だけだった。配給制はしばらく続いた。

お米を買うのに通帳が必要だったの?|公文書に見る戦時と戦後 -統治機構の変転-
Q:
 お米を買うのに通帳が必要だったの?
A:
 はい、必要でした。通帳を持っていかないと、お米を買えない時代がありました。
 1937(昭和12)年の日中戦争勃発以降、働き手の男性が戦争へ行くため、農作物の生産量は減っていきました。
 さらに、米の国内消費量のおよそ4分の1を朝鮮や台湾からの移入に頼っていた日本は、輸送の問題に直面します。
 船舶やその燃料は軍用が優先され、国民生活は米不足になっていきました。
 1939(昭和14)年4月、「米穀配給統制法」が公布されると、米穀を扱う商いは許可制となり、取引所が廃止されました。
 秋以降から節米運動が奨励され、11月には米の精白の割合を制限する「米穀搗精等制限令」(Ref.A03022413600)が施行されました。
 1940(昭和15)年10月24日、農林省令「米穀管理規則」の公布により、生産者である農家に対して、一定数量の自家保有米を除き、残る全ての米を決められた値段で国に売る義務が課されるようになりました。
 これを「米の供出」と言います。
 1941(昭和16)年3月になると、主食や燃料などを配給で割り当てる「生活必需物資統制令」が国家総動員法に基づく勅令として発せられました。
 これにより、4月1日から東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の6大都市で米などの穀物は配給通帳制になります。
 この年、米だけでなく、酒や卵、魚類なども配給制となり、消費が制限されました。
 1942(昭和17)年2月21日には、「食糧管理法」が制定されます。この法律は、既存の食糧関係の法規を整理・統合し、主要食糧の国家管理を強化しようとするものでした。
 この法律のもとに、米穀の配給通帳制度は整備され、全国で施行されるようになりました。
 指定された配給日に通帳を持って配給所へ行くと、通帳に印鑑を押してもらうのと引き換えに、その世帯の1日の配給量に配給日数をかけた量のお米を購入することができました。
 配給量は年齢や職業によって異なり、1941(昭和16)年当時、1歳~5歳が120グラム、6歳から10歳までは200グラム、11歳から60歳までは330グラム、61歳以上は300グラムに定められていました。
 重労働とみなされる職業(農夫、漁夫、鉱物採取者、大工など)に従事している人には、配給量がやや増やされました。
 戦争が長引くと、配給そのものが遅れたり滞ったりすることも日常茶飯事となっていきました。
 そのため、人々は食べ物を生産者である農家に直接買いに行ったり、闇と呼ばれる非合法のルートで軍からの流用品などを入手して、不足分を補おうとしました。
 闇で購入する米の価格は配給米の何倍もしましたが、それなしで暮らすことなど出来なかったと言われています。
 1945(昭和20)年8月に戦争は終結しましたが、食糧難はさらに深刻化しました。
 供出米が激減し、需用量が供給量を大幅に上回ったため、戦時中以上に大変な米不足に見舞われたのです。
 闇米の価格の公定価格に対する倍率は1945(昭和20)年10月が最大で、49倍にまで跳ね上がりました。
 1948(昭和23)年度を転機に国内の食糧生産高が回復し、世界の食糧生産も好転して食糧輸入が拡大すると、食糧危機は徐々に解消に向かっていきます。
 1969(昭和44)年に政府を通さずに流通する米を一部認めた自主流通制度が発足すると、やがて米穀通帳制度は形骸化していきます。
 1982 (昭和57)年1月、改正食糧管理法が施行されると、通常時の厳格な配給制度が廃止され、自主流通制度の法定化がなされました。
 この時、米穀通帳の発行は廃止となり、40年間に渡る長い歴史に幕を閉じました。

②食糧統制が強まり米に手が届かず サツマイモが代用食に 連載あのころの食卓 戦時下の徳島(2015年8月 計6回)|社会|徳島ニュース|徳島新聞デジタル2015.8.10
 米は戦況が厳しくなるにつれ、次第に手の届かないものとなる。働き手や肥料の不足、台湾や朝鮮からの輸入米の途絶えといった理由による。限られた米を国民に平等に配分しようと、1939年、農家が作った米を政府が買い上げる「供出」制度が始まった。同年、白米禁止令も施行され、七分づき以上の米の販売が禁止された。1942年には食糧への国の統制を強化するため、食糧管理法を定めた。
 農家は家庭で食べる分以外を供出することになっていたが、より多くを家庭に残したい農家と、政府との攻防が続いた。40年7月19日の徳島毎日新聞徳島新聞の前身)は「お米不正申告 飯米調べ」という見出しで、買い上げに応じない農家が「善良なる農民に悪影響を与える」とし、政府が供出を迫る様子を報道。それでも、農家が残した「闇米」の売買は、政府や警察の目をかいくぐって続けられた。
 米の消費を節約する「節米(せつまい)」の重要性も、繰り返し唱えられた。農家だった古高永司郎さん(82)=石井町高原=の家庭でもこのころ、「節米料理」が食卓に並んだ。少しずつ麦飯の比率が増えたほか、大根やサトイモ、葉物野菜、みそ汁とご飯を混ぜた雑炊を食べた。「水っぽくってあまり好きではなかった」と言う。
 人々の食卓から遠ざかる米の代わりに登場したのが、「代用食」と呼ばれる食べ物だ。大豆やそうめん、トウモロコシ、パン。これら代用食の中で、重宝されたのがサツマイモだった。
 輪切りにして縄を通し、乾かした干しイモが、多くの家の軒下で揺れた。茎も皮をむき、水に浸してアクを抜き、炒め物やおひたしの貴重な材料になった。

 ということで「闇米」自体は戦争中からありました。


◆沖縄占領下の労働と移動(謝花直美*47
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
 なお、謝花氏が

ジャングリア沖縄 25日開業 午前中からにぎわう|NHK 沖縄県のニュース2025.7.25
 テーマパーク「ジャングリア沖縄」が25日、沖縄県北部の今帰仁村(なきじんそん)にオープンし、午前中から大勢の人でにぎわっています。
 ジャングリアが新たな観光の目玉となれば、地域の雇用創出や産業振興につながるとの期待もあり、沖縄の経済の起爆剤となれるのか注目されています。

ジャングリア沖縄を徹底分析! 話題の最新テーマパークをお得に遊び尽くす7つの裏ワザを紹介! - フジテレビ2025.7.30
 7月30日(水)21時から放送の『ホンマでっか!?TV』は特別編!「ジャングリア沖縄・徹底分析SP」と題して、7月25日(金)にオープンしたばかり最新テーマパーク、ジャングリア沖縄からお送りする。
 絶景を見渡せるパノラマダイニングというレストランで絶対に食べるべきおすすめ料理など、ジャングリア沖縄に行く前に知っておきたい情報を次々と公開していく。
 さらに、スリル満点のアトラクションの数々を『ホンマでっか』メンバーが体験!大迫力の恐竜たちを間近で観察でき、ジャングルの奥地では凶暴な肉食恐竜T-REXが襲い掛かってくるアトラクション「ダイナソー サファリ」や、大自然の谷底へ飛び込んでいく開放感が味わえる絶叫型巨大ブランコ「タイタンズ スウィング」など、広大な自然を生かしたジャングリア沖縄ならではのアトラクションに一同大興奮!

など本土マスコミは「観光(ジャングリア沖縄)など『明るい沖縄』『沖縄の光』は伝えても、基地問題など『暗い沖縄』『沖縄の影』は伝えない」と嘆くことには全く同感です。

『戦後沖縄と復興の「異音」』/「沖縄人民党事件」 過酷な支配に抵抗 市場で裁判で 朝日新聞書評から|好書好日
 『戦後沖縄と復興の「異音」』は地上戦のさなかに収容所で始まった民衆生活の行方をたどる。軍港建設に故郷を奪われ、軍作業の都合で幾度も移動を強いられた那覇の人々。米軍服の仕立て直しを、ミシン一つを元手に始め、市場(いちば)を切り盛りした女性たち。生存を賭けて独自の「生活圏」を紡ぐ営みが、詳しく掘り起こされる。
 ただし、どんな復興の夢よりも、米軍統治の安定が優先した。矛盾に抗う声は「異音」と見なされ、「不衛生」や「アカ」の烙印によって排除される。

「「復帰」50年 沖縄戦後史に立ち返る」新聞うずみ火記者 栗原 佳子 | 特集
 沖縄の戦後史が「島ぐるみ闘争」や「復帰」運動など民衆の抵抗が中心に書かれてきたのに対し、謝花さんは「主流の歴史」の後景にいた人たちに照準を当てている。
 例えば「ミシン業」に従事した女性たち。米軍基地に土地を奪われた本部(もとぶ)の女性たちや「戦争未亡人」たちは生きるために技術を習得し、手内職の「既製品」を露店で立ち売りし、やがて那覇市の「新天地市場」という場を獲得していった。
 洋裁の講習所は、占領の暴力にさらされる軍労働を逃れた女性たちが自立をめざす居場所でもあり、困窮する「戦争未亡人」らの福祉も担ったという。
 移動、労働、食糧などが通底するテーマとなる。1944年10月10日の「十・十空襲」で9割が焼失する被害を受けた旧那覇市は全域がほぼ軍用地として接収され、住民は収容地区から長く帰還できず、離散を余儀なくされていった。特に、いまも故郷のほとんどが那覇軍港の中にある「垣花」地区の人々の軌跡をたどる。旧具志川市*48の「金武湾(きんわん)区」、那覇軍港で就労した那覇港湾作業隊の「みなと村」。垣花の人々はもともと港湾労働者が多く、軍労働に就くことで移動を強いられた。重い軍労働に参加できない高齢者や女性は収容地区に置き去りにされ、困窮していった。
 一方、旧那覇市に隣接した旧真和志(まわし)村(1957年那覇市編入)。53年の「銃剣とブルドーザー」によって、銘苅(めかる)、安謝(あじゃ)、天久(あめく)の人々は住居や農地を押しつぶされた。実はその以前にも、真和志村は「那覇市復興」の陰で何度も縮小を強いられ、農村を基盤とした「復興」は挫折した。
 謝花さんが追求したのは、さまざまな生活の場の体験を聞き取ることだった。最初に選んだのは「琉球人形」。かつて人気を博した土産物だが、いまは店頭に並ぶこともなくなり、記事や先行研究もほとんどなかったという。それでもコツコツ調べているうちに、製作者だった女性たちにたどりついた。占領初期の配給時代(沖縄に通貨経済が復活するのは46年4月である)に少しでも多く食糧を得ようと、米兵向けの土産として、「戦争未亡人」を中心とした女性たちが作り始めたのだという。
 垣花地区の人々が軍労働で移動した「金武湾区」はいまはバス停にその名前をとどめるだけで、沖縄でもその存在を知る人は少ない。連載をきっかけに、その集落で育った子どもたちが「語る会」をつくり、体験の記録に取り組んだ。


◆広島の戦災都市復興とその経験(西井麻里奈*49
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。戦災復興が「市民一枚岩」で実現したわけではなく、「区画整理で立ち退きを迫られた住民」など様々な意見対立、利害対立があったことが指摘されています。

「広島 復興の戦後史」書評 立ち退きめぐる住民感情を解読|好書好日
 戦後の広島では、平和都市の建設をかけ声に大規模な都市計画が進行した。区画整理で立ち退きを迫られた住民は、変更や猶予を求めて訴えを繰り返した。公文書に残るその陳情書の束は、被爆の瞬間で途切れようのない「私」や家族と土地との来歴を語り出す。哀訴や便乗など、策をこらして行政に交渉を挑む切実な声には、生活の再建をかえって復興に脅かされ、仮住まいのまま幾度も移動を強いられる寄る辺なさがにじむ。
 陳情書には同じ立ち退きの境遇ゆえに隣人を妬み、街の美観や公益の理念をふりかざして、(ボーガス注:いわゆる原爆スラム - Wikipediaなど)「不法建築」の撤去を焚きつける匿名の投書が多数見られた。差別感情まで噴出する住民同士の複雑な利害対立や、「誠意」の有無で市民の選別を始める行政側の変化に着目することで、達成を自己目的化した復興のあり方に著者は疑義を突きつける。

『広島・復興の戦後史』(2020年、人文書院)のアマゾンレビュー
◆roron
 平和都市の名の下に道路や記念公園を整備する戦後広島の都市計画は、焼野原に境界を引き、バラックを排除する形で進んだ。この本では換地の融通や立退き延期などを求める様々な住民の「声」を陳情書類から読み解く。が、そこで浮かぶのは<行政vs住民>の安直な構図ではなく、むしろ住民同士の間に生々しく文化的・心情的な境界が引かれていく様だった。復興を経験する「声」の主たちは不条理に抗う一方で、欲望のために行政を利用しようとし、時に他者を排除もしたようだ。

 バラックというと映画仁義なき戦い・広島死闘篇(1973年4月公開)がちょうどその時代を描いていますね。
 『仁義なき戦い』シリーズはそのほとんどが『広能組組長・広能昌三(美能組組長・美能幸三*50がモデル。演:菅原文太)』が主人公ですが、仁義なき戦い・広島死闘篇北大路欣也が演じる『村岡組組員・山中正治(岡組組員・山上光治がモデル)』が主人公です。
【参考:広島の復興】

【インタビュー】「なぜいま〈平和都市〉なのか?」/仙波希望 – 以文社
 2024年8月12日、札幌の多目的スペース「苗穂基地」で、小社より8月に刊行した、仙波希望*51『ありふれた〈平和都市〉の解体:広島をめぐる空間論的探究』 の刊行記念トークイベントが行われた。
◆インタビュアー
 この本の第3章のタイトルに「〈平和都市〉の発明」という文言があります。
◆仙波
 当たり前ですが1945年8月6日の時点で広島は〈平和都市〉ではない。 ということは、誰かが「平和」という言葉を選んだわけです。
 〈平和都市〉の根拠は、1949年に制定された「広島平和記念都市建設法」という地方特別法によく求められます。最初に「平和への記念都市」という言葉が大々的に使われたのは、1945年12月19日、当時の県知事の楠瀬常猪(くすのせ・つねい)が『中国新聞』に発表した復興構想のなかでした。そこで言われたのは、広島の観光地化構想です。「瀬戸内海大観光地帯のセンターポイント」という言葉を使って、要するに「これから広島は平和の記念都市として、観光で売り出していくぞ」ということですね。
◆インタビュアー
 観光というのは意外ですね。原爆投下の直後でしょう?
◆仙波
 要は、観光地化するからこそ、資金を国、GHQに求めよう、という論理ですよね。当たり前ですが、当時の広島は原爆投下の直後であるうえに、枕崎台風*52の被害もあって、街はボロボロ…どころの話ではない。
 もちろんそこには復興に対する切なる願いがありました。というのも、当時は全国に戦災都市が110を超えてあったのですね。戦災復興院*53という国の機関が復興計画を指揮していたのですが、たとえ原爆による甚大な被害を受けたとはいえ、広島だけ特別扱いすることはできなかった。
◆インタビュアー
 東京も神戸も空襲被害を被っているのだから、広島を特別扱いすることはできないと。
◆仙波
 理由は二つあります。一つには、現実問題として資金が足りず、特別扱いする余裕がなかったということ。もう一つには、やはりGHQの存在が大きい。当時、原爆報道はGHQによって規制されていました。一般的には、原爆の被害が知れ渡っていくのは1950年代以降です。だから、原爆の被害がどんなものだったのか、当時はまだ広く詳細に知れ渡っているわけではない。
 こうした状況のなかで、なんとか国に、つまりはマッカーサーに、広島が特別な場所であることを認めさせなければならない。ではどうするか。これはもう地方特別法でいくしかない、ということになります。
◆インタビュアー
 一つには、復興資金の獲得が必要である。もう一つには、広島を特別扱いしてもらわなければならない。さらには、アメリカの許可を得なければならない。この3つの条件をクリアする言葉として「平和」という言葉が選ばれた、ということでしょうか。
 その構造はいまも変わっていないように思います。たとえば自治体が国から助成金をもらうときには、少なくとも表向きには当たり障りない言葉を使いますよね。
 さて、こうした経緯で生まれた〈平和都市〉という概念ですが、批判も多かったようですね。この本の第1章では、2000年代以降に隆盛した「記憶研究」という分野のなかで〈平和都市〉が批判されてきた経緯が書かれています。
 本書で特に印象的だった概念に「〈平和都市〉の二分法」というものがあります。これについてお話いただけますか?
◆仙波
 〈平和都市〉をめぐっては、あえて単純に図式化すれば、これまで肯定派と否定派にわかれていました。
 肯定派の議論はたとえば、〈平和都市〉を掲げた広島の復興を奇跡的なもの、または他の様々な人災・戦災を経験した都市のモデルケースとしてみなします。対して否定派の議論は、〈平和都市〉という概念が人々を蔑ろにしてきたこと*54を指摘します。たとえば復興の際に、バラック小屋が排除されたり、あるいは、〈平和都市〉の名のもとに暴走族や露店の土産屋が排除されたりもしたわけです。
 それぞれの視点が必ずしも「間違っている」というわけではありません。
 しかし、本書ではこの二つの分極構造をあえて「〈平和都市〉の二分法」と位置づけたうえで、それを乗り越えようと試みました。肯定するにせよ否定するにせよ、〈平和都市〉というものが一体何であるのか、誰がどのようにこのスローガンを使ってきたのか、それが人々の言説や認識や考え方にどう影響を与えてきたのか、そういうダイナミズムに言及したものは、自分の知る限りでは少ないようにみえました。
◆インタビュアー
 この本では、具体的なモノや事象を論じることで、「広島=〈平和都市〉」という等式が矛盾してしまっていることを示していきます。たとえば、第6章で論じられたのは「平和塔」でしたね。
◆仙波
 広島には「平和塔」と呼ばれるものがたくさんあります。いまも宇品にある平和塔はもともと日清戦争凱旋碑という名前でした。広島にはかつて、日清戦争の拠点だった大日本帝国陸軍第五師団がありました。兵士が中国から帰還するのが宇品港なので、そこに凱旋門がつくられます。そのときに市民の有志で建てられたのが、この日清戦争凱旋碑です。ところがこの塔は、1947年に何者かの手によって「平和塔」という名前に変えられてしまう。
◆インタビュアー
 取り上げたいのは〈原爆スラム〉という言葉です。この本は、とある路地が〈原爆スラム〉と「名づけ」られるプロセスを描き出しています。
◆仙波
 わかりやすいのは、『仁義なき戦い』という映画シリーズの二作目仁義なき戦い・広島死闘篇です。この映画は1972年ごろに撮影されました。終盤、基町地区というところにヤクザが逃げ込むシーンがあるのですが、そこで「広島・基町(通称・原爆スラム)」というテロップが流れます。河川敷に並んだバラック住宅群が遠景で映され、その奥では、基町高層アパートという集合住宅が建設されはじめています。
◆インタビュアー
 基町高層アパートがつくられる経緯はこの本にも書いてありますが、バラック住宅を撤去し、その住民を住まわせる口実で行政によって整備された。
 さて、このようなイメージを共有したうえで、あらためて〈原爆スラム〉についてご説明いただけますか?
◆仙波
 原爆を投下された広島には、文字通り何も残っていませんでした。まさに『仁義なき戦い』の一作目冒頭に描かれているように、混乱していました。だけど、生きていかなければならないから、みんな勝手にバラック小屋をつくり始める。ちょうど基町の辺りは軍事施設があったのですが、軍の解体もあって、ぽっかりとそこに土地が空いている。徐々に人が住み始める。お上がどうとか言っていられない状況なわけです。1950年代から1960年代にかけて、最終的には1000戸くらいの住宅がそこを占めるようになりました。これが「相生通り」と呼ばれるようになります。
◆インタビュアー
 この本を読んで印象的だったのは、相生通りに生まれた街のコミュニティの姿です。「スラム」と言ってしまうと、劣悪な住環境や、治安も荒廃したような様を思い浮かべてしまいますが、そこには豊かなコミュニティがあった。
◆仙波
 もちろんコミュニティとしての豊かさだけで語れるわけではないのですが、たとえばそこでは暴力ばかりが蔓延っていた、というネガティヴな状況ではもちろんありませんでした。困った人に近所の人が米を差し出すとか、お隣さんから醤油を借りてくるとか、そういったサザエさん的なご近所付き合いは当然あったのだと思います。
 こうして相生通りという街ができあがっていくのですが、それが1964年に〈原爆スラム〉という名前が与えられた頃から、一気に物語が動いていきます。
 〈原爆スラム〉という言葉が初めて使われた1964年当時、不良住宅は約6000戸あると言われていました。先ほど話した通り、相生通りにあった住宅の数は1000戸ですから、5000戸の差があります。それがどこにあったのかというと、河川敷です。広島は川の街と呼ばれることがあるのですが、三角州の中にあるので地盤がとても弱い。
 そうした土地に建つ不良住宅を、1960年代になって行政が一掃していきます。
◆インタビュアー
 少し話が逸れるのですが、広島の平和記念公園は広大な土地を使って丹下健三がほぼ思い通りに空間を構成したわけですが、「相生通り」と同じように、そこにも人が住んでいて、公園のために住民たちを排除したわけですよね。それには衝撃を受けました。
◆仙波
 平和記念公園は1954年に完成しますが、あのあたりのバラック住宅の除去が始まったのは1951年頃ですね。
 一方、その平和記念公園のすぐ側にある「相生通り」、つまり〈原爆スラム〉に話を戻せば、1964年に〈原爆スラム〉という言葉をつくったのは任都栗司(にとぐり・つかさ)という当時の市議会議員で、まさに〈平和都市〉の根拠となった「広島平和記念都市建設法」の制定の旗振りをした人です。彼が〈原爆スラム〉と名づけることによって、相生通りが解決されるべき「社会問題」へと転化される。
 その後、1967年に『中国新聞』に「原爆スラム」と題した特集が連載されるのですが、そこに掲載された地図上では相生通りだけが〈原爆スラム〉として図示されます。それによって、〈原爆スラム〉が「相生通り」という空間だけに焦点化され、人々の認識やイメージも「〈原爆スラム〉=相生通り」となっていく。
 そして、〈平和都市〉を完成させるうえでの最後の解決課題が〈原爆スラム〉である、となっていきました。もちろん行政にとって川沿いの住宅問題というのが長年の課題だったのは間違いありません。それがこの時期、〈平和都市〉に関連づけられるのと前後して一気呵成に住宅除去が進んでいく。
◆インタビュアー
 行政はいまも昔も街を浄化しようとしますよね。現在で言うのならば「ジェントリフィケーション」と呼ぶのかもしれませんが、たとえばホームレスの人が寝ることができないようにと公園のベンチに細工したりする*55。動機は知りませんが、行政には一貫してそういう欲望がある。まさかとは思いますが、こうした街の浄化のためのロジックとして〈平和都市〉という言葉が使われた、ということでしょうか。
◆仙波
 動機まではわからないのですが、方法論は完全に一緒ですよね。「広島平和記念都市建設法」は、〈平和都市〉という言葉を掲げることで広島の街を変えようとしました。だから〈原爆スラム〉という言葉をつくった。つまり、〈平和都市〉と〈原爆スラム〉は対になる言葉なのです。「平和/原爆」「都市/スラム」というかたちで完全に裏表になっている。
 結局は住宅地区改良法のもとでの再開発が進められることとなります。
◆インタビュアー
 都市の姿はパワーエリートの思惑だけでは決まらないのは当然ですが、しかし、簡単に無視できるものでもないと思います。そこで一度、行政官僚や政治家といったパワーエリートの欲望を整理しておきたい。
 この本であきらかにされることの一つは、戦前と戦後の連続性です。
◆仙波
 1932年に行われたのが時局博覧会です。ここでは(ボーガス注:陸軍第5師団がある)「軍都」としてのアイデンティティが希求されます。前年の1931年に満州事変が起き、15年戦争が始まったタイミングでしたし、加えて軍人勅諭ができてからちょうど50周年でもあった。軍国主義化の急速に進んだ時期ですね。
 時局博の内容も、当然といえばそうですが、やはりそうした風潮を存分に表している。なかでも異彩を放っていたのが航空ページェントです。当時、広島城の近くに西練兵場という広場があったのですが、そこに実際に戦闘機が飛んできて本当に機銃掃射をする。それを迎撃するところを観衆に見せたわけです。
◆インタビュアー
 1932年の時局博では軍都としてのアイデンティティが希求された。戦前に行われたこの博覧会が、なぜ戦後の〈平和都市〉構想と連続するのでしょうか。
◆仙波
 一番わかりやすいのは、まずアクターが同じだということです。企画者や関係者が同一人物だったりする。小野勝という当時の広島市職員がいるのですが、彼は戦前に時局博に携わりました。戦後になると1947年に第1回平和祭の演出を担います。
◆インタビュアー
 政策イシューとして志向するものはまったく違うはずなのに、仕掛けていた人間が同じだと。
◆仙波
 それは、平和記念公園をつくった丹下健三にもつながります。平和記念公園の空間構成の一番の特徴は軸線構造です。原爆ドームと原爆慰霊碑を一直線に結び、その線が平和記念資料館と垂直に交わるように設計されている。これは「平和の工場」と呼ばれていて、平和記念公園を象徴するものです。しかし、この軸線構造の原型は戦前にあります。それは1942年に丹下がつくった「大東亜建設記念造営計画」というものです。「大東亜」という言葉が入っているので何やらキナ臭い感じがしますが、それもそのはずで、これは大東亜建設委員会が戦意高揚のために実施したコンペに提出されたプランでした。そのときに丹下は、東京から富士山を結ぶ軸線構造を提案したわけです。
 井上章一さん*56が『アート・キッチュ・ジャパネスク:大東亜のポストモダン』(1987年、青土社→後に『戦時下日本の建築家:アート・キッチュ・ジャパネスク』と改題し1995年、朝日選書)という本で書かれているのですが、戦前の「大東亜建設記念造営計画」での軸線構造が、あきらかに平和記念公園の構造に反復されている。「平和の軸線」は肯定的に評価されることもあるけども、やはり立ち止まって考えてしまう。

【読んだ】仙波希望『ありふれた〈平和都市〉の解体 広島をめぐる空間論的探究』|Masayuki Saitoh
 仙波希望の『ありふれた〈平和都市〉の解体』もまた、広島の原爆復興とテクノクラートの問題を描く。例えば〈平和都市〉というスローガンが作られたのは、戦後の復興資金獲得のためだった。考えてみれば、原爆投下という事態と「平和」という言葉は無条件には直結しない。事実、当初は「平和」を掲げた復興プランは希少だった。ではなぜ「平和」が選ばれたのか。それは広島を他の都市と差異化して復興資金を得るためであり、広島の観光地化プランのためであり、加えてアメリカからの認可獲得のためだった。そこで言われる「平和」の意味は空白であり、仙波は「〈平和都市〉のその内側にある「平和」の意味が定位されたことはおそらくない」と喝破する(P10)。
 (ボーガス注:戦前、陸軍第5師団がある)「軍都(ボーガス注:広島)」というアイデンティティを主導したパワーエリートたちが、そのまま〈平和都市〉復興に携わったというのだから興味深い。しかし彼らが着目したのは実は、原爆破壊によってもたらされた「広漠たる空地」であった。結局のところ、彼らを突き動かすのは軍国主義でも平和でもなく、「都市(ボーガス注:開発)に対する強い野心」なのだ(P230)。「平和」という概念は彼らにとって(ボーガス注:都市開発を正当化する)道具になり得ても理想にはなり得ない。それは例えば、基町相生通りに生まれたコミュニティが〈原爆スラム〉として病理化され、〈平和都市〉完成のための解決課題に設定された事が典型的に示している。

『ありふれた〈平和都市〉の解体――広島をめぐる空間論的探求』仙波希望著 評者:林 凌【新刊この一冊】|文化|中央公論.jp評者:林凌*57武蔵大学社会学部専任講師)(『中央公論』2024年11月号)
 〈平和都市〉は、戦後の都市復興により、既に達成された都市像を示す根拠へと転化していく。
 「相生(あいおい)通り」と呼ばれたそこは「原爆スラム」と名指され、〈平和都市〉に反するものとして行政による排除の対象となる。
 本書が描き出すのは、時代状況を色濃く反映した一種の官製キャンペーンの中で、〈平和都市〉が現れていく過程である。それは都市の近代化・発展という、人々の「ありふれた」願いにより生み出された。
 他方重要なのは、この知見は〈平和都市〉が無力な理念だと示唆するものではない、ということだ。
 たとえば、2024年の広島・長崎の平和式典における争点の一つは、パレスチナ問題を抱えたイスラエルが、〈平和都市〉の来賓としてふさわしいのか、という点にあった
 本書の題目にある「解体」とは、〈平和都市〉という理念の否定を意味しない。
 〈平和〉が問い続けなければ維持できないものであるのと同様に、〈平和都市〉もまた、それが何かを問い続けることで初めて効力を発揮する。だからこそ私たちは、「ありふれた〈平和都市〉」を「解体」し続けていかなければならない。

 仙波氏の問題意識(きれいごとだけで広島の復興を描きたくない、描くべきでない)は、西井氏に近い気がしますね。
 なお、「広島復興」を口実としたバラック撤去は「東京五輪」「大阪万博」を口実とした「ホームレス排除」と共通する面があるようにも思います。あるいは「阪神大震災」「東日本大震災」の復興は果たして「弱者排除をしていないのか?」という問題ともつながるでしょう。

【参考:原爆スラム】

原爆スラム - Wikipedia
 広島市中区基町の本川沿いに広がっていたスラム(不法バラック群)の通称である。再開発事業により、現在では消滅している。
 戦後、この一帯は広島市中央公園として整備が決定し、公園用地に応急住宅を建設するなどした。しかし西側の本川沿いは、引揚者などがバラックを建てて住むようになり、1960年(昭和35年)頃には900戸に及ぶ住居が密集し迷路のようになっていた。
 1965年(昭和40年)7月23日の中国新聞によると、この地域を最初に「原爆スラム」と呼称したのは当時の広島市任都栗司(にとぐり・つかさ)である。
 原爆スラムの場所に公営・公団住宅を高層住宅として建設し、それにあわせてショッピングセンター・小学校・集会室などの施設も整備する計画が作成された。この事業計画は、原爆スラムの全域が国有地で住民側に土地所有権がなかったことを背景として策定されたが、実際にはスラム住民の反対運動が起こるなど難航した。
 しかし大小幾多の火災が発生したことなどを受け、1968年(昭和43年)に基町地区再開発計画が立案され、10年の歳月をかけすべてのバラックを撤去した上で整備が行われ、1978年(昭和53年)に完了した。このため1970年代始めまで、旧広島市民球場*58の横にはまだ「原爆スラム」の一部が残っていた。
 この結果、原爆スラムは市営基町高層アパートとして生まれ変わった。周辺もひろしま美術館、広島市立中央図書館、広島市映像文化ライブラリー、広島グリーンアリーナ広島市青少年センター、広島市こども文化科学館、広島市こども図書館、広島市立中央公園ファミリープールが整備され文教地区となり、当時の面影は全くない。
【原爆スラムの登場する作品】
『夕凪の街・桜の国』
 こうの史代の漫画作品。「夕凪の街」篇の主人公・平野皆実(ひらの・みなみ)が暮らしていた家は、原爆スラムの一角にあるという設定。
 なお、話が脱線しますが、こうの作品『夕凪の街・桜の国』は大田洋子の小説『夕凪の街と人と』『桜の国』から、同じくこうの作品『この世界の片隅に』は山代巴編の原爆ルポルタージュ『この世界の片隅で』(1965年、岩波新書)からタイトルを引っ張ってきているようです(「夕凪の街と人と」「桜の国」「この世界の片隅で」: 河野美代子のいろいろダイアリー参照)
 「夕凪の街と人と」「桜の国」「この世界の片隅で」: 河野美代子のいろいろダイアリーは「こうのの行為は違法なパクリ行為ではないのか?」「パクリではないにしても、こうのは自らのタイトルが大田や山代から引っ張ってることをもっと宣伝すべきではないか?。先人へのリスペクトがなさ過ぎるのではないか?」と批判しています。
◆映画『愛と死の記録』(1966年公開)
 吉永小百合演ずる主人公「松井和江」及びその家族は原爆スラムに住んでいる設定。
◆映画仁義なき戦い・広島死闘篇(1973年公開)
◆映画『孤狼の血LEVEL2』(2021年公開)
 原爆スラムを取り壊して建てられた市営アパートが、広島の暴力団「五十子会(いらこかい)系上林組」の組長「上林成浩(うえばやし・しげひろ)」(演:鈴木亮平)が幼少期を過ごした場所として描かれている。
→『仁義なき戦い』シリーズの影響なのか、未だに「ヤクザ映画=広島」なんですかね?
これについては

安田浩一*59
 「孤狼の血LEVEL2」を映画館で観た。(ボーガス注:刑事役の)松坂桃李と(ボーガス注:暴力団組長役の)鈴木亮平の凄味ある演技に圧倒されたが、わずかに映し出される広島市内の団地の風景に不意を打たれて、胸がざわざわと騒いだ。「原爆スラム」とも呼ばれた場所に建てられた高層住宅。私が『団地と移民*60』で取材した団地の一つです。

孤狼の血 LEVEL2 のロケ地考察(マニアックな発見?) 9/9追記 | 50代のオッサンがダラダラ書き流すブログ2021.9.9
 注目したのが上林の少年時代の回想シーンで、少年時代に住んでいたバラック建ての建物とその周辺のセットです。鈴木亮平さんがとてつもなく凶暴なヤクザ上林を怪演されているわけですが、単にサイコパスなヤクザとして片付けられておらず、“人間上林”の形成を物語る上でとても重要な回想シーンとなっています。
 勘違いしないでいただきたいのですが、原爆スラムで生まれ育ったことが、即ち(ボーガス注:暴力団の世界に入った)上林のような不幸な生い立ちという話ではありません。数年前にNHKで放送された『“原爆スラム”と呼ばれた街で』という番組で、当時住んでいらっしゃった方々のインタビューを拝見しましたが、住居の外見とは裏腹に生活水準は高く、毎日楽しかったと答えていらっしゃるのがとても印象的でした。

を紹介しておきます。

髪が抜けあっという間に死んだ父 「原爆スラム」と呼ばれた街の記憶:朝日新聞2024.7.28
 道には家電などの廃品が積み重なり、トタンを張り合わせた簡素な家が並ぶ。その前を、北大路欣也が演じる若いヤクザ「山中正治」が拳銃を手に走る。任俠映画仁義なき戦い・広島死闘篇(1973年)で描かれたのも、基町の一角だった。
 河川敷には約1.5キロにわたってバラックがひしめき合い、1千戸にのぼる不法住宅群は「原爆スラム」とも呼ばれた。

「原爆スラム」番組にヤンキーが映る理由 NHKディレクターの"ふんわり"手法 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)2017.6.25
 6月15日は『ETV特集』(Eテレ)「“原爆スラム”と呼ばれた街で」の再放送を観ていた。
 矢部裕一ディレクターが最初に思い出したのは、映画仁義なき戦い・広島死闘篇(1973年)だ。
 『仁義なき戦い』シリーズの大半は東映京都撮影所周辺で撮影されたが、この作品だけ広島ロケが行われている。1973年の広島にはまだ、辛うじて原爆スラムが残っており、いくつかの風景が「1950年頃の広島」として映っている。
 1978年まで、広島の爆心地近くの川岸に、家を失った人々の集落があった。
 1945年9月、原爆投下に続く枕崎台風の惨禍の後、広島大本営第五師団司令部の跡地に越冬用バラックを建てたのが発端で、これが「相生通り」と呼ばれるバラック集落へ発展した。現在の相生通りとは異なり、本川沿いの基町一帯に存在していた集落は1950年代に入ると、狭い路地の両側に老朽化したバラックと不法家屋が幾重にも立ち並ぶ迷路のようなスラムと化した。
 「原爆スラム」には、被爆者だけが住んでいたわけではなかった。
 秋田からやってきた廃品回収業の裕福な一家。焼酎ばかり飲んでいたアル中のおっちゃん。郊外の山村からやってきた失対労務者(失業者救済対策としての公共事業に従事する労働者)の大家族。在日コリアン2世の入市被爆者。それぞれの人生を辿っていくうちに、戦後の復興と共に消滅していくはずの「原爆スラム」がいつの間にか増殖していた、という現象に突き当たる。
 復興に伴い、市内に点在していた他のバラック集落が急速に整理され、立ち退きを余儀なくされた人々が一時避難的に「相生通り」へ移り住んだのが原因だった。
 「相生通り」の住人たちは、自分たちの街を原爆スラムとは呼ばない。
 こうの史代の漫画作品『夕凪の街・桜の国』には、1955年頃の「相生通り」が描かれているが、その時点では、「原爆スラム」という蔑称は一般的ではなかった。
 ここで、1965年の中国新聞に載った記事が参照される。バラック集落を「原爆スラム」という呼称で括ることを提案した当時の広島市議会議員の発言から、広島市が作成した不法バラックに関する内部資料で、原爆スラムが「都市計画実施上の最大のガン」で「社会悪の温床」と記述されていたことが語られる。もっとも、犯罪発生率は他の地域と大差なく、問題は木造家屋が密集しているスラム特有の問題、頻発する火事であった。
 最後に残った「相生通り」も、1969年に市営基町高層アパートが着工し、1978年の完成と共に消滅した。
 (ボーガス注:原爆スラムを)「復興を労働力として支え、復興が生み出した立ち退き者を受け入れ、そして、復興の名のもとに消えていった」と総括した矢部だが、改めて、すべての登場人物に「相生通りの頃と、現在と、どっちが幸せですか?」と問いかける。
 広島市が意図的に原爆を利用し、国からスラム・クリアランスの補助金を引き出そうとしていた、という事実。そして、被爆者以外の生活者が(ボーガス注:原爆スラムに)存在しなかったかのように、都市の記憶も改竄した、という事実。
 一見、ゆるくぼんやりとした印象を受ける60分の映像は、この二つの事実から構成されている。

ETV特集「“原爆スラム”と呼ばれた街で」 | 帰来堂鍼灸療院|名古屋市千種区 池下駅前の冷えとり健康法の鍼灸治療院
 ETV特集「“原爆スラム”と呼ばれた街で」を見ました。
 「原爆スラム」と呼ばれた町は、原爆ドームの北側、広島市民球場(当時)の先の河川敷に広がっていました。
 私がこの名前を知ったのは最近で、『この世界の片隅に』の関連です。
 原作者のこうの史代さんの別の漫画作品*61では「主人公が原爆スラムの一角で暮らしていたという設定」とあるのを読みました。
 私が生まれる少し前から、こうした住宅の撤去が始まったようですので、それで知らないのかもしれません。
 それでも近所の川岸に家が建っていたことをぼんやりと記憶しています。
 撤去後に建てられた「基町アパート」はよく覚えていますが、そこに遊びに行ったりしたことはありません。
 番組では「原爆で行き場を失った人たちが自力で作り上げた街で、そこに住む人たちの労働力によって広島の町は復興した」というような感じで紹介されていますが、こうしたことは当時はある種のタブーというか、わざわざ子どもに話して聞かせたりはしなかったのでしょう。
 私が知らなかっただけかもしれませんね。何しろ町の真ん中ですから。
 周辺には美術館や図書館があり、私も中高生のころよく利用していました。でも、それができる前がどんなだったか全く知りません。
 番組で紹介された『原爆スラム』は、外見はきれいではありませんが、中は綺麗になっていて、大抵の家にはカラーテレビがあったそうです。不法に建築したバラックではあるとしても、それを「スラム」と呼ぶのはいささか憚られる感じがしました。
 番組の中で印象的だったのは撤去の様子です。
 戦後(被爆後というべきでしょうか)行き場を無くした人たちが広島市内の各地に住み着いていたのですが、それを昭和30年代に順番に強制撤去をしたそうです。
 番組の最後に、元の住民の方たちに「今と当時とどちらが幸せですか?」と質問していました。
 その答えは「当時は生活は大変だったけれど、自分だけが貧しかったわけではないし、活気もあったしあのころの方が楽しかった」というようなものでした。
 貧しくても愛があれば、楽しいこともあって幸せを感じることができるということかもしれません。
 正直に申し上げて、何とも複雑な気持ちになる番組でした。

感動したぞ!原爆スラムのドキュメンタリー | 鹿児島でアンテナ工事をしています スモールアンテナ社2017.6.15
 NHKのEテレで「原爆スラムと呼ばれた街で」というドキュメンタリーをしていました。
 すばらしい内容です。
 天下のNHKでも、広島・基町相生通り(現在の相生地区と異なります。)の映像は、2分ちょっとしか残っていないようです。昭和42年のものが現存しています。
 40年前に実際に相生の原爆スラムに住んでいた人も数人登場しました。
 土手を歩く人と住人の人のあいだで、「汚い」「中はキレイだ。」と口論もあったそうです。
 実際は、テレビなど家電製品も備わり、ほとんどの人は、部屋はキレイにしていたと話しています。
 だいたいが、平均したような生活ぶりだったそうですが、どこの土地でもお金持ちは存在します。廃品を一手に買い受ける業者さんの子息は、幼少期にはバイオリンをしていたそうです。
 立ち退きを要求される土地に立っている自宅。
 隣接しているために、すぐに大火に罹災してしまう環境。
 相生での生活は、筆舌しがたいものが想像されるものです。しかし想像と違うのは、住人の皆がいうのは「あの頃は、楽しかった。」という回答です。NHKの取材した担当の人がいっていましたが、「皆、口をそろえていうのが、相生での生活は楽しかった。」という風に番組でのべています。


◆歴史のひろば「戦争孤児研究の到達点と教育実践」(本庄豊*62
(内容紹介)

・『戦争孤児をしっていますか?』(2015年、日本機関紙出版センター)
・『戦争孤児:「駅の子」たちの思い』(2016年、新日本出版社
・『戦争孤児たちの戦後史2:西日本編』(編著、2020年、吉川弘文館

といった戦争孤児研究著書のある筆者が、戦争孤児研究の最近の動向について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、筆者からは次の指摘があります。
・戦争孤児といった場合、「戦争(空襲など)で親が死んだ場合」が想定されがちだが「生活苦から親が子どもを遺棄した場合」「親代わりの存在(親族)の虐待(性的虐待を含む)に耐えられず、家出した場合(勿論、生活のために虐待に耐えた場合もありますが)」「いわゆるパンパンが米兵との性的交渉で出産したが、生活苦から遺棄した混血孤児」も含まれる。
 叔母の精神的虐待(穀潰し扱い)に耐えきれず、叔母の家を出て、兄妹が餓死した『火垂るの墓』の清太、節子兄妹はその一例である。
・また空襲で親が死んでも、きちんとした引き取り手(例:両親が東京大空襲で死亡したが、3代目三遊亭金馬に引き取られ、その後、初代林家三平と結婚した海老名香葉子(九代目林家正蔵は長男、二代目林家三平は次男))があれば,孤児として餓死するなどの問題はもちろん無かった。
 なお、筆者に寄れば戦争孤児のマンガを描く予定というマンガ家・水谷緑氏の取材を受けたそうです。
 「水谷緑、戦争孤児」でググっても記事がヒットしないので、「まだ発表されてない」んですかね。
 水谷氏ですが以下の通り、社会派マンガの多い御仁のようですね。

「ヤングケアラー」の人生を描いた漫画家登壇 佐賀でシンポ|NHK 佐賀県のニュース2025.3.14
 10人の元ヤングケアラーから聴き取った話をもとに、当事者の人生を描いた漫画*63を出版した漫画家の水谷緑さんが登壇し、本を書いたきっかけについて「小学1年生くらいの子どもが、ご飯の準備や兄弟のおむつ替えをして、家族を支えているのは自分だと誇らしげに語る姿を見て問題だと感じた」と話していました。

 ちなみに、最近の「戦争孤児」関係著書(上で紹介した本庄著書は除く)としては「戦争孤児」でググってヒットした以下の著書があります(今日の産経抄(2023年7/18日分)(副題:戦災孤児を見捨てた戦後日本)(追記あり) - bogus-simotukareのブログでも一部を紹介しましたが)。

【刊行年順(刊行年が同じ場合は著者名順)】
◆金田茉莉『東京大空襲と戦争孤児:隠蔽された真実を追って』(2002年、影書房
◆謝花直美『戦場の童:沖縄戦の孤児たち』(2005年、沖縄タイムス社)
◆浅井春夫*64沖縄戦と孤児院』(2016年、吉川弘文館
◆藤井常文*65『戦争孤児と戦後児童保護の歴史:台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち』(2016年、明石書店
石井光太*66『浮浪児1945:戦争が生んだ子供たち』(2017年、新潮文庫
◆浅井春夫編『戦争孤児たちの戦後史1: 総論編』(2020年、吉川弘文館
◆金田茉莉『かくされてきた戦争孤児』(2020年、講談社
中村光博 『「駅の子」の闘い:戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』(2020年、幻冬舎新書)
 中村はNHKディレクター。中村が制作したNHKスペシャル『“駅の子”の闘い~語り始めた戦争孤児~』(2018年8月12日放送)の書籍化。
 駅でのモク拾いや靴磨きなどで生計を立てていた戦災孤児が多かったために戦災孤児は「駅の子」と呼ばれた。
 「火垂るの墓」の清太が餓死したのも、当時多くの戦災孤児が生活の場としていた「国鉄三ノ宮駅」である。
◆浅井春夫編『戦争孤児たちの戦後史3: 東日本・満洲編』(2021年、吉川弘文館
◆土屋敦*67『「戦争孤児」を生きる:ライフストーリー/沈黙/語りの歴史社会学』(2021年、青弓社
◆藤井常文『中込友美と戦争孤児施設・久留米勤労輔導学園』(2022年、けやき出版)
◆長谷川敦『戦争が終わり、そして子どもたちの戦いが始まった:戦後80年を生き抜いた戦争孤児の物語』(2025年、旬報社
◆藤井常文『かつて、東京に、こんな戦争孤児施設があった:戦後社会的養護の源流をたどる』(2025年、都政新報社

 なお、話が脱線しますが、以下の記事の通り、日本はともかく世界(例:戦時下のウクライナ)においては戦争孤児は決して過去の問題ではありません。

ウクライナ避難孤児、養子縁組進まず…里親に見放され「トラウマ」抱える子も : 読売新聞2023.7.18
 戦争の長期化で、身寄りのない子どもは増えつつある。国連児童基金ユニセフ)の協働NGOのルカ・パセッティさん(32)は「施設にいても精神状態は改善しない。最良の解決策は養子縁組だが、ウクライナと各国で制度ややり方が異なる。国際機関が懸け橋となってこの困難に取り組むべきだ」と指摘する。

【参考:戦災孤児
 今はある種の「戦災孤児ブーム」なのかもしれません。これを「一過性のブーム」に終わらせず、一定の成果を上げたいものです。

15歳のニュース:15歳のニュース 戦後76年・戦争は終わっていない 第1部・戦争孤児/3 苦境のストレスが子供に | 毎日新聞【栗原俊雄】2021.7.31
 1945年3月10日の東京大空襲で孤児となった吉田由美子さん(80)も親戚の家を転々とし、4軒目の引き取り先は新潟県にある顔も知らない父の姉(伯母)の家だった。空襲から3年が過ぎ6歳の吉田さんは両親の顔も声も覚えていなかった。
 「それでも両親は生きていて、いつか自分を迎えに来てくれる」。
 そう信じて住み始めた吉田さんに、伯母は言い放った。
 「空襲でお前も親と一緒に死んでくれればよかったのに。そうすればお前を育てないですんだ」
 小学校低学年の吉田さんは家族ではなく「お手伝い」の扱いだった。
 夕食は、「家族」の残り物か、仏壇に供えられていたご飯だった。それにお湯をかけて食べた。
 あまりにひどい仕打ちに、「両親を戦争で亡くした幼い子どもに、しかも親戚が、どうしてそんなひどいことをするんでしょうか」と、思わず記者がつぶやくと、吉田さんは静かに語った。
 「みんな戦争で苦労していましたから。孤児を引き取った家も経済的に苦しかったのでしょう。そうしたストレスが、私たち子どもに向かってしまったんですよ」
 記者は、他の孤児への取材から、引き取られた親戚宅でつらい体験をした孤児は少なくないことを知った。

栄養失調で動けない「浮浪児」は蹴飛ばされ…敗戦後、地下道の現実 [戦後80年 被爆80年]:朝日新聞2025.4.12
 終戦後の東京・上野駅地下道には、守ってくれる親を奪われた戦争孤児たちが数多くいた。
 栄養失調で倒れても支援は届かず、幼い命が次々と路上に消えた。
 現在では想像もできない状況がそこにはあった。
 鈴木賀子(よりこ)さん(87)=埼玉県川口市=は終戦後間もない頃、上野駅の地下道にいた。当時7歳、4歳の弟も一緒だった。1945年3月10日の東京大空襲で家を焼かれ、親を亡くしていた。

 栄養失調で動けない「浮浪児」を、通行人が「邪魔だ」って蹴飛ばしていく。蹴られても動かない子は死んでいるんです。
 その光景を見ても、そのうち何とも思わなくなりました。人が死んで悲しい、なんて感情はなくなっていました。
 そんな時代が日本にあったことを、いまの人は想像できないでしょう?

 弟と2人の命をつなぐため、残飯をあさり、弁当を盗んだ。生き延びるすべを教えてくれたのは、同じく「浮浪児」だった「お兄ちゃん」だった。

 いまの小学校高学年か中学生ぐらいのお兄ちゃんから、「ちょっと来いよ」って声をかけられました。当時は食堂なんてそれほどないから、列車で上京した人たちは上野公園でお弁当を広げて食べていた。それをみんなで狙うんです。

(以下は有料記事です)

100歳が語る上野駅地下道の記憶 戦争孤児、乳児抱く高齢の女性も [戦後80年 被爆80年]:朝日新聞2025.6.16
 「上野界隈(かいわい)見聞録」
 6月に100歳になった市川清忠さん(千葉県四街道市)から、そんな表題の手紙が朝日新聞社に届いた。
 市川さんは、神奈川・横須賀の基地で訓練中に終戦を迎えた。戦後、キリスト教徒となり、知人の牧師に「上野での説教を手伝って」と頼まれたのが、地下道訪問のきっかけだった。
 終戦から約2年が過ぎた頃だったという。
 孤児の多くは、鉄道の乗客に弁当やお金をもらったり、置き引きなどの盗みをしたりして、生き延びていた。
 「モク拾い」「靴磨き」などで日銭を稼ぐ子もいた。
 「モク拾いは、たばこの吸い残しを拾い集めることです。中身をほぐして、薄い紙でまき直して売るのです」

広島出身の映画監督 西川美和さん 戦争をテーマにした初めての映画を製作 撮影現場に密着 戦後80年 | NHK | 戦後80年2025.8.13
 作品のタイトルはまだ発表されていませんが、終戦直後の東京を舞台に、戦争で親を失った“戦争孤児”たちを取り上げた作品です。
 自分を守るため性別を偽る少女や、靴を磨いて日銭を稼ぐ少年たちなど、戦争がもたらした理不尽な状況の中でも、子どもたちがたくましく生き抜いていく姿を描いています。

終戦後、孤児12万人超 4分の1は戦争原因―国調査:時事ドットコム2025.8.16
 終戦後の1948年2月、厚生省(当時)は児童福祉法制定に伴い「全国孤児一斉調査」を実施した。(ボーガス注:米軍統治下のため調査できなかった)沖縄を除く全国で約12万3000人*68に上り、約4分の1が戦争による孤児だった。
 土屋敦*69関西大教授(歴史社会学)によると、戦争孤児の多くは親戚宅での虐待や、人身売買など過酷な状況に置かれた。行政は「かり込み」と呼ばれた「浮浪児」の補導を行い、鉄格子のある施設などに収容。食糧難や虐待など劣悪な環境の施設もあったという。
 当事者は差別を恐れるなどしたため、体験が語られるようになった時期は遅く、「資料の蓄積も十分ではない」と指摘。「親という後ろ盾を失った後も人生は長く、子どもに戦争のしわ寄せがいった。戦争が引き起こした体験の重さを残していくべきだ」と強調した。

西川美和監督が新作映画で戦争孤児を撮る理由…「戦争がもたらしたものを描くのは時代ごとの作り手が果たすべきひとつの役割」 : 読売新聞2025.8.19
 西川美和*70監督が、今、第2次世界大戦後の混乱期を舞台にした新作映画の制作に取り組んでいる。物語の中心となるのは、戦争孤児と呼ばれた子どもたちだ。
 西川監督によるこの新作は、タイトルも公開時期も未定。物語は、西川監督自身によるオリジナルで、撮影は、4月末から約3か月間かけて行われた。
 どんな作品になるのか。現時点では、物語の詳しい内容や出演者などは公表されていないが、このほど製作チームから届いた監督の談話を通して、制作のきっかけや、作品にこめる思いを紹介する。撮影中の6月末に語った内容だ。
 戦争孤児に関心を抱いたのは、前作『すばらしき世界』に取り組んだことがきっかけだったという。
 原案は、佐木隆三*71のノンフィクション小説『身分帳』で、時代を現代に置き換えて映画化した。
「『身分帳』には、主人公の生い立ちが非常に細かく描かれていました。彼自身は戦争孤児ではなく、昭和16年(1941年)に芸者をしていた母親のもとに生まれ、戦後の混乱期には預けられていた児童養護施設を飛び出して、戦争孤児たちと共に駅や街で浮浪生活をするようになります」
 「彼らを養おうとしたり居場所を与えてくれたりするのは、一般の大人ではなく、駐留米軍や極道の人たちでした。そうした人々のもとで、犯罪や暴力、売春、大人からの虐待や薬物などと至近距離で接しながら、普通の家庭の子供とはまるで異なる生存手段を身につけ、結局裏社会で生きるより他なくなった彼の半生が描かれていました。愛情や教育から隔絶されて育った子どもが、どのような精神性に陥っていくかも主人公のキャラクターには色濃く反映されていましたし、これも一つの裏戦後史だと思い、興味をそそられていました」

【参考:モク拾い】

戦後75年、イラストレーター成瀬國晴さんが描く戦後復興期の大阪(6)「モク拾い」 - 産経ニュース2020.8.29
 拾った吸いがらをほぐし、巻いて、10本を束にして闇市で売る。これを「シケモク」といった。「シケたモク」の略語で「ダメなタバコ」のこと。シケは時化でダメとか不景気の意。

「新型モク拾い」5万本を突破 たばこポイ捨て禁止を訴え | ページ 2 | ヨミドクター(読売新聞)2021.10.26
 禁煙ジャーナル2021年4月号によると、「モク拾い」とは、第2次大戦後のたばこ不足の時代に、路上に捨てられていた吸い殻を集めて薄紙に巻き、闇市場で売るために、吸い殻を拾う行為。
 これに対し、「私たちは、世の中からタバコをなくすことを目指し、不法に投棄されたタバコ吸い殻を清掃し、その数や重量を報告し、タバコ消費への対応策を社会で考えてもらうことを目標に活動している。即ち『新型モク拾い』である」と述べられている。

【参考:火垂るの墓

「火垂るの墓」が7年ぶりの地上波へ 放送されなかった背景事情は [戦後80年 被爆80年]:朝日新聞2025.5.26
 スタジオジブリのアニメ映画「火垂るの墓」(1988年公開)が、終戦から80年を迎える8月15日の「金曜ロードショー」(日本テレビ系、午後9時)で、7年ぶりに地上波で放送されることが決まった。
 「となりのトトロ」(1988年公開)や「風の谷のナウシカ」(1984年公開)など、ほかの定番ジブリ作品は変わらず放送を重ねるなか、7年もの空白が続いた「火垂るの墓」。SNSを中心に「『火垂るの墓』は悲惨すぎるからか?」などと臆測が飛び交い、時には「放送禁止になったのでは」という解釈が拡散したこともあった。
 これに対し、日テレの福田博之*72社長は、会見で「ほかにも放送していないジブリ作品はある。特別な理由があるわけではなく、(ボーガス注:視聴率など)色々な状況から編成判断をしている」と述べた。
(以下は有料記事です)

<沈黙の80年 語れなかった戦争孤児たち>(1)「火垂るの墓」は、私の物語 見過ごされた過酷な境遇|社会|神戸新聞NEXT2025.7.27
 この夏の終戦の日(8/15)、一本のアニメ映画が7年ぶりに(ボーガス注:日本テレビ金曜ロードショー』という)地上波で放映される。
 「火垂るの墓」(1988年公開)。日本で最も知られているであろう〈戦争孤児の物語〉だ。
 原作の舞台は神戸と西宮。母を空襲で失い、父は戦地から戻らなかった。幼い兄妹は家も食べる物もなくなり、路上で衰弱死する。
 その哀れな末路は多くの人の涙を誘った。
 では、あのとき、同じ場所(ボーガス注:例えば清太が餓死した「国鉄三ノ宮駅(現在のJR西日本三ノ宮駅)」)で、アニメの兄妹と同じように過酷な日々を生き抜いた孤児たちは、その後どうなったのか。彼らに手を差し伸べた人はいたのだろうか。
 戦後80年。その実情は今なお、ほとんど知られていない。

昭和100年8月15日に見た『火垂るの墓』の感想 - 戦跡めぐるひとり旅女2025.8.31
 今年8月15日には、金曜ロードショーで『火垂るの墓』(1988(昭和63)年公開、高畑勲監督)が7年ぶりに放映されました。
 太平洋戦争末期、空襲により母親と家を失った4歳の節子と14歳の清太の兄妹。
 親戚のおばさんの家に身を寄せるものの、厄介者扱いされることに耐えきれなくなった清太は、家をでて野外で兄妹ふたりだけで生活していくことを選びます。
 次第に困窮し、節子は栄養失調で命を落とし、節子を火葬して程なく清太自身も息絶えます。
 作家の綿矢りさによると、『火垂るの墓』を鑑賞して「幼心には処理しきれないほどのトラウマを背負う日本の小学生は少なくない」(『かわいそうだね?』文春文庫)らしいですが、まったくその通りで、わたしもその小学生のうちの一人でした。
 思い出すだけで嗚咽が・・・
(中略)
②清太と節子の選択
 おばさんは最低最悪ですが、おばさんだけが特別意地悪だったわけではなく、むしろ当時は(今も?)一般的な大人のうちのひとりでした。
 火垂るの墓に出てくる大人はみな未熟で冷たいです。
 兄妹に積極的に関わろうとする人はいません。
 おばさんはもちろん、戦災孤児*73の死体に慣れた様子の駅員、食糧を盗んだ孤児*74に警官が嗜めるくらいひどい暴行をした農家のおやじ、衰弱した子供*75に処置をしない医者など。
 大人は本来、子供を庇護する存在であるはずなのに、みんなが見て見ぬふりをします。
 そのため特に清太は大人を信用しなくなります。
 「頭下げておばさんの家に戻れ」とか「子供*76の火葬には寺の一角を貸してもらえ」とかの周囲の大人の助言を一切聞き入れません。
 清々しいくらい、ことごとく反発していきます。
 最終的に兄妹ふたりとも衰弱死してしまうので、おばさんの家を出て二人きりでの生活を始めるという選択は、生き延びるという点においては失敗でした。
 生き残ることを第一とするなら、自分を曲げて大人に頭を下げるべきでした。
 が、己の尊厳を守るという点では、この選択しかなかったんじゃないかと思うんですよね。


◆近世中後期における寺社由緒の再確認と御免勧化の手筋構築:駿府臨済寺と今川家の関係について(松本和明*77
(内容紹介)
 まず、「臨済寺」(現在の静岡市にある。臨済宗妙心寺派)が戦国期においては今川氏輝今川義元*78菩提寺として、今川氏の支援を受けたことを指摘。
 しかし、近世(江戸時代)においては「高家*79今川氏」初代となった今川直房(今川氏真*80の孫)は祖父「今川氏真」の菩提寺「観泉寺」(現在の東京都杉並区にある。曹洞宗)を今川家の菩提寺とし、「臨済寺」を菩提寺扱いすることは無かった。
 こうして長い間、「臨済寺」と「高家今川氏」はほとんど関係が無かったが、御免勧化勧化は寺院修復のために信者から寄付を募ること、御免勧化はその許可を幕府から得ること)の手筋(政治工作ルート)として「高家・今川家」を活用するため、今川氏輝今川義元菩提寺だったことを前面に出し、「高家・今川家との関係を再構築」する方向に近世中後期の臨済寺(なお、当時の高家・今川氏の当主は今川義泰、今川義彰、今川義用、今川義順、今川範叙*81)は動いていく。
 それは【1】御免勧化を得ることが容易ではないという事実と、【2】今川家とは別のルートでの御免勧化の政治工作が今まで成功しなかったという事実が前提にあるとみられる。
 つまり「寺社由緒(例えば、臨済寺の場合、今川氏輝、義元の菩提寺)」とは単に「事実の指摘」ではなく、「政治的思惑による政治活動」だったわけです。


◆科学運動通信「大山古墳(仁徳天皇陵)立入観察参加記」(阿部大誠)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

日本最大の大山古墳、初の立ち入り 歴史・考古学系の17学会・協会 [大阪府]:朝日新聞2025.3.7
 国内最大の前方後円墳世界遺産の大山(だいせん)古墳(伝・仁徳天皇陵堺市)で7日、歴史・考古学系の17学会・協会の代表者が墳丘に立ち入り、現状を観察した。戦後、学会関係者の同古墳墳丘への立ち入りは初めて。
 歴代天皇や皇族を埋葬したとされる「陵墓」は、同庁により一般の立ち入りが禁じられている。研究者による立ち入り観察は2008年に初めて許可され、18カ所目。大山古墳は学術的に重要な文化遺産だが、規制のため墳丘本体の情報がほとんどなく、2005年の要望当初からの第1候補だった。学会側は公開や観察範囲・機会の拡充を求めて働きかけを継続するという。

大阪 堺の大山古墳 研究者グループが立ち入り調査|NHK 関西のニュース2025.3.7
 日本考古学協会の理事で東京学芸大学の日高慎*82教授は「熱望していた立ち入りがかなって感動している。この感動を一般の人たちにも共有してもらえる道を探っていきたい。崩れている場所が多く、保全のあり方を研究者としても考えていきたい」と話していました。


歴史評論掲載の広告】
◆佐原徹哉*83『極右インターナショナリズムの時代:世界右傾化の正体』(2025年、有志舎)
 佐原本が評価に値するかはともかく、

◆米国のトランプ政権
◆フランスの国民連合
◆ドイツの「ドイツのための選択肢」
◆日本の参政党

等、世界中で「極右」が一定の勢力を保有する中、「なぜ世界中で極右が一定の政治力を保有してるのか?」という観点は重要でしょう。

*1:戦前日本が支配していた植民地のこと。具体的には台湾、朝鮮、南樺太(南サハリン)、南洋諸島(現在の北マリアナ諸島パラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦)、満州国(現在の中国東北部)など(外地 - Wikipedia外地(ガイチ)とは? 意味や使い方 - コトバンク参照)

*2:今月号掲載の論文『生産地の報道に見る敗戦直後の「闇」』(原山浩介)のこと。ここでの「闇」とは「闇米」「闇市」を意味する。

*3:今月号掲載の論文『戦争孤児研究の到達点と教育実践』(本庄豊)のこと

*4:今月号掲載の論文『広島の戦災都市復興とその経験』(西井麻里奈)のこと

*5:今月号掲載の論文『沖縄占領下の労働と移動』(謝花直美)のこと

*6:今月号掲載の論文『大日本帝国から日本国へ』(加藤聖文)のこと

*7:今月号掲載の論文『日ソ戦争後のサハリン島の境界変動と樺太』(中山大将)のこと

*8:「予想されるロシア人島民の反対(島民の反発で島が返ってこない)」を考えれば与えないわけにはいかないでしょう。

*9:最近はマスコミで報じられるのでご存じの方も多いでしょうが、法律的な意味で正式に終戦したのは「1945年8月15日(玉音放送の日)」ではなく「日本政府が東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書(ポツダム宣言)に正式に調印した1945年9月2日」です(終戦の日 - Wikipedia参照)。したがって、 中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典 - Wikipedia(2015年9月3日)、 中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年記念式典 - Wikipedia(2025年9月3日)は「ミズーリ号での降伏文書調印(9/2)の翌日である9/3」に行われました。

*10:著書『シベリア抑留』(2009年、岩波新書)、『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、岩波ブックレット)、『遺骨:戦没者三一〇万人の戦後史』(2015年、岩波新書)、『特攻:戦争と日本人』(2015年、中公新書)、『「昭和天皇実録」と戦争』(2015年、山川出版社)、『戦後補償裁判』(2016年、NHK出版新書)、『シベリア抑留・最後の帰還者:家族をつないだ52通のハガキ』(2018年、角川新書)、『東京大空襲の戦後史』(2022年、岩波新書)、『硫黄島に眠る戦没者:見捨てられた兵士たちの戦後史』(2023年、岩波書店)、『戦争と報道:「八月ジャーナリズム」は終わらない』(2025年、岩波ブックレット) 等

*11:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方創生担当相等を経て首相

*12:「承継」の意味

*13:駒澤大学教授。著書『満鉄全史』(2006年、講談社選書メチエ→2019年、講談社学術文庫)、『「大日本帝国」崩壊』(2009年、中公新書)、『満蒙開拓団』(2017年、岩波現代全書)、『国民国家と戦争:挫折の日本近代史』(2017年、角川選書)、『海外引揚の研究:忘却された「大日本帝国」』(2020年、岩波書店

*14:現状は、外国人も生活保護の対象となっているが、日本政府は「国民と違い外国人は当然に生活保護の対象内になるものではない、外国人には生活保護受給権はない(温情措置として外国人に支給している)」としている。そのため、排外主義「産経」は外国人に「当分の間」認められた生活保護、問われるも…政府は詳細把握せず「見直さない」 - 産経ニュース(村上智博記者:2025.6.17)において、公然と「生活保護対象から外国人を外せ」と主張している。

*15:国民民主党国対委員長政調会長、立民党政調会長、代表を経て、立民党常任顧問

*16:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)等を経て首相

*17:恵泉女学園大学名誉教授。著書『戦後補償から考える日本とアジア』(2004年、山川出版社)、『スガモプリズン:戦犯たちの平和運動』(2005年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『日本軍の捕虜政策』(2005年、青木書店)等

*18:朝鮮人BC級戦犯の内海氏の著書として『朝鮮人BC級戦犯の記録』(1982年、勁草書房)、『朝鮮人<皇軍>兵士たちの戦争』(1991年、岩波ブックレット)、『キムはなぜ裁かれたのか:朝鮮人BC級戦犯の軌跡』(2015年、朝日選書)、『朝鮮人BC級戦犯の記録』(2015年、岩波現代文庫

*19:日本女子大学名誉教授。著書『司馬遼太郎の幕末・明治』(2003年、朝日選書)、『大正デモクラシー』(2007年、岩波新書)、『増補・〈歴史〉はいかに語られるか:1930年代「国民の物語」批判』(2010年、ちくま学芸文庫)、『近現代日本史と歴史学』(2012年、中公新書)、『戦後史入門』(2015年、河出文庫)、『加藤周一を記憶する』(2015年、講談社現代新書)、『近現代日本史との対話【幕末・維新─戦前編】』、『近現代日本史との対話【戦中・戦後―現在編】』(以上、2019年、集英社新書)、『増補・「戦争経験」の戦後史』(2020年、岩波現代文庫)、『成田龍一歴史論集1:方法としての史学史』、『成田龍一歴史論集2:〈戦後知〉を歴史化する』、『成田龍一歴史論集3: 危機の時代の歴史学のために』(以上、2021年、岩波現代文庫)等

*20:1978年生まれ。2001年、TBS入社。2023年9月からTBSテレビ『news23』(月~ 木曜日)キャスター、2023年10月から、TBSラジオ『まとめて!土曜日』メインパーソナリティー藤森祥平 - Wikipedia参照)

*21:それは台湾側ならまだしも、藤森氏や俺のような「日本人の側」が「言うべきこと」なんですかね?。俺はそんなことは「植民地支配の正当化」であり「言うべきでない」と思いますが。そもそも「先住民族の争いをなくすため」に戦前日本は同化政策日本語教育など)をすすめたわけでもないでしょう。このコメントが「取材VTR」を「台無しにしてる」感を禁じ得ません。

*22:1992年生まれ。2015年、TBS入社。2024年4月からTBSテレビ『news23』(金曜日)メインキャスター(上村彩子 (アナウンサー) - Wikipedia参照)

*23:1915~1997年。1972年1月24日、島民によって身柄確保。2月2日に日本帰国。記者会見での横井の言葉「恥ずかしながら帰って参りました」は1972年の流行語となった。(横井庄一 - Wikipedia参照)

*24:1922~2014年。1974年にフィリピン軍に投降。当時のマルコス大統領は小野田がフィリピンで犯した犯罪行為について恩赦を与え、その後、小野田は日本に帰国した。この時に日比間で交わされた外交文書によれば、日比両政府による極秘交渉の中で小野田により多数の住民が殺傷されたことが問題視され、フィリピンの世論を納得させるためにも何らかの対応が必要とされたという。フィリピンに対する戦後賠償自体は1956年の日比賠償協定によって解決済みとされていたが、小野田によるフィリピン民間人殺傷と略奪のほとんどは終戦以降に発生したものであり、反日世論が高まることへの懸念から、日本政府はフィリピン側に対し「見舞金」として3億円を拠出する方針を決定した(小野田による略奪・殺人・放火に苦しめられた島民は少なくなかった)。小野田の手記『わがルバング島の30年戦争』(1974年、講談社)のゴーストライターであった作家の津田信(1925~1983年)は、著書『幻想の英雄:小野田少尉との三ヵ月』(1977年、図書出版社)において、小野田が戦後、島民を30人以上殺害したと証言していたこと、その中には正当化できない殺人があったと思われることなどを述べ、小野田は戦争の終結を承知しており、小野田が言う「残置任務」など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え「島民の復讐」を恐れたことが原因であり、小野田は嘘をついているとして、小野田を厳しく批判している。津田の長男でジャーナリストである山田順も、父・津田が小野田手記のゴーストライターとして「嘘を書いたこと」は痛恨の極みであったろうと評価し、小野田についても「ただの人殺し」、「完全に創られた虚構のヒーロー」として小野田を非難している。(小野田寛郎 - Wikipedia参照)

*25:著書『昭和を生きた台湾青年:日本に亡命した台湾独立運動者の回想 1924-1949』(2021年、草思社文庫)

*26:1959年生まれ。産経新聞台北支局長、上海支局長、論説委員等を経て、現在は東京国際大学教授。著書『還ってきた台湾人日本兵』(2003年、文春新書:中村輝夫について言及)、『李登輝秘録』(2020年、産経新聞出版)、『台湾民主化の闘士・謝長廷と台湾と日本』(2023年、産経新聞出版謝長廷高雄市長、民主進歩党主席、台湾行政院長(首相に該当)、台北駐日経済文化代表処駐日代表(駐日大使に該当)などを歴任)

*27:加藤論文も指摘していますが、是非はともかく日本国内で横井や小野田ほどには、中村が知られてないことは「不思議ではない」ですね。帰国後、日本のテレビに出たり、小野田『わがルバング島の30年戦争』(1974年、講談社)、『わが回想のルバング島』(1988年、朝日新聞社)、横井『明日への道:全報告グアム島孤独の28年』(1974年、文藝春秋社)を刊行した小野田や横井と違い、台湾に帰ったこともあり、中村の日本メディア露出はほとんどなかったわけです。

*28:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)等を経て首相

*29:1923年生まれ。1969年、『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞

*30:北海道大学准教授。著書『亜寒帯植民地樺太の移民社会形成』(2014年、京都大学学術出版会)、『サハリン残留日本人と戦後日本:樺太住民の境界地域史』(2019年、国際書院)、『歴史総合パートナーズ⑩:国境は誰のためにある?:境界地域サハリン・樺太』(2019年、清水書院)。個人サイト中山大将の研究紹介―T.NAKAYAMA's Research

*31:1945~2025年。成蹊大学名誉教授。著書『スターリニズムの統治構造』(1996年、岩波書店)、『戦間期の日ソ関係』(2010年、岩波書店)、『シベリア抑留者たちの戦後』(2013年、人文書院)、『シベリア抑留』(2016年、中公新書)、『日本人記者の観た赤いロシア』(2017年、岩波現代全書)、『歴史としての東大闘争』(2109年、ちくま新書)、『シベリア抑留者への鎮魂歌(レクイエム)』(2019年、人文書院)、『抑留を生きる力:シベリア捕虜の内面世界』(2022年、朝日選書)、『ゾルゲ工作と日独ソ関係:資料で読む第二次世界大戦前史』(2024年、山川出版社)、『共産党の戦後八〇年』(2025年、人文書院)等

*32:大阪大学名誉教授。著書『外交儀礼から見た幕末日露文化交流史』(2008年、ミネルヴァ書房・日本史ライブラリー)、『高田屋嘉兵衛』(2012年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)等

*33:岩手大学准教授等を経て、成城大学教授。著書『中東鉄道経営史:ロシアと「満洲」1896-1935』(2012年、名古屋大学出版会)、『満蒙』(2014年、講談社選書メチエ)、『シベリア出兵』(2016年、中公新書)、『日露近代史』(2018年、講談社現代新書)、『蔣介石の書簡外交:日中戦争、もう一つの戦場』(2021年、人文書院)等

*34:著書『樺太・シベリアに生きる : 戦後60年の証言』(編著、2005年、社会評論社

*35:おそらく「メインの残留者は女性である」のでしょうが、数が少ないとは言え、女性以外にも残留者は当然いるので、そこを強調することには「やや問題がある」ように思います。まあ、政府認定拉致被害者でも「有本恵子氏」「横田めぐみ氏」など女性ばかりがマスコミではクローズアップされ、「石岡亨氏」「松木薫氏」など男性はあまり取り上げられない(女性被害者の方が同情を得やすい?)ので、こうした「物言いの意図(?)」は何となくわかりますが。話が脱線しますが、東京 八王子 スーパー「ナンペイ」3人殺害事件 未解決のまま30年 “どんなことでも情報提供を” | NHK | 東京都(2025.7.30)、スーパー強盗殺人事件から30年 被害者母校で風化防止訴え 東京 | NHK | 事件(2025.9.21)も「犠牲者3人全員女性(うち2人は女子高生という若い女性)」ということがマスコミで報じられる大きな要因ではないか。

*36:本土空襲(東京大空襲など)や広島、長崎への原爆投下等でも、戦後80年が経ち、当事者の多くが死去していることで、そうした「語り部育成」は行われていたかと思います。これについては、例えば「次世代の語り部」講話 - 昭和館岩手:戦争体験次世代へバトン 史実学ぶ研修 語り部育成 岩手県遺族連合会青年部 :地域ニュース : 読売新聞(2025.2.19)、兵士証言や義足体験…戦争の記憶承継へ戦後世代の語り部も育成 - 日本経済新聞(2025.2.27)、次世代の語り部を 日本遺族会が語り部育成で九州・沖縄合同大会 | TBS NEWS DIG(2025.9.19)参照

*37:もちろん「残留日本人全てが女性というわけではない」「残留日本人女性の夫全てが朝鮮人というわけではない」とはいえ、夫が朝鮮人であることは【1】日本の朝鮮人差別を恐れて夫が帰国を躊躇する、【2】日本側が朝鮮人夫の受け入れに消極的と言うことで、在樺太日本人女性の日本帰国を疎外しました。

*38:著書『サハリン、ウクライナ、そして帰郷』(2025年、群像社

*39:1930年生まれ。元「全国樺太連盟」理事。樺太関係の著書に、『わが内なる樺太:外地であり内地であった「植民地」をめぐって』(2008年、石風社)。北海道立札幌南高等学校、藤女子高等学校、成城学園高等学校で国語教師として教鞭を執り、国語教育関係の著書に『書く力をつけよう:手紙・作文・小論文』(1983年、岩波ジュニア新書)、『職業としての「国語」教育』(2019年、石風社)等

*40:シベリア抑留関係の著書として富田『シベリア抑留者たちの戦後』(2013年、人文書院)、『シベリア抑留』(2016年、中公新書)、『シベリア抑留者への鎮魂歌(レクイエム)』(2019年、人文書院)、『抑留を生きる力:シベリア捕虜の内面世界』(2022年、朝日選書)等

*41:著書『シベリアに逝きし46300名を刻む:ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、七つ森書館

*42:著書『中国・サハリン残留日本人の歴史と体験』(2019年、明石書店

*43:富田武 - Wikipediaによれば急性骨髄性白血病

*44:闇米のこと

*45:日本大学教授。著書『消費者の戦後史』(2011年、日本経済評論社

*46:山口良忠 - Wikipedia(1913~1947年)のこと

*47:琉球大学准教授。著書『戦場の童:沖縄戦の孤児たち』(2005年、沖縄タイムス社)、『証言・沖縄「集団自決」』(2008年、岩波新書)、『戦後沖縄と復興の「異音」:米軍占領下、復興を求めた人々の生存と希望』(2021年、有志舎)、『沈黙の記憶1948年:砲弾の島・伊江島米軍LCT爆発事件』(2022年、インパクト出版会

*48:2005年4月1日に、隣接する石川市中頭郡勝連町与那城町と合併してうるま市

*49:名古屋工業大学准教授。著書『広島・復興の戦後史』(2020年、人文書院

*50:1926~2010年。1947年、山村辰雄(1903~1974年。『仁義なき戦い』シリーズの山守組組長「山守義雄(演:金子信雄)」のモデル)が組長を務める山村組の若衆になる。1963年4月5日、山村組が美能を破門。美能が組長を務める美能組が、山守組と対立する「打越信夫組長の打越会」側にまわることとなり、広島抗争が激化した1963年7月5日、広島県警に暴行傷害容疑で逮捕される。土岡組組長「土岡博」襲撃事件(懲役8年)等での仮釈放を取り消され刑務所に収監。1970年9月に札幌刑務所を出所、10月19日、引退声明し堅気となる。美能は実業家に転身し、晩年は呉の高級観光ホテルのオーナーになっていた(美能幸三 - Wikipedia参照)

*51:札幌大谷大学准教授

*52:広島を襲った枕崎台風については例えば原爆投下から1カ月後 もう一つの惨禍「枕崎台風」 土石流が病院襲う 情報が伝わらず被害拡大 広島|FNNプライムオンライン(2025.9.16)、“空白の天気図”著者が語る教訓「あす起きてもおかしくない」戦後のヒロシマを襲った悲劇 枕崎台風の上陸80年 なぜ死者2000人超?原爆が麻痺させた「防災情報」 | TBS NEWS DIG (1ページ)(2025.9.17)参照

*53:戦災復興院は、1947年(昭和22年)12月31日に内務省が解体されるまで存在した。1948年1月1日、旧内務省国土局と統合されるかたちで、「建設院」となり、その後、建設省(現在の国土交通省)となった(戦災復興院 - Wikipedia参照)

*54:西井氏の歴史評論論文もそうした指摘をしています。

*55:これについては例えばSNSで広がった「意地悪ベンチ」論争 排除の対象はホームレス?酔っぱらい?それとも…:東京新聞デジタル(2024.4.10)、排除?「仕切りのあるベンチ」を考える | NHK | WEB特集 | 福岡県(2024.6.27)、排除アート - Wikipedia参照

*56:国際日本文化研究センター所長。著書『美人コンテスト百年史』(1997年、朝日文芸文庫)、『つくられた桂離宮神話』(1997年、講談社学術文庫)、『日本に古代はあったのか』(2008年、角川選書)、『日本人とキリスト教』(2013年、角川ソフィア文庫)、『伊勢神宮と日本美』(2013年、講談社学術文庫)、『増補新版・霊柩車の誕生』(2013年、朝日文庫)、『京都ぎらい』(2015年、朝日新書)、『関西人の正体』(2016年、朝日文庫)、『阪神タイガースの正体』、『美人論』(以上、2017年、朝日文庫)、『大阪的「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた』(2018年、幻冬舎新書)、『ふんどしニッポン:下着をめぐる魂の風俗史』(2022年、朝日新書)、『阪神ファンとダイビング:道頓堀と御堂筋の物語』(2025年、祥伝社新書)等

*57:著書『〈消費者〉の誕生:近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(2023年、以文社

*58:広島市中区基町の広島市中央公園内にかつて存在した野球場。1957年7月に完成し、以来2009年3月31日まで広島東洋カープが本拠地として用いた。カープが2代目の広島市民球場広島県広島市南区。通称『マツダスタジアム』)に移転して以降は、主にアマチュア野球に使用されていたが、2010年8月31日限りで閉鎖され、2012年2月28日をもって解体された。

*59:著書『ルポ・差別と貧困の外国人労働者』(2010年、光文社新書)、『ネットと愛国』(2015年、講談社+α文庫)、『ヘイトスピーチ』(2015年、文春新書)、『「右翼」の戦後史』(2018年、講談社現代新書)、『愛国という名の亡国』(2019年、河出新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(2021年、朝日文庫)、『団地と移民』(2022年、角川新書)等

*60:2022年、角川新書

*61:『夕凪の街・桜の国』のこと

*62:著書『山本宣治』(2009年、学習の友社)、『テロルの時代:山宣暗殺者・黒田保久二とその黒幕』(2009年、群青社)、『魯迅の愛した内山書店』(2014年、かもがわ出版)、『「明治150年」に学んではいけないこと』(2018年、日本機関紙出版センター)、『優生思想との決別:山本宣治と歴史に学ぶ』(2019年、群青社)、『山本宣治に学ぶ』(2021年、日本機関紙出版センター)、『ケーキと革命:タカラブネの時代とその後』(2023年、あけび書房:タカラブネは洋菓子メーカーだが、2003年に倒産し、現在は不二家神戸(不二家の子会社)として再建)、『西本あつし:「平和行進」をはじめた男』(2023年、群青社:西本は日本山妙法寺僧侶)、『児童福祉の戦後史』(2023年、吉川弘文館)、『ベラミ楽団の20世紀』(2024年、日本機関紙出版センター)、『戦後史の証言者ゴジラ』(2025年、旬報社)等

*63:水谷『私だけ年を取っているみたいだ。ヤングケアラーの再生日記』(2022年、文藝春秋社)のこと

*64:立教大学名誉教授。(社会福祉性教育が専門)。著書『子ども虐待と性教育』(1995年、大修館書店)、『社会福祉基礎構造改革でどうなる日本の福祉』(1999年、日本評論社)、『新自由主義と非福祉国家への道』(2000年、あけび書房)、『この国の子どもたちのゆくえ』(2000年、かもがわ出版)、『子どもの権利と「保育の質」』(2003年、かもがわ出版)、『子どもを大切にする国・しない国』(2006年、新日本出版社)、『脱「子ども貧困」への処方箋』(2010年、自治体研究社)、『「子どもの貧困」解決への道』(2017年、自治体研究社)、『包括的性教育』(2020年、大月書店)、『性教育バッシングと統一協会の罠』(2023年、新日本出版社)等

*65:著書『北海道家庭学校と留岡清男』(2003年、三学出版)、『留岡幸助とペスタロッチ』(2007年、三学出版)、『谷昌恒とひとむれの子どもたち:北海道家庭学校の生活教育実践』(2014年、三学出版)、『留岡幸助と自立支援』(2020年、玉川大学出版部)等

*66:フリーライター。著書『日本人だけが知らない 日本人のうわさ』(2011年、光文社新書)、『絶対貧困:世界リアル貧困学講義』(2011年、新潮文庫)、『ルポ・餓死現場で生きる』(2011年、ちくま新書)、『ニッポン異国紀行:在日外国人のカネ・性愛・死』(2012年、NHK出版新書)、『戦場の都市伝説』(2012年、幻冬舎新書)、『感染宣告:エイズウィルスに人生を変えられた人々の物語』(2013年、講談社文庫)、『僕らが世界に出る理由』(2013年、ちくまプリマ―新書)、『遺体:震災、津波の果てに』(2014年、新潮文庫)、『世界「比較貧困学」入門:日本はほんとうに恵まれているのか』(2014年、PHP新書)、『「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち』(2019年、新潮文庫)、『43回の殺意:川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(2020年、新潮文庫)、『育てられない母親たち』(2020年、祥伝社新書)、『それでも生きる:国際協力リアル教室』(2020年、ちくま文庫)、『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』(2020年、平凡社新書)、『漂流児童:福祉施設に関わる子供たち』(2022年、潮文庫)、『本当の貧困の話をしよう』(2022年、文春文庫)、『こどもホスピスの奇跡』(2023年、新潮文庫)、『教育虐待:子供を壊す「教育熱心」な親たち』(2023年、ハヤカワ新書)、『近親殺人:家族が家族を殺すとき』(2024年、新潮文庫)等

*67:関西大学教授

*68:本庄論文も指摘しているが暗数(調査から漏れる数)があるので当然、実際の孤児数はこれより多いとみられる。

*69:著書『「戦争孤児」を生きる:ライフストーリー/沈黙/語りの歴史社会学』(2021年、青弓社

*70:1974年生まれ。2002年、『蛇イチゴ』(主演:宮迫博之)で監督デビューし、毎日映画コンクール脚本賞等を受賞。2006年、映画『ゆれる』(後にノベライズ化し、2008年、ポプラ文庫→2012年、文春文庫)を発表し、カンヌ国際映画祭監督週間に、日本映画で唯一正式出品し、また、ブルーリボン賞監督賞等を受賞。2009年、映画『ディア・ドクター』(主演:笑福亭鶴瓶)を発表し、2度目のブルーリボン賞監督賞を受賞。2015年には小説『永い言い訳』(文藝春秋社)で山本周五郎賞候補、直木賞候補。2016年に自身により映画化し毎日映画コンクール監督賞を受賞。2021年、映画『すばらしき世界』(原作は佐木隆三『身分帳』、主演:役所広司)を発表し、3度目のブルーリボン賞監督賞を受賞。衣笠祥雄のファンで小説『永い言い訳』の主人公に「きぬがささちお(表記は衣笠幸夫)」と命名。本人に許可がいるだろうと衣笠に連絡したところ、快諾され「限りなき挑戦」と書いたサイン色紙ももらったという(西川美和 - Wikipedia参照)

*71:1937~2015年。1976年、連続殺人犯・西口彰をモデルとした『復讐するは我にあり』により直木賞受賞。著書『大罷業』(1978年、角川文庫)、『復讐するは我にあり』(1978年、講談社文庫→2019年、文春文庫)、『ドキュメント狭山事件』(1979年、文春文庫)、『越山田中角栄』、『日本漂民物語』(以上、1981年、徳間文庫)、『沖縄住民虐殺』(1982年、徳間文庫)、『政商 小佐野賢治』(1986年、徳間文庫)、『わが沖縄ノート』(1987年、徳間文庫)、『深川通り魔殺人事件』(1987年、文春文庫)、『千葉大女医殺人事件』(1989年、徳間文庫)、『別府三億円保険金殺人事件』(1990年、徳間文庫)、『新選組事件帖』(1990年、文春文庫)、『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(1991年、徳間文庫)、『身分帳』(1993年、講談社文庫)、『オウム裁判を読む』(1996年、岩波ブックレット)、『死刑囚 永山則夫』(1997年、講談社文庫)、『司法卿 江藤新平』(1998年、文春文庫)、『法廷のなかの人生』(2002年、岩波新書)、『小説・大逆事件』(2004年、文春文庫)、『宿老・田中熊吉伝:高炉の神様』(2007年、文春文庫)、『慟哭:小説・林郁夫裁判』(2008年、講談社文庫)、『わたしが出会った殺人者たち』(2014年、新潮文庫)、『沖縄と私と娼婦』(2019年、ちくま文庫)等(佐木隆三 - Wikipedia参照)

*72:日本テレビ営業局営業推進部長、編成局編成部長、編成局次長、制作局次長、制作局長、編成局長、専務、副社長等を経て日本テレビ社長(日本テレビの子会社となった「スタジオジブリ」の社長を兼務)(福田博之 - Wikipedia参照)

*73:国鉄三ノ宮駅で餓死した清太のこと

*74:清太のこと

*75:節子のこと

*76:餓死した節子のこと

*77:静岡大学教授

*78:今川氏輝の弟。今川氏当主だった兄「今川氏輝」死後の内紛「花倉の乱」で玄広恵探(氏照の異母弟、義元の異母兄)に勝利し家督を継承するが、桶狭間の合戦で織田信長に敗れ、敗死

*79:江戸幕府において朝廷関係の儀式典礼を司った役職。今川氏(戦国武将・今川氏の末裔)以外に「上杉氏(関東管領山内上杉氏の末裔)」「織田氏(戦国武将・織田氏の末裔)」「武田氏(戦国武将・武田氏の末裔)」等があった(高家 (江戸時代) - Wikipedia参照)

*80:今川義元の子。桶狭間合戦での義元死後、家督を継承するが、織田氏、徳川氏の攻撃に耐えきれず戦国大名としては滅亡。後に徳川氏家臣として家康に仕える。

*81:高家今川氏最後の当主。慶応4年(1868年)2月25日、高家職在任のまま若年寄に就任した。範叙の若年寄起用は、明治新政府軍が江戸に向かって進発する一方、徳川慶喜が恭順の姿勢を示す情勢の中で、対朝廷交渉を担ってきた高家から登用されたものと推測される。幕末期には若年寄の権限が低下し、また非常時という事情はあるが、高家から若年寄になったのは範叙が唯一の事例である。徳川慶喜を謹慎とする勅旨が到達してまもなく、4月5日に若年寄を解任されている。4月11日、江戸城は開城し、幕府は終焉を迎えた。明治2年(1869年)12月2日、範叙は士族に編入されるとともに、家禄として75石が支給された。この措置により、家臣団の扶助が不可能になったため、明治3年(1870年)8月頃から明治4年1871年)3月にかけて、家臣たちに暇を出している。明治7年(1874年)の暮れ、範叙の没落を見かねた観泉寺(今川氏真高家今川氏初代・今川直房の祖父)の菩提寺。現在の東京都杉並区にある。曹洞宗)の住職は、旧・今川家知行地で募金を行った。範叙は明治8年(1875年)1月28日、住職から義捐金20円を受け取っている。長延寺(高家今川氏初代・今川直房の菩提寺。現在の東京都杉並区にある。曹洞宗)の過去帳によると、明治20年(1887年)11月3日死去。(今川範叙 - Wikipedia参照)

*82:著書『東国古墳時代埴輪生産組織の研究』(2013年、雄山閣)、『東国古墳時代の文化と交流』(2015年、雄山閣

*83:明治大学教授。著書『近代バルカン都市社会史』(2013年、刀水書房)、『ボスニア内戦』(2008年、有志舎→2025年、ちくま学芸文庫)、『中東民族問題の起源:オスマン帝国アルメニア人』(2014年、白水社)等