新刊紹介:「歴史評論」2025年11月号

特集「近世朝廷社会とジェンダー
◆近世の皇女たち:未婚(独身)の皇女を中心に(久保貴子*1
(内容紹介)
 近世(江戸時代)の皇女(天皇の娘)について、

昭子内親王 - Wikipedia参照
 後水尾天皇の第四皇女。生涯独身で、寺院への入室もなく、両親のそばで生活した。寛永年間に彼女のために岩倉に山荘が築かれ、岩倉御所と称された。延宝3年(1675年)、両親に先立ち死去。享年47歳。(父・後水尾天皇は延宝8年(1680年)に死去(享年84才*2)。母・東福門院徳川和子*3)は延宝6年(1678年)に死去(享年71歳))。
→病弱なので天皇夫婦が手元に置いて可愛がったということのようですね。

三笠宮彬子(未婚皇女)の三笠宮家当主就任(2025.9.30発表)で一躍注目された桂宮淑子(未婚皇女)】

【解説】三笠宮家当主が彬子さまに 未婚女性皇族の当主継承は163年ぶり 母・信子さまは分かれて新しい家を創設・・・秋篠宮家以来 何が変わる? | TBS NEWS DIG (1ページ)2025.9.30
 彬子さまが当主となった三笠宮家のほうも、レアケースだ。女性皇族が当主となるのは、当主を亡くした妃が継ぐというケースがほとんど。未婚の女性皇族が継承するのは、江戸時代の桂宮淑子内親王以来163年ぶりとなる。

三笠宮家の当主に彬子さま 「当主」に関する法律はない? 変わることは【#みんなのギモン】(2025年9月30日掲載)|日テレNEWS NNN2025.9.30
 去年11月以降、(ボーガス注:三笠宮百合子氏(三笠宮崇仁親王*4の妻)死去で)不在の状態だった三笠宮家の当主が30日、決まりました。そこで、「三笠宮家の当主決定で今後は?」をテーマに宮内庁担当キャップの加納美也子*5日本テレビ解説委員が解説します。
◆加納
 30日に決まったのが、信子さまは三笠宮家を出て新たな宮家を構え「三笠宮寬仁親王妃家」の当主となられること、そして長女の彬子さまが三笠宮家の当主を継承されることです。
 (ボーガス注:「三笠宮寬仁親王三笠宮崇仁親王三笠宮百合子氏の長男)の妻」で「百合子氏の義理の娘」である)信子さま*6ではなく、百合子さまの孫にあたる(ボーガス注:信子氏の長女の)彬子さまが継承されることについて、宮内庁は家族内で話し合って決められたことで、「話し合いの中身については宮家の中の話で承知していない」としています。
 彬子さまが当主となることで、163年ぶりに未婚の女性皇族が当主となります。
 江戸時代の1862年仁孝天皇の皇女である淑子内親王桂宮家を継いだのを最後に、この163年はすべて夫が亡くなったことで妻が当主になるというかたちでした。

「皇室制度に地殻変動が…」…「彬子女王」の三笠宮家当主就任と「信子さま」の新宮家創設が意味するものは何か(全文) | デイリー新潮2025.10.10
 「宮家に後継者がいないために未婚の女性皇族が当主となられるのは、江戸時代に桂宮家(旧桂宮家)を継承した淑子内親王以来で、彬子さまが163年ぶりのご存在となられました。」
 淑子内親王は、孝明天皇の姉*7で、NHK大河ドラマ篤姫*8」で堀北真希さん*9、TBSドラマ「JIN-仁-」で黒川智花さんが演じた皇女和宮の姉*10でもある。桂宮家を継いだ別の弟が亡くなり、当主不在となったことから1863年に第12代当主となった。
 彬子さまの事例は、女性皇族のモデルケースとして、これまで想定されてこなかったもの。なぜなら未婚のままで独立した生計を立てる女性皇族が、結婚した場合にどういう扱いとなるのか、何も明文化されていないからだ。宮内庁OBはこう語る。
「政権内で問題提起がないのは、皇室制度への無理解が根底にあります。選挙で保守層の支持をつなぎ止めたいだけの自民党保守派の国会議員の方々は、彬子さまが結婚後も皇室に残るのかどうかには関心がないのです。要するに、愛子天皇の誕生を阻止できればいいのでしょう。そうなれば選挙に勝てるのですから」
 他方で女性宮家については、旧民主党政権下で野田*11内閣が皇室典範改正を視野に論点整理を行った際、有識者からヒアリングを実施。2012年2月の第1回ヒアリングで『武家天皇』(1993年、岩波新書)などの著書がある歴史学者今谷明*12横浜市立大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授(日本中世史)が「女性宮家仁孝天皇の皇女の淑子内親王桂宮を継いだ例もあり、決して不自然ではない」と言及している。

【皇室の伝統を守る国民の会】
◆役員名簿
会長
山東昭子*13(前参議院議長)
→以下の紹介は省略しますが「理事」に小堀桂一郎日本会議副会長、東大名誉教授)、櫻井よしこ(国家基本問題研究所理事長、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表)、田中恆清(日本会議副会長、神社本庁総長)など「いつもおなじみの右翼活動家」もいる一方、里中満智子(マンガ家)、里見浩太朗(俳優)の名前に「あんたら、そんなウヨだったの?」「伝統を大事にする時代劇スターだからって、里見はウヨである必要は無いんやで。同じ時代劇スターでも北大路欣也*14杉良太郎高橋英樹松平健*15とか多分、ウヨと違うやろ」感でげんなり。
◆Q8.「女性宮家」は過去にも存在したのではないですか?
 過去には「女性宮家」は存在しません。
 「宮家」を近縁の女性皇族が一時的に預かったという事例はあります。例えば、江戸時代の桂宮家の場合、継承者となるべき適当な皇子がなく、当主不在が30年近く続いたため、前当主の姉である桂宮淑子(かつらのみや・すみこ)内親王殿下*16が当主に迎えられました。しかし生涯独身を通された淑子内親王殿下には御子はなく、淑子内親王殿下の薨去(こうきょ)とともに桂宮家は断絶しました。したがって、このことは皇族以外の男性と婚姻した女子皇族を当主として「女性宮家」を創設する制度の先例とはなりません。
(出典「なぜ皇位は男系で継承されなければならないかQ&A:徹底解決・疑問に答える15のAnswer」、皇室の伝統を守る国民の会)

桂宮淑子内親王 - Wikipedia
 異母弟の節仁親王が継承した桂宮は、節仁が天保7年(1836年)3月5日に亡くなったため当主不在となっていた。淑子は文久2年(1863年)12月23日に第12代として桂宮を継承した。女宮が世襲親王家を継承した唯一の例である。これより女宮が宮家を継承した例は、2025年に彬子女王三笠宮を継承するまで136年間存在しなかった。
 明治14年1881年)53歳で死去。淑子の死去をもって桂宮家は断絶した。
 なお、1988年(昭和63年)、三笠宮崇仁親王の第二王子の宜仁親王が新宮家を創設し、同名の桂宮を称した(しかし、宜仁親王に子女がいないことから、2014年(平成26年)6月8日、その死去をもって断絶)。

など、未婚(独身)の皇女を中心に論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、歴史上、「未婚の皇女」が多い物の、近世(江戸時代)には五摂家近衛家九条家二条家一条家鷹司家)、徳川将軍家に「降嫁」した皇女もいます。皇女なので当然ながらそれなりの家格の人物に降嫁する。「近世皇女の降嫁」の例については

降嫁 - Wikipedia
五摂家近衛家九条家二条家一条家鷹司家)の例】
清子内親王後陽成天皇皇女):鷹司信尚
・貞子内親王後陽成天皇皇女):二条康道
・女二宮(後水尾天皇皇女):近衛尚嗣
・益子内親王後西天皇皇女):九条輔実
徳川将軍家の例】
和宮親子内親王仁孝天皇皇女):徳川家茂(14代将軍)室
川口松太郎『皇女和の宮』(徳間文庫)、有吉佐和子和宮様御留』(講談社文庫)などの小説で比較的有名な人物

を紹介しておきます。
 しかし、「話が脱線しますが」離れて暮らす「秋篠宮夫妻と長女(米国在住)」同様に「三笠宮信子、彬子親子」は「仲が悪いのかしら?」とどうしても憶測してしまいますね。
 以下の通り「母子の仲が悪い」とするマスコミ記事もありますしね。

サンデー毎日:信子妃は皇籍離脱すべきだ 宮家分裂という異常事態 成城大教授・森暢平 | 週刊エコノミスト Online2025.10.6*17
 母である信子妃が当主となるのが順当であるが、母子対立は抜き差しならない段階にまで至ったということだろう。宮家当主は祭祀の中心になる。仮に信子妃が当主となった場合、三笠宮家を創設した崇仁(たかひと)親王ら故人の式年祭などを信子妃が主催することになり、娘たちが参列しないという状況も想定された。そうした異常な事態を避けるために、母は宮家から事実上「追放」された。
 「親王妃家」なるまったく前例がない制度をつくるぐらいであるならば、信子妃は皇籍離脱するのが筋であると、私は考える。寬仁親王(2012年死去)の生前から夫婦は事実上、離婚状態にあった。だから、皇族妃という立場を放棄するのが理にかなっている。麻生セメント会長の故・麻生太賀吉(たかきち)の娘として生まれ、自民党最高顧問(ボーガス注:この記事執筆当時。現在は自民党副総裁)の麻生太郎*18を兄に持つ信子妃なら、経済的にも自立できるはずだ。

 なお、「話が脱線しますが」彬子の三笠宮家当主就任について「女性宮家女性天皇に否定的なウヨ」の一部から「女性宮家、ひいては女性天皇狙いか」との警戒があるようですが、この件はそこまでご大層な話ではないでしょう。勿論「彬子の三笠宮家当主就任を認めるなら女性宮家女性天皇天皇の長女・愛子氏の天皇就任)を認めることに何の問題があるのか?」と言う議論はありえますし、そうした議論を「女性宮家女性天皇に否定的なウヨ」は明らかに嫌っていますが。


◆近世公家社会の再生産(林大樹*19
(内容紹介)
 近世公家社会の再生産(家督相続:実子がいないため養子をとった場合)について、公家「甘露寺家」の「甘露寺輔長から甘露寺尚長(輔長の弟・尚長を養子とした)」、「甘露寺尚長から甘露寺規長(親戚の万里小路*20から養子として規長を得た)」への家督相続を題材に論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆近世後期の公武婚と妻の役割:溝口直侯室・宗徳院を中心に(石田俊*21
(内容紹介)
 「近世後期の公武婚と妻の役割」について「新発田藩主・溝口直侯」と直侯の正室となった「宗徳院(公家・久世通根の娘)」を題材に論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、林論文に寄れば、直侯死後、直侯の側室「窈樹院」の息子「溝口直諒」が藩主となり、正室でありながら「藩主の母」である側室よりも軽い扱いをされたが故に、藩重役と対立し、新発田藩に居づらくなり、結局実家「久世家」に帰ったとのこと。
 また「清涼院様一件(後でウィキペディアの記述を引用します)」に懲りた新発田藩では宗徳院との婚礼に際し、久世家の重臣が宗徳院とともに新発田藩入りすることは拒絶したとのこと。
参考

溝口直侯 - Wikipedia
 直侯の治世の初期に起こった「清涼院様一件」は、7代藩主・溝口直温の正室であった清涼院(松平信祝*22の娘。直侯には実の祖母に当たる)の意向で、旧来の重臣が退けられ、清涼院に付き随って松平家からやって来た新参の相葉七右衛門を重職に任ずることから始まった権力抗争であった。当時、藩主・直侯の後見をしていた隠居の直養(8代藩主。7代藩主・溝口直温の子。9代藩主・直侯の伯父)は清涼院に強いことが言えず、やむなく清涼院の生家(浜松藩主の松平家)に近い人物*23である老中・松平信明*24が間に入って裁定をし、相葉は罷免された。
 この事件はこうして解決したが、その懲罰的意味合いがあるとされる越後蒲原郡から陸奥国田村郡・楢葉郡・信夫郡への2万石の高替え(領地の交換)は、新発田藩に大きなダメージを与えた。陸奥国の新領は同じ2万石とはいえ、実際の生産力は越後の旧領と比してかなり低く、藩財政を打撃した。またこの時期には、幕府より関東筋川々の普請役や勅使の饗応役を命ぜられたこともあって、前代にやや持ち直した藩財政は再び窮迫するようになった。徹底した倹約が触れられ、家臣からの借り上げも復活した。


◆近世比丘尼御所*25と公家社会:総持院触留帳の検討を中心に(岸本香織)
(内容紹介)
 近世比丘尼御所であった「総持院(現在は慈受院)」の触留帳について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆宮廷女性歌人の文化的活動とその役割(盛田帝子*26
(内容紹介)
 天明・寛政時代の宮廷女性歌人の文化的活動とその役割について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


歴史科学協議会第59回大会準備号「戦争と平和の人類史」
 歴史科学協議会第59回大会(2025年11月29日、30日に開催予定)での報告内容(予定)の概要説明がされている。
◆叛乱と事変の1930年代(加藤陽子*27
(内容紹介)
 「1930年代の叛乱」とは

【1】1930年の浜口*28首相狙撃事件
 濱口はこの時の傷が元で、1931年4月に首相及び立憲民政党総裁を辞任。1931年8月には、アクチノミコーゼ(放線菌症)を発症し死去。
【2】1931年3月の3月事件
 浜口*29内閣を打倒し、陸軍大臣宇垣一成*30を首相に就任させることを狙った、陸軍のクーデター計画(実行されず未遂に終わる)。二宮治重*31参謀次長、建川美次*32参謀本部第二部長、小磯國昭*33陸軍省軍務局長もこの計画に賛同していたとされる。
【3】1931年10月の10月事件
 第2次若槻*34内閣を打倒し、荒木貞夫*35陸軍大将を首相に、橋本欣五郎*36陸軍中佐を内務相に、建川美次陸軍少将を外相に、長勇*37陸軍少佐を警視総監に、小林省三郎*38海軍少将を海軍相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立するという陸軍のクーデター計画(実行されず未遂に終わる)。クーデター計画「3月事件」「10月事件」がまともに処罰されなかったことがクーデター未遂事件「226事件」を助長したとされる。
【4】1932年2~3月の血盟団事件
 井上*39前蔵相、三井財閥総帥・団琢磨を暗殺
【5】1932年5月の515事件
 犬養*40首相を暗殺
【6】1935年の永田鉄山*41陸軍省軍務局長暗殺
 実行犯「相沢三郎陸軍中佐(統制派の永田とは敵対関係にある皇道派の人物)」の名前から相沢事件とも言う。相沢は1936年7月に死刑執行。
【7】1936年の226事件
 真崎甚三郎*42(陸軍皇道派幹部)を首相とする軍事政権の樹立を狙い、高橋*43蔵相、斎藤*44内大臣、渡辺*45陸軍教育総監を暗殺。

等(上記を見て分かるように1930年代は右翼や軍人によるテロやクーデターが横行しています)を、「1930年代の事変」とは「1931年の満州事変(柳条湖事件満州国を建国)」「1932年の上海事変」等を意味している。これらについて論じる予定。
 対外関係(対欧米政策(ロンドン海軍軍縮条約問題など)や対中国政策)を巡る争いが叛乱を招いていたという点では「1930年代」は開国の是非を巡って「桜田門外の変(水戸浪士による井伊大老暗殺)」「天狗党の乱」等という叛乱が起こっていた幕末と似た面があるとし、幕末との相違点も論じる予定。


◆ガザのジェノサイドと歴史の破壊(岡真理*46
(内容紹介)
 イスラエル・ネタニヤフ政権による「ガザのジェノサイドと歴史の破壊」について論じる予定。


◆虚像の統一王朝・漢(阿部幸信*47
(内容紹介)
 漢が統一王朝と言えたのは、武帝時代など「一部の繁栄期」のみであり「呉楚七国の乱」「王莽による新王朝建国」「新王朝崩壊から光武帝による後漢建国までの内戦状態」「黄巾の乱以降の群雄割拠時代(三国志演義で描かれる時代。なお、曹操時代から曹氏が実権を握っており、事実上、漢は滅亡したに等しい状況だったが、正式に漢が滅びるのは「後漢最後の皇帝」献帝から、魏王朝・初代皇帝「曹丕曹操の子)」に禅譲されたことによる)」など混乱状態が多かった。
 「虚像の統一王朝・漢」といえるがそのような虚像が後世、どのような経緯で誕生し、中国社会にどのような影響を与えたのかを論じる予定。


◆古代日本の戦争と「人民」(田中聡*48
(内容紹介)
 国家の側ではなく「人民の側」からの「古代日本の戦争」理解として「平安時代元慶の乱蝦夷叛乱)」など「中央政権」に夷狄扱いされた辺境民と「中央政権」の戦争を論じる予定。


◆戦国期土豪の戦争参加と地域の平和(長谷川裕子*49
(内容紹介)
 「戦国期土豪の戦争参加」と「地域の平和」の関係性について論じる予定。


◆書評:勝浦令子*50『日本古代の穢れ観と外来信仰』(2024年、塙書房)(評者:片岡耕平*51
(内容紹介)
 小生が無知なこともあって理解が困難だが、評者は「日本古代の穢れ観」について「外来信仰(儒教道教)」の影響を指摘する勝浦氏に対して、「根拠に乏しい」と全否定的な態度であるように思われる。


◆書評:愼蒼宇*52『朝鮮植民地戦争:甲午農民戦争から関東大震災まで』(2024年、有志舎)(評者:荒川章二*53
(内容紹介)
 副題の「関東大震災」には「震災は戦争ではないが?」と首をひねる方もいるでしょうが、これは「関東大震災(1923年)での朝鮮人虐殺(軍も関与した、また愼氏によれば自警団の構成メンバーには「韓国駐箚軍(1904~1910年)→朝鮮駐箚軍(1910~1918年)→朝鮮軍(1918年以降)」に所属した過去がある退役軍人が多かった)」を愼氏が「朝鮮植民地戦争(義兵闘争弾圧、三・一独立運動弾圧など)において日本軍が朝鮮の民間人虐殺を行ったこと(例:提岩里教会事件(1919年))」が関東大震災での朝鮮人虐殺につながったと評価するからです。
 関東大震災での朝鮮人虐殺は「関東で震災が起こったから起きた」のであり「阪神大震災(1995年、主に兵庫)」「東日本大震災(2011年、主に岩手、福島、宮城)」などのように「関東以外(東北、近畿)」で起こっても同様の虐殺が起こったろうという指摘は残念ながら、恐らくその通りなのでしょう。
参考

「朝鮮植民地戦争」書評 繰り返される虐殺と抵抗の歴史|好書好日(評者:安田浩一*54
 (ボーガス注:関東大震災での朝鮮人虐殺という)震災ジェノサイドが「混乱のなかで発生した偶発的な出来事」だとする見方もけっして少なくない。
 虐殺は果たして一過性の例外的なものだったのか。本書は歴史を丹念に深掘りし、日本近代史の死角ともいうべき植民地支配の加害責任を描くことで「震災の混乱」だけでは捉えることのできない虐殺の内実へと迫る。
 実は、19世紀末から、日本軍による朝鮮人虐殺は繰り返されてきた。日清戦争時の甲午農民戦争に始まり、朝鮮植民地化に対する抗日武装闘争、三・一独立運動など、朝鮮民衆への弾圧、殺戮を重ねた。著者は、日清戦争以降の50年を「朝鮮植民地戦争」と位置付ける。それは、日本側からすれば、植民地支配の維持を目的とした軍事行動であったが、朝鮮民衆にとっては抵抗の戦いだった。だからこそ日本は抵抗する人々を「不逞鮮人」と呼称し、徹底的に弾圧した。たとえば1920年には旧満州朝鮮人居留区・間島で、日本軍は「在住日本人の生命・財産保護」を名目に学校、教会などを焼き打ちし、女性や子どもまでをも虐殺した。著者はこうした一連の虐殺を、「『殲滅(せんめつ)』と一般住民も巻き込んだ『連座』の論理が貫徹していた」と主張する。こうした植民地戦争の経験は震災時に引き継がれ、罪のない朝鮮民衆を虐殺していく。軍事行動の経験者(在郷軍人)は自警団の〝主力〟を担った。震災時の虐殺も同様だ。そう、震災ジェノサイドは、まさに植民地戦争の延長線上で起きたのである。

『坂の上の雲』見上げる足元は血塗られていた…“植民地戦争”で日本近代史を見る - RKB毎日放送2025.4.8
 法政大学社会学部の愼蒼宇(シン・チャンウ)教授の話を聞く機会が3月にありました。
 「植民地戦争」という概念は、学生時代から日本史学を学んできた私にとって、目が覚める思いでした。

愼蒼宇教授
 帝国主義の時代には、列強はアジア・アフリカを植民地征服していきました。植民地支配では常に、現地の人々の抵抗が起こります。ですので、それに対する執ようで凄惨な軍事行動、そして現地の人々の抵抗・解放運動がずっと連続的に続いていきました。例えば、イギリスのインド支配。東インド会社がインド諸国の征服戦争を始めてから植民地化するのに約100年かかっています。つまり、インドの各諸勢力の長い抵抗があったのです。世界中で、こういうことがありました。今、世界史においては、植民地化、あるいは植民地支配下での列強による軍事的暴力と、現地の人々の抵抗を、「植民地戦争」と呼ぶようになってきています。世界史ではかなり定着してきている、と言っていいと思います。

 帝国主義の時代は、どこでも、植民地の人たちを同じ人間としては見ていません。インドでのイギリス、アルジェリアのフランスと同様に、朝鮮の民衆による抵抗を、日本は徹底的に弾圧しました。こうした朝鮮の状況も、世界史の「植民地戦争」の概念で理解するべきだ、と愼教授は言うのです。

愼蒼宇教授
 日本は、朝鮮を植民地化していく過程、あるいは植民地支配した後で、常に軍隊、憲兵、警察によって激しい軍事暴力を継続的に行使していました。これを捉える概念が、「朝鮮植民地戦争」ということになります。
 戦争と言っても、弾圧している側と抵抗している側の武力の差が、ものすごく大きいんですね。弾圧している側は、その都度その都度の軍事産業の最先端の武器を使っている。一方で抵抗している側は、武装解除させられながら戦っている。ですから、極端なことを言うと、徒手空拳に近い訳です。わかりやすいケースで言うと、イスラエルパレスチナの人々にやっていることと、ほぼ近いと思っていい。つまり、弾圧している側と抵抗している側の間が、あまりに非対称的な関係だということです。「植民地戦争」を定義する場合には、「非対照的戦争」であると考えられるわけです。植民地化する側は最先端の武器を使っていて、実はほとんど被害が出ません。しかし、植民地化される側は、ジェノサイドを伴う激しい被害が出るわけです。

 朝鮮が日本に併合されるのは1910年ですが、その前に起きていたことを愼教授は丁寧に説明しています。まず、日清戦争とほぼ同じ時期に、朝鮮民衆が立ち上がりました。「甲午農民戦争」(1894~1895年)と言います。これに日本がどう対処したのでしょうか。

愼蒼宇教授
 キーワードで言うと、「せん滅作戦」。いくつか、ここに例を挙げます。甲午農民戦争の時に、当時参謀次長だった川上操六*55兵站総監)が、大本営の秘密命令として、甲午農民軍に対して「ことごとく殺戮すべし」という方針を出しています(1894年10月27日付、仁川兵站監「陣中日誌」)。例えば釜山で兵たんを管理していた司令官が、電報の中で「もし日本軍に対して攻撃をしてくる農民がいたら、責任のある村自体を焼き払ってしまえ」と言っています(1894年9月2日、大邱兵站監宛て)。

 さらに1907年には、朝鮮の軍隊を強制的に解体したことで、元軍人が「義兵」を名乗り、反日闘争が激化しました。

愼蒼宇教授
 義兵戦争の時に、長谷川好道*56韓国駐箚軍司令官が、朝鮮の民衆に対して告知を出しています(1907年9月8日)。村の中から日本に対して蜂起をするような人間が出てきたら「その責を現犯の村邑に負わしめ」、つまりそういう人間が出たら村ごと全体に責任を負わせる、というのです。そして「その部落を挙げて厳重の処置」をする、という言い方をしているのです。何をするか。「村を焼き尽くす」ということです。

 日本に抵抗した独立派の人々を、「不逞鮮人」という差別用語で日本は呼びました。まだ植民地になる前からこういう態度を取っていて、1910年にとうとう日本に併合されていくわけです。「皇帝が同意して日本と合体したのだから、朝鮮は植民地ではない」という人がいますが、実態とは完全にずれています。
 そして、最大の闘争となった「三・一独立運動」(1919年)では、死者数は正確には分かりませんが、2か月間で900人以上、統計によっては7500人が犠牲になったともされています。こうした植民地戦争が長く続いた中で、実際に手を下した日本の軍人、警官がいたわけですが、愼教授の調査によると、陸軍が全国18か所に置いていた師団すべてが朝鮮半島での軍務についています。最も多く派遣された師団は、東京の第1師団でした。兵役期間を終えて故郷に帰った軍人は、各地で在郷軍人会を結成します。「不逞鮮人」を軍で殺害した経験をすでに持つ民間人が、東京周辺にはたくさんいたのです。
 とても説得力のある論理展開で、歴史学のすごみを感じました。
 詳しく知りたい方は、愼蒼宇教授の著書『朝鮮植民地戦争:甲午農民戦争から関東大震災まで*57』を読むといいでしょう。研究書で少し高価*58ですが、かなり分かりやすく書かれていると思いました。


◆書評:歴史学研究会編『ロシア・ウクライナ戦争と歴史学』(2024年、大月書店)(評者:麻田雅文*59
(内容紹介)
 複数著者による論集であり、論点も多様であるため、小生が興味深いと思った批評、紹介のみを紹介しておく。
【1】第5章『変容するポーランド=ウクライナ関係と歴史認識:「ヴォウィン事件*60」八〇周年を手がかりに』(宮崎悠*61
 ヴォウィン事件(ヴォリーニ事件)とは1943~1944年に、ポーランド(事件当時。現在はウクライナ領)で起こった「ウクライナナチスウクライナ蜂起軍:UPA)」によるポーランド人虐殺事件である。
 こうした事件の存在故に、従来ポーランドウクライナの関係は良好なものではなかったが、「ロシアのウクライナ侵攻(2022年2月)」によってロシアが「ポーランドウクライナ双方にとっての共通の敵」として登場したことで、ウクライナで遺骨発掘や慰霊式が行われる(ウクライナとポーランド、第二次世界大戦時の「ヴォリーニの悲劇」の犠牲者遺体発掘で合意(2025.1.11)、「復讐は望まない」約10万人のポーランド人が犠牲に…ヴォリーニ虐殺 ウクライナがいま向き合う“加害の歴史” 42人分の遺骨を発掘 | TBS NEWS DIG (1ページ)(2025.9.8)参照)など、ウクライナ側の歩み寄りが見られる。
 一方でロシアのプーチン*62政権はこの事件を取り上げることで「ポーランドウクライナの分断」を狙うと共に「ウクライナは昔から危険なナチ国家(プーチンはゼレンスキー政権をネオナチ呼ばわりし、『ウクライナの非ナチ化』を戦争目的に掲げている)」として、ウクライナ侵攻の正当化に利用しようとしているが今のところそうした企ては成果を上げているとは言いがたい。
 いずれにせよヴォウィン事件(ヴォリーニ事件)の関係諸国(ウクライナポーランド)での扱いからは「慰安婦問題」「靖国問題」(日本と中韓)などの「歴史認識問題」は何も「日中、日韓間」だけの問題ではないことが改めて分かる。
 なお、ヴォウィン事件(ヴォリーニ事件)については1947年に報復として、ポーランド政府により「ヴィスワ作戦」が行われた。ヴィスワ作戦も当然ながら、従来ポーランドウクライナの関係は良好なものではなかった理由の一つである。
【参考:ヴォウィン事件(ヴォリーニ事件)】

ウクライナとポーランド、第二次世界大戦時の「ヴォリーニの悲劇」の犠牲者遺体発掘で合意2025.1.11
 ポーランドのトゥスク首相は10日、ウクライナポーランドが1943〜44年の「ヴォリーニの悲劇」のポーランド系住民犠牲者の遺体捜索・発掘作業に関して合意に至ったと発表した。

「復讐は望まない」約10万人のポーランド人が犠牲に…ヴォリーニ虐殺 ウクライナがいま向き合う“加害の歴史” 42人分の遺骨を発掘 | TBS NEWS DIG (1ページ)2025.9.8
 第二次世界大戦中、およそ10万人のポーランド人がウクライナ民族主義者により虐殺された事件があります。その犠牲者の遺骨が掘り起こされ、先週末には追悼式が行われました。
 ウクライナ西部で行われた、「ヴォリーニの虐殺」の追悼式。1943年から45年にかけて旧ポーランド東部で、民族対立からおよそ10万人のポーランド人がウクライナ民族主義者によって虐殺された事件です。
 虐殺を生き延びたシチュパチンスキさん(93)。
 「人々が殺され悲鳴が上がり、強姦される声を聞きました。そして(村を焼く)恐ろしい煙も…」
 虐殺にはナタや斧が使われ、凄惨を極めたといわれています。
 村はその後、ソ連編入され、現在はウクライナ領に。遺族らはウクライナ政府に埋められた遺体の調査を許可するよう求めてきましたが、受け入れられませんでした。
 ところが、今年に入ってシチュパチンスキさんの村でポーランドウクライナの団体による合同調査が始まったのです。掘り起こされたのは42人分の遺骨。DNA鑑定が行われ、ようやく尊厳をもって弔われました。
 なぜ虐殺から80年経った今なのか?。それはロシアによる侵攻が続くウクライナに対し、ポーランド側が「ヴォリーニの問題が解決しない限りEUへの加盟はない」と突きつけたからです。EU加盟を強く望むウクライナは調査を許可。ゼレンスキー大統領も加害の歴史に向き合う姿勢を示しました。

【参考:ヴィスワ作戦】

ヴィスワ作戦 - Wikipedia
 1947年、ポーランド南東部のウクライナ系住民を強制移住させた、ポーランド政府の政策。ウクライナ蜂起軍 (UPA) を壊滅させることが目的とされる。ポーランド南東部に居住していた約20万人の民間人が、ポーランド西部や北部の旧ドイツ東部領土への移住を強制された。1989年の東欧革命によりポーランド共産主義政権が崩壊すると、ポーランドウクライナの歴史家等から、この作戦を「民族浄化」として糾弾する声が上がり始めた。
 1990年8月3日、ポーランド上院は、ヴィスワ作戦に対する非難決議を採択した。
 2002年4月18日、ポーランド大統領アレクサンデル・クファシニェフスキはヴィスワ作戦について遺憾の意を表明した。
 2007年、ポーランドレフ・カチンスキ*63大統領とウクライナヴィクトル・ユシチェンコ*64大統領は、ヴィスワ作戦を人権を侵すものであったと非難した。
【背景】
 ヴィスワ作戦の直接の契機となったのは、1947年3月28日に、国防次官等を務めたカロル・スヴェルチェフスキ将軍が、UPAの待ち伏せ攻撃に遭って殺害された事件であった。しかし現在では、遅くとも1947年1月にはヴィスワ作戦の準備が始められていたことが明らかになっている。

【参考:ウクライナの非ナチ化】

「ナチス支持した」在日ロシア大使館が日本を中傷 対ロ制裁に反発:朝日新聞2022.3.1
 在日ロシア大使館は2月28日、「日本は2度もナチスを支持する挙に出た。かつてはヒトラー政権、今回はウクライナ政権を支持した」とフェイスブックに投稿した。ロシアは自らの軍事侵攻に抵抗するウクライナを「ネオナチ」と決めつけて批判しており、欧米の対ロ制裁に参加した日本にも中傷が及んだ格好だ。

プーチン氏が「ウクライナはネオナチ」とこじつける理由 | 経済プレミアインタビュー | 川口雅浩 | 毎日新聞「経済プレミア」2022.5.19
 ロシアのプーチン大統領ウクライナを「ネオナチ」と呼ぶのはなぜか。ロシア人にとって、ナチスとはどんな意味を持つのか。ロシア語が専門で両国の文化に詳しい井上幸義・上智大学名誉教授に聞いた。
記者
 プーチン大統領ウクライナのゼレンスキー政権を執拗にネオナチと呼ぶのは、どんな理由があるのでしょうか。
井上
 プーチン氏が主張するネオナチというのは、こじつけだと思います。なぜそんなこじつけをするかというと、ナチスというのはロシア人にとって最大の敵だからです。ロシア人の心に訴え、敵意をあおることができるので、それを今回の侵攻に利用しているのだと思います。
 第二次世界大戦で、ソ連は世界で最も多い2700万人が亡くなりました。独ソ戦で人々はナチスの恐怖を身に染みて感じたわけです。5月9日の対独戦勝記念日は亡くなった人を悼む日のはずですが、ソ連時代から国威発揚の場に利用してきました。
 今、プーチン氏が問題にしているのは主に南東部マリウポリのネオナチだと思います。確かにあそこにはソ連崩壊後、ネオナチ的な人が一部にいたようです。それが自衛団のような組織となり、クリミア併合後、ウクライナの正式な国家警備隊となったわけです。
 しかし、ネオナチと言うなら、モスクワやサンクトペテルブルクなどロシアにもたくさんいました。プーチン氏がロシアにネオナチがいたことには何も触れずに、ウクライナのネオナチのことだけ言うのはおかしいと思います。
(以下は有料記事です)

立憲・原口氏の投稿は「非常に不愉快」 ウクライナ大使、怒りあらわ [立憲民主党]:朝日新聞2023.9.28
 立憲民主党原口一博*65衆院議員がネット上に配信した動画で「ネオナチ」との言葉を使いながらウクライナに関する虚偽情報を発信したとされる問題で、ウクライナのセルギー・コルスンスキー駐日大使は朝日新聞のインタビューに対し、「我々がナチズムと関係があると主張するのは非常に不愉快だ」と述べた。
 原口氏は12日に配信したユーチューブ動画で「日本はネオナチ政権の後ろにいる」と述べるとともに、日本が世界銀行を通じてウクライナの復興支援に関わっていることについて「アメリカから武器をたくさん買わせて、その請求書はうち(日本)にくる」とも語った。
 在日ウクライナ大使館は13日、原口氏の発言に「強い懸念」を表明し、「絶対に受け入れない」と抗議する文章をX(旧ツイッター)に投稿した。
(以下は有料記事です)

立憲・岡田氏「不適切」と原口一博氏を注意 「ネオナチ政権」発言で [立憲民主党]:朝日新聞2023.9.14
 立憲民主党原口一博衆院議員(64)がネット上に配信した動画で、ウクライナに関する虚偽情報を発信したとされる問題で、同党の岡田克也*66幹事長*67は14日、重大な誤解を招きかねず不適切だとして、原口氏を口頭で注意したと発表した。

 立民も本当に「原口(親プーチン以外にも反ワクチン陰謀論、参政党との交遊など)を野放しにしていいのか?」と改めて思います。
 口頭注意なんて甘過ぎでしょう。
 原口のような輩がいるだけで「立民を支持する気には全くなりません」。原口を当選させる選挙民には呆れます。

*1:実践女子大学専任講師。著書『後水尾天皇』(2008年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『徳川和子』(2008年、吉川弘文館人物叢書

*2:昭和天皇が享年87歳で死去するまでは信用できる記録が残る天皇のウチでは最高齢

*3:江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の娘。江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫

*4:1915~2016年。大正天皇の四男。三笠宮家初代当主。日本オリエント学会元会長。著書『古代オリエント史と私』(1984年、学生社)、『古代エジプトの神々』(1988年、日本放送出版協会)、『文明のあけぼの:古代オリエントの世界』(2002年、集英社)等(三笠宮崇仁親王 - Wikipedia参照)

*5:岩手朝日テレビアナウンサー、テレビ信州 (日本テレビ系列)アナウンサーを経て日本テレビ報道記者(加納美也子 - Wikipedia参照)

*6:麻生太郎自民党副総裁の妹だそうです。当然、麻生副総裁同様に吉田茂元首相の孫、牧野伸顕吉田茂の義父で大久保利通の次男。第1次西園寺内閣文相、第2次西園寺内閣農商務相、第1次山本内閣外相、宮内大臣内大臣などの要職を歴任)の曾孫、大久保利通内務卿の玄孫になります。存命の皇族限定でも他にも「美智子上皇后日清製粉社長・正田英三郎の娘)」「雅子皇后(小和田元外務次官の娘)」など皇族男子の結婚相手は名士が多いわけです

*7:なお、父(仁孝天皇)は同じだが母親は違う異母姉

*8:江戸幕府13代将軍・徳川家定正室大河ドラマでは宮崎あおいが演じた。

*9:2015年8月の山本耕史(俳優)との結婚後は事実上引退状態にある(堀北真希 - Wikipedia参照)

*10:なお、父(仁孝天皇)は同じだが母親は違う異母姉

*11:民主党国対委員長(前原代表時代)、鳩山内閣財務副大臣菅内閣財務相、首相、民進党幹事長(蓮舫代表時代)、立民党最高顧問等を経て2025年10月現在、立民党代表

*12:著書『室町の王権:足利義満の王権簒奪計画』(1990年、中公新書)、『歴史の道を歩く』(1996年、岩波新書)、『象徴天皇の発見』(1999年、文春新書)、『戦国の世』(2000年、岩波ジュニア新書)、『戦国大名天皇』(2001年、講談社学術文庫)、『戦国時代の貴族:「言継卿記」が描く京都』、『信長と天皇』(以上、2002年、講談社学術文庫)、『籤引き将軍足利義教』(2003年、講談社選書メチエ)、『京極為兼』(2003年、ミネルヴァ日本評伝選)、『戦国期の室町幕府』(2006年、講談社学術文庫)、『近江から日本史を読み直す』(2007年、講談社現代新書)、『戦国三好一族:天下に号令した戦国大名』(2007年、洋泉社MC新書)、『天文法華一揆武装する町衆』(2009年、洋泉社MC新書)、『中世奇人列伝』(2019年、草思社文庫)等

*13:海部内閣科技庁長官、自民党両院議員総会長、参院副議長、議長等を歴任

*14:父親の市川右太衛門(1907~1999年)も時代劇スター

*15:時代劇スターだった勝新太郎(1931~1997年)の付き人を経て芸能界入り

*16:マスコミ報道の多くが「殿下」を付けてないのに「殿下」を付ける辺りが実にウヨらしい。

*17:筆者の森氏には『天皇家の財布』(2003年、新潮新書)、『近代皇室の社会史:側室・育児・恋愛』(2020年、吉川弘文館)、『天皇家の恋愛』(2022年、中公新書)の著書がある。

*18:自民党麻生派領袖。橋本内閣経企庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、外相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)、首相、第二~四次安倍、菅内閣副総理・財務相自民党副総裁(岸田総裁時代)、最高顧問(石破総裁時代)を経て自民党副総裁

*19:学習院大学非常勤講師。著書『天皇近臣と近世の朝廷』(2020年、吉川弘文館

*20:規長は万里小路家当主・万里小路尚房の子(甘露寺規長 - Wikipedia参照)

*21:山口大学准教授。著書『近世公武の奥向構造』(2021年、吉川弘文館

*22:古賀藩主→三河吉田藩主→浜松藩主。奏者番大坂城代、老中を歴任

*23:清涼院の父「松平信祝」は「松平信明」の曾祖父に当たる。

*24:三河吉田藩主。奏者番側用人、老中を歴任

*25:皇族や公家の女性が住持を務める寺のこと

*26:京都産業大学教授。著書『近世雅文壇の研究』(2013年、汲古書院

*27:東大教授。著書『模索する1930年代:日米関係と陸軍中堅層』(1993年、山川出版社)、『徴兵制と近代日本:1868~1945』(1996年、吉川弘文館)、『戦争の日本近現代史』(2002年、講談社現代新書)、『戦争の論理:日露戦争から太平洋戦争まで』(2005年、勁草書房)、『満州事変から日中戦争へ』(2007年、岩波新書)、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2016年、新潮文庫)、『とめられなかった戦争』(2017年、文春文庫)、『昭和天皇と戦争の世紀』(2018年、講談社学術文庫) 、『天皇と軍隊の近代史』(2019年、勁草書房)等

*28:加藤高明、第一次若槻内閣蔵相、第一次若槻内閣内務相を経て首相

*29:但し、浜口首相狙撃事件により、濱口が執務不能だったため、幣原外相が臨時首相代理に就任

*30:清浦、加藤高明、第一次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第一次近衛内閣外相を歴任

*31:参謀本部第二部長、参謀次長、第5師団長、鮮満拓殖会社総裁、満州拓殖公社総裁、小磯内閣文相等を歴任

*32:参謀本部第二部長、参謀本部第一部長、第10師団長、第4師団長等を歴任

*33:陸軍省整備局長、軍務局長、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相を歴任。戦後、終身刑で服役中に病死。後に靖国に合祀

*34:第3次桂、第2次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相等を経て首相

*35:参謀本部第一部長、陸軍大学校校長、第6師団長、陸軍教育総監部本部長、犬養内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文相等を歴任。戦後、終身刑判決となるが後に仮釈放

*36:陸軍内部の秘密結社「桜会」の指導者。戦後、終身刑判決となるが後に仮釈放

*37:歩兵第74連隊長、第26師団参謀長、印度支那派遣軍参謀長、第25軍参謀副長、機動第一旅団長等を歴任。第32軍参謀長として、第32軍司令官・牛島満と共に沖縄戦で自決

*38:霞ヶ浦航空隊司令満州特務機関長、駐満海軍部司令官、鎮海要港部司令官等を歴任

*39:第2次山本、濱口、第2次若槻内閣蔵相

*40:第1次大隈内閣文相、第2次山本、加藤高明内閣逓信相等を経て首相

*41:陸軍省整備局動員課長、軍務局軍事課長、軍務局長等を歴任

*42:台湾軍司令官、参謀次長、陸軍教育総監など歴任

*43:日銀総裁、第一次山本、原内閣蔵相、首相、加藤高明内閣農商務相、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相等を歴任

*44:第一次西園寺、第二次桂、第二次西園寺、第三次桂、第一次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任

*45:陸軍大学校長、陸軍航空本部長、台湾軍司令官、陸軍教育総監等を歴任

*46:京都大学名誉教授。早稲田大学教授。著書『彼女の「正しい」名前とは何か:第三世界フェミニズムの思想』(2000年、青土社)、『棗椰子の木陰で:第三世界フェミニズムと文学の力』(2006年、青土社)、『アラブ、祈りとしての文学』(2008年、みすず書房)、『ガザに地下鉄が走る日』(2018年、みすず書房)、『ガザとは何か』(2023年、大和書房)等

*47:中央大学教授。著書『中国史で読み解く故事成語』(2021年、山川出版社)、『漢代の天下秩序と国家構造』(2022年、研文出版)、『印綬が創った天下秩序:漢王朝の統治と世界観』(2024年、山川出版社

*48:立命館大学教授。著書『日本古代の自他認識』(2015年、塙書房

*49:跡見学園女子大学教授。著書『中近世移行期における村の生存と土豪』(2009年、校倉書房)、『戦国期の地域権力と惣国一揆』(2016年、岩田書院

*50:東京女子大学名誉教授。著書『女の信心』(1995年、平凡社選書→2025年、法蔵館文庫)、『日本古代の僧尼と社会』(2000年、吉川弘文館)、『古代・中世の女性と仏教』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『孝謙称徳天皇』(2014年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『橘嘉智子』(2022年、吉川弘文館人物叢書

*51:北海学園大学教授。著書『穢れと神国の中世』(2013年、講談社選書メチエ)、『日本中世の穢と秩序意識』(2014年、吉川弘文館

*52:法政大学教授。著書『植民地朝鮮の警察と民衆世界 1894-1919』(2008年、有志舎)

*53:静岡大学名誉教授。国立歴史民俗博物館特任教授。著書『軍隊と地域』(2001年、青木書店)、『軍用地と都市・民衆』(2007年、山川出版社日本史リブレット)、『増補・軍隊と地域:郷土部隊と民衆意識のゆくえ』(2021年、岩波現代文庫)等

*54:著書『ルポ・差別と貧困の外国人労働者』(2010年、光文社新書)、『ネットと愛国』(2015年、講談社+α文庫)、『ネット私刑(リンチ)』(2015年、扶桑社新書)、『ヘイトスピーチ』(2015年、文春新書)、『学校では教えてくれない差別と排除の話』(2017年、皓星社)、『「右翼」の戦後史』(2018年、講談社現代新書)、『愛国という名の亡国』(2019年、河出新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(2021年、朝日文庫)、『団地と移民』(2022年、角川新書)、『地震と虐殺:1923-2024』(2024年、中央公論新社)等

*55:参謀次長、参謀総長など歴任

*56:韓国駐剳軍司令官、参謀総長朝鮮総督など歴任

*57:2024年、有志舎

*58:税込み3960円

*59:成城大学教授。著書『中東鉄道経営史:ロシアと「満洲」1896-1935』(2012年、名古屋大学出版会)、『満蒙』(2014年、講談社選書メチエ)、『シベリア出兵』(2016年、中公新書)、『日露近代史』(2018年、講談社現代新書)、『蔣介石の書簡外交:日中戦争、もう一つの戦場』(2021年、人文書院)、『日ソ戦争:帝国日本最後の戦い』(2024年、中公新書

*60:なお、ウクライナとポーランド、第二次世界大戦時の「ヴォリーニの悲劇」の犠牲者遺体発掘で合意(2025.1.11)、「復讐は望まない」約10万人のポーランド人が犠牲に…ヴォリーニ虐殺 ウクライナがいま向き合う“加害の歴史” 42人分の遺骨を発掘 | TBS NEWS DIG (1ページ)では「ヴォリーニ虐殺事件」と呼んでいるが呼び方が違うだけで同じ事件である(ヴォウィンがロシア語読み、ヴォリーニがウクライナ語読みらしい)。

*61:成蹊大学教授。著書『ポーランド問題とドモフスキ』(2010年、北海道大学出版会)、『戦勝記念碑とピアニスト』(2022年、群像社

*62:エリツィン政権大統領府第一副長官、連邦保安庁長官、第一副首相、首相等を経て大統領

*63:1949~2010年。法相、ワルシャワ市長等を経て大統領。2010年4月、「カティンの森事件」追悼70周年記念式典に出席するため搭乗していた大統領専用機の墜落事故により死亡(レフ・カチンスキ - Wikipedia参照)

*64:首相(1999~2001年)、大統領(2005~2010年)を歴任

*65:鳩山、菅内閣総務相民進党副代表、国民民主党代表代行、国対委員長等を経て、立民党佐賀県連代表

*66:鳩山、菅内閣外相、民主党幹事長(菅代表時代)、野田内閣副総理・行革相、民主党代表代行(海江田代表時代)、代表、民進党代表、立民党幹事長(泉代表時代)等を経て立民党常任顧問

*67:役職は2023年9月当時